許す者は、許されます。許さない者は、許されません。
同じ波動が、同調して、現象を生むからです。
知った者は、罪を犯しません。知らない者は、罪を犯します。
「 無知が最大の罪である!」と言われる由縁です。
留まる水は、腐ります。流れる水は、腐りません。空気も、同じです。
エネルギーは、常に動いているからです。
動くことが、いかに、大切か、分かろうと言うものです。
(2021年1月1日 金言より)
許す者は、許され、許さない者は、許されないのは、「原因と結果の法則」が働いているからです。
壁にボールをぶつけたら、必ず、返ってくるのです。
許すと言う、ボールを投げたのですから、許されると言う、ボールが返ってくるのは、当たり前の事なのです。
その法則は、想念が引き寄せるのです。想念は、エネルギーなのです。
「原因と結果の法則」は、エネルギーによって、支えられているのです。
知った者は、罪を犯しません。知らない者は、罪を犯します。
だから、「無知は最大の罪である!」と言われるのです。
でも、知っても、罪を犯す人がいるのです。
それは、まだ、人生体験が足りないからです。
私たちは、この身で痛い目を、たくさん体験し、少しずつ、罪を犯さなくなるのです。
それまでは、何度も、何度も、同じことをやって、痛い目にあうのです。
「留まる水が腐り、流れる水が腐らない」のは、空気が腐敗を止めるからです。
流れている水は、空気を吸い込むのです。
止まっている水は、空気を吸い込まないのです。
空気(エネルギー)は、浄化力を持っているのです。
何日も、部屋を空けていると、部屋の空気が臭くなってきますが、それは、空気の流れが無かったからです。
人が住んでいると、空気が動くのです。その空気が、浄化してくれるのです。
空き家が、古びてしまうのは、人が空気を動かさないからです。
私たちの肉体も、同じなのです。
体を動かしていると、体の中で、エネルギーが動くのです。
体を動かしていないと、体の中で、エネルギーが動かないのです。
だから、動いている人は、健康になり、動かさない人は、不健康になるのです。
これは、機械類も同じで、時計も、車も、放置して動かさなかったら、錆び付いて、寿命が短くなるのです。
2023.06.01
求めなければ与えられることは無い!
何事もそうですが、何もしないで待っていては、与えられることはありません。
真理も同じです。自ら探し歩いて、はじめて、与えられるのです。
なぜなら、歩かなければ、目的地に着くことはないからです。
なぜ、生き物に足があると思いますか? それは、歩くためではありませんか?
歩けば、たくさんの人や物との出会いがあり、そこに、様々なドラマが生まれます。
そのドラマが、真理を得る手掛かりになるのです。
今でも、お釈迦様は、歩き続けています。
イエス様も、歩き続けています。
私の恩師である、知花敏彦先生も、肉体を脱いだ今でも、歩き続けています。
このように、彼の偉大な覚者達でさえ、一時も休まず、歩き続けていると言うのに、どうして、凡夫の私達は、歩こうとしないのでしょうか?
歩かないで!、求めないで!、真理が与えられた人など、末だかつて、一人もいないのです。
どうか、自尊心を捨ててください!、謙虚になってください!
そして、歩いて、探して、求め続けてください!
向上心は、その望みの高さです。努力は、その意志の強さです。
どれも、真理を得るために必要な道具です。
どうぞ、しつこく、求め続けてください! しつこく、せがんでください!
どうでしょう? 我が子が真理を欲しいとせがんでいるのに、与えない親がいると思いますか?
私達も、しつこく、せがめば、きっと、神様は、与えてくれると思います。
もう一度いいます。
待っていて、与えられることは、絶対ありません。
どうか、求め続けてください。
求めてこそ、与えられることを、知ってください!。
(2011年1月15日 更新集より)
2023.06.02
私たちは、「1」から出てきたのです。
私たちの本性は、「1」なのです。
しかし、今の私たちは、自分が「1」であることを、忘れているのです。
学びの目的は、自分が「1」であることを、思い出すことです。
人生は、そのために、あるのです。
私たちの周りには、自然があり、社会があり、そこでは、毎日のように、色々な出来事が起きています。
でも、その出来事自体には、何の意味もないのです。
なぜなら、外側の出来事は、すべて、現実(現象・幻)だからです。
だからと言って、現実を軽んじてはなりません!
なぜなら、現実を無視していては、「1なる自分」を、思い出すことが出来ないからです。
現実(現象・幻)は、「1」を、思い出すために必要な小道具なのです。
特に、肉体は、最も大切な小道具の一つです。
この小道具が無くては、社会体験も、瞑想も、出来ないからです。
自分が「1」であることを、思い出すためには、原子核を大きくしなければならないわけですが、それには、社会体験と瞑想は、必須条件なのです。
ただし、どちらを重視すべきかは、魂の成熟度によって、変わってくるのです。
一般の人は、社会体験を重視すべきです。
なぜなら、まだ、基礎ができていないからです。基礎が不安定では、建物が建てられないのです。
しかし、学びの友の皆さんは、すでに、基礎ができているのですから、棟上げができるのです。
と言うことは、瞑想の方を重視すべきだと言うことです。
瞑想とは、想うことなのです。意識することなのです。
では、何を想い、何を意識すれば、良いのでしょうか?
それは、「1」を想い、「1」を意識することです。
瞑想とは、
「1」なる私が、「1」なる私を、想うことなのです。
「1」なる私が、「1」なる私を、意識することなのです。
極言すれば、
「1」なる私が、「1」なる私に、なることなのです。
「1」なる自分が、「1」なる自分に、なることなのです。
元々、私たちは、「1」だから、「1」になることができるのです。
この宇宙には、「1」しか無いのです。それを、いかに、心の底で知るかです。
例え、心の底で知らなくても、頭で知っただけでも、自分が変わるのです。
つまり、自分が「1」だと思えるようになったら、何を見ても、親しみが湧いてくるのです。
例えば、今まで嫌っていた人が、なぜか、愛しくなるのです。
これは、実に、不思議な意識状態です。
ぜひ、体験してみてください!
(2017年12月24日 今週の真言より)
2023.06.03
普通、表裏一体と言う言葉は、「表と裏は一体である」と言う意味で使われていますが、この言葉には、もう少し、深い意味があるのです。
表と裏には、境目がありません。境目が無いと言うことは、「分けられない!」と言うことです。「一つである!」と言うことです。
どこからが表で、どこからが裏だと言えないのが、表裏一体なのです。
しかし、一体ではあるけれど、実際に、表はあるし、裏も、実際にあるのです。
表が裏に変わることもなければ、裏が表に変わることもありません。
表は、どこまでも、表であるし、裏は、どこまでも、裏なのです。
その表は、裏がなくては、存在できないのです。
また、裏は、表がなくては、存在できないのです。
どちらが無くても、どちらも無いのが、表裏一体なのです。
表裏一体を、別な角度から、考えてみましょう!
この宇宙は、絶対宇宙(裏)と相対宇宙(表)によって、成り立っています。
二つで一つなのです。
絶対宇宙もあって、相対宇宙もあるわけではないのです。
絶対宇宙と相対宇宙は、一つとして存在しているのです。
それは、切り離せないからです。
手には、表と裏がありますが、どこからが表で、どこからが裏だと言えません。
例え、真ん中から切っても、依然として、表と裏はあるのです。
例え、無限に切っていっても、表と裏はあり続けるのです。
それは、二つで一つだからです。
光は、闇がなくては、存在しないのです。
また、闇も、光がなくては、存在しないのです。
光と闇は、一対となって、存在しているのです。
それは、光と闇は、切り離せないからです。
光と闇は、二つで一つなのです 。
この宇宙は、全て、二つで一つになっているのです。
繰り返します。
表裏一体なのは、切り離せないからです。一つのモノだからです。
その一つのモノを、神と呼んでいるのです。
と言うことは、この宇宙に、存在しているものは、全て、神である、と言うことになります。
と言うことは、人間は、神である、と言うことです。
一つのモノしか、存在しないのですから、当然です。
人間は表で、神は裏なのです。
人間の背後には、必ず、神が張り付いているのです。
神が存在しなくては、人間は存在しないのです。
また、人間が存在しなくても、神は存在しないのです。
それは、人間と神は、表裏一体だからです。
私が「人間は、神の子である!」と、断言するのは、この表裏一体の真理が、ちゃんと証明してくれているからです。
何が言いたくて、このようなことを、クドクド言うのかと言いますと、神と人間は、表裏一体である! 一つである! 同じである! すなわち、「私たちは、神の子である!」と言うことを、自覚して欲しくて、クドクドと言っているのです。
私たちは、「自分が神である!」と言う、自覚を得るために、生まれてきたのです。
そのためには、社会体験と瞑想が、必要です。
人間と神が、表裏一体の関係にあるように、社会体験と瞑想も、表裏一体の関係にあるのです。
なぜなら、社会体験無しに、瞑想は出来ないし、また、瞑想だけしていては、社会体験が出来ないからです。
どうか、両立させてください!
(2015年1月15日 更新集より)
※ 学びの友の皆さんの中に、瞑想に対して、疑問を持っている人がいるようですので、 一言、アドバイスいたします。
口先だけで、「吾神なり!」と、唱えても、必ず、原子核が増えます。
なぜなら、学びの友の皆さんは、一般の人より、神の側面を知っているからです。
勿論、 集中して(吾神なり!)と思った方が、原子核は増えます。
でも、集中できなくてもいいですから、神を想い続けてください!
想い続けることが、瞑想なのです。
実際、皆さんは、人間と想うことによって、人間になってしまったのです。
そのような、実績があるのですから、神を想えば、神に戻れるのです。
「汝疑うことなかれ!」です。
皆さんの想念は、何でも成就させることが、出来るのですから・・・。
2023.06.04
認識者が存在しない場合は、被認識者も存在しないから、宇宙は存在しない。
すなわち、
(被認識者)×(認識者)=(宇宙・・神)
(0)×(0)=(0) です。
認識者が存在する場合は、被認識者も存在するから、宇宙は存在する。
すなわち、
(被認識者)×(認識者)=(宇宙・・神)
(1)×(1)=(1) です。
認識者と被認識者は、一対で存在するので、認識者1が存在する限り、被認識者0と言うことは、あり得ないのです。
被認識者の1は、仮数(分数・幻数・陰数・相対数)であり、
認識者の1は、実数(元数・陽数・絶対数)です。
宇宙の1は、真数の1であり、中性・中庸の宇宙と言う意味です。
従って、この真数の1は、実数の1より、はるかに、進化した、偉大な1となっているのです。
生ぬるい湯に浸かっていた時の神の子と、荒野に出て、鍛えあげられた神の子の、どちらが強い神の子かは、言わずもがなでしょう。
では、被認識者が複数存在する場合、宇宙は、どうなるのでしょうか。
被認識者の数だけ、宇宙は、存在するのでしょうか?
