大愛は実相の自分 肉体は仮相の自分 何故(全再生時間:1時間29分54秒)
皆さんこんばんは。早速でございますけれども。今日は、大愛は実相の自分そして肉体というは仮相の自分。その肉体という仮相もあって、大愛という実相もあるのかと。で、実相である愛は、実際にあるんだけれども、仮相である肉体は実在ではないと。で、肉体もあって大愛もあるという意味ではないんです。大愛=肉体。肉体=大愛という意味なんです。しかし皆さん方は、肉体もあって、大愛もあると。ここに二つのものがあるわけじゃないんです。実際にあるのは、大愛のみなんです。何故そうなのかと言うと、これから説明してみたいと思います。まずはじめに、大愛ありきであって、肉体ありきじゃないんですね。大愛がなかったとすると如何なる肉体も存在出来ないという意味なんです。この肉体というのは、大愛の仮の姿ということなんです。即ち、人間の形をした大愛という意味なんです。これが皆さんの本質なんですね。本質的なもの。で、これは形の世界。肉体形態と言いまして。人間という形を見て人間という本質を見ていないということなんです。じゃあ、人間の本質は何でしょうか?即、大愛という意味なんです。形が形を造るのじゃない。大愛は万物の創り主、万物の親ということですよ。即ち人間とは、人間の形をした大愛ですよということですよ。大愛は実在するけれども、人間は実在するんでしょうか?人間も実在して、大愛も実在するものではない。実際にあるのは人間ではなく、大愛のみですよと。即ち、神のみが実在すると言うことなんですね。だから人間のことを、偽我と言います。大愛のことを、神我というんですね。本来のあなたは人間でもない肉体でもない。大愛そのものということです。しかし残念なんですけれども。大半の人が、自分を人間だと思っている。盲信している。狂信している。人間は実在するものではない。愛がなかったら、如何なる人間も存在出来ないという意味なんです。人間とは人間の形をした大愛であると。なんで?誰があなたを造ったの?大愛が全てを創って、大愛が全てに宿っているなら、全ては何でしょう?じゃあ、何故皆さんは人間なのか?人間とは実際にはないんです。人間の形をした大愛はあるんです。だから初めに本質ありきであって、形ありきじゃないんですよ。人間の形をした大愛。人間の形をした神。この本質は真理で、形は被造物。形は仮相。本質は実相と。じゃあ、皆さんは形に属するもの?本質に属するもの?人間という形は、本質という愛から離れては存在出来ない。何があるがゆえに人間があるんでしょうか?人間一人びとりは、大愛によって造られた大愛の住み処なんです。だから生ける大愛の宮なりと。大愛が全てを造って、大愛が全てに宿っていると。それは無限大の愛なんですね。だから皆さん方は、愛眼を開くか、人間を見るか。肉眼を開くのか愛眼を開くのか?本来のあなたは人間でしょうか?大愛そのものなんでしょうか?大愛のことを神我と申し上げます。人間のことを偽我というんです。皆さんは人間でしょ?じゃあ、人間を見よなの、大愛を見よなの?人間と大愛は表裏一体。どの側面を見るか。形の側面を見るか。本質の側面を見るかだけなんですね。で、形の自分を見て、本質の自分を見てない。形の側面を見て、本質の側面を見てない。内なる本質なくして、外なる形は存在出来ない。しかし皆さん方、形の側面だけを見ているんですね。で、その形の自分を、自分だと言っているわけです。この形の自分のことを偽我と言います。本質の自分のことを、神我というんですね。外を見れば形、内を見れば本質なんです。だから、人間を見ている時は外観。大愛を見ている時は、内観となります。じゃあ、皆さんは、人間なのか大愛なのか。吾は人間なりですね?大愛は宇宙に一つしかない。たった一つの大愛が様々な形をしているだけ。だから愛の仮の姿ですよっと。人間とは人間の形をした愛であると。これはコップの形をしたガラスであるように、形があるということは本質があると。本質があるということは形があると。形と本質との境目はない。だから、人間という形と本質という大愛との境目はない。その大愛のことを、皆さん方は天と呼んでいます。愛の王国。で、形の世界のことを地と呼んでいる。天地一体というのは、本質と形は一体。じゃあ、皆さんは形から出てきたの?どこから出てきました?本質という大愛から出てきて、大愛に帰る。この人間が大愛になるのに如何なる修行もいらない。何か特別のことをする必要はない。如何なる努力もいらない。あなたは初めから大愛。今も大愛。未来永劫も大愛なのに、勝手に嘘をついているだけ。ということは、人間は嘘の自分。大愛は?大愛は?人間は本当のあなた?嘘のあなた?だから人間は偽我ですよと。大愛は?じゃあ、吾は人間なり?大愛なり?じゃあ、見るべきものは人間なのか、見るべきものは内なる大愛なのか?どっちでしょう?愛眼を開くべき?肉眼を開くべき?絶対にこの肉体を自分だと見てはならない。肉体を自分だと見ている時は、偽物なんです。大愛は本物なんですね。だから愛眼は開いていいけれども、肉眼を開いてはならない。誰も彼もが、この肉体を私と言っているんですね。私。アイアムと言いますけれども。何が私なんでしょうか?あなたには大愛の私と、人間の私があります。私は人間なのか、私は大愛なのか?どっちでしょうか?吾は?大愛は本物。人間は偽物です。人間という形は仮相にしか過ぎない。どういう形をしていようとも、本質においてはことごとく大愛であると。じゃあ、初めに何ありき?初めに?大愛は真理。人間は被造物であると。大愛が全てを造って、大愛が全てに宿っているなら、全ては大愛にしかならない。しかし皆さんは嘘をつく癖があるんですね。だから人間と言っている一人びとりは、嘘つきであると。人間は嘘のあなた。大愛は真実のあなた。大愛という真実には嘘がつけない。嘘が真実に勝てるはずがない。嘘は真実によって克服されんが為にあると。それが自我の克服と言われているもの。人間は自我。人間意識のことを自我意識と言います。大愛意識のことを、真我意識となります。じゃあ、吾は?大愛なり?人間なり?今皆さんは人間だと思っているのか?大愛だと思っているのか?思っている通りの者。それ以上の者でも、以下の者でもない。じゃあ、人間だと言っている一人びとりは、本当のことを言ってるの?嘘をついてるの?人間は偽り。偽我です。大愛は神我、真の吾です。本来のあなたは血や肉に属するものではなく、人間に属するものでもなく、大愛に属するもの。何故?この人間は、大愛によって造られた大愛の住み処。生ける大愛の宮であると。未だかって、人間が生きたことはない。大愛の他に、他に生きているものはない。大愛が全てを造って、大愛が全てに宿っているなら、全ては何でしょうか?この大愛は、砂浜の砂一粒にも宿っています。形で大愛というものは、制限出来ないからであると。大愛は無制限であり、無所得であると。