今、30分瞑想していただきました。瞑想したいと、或いは、瞑想したとか。という人は多いのでございますけども、瞑想とは一体なんでしょうかと言うことでございます。で、瞑想というものが分らなければ、瞑想にはなりません。ただ、目をつぶっていれば、いいというものではないんです。で、瞑想とは一体全体、何かと?瞑想を通さずにして、神の国に、すなわち、神我到達というのは不可能であると言われております。イエス様もバプテスマのヨハネも、10何年間もインドのほうに渡りまして、瞑想の達人であり、名人でござった。そこで、瞑想を一生懸命やられまして、真我到達をなされたわけでございます。瞑想を通さないで、なぜ神我到達は不可能であるかと言うことでございます。また、皆さん方は非常に、ただ瞑想とは目をつぶって、じっとただ座っておればいいというようなものでもございません。我々はその低い意識状態から高い意識状態への移行。それをせねばならないわけでございますけれども、今皆さん方は、30分どういう瞑想の仕方をなさったんだろうかと言うことを、ちょっと伺ってみたいと思います。どうですか。堀川さん?どういう瞑想をなさいますか?
堀川さん:できるだけ自分が大霊でありたいと、言ったらおかしいんですけど、大霊であると思うように努める。
知花先生:そうですね。自己を見つめる。自己を見つめることが瞑想でございます。それ以外に、何も観たり、思ったり、感じたりしてはならないんでございます。しかし、自己というものは、自分というものは、自分を見つめるということでございますけれども、自分、自我の自分のことじゃなくて、神我を見つめるということでございますね。自己。我々は、今、低我の自分を、自己だと、自分だと思っておりますならば、それは自我の瞑想でございまして。神我。神我との大霊との一体感でございます。見えるモノも見えないモノも、大宇宙そのものが大霊そのものであり、大霊の他には何もないんだ!全てが大霊であるなら、吾も大霊なりと。その大霊そのものが、神我、すなわち、自己でございます。それ以外に何も実在しないのでございます。すなわち、自己の世を見つめるというのは、その大宇宙に遍満する無限なる普遍なる、これとの一体感なんですね。一体感ということはどういうことかというと、大霊そのものであるということでございます。それ以外に何もない。大霊こそが絶対実在だ。全ては、霊なんだと。見えるモノ、見えないモノ、それが全てが大霊だ。霊一元の世界、神一元の世界、生命一元の世界。それを、ジーッと凝視すること。見つめること。そして、そのものであること。これが深い瞑想状態にまで。今までは私達は、外側の姿形の外観。すなわち表面を見つめて参りましたので、肉の目と耳を閉ざして、大霊への一心集中。これが瞑想状態でございます。今までは、昨日も今朝も話しましたけれども、肉体というものは存在しないんだと。物質というのは存在しないんだと。肉体というのは何かというと、霊体であると。霊体とは何かというと、肉体であると。即ち、色即是空、空即是色。即ち、見えるモノは見えないモノであり、見えないモノは見えるモノであると。その、見えないモノと見えるモノとは同一のモノであると。色即是空でございます。だから、全てが霊だということを、今日は朝も話しましたけれども、霊の他には、絶対に何もないんだということ。霊一元。ハッキリ、もう、見えるモノ見えないモノ、全て霊だと思える自分。即ち、それを凝視する。見つめる。だからあなた方の真我というものは、大霊そのものが神我でございます。真我である大霊の他には、絶対に何もないという、思える自分になるまで、そこに、ジーッと、統一していくわけです。話を聞いただけでは、何の意味もございません。話そのものは真理ではないからです。文字そのものは真理ではないからでございます。だから、幾ら話を聞きましても、幾ら本を読みましても、皆さん方は瞑想なさらなければ、その真の自己を実感することが出来なければ、大霊を実感することが出来なければ、皆さん方はその今までの状態から、解放されることはありません。だから、あなた方が瞑想している間には、大霊以外のモノを、見てもいいけないし、思ってもならないんですね。もう、そのものへの一心集中。それ以外に、考えてもならない、見てもならない。じっーと、大霊を見つめておる。大霊への一心集中というものを、行うことなんですね。しかし、今の世の中の瞑想というものは、ああ景色が見えた。光が見えた。霊の次元からの姿が見えたとか、これを瞑想だと思っている。或いは、体が1メートルぐらい宙に浮くことが、瞑想だと思っているんですね。私も最初はそう思いました。しかし、そうではないんです。真実との一体感。即ち、実在との一体感。実在の吾に帰ると言うことが大切でございます。それが瞑想でございます。瞑想を教えてくださいという人がおりますけれども、瞑想はそう簡単に教えられるものじゃない。