いいえ、どんなに、被認識者が、無限数、存在していても、一つしか宇宙は、存在しません。
なぜなら、被認識者は、認識者1から生まれた、分身だからです。
すなわち、
(被認識者)×(認識者)=(宇宙・・神)
(2)×(1)=(1)
(100)×(1)=(1)
(無限数)×(1)=(1) なのです。
客観的に見たら、被認識者の数だけ、宇宙が存在しているように見えますが、被認識者と認識者は、一対なので、一つの宇宙しか存在しないのです。
この宇宙には、一様の認識者しか存在しません。
しかし、それでは、認識者の存在が無いので、認識者は、被認識者を創り、その被認識者から、自分を認めてもらうことによって、自分の存在を確かなものにしているのです。
仮数(被認識者)は、実数(認識者)から生まれた幻です。実在している数字ではありません。
と言うことは、認識者しか存在しないことになり、それは、1である、と言うことになります。
だから、人間は神であり、神は人間なのです。
(2016年2月15日 更新集より)
※ 客観的見方をするか、主観的見方をするかで、被認識者と認識者が変わるので、注意してください。
つまり、神から見たら、神は認識者で、人間は被認識者になるのです。人間から見たら、人間が認識者で、神は被認識者になるのです。
※ 学びの友の皆さんは、日々、原子核が増えていますから、一般の人の醜い部分 (闇)が、たくさん、目に付いていると思います。
でも、それを見て、自分の心を汚してはいけません。
人間は、幻なのです。この社会も、幻なのです。
幻を見て、自分の心を汚すことほど、損なことはありません。
どうか、 人間(肉体)を見ないで、中の魂を見てください。
コツは、その人のハートに、光をイメージすることです。
嫌な人が、愛おしくなるでしょう!
どんな、醜い表現をしている人も、みな、神の子なのです。
ですから、いつか、必ず、神の自分に目覚めるのです。
今は、温かく、見守ってあげてください!
2023.06.05
瞑想は愛の原理を使っている
どうして、瞑想をすると、原子核が増えるのかと言いますと、愛の原理を使っているからです。愛とは、吸引力であり、結合力なのです。
めしべとおしべが、結ばれれば、子供が生まれます。
オスとメスが、結ばれれば、子供が生まれます。
男と女が、結ばれれば、子供が生まれます。
つまり、 プラスとマイナスが、結ばれれば、そこに、必ず、何かが生まれるのです。
陰と陽が、結びつけば、そこに、光が生まれ、命が生まれ、原子核が生まれる、と言うことです。
瞑想は、その愛の原理を利用しているのです。
瞑想は、自我が、真我を、想うことです。
想えば、そこに、原子核が生まれるのです。
「吾神なり!」と、想った状態は、自我と真我が結合した状態なのです。
だから、瞑想すれば、原子核が増え、そこに、神人が生まれるのです。
愛の学びは、形の無い世界では、できません。
ですから、私たちは、形のある世界に出てきて、愛の学びをしているのです。
形のある世界は、具体性があるので、愛の学びが、しやすいのです。
初めは、身近な家族を通して、愛を学びます。
その愛は、成長するに従って、外側に広がっていきます。
つまり、家族愛から、隣人愛へ、村民愛へ、県民愛へ、国民愛へ、人類愛へ、最終的には、宇宙愛にまで、広がってゆくのです。
そこで、学びを得た人は、次に、内側の愛を学ぶようになるのです。
外側の愛の学びが終わっていない人は、内側の愛の学びができません。
なぜなら、まだ、内側の真我(神)が、認められないからです。
内側の愛の相手は、見えない真我なのです。
真我を想い続けることが、愛することなのです。
外側のものを愛するには、具体性のある、言葉や行為が必要ですが、
内側の真我を愛するには、言葉も、行為も、必要ないのです。
ただ、想うだけで、愛していることになるのです。
瞑想している時(神を想っている時)は、自我が、真我を愛しているのです。
ですから、原子核が増えるのです。
原子核を増やすには、社会体験と瞑想が、必須条件ですが、この二つは、1セットになっているのです。
こう言うことです。
瞑想をするためには、肉体が必要であり、その肉体を維持するためには、社会に出て働かなければなりません。
でも、その社会に出て働くことが、社会体験であり、原子核を増やすのですから、社会体験と瞑想は、1セットと言えるのです。
この宇宙は、
陰と陽が、1セット・・
女と男が、1セット・・
物質とエネルギーが、1セット・・
闇と光が、1セット・・
人間と神が、1セット・・
全て、1セットになって、存在しているのです。
ですから、社会体験だけで悟った人も、瞑想だけで悟った人も、未だかつて、一人もいないのです。
当然です。肉体が維持できなくては、瞑想など、できないのですから・・・。
自我と真我が支え合って、目的が果たされるようになっているのです。
つまり、人間と神が支え合って、宇宙を存続させているのです。
2023.06.06
欲望の大小と、防御の大小は、比例しています。
つまり、欲望が大きくなれば、防御にかかる費用が膨れ、欲望が小さくなれば、防御にかかる費用が縮小する、と言うことです。
今日、セキュリティーに、膨大な、お金をかけていますが、これは、法則を知らないからです。
本当は、お金をかけて、防御する必要はないのです。
なぜなら、法則が守ってくれるからです。
ただし、それには、法則を犯してはならない!、と言う条件がつきます。
愚かな人は、セキュリティーに、お金と時間をかけます。
利口な人は、法則を守ることに、時間をかけます。
人類は、今、法則を犯しながら、防御する、と言った、矛盾なことをしているのです。
人類は、過度な娯楽を求めるが故に、生存を危うくしています。
地球環境が、どうして、今日のような、危険な状態になったのでしょうか?
それは、娯楽産業や、観光産業や 、IT産業が、膨らんだからではないでしょうか?
資本主義経済は、成長なしに、やってけない仕組みです。
基礎産業だけでは、成長できない、資本主義経済は、娯楽産業や、観光産業や 、ΙΤ産業を、拡大させます。
これらの産業が拡大すれば、二酸化炭素が増え、地球の温暖化が進むのは、当然なのです。
地球の温暖化は、二酸化炭素の増量によってもたらされますが、それは、大気中の酸素が減る、と言うことでもあるのです。
酸素には、腐敗菌を抑制する効果がありますが、酸素が減れば、抑制効果が薄れ、様々な腐敗菌が、活動するようになります。
近年、鳥インフルエンザや、豚コレラや、狂牛病など、様々な病気が発生していますが、その要因の一つに、酸欠があるのです。
酸欠によって起きる病気は、数知れません。
ガンが、そうです。
喘息も、そうです。
花粉病も、そうです。
アレルギー病も、そうです。
コロナも、そうかもしれません。
大気中の酸素が減れば、海水の溶存酸素も減りますから、海洋生物にも、様々な悪影響が出てくるのです。
全ての、病気・事故・災害 は、人類の欲望が招いていることを、知ってください。
衣食住が、ある程度、整ったら、後は、わずかの楽しみがあれば、私たちは、幸せに生きられるのです。
欲望と理性・ 感情と知性が、どうして、牽制し合っているのでしょうか?
欲望と感情に負ければ、堕落へ・・・勝てば、成長へ ・・・と言うことではないでしょうか?
なぜ、楽あれば、苦あり、かと言いますと、この宇宙は、エネルギー均衡の法則が働いているからです。
私たちは、楽を求めたがりますが、楽だけで終わることは無いのです。
楽の後には、必ず、苦がくるのです。
2023.06.07
瞑想が出来ることの有難さ!
瞑想を、難しく考えてはなりません。瞑想とは、想うことなのです。
私たちは、生まれた時から、今日まで、瞑想して人生を実現させてきたのです。
例えば、
学校に入りたいと想って(瞑想して)、学校に入ったのです。
お金が欲しいと想って(瞑想して)、お金を得たのです。
結婚したいと想って(瞑想して)、結婚したのです。
このように、瞑想によって、何でも手に入れてきたのです。
そのような、実績があるのですから、神を想えば(瞑想すれば)、間違いなく、神の自覚が得られるのです。
想えば実現するのは、想いは、「念力」と言って、エネルギーだからです。
強く想えば、早く実現します。弱く想えば、ゆっくりと実現します。
また、良いことを想えば、良いことが実現します。悪いことを想えば、悪いことが実現します。
これは、エネルギー自体に、意思があり、知恵があり、判断力があり、創造力があるからです。
この地球で、真の瞑想をしている人は、殆どいません。
それは、瞑想の意味を、知らないからです。
瞑想は、「無・空」になることではありません。
また、「気持ち良くなる」ことでもありません。
神の想いを深め、神の自覚を得ることです。
この「自覚」の意味が理解できないため、真の瞑想ができないのです。
理解できなくても良いですから、想念の力を信じ、神を想い続けてください。
いつか、必ず、実現します。
何でも続けることです。続ければ、必ず、成就するのです。
それは、前述したように、想いは、創造力を持ったエネルギーだからです。
私たちは、何と幸せなのでしょうか!
なぜなら、瞑想が出来るからです。鉱物や、植物や、動物は、瞑想が出来ません。
それは、自我を持っていないからです。
自我を持つところまで進化した、私たち・・何と幸せなのでしょうか!
神を認めてやれるのです。
神の代弁者となってやれるのです。
神の手足となってやれるのです。
どうか、自我を持つところまで進化した自分を、褒めてやってください!