誰かれの愛というものはない。何故?愛は宇宙に一つしかない。唯一不二の大愛と言って、たった一つの大愛に基づいて、全ては成れりなんです。だから、人間とは人間の形をした愛。即ち愛の化身であると。こんな形をした大愛もあるし、様々な形をした大愛があるだけ。形の数ほど大愛があるのじゃない。たった一つの大愛が様々な形を現しているだけであると。だから、ことごとく愛であると。だから誰かれの愛というのはない。私の愛は皆さんの愛であります。皆さんの愛は私の愛。これがあなたのモノは私のモノ。私のモノはあなたのモノ。何で?愛は所得だから?無所得だから?その愛は差別でしょうか?無差別でしょうか?その大愛は、善人にも悪人にも、平等に宿っていませんか?善人にも悪人にも。神の愛は全てが造って、神の愛は全てに宿っているということです。だから、大愛に勝る真理はないと。じゃあ、大愛は非真理ですか?真理ですか?大愛は万物の創り主。万物の親だということです。で、皆さんは人の子ではなく、大愛の子。即ち、神の子ということです。砂浜の砂一粒だって、大愛の子です。だから雀1羽とて、大愛なくして、この地に落ちることはない。現れることはない。じゃあ、雀1羽は誰の子でしょうか?雀1羽も大愛の仮の姿。神の化身。大愛の化身であるということです。だから、いつなる大愛が全ての生みの親です。だから、この世の何者も親と呼んではならん。大愛こそ我々の親ということです。大愛に勝る親はいない。何故?形が形を生むのじゃなくて、本質が形を生むのであると。形が形を造れるものではない。ということは形というものは被造物で、本質というのは創り主であると。じゃあ、皆さんの本当のあなたは人間なんでしょうか?大愛なんでしょうか?人間だもの?大愛だもの?人間は偽我。大愛は?人間意識のことを偽我意識、自我意識と言います。大愛意識のことを?じゃあ、イエス・キリストは、吾は人間なりと言ったの?吾は愛なりと言ったの?吾は愛なりと言った。皆さんとイエス・キリストとの違いはたった一つしか違わない。イエスは実相の本質の大愛を見ていたし、皆さんはその現れている形の自分を見ているだけ。即ち、形は仮相。本質は実相となっていますと。形は本質の仮の姿ですから、形あるモノに一つだって本物はない。ことごとく偽物であると。だから見るべきものは、姿形ではなく、その内なる本質であると。本質的なものは、内なる自己。形は外なる自己。だから見るべきものは、人間という形ではなく、人間の本質であると。形を見ればこれはコップなんですけれども、本質を見れば即ガラスなんです。これコップなのか、ガラスなのか?私が本質から見るとすれば、これは、ガラスがコップの形をしているだけ。人間という形を見るのじゃなくて、本質から見ると、人間の形をした本質、大愛があるだけであると。じゃあ、形もあって本質もあるんでしょうか?形と本質は異なるんでしょうか?コップもあって、ガラスもあるんでしょうか?コップは即ガラスであるし、ガラスは即コップであると。人間即大愛であるし、大愛即人間であると。じゃあ、人間と大愛はどう違うんでしょうか?もし人間と大愛が異なると言うならば、コップとガラスは異なると言わねばならない。どう異なるんでしょうか?同じものなんでしょうか?異なるんでしょうか?はぁ!同じもの同一のもの。愚か者の見るのは、二つのものがあると言います。ここにあるのはコップもあって、ガラスもあるわけじゃない。一つのものしかない。不二しかない。しかし、皆さん方は、人間も居て、大愛、神もいると嘘をつく癖がございます。ここからは人間。ここからは本質というわけにはいかない。本質=形。形=本質であるからです。だから、本質という天と、形という地の境目はない。人と神との境目はない。ここからは人間、ここからは神というわけにはいかない。皆さん方は、二元論、二つ目と言って、人間も居て、神も居ると教えるのが宗教です。それは幾つ目になるんでしょうか?二つ目になります。嘘つきということです。一つ目になるためには、二つが一つであるべきなんです。人間即神、神即人間。大愛即人間、人間即大愛と。コップは即ガラスであるし、カラスは即コップ。コップも実在して、ガラスも実在するものではない。即ち不二であると。二つはないと。いつなるモノがあるだけであると。二つのものがあるように見えるけれども、実際は1つしかない。それは愛一元であると。幾らあなたが私は人間だと嘘をついても、あなたの本質が大愛である事実は変わらない。事実は変わらない。人間という形はなくなっても、その本質である愛は永遠であると。無限なる普遍なる愛は、未だかって失ったことはない。愛不滅の法則です。ね。生きてるのは人間じゃない。生きてるのは?人間という形は大愛によって造られた大愛の、生ける大愛の宮であると。大愛どこに在しますでしょうか?大愛、我が中に在しますと。生きているのは大愛のみであって、人間ではない。その人間が生きて、人間が働くと言う、大嘘つき盗みの罪を犯してはならない。汝盗むなかれ。ね。人間一人びとりは、大愛によって造られた大愛の住み処であると。生ける大愛の宮であると。生ける大愛の宮であると。じゃあ、実際に生きているのは人間でしょうか?大愛でしょうか?その大愛は私の中にも皆さんの中にも居られるのじゃないでしょうか。即ち、全ての形態は、大愛の中に今、存在しております。大愛は全てに居るということです。もしこの世に、愛を宿してないモノが一物もあったとすると、愛は無限ではありえない。愛は無限者であられ、普遍者であられますので。愛には内外がない。内にも外にも在しますと。その大愛は、形が大きかろうと、小さかろうと、同じ無限大の愛が宿っているのであると。小さな形には小さな愛が宿るのではなくて、形でもって愛という本質は制限出来ないモノ。即ち無制限であると。だから雀1羽の中に宿っている大愛は、皆さんの中にも宿っていると。なんで?愛はちょん切るわけにはいかない。制限が出来ないモノ。愛は制限出来るものなんでしょうか?制限が出来るなら、無限ではありえない。普遍的なものでもありえない。愛は如何なるものの制限も制約も受けないモノであると。ということは、あなたの中に宿っている愛は、無限大の愛であって、小さな愛とか個人的な愛というのはいない。じゃ、言います!大愛が全てを造って、大愛が全てに宿っているならば、全ては何でしょうか?ん?全ては?何故皆さんは人間なのか?うふふふふ!吾人間なりなのか、吾大霊なりのか?大愛と人間は表裏一体なんですよ。人間という側面だけを見て、大愛という側面を見てないだけ。表だけ見て裏を見ていない者は、裏切り者であると。何で?大愛と人間は裏表ですか?表裏一体ですか?人間という形の側面だけを見て、その本質である愛を見失っている。初めに人間ありき?大愛ありき?その人間は何によって成れり?ん?大愛によって成れり。だから大愛の他に、他に親があってはならん。何で?大愛は万物の創り主。