自分自身で。その聖者方というものは、完全沈黙と言いまして、完全沈黙というのは五感。自我の無い状態。もうこの世的なものを感じない。見ない。完全に、この自我意識から解放された状態を完全沈黙というんですね。完全沈黙とは何かというのは、完全なる力でございます。大霊そのものでございますから、全知であります。全能であります。それをハッキリ自分自身が大霊そのものであり、全知そのものであり、全能そのものであるということを、ジーッと、そこへの統一することですね。統一することです。しかし皆さん方は、まだまだ、外念という、物的観念というものを持っております。見えるモノ、物質もあって、霊もあると。物質があると思っている限りは、私達の肉体、肉体という粗雑な原子でございます。皆さん方が、その肉体の霊化。肉体が霊化されることを、偏晶、変容、変貌と申し上げます。現に肉体というものは、存在しないんですけれども、我々は肉体を感じております。見ております。しかし、肉体というものは一体何かというと、霊体であると。霊が肉という姿形を現しているだけであって、その姿形の実態は全て大霊なんです。小さいものから大きなもの、全て大霊なんです。見えるモノも霊で、見えないモノも霊。即ち、色、即、是、空、空、即、是、色。物質即霊。霊即物質という。見えるモノと見えないモノとは、1つの存在であると。見えるモノも、見えないモノも、全て霊なんだという。そこまで皆さん方が、霊以外に大霊の他に、何も感じない。大霊そのものに、皆さん方が日常生活でも、そして瞑想当時の、この普遍なる無限なる自己という大霊を、皆さん方は神我への一心集中でございますね。神我は即ち大霊そのものであり、大生命そのもの、宇宙そのものでございます。それが宇宙即我の境地。即ち無我の境地。無の境地。無の境地というのは、何かというと、自我がないことを無というんですね。無いという意味じゃないんです。何も無いという意味じゃないんです。そこには何があるかというと、神あるのみという境地でございます。霊あるのみという境地でございまして、今までのあなた方の考えていることが無い。無の状態。これを無我の境地。無私の境地。今までは私達は、利己的な自己中心的な、小さな小我の低我の自我の自分を感じてますけれども、それが無い状態。低我の小我の偽我の無い状態を意味するわけです。そしてそこには、何があるかというと、普遍的な自己でございます。宇宙的な自分でございます。で、自分が全宇宙に遍満する宇宙そのものであり、宇宙霊そのものであり、宇宙生命そのものであるという。普遍意識、宇宙意識。そういう状態に、皆さん統一することでございますね。そうすると、汝の見るもの全てを受け継がん。大きいものを見れば、大きいものを受け継ぎ、小さなものを見れば、小さなものを受け継ぐ。だから人間というのは、思っている通りの者であって、それ以上の者でも以下の者でも無い。で、皆さん方は、今、モノを創造するには、今の他に於いて無いのでございます。その創造というものは何かというと、想念でございます。自分は今何だと思っているかという、思いでございます。それを「思い出」と言いますね。思いは出てくるんですね。想うことは出てくるというのは、思い出と皆さん言っとります。想念は実現の母と言われています。本当に自分は、自分は本当に大霊だと思っているのか。或いは、人間だと思っているのか。その思いというのは、皆さんを決めておるんですね。だから、寝ても覚めても、四六時中、神を想うということは、即ち、寝ても覚めても自分が神であり、大霊であり、大生命であるという思いが大切なんです。それを想い続ける。それを想い続けることを、連続的祈りとも言います。即ち、祈りとは、神との一体感でございます。即ち、神の臨在感でございます。自分は神の中に居り、神は我が中に在しますと。そして、自分自身が大霊そのものであり、大生命そのものであり、宇宙そのものであるという思いでございますね。そこへの思いを留めると言うことでございます。だから瞑想中に、何も思わないんじゃないんです。思いが停止するということはありません。皆さん方は、寝ても覚めても思いは絶対に休憩することはありません。意識が休むことはないんです。永久です。だから皆さん方は、寝てる時は夢を見ます。ね。或いは、寝てる時は、無意識だと思っておりますけれども、ただ表面意識と表面的なものから解放されているだけであって、潜在意識はちゃんと生きて働いております。その意識そのものが、皆さんの命であり、霊であり、神であるからです。これを宇宙意識と言っているわけです。或いは、神意識と言っているわけです。神意識というのは神の命。神の霊。神霊という意味でございます。だから意識は、ただ一つしかないんです。幾つも三つも意識があるんじゃない。即ち、幾つも三つも命があるんじゃない。幾つも三つも霊があるんじゃない。