この世のことを、瞑想している人は、幻の中に生き、幻のものを作っているのです。
神を、瞑想している人は、真実の中に生き、真実のモノを創っているのです。
たとえ、30分であろうと、1時間であろうと、瞑想している時は、真実の中にいるのですから、凄いことなのです。
なぜ、凄いのか? それは、この世のことを想っている人は、崩れる積み木を積んでいるのに対し、神を想っている人は、崩れない積み木を積んでいるからです。
この差は、天地の開きがあるのです。
2023.06.08
なぜ、私は(自分は)、存在しなければならないのか?
「なぜ、私(私の意識)は、存在しなければならないのでしょうか?
誰が、私を存在させてくれと、頼んだのですか?
私は、そんなこと、頼んだ覚えもないし、お願いした覚えもないのです。
何か、存在しなければならない、義務でもあるのですか?
私がいなくても、何の問題もないはずです。
なのに、今、私は、存在させられている。
存在しなければ、何の苦しみも、味わわずに済んだのに・・・。
こんな理不尽な押し付け、ないのではありませんか?」
と、あなたは、文句を言うかも知れません。
そうですよね!
自分が存在しなければ、何の苦しみも、悲しみも、体験しなくて済んだのですからね!・・・。
でも、良く考えてみてください!
もし、あなたが、いなかったら、この宇宙がありますか?
あなたが、いるから、宇宙があるのですよ!
それは、あなたが、宇宙を創っているからです。
あなたが、いなければ、今、宇宙は、無いのです。
あなたが、いなければ、地球は、無いのです。
あなたが、いなければ、お父さんも、お母さんも、 友達も、誰も、いないのです。
と言うことは、何の物語も生まれない、と言うことです。
これは、今、始まったことではないのです。永遠の昔から、そうだったのです。
なぜなら、宇宙は、永遠の昔から存在していたし、あなたも、永遠の昔から存在していたからです。
と言うことは、あなたは、宇宙そのものである、と言うことです。
このことは、あなたのような、熟した魂なら、解ってもらえるはずです。
私も、真理を噛じり始めの頃、あなたと同じ疑問を持ちました。
自分を存在させてくれるなど、お節介だと・・・、自分の意識が無かったら、何も苦しまないで済んだのにと・・・。
だから、私は、「私の意識を無くしてください!」と、神様に頼んだ時期があったのです。
でも、「何を言うのだ! お前の意識が無かったら、宇宙は存在できないではないか、宇宙はお前で、お前が宇宙なのだから!・・・」と言う、神様からの答えでした。
それで、私は、自分の意識を無くすことを諦めたのです。
自分(意識)は、絶対、無くすことができないのです。
これだけは、神様の勝手な押し付けだと言ったって、どうしようもないのです。
あなたは、自分の意識が無くなった後の事が考えられますか?
絶対、考えられないはずです。
これは、あなたの意識が、意識の源であり、意識の大元だからです。
すなわち、原因無き原因者だからです。
あなたの意識が、あなたの意識を、生み出したのです。
この宇宙には、あなたの意識しか無いのです。
その意識は、絶対、無くならないのです。
絶対、無くならない意識なら、どうすれば、良いのですか?
幸せの中に置くしか、無いのではありませんか・・・。
そうです。 永遠に無くならない意識なるがゆえに、幸せの中に留め置くしかないのです。
その幸せの中に留め置く方法が、神の自覚に入ることなのです。
神の自覚に入ったら、意識は、幸せになるのです。
(2017年3月5日 今週の真言より)
※ 唯物論者は、「意識は、脳が生み出すから、肉体が無くなったら、意識も消えてしまう、 だから、人間は、肉体ある限りの存在である!」と言います。
一方、唯心論者は、「意識は、宇宙に付属するものだから、肉体が無くなっても、意識は、絶対、無くなることはない!」と言います。
果たして、どちらが、正しいのでしょうか?
でも、私は、どちらが、正しくても、 間違っていても、良いのです。
むしろ、「肉体が無くなったら、意識も無くなってしまう!」と言う方が、嬉しいのです。
なぜなら、意識が無ければ、苦しみを、味わわないで済むからです。
勿論、楽しみも、味わえませんが・・・。
私は、意識が無くなっても、無くならないでも、どちらでも、嬉しいのです。
なぜなら、意識が無くなる場合、苦しみも、楽しみも、体験できないので、苦楽の体験は、「0」です。
意識が無くならない場合、苦しみも、幸せも、体験できるので、苦楽の体験は、プラスマイナス「0」です。
と言うことは、どちらも、同じだと言うことです。
つまり、どちらでも、嬉しい、と言うことです。
なぜ、嬉しいのか?
それは、意識が無くなって、何も分からなくなることが、どれほど、幸せか?
また、意識があって、分かることが、どれほど、幸せか?
私の言わんとすることが、解って頂けるでしょうか?
意識が無くなることを、望んでる人には、解って頂けるでしょうが、
意識が無くなることを、恐れている人には、解って頂けないと思います。
この話は、意識が無くなる場合であって、意識が無くなることは、絶対、有り得ないのですから、これは、あくまでも、例え話です。
2023.06.09
神の表現媒体になろう!
どんなに、偉大な神でも、姿形を現さなくては、存在していないのと同じです。
それでは、存在意味がないので、神は、表現世界を創り、そこに、人類を派遣し、自分の存在を示そうと考えたのです。
ですから、人類には、神の代弁代行役を果たす使命があるのです。
しかし、悲しいことに、殆んどの人間は、神に顔を向けようとしません。
ですから、神は、使いたくても、使えないのです。
今、地球上で、神に顔を向けている人は、 ほんの僅かな人たちです。
その僅かな人たちが、学びの友の皆さんです。
神は、待っていると思います。神の代弁代行役になることを・・・。
どうか、「私を、世のため、人のために、お使いください! 」と、祈ってください!
真剣に祈れば、神は、喜んで使ってくれると思います。
神が、人類を派遣した目的の一つに、地球に理想の世を建設してもらうことがあります。
皆さんは、その先駆けとして、地球に送られた魂です。
ですから、皆さんには、理想の世を建設する使命があるのです。
そのためには、まず、「身・口・意」を、正しく表現しなくてはなりません。
想いは見えませんが、「口(言葉)」と「身(行為)」によって、見える状態にできるのです。
つまり、神(天)の意を、言葉と行為で、地に降ろせるのです。
実際に、私は、言葉と文(金言)で、神の意を降ろしています。
学びの友の皆さんの中には、絵を書いたり、曲を作ったりして、神の意を降ろしている人がおります。
それを、他の学びの友の皆さんにも、やって頂きたいのです。
それは、難しいことではありません。
「身・口・意」を、正しく表現することで、出来るのです。
つまり、 社会体験と瞑想をすることで、出来るのです。
どうか、真心を込めて、今、出来ることを、精いっぱい、やってください!
そして、瞑想をしてください!
学びの友の皆さんは、電球なのです。
ですから、瞑想している時は、光っているのです。
それは、コンセントに、プラグを差し込んだ状態なのです。
その時は、間違いなく、神(天)の「意」を降ろしているのです。
社会体験と瞑想をしている時は、日本に・・地球に・・「光」を降ろしているのです。
それは、理想世界の基礎造りをしている状態なのです。
真理に、熱中している人は、希望の道を歩いているのです。
対して、この世のことに、熱中している人は、絶望の道を歩いているのです。
なぜなら、この世の物を、いくら集めても、みな、消えて無くなってしまうからです。
でも、真理は、永遠に、無くならないのです。
本当の自分を知ってください! 希望が膨らんできます。
なぜなら、本当の自分は、 無限の存在であり、永遠の存在だからです。
無限と永遠には、希望があるのです。
なぜなら、
頭打ちが無いからです。
行き先がどうなっているか、分からないからです。
何が出てくるか、分からないからです。
この世の物には、
頭打ちがあるのです。有限なのです。
行く先がどうなっているか、分かるのです。
何が出てくるのか、分かるのです。
だから、つまらないのです。
有限は、絶望なのです。 無限は、希望なのです。
どうか、希望が持てる、真理を求めてください!
2023.06.10
実在するモノとは?
見える物は、非実在です。見えないモノは、実在です。
見える物は、表面だけの(中身のない)ものですから、非実在なのです。
しかし、見えないモノは、奥の深い(中身のある)ものですから、実在なのです。
はっきり言って、見える物は、観えない状態なのです。見えないモノは、観える状態なのです。
見える物は、何の発展性も可能性もない、死に絵なのです。
見えないモノは、無限の発展性と可能性のある、生き絵なのです。
その意味では、人間は、見える物ですから、死に絵なのです。
神は、観えないモノですから、生き絵なのです。
だから、人間は、非実在で、神は、実在だと言うのです。
私が「人間は、神である!」と言うのは、人間の中に宿っている魂(意識)が、神だからです。
人間の形は、結果ですが、魂(意識)は、原因なのです。
原因と結果は、切り離せないので、神は、人間であり、人間は、神である、と言うのです。
「人間は、神である!」、こんな、確かなことを、どうして、人間は、信じようとしないのでしょうか?
(2017年2月12日 今週の真言より)
全部自分が創っている
皆さん、よく、考えて見てください。
どうして、自分がいるのですか?
どうして、相手がいるのですか?
自分がいるからではありませんか?
勿論、自分がいなかったら、自分もいないし、相手もいません。
一体、自分なしに、何があるのですか?
一体、自分なしに、何が始まるのですか?
自分抜きでは、何もないし、何も始まらないのです。
と言うことは、自分が創造主である、と言うことです。
「いいえ、自分がいなくても、相手はいますよ!」 と、あなたは、言うかも知れません。
でも、自分がいなかったら、相手がいるかいないか、どうして、分かるのですか?
自分がいなくなった瞬間、相手がいなくなっているかも、知れないのですよ!
そうなのです!