万物の親と。大愛が全てを造って、大愛が全てに宿りたもう。だから、誰かれの愛というのはない。たった一つの大愛に基づいて、全ては成れりという意味なんです。じゃあ、皆さんは人間なのか大愛なのか、誰に聞くの?人間のことを神我というんでしょうか?偽我というんでしょうか?あ?大愛のことを?人間はどこから持ってきたんでしょうか?形に名前がついただけじゃありませんか?これはコップという形にコップという名前がついているだけ。しかし実際にあるのは、コップという名前じゃなくて、実際にあるのは、ガラスなんですよ。これはどう見てもガラスなんですよ。ね。コップってどこにあるのか私には分らない。実際にどう見ても、ガラスにしか見えないんですよ。皆さんから見ればコップに見えるかもしれない。しかし本質においては、本質を見ているものからすれば、ガラスであると。形の側面から見ればコップであると。形の側面から見れば人間であり、本質の側面から見れば大愛であると。じゃあ、初めに、神ありき。初めに本質ありき。大愛という本質がなかったら、如何なる形態も存在出来ない。じゃあ、皆さんは形に属するもの?本質に属するもの?今こそ皆さん、裏切り者から、裏を裏切らないようにするべきではないでしょうか?ね。私は人間しか信じないというのは裏切り者です。形が幾ら本質を裏切っても、裏切られるものではない。このコップが、私は幾らコップだと嘘をついても、ガラスである事実は変わらない。幾らあなたが、嘘が上手くて、私は人間だと言っても、あなたが大愛である事実は変わらない。偽りで真実を変えることは出来ない。偽りは真実によって変えられんがためにあると。じゃあ、真実と偽りと戦ったら、どっちが勝ちます?これをジハードと言います。聖なる戦い。聖戦争。自爆テロではない。ね。自爆テロを聖戦とかジハードとか言わないように気をつけてください。ジハードというのは、偽りと真実との戦い。即ち偽我と真我との戦い。ということは、人間と大愛との戦い。人間は偽我。大愛は?人間意識のことを神我意識と言いますね?ん?人間意識は?大愛意識は?じゃあ、吾は?吾は?本来のあなたは、人間なの?大愛そのものなの?人間という形を見るの?人間の本質である愛を見るの?愛のキリストです。全てに大愛が内在しております。これが内在の神と言われているもの。大愛、我が中に在します。神我が中に在しますと。大愛の他に、他に真理があってはならん。大愛は万物の創り主。万物の親。大愛の他に、他に親があってはならん。大愛の他に、他に神が居てはならん。だから皆さん方は、人間ですという、観念、概念、雑念から今の今、解放されるべきかと思います。もう戦いは始まっています。人間は仮相、大愛は実相となっています。私は人間ですということは、私は仮相でありますということです。仮相があるということは、実相があると。仮相は実相の仮の姿ですから。皆さんの実相においては、ことごとく愛であると。吾は?じゃあ、愛を知らないで皆さんは何かを知ることが可能なんでしょうか?ん?愛以外に何があるというの?全てが愛である理由を申し上げましょう。全てが愛と言うのは、何愛というの?全き大愛です。全き大愛というのは、大愛が全ての形態を造って、全ての形態に宿っているならば、全ては?じゃあ、愛は全ての全て、在りて在るものではないでしょうか。これは愛で、これは愛ではありませんと言えるものではない。愛は全てだからです。どういう形をしていようとも、本質においては尽く、愛であると。じゃあ、皆さんの本質は不調和でしょうか?大愛そのものなんでしょうか?ん?有限の愛ってあるんでしょうか?愛に区切りがあるんでしょうか?分割があるんでしょうか?じゃあ、個人的な愛ってどこにあるの?無限大の愛はあるけれども、個人的愛というのはない。何で?愛は有限だから?無限だから?あ?無限だからです。だから人間という形は、この大愛に繋がらなければ、不毛であると。じゃあ、何、御座すがゆえに、人間御座すのでしょうか?ん?初めに人間ありき?大愛ありき?人間一人びとりは何によって成れり?大愛の仮の姿。愛の化身ではないでしょうか。即ち神の化身。じゃあ、大愛は仮相の自分?実相の自分?人間は?じゃあ、言いますよ。あなたは人間を見ている時、本物を見ているのでしょうか?人間思考は本物思考なのか、偽者思考なのか?大愛思考は?愛眼を開くべきなの?人間眼を開くべきなの?ん?愛は神ですよ。愛眼を開くことと、心眼を開くこととは?ん?同じことですね。何で?神は大愛であるからであると。大愛だと。或いは慈悲でもいい。愛のキリスト。慈悲の仏陀です。じゃあ、皆さんの本性は?不調和なのか大愛なのか?皆さんはなぜ人間なの?ん?じゃあ、私は人間だと言っている一人びとりは、自分で自分を偽っていませんか?何で?人間は本当のあなた?偽りのあなた?人間のことを神我と言うの?偽りというの?偽我というんですよ。偽我というのは、偽りという意味なんです。神我というのは真実という意味なんです。ね。偽りを見るの?真実を見るの?人間という嘘は、真実には勝てなかった。その嘘を無くすためには、何を持ってくるんでしょうか?自我を無くすためには、何を持ってくるの?ん?何を持ってくる?本物を持って来るしかない。本物のあなたは血や肉ではない。何そのもの?何そのもの?だから、大愛は不死不滅であると。大愛は何一つ失うものはない。永遠に存続するもの。人間という形がなくなっても、愛は永遠ではないでしょうか?愛は失うの?大愛というものには生誕がないんです。大愛には誕生もなければ死もない。元々在るモノ。今、在るモノなんです。その人間という形には、初めがありますので、終わりがあります。形には寿命がありますけれども、本質という愛には寿命は?じゃあ、愛は不老寿、無老寿ではないでしょうか。愛は無碍であり、自在であると。もう今日限り人間を辞めるべきです。人間辞められない。あなた方には人間という先入観がある。その先入観に打ち勝たねばならん。迷妄に打ち勝たねばならん。あなたは人間信者にもなって、大愛信者になれるんでしょうか?じゃあ、人間信者は本物信者?偽物信者?それは外なる信仰であると。自分のことを人間だと信じている人は、盲信家であり、狂信家であると。あなたが信じるべきものは仮相という人間ではなく、存在の本源である愛だと思います。愛の信仰か、人間の信仰か。今、自分は大愛を信仰しているのか?人間を信仰しているのか?偽者信者か?本物信者か?人間信者は偽物信者。大愛信者は?あなたは人間信者にもなって、大愛信者にもなれるの?人間だとも思えて、大愛だとも思えるんでしょうか?一度に二つの信仰は持てない。本物を取るか?偽物を取るか?人間を取るか?大愛を取るか?もうこれは、自己選択ですから。選択は始まっています。篩い分けは始まっています。篩い分けとは、偽物と!偽物と本物の篩い分け。人間と大愛の篩い分け。これは聖なる戦い。自我と神我の戦い。人間は自我。