ただそこには、大いなる普遍意識、宇宙意識があるだけなんですね。即ち、神意識があるだけです。で、神意識というのは何かというと、全体的な総合的な普遍意識、宇宙意識そのものなんです。意識は幾つも三つもあります?ありません?一つしかないんです。そして皆さん方が、神との一体感になったとき、神の心臓と自分の心臓とが一体となって鼓動する。これは非常に大切なことなんですね。なぜなら宇宙には心臓は1つしかないんです。ね。一つしかないんです。で、その宇宙のバイブレーションと、こう自分のバイブレーションとが一体になる。何というか、引きずり込まれるように、その宇宙のバイブレーションになっていくと。それが自分の心臓と神の心臓との一体感。そうしますと、我々の肉体細胞はどうなります?それは、神のバイブレーションとなっていくわけです。で、そういう状態で、瞑想というものを、こう、皆さん方なさいますけれども、非常に大切なことでございます。それが出来ないでは、皆さん方、神我到達は可能ですか?不可能でございます。真我到達というものは、真我そのものに、なるということでございます。なるということでございます。神への到達というものは、神そのものになりきる、ということでございます。だから世の中には、その神。神と言ったら、特別だと思っているんですね。神。神というのは、特別じゃないんです。神とは一体なんですか?何ですか神って?自分と無関係ですか。神というのは?神って馴染みの無いものですか?何でしょう。神って?神とは何ですか?自分自身ですね。自分自身です。だから、自分が神であると言うことが、分らないだけなんですね。そう思わないだけだということですよ。自分自身ですよ。しかし皆さん方は、自分があって、神があると思い込んでいるのが、殆どでございますね。で、自己を見つめるということは、何を見つめることになります?神そのものを見つめる。自分を見つめるということは、神我ですから。吾神ですから、自分が全宇宙に遍満するその、決してこの血や肉ではなくて、全宇宙に遍満する大霊そのものだという。ね。それを皆さん方は、その大霊との、こう、うわーっと、見つめること。そしてその時、皆さん何を見つめているかというと、自分を見つめてるんですね。自己を見つめていると。大霊を見ることは誰を見ることになります?自分自身ですよ。だから、自己を見つめると。自己実現というのは、この大霊真我が自分自身だという自覚が出来る状態。把握。生命の把握と、自覚と言います。或いは、実感と言います。それが実感出来るまで、皆さん方は、統一せねばなりません。今、我々の意識というのは、どうしても外に奪われがちなんです。で、それが、外側に奪われないように、内側を見つめる。即ち、内観する。内省する。憶念する。その内観、憶念が、瞑想でございます。で、それとの、見つめている間に、汝の意識するとき、汝はそこに居るのであるという名言がございます。意識したところに皆さんは留め置かれます。意識しないものは、留め置かれることはありません。外側を意識すれば、外側に留め置かれます。内側を意識すれば、内側に留め置かれます。だから、瞑想というものは、非常に大切なことでございます。内観することは、非常に大切なことでございます。だから、外を見るな、内を見なさいと。外を見れば結果だけであると、内側を見れば、実在であると。真の自己というものは、内側の自分、大霊の自分、大生命の自分、宇宙そのものの自分というものとの一体感でございますね。これが、深い瞑想状態だということでございます。瞑想を教えてくださいというものは、瞑想。世の中には、瞑想している者は沢山おります。瞑想グループだとか、何グループだとか、或いは、ヨガ瞑想だとか。瞑想する人はおりますけれども、瞑想が何であるかということを、ハッキリ理解している人は、非常に数少ないのでございます。どうです。瞑想が何であるか分らないで、瞑想が出来ます?出来ません?出来ませんね。瞑想が何であるか分らなければ、意味が無いんですよ。まあ少しは価値があります。目をつぶって、そして背筋をピンとして、とか、足はどう組まなくちゃならないとか、ね。まあ勿論、それも、自然のままにやっていますと、背筋もちゃんとピンと伸びます。でそういう状態に、統一されたときに、こんなこんなする人はおりません。その時は眠ってるんであって、いわゆる神への一心集中、神との一体感は、こんなにするんじゃないんですね。或いは、鼻でも垂らして、やっているものじゃないんですよ。その時は寝ているんです。まあ、寝ても結構です。リラックスしていますから。起きて、あれやこれや悪いことを考えるよりは、鼻垂れを垂らして、こう眠っても結構なんですけれども、本来は、意識はちゃんと冷めた状態でなければならないんです。で、皆さん方はよくここで、この知花の話をしている時に、どうしても、うん、うん、やりますねえ。