自分抜きでは、何もあり得ないのです。
親も、子も、友だちも、地球も、宇宙も、全部、自分が創っているのです。
お釈迦様が言われた「天上天下唯我独存(尊)」の意味を、噛み締めてほしいものです。
宇宙の存在を証明できるのは、自分しかいないのです。
自分抜きでは、何も証明できないのです。
だから、自分が存在していた時には、宇宙が存在していたし、宇宙が存在していた時には、自分が存在していたのです。
自分は、宇宙を認めてやれる、唯一の存在者なのです。
と言うことは、「自分は、神である」と言うことです。
だから、自分と言う字は、「神が、(自)らを、(分)けた」と書くのです。
勝手に相手がいると思ってはなりません。相手は、自分が創った相手なのです。自分が連れてきた相手なのです。
自己完結型宇宙が成り立つのは、自分しかいないからです。1しか無いからです。
それは・・
の数式が証明しているのです。
1しか無いなら、自分しかいないなら、すべての物は、自分で創造するしかないでしょう。
つまり、自己完結型宇宙に、成らざるを得ないでしょう!
※ 永遠の昔より、宇宙が存在している、と言っても、そのことを、認める者がいなくては、単なる観念論にしか過ぎません。
ですから、どうしても、意識を持った認定人(判定人・人間)が、必要なのです。
(2016年11月6日 今週の真言より)
2023.06.11
神と言う名の由来
神とは、何でしょうか?
神は、見えません。神は、触れません。姿形がないので、知りようがないのです。
知りようのない神・・
知る手立てのない神・・
知りようがない神秘的な神・・
解りようがない不可思議な神・・
いくら探っても探れない神・・
でも、神は、確かに存在するのです。
なぜなら、今、現に、宇宙が、万象万物が、私が、存在しているからです。
もし、神が存在しなかったら、宇宙も、万象万物も、私も、存在しないのです。
と言うことは、宇宙も、万象万物も、私も、神である、と言うことです。
神は、どこか遠くに、おわすのではありません。
手よりも、足よりも、近い、私の中に、おわすのです。
でも、その神が、何なのか? 解らないのです。
今、宇宙が、万象万物が、私が、存在できているのは、存在させている、何かの力があるからです。
何かの力がなくては、何も存在できないのです。
その何かの力は、解らない存在なのです。
その解らない存在に、神と言う名を付けたのです。
神とは、解らないと言う意味なのです。
神と言う名の由来は、解らないモノから、生まれたのです。
解らないモノは、みな、神なのです。
もし、皆さんに、解らないモノがあったら、神と名付けてください。
あなたは、あなたを知っていますか?
「私・私・私・私・・・」と、自分の意識を、追いかけて行ってみてください。
いくら、追いかけても、自分の意識の源が分からないはずです。
自分の意識の源が分からない、と言うことは、自分の正体が分からない、と言うことです。
自分の正体が分からない?・・自分が分からない?・・分からない?・・分からない?・・・。
先程、分からないモノに、神の名を付けてください、と言いました。
では、自分の意識に、神の名を付けましょう!
私が、「人間は神である」と断言するのは、「自分・私」が、解らないからです。
そうです。私たちは、分からない神なのです。
自我にとって、都合の良いことは、真我にとって、都合の悪いことです。
真我にとって、都合の良いことは、自我にとって、都合の悪いことです。
なぜなら、お互い相反するものを、求めているからです。
でも、本当は、どちらも、都合の良いことなのです。
都合の良いことも、都合の悪いことも、一つの道に、つながっているからです。
(2018年1月21日 今週の真言より)
神の連想曲「神を探す旅人」
2023.06.12
真の愛とは?
私たちは、よく、「愛」という言葉を口にしますが、「愛」という言葉を聞いて、嫌がる人はおりません。
それは、素晴らしい波動を持った言葉だからです。
ですから、「愛」という言葉を聞いただけで、嬉しくなるのです。
しかし、「愛」の言葉に騙されてはなりません。
なぜなら、偽善の愛や、思い違いの愛も、あるからです。
人は、良く、”愛しています!” という言葉を使いますが、愛の真の意味を理解して使っているでしょうか?
殆どの人は、”好きです” とか、 ”恋い慕う” といった意味で使っています。
確かに、それも、愛の一面ではありますが、真の愛は、そんな、軽薄なものではないのです。
真の愛とは、「大バランス・大調和・中庸・中道・真ん中」に、引き寄せる力のことです。
宇宙が望んでいることは、魂を進化成長させることにあるわけですから、その目的に近づけてくれる、「大バランス・大調和・中庸・中道・真ん中」に、引き寄せる力が、真の愛の意味になるのです。
神が峻厳な愛を行使するのは、厳しい愛でなければ、中庸が維持できないからです。
先程、偽善の愛も、思い違いの愛も、あると言いましたが、人間が使っている愛は、中庸から離れた、甘やかしの愛なのです。
そんな、甘やかしの愛では、魂は進化成長できないのです。
世の中には、愛を誤解して使い、人を駄目にしている人が結構いるのです。
誤解して使っているならまだしも、愛と言う言葉を巧みに使って、人を騙している人もいるのです。
確かに、愛という言葉は、美しいです。心地よい響きを持っています。
ですから、愛という言葉に酔ってしまい、真の愛が何なのか、見失ってしまうのです。
どうか、真の愛を理解した上で、使ってください。
真の愛は、原因と結果の法則が支えていますので、どんなに、媚びても、へつらっても、許してくれません。
厳しいと思われるかも知れませんが、厳しいからこそ、成長できるのですから、真の愛を嫌わないでください。
(2017年11月26日 今週の真言より)
※ 今、人類は、物質文明に酔いしれていますが、中庸を保ってこそ、価値があるのです。極端に偏った物質文明は、危険なのです。
つまり、便利・快適・スピードアップに、大きく偏れば、リスクも、大きくなる、と言うことです。
今、実際に、偏り過ぎたために、事件事故・自然災害・病気・ 環境汚染など、様々な悪しきことが、起きているではありませんか?
良いことばかりでは、済まない、と言うことです。
偏り過ぎれば、必ず、反作用として、苦しいことが、やってくるのです。
そうしなければ、精神環境が保たれないし、地球環境も保たれないからです。
これは、目には見えませんが、真ん中に引き寄せる、愛の力が働いているからです。
便利・快適・スピードアップが、良いと思ってはなりません。
そこそこの(中庸の)、便利・快適・スピードアップを求めてください!
そうすれば、危険はありません。
旧・光のメロディー「高い愛」
2023.06.13
自由性の進化
私たちの肉体は、重く扱いづらく、実に不自由です。
だから、人類は、少しでも、自由性を高めたくて、車や飛行機などを、発明してきたわけです。
でも、そんな乗り物を発明するより、自分が意識体であると、気付けば、そく、自由になれるのです。
神は、そのことを、気付かせるために、今日まで、人類に、三身(位)一体の進化の体験をさせてきたのです。
大昔の人類は、幼かったため、石炭すら扱えませんでした。
でも、進化するにしたがい、石炭を扱うことを覚え、石油を扱うことを覚え、ついには、ガスまで扱えるようになったのです。これが、エネルギーの進化です。
石炭は個体で、石油は液体で、ガスは気体です。
でも、石炭の中に、油とガスが同居し、三身(位)一体になっているのです。
私たちの肉体も同じように、肉体の中に、幽体と意識体が同居し、三身(位)一体になっているのです。
幼い内は、肉体を自分だと思っていますので、肉体の生き方しかできません。
地球人類の殆どは、今、そのように生きています。
でも、進化成長するに従い、幽体に生きるようになり、意識体に生きるようになるのです。
学びの友の皆さんは、最終段階に入っている魂です。
さあ、瞑想し、意識を、カゴ(肉体)から開放しましよう。
瞑想して、自分の本性が自覚できたら、意識(魂)は、肉体から離脱して、自由になるのですから・・・。
※ 幸せの基盤になっているのは、自由性です。
それゆえに、私たちは、身体を縛られても、思想を縛られても、苦しいのです。
人類が「自由! 自由!」と、声高に、自由を求めるのは、自分の本性が自由な意識(魂・心・想念)であることを、本能的に知っているからです。
自由性 イコール 幸せです。
どうか、原子核を増やし、自由性を高めてください!
※ 一を知ったら、個人間の対立も、人種間の対立も、国家間の対立も、宗教間の対立も、無くなります。
一を知れば、自由を知るからです。
一は、無限なのです。一の中には、無限の中には、何の障壁もないのです。
それは、区切られていないからです。
不自由なのは、区切られているからです。
区切られた世界は、不自由なのです。
(2018年4月1日 今週の真言より)
2023.06.14
時間には、価値があります。
なぜ、価値があるかと言いますと、時間の中で、もの作りができるからです。
例えば、
工場で、時間の中で、物を作ることができます。
小説家は、 時間の中で、小説を書くことができます。
科学者は、時間の中で、研究することができます。
学生は、時間の中で、学ぶことができます。
できると、はっきり、分かるのは、今の社会では、時間を、お金で換算することができるからです。
時間は、目に見えませんが、お金に換算することで、目に見える形にできるのです。
例えば、時給1000円の職場で働いたら、 1時間、1000円のお金(価値)を受け取ることができます。
これは、見えない時間を、目に見える形にした事例です。
しかし、その時間の価値は、この世の価値ですから、消えてしまう価値です。
その時間を、神を想うことに、使ってみてください!
例えば、1秒間に1回、「吾神なり」と想ってください!、1時間で3600回、想えます。
これを、お金に換算してみてください!
どれだけの価値を、生み出していることになるでしょうか?
それは、それは、お金で換算できない、膨大な価値を、生み出しているのです。
なぜなら、原子核が増えたものは、お金で換算できないからです。
この世のものの価値は、この世限りの価値ですが、原子核は、永遠に無くならない価値なのです。
その価値は、「時」だけでは、生み出せません。
また、「間」だけでも、生み出せません。
「時」と「間」が、合わさって、初めて、生み出せるのです。
私たちは、時間なのです。
なぜなら、私たちは、肉体と意識を持っているからです。
肉体は、「間」で、意識は、「時」なのです。
時間が、価値を生み出せるのは、時間を使えるのが、意識だからです。
と言うことは、意識が、価値を生み出していることになります。
「時」は、エネルギーなのです。「意識」は、エネルギーなのです。
実際に、有るものです。
でも、「間」は、幻なのです。「肉体」は、幻なのです。
幻は、何も生み出すことができないのです。
私たちの中には、 実際にあるもの(時)と、幻(間)が、同居している、と言うことです。
2023.06.15
神の光を降ろす言葉
下記の言葉は、神の光を降ろしてくれます。
想っても、光が降りてきます。
言葉に出しても、光が降りてきます。
書いても、光が降りてきます。
でも、見える形にしたら、長期間保存できますので、ぜひ、書いてみてください!