大愛は神我となっています。神我とは真の自分。自我とは偽りの自分。偽り人間を見て、真実という愛を見失ってはならん。じゃあ、生きているのは人間なのか?大愛のみなのか?ん?人間は大愛によって造られた大愛の?大愛どこに在します?この世の中に大愛を宿していないモノが一物もあるんでしょうか?全ては愛の具現だよと。神の具現だよということですよ。じゃあ、大愛は物理なんでしょうか?真理そのものなんでしょうか?ん?大愛は真理ですね。人間は被造物ですね。造られたモノを見て、創り主を見ていないと言うことです。造られたモノがあるということは、必ず創り主があると。形があるということは、必ず本質があるということですよ。人間という形は、本質という愛から離れることは出来ない。だから形は本質に繋がらなければ不毛であると。人間という形は、愛という本質に繋がらなければ、不毛であると。じゃあ、形自らは何が出来るの?何が出来る?じゃあ、吾は形なり?吾は本質なり?嘘つき人間からは、真実を得ることは出来ない。嘘からは、嘘しか得られないんです。真実からは、嘘は得ることは出来ない。真実からは何を得られるの?あ?じゃあ、世界中の人が嘘をつくからと言って、あなたまで嘘をつく必要はないんじゃないの?嘘と妥協してはならないんじゃないの?偽りを偽っていて、自分は本当のことを言っているのだと、嘘はつかないことです。愛という真実には、誰も嘘がつくことは出来ない。これが神には嘘がつけないということです。あなたが、大愛そのものである事実は変わらない。幾ら人間と嘘をついても、あなたが愛である事実は変わらない。このコップが幾ら嘘つきで、コップだと言っても、ガラスである事実は変わらない。偽りで真実を変えることは、出来ないからであると。だから自分を人間だと、自分を自分で偽るなかれ。汝、偽るなかれ。本当のことを言いなさいと。真実を語りなさいと。何で真実を語るのに、こんなに躊躇するのでしょうか?偽りには、いつも親しみ深いのに、真実には親しみがないのでしょうか?あなたが親しんでいるのは、実在しない人間なんでしょうか?実在という大愛なのか?人間信者になるのか?大愛信者になるのか?今、皆さんは人間だと思っているのか?大愛だと思っているのかということです。思っている通りの者。それ以上の者でも以下の者でもない。人間だと思っていては、人間以上の者にはなれない。大愛だと思っていて、大愛以下の者にはなれない。じゃあ、正想念というのは、吾人間なんですか?吾大愛なんですか?割れ大愛なりは憶念。正思念なんです。吾人間なり、個人なりは、悪想念なんです。人間という思いは、正想念でしょうか?悪想念でしょうか?あ?本当にあるんでしょうか?人間は実在しているんでしょうか?コップは実在しているんでしょうか?実際にあるのはコップじゃなくて、実際にあるのは、ガラス。形の世界を非実在界と言うんです。本質の世界は?ん?実際にあるモノがなくなることはない。実在というのは永遠になくならないモノ。ね。だから皆さん方は、コップという形は破壊出来ます。ガラスは残るんです。人間という形がなくなっても、本質的なものは永遠であると。これが愛不滅の法則だということ。だから大愛は無限のあなたですね。大愛において、あなたは個人なんでしょうか?無限大の愛ですから。個人的愛というのはない。有限の愛というのもない。愛は区切ることが出来ない。分割することが出来ない。だから、愛の世界には如何なる分離、分断もないと。全体が一つであると。ことごとく大愛であると。大愛の他に、他に何かがあるモノではない。幾らあなたが私は人間だと嘘をついても、あなたの本質は何でしょうか?即?今からなるの?初めから大愛だったの?ん?あなたが大愛になるのに特別なこと必要とするんですか?あ?特別なこといらない?時間もかからない。何かをして、大愛になるのではない。あなたは生まれながらにして大愛だったんです。今も大愛なの。勝手に嘘をついているだけ。それは人間という嘘をついているだけ。人間という偽我で目隠しされて、大愛という本質を見失っているだけ。即ち本来の自分を、見失っているだけ。あなたの偽我という地は、本来のある天に帰ることを、本来の自分に帰る。大愛は愛の王国。天国となってます。大愛を通さずして、何者も天国に入らず。天国に入らず。だから皆さん方は、今から大愛になるのではない。このコップは修行してガラスになるんでしょうか?ん?今即、ガラス。人間は修業して本質になるのか?コップは修行する必要がない。ガラスになるのに。人間という形も修行する必要はない。あなたは元々大愛。今も大愛。未来永劫に大愛なのに、勝手に現れている形、仮相を、私と見ているだけに過ぎない。だから人間という形に属するものではなく、内なる大愛を凝視しなさいと。本物を見なさいと。今までは散々、形という仮相に目隠しされて、内なる本質を見失ってきた。大愛を見失ってきたと。だから皆さん方、人間ですと、いうんじゃない。じゃあ、皆さんは、悟ったら大愛そのものに成るの?人間そのものに成るの?ん?悟った人が私人間ですというんでしょうか?吾は人間なりとは言いませんね。じゃあ、この人は悟っているのか、迷っているのか、すぐに見抜けるのではないでしょうか。人を見抜くよりも、自分は悟っているんだろうか、迷っているんだろうか。一番誰が知っています?誰が?悟りと迷いは表裏一体なんです。人間と思った瞬間、人間と思った瞬間、迷いなんですよ。大愛と思ったら?悟りとは本当の自分を知ることなんですよ。悟りとは本来の自分を知ること。本当の自分を知ること。迷いとは本当の自分を見失ってる。偽り人間を見て、その本質である愛を見失っていると。コップの側面だけを見て、中身を見ていない。ね。中身を見てない。形があるということは、必ず本質があると。ね。本質があるということは、必ず形があると。だから人間という形の側面だけを見るんじゃない。その内なる本質を凝視しなさいと。これを内観せよと言われているもの。大愛を見ている時は外観なんでしょうか?大愛は内的自分。人間は外的自分。だから、吾人間なりは外念。吾大愛なりは?憶念なんです。これが愛のキリスト。慈悲の仏陀と言われているもの。じゃあ、大愛に勝るものは?じゃあ、皆さんは悟ったら人間そのものとなるの?大愛そのものとなるの?人間に属するもの?大愛に属するもの?自分は人間なのか大愛なのか誰に聞くの?答えは汝の?それは大愛という答え。未だかって答えが人手に渡ったことはない。ね。だから答えを外に求むるなかれ。形の世界に、愛を求めてはならない。愛を求めてはならない。大愛はどこに居るのでしょうか?あなたと共にいるのじゃないでしょうか。あなたの居るところ、大愛が居り、大愛が居るところ、あなたが居ります。ということは、全ての形態は大愛の中に居り、大愛は全ての形態に居るということです。じゃあ、大愛の存在しないところは?大愛はあなたの中にも外にも在しますではないでしょうか?