しかし、その眠るまい、眠るまいと思えば思うほど、子守唄みたいに皆さん、こう頭が揺れてきて、どうしても垂れて参ります。しかし、もう寝てもいいやと思って、自分を許した時に、寝てるようで、私の言葉みんな聞いていますよ。皆さん、体験ありませんか?ね。これに抵抗しようとすればするほど、こうするんですよね。しかし、もうどうでもいいやと言うような恥を捨てたとき、自分も捨ててますので、自分を捨ててますのでね、自我が無いんですよ。その時は、寝てるようで、声は聞こえるんですね。で、そういうのは、ここに座っている皆さん方は、みんな体験があると思うんです。ね。本当に皆さん方は、眠るまい、眠るまいとこうすればするほど、こうするんですからね。非常にこの、なぜそうするかと言いますと、皆さん方、ここに来るとね、安心感と言いますか、落ち着くと言いましょうか、そのバイブレーションに打たれますと、どうしてもそういう状態になるんでございます。例えば、一番敏感なのは、猫と犬でございます。猫と犬は、安心して磁場がいいところでないと、絶対に眠らないのが犬と猫でございます。丁度、安心の出来る、その猫の寝そべっているところは、非常に磁場的にいいんでございますね。或いは、犬が寝そべっているところは、非常に磁場的にいいんです。丁度ここでも皆さん方、磁場が良いわけですから、よく眠るんですねえ。まあ、それも結構だと思います。確かにここにこう、バイブレーション私が上げて参りますと、皆さん方は寝ていながらでも、確かにその影響は受けます。だから無理して起きようとすればするほど、眠たくなりますので、その時は、あの寝ても結構ですから、無理にして目を開けようとすればするほど、瞼は友達になって、下の者と友達になって、くっついて来ますのでね。で、今日は大丈夫だという時には、パチッと目を開けて、ね。私の顔を見つめるか、それをしていただければ結構だと思います。だから、瞑想。あー、この前うちの長男も、「お父さん私に瞑想を教えてください」と、しかし教えませんでした。教えてくださいと、教えられるものじゃないんです、そう簡単にね。で、ここで、皆さん方自然のままに瞑想というもの。あっ、こういうものかっということを、自分で見いだして初めて、瞑想というものが出来るんですよ。人から習って、瞑想が出来るものではないんですね。なるほど。瞑想というのは、真理への一心集中。即ち、神への一心集中。それ以外に見たり感じたりしないことが、そのものになることが、瞑想なんだなと。神そのものになること、大霊そのものになることなんだと。それ以外に見たり思ったり感じたりしてない。それ以外に見たり思ったり感じたりしているものは、みんな雑念なんです。なぜならば、真実なるものはただ一つしかないからです。その真実なるものを、実感出来るまで、深い瞑想をしなくちゃならないということでございます。で、それが、四六時中、瞑想状態から覚めた状態でも、無意識のうちでも、自分自身が大霊そのものであり、大生命そのものであり、宇宙そのものであるという、思える状態。日常生活でもね。仕事中でも。で、多く瞑想すればするほど、皆さん方無意識のうちにも、そういう状態になるということでございます。今までは古い習慣性として、私達は、外側を意識して参りましたので、で、それを五感の感化と言いまして、非実在というものを、真実だと思い込んでそこを無我夢中になって意識して参りましたので、今度は外側を向いておった心を内側に向ける。即ち内観する、憶念するということが大切でございますね。内なる。今までは、外なる自己。外なるものを見つめて参りましたので、今度は内側を見つめて生きるように。丁度、今の逆でございます。今までは我々肉の目で、外側のほうを、外面を見て、意識して参りましたことを、今度は、外側を見る目と外側のことを聞く耳とを閉ざして、じっと内側を見つめると言うことでございますね。その中で皆さん方は、いろいろと考え事をする人がおりますけれども、考えることはみんな雑念でございます。完全に深い瞑想状態というのは、この世的なものの一点の意識もない、思いもない、何もない。あー、霊そのものなんだという、霊を、霊感、即ち霊を感ずる事の出来る、大霊そのものに溶けこむようにして、大霊そのものになるという、融合するという。一体感でございますね。それが出来るような状態にまで、皆さんこうして瞑想していかなくちゃならない。その時はもう皆さん方は、何回か何回かこれを繰り返しているうちに、皆さん方は無意識のうちにも、こうして軽く目をつぶった瞬間、大霊を自覚することが出来るんですね。それは多くやればやるほどです。それを、成さねばなさらないほど、外側で生きておりますので、皆さん方はまだ自我でございます。外念でございますので、そこから皆さん方はいろいろなものを教わるとかそういうことは、絶対にありません。真理が真理を啓示するという言葉がございまして、我々がそこへの一心集中をすればするほど、皆さん方はそこから天啓、即ち、インスピレーションが受けることが可能でございます。