私は神である!
私は神である!
私は神である!
私は光である!
私は光である!
私は光である!
私は意識である!
私は意識である!
私は意識である!
私は生命である!
私は生命である!
私は生命である!
私は愛である!
私は愛である!
私は愛である!
私は宇宙である!
私は宇宙である!
私は宇宙である!
私は無限である!
私は無限である!
私は無限である!
(神の側面を現す言葉なら、どんな言葉でも結構です。)
「である!」と言う言葉は、確定語です。
すでに、自分が、そのものになっている、と言う言葉です。
この中から一つ選んで、出来るだけ、たくさん、書きましょう!
書いている時、気持ちが良くなるはずです。
毎日、同じ言葉を書き続けても結構です。一週間ごとに変えても結構です。あるいは、1月ごとに変えても結構です。あるいは、1年ごとに変えても結構です。
どちらにしても、たくさん、書いてください!
「般若心経」は、意味が解らなければ、功徳がありませんが、この言葉は、はっきりと、意味が解りますから、功徳があるのです。
例えば、
今、コロナが流行っているようですが、コロナにも、かかりません。事件事故にも、遭うことがありません。
書くのと、書かないとでは、今生においても、向こうへ帰ってからも、天地の開きが、できるのです。ぜひ、書いてください!
それも、自分が「神である!」と言う、自覚を持って書いてください。
強い自覚を持って書けば、書くほど、光の降り方が強くなります。
これは、「原因と結果の法則」が、保証してくれますので、絶対、間違いありません。
多く書いたら、多く原因を創るわけですから、それに見合った結果が付いてくるのは、当然なのです。
書いたら、それを、保存してください!
身の回りに置けば、魔除けにもなりますし、家の中の波動を上げてもくれます。
現世利益を望んではなりませんが、励みになると思いますので、是非、やってみてください!
2023.06.16
結果が存在することの有り難さ!
見える結果体は、幻です。
でも、私たちにとっては、見える幻は、とても、大切なのです。
もし、幻(結果)が見えなければ、原因追求しようと思いませんから、反省もしないし、悪いところも、直そうとしないでしょう。
それでは、また、同じ悪いこと(悪い結果を招く)をしてしまいます。
交通事故を起こしても、結果が見えなくては、原因追求しないので、また、同じ交通事故を起こしてしまうと言うことです。
写真が、ありがたいのは、起きたこと(結果)の良し悪しが、目で見られるからです。
この表現世界は、写真のようなものなのです。(実際に無い、結果の世界は、写真で撮れるが、実際に有る、原因の世界は、写真で撮れない。)
見えない原因の良し悪しは、見える結果になって、初めて、分かるのです。
だから、見える結果は、成長のためには、とても、大切なのです。
原因と結果の関係は、自我と真我の関係に、当てはめてみると良く解ります。
自我の自分は、結果の自分です。
真我の自分は、原因の自分です。
真我(原因)の自分だけでは、「自分」の存在は、無いのです。
勿論、結果の自分だけでも、「自分」の存在は、ありません。
それでは、どちらの「自分」も、存在していないのと同じです。
自我(結果)の自分が、真我(原因)の自分を認め、はじめて、「自分」を存在させることができるのです。
そう考えると、自我(結果)の自分の存在が、何と有難いことか・・・・、
それが、どんなに嫌な自我(結果)の自分だろうが、感謝しなくてはなりません。
自我(結果)の自分を愛している人は、真我(原因)の自分を愛している人です。
真我(原因)の自分を愛している人は、自我(結果)の自分を愛している人です。
愛するとは、意識することなのです。
愛するとは、想うことなのです。
自我(結果)が、真我(原因)を意識し、真我(原因)が、自我(結果)を意識することが、「自分を愛している」と言うことになるのです。
これが、「自分が自分を愛するよう仕向けた」自己完結型宇宙の素晴らしいところなのです。
(2018年7月1日 今週の真言より)
2023.06.17
補完し合う仕組み
奇数と偶数があります。
この二つの数字は、交互に置かれていますが、これは、補完し合うためです。
この宇宙は、相反するモノが、補完し合いながら、成長してゆくように、できているのです。
普通熟語としては、左側に「善・悪」の「善」とか、「美・醜」の「美」とか、「幸・不幸」の「幸」と言った、良い意味の字を置くのに、ここでは、左側に悪い意味の字を置いております。
なぜ、そのように、置いたかと言いますと、左側のものは、実際に無く、右側のモノは、実際に有るからです。
右側の陽の世界・意識の世界は、実際に有るのです。
左側の陰の世界・物質の世界は、実際に無いのです。
だからと言って、物質の世界を、軽んじて良い!と言っているわけではありません。
なぜなら、物質の世界が無くては、意識の世界が無いからです。
その意味では、物質の世界と意識の世界は、同等の価値があると言っていいでしょう。
物質の世界と意識の世界は、互いに補完し合いながら、存在価値を高めているのです。
つまり、人間と神は、互いに補完し合いながら、存在価値を高めているのです。
一だけでは、一は存在できないのです。
二つが一対になって、初めて、一は存在できるのです。
二つは一つであり、一つは二つでなくては、一つになれないと言う、何とも不思議な関係にあるのが、物質宇宙(相対宇宙)と意識宇宙(絶対宇宙)の関係なのです。
つまり、人間と神の関係なのです。
(2017年3月26日 今週の真言より)
相手関係?
「どうして、相手がいるのですか? それは、自分がいるからではありませんか?」・・・。
あなたは、どうして、自分がいると思えるのですか?
それは、自分がいるからではありませんか?
自分がいなかったら、自分が認められないので、自分はいないのです。
自分が、自分を認め、自分を存在させている、と言うことです。
と言うことは、自分の中に、二人の自分がいることになるでしょう。
そうです。あなたの中には、二人の自分がいるのです。
では、二人の自分とは、どのような、自分なのでしょうか?
一人の自分は、自我の自分です。もう一人の自分は、真我の自分です。
真我の自分がいなかったら、自我の自分はいません。
また、自我の自分がいなかったら、真我の自分もいません。
真我の自分が、自我の自分を創り、自我の自分が、真我の自分を認め、真我の自分を存在させているのです。
自我の自分と真我の自分は、相身互いの関係にある、と言うことです。
しかし、実際に存在しているのは、原因者である、真我の自分の方です。
真我は、実在しますが、自我は、真我が創った、幻の自分にしか過ぎないのです。
だからと言って、自我を軽んじてはなりません。
自我が認めて、真我を存在させているのですから、自我と真我は、同等の価値があるのです。
どうか・・
※ 友達のAさんは、あなたが、認めているから、存在しているのです。
あなたが、いなかったら、Aさんは、認められないのですから、Aさんは、存在しないのです。
また、Aさんから見たら、Aさんが、あなたを、認めているから、あなたは、存在しているのです。
もし、Aさんが、いなかったら、あなたは、認められないのですから、あなたは、存在しないのです。
この宇宙には、一様の自分(真我の自分)しか、存在しません。
でも、一様の自分では、自分が存在できないので、分身を創って、自分が、自分を認め合っているのです。
(2019年6月30日 今週の真言より)
2023.06.18
あなたは、永遠の昔から存在していた!
今、あなたは、自分の存在を感じていますね。
どうして、感じられるのですか?
それは、今、あなたが、存在しているからではありませんか?
今、あなたが、存在していなければ、今、あなたは、自分を感じていないはずです。
このように、今、あなたが、存在している事実は、 自分を感じている、あなたが、いるわけですから、否定しようがないのです。
と言うことは、あなたは、永遠の昔にも存在していたし、永遠の未来にも存在する、と言うことです。
なぜなら、今、あなたが、いるのは、過去に、あなたが、いたからであり、
また、未来に、あなたが、いるのも、今、あなたが、いるからです。
今、あなたが存在していること自体が、永遠の過去にも存在していたし、永遠の未来にも存在する、と言う証しになるのです。
それは、今のあなたの存在が、原因点となっているからです。
今、あなたが存在しているのは、結果です。
今、結果が有る、と言うことは、過去に原因が有ったからです。
その過去の原因は、その前の原因の結果です。
その結果は、その前の前の原因の結果です。
このように、この原因と結果の輪廻は、永遠に続くのです。
では、最初の原因は、いつ、どこから、生まれたのでしょうか?
この宇宙は、無限であり、永遠ですから、最初がありません。
ですから、原因があるわけがありません。
と言うことは、あなたは、原因無き原因者である、と言うことです。
未来も、同じです。今、あなたが存在している結果は、すでに、未来のあなたの存在の原因を作り、未来のあなたの存在の結果を生み出しています。
その未来のあなたの存在の結果は、更に、その未来の未来のあなたの存在の原因を創っています。
このように、あなたが、今、存在していることが、未来永劫、あなたを存在させることになるのです。
あなたが、いなければ、宇宙の存在も、神の存在も、認めてやれませんから、宇宙も、神も、存在できないのです。
認める者が存在しなかったら、認められる者が存在しないのは、当然だからです。
審判員のいない試合は、成立しないのです。
あなたは、審判員のような存在なのです。
だから、神が存在していた時には、すでに、あなたは存在していたし、あなたが存在していた時には、すでに、神も存在していたのです。
と言うことは、あなたは、神と同格だと言うことです。
同格どころか、あなたは、神そのものなのです。
※「誰の宇宙でも無い、自分の宇宙である!」と言うのは、自分の宇宙以外ないからです。
だから、誰の成長を願う必要もなければ、誰の幸せを願う必要もないのです。
ただ、自分の成長のみ考え、生きたら良いのです。
自分が成長すれば、自分の宇宙に登場する、すべてのモノが成長するからです。
それは、自分しかいないからです。
自分の宇宙に登場する役者さんは、自分が用意した自分なのです。
(2017年12月15日 更新集より)
2023.06.19
あなたが、神である証
あなたが、どんなに、人間だと思っていようと、あなたは、間違いなく、神なのです。
なぜなら、あなたには、次のような、神の証があるからです。
あなたは、肉体ではないのですよ! 人間ではないのですよ! 個人ではないのですよ!