愛は偏在したまうからであると。となりますと、大愛には内外はない。何で?内にも外にも在しますからであると。内にも外にも在します。あなたの中にだけいるならば、愛は無限ではありえない。無限であるためには、如何なる空間も存在しない。全宇宙に満ち満ちていなければならないんです。遍満の愛であって、有限の愛というのはない。ね。あなたには愛がない、私には愛があるというのは嘘です。あなたの愛、私の愛というのはない。たった一つの大愛が全てに宿っているのであると。それは有限の愛じゃなくて、無限大の愛であると。じゃあ、大愛において、あなたは個人でしょうか?無限でしょうか?ん?皆さんは自分のことを何と言っているの?個人と言っていますよ。個人という形は、無限の仮の姿なんですよ。初めに何ありき?ん?じゃあ、見るべきものは無限大の愛ですよ。何で?個人の本質は即無限であるからです。だから神は無限者であられ、普遍者であられると。普遍なる無限なる大愛が、全てを造って、普遍なる無限なる大愛は、全てに宿りたもう。だから今日限り人間を辞めるべきです。ね。人間という偽りは大愛という真実には勝てなかった。じゃあ、イエス・キリストは吾人間なりと言ったんでしょうか?吾は愛なりと言ったんでしょうか?それが愛のキリストですね。全てに大愛というキリストは内在しておりますね。内在していますね。その大愛を裏切ることをキリストを裏切ると。自分は人間だ、大愛ではないということは、アンチ・キリストとなります。反キリストとなります。人間という形が、本質である愛に逆らえますでしょうか?大愛と人間と戦ったら、どっちが勝つんでしょうか?ん?大愛は偽我。人間は偽神我ですね。その逆ですね。人間でしょ皆さん!人間の形をした?人間の形をした?吾は形ではない。人間ではない。吾は愛なりと。この愛は無形にして無双のお方。有形の愛というのはない。ね。無形にして無双であると。その愛というものは、区切ることは出来ない。制限がない。制約がない。だから形でもって、愛の大きさが違うものではない。ね。その大愛は、いと大いなる者。いと小さき者。ことごとく同一の大愛が宿っていると。雀1羽の中に宿っている大愛と、皆さんの中に宿っている大愛とは、同一の愛ですよ。だから、誰かれの愛というのはない。これは愛でね、これは愛ではないんですよと。愛は言葉や文字で言い表すことは出来ない。言い表すならば、愛じゃなくなります。それほど大きいという意味なんです。無限大の愛がどうして言葉や文字で言い表せますでしょうか。受けて表すだけだということです。だから真理というものは、言葉でも文字でも言い表せない。大愛は言葉や文字で表現出来るんでしょうか?言い表せるんでしょうか?だから真理というものは、言葉でも文字でも言い表せない。無限大だからです。言い表せるなら、有限になるからです。だから、如何なる分離分断もない。大いなる一体である真我。即ち大愛に目覚めるべきです。それを愛の目覚めとなります。吾は?じゃあ、自分のことを大愛だと思っている時は、迷った状態でしょうか?ん?じゃあ、常に悟った状態でおるためには、常に大愛という思いがなくてはならない。四六時中、大愛を思う。四六時中、神を思う。四六時中、悟っておるためには、四六時中、己が大愛そのものでなくてはならない。あなたが神を礼拝するには、己が大愛そのものになって神を礼拝せねばならん。何で?あなたは何そのものだから?何そのもの?大愛そのものなんです。その大愛によって全ては成れりなんです。大愛という本質がなかったら、如何なる形態も存在出来ない。だから存在の本源は大愛なんだよと。だから人間だ個人だ肉体だと思っている人からは、何も得るものはない。何故?人間も肉体も個人も実在しないモノであるからであると。実際にあるのは、何のみなんでしょうか?じゃあ、愛一元じゃないでしょうか?あなたは大愛の他に、他に何かを知ってはならん。何かがあるんですか?あ?大愛のみが独存しているのじゃないでしょうか。即ち、愛一元じゃないでしょうか。どんな形をしていようとも、本質においてはことごとく何なの?知花が見ているように、皆さんにも見て欲しい。知花は様々な形を見ているのじゃない。様々な形をした大愛を見ているのであると。全てに大愛を見て、全てに大愛を感じなければならない。意味分りますか?これが神が観たもうがごとく、私も観たのであると。愛眼が開かれた。心眼が開かれた。天眼が開かれたということです。愛の王国です。だから御国は汝の?ん?天のなせるがごとく、この地にもならせたまえと。吾は肉より語る?吾は愛より語る?ん?愛より語る。真我にて語らしめよ。愛にて語らしめよと。じゃあ、二千年前に、イエスの中に宿っていた大愛は、皆さんの中にも今現在居りますね。あ?イエスの大愛と皆さんの大愛とは同一の愛ですね。イエスの本質は皆さんの本質ですね。これがあなたのモノは私のモノ、私のモノはあなたのモノ。即ち、神のものは私のモノ。私のモノは神のモノと。大愛を受け継ぐ。神を受け継ぐと。大愛が皆さんを拒んでいるのではない。皆さんが大愛を拒んでいるのであると。形が本質を知った時、本質が形を知りたもう。ね。形が本質を認めた時、本質である愛は形を通して現れたもう。ということです。これが、子が父を知ったとき、父は子を知りたもうということです。じゃあ、本質があなたを嫌っているんでしょうか?あなたが本質を嫌っているんでしょうか?どっちでしょう?本質が形を認めないの?形が本質を認めてないの?認めなくても現れるんでしょうか?ん?あなたは実在しない形は認めるけれども、存在の本源である愛をなぜ認めないのですか。認めなかったら、現れようがないじゃありませんか。あなたがここに1億持っていて、持っていると認めなければ、有って無いようなもの。ね。認めた瞬間、使えますよ。ね。ブランド品も買えますよ。1億あれば。飲み食いも出来ます。しかし、それを認めなかったら、使いようがないんじゃないでしょうか?だから皆さんには、無限大の愛が宿っている。ね。それを認めるか認めないか。この人間という形が、本質である愛を疑う余地があるんでしょうか?コップがガラスを疑う余地があるんでしょうか?これが何故疑うという意味なんです。皆さんはまだ、神信者ではありません。盲信的ですよ。人間信者ですよ。形信者ですよ。様々な形を信ずるけれども、その本源である本質を信じていない。存在の本源は愛であると。何でしょうか?何あるがゆえに、形があるんでしょうか?形あるがゆえに、本質があるの?本質あるがゆえに、形があるの?初めに形ありき、本質ありき?その形は何によって成れり?じゃあ、人間の本質は何だったんですか?その本質には区切りがない、分割がない。遍満の愛であると。無限大の愛であると。今日からもう人間ではない。何そのもの?人間だもの。大愛だもの。あ?人間に属するもの?大愛に属するもの?コップに属するもの?ガラスに属するもの?