我々が、なぜその自分の意識と低い状態の意識、低い方を。低い意識状態とは何かというと、外側を意識した状態は低い意識状態なんです。ね。高い意識状態というのは、内側を見つめている時には、高い意識状態なんです。即ち、実在の自己という、真我の自分との、真我は高我でございます。自我は低我でございますから、自我意識で生きているものは、低我で生きてます。低い次元です。高い次元というのは、即ち、内側の高我の自分。大我の自分。全我の自分との一体感になったとき、皆さんの意識は高揚しているわけです。瞑想している時には、高揚していますけれども、がさっと落ちます。外側を意識すると同時に、意識したところに自分は居るわけですから。あなたが瞑想を通して、高い次元に居ることが出来るわけです。ね。で、瞑想していない時には、私達は外を意識していきますので、低い次元を意識して、がさっと。その状態では意識は落ちています?落ちていません?落ちていますね。で、その落ちないようにする為には、常に皆さん方の意識は高い状態で、そのだから仕事中でもいつでも高い状態で居れるように、それを連続的祈り。連続的瞑想と言いまして。で、1日に何回も何回も繰り返し繰り返し、時間ある毎にやっておきますと、習慣性として、仕事中でも、覚めた状態でも、高い意識状態で自分の意識がね、霊意識、霊意識そのもの、神意識そのもので留めおける状態にまで皆さん方の意識を、高揚せしめるということでございます。で、低い意識状態になりますと、私達は勿論自我でございますので、いろいろとまた分離感を感じ、対立を感じ、そこにまた不調和を起こすんですね。高い意識状態に真我到達をしている状態で、不調和を起こす人はおりません。でも、我々が、外側を意識してる時、低い自我を意識している時に、争いというものが起こってくるんです。憎しみというのも、怒りというのも、悪口というのも。だから皆さん方は、まだまだ、まあ、ハッキリ申し上げましょう。未熟でございます。それは、未熟だということは、瞑想が未熟だということです。即ち、皆さん方、瞑想している時には、あー、私は大霊なんだなと思っている時には、本当にそこに居ります。意識は。思ってるところに居りますから。意識したところに皆さん居りますよね。この大霊を意識している時に、皆さん、肉意識の世界に居ります?居りません?居りませんよね。大霊との一体感になっている時、あなたの意識が低い次元に居るはずが無いんですよ。瞑想している時には、どなたでもその大霊との一体感を感じている人ならば、そこへの意識を向けている時には、そこに居るんです。居るんです。で、居るけれども、のぞき見をして、パッと目が覚めると、また、すぐ外側の意識が働きますので。だからあなた方の意識というものは、ピストン運動してるんですね。瞑想してる時には、うあーっと高我の自分に高い意識状態に上がりますけれども、目を覚めてみれば、また地獄かというような状態なんですね。ピストン運動をしているわけです。瞑想している時、意識している時は、うあーっと高揚します。しかし、目が覚めると同時に、また三次元的な、あのご飯は美味しかった、この美味しいものが食べたい、いつまたどこで美味しいものを食べようか。すぐ表面的なものになりますね。だから皆さん方はねえ、美味しいものが食べたいとか、ね。いい洋服が着けたいとか、真我意識ですか?低我ですか?低我ですよ。低我で肉我で生きている時に、美味しいものが欲しいんです。そして、いい洋服を着けたいんです。しかし、高い意識状態になりますと、寒さを凌げればいいんです。食べ物の欲望というのはございません。で、よく、密教学では、イニシエーション。第1イニシエーション。第2イニシエーション。第3イニシエーション。第4からは覚者でございます。で、イエス・キリストがこの世を十字架に掛かられるときには、第3だったんです。で、十字架に掛かっていくというものを、十字架に掛けることによって、その第4という。そして第4が終わると同時に、すぐ、第5という位を授られたんです。ね。今は第7です。それはどういう意味かと言いますと、第1イニシエーションというのはまず、肉の欲望でございます。食欲。物欲でございます。それが克服出来ているかと。美味しい物を食べたい。いい洋服を着けたい。豪華な家に住みたい。豪華な車を乗りまわしたい。そういう欲望を克服した状態。美味しい、一番これですよ。これを欲しがっている間は、肉が強烈に働いているんですね。で、美味しいものでないと、あの、こんなの食えるか。ね。意識の高いものが、こんなの食えるかとは言いませんよ。で、食べ物への文句。それは一番低い状態なんです。肉の自我がうんと働いています。で、そういうものが、食べ物というのは、ね。文句なしに食べる。有り難く感謝して食べる。美味しいものとか、貧しいものとかというものは無関係。