あなたは、紛れもなく、神なのです。
神は、一様です。この宇宙には、一しかないのです。
ならば、今、あなたが、存在していること自体が、あなたが、神である証ではありませんか?
一つしか無い、と言うことは、今、存在しているすべてのものは、その一の現れである、と言うことですから、あなたは、間違いなく、神なのです。
ただ、形を見て、人間だと誤解しているだけです。
誤解が解けたら、あなたは、神として、宇宙に飛び出して行けるのです。
あなたは、そのような、素晴らしい存在なのです。
※ 外側のもの(現象・幻・サタン)に誘惑された時、「私は、何のために生まれてきたのか? 人生の目的は何か?」と、思い返してください。
きっと、冷水を浴びせられたように、誘惑から逃れることができるでしょう。
(2019年2月10日 今週の真言より)
神の連想曲第5番「神の子」
2023.06.20
自分を信じてください!
皆さんは、何十億年もの時をかけ、真理の基礎を築き、真理の柱を立て、真理の壁を作り、真理の棟上げをし、やっと、真理の建物を完成させる寸前まできたのです。
もし、その真理が間違いだったら、今日まで苦労して築いて来た建物は、取り壊さなくてはならないのです。
あなたは、また、何十億年もの時をかけ、建物を建て直すつもりですか?
もし、この真理が間違いだったら、あなたの眼力が未熟だったことになるのですよ!
それだけでは、ありません。今日まで導いてくれていた、あなたの守護霊まで、否定してしまうことになるのですよ!
あなたは、自分の眼力を信じないのですか? あなたの守護霊を信じないのですか?
自分を信じないで、守護霊を信じないで、一体、何を信じると言うのですか?
確かに、真理を求め続ける作業は、大変です。外にも、中にも、自分を惑わすサタンが、いるのですからね!・・・でも、負けてはなりません。
どうか、真理に出会って感動した、あの時の自分を思い出して頑張って ください!
良いのです。苦しかったら、離れていっても・・・でも、学びたくなったら、いつでも、帰っていらっしゃい! 学びの門は、いつも、開かれています。
「過ちては改むるに憚ることなかれ!」です。
恥じることなど、ありません。いや、かえって、勇気ある魂だと、私は敬服します。
(2017年7月9日 今週の真言より)
世の中には、威厳や現象を見せ、人集めする宗教の指導者がおりますが、真理の中身で勝負できないから、威厳や現象を見せるのです。
幼い魂は、偉く見せかける人(先生・肩書・名声など)の話は、信じるけれど、そうでない人の話は、信じないのです。
それは、この社会では、「名のある人は偉い!」と言う、概念が独り歩きしているからです。
先生の名が、大切なのではなく、その人が話す内容が、大切なのです。
ホンモノの指導者は、現象も、威厳も、見せません。普通人として、親しく接します。
その方が、「覚者と自分は何も違わない! 私でも悟れる!」と、自信を持たせることができるからです。
学びの友の皆さんも、常識人であってください。
真の求道者は、常識人なのですから・・・。
私たちは、神の子です。神の子ですから、私たちは、大神様になる資格があるのです。
その証拠に、私たちの中には、神の火種があります。
今は、小さな火種かもしれませんが、成長してゆけば、大きな火種になるのです。
人間とは、神の幼少時代の名前なのです。
大人になれば、神と呼ばれるようになるのです。
ただ、今の私たちは、自分が神であることを、忘れているだけです。
自分を思い出すためには、繰り返し、繰り返し、「私は神である!」と、自分に言い聴かせる、瞑想が必要なのです。
一時一時は、エネルギーです。その一時を使って、神を想ってください!
一滴一滴の雨粒が、岩に穴を開けるように、私たちも、一時一時のエネルギーを使えば、神に近づくことができるのです。
岩に穴を開ける雨粒は、 私たちに、繰り返すことの大切さを、教えてくれているのです。
どうか、繰り返し、繰り返し、瞑想を続けてください!
間違いなく、自覚の境界線に、近づけてくれるでしょう!
心温まるお話「ニダイの心」
2023.06.21
「体験」と言う字の意味を考えてみましょう!?
体験の「体」とは、「頭・身体」のことです。
体験の「験」 は、「試す」、「行う」と言う意味です。
ですから、体験とは、「頭と体を使って、試す!、行う!」と言う意味になります。
私たちの身体には、五感が備わっております。
この五感が有るから、リアルな体験が出来るのです。
もし、五感が無かったら、この世を幻だと思ってしまい、真剣に生きようとしないでしょう。
また、五感が有るから、この世で、無事、生きることが出来るのです。
私たちは、魂を大きくするために、生まれてきたのです。
そのためには、どうしても、体験が必要なのです。
自然界の生き物を見てください!
鉱物も、植物も、動物も、人間も、忙しく動いています。
人間でも、特に、子供たちは、忙しく動いています。
それは、本能的に、体験の大切さを知っているからです。
その体験も、衝撃の大きい体験ほど、魂を大きくするのです。
私が、嫌なことから、逃げてはいけない、と言うのは、嫌なことを、体験すれば、するほど、魂を大きくすることができるからです。
私たちは、変化を嫌いますが、変化こそ、人生における、大チャンスなのです。
なぜなら、良くも悪くも、様々な体験ができるからです。
私は、これまで、9回ほど、引っ越しをしましたが、引っ越しをするたびに、色々と学びました。
職場も変わりましたから、環境も変わりましたし、対人関係も変わりました。
当然、煩わしさも体験し、不安や緊張感も体験しました。
でも、その体験が、私を成長させてくれたのです。
私がそうだから、 皆さんも、そうしなさい! と言っているわけではありません。
必要な変化は、向こうからやってきますので、自然に任せてください!
体験の多い者ほど、成長できるのは、たくさん、想念を動かし、たくさん、体を動かすからです。
どうか、変化がやってきたら、喜んで受け入れてください!
決して、変化を嫌がってはなりません。
頭で学んだことは、まだ、知恵になっていません。
身体で体験して、初めて、知恵に変わるのです。
ですから、どんなに、高等教育を受けても、頭で知っただけでは、絵に描いた餅なのです。実体験したものだけが、自分の身に付くのです。
私が、「動くことは、大切ですよ!」と言うのは、体を動かすには、頭も動かさねばならないからです。頭と体は、連動しているのです。
利口な人は、体を動かします。愚かな人は、頭だけ動かし、体を動かしません。
これでは、 「仏像を作って魂入れず!」になってしまいます。
どうか、体を動かしてください!
旧・光のメロディー「体験」
2023.06.22
想わない!
人生は、すべて、自分の想いの作品です。
今日までの人生は、みな、自分の想いで創ってきたのです。
学校に入ったのも、会社に就職したのも、自動車を買ったのも、結婚したのも、みな、自分の想念が、やったのです。
と言うことは、想わなければ、何も起きなかった、何も生まれなかった、と言うことです。
では、本当にそうなのか、実験してみましょう!
クシャミやアクビが、出そうになった時、
あるいは、痒みや痛みなどが、起きた時、
あるいは、嫌な思いが、湧いてきた時、
「想わない! 想わない! 想わない!」と、思ってください。消えて行きます。
これは、想いで、肉体をコントロールできる証拠なのです。
初めは、分からないかも知れませんが、コツが掴めたら、ハッキリと分かるようになります。
あなたの想いは、どんなことも、成し遂げることができるのです。
それも、想いの力が、強ければ、強いほど、早く成し遂げられます。
ただし、今の地球は、波動が鈍重なので、実現するまで、相当の時間がかかります。
だから、私たちの目に、見えづらいのです。
でも、思ったことは、間違いなく、宇宙空間で組み立てられているのです。
それは、神と同じ想念を持っているからです。
想念は、実現の力です。
もし、身体に何か起きたら、あるいは、嫌な思いが湧いてきたら、
「想わない! 想わない! 想わない!」と、思ってください。消えてゆきます。
どうか、試してみてください。
「何も想わなければ、何も生まれない! 想ったら、何でも生まれる!」と言う、想念力の凄さを、知って欲しくて、このようなことを、書いたのです。
私たちの想念は、偉大な力を持っているのですから、その力を、瞑想に利用してください。必ず、実現します。
※ 人生は、思い(想い)次第です。
※ この宇宙に恐ろしいものなど、一つもありません。
あるとすれば、あなたの(自分の)想念だけです。
※ 人の言う事を気にしたら有ることになり、気にしなかったら無いことになります。
それは、気にした自分の思いが創るからです。
(2018年10月14日 今週の真言より)
恐れるモノは、唯一、自分の想念である!
あなたを傷つけるモノは、この宇宙に、一つもありません。
ですから、何も恐れることはありません。
恐れるモノがあるとすれば、あなたの想念だけです。
想念は、何でも創ることができるのです。何でも壊すことができるのです。
しかも、その想念は、自分の自由意思で、いつでも・・どこでも・・どうにでも・・自由に使えるのです。
ゆえに、慎重に使わねばならないのです。
今のあなたの苦しみは、悪想念の結果です。
結果ですから、掴まなければ(放っておけば)、苦しみは、消えてゆくのです。
掴んで離さないから、いつまでも、苦しみが、無くならないのです。
皆さんは、人生を、いかようにも良くできる、素晴らしい想念を持っているのです。
どうか、良い想念を使って、良い人生にしてください。
※ 良い人生にするには、良い想念を使うことです。
一番良い想念は、「吾神なり!」の想いです。
※ 長年のクセで、どうしても、悪いことを想ってしまいます。
でも、瞑想すれば、同時に、二つのことが想えませんから、悪い想念を使わないですむのです。
※ 愚痴っている時や、人を悪く思っている時や、ネガティブなことを想っている時は、悪い原因を創っているのですから、必ず、苦しいことが、やってきます。
そんな、愚かな想念の使い方をしてはなりません。
※ 失敗を、悔いてはなりません。失敗は、成功のもとです。
失敗あればこそ、今の自分の成長があるのですから・・・。
※ 愚痴をこぼす時間があるなら、自分を責める時間があるなら、
どうか、瞑想してください!