吾はコップなりと言った時、このコップは嘘つきですよ。コップは偽我。ガラスは神我となっています。人間は偽我。大愛は神我となっています。何故本当のことを言うのに、こんなに躊躇するの?あなたが大愛であるためには、何か特別のことをする必要があるんですか?今まで形を、盲信狂信してきただけじゃないでしょうか?皆さんは形に属するもの?本質に属するもの?だからイエス・キリストは吾は姿形に属するものにあらずと。吾は愛なりと言ったんですよ。皆さん方は吾は形なりと言っているだけなんですよ。違いは裏と表の関係。形を見るか、本質を見るかだけの違い。皆さんと知花の違いは、たった一つしか違わない。知花はどの側面を見てる?人間の側面を?大愛の側面を?あ?大愛は外なる自己?内なる自己?大愛を見ている時は内観。人間を見ている時は外観ですよ。吾人間なりは外念。吾大愛なりは憶念。正思念となります。愛ですよ皆さん。ね。愛ですよ。人間ですか?ん?人間を見よなの?大愛を見なの?今まで人間という形で目隠しされて、愛という本当の自分を見失ってきたんじゃないでしょうか。じゃあ、今皆さんは、目の治療を受けていませんか?本物が見えるように治療を受けていませんか?ヒーリングを受けていませんか?受けてますね。私はあなたが見えますというのは、愛が見えますということですよ。どんなに肉眼を癒しても、そのものは目盲なんですよ。ね。これを何愛というかというと、盲愛といいます。盲愛ってどう書くんですか?愛が見えるという意味ですか?ん?盲愛って何ですか?愛に対して目盲ですよということなんですよ。じゃあ、人間を見ている人は何愛ですか?ん?盲愛でしょ。愛に対しては目盲なんでしょ。じゃあ、人間とか肉体を見ている人は、目の見える人?目盲人?盲人じゃありませんか?目盲が目盲を導くと。ね。この地球上には、50何億、60億という目盲がいるということです。本当の自分を見て無い。形という偽りで目隠しされて、愛という真実を見ていない。真実のあなたは、血や肉ではない。何そのもの?愛そのものではないでしょうか。吾は?吾は?じゃあ、愛に勝るものがありますか?愛には如何なるものも対立出来ないモノ。愛で克服出来ないモノはない。真実で克服出来ない偽りなんてない。人間という偽我は、大愛という神我には勝てなかった。人間意識は自我意識。大愛意識は神我意識となっております。だから吾は人間なりではなく、吾は?吾は大愛なりですよ。だから、人間だと思っている人、社長であろうが、政治家であろうが何であろうが、何の意味もない。彼らは目が見えるからですか?目盲人であるから。盲信であるからですよ。しかし今皆さん方は、盲目の人生を歩んではならん。盲目の人生というのは、実在しない人間を見たまま一生を終わることであると。実際にあるんですか?実際にあるのは血や肉、姿形ではなく、愛のみが実在しているのではないでしょうか。皆さんは人間でもない。形でもない。個人でもない。何そのもの?ん?何故皆さんは自分のことを人間というの?吾は人間なり?吾は大愛なり?見るべきものは人間なのか?大愛なのか?どの側面を見るべき?現れている人間ですか?現している愛なのか?表か裏か?人間という側面を見て、裏である愛を見ない者は、裏切り者。ユダであるということです。何を裏切っているんですか?キリストを?愛のキリストを裏切ってますね。アンチ・キリストですね。反キリストですね。何が何を裏切っているんでしょうか?造られたモノが、創り主を裏切っていますよ。形が本質を裏切るわけにはいかない。じゃあ、皆さんは何者ですか?裏切り者?人間という側面だけを見て、その背後にある本質という側面を見ない者は、みんな裏切り者ではないでしょうか。ユダではないでしょうか。じゃあ、この世の牧師はキリスト教ですか。反キリストですか?ん?反キリストですよ。アンチ・キリストですよ。キリストを認めないわけですから。愛のキリストを。愛がキリストなんですよ。何のキリスト?愛のキリスト。キリスト神我は大愛なんですよ。だから吾は大愛なりであって、その大愛を認めない信じないということは、キリストを信じないということになります。愛の教えをキリスト教となります。それは神我教です。何故?愛は真我なの?偽我なの?あ?真我到達とは、大愛への、大愛への、到達。吾は大愛なりですよ。しかし皆さん方、吾は人間なりと嘘をつく癖がある。人間という嘘は、大愛という真実には勝てなかった。もう嘘と真実の戦いは始まっている。それは自分との戦い。敵は誰でしょうか?は?この世の嘘は、内なる真実には勝てなかった。仮相は実相には勝てなかった。形の世界を仮相世界と言います。本質の世界は?じゃあ、形を追いまくっているということは?仮相を?あなたの得るべきものは、仮相という形なのか?本質という実相なのか?本質は究極です。究極のパワー。愛のパワー。愛のエネルギーなんです。これが本来の自分なんです。愛に勝るものはない。吾は?人間じゃありませんね。ここで、皆さんに自問自答をしていただきたい。自分は人間なのか?大愛なのか?人間なのか?大愛なのか?時間あるごとに誰に聞くの?誰に質問するの?あ?答えは何でしょうか?吾人間なりなのか?吾は愛なりなのか?ん?答えは宇宙に一つしかない。それは愛だと思う。神性だと思う。何で?愛の他に実在するものはないからであると。誰があなたを造ったんでしょうか?ん?あなたは人間から出てきたの?大愛から出てきたの?大愛によって造られた、大愛の住み処ですよ。だから、形が吾じゃなくて、様々な形をした大愛があるだけであると。形の大きさで大愛が決まるものではない。何で?本質である愛は形の制限を受けるものなのでしょうか?ん?あの人は体が小さいから小さな愛とか、この人は体が大きいから大きな愛とはいえない。砂浜の砂一粒にも、何が宿っていますか?無限大の愛が宿っていますね。形の制限を受けるものではない。何で?内にも外にも在します。その中にだけいるならば、制限を受けます。しかし、愛には内外がないわけですから、遍満しているわけですから、形の制限を受けるものではない。だから愛は無制限であり、無制約であると。無所得であると。無差別であると。だから皆さん方は、もう人間から解放されて、愛そのものとなって旅立たねばなりません。愛の大国です。天国です。だから皆さん方は、もうジハード。聖戦は始まっています。聖なる戦いというのは、真実と偽りの戦い。実相と仮相の戦い。形は仮想世界、本質は実相世界。もう形というものを追いまくるんじゃない。物質を追いまくる時代はもう終わった。ですね。形は幾ら儲けて得ても、形あるモノは過ぎゆくもの。形に永遠の形というものはない。何故?形には寿命がある。本質には?愛という本質は寿命があるんでしょうか?これは不老寿。無老寿。永遠であるということです。久遠なる本質。久遠なる愛なんです。だから、皆さんはもう、形を追いまくることは止めたほうがいいでしょうと。究極というのは、本質的なもの。