それが克服出来ていますと、第1段階のイニシエーションなんです。で、第2段階というのは、何かと言いますと、感情のコントロールでございます。感情が出ない。何か人から、カカカっとなって、鬼みたいになる人。ね。すぐ、イヤーっと思う人。これは感情のコントロールが出来ていません。すぐ怒る、憎む。そういうような嫉妬深い。というような感情がコントロール出来ていなければならない。それも、瞑想を通して全部克服出来ます。そういうのが出て来なくなるんです。食べ物の欲望が無くなります。で、今までは、ちょっとやそっとに何か言われると、すぐカカカっと噛みつくような、狼のような人間が、噛みつかなくなる。許せる。許せるようになるんです。何と言われようが許せる。感情が出てこない状態です。次に、第3というものは何かと言いますと、意思のコントロールでございます。意思。意思とは何ですか?思いですね。想念ですね。即ち、想念のコントロールです。意思の力というのは、想念の力でございます。だから我々は、正想念。今まで悪想念だったものが、常にいい思いを持つような意思でございます。これを皆さん、自由意志を持っていますので、悪いことも、悪想念も持つことが出来、正想念も持つことが出来るんです。しかし、食べ物の欲望、食欲というもの、物欲というものを克服しまして、感情というものをコントロールしまして、感情はアストラル体です。ね。で、意思はメンタル体です。密教学ではそう言っています。精神世界です。で、それがコントロール出来ますと、その上の段階からは、もう霊の次元でございますから、だから、食欲、感情、意思、その三つが克服される為には、私達は、努力せねばならないんです。努力せねばならない。ね。すぐ妬みっぽい。怒りっぽい。そうではまだまだ感情のコントロールが出来てないということです。あとは、悪い思いをしないという意思のコントロールでございますから、常に良い思いで生きている。正想念で生きている。で、正想念そのものが、常に自分の思いとして持続出来るように努めなければなりませんね。それも、皆さん方のバイブレーションを上げることによって、皆さんのバイブレーションはどのようにして高めることが出来ますか?瞑想しないで皆さんのバイブレーションが上がりますか?上がりませんか?意識の高揚がバイブレーションの高揚です。意識は自我意識に居ながら、バイブレーションは高い人がいます?あはははは!バイブレーションを高めるには、瞑想を通してのみ、バイブレーションを上げることが出来るんです。で、意識が上がった状態を、バイブレーションの高い状態。意識の低い状態を、バイブレーションが低い状態でございますね。だから、低周波数と高周波数があるわけです。で、バイブレーションの高い人というのは、どういうことかというと、常に自分が大霊との一体感を感じて生きていますと、常に皆さん方、高我の自分、神我の自分、高い次元に自分を留め置いていることになります。しかし、がさっと、すぐ低我の外側の表面意識にまで落ちて参りますと、皆さんのバイブレーションも落ちておりますね。だから、バイブレーションの上げ方を教えてくださいと言う人がおります。それは、バイブレーションを上げなさいと言って、上がるもんじゃないんですよ。上がります?上がりませんよねえ。どうすればいいかというと、我々が大霊との一体感になっている時、神との一体感になった時、初めて私達は神のバイブレーションにまで高めることが出来るんですね。神を意識している時には神のバイブレーションです。で、肉体を意識している時には、低我の低次元のバイブレーション。低いバイブレーション状態ですね。だから、皆さん方は瞑想をしないでバイブレーションの高い人、意識を高揚せしめないで、低い意識状態にいながら、私はバイブレーションは高いんだという人もおりますが、とんでもない話。嘘ですよ。そのようなものではございませんので、気をつけていただきたいと思います。それはバイブレーションを上げるにも、即ち意識の高揚がバイブレーションの高揚だと。ね。で、バイブレーションが上がりますと、どういう言い方をしているかというと、気高い人と言うんですね。で、バイブレーションが低い状態を、気落ちと言います。気が落ちている。そのバイブレーションが高い状態というのは、エネルギーが高い状態ですよ。気が高いんですね。気が高い状態。気が低いというのは、気落ちと言いまして、我々の自我意識はエネルギーが低いんですか?高いんですか?だから、自我意識で生きる限り、エネルギーが低いわけですから、私達は病気にもなるんです。しかし、覚者方がなぜ病気にならないかというと、エネルギーを高めておりますんで、エネルギーの高い人が病気になるんですか?エネルギーの低い人が病気になるんですか?じゃあ、意識の低い人が病気になるのか?意識の高い人が病気になるのかどっちですか?意識の低い人ですね。