学びの友の皆さん! 想念の凄さを、再認識してください!
真実を求める人へ捧げる曲 「想念の力」
2023.06.23
二つの人生を歩むことは出来ない!
世の人々は、「あの時、こうしておけば良かった! ああしておけば良かった!」と、悔やみ事を言いますが、同時に、二つの人生は、歩めないのですから、悔やみ事は、言わないことです。
「人生は試すことができない、一回限りの人生である!」と言われるのは、今の人生を歩みながら、別な人生を歩むことができないからです。
私たちは、一つの人生しか歩めないのです。
仮に、歩めたとしても、それは、同じ人生ではないのです。
なぜなら、時々刻々と条件が変わっているからです。
今の人生の条件は、現下における条件です。
時が移れば、時代背景も変わり、登場人物も変わり、社会情勢も変わります。
そんな、条件の違う下で、同じ人生が歩めるはずがありません。
よく、こんな事を言う、政治家がいます。
「私の言った事の正しさは、時代が証明してくれるだろう!」と・・・とんでもありません。そんな事、あるはずがありません。
なぜなら、時々刻々と移り変わる無常の世界で、同じ条件が整うはずがないからです。
やったことが、正しかったか、正しくなかったかは、やって、はじめて分かるのです。
やらなかったら、分かるはずがないのです。
なぜなら、原因を作らずして、結果が生まれるわけがないからです。
同時に、二つのことは、やれない(原因を作れない)のですから、どちらが、正しかったか、正しくなかったか、比べることなどできないのです。
だから、「あの時、ああしておけば良かった! こうしておけば良かった!」などと悔み事を言わないことです。
二つの人生が歩めないのは、一つの時間の中で、二つの人生は、試せないからです。
試せるのは、今の時間の中の人生だけです。それ以外の人生は、ありません。
あの時、ああしておけば良かったと思うのは、単なる望みです。
望みは、人生ではありません。歩んで、初めて、人生になるのです。
今、あなたが歩んでいる人生は、一つしかない人生です。
その人生は、誰が作ったのでもありません。あなたの想いが作ったのです。
例え、今の人生が、不幸そうに見えていても、それは、最善の人生だったのです。
なぜなら、あなたの、その時の原子核の量において、良いと思って、やったことだからです。
それは、必然であり、良いことだったのです。
その証に、今、こうして、真理を学んでいるではありませんか!
もし、他の人生を歩んでいたら、今、真理を学んでいなかったかも知れないのです。
いや、それどころか、悲惨な人生を歩んでいたかも知れないのです。
二つの人生は、歩めないのですから、今の人生が最高だと思って、一生懸命、生きることです。
どうか、その時の自分の思いでやったことは、最善だった!と思って生きてください 。
※ やった事は、結果として証明できますが、やっていない事は、結果が生まれないので証明できないのです。
つまり、起きたことの証明はできるけれど、起きなかったことの証明はできないのです。
※ 瞑想は、今の条件下(理解力の下)で行われています。
でも、今の条件(理解力)は、刻々と進化しているわけですから、常に進化した条件の下で、瞑想が行われているのです。
だから、私は、雪だるま式に、原子核が増える、と言うのです。
(2018年3月25日 今週の真言より)
真実を求めている人へ捧げる曲「人生の道」
2023.06.24
理解できないモノは存在しない!
理解できなくては、目の前に何があっても、無いのです。
神は、私たちの目の前に、存在しています。
でも、理解できない者には、存在していないのです。
この宇宙は、理解力に比例して、観えるようになっているのです。
だから、誰もが同じ宇宙を、観ているわけではないのです。
宇宙について、論争してはならないのは、そのためです。
真理も同じで、理解力に比例して、観えてくるのです。
これが、真理の奥深いところであり、難解なところなのです。
(2015年2月22日 今週の真言より)
理解力によって進展してゆく宇宙 パート1
宇宙は、理解力によって、進展してゆくようにできております。
つまり、理解力が乏しければ、醜い世界が現れ(見え)、理解力が豊かだったら、美しい世界が現れ(観え)る、と言うわけです。
今、地球人類の眼前に、美しい世界が存在しますが、理解力が乏しいために、それが、見えていないのです。
「理解力に相応した世界が現れる!」、この宇宙の仕組みの素晴らしさを、知ってください。
そうすれば、いかに、理解力を高めることが大切か、分かって頂けると思います。
(2015年4月26日 今週の真言より)
理解力によって進展してゆく宇宙 パート2
「理解力によって、宇宙が進展して行く!」のが、真理です。
Aチャンネルしか持っていない人は、Aチャンネルの番組しか見られないのです。
AチャンネルとBチャンネルを持っている人は、二つのチャンネルの番組が見られるのです。
理解力が増せば、チャンネル数は、ドンドン、多くなってゆくわけですが、それは、視野が広がった、と言う意味です。
この意味を、心の底で知った人は、もう、外側に真理を求めようとしなくなるでしょうし、外側のものを欲しがらなくなるでしょう。
なぜなら、欲しいものは、何でも自分の中から得られるからです。
理解できない人には、そのモノが、目に見え、耳に聞こえ、肌で感じられても、無いのです。
理解できる人には、そのモノが、目に見えなくても、耳に聞こえなくても、肌で感じられなくても、有るのです。
このように宇宙は、理解力によって、進展していくようにできているのです。
と言うことは、 「理解している人が宇宙を創っている!」と言うことになるでしょう。
(2015年9月20日 今週の真言より )
理解力が原子核を大きくする
理解力は、意識して、高められるものではありません。
でも、原子核(魂)は、意識して、大きくすることができます。
社会体験と、瞑想と、思索によって・・・。
原子核を大きくすれば、自然と理解力が高まりますから、ますます、原子核を大きくすることができるのです。
原子核を大きくすることが先か?、理解力を高めることが先か?
もう、お解りでしょう。
まずは、原子核を大きくすることです。
原子核が大きくなれば、理解力も高められ、自分の欠点も無くなるのです。
神は、原子核を大きくする方法を、誰にでも、平等に、用意してくれているのです。
それは、社会体験と瞑想をすることで、出来るのです。
何と! 有難いことでしょうか!
(2015年5月31日 今週の真言より)
2023.06.25
あなたは幸せ者です!!
現実と真実の間で苦しんでいる、学びの友がおります。
でも、その苦しみは、熟した魂の勲章だと思ってください!
ご覧なさい! 現実(幻)に生きている人の何と多いことか・・・。
彼らは、すぐに消える宝物を集めているのですよ!
それに比べ、あなたは、永遠の宝物を集めているのですよ!
あなたが集めている宝物は、この世の宝物の無限倍の価値があるのですよ! 無限倍ですよ!
しかも、この宝物を手に入れたら、あなたは、もう、苦しむ必要が無いのです。
それほど、今、あなたが集めている宝物には、価値があるのです。
だから、私は、「あなたは、幸せ者ですね!」と言うのです。
確かに、今は、苦しいかも知れません。
でも、その苦しみは、永遠の宝物を手に入れるためには、どうしても、通らなければならない道なのです。
さあ! 苦しみに負けないで、永遠の宝物を追い求めましょう。
その宝物を手に入れた時、あなたは、「ああ、私は、やっていて良かった!」と、心から喜べるでしょう!
(2015年5月17日 今週の真言より)
真心を持ってやる!!
真心を込めてやれば、必ず、相手に伝わります。
あなたの心は、全ての人の心と、つながっているのです。
形を見れば、別々ですが、本源においては、一つなのです。
ですから、真心を込めてやれば、必ず、相手に伝わるのです。
この宇宙には、
あなたの心は、宇宙の心と一つなのです。
ですから、思った瞬間、全宇宙に伝播するのです。
いくらやっても、相手に伝わらないのは、真心を込めて、やっていないからです。
「いいえ、私は、真心を込めてやっています!」と、あなたは、言うかも知れません。
でも、本当に、真心を込めて、やっているでしょうか?
上部だけやっても、真心が込もっていなければ、相手に伝わらないのです。
これは、真理も、同じなのです。
真心を込めないで、しかも、生半可な気持ちで真理を求めても、神に通じないのです。
私の恩師である、知花先生は、「心を尽くし、魂を尽くし、精神を尽くし、神を求めなさい!」と、おっしゃっておられましたが、その通りです。
神は、私たちの心の動き、全てを、ご存知なのです。
どうか、真心を込めて、やってください!
必ず、相手に、神に、伝わります。
※ これだけは、言っておきます!
「真剣に真理を求めている人の前に、神は、絶対、石や岩を置きません!」
今、石や岩が置かれているのは、真剣にやっていないからです。
(2016年9月18日 今週の真言より)
※ よく、学びの友の中に「私は孤独だ!」と言う人がいますが、真剣に神を求めている人は、常に、神に見守られているのです。
ですから、孤独なはずがないのです。
なぜ、そう言えるのかと言いますと、真我と自我は、一つだからです。
何事も、真心を込めてやれば、神のエネルギーが降りてきます。
ですから、真心を込めて、やっている人は、疲れないのです。
イヤイヤ、やっているから、疲れるのです。
これは、体験者の私が言うのですから、間違いありません。
どうか、真心を込めて、やってください!
必ず、エネルギーが降りてきます。
学びの友の皆さんにとっては、コロナ騒動など、別世界の話です。
「他話事の話」ですから、気に(意識)しないことです。
私たちが見ている世界は、夢幻の世界なのです。
夢幻の世界を、本当に有ると思うから、影響を受けるのです。
あなたは、何ですか?
肉体では無いのですよ! 人間では無いのですよ!
意識なのですよ! 魂なのですよ!
