皆さんこんにちは。えー、今日は一元論とは何か、そして二元論とは何かと。一元論というのは、1つのものしか存在しませんと。二元論というのは、二つのものがあるという意味なんですね。それが一つ目というのと二つ目というと。一つの心というのと、二心というのがあります。じゃ、物は一元論なのか二元論なのかということなんですね。本来は一元論しかないんですよ。一元論しかない。それは何一元化というと、神一元なんですよ。神一元というのは、神の他には何もないという意味なんですね。今、司会のほうから、えー、明言ありましたように、神もあって何かがあるということは、非常におかしいんですよ。おかしい。一つのものしか存在しないのに、二つのものがあると。ということは、人も居て神も居るとか、神も居て人も居るとか、そうなりますと二元論になりますね。となると、二つ目になるわけですよ。二つ目になる。これは例えで申し上げますと、これはコップでもあり、ガラスでもあるわけです。カラスがコップの形をしてるだけなんですね。じゃ、コップとガラスは異なるんだろうか?二つのものが存在してるのかと言いますと、一つしか存在してない。これはガラスですよっと。ね。コップとガラスの二つのものがあるわけじゃないんですよ。で、コップというのは即、ガラスであるし、ガラスは即コップであると。コップとガラスの境目はどこにもないんですね。で、人と神との境目はないんですよ。それがあると言ってるのは分離感っと言って、嘘つきということなんですよ。だから一つ目になるということは、コップとガラスが一つに見えてる人は、一つ目になるんですよ。コップがあってガラスがあるというのは二つ目。こっ、嘘つきと二枚舌といいますけれども。普通は二枚舌で生きるんですね。人もいてね、神もいるんですよと。コップもあってね、ガラスもあるんですよと。こんな馬鹿げた嘘はつかないことです。あるのは実際にあるのはコップじゃなくて、何があるんでしょう?ガラスなんです。私から見れば、これはどう見てもガラスなんですけれども。その形に名前がついて、コップという。その形に溺れてるんですね。で、皆さんの見てるのは人間という形をみて、人間の本質を見てないんですよ。コップという形を見てその本質を見てないのと一緒なんですよ。本質と形は別々には存在出来ないんですね。存在出来ます?コップとガラスは全然、別々には存在出来ない。だから、コップはガラスに繋がらなければ、不毛ですよっと。ここで人間が実在しない理由を申し上げましょう。で、神も居て人も居るという、嘘の嘘つき指導者に騙されないこと。食い物にされないことなんですね。神の他には何もないよという理由をこれから申し上げます。まず、人間の本質から知るべきなんですね。人間は何で出来てるかというと、これを皆さんがた人間と言っていますけれども、或いは肉体とも言っていますね。或いは物体とも言っています。物体とも。しかし、この人間とか物体があるわけじゃないですね。で、この霊という、霊と水とがなければ、いかなる人間も存在しないということなんですよ。これが本質の世界ですから。本質の世界。本質がなくて、どうして形という世界が存在するかということなんですね。人間という形は絶対に本質から離れることは出来ないんですよ。人間とは人間という形をした本質だということですよ。その本質の事を人間というのでしょうか、神というのでしょうか。神という本質なんですね。初めに本質ありき、初めに神ありきなんですよ。この人間という形は、1秒間も本質という神から離れることは出来ないです。丁度、このコップが、1秒間もガラスから離れては存在しない。何があるがゆえに人間があるかということを見ることなんですね。だから存在の本源は神なんですよと。皆さん方、人間という形を見てしまって、その本質である神を見てないだけなんです。コップの側面だけを見て、ガラスを見てないのと一緒なんですね。じゃ、コップもあってガラスもあるんでしょうか?人も実在して、神も実在しているんでしょうかということになります。人と神とは同じものなんです。もし人と神とが別々のものというならば、この人間という形は本質から離れて存在しているということになります。絶対に離れられない。その離れてるというものの見方を、分離感といいますね。分離出来ない。コップとガラスは絶対不可分であるように、人と神とは絶対不可分。ただ問題は、どの側面を見るかだけ。人間という形をみるか、その本質である神を見るかだけなんですよ。皆さんと知花の違いは、一つしか違わない。私は自分の本質を見てるわけです。皆さんは、形という世界で、ものを見てるわけですね。じゃ、形って、実相なんでしょうか、仮相なんでしょうか?形はすべて本質の仮の姿ですから、仮相になるんですよ。仮相という形を見て実相という本質を見てない人が多いんですね。だから、心眼を開くべきであって、人間眼を開くべきじゃないんですね。人間という形を見てしまって、その本質である神を見てないだけなんです。コップを見て、ガラスを見てないのと一緒なんです。だから、形と本質は表裏一体ですから。皆さん方、裏切りものなんですよ。表である形を見て、裏である本質を見てないということですよ。すなわち、中身を見てないと。ただの人間を見てるわけです。人間がなんたるかを見てないということなんですね。だから人間の本質を追求していかなければなりません。その本質そのものが、真理なんですよ。で、形というものは被造物なんですよ。じゃあ、形の数ほど本質があるのかというと、ノーなんですよ。一つの本質が様々な形をしてるだけ。どういう形をしてようと、本質においては、神なんですよ。だから、山の神、海の神、動物の神、人間の神。ことごとく、何でしょうか?その本質という神は、形を取ったらなぜ人間になるかということですよ。なりません。人間の形をした何でしょう?神なんですよ。神が人間の形をしていますので、人間一人びとりは、神の子であり、ね、神そのものだということなんですよ。本質が形を造るのであって、形が形を造るのじゃない。