だから自我は、罪であり、病であり、死であると言われているんですね。真我は、罪を知らず病を知らず死を知らずでございます。だから我々は、神我到達しない限り、罪と病と死は免れません。肉体の破壊でございますね。で、我々の肉体を霊化する為には、自分が大霊そのものであり、大霊との一体感という、そこへの一心集中。その大霊との一体感が深い瞑想状態なんですね。そうすると、皆さん方の肉体は霊化されて参ります。で、イエス・キリストの肉体が完全な返照を遂げられていた方なんですね。変容された。その時、オリーブの山に立って居られた時、もう目も眩まんばかりの白光に。白い雪のごとく、輝かれた。今でも、真っ白い姿で雪のごとく輝いて見えます。それは、白色同胞団ね。ホワイトイーグル。その真我は白光の世界。で、そこまで皆さん方は、白色。白色というのは何かというと、七つの色をミックスしますと、白光になります。即ち虹色が七つのチャクラの生命線が、一つになった時、白光と輝くんですね。で、我々には七つの虹色、七色の翼、ね。七大天使。それを、エルランティも含めて、エルランティと名付けているところもございます。或いは七つの天門。七つの霊的注水。或いは七つの教会と言われています。で、それが、一つになった時、白色となるんですね。即ち、七つのチャクラが完成された時、その時、7点。7点という、数字では言えませんけれども、普通、この世的には数字的に言ってますので、7点という言葉が。だから、ラッキーセブンという。セブン。7という字。聖数と言われているものなんですね。いろいろとその瞑想のことから、そこまで話がずれて参りましたけれども、そういうものを完成するにも、皆さん方は真理。真理はその大霊という絶対真理、絶対実在という、これがあるのみでございますから、これ以外に、何か思ったり考えたり見たりしてるならば、皆さん方、真理を知っているんですか?知らないんですか?知りませんね。大霊こそ絶対真理じゃございませんか。その他に真理があります?ありませんね。その他に真実なるものはないんです。ただ一つの真実。大霊という真実。その大霊が大神様。天の父。大霊が全ての創り主。全ての存在の本源でございますから。その存在の本源への到達が、神への到達。彼岸への到達。即ち、皆さん方も白光と輝くものとなると言うことでございます。だから、そこへの一心集中というものは、欠かせないものでございますね。自分が大霊であるということをハッキリ実感出来るまで、皆さん方も瞑想していただきたいと思います。だから多く話を聞くよりも、少々の時間がございましたら、一番大事なことは、話を聞くことよりも、その大霊との一体感がいかに大切かということでございます。だからわざわざ、今日私は時間をずらしまして、30分皆さん方の瞑想状態を見せていただきましたけれども、銘銘その、統一されている者、されてない者、相当の段差がございます。で、そこに統一しているものからは、もう相当の光が出ておりますね。しかし私が一番嬉しいことは、今から1年前の皆さんと、今の皆さんとは、天と地の差があることを喜んでおります。今から何ヶ月前までは、その1人や2人がようやくここの大所の中から、白光輝かす者がおりましたけれども、大分の人数が今こうして瞑想している時を見ますと、輝いておりまして、あー良かったと。今から何ヶ月前までは、1人居るか2人居るかの状態でございましたけれども、今見てみますと、大半の人がある程度、その光状態を現しています。それはもう、私にとっては喜ばしいことでございます。今日、どのぐらい皆さん方が、瞑想についての理解力を持っているか。またそこへの、一心集中をしているかということを、見させていただきました。それが出来ない人も勿論居りますので、気をつけていただきたい。出来てない人とは、自分のことだなと、一番誰よりも自分自身が分ると思うんです。瞑想している時に、あれやこれや物事を考えてる。明日はどういう仕事をしようか。どうしようかと考えながら、目をつぶってる人。これは自我瞑想でございますから、そんなものから光が放つことはありません。それは目をつぶって、三次元的なことを考えているわけですから。それは神への到達ではございませんので、瞑想でもございません。そのようなものじゃなくて、瞑想とは神そのものになりきる、大霊そのものになりきる。そのものであるということが大切なんです。そのものなんです。その他には絶対に何もないからでございます。そのものであると、あなたがハッキリ言葉でも言えて、そういう状態の意識状態になることが大切でございますね。吾大霊なり、吾大生命なり、吾宇宙なりと。思える。言える。あなた方になっていただかんことをお願いしながら、今日簡単にこの瞑想についての、朝もまた瞑想なさると思います。或いは寝るかもしれません。それも結構でございますけれども。皆さん方は寝る前、起きる前、起きる前というのは起きてからでございます。