さあ! 瞑想してください! 光のバリアで覆われます。
もう、恐れるものは、何もありません。
2023.06.26
ある求道者の手記
学びの友の一人から、次のような手記を頂きましたので、ご紹介します。
「あの当時の私は、親にも、妻にも、子供にも、ひどいことをしていました。
また、人を憎み、世を憎み、自分に都合の悪いことは、すべて、人のせいにしていました。
また、欲望に負け、人として恥ずかしいことも、やっていました。
ですから、当然、苦しみが、やってきました。
それでも、私は、目覚めなかったのです。
そんなある日、キツイ苦しみが、やってきました。
そこで「バチが当たった!」と思い、やっと、目覚めたのです。
自分を弁護するようですが、あの当時の私は、あのような生き方しかできなかったのです。
それは、真理を知らなかったからです。
だからと言って、「原因と結果の法則」から、逃れられるものではありません。
私は、その代償を、苦しみで償ったのです。
これは、後で分かったことですが、あの苦しみは、目覚めに必要な警告だったのです。
でも、その当時、それが警告だと、気づかなかったのです。
いいえ、薄々気づいていたのですが、改心する勇気がなく、警告を無視していたのです。
悲しいことですが、人は、我が身で苦しみを体験しなければ、改心しようと思わないのです。私が、その良い証です。
真理を学んでいる今の私は、心穏やかです。
心の中に、昔のような曇天はありません。晴れ晴れしています。
もう、何のわだかまりもありません。
真理に導いてくれた守護霊様、本当にありがとうございました!」
人間は、誰でも罪を犯し、痛い目に遭うものです。
これは、欲望をかきたてる肉体を持っている限り、仕方がないのです。
ですから、自分を責めないことです。
鰹節を前に食べない猫はいないのですから・・・。
大切なのは、その痛い目から、学ぶか? 学ばないか? です。
学んで成長したら、悪は善に変わるのです。黒石が白石になる、と言うことです。
※ 「バチが当たった!」と言う思いの中には、二つの思いが入っています。
一つは、神の存在を認める思い、もう一つは、反省の思いです。
ですから、「バチが当たった!」と思える人は、結構、魂の熟した人なのです。
※ 私たちは、三つのコントロールをしなければならないのです。
欲望のコントロールは、大分できるようになったと思いますが、感情のコントロールは、なかなか、できないと思います。
特に、家族間における、感情のコントロールは、難しいと思います。
でも、原子核を増やしてゆけば、自然と、できるようになります。
問題なのは、想念のコントロールです。
私たちが罪を犯すのは、想念のコントロールが、できていないからです。
でも、これは、永遠の課題ですから、焦って課題を克服しようと思わないことです。
原子核を増やせば、自然と、克服できるようになります。
私たちが、やるべきこと・・それは、社会体験と瞑想です。
この二つをやっていれば、三つの課題は、自然と、克服されてゆくのです。
(2019年5月12日 今週の真言より)
真実を求めている人へ捧げるメロディ「時・・・」
2023.06.27
生きている条件とは?
生きているとは? どう言うことでしょうか?・・・
それは、
1.意識があること・・
2.永遠であること・・
3.無限であること・・
4.完全であること ・・
この4つは、絶対条件です。
この他に、
5.力(エネルギー・光・想念) を持っていること・・
6.息していること・・
7.脈を打っていること・・
この3つは、二次的条件です。
この7つの条件が、クリアーされていなければ、生きているとは言えません。
では、人間は、この条件を、クリアーしているでしょうか?
人間は、意識を持っています。
その意識は、永遠に無くなりません。
その意識は、無限です。
その意識は、完全です。
人間は、想念と言う創造の力を持っています。
人間は、息をしています。
人間は、脈を打っています。
と言うことは、人間は、7つの条件を、全部、クリアーしていることになります。
だから、人間は、間違いなく、生きているのです。
でも、肉体が、生きているのではありません。
肉体の中で働いている、意識が・・生命が・・魂が・・生きているのです。
では、なぜ、肉体は、生きていないのでしょうか?
肉体には、意識がないからです。
肉体は、永遠でないからです。
肉体は、無限でないからです。
肉体は、完全でないからです。
肉体には、力がないからです。
息もしていません。
脈も打っていません。
だから、肉体は、生きていないのです。
どんなに、素晴らしい形を持っていても、 7つの条件が満たされていなくては、生きていると言えないのです。
どんなに、形がみすぼらしくても、或いは、形が無くても、7つの条件が満されていたら、生きているのです。
※ この宇宙には、生きているモノだけが、存在しているのです。
死んでいるモノは、存在できないのです。
今、宇宙が、存在していると言うことは、宇宙は、生きているからです。
宇宙そのものが、一匹の生きモノなのです。
その宇宙の中に、私たちは、存在しており、私たちの中に、その宇宙が、存在しているのです。
だから、私たちが、生きているのは、当たり前なのです。
肉体が生きているのではありません。
意識が生きているのです。生命が生きているのです。魂が生きているのです。
その事を、誤解しないでください!
(2018年2月4日 今週の真言より)
光のお話し集「僕は死なない!」
2023.06.28
第三の幸せとは?
幸せとは、意識状態です! 意識状態ですから、体験した本人にしか分かりません。
特に、これから説明する第三の幸せは、文字や言葉で伝えられない究極の幸せです。
どんな幸せかと言いますと、 条件なしに「幸せ!」と思える幸せです。
私は、これまで、二つの幸せについて、お話してきました。
一つは、理解力で味わう幸せ・・もう一つは、意識的五官で味わう幸せです。
でも、この二つの幸せには、条件が必要でした。
しかし、第三の幸せは、条件のない幸せなのです。
つまり、理由なしに幸せと思える、幸せなのです。
なぜか解らないけれど・・
「嬉しいのです!」
「楽しいのです!」
「ウキウキするのです!」
「爽快なのです!」
この条件なしの、理由なしの、幸せこそが、究極の幸せなのです。
ただし、この幸せを味わうためには、心の底で、「自分は神である!」と言う、自覚が必要です。
なぜなら、神意識そのものが、究極の幸せを備えているからです。
確かに、自我意識も、神意識ですが、今の私たちは、意識を、糸の下の方に落としているため、心の底で、神だと思えない状態なのです。
そういう意識状態では、第三の幸せを味わうことが出来ないのです。
どうか、原子核を増やし、自覚の境界線を超えてください。
超えたら、第三の幸せである、究極の幸せを味わうことが出来るでしょう。
※ 学びの友の一人が、こんな素敵なメールを送ってくれました。
感動したので、皆さんにも、ご披露したいと思います。
母が、私が葛粉で作った羊羹を食べながら・・・「幸せ~~」「幸せ~~」と何度も言ってくれました。
「ありがとう」は、最近頻繁に言ってくれていましたが・・・ 「幸せ~~」は、初めてでした。 体は不自由で動かなくても、心が幸せを感じてくれているのが、表情でわかりました。
そこで気づいたのです。
「幸せ!」は、「ありがとう!」の数十倍も嬉しいのだと言うことを ・・・。
「ありがとう!」は、相手に言う言葉ですが、「幸せ!」は、自分に言う言葉なのですね ・・・。
この宇宙には、自分しかいないから・・・母が自分に「幸せ~~」と言っているのを聞いて、その自分である私もすごく「幸せ^^」を感じたのです。
不思議・・・この感覚!!
「幸せ!」と言う言葉は、主観的言葉なのですね・・・
※ この表現世界は、次から次へと変化する、無常の世界です。
その世界に、確かなモノが有るとすれば、それは、幸せだけです。
なぜなら、幸せは、実在だからです。
幻覚で感じている幸せも、夢で感じている幸せも、幽界で感じている幸せも、意識で感じているわけですから、実在なのです。
意識そのものが、幸せであり、実在だからです。
この宇宙に存在している、どんな生命体も、幸せだけを欲しているのです。
(2019年12月1日 今週の真言より)
2023.06.29
原因無き原因者の存在
「宇宙は有限である!」と言う人がおりますが、宇宙の奥に何か壁でもあるのでしょうか?
もし、あったとしたら、その壁の向こうは、どうなっているのでしょうか?
また、壁があるのでしょうか?
もし、あったとしたら、その壁の向こうは、どうなっているのでしょうか?
また、壁があるのでしょうか?
この話は、永遠に続くのです。
と言うことは、「宇宙は無限である!」と言うことです。
それでは、宇宙は無限である、と言う前提のもとに、話を進めましょう。
あなたは、Aさんを殴りました。
それは、殴らなければならない原因(理由)が、あったからです。
では、その原因は、何でしょうか?
Aさんに殴られたから?・・嫌なことをされたから?・・嫌なことを言われたから?・・、
理由は、どうあれ、殴る原因があったから、あなたは、Aさんを殴ったはずです。
さて、あなたが、Aさんを殴った原因は、Aさんを殴ったことで、消えてしまいます。
殴られたAさんの原因も、あなたに殴られたことで、消えてしまいます。
ですから、お互い殴り殴られたことで「原因と結果の法則」は、終息してしまいます。
では、Aさんは、どんな原因を創ったのでしょうか?
何の理由もなく、殴るはずがありません。
あなたが、Aさんに何か嫌なことをしたから(原因を作ったから)、Aさんは、あなたを殴ったはずです。
でも、その殴ったAさんは、その前に、あなたに何か嫌なことをしていたはずです。
でも、その嫌なことは、その前の前に、あなたから嫌なことをされたからしたはずです。
こうなると、嫌なこと(原因と結果)が、永遠に、めぐることになり、終息点は、ありません。
では、どうして、最初に、嫌なことが生まれたのでしょうか?
つまり、最初の原因は、どうして、生まれたのでしょうか?
それは、原因なしに、生まれたのです。
なぜなら、宇宙には、最初が無いからです。
無限宇宙は、最初が無いので、原因が無いのです。
これが、原因無き原因の謂われなのです。
と言うことは、あなたは、原因なしに、Aさんを殴ったことになります。
この原因なしに殴った、例え話が、原因無き原因の存在する理由なのです。
もし、事の起こりに、原因が必要なら、この宇宙に、何も生まれなかったでしょう。
何も生まれなかったら、どうして、私たちは、学べるでしょうか?
学べない宇宙に、何の意味があるでしょうか?
私たちは、成長してゆかねばなりません。
そのためには、体験して、学ぶ必要があるのです。
だから、体験できる宇宙を創る、原因無き原因者が必要なのです。
でも、その原因無き原因者は、神であろうが、誰であろうが、良いのです。
つまり、誰が最初に殴ったかなど、どうでも、良いのです。
ただ、私たちは、体験し、学び、成長できれば良いのですから・・・。
(2017年10月1日 今週の真言より)
2023.06.30