その本質は、永遠ですから、プラスのエントロピー。形は無常ですから、マイナスのエントロピーとなります。マイナスのエントロピーというのは、形には寿命がございます。本質には、不老寿ですから寿命がない。コップという形には寿命がございます。ガラスには?コップという形は破壊出来ます。ガラスは残る。人間という形はなくなっても、本質は永遠であると。愛不滅の法則。愛というものには生誕がない。何一つ失うものはない。だから得るべき愛というものはない。何故?あなたは、愛そのものであるからですよ。与えるべき愛はあっても、得るべき愛はない。愛は与えるべきものなんです。吾は?吾は?その愛は減りますでしょうか?誰かを愛したら、愛は減るんでしょうか?使った分だけ多くなるのは何でしょうか?愛です。だから愛の出し惜しみをしてはいけない。私ねえ、この人は愛するけど、あの人はどうしても愛しきれないんですとかね。神様はそんな差別の愛なんでしょうか?ん?神様は善人にも悪人にも、何が注がれています?何が?愛が注がれていますね。神の愛は差別出来ますね?無差別ですね。都合の良いものだけ愛することは、盲愛であると。ヤクザの愛であると言うことですよ。都合の悪いもの、良いものことごとく、差別なき愛だと思う。都合が悪くなったから憎むとか、都合がいい時は愛するとか、そんな出鱈目の愛じゃない。その大愛は、善人にも悪人にも平等に注がれていますよ。じゃあ、全ては愛されていませんか?全ては愛されてますね。愛されるものよりは、愛するものとなりなさいと。だから愛されたいんじゃなくて、アイシタイン(笑)となりなさいと(笑)アインシュタインじゃないですよ(笑)アイシタインになりなさいと(笑)愛すべきものなの?愛されたいものになりたいの?皆さんは、愛されたいと思っていますね。愛されたいと言うのは、受動原理です。欲望です。愛するものとなることです。だから、愛されるべきものではなく、愛するものになりなさいと。愛するものは、愛されますよということです。だから皆さん方も、この肉体という形は何の表現体でしょうか。ん?愛の顕現です。ね。大愛は何を通してご自身を表現するのでしょうか?肉体という形を通して、ご自身を表現しているわけです。だから、朝露の一滴にも、無限大の愛が宿っています。私は朝露を見て、あー、朝露とは見ない。朝露の一滴も愛の具現だな。神の愛は朝露の一滴の中にも存在しているんだなと見た時、涙がポロポロとこぼれてくるんですね。なぜかというと、愛と同調するからですよ。それは本物を見たからですよ。愛ですよ。この世の中に愛を宿していないモノは一物もない。愛がなくては物が存在出来ないからであると。だから、皆さんも本当の自分とは何ぞやと。自分は形なのか?それとも本質なのか?本質という愛を見るのか?形という人間を見るのかと?人間とは人間の形をした?形をした大愛なんですよ。じゃあ、人間の本質は何でしょうか?即大愛なんです。コップの本質は即ガラスであるように。このコップがガラスになるのには、如何なる修行もいらない。1円のお金もかからない。時間もかからない。じゃあ、あなたが大愛そのものに成るのに時間がかかるんでしょうか?今からなるの?今即大愛なの?今即?ということは今即天ではありませんか。ん?あはははは!神と波長を合わすためには、今のような不調和では絶対に合わない。何で?神は不調和ではなく、何そのものだからですか?愛というチャンネルがなくてはならない。この世に1人でも嫌な人がいたとすると、その者の愛は神の愛ではない。何故?差別の愛を行っているからであると。神の愛は、都合の良いもの悪いもの、ことごとく愛するものであると。都合の良いものだけ愛したからと言って、それは愛にはならない。神の愛は都合の良いものだけ愛しているの?ことごとく愛してるの?神の愛は全てに注がれています。ということは、ことごとく愛であると。じゃあ、皆さんはなぜ神と波長が合わないのでしょうか?誰かこの世に嫌なものがいるのじゃないでしょうか?もし1人でも嫌なものがいたとすると、その人と調和しなさい。そのとき皆さん方は、神と繋がるものとなるだろうと。神と繋がるということは、大愛と?愛という波動と不調和という波動は、波動が合わない。チャンネルが合わない。類は類を呼びますから。だから、あなたと神とが繋がるためには、この世に1人でも嫌な人がいないか、見定めることです。もしいたら、許しを持って、私はあなたを愛しますと。あなたは私を愛しますと。例え、遠く離れていようとも、そういう意識状態で和解すること。全てのものと和解した時、神は皆さんを通して、現れたもう。だから神からのそれを得るためには、あなた方一人びとりが神のような愛でなくてはならん。神の愛は誰かを差別して愛するものではない。都合のいい時は愛するけれども、都合が悪くなると憎しみに変わるようなものではない。だから、そういうことにならぬように気をつけた方がいいだろうと。だから愛は、非常に単純なようなもので、難しいものであると。簡単に言うようだけれども、それを実行するほど難しいものはない。あなたは自分は人間でもなく、形でもなく、大愛そのものと、イエス・キリストが宣言したように、大愛の宣言がキリストの宣言であります。何で?愛のキリスト。慈悲の仏陀であるからであると。愛というのと慈悲というのは同じことです。それが神性であるからであると。神性というのと仏性というのは同じことであると。愛と慈悲は同じことであると。だから愛の心というのと、慈悲の心は同じ心。憎しみや怒りの心ではない。あなたのハートを常に愛で満たしていなければならない。だからこの世に1人でも嫌なものがいては、神とは波長が合わない。何で?神は愛そのものだからなんです。意味分りますかな?だから、嫌な人がおったら、軽く目をつぶって、その人を許してあげなさい。そして許すと同時に、許して貰っていただきたいと思います。どこかにその本人の前に行って、許してくださいというのではない。私はあなたを許しました。あなたは私を許しました。以心伝心でそれが可能でございます。何で?離れて存在しているものは、ないからであると。常に彼、彼女は、あなたと共にいるからであると。全ての分離感を克服しまして、大いなる一体としての愛の中で皆さん方は目覚めていかなければならない。吾は?それが愛の目覚めということです。吾は愛なりは、覚めた状態。吾人間なりは、眠った状態。白昼、人間とか個人とか肉体という夢を見ている。あなたが人間とか個人とか肉体という夢を見ても、これは実在するものではない。単なる幻にしか過ぎない。実際にあるのは肉体でもない。人間でもない。個人でもない。愛のみが独存しているということです。何故、知花がそういうのか、答えは誰が出すのでしょうか。誰が?人に考えさせることではなく、己が考えるものとなりなさいと。人に答えを求めてはならない。これはどういう意味なんでしょうか?