起きる前は瞑想出来ません。そこに皆さん方は、その本当に少々、僅かの1分や2分間でもいいから。だからそれを、求めて求めて、探して探して、叩いて叩いてというのは、瞑想で叩くのでございます。瞑想で探すのでございます。瞑想で求めるのでございます。自我で神を求めることが出来、神を叩くことが出来、探すことが出来ますか?皆さん方は、神の戸はどうして叩きます?自我で叩くんですか?瞑想を通して、瞑想を多くしている人は探して探しています。叩いて叩いています。求めて求めています。瞑想しないで、私はもう悟っているんだっと、叩きもしない、探しもしないで、知識だけで、頭でっかちで、そんなものは探してもおりません。求めてもいません。ただ、もう話を聞いて、暗記して、オーム返しでペラペラペラペラ喋ったところで、何の価値もありません。そのようなものじゃなくて、ハッキリこの我々が感ずる事。実感することが大切でございます。それは皆さん方、神を探すのも、叩くのも、求めるのも、瞑想を通してのみ行えるものでございまして、自我でもって神を探せた人は世の中に1人もいないのでございます。瞑想しないで神が探せます?瞑想しないで心の扉が開かれます?開かれませんね。瞑想なんか不要なんだという人がおりましたならば、まあ不要で結構ですよ。そのものは地獄が好きなようですねと言いたいだけです。神を探すのに瞑想しないで探せます?出来ませんよね。叩くことが出来ます?出来ませんね。だから皆さん方は叩き方が、求め方が、探し方が下手だということです。だから瞑想の嫌いな人は、もう今生は諦めてください。もう今生は諦めてください。また悲観的になっても困りますよ。今日は私のこと言っているんじゃないかなと、悲観的にならないでください。誰のことも、言ってるんじゃないんです。まあ、そういう気持ちがあるんでしたら、どうぞまた来世もございますよと。来世も無理なら、また来来世もございますよと。永久ですから。永久のモノしかありませんので、いつでも結構でございます。しかし、今、このアクエリアスの時代。水瓶座の時代というものは、非常に大切な、霊的に求めやすい、入りやすい時と、その道案内人の現れる時でございます。それが最後の篩い分け。最後の審判。熟した魂と、未熟の収穫時でございます。で、熟したものは天の蔵に納められます。そして未熟なものは再生されます。即ち、輪廻を繰り返します。そういう時、収穫時。時が来たら、あなた方は天の蔵に収められるであろうと言うその時が、今の時でございます。その時はもうやって参りました。だから皆さん方は、今生で成し遂げなかったとすると、また何万年この世を彷徨うか。再生されるか。で、次のお迎えが参るまで、収穫期が参るまで、皆さん方は、何回もこの地上界を彷徨う者となるであろうと言うことでございます。それは聖書にも予言されております。最後の時が来るであろうと。最後の瞬間というものは、収穫時だということです。だから非常にその時を、アクエリアスの時代。即ち、黄金時代と言われている時でございます。今、天から光はちゃんとこの世に射しております。自我の世界に光は射しております。そして皆さん方の魂へ燦然と輝く瞬間が参ります。それを魂の光輝と申し上げます。それが輝く時は、もう間近でございます。しかし、知識では輝きません。あくまでも、その霊的自覚という、認識あればこそでございます。それは瞑想を通してのみ、行えるものでございます。瞑想が出来ません、出来ません。最初は瞑想が出来た人は1人も居りません。みんな素人であったわけです。素人が初めから瞑想の玄人の人間というのは、おりません。瞑想をしておると、いろいろの雑念が浮かびます。今日は何をしようか、あれをしようか。夕飯は何を食べようか。今日の夕飯はまずかった。お酒でも飲もうか。何をしようか。遊びに行こうか。そんなことを考えます。それも放っておいていいんです。で、いつの間にか、何回か何回か求めているうちに、それが減っていくものでございます。だから、それを続けておきますと、すぐ目を瞑ると瞬間に、そこへの統一の出来るように、瞬時にして、統一の出来るような状態になる為には、何回も何回もの繰り返しでもって、皆さん方も統一していただく以外に無いのでございます。神の道は細く長いのでございます。だから、選ばれた者は多いけれども、招かれた者は少ないという意味は、招かれた者というのは、ここに選ばれた者は沢山集まりましたけれども、本当に招かれる者、神の国に入る者は、数少ないものでございます。楽をいたしませんように。怠け者とならないように。忍耐強く努力していただかんことをお願いしながら、今日の瞑想についての、本当に説明にはなっていないと思いますけれども、これは難しいことでございます。そういうところは、皆さん方は、その瞑想を通していろいろと答えを出していただかんことをお願いしながら、今日のご説明終わらしていただきます。ありがとうございました。