どういうことなんでしょうかと。質問のうまい人がいます。その人は、自分は楽をしておって、金持ちになろうとする狡い心です。人から答えを得て、自分の答えになることは出来ない。本当の答えというのは、人から聞いたモノではなく、己が直知。即ち、直接見いだすことであると。考えだすことであると。考えだす方法を教えましょう。知花から聞くのじゃなくて、自分は人間か大愛か、人間か大愛か、誰に聞くの?誰に?じゃあ、あなたが見いだしたモノは誰のモノなんでしょうか?誰のモノ?他人が見いだしたモノは、あなたのモノとはならない。だから、悟りというものは、振り替えは出来ない。私が悟ったモノは、あなたに与えましょうということはない。だから、どこにも他力本願というものはない。なぜかと言いますと、あなたに人間だと思わせているのは、他人じゃなくて、あなた自身であるからです。じゃあ、誰があなたに大愛と思わすのでしょうか?他人ではなく、己次第ではないでしょうか。誰次第ですか?じゃあ、自己責任を持ってなすべきではないでしょうか。知花が言うから信じようではなく、納得のいかないモノは如何なる知花が言っても信じてはならない。信じたとするならば、あなたは知花を偶像したことになる。偶像からは何も得るものはない。なぜ、知花はそういうのか。あなたは人間ではなく大愛そのものだよと。人間ではない大愛だと。何故知花がそのようなことを言うのか。誰かに聞くの?己に聞くの?ん?誰かに聞く?誰かに聞いたって、あなたの答えにはならない。なぜ知花はそういうのかと、考えて考えて、自分は人間なのか大愛なのか。人間なのか大愛なのか。自らの答えは、自らが見いだしていかなければならん。分りますね。だから如何なる他力もない。そこにあるのは、自力だけであると。だから汝の救いは、汝自身なりと。この偽物人間から、己を開放するのは、他人じゃなくて己自身ではないでしょうか。それは自我からの解放です。自我からの解放。誰が人間という自我から大愛という真実に解放するのでしょうか。それは自己解放ではないでしょうか。だから他力的に質問ありませんかとか、質疑応答の時間を設けるということは、その人は天狗であるということです。ここで聞いている皆さんの為には、ならないということです。ね。為にはならない。なぜかと言いますと、学校に教育費を払って、答えを学生に全部考えさせないで、先生が全部出してあげたとすると、生徒に何の役に立ちます。何の役にも立たない。時間の浪費、金の浪費であると。考えさせて、例えばこういう具合に計算するのだよと、こうなるんですよと言うことを、後はその本人の考えによって成長するのではないでしょうか。皆さんしかり、その通りかと思います。何もかも、私が皆さんを、天国に連れて帰るんだと嘘はつかないこと。返す返さないは、己次第であると。じゃあ、この人間が、大愛に帰るか帰らないかは、誰次第?人間だと思っていては、大愛という天には帰れないんじゃないでしょうか?内なる大愛を、内なる天、内なる神となってます。じゃあ、皆さんはどこから出てきたの?どこに帰るの?大愛から出てきたということを知っている者のみが、大愛という天に帰るのであると。だから皆さん方も、本当の自分とは人間なのか?大愛なのか?繰り返し繰り返し、自問自答する。ここで一つの瞑想を行います。瞑想とは、大愛への一心集中であると。大愛に一心を集中している時、いろいろなものが見えてはならん。大愛のみに一心を集中している時、いろいろなものが見えるならば、それはただの雑念ではないでしょうか。大愛の他には何も見えてはいけない。何も思ってはならないのであります。それをいつの間にか、瞑想中に光が見えた。人の顔が見えた。岸が見えたという、瞑想狂ったグループが一杯あるということです。大愛への一心集中の他に、他に瞑想があってはならん。何故?大愛の他に何かがあるからですか?大愛のみが独存するからです。瞑想とは大愛への一心集中であったと。吾は大愛なりとハッキリ愛の自覚が確立されんことをお祈り申し上げます。吾は愛なり。幾ら人間と嘘が上手くても、あなたの本質が愛である事実は変わらない。それは今即愛だということです。コップがガラスになるのに時間がかからない。ね。コップという形はガラスと離れて存在出来ない。人間という形は、愛という本質から離れて存在しているものではない。人間という形は、愛というものに繋がらなければ不毛であると。だから形自らは無であると。人間自らは無であると。全ては大愛によって成れりということです。吾は?吾は?じゃあ、この人が何と思っているか、すぐ見抜けるんじゃないでしょうか。あなた方の嘘が、知花に見抜けないとでも言うのでしょうか。自分のことを人間だ、個人だと思っている人は、本当のことを言っているの?嘘をついているの?その大愛に嘘がつけますかということですよ。嘘がつける?じゃあ、人間だと言っている一人びとりは、何つきですか?人間は本当のあなた?嘘のあなた?大愛は?大愛は?世界中の人が人間という嘘をつくからと言って、自分まで嘘をつく必要はない。嘘と妥協してはならん。悪と抗してはならん。この世の嘘は愛という真実によって克服されんが為にあるのであると。嘘が真実に勝てるはずがない。この嘘というものと、真実との戦い。じゃあ、この人は嘘つきか、本当のことを言っている人なのか、すぐに見抜けるのじゃないでしょうか。愛という真実に如何なる人間も嘘をつくことは出来ない。これが神には嘘がつけないという意味合いです。本物に嘘が勝てるはずがない。嘘は真実によって克服されんが為にあるのであると。即ち自我は、愛という神我によって、克服されんが為にあると。吾はこの世の無知と、闇と、悪とに打ち勝ったモノであると。愛でもって全てに打ち勝つことをお祈り申し上げます。愛に勝るものはない。真実に勝るものはない。愛という真実に、偽りが勝てるはずがない。即ち、自我が神我に勝てるはずがない。あなたの神我は、愛そのものであるということです。大愛への到達が、神我到達であると。吾は大愛なりという本当のことを示していきたいと思います。愛のキリストです。愛の教えは、キリストの教えです。それはたった一つの愛の教え。これがキリスト教というもの。意味の分らないような聖書を読み返していても、何の役にも立たない。絶対なる答えにはならないからであると。答えは汝の内にありと。それは、自分は人間でもない、個人でもない、形でもない。愛そのものであるという答えを、自らが見いだしていただきたいと思います。とうとう時間になりましたので、今日の勉強会、終わらして頂きますけれども、そういう真理を聞いている時は、あっと時間というものは、過ぎゆくものであります。それは嫌がって無いからなんですね。とうとう1時間半にもなったのかと。一瞬の間に、その時間というものは過ぎゆくものであると。嫌で嫌でたまらない瞬間の時間の長さというのも、体験して頂きたいと思います。どうもありがとうございました。