だから、この世の形を何者も親と呼んではならんと。神こそ我々の親。その本質という神は、万物の創り主、万物の親だということです。神がすべてを創って、神がすべてに宿っているなら、すべては何でしょう?じゃ、人になしてることは?全部、神がなしてることなんですね。その憎んでる人の中に、神が実存するからですよ。だから、すべての人間に神が内在してますよということなんです。じゃ神はどこに在します?我が中に在します。神なくしては、如何なる人間も存在出来ないんですね。なんで。存在の本源は人間だから?神だからですよ。神という本質なくして如何なる人間も存在しないということですよ。だから皆さん方は、存在という形を見て、存在の本源である神を見てない。正しくものを見てないということですよ。形の側面だけを見て、本質の側面を見ない人は裏切り者なんです。嘘つきなんですね。人間という形は偽我で、本質という形は神我ですから。じゃ、神なる吾と、人間なる吾と、どちらが吾なんでしょう?初めに人間があったんですか?本質の自分は神で、形の自分は人間なんです。あなた方は人間という形を見てしまって、その本質である神を見てないだけなんです。中身を見てない。だから、内観せよということなんですね。形を見ている時は外を見てる時。ね。形を見れば外、本質を見れば・・・。本質は内的自分で、形は外的自分なんですね。だから吾人間なりは、外念、雑念であると。嘘つきであると。形は偽我で、本質は神我となってますと。今日ここでゆっくり話しますので、自分は人間に属するものなのか、神に属するものなのか?これが人と神との一体感。二体感じゃないんです。人も居て、神も居るわけじゃない。となりますと、神が人を造って、神が人の中に宿っているなら、人は何でしょう?ん?神なんですよ。じゃ、どこに人がいるんでしょう?人という形に名前をつけて人と呼んでいるだけなんです。ね。あなたが形に人という名前をつけていようといまいと、その本質が、何であることですか?神である事実は変わりません。その本質そのものが、真理だからです。じゃ、二元論ですか?人も居てね、神も居るんですよ、二元論になります。人間即神、神即人間ということは、一元論になる。二つのものが存在してるんじゃない。実際にあるのは、一元論なんです。神一元。実際にあるのは人じゃなくて、実際にあるのは神のみとなるんです。だから、神こそ絶対実在と。神は絶対者であると。その絶対である神を見ないで、実際に無い人間を見て、私人間って言ってね、なんて嘘つきなんだろうと。だから私が人間だと言っている一人びとりは、嘘つきということになるんですよ。自分で自分を偽ってると。人間は嘘の吾。神は?真実の吾だからです。真実を見るか、偽りを見るかなんですね。人間は真実ですか?その人間という肉体のことは、偽我って言うんですよ。神のこと、神我というんですね。神我とは神なる我なんですよ。その神なる我は、個人なんでしょうか、無限なんでしょうか?無限なる本質ですから。だから、神は無限者であられ、普遍者であられると。個人はどこにもおりません。ね。なぜかというと、あなたの言っている個人というのは嘘です。この個人というものは、無限の仮の姿。じゃ、個人の本質は何でしょうか。個人も実在して無限も実在するのでしょうか。個人というものは、非実在で、無限というのは?実在。幾らあなたが個人と嘘をついても、あなたの中に無限が宿っているわけですから。無限がすべてを創って、無限がすべてに宿っているならば、すべては何でしょう?即無限なんですよ。ということは神一元。無限一元なんですよ。どこに人間とか、個人的なことがあるかということ。これは嘘つきが言う言葉なんです。だから一つ目になるということは、形があってね、本質があるんだよって二元論。形イコール本質である。本質イコール形であるということは、幾つになります?一元論なんです。これが神一元。これが全体は1つと。神は1つと。いう事が見れるようになりますと、皆さんは1つ目になると。ね。人も居て、神も居るということになると二つ目ということになります。二つ目ということは二心。神我もあってね、自我もあるんですよ。嘘つけって!自我というものは、実在するものではないんです。自我というのは自分で造った自分ですから。それは個人という自分を、人間という自分を実際にはないのに、作り話をしてるだけ。これを雑談と言うんですね。或いは雑念。外念。と言われているもの。吾無限なりは憶念、正思念なんですよ。すべてが無限である理由を申し上げましょう。無限がすべてを創って、無限がすべてに宿っているならば、すべては何でしょう?ん?すべては?じゃ、なぜあんたは個人なの?あえて個人という制約を持つべきなんでしょうか?あなた方、嘘をついているだけなんですよ。個人という嘘。個人という嘘は、実在するものではありません。嘘も実在して真実も実在するものではないんですね。だから、あなた方は自分で自分を偽ってるだけ。何という偽り?個人と言って偽っているんですよ。だから、あなたの見るべきものは現れている個人じゃなくて、それを現している無限じゃないでしょうか。その無限がなくては、個人という世界は存在しないんですよ。で、実際には?だから無限というのは実在我で、個人というのは非実在我ですよと。個人も実在して、無限も実在すると嘘はつかないこと。そうすると二枚舌になります。二つ目になりますよ。じゃ、真理って、二元論でしょうか一元論でしょうか?天もあって地もあるという人がおります。天というのは実際にあるけれども、地というのは実在しないもの。ね。天というのはこの無限の事を皆さん方は天と言っているんですよ。で、個人の事を、地と呼んでいるだけなんですね。天地一体というのは、個人という地と、無限という天の境目はない。ね。ここから無限です、ここから個人ですと。個人から離れて存在している無限という天は存在しない。ね。だから、無限から離れた個人もいないし、個人から離れた無限もいない。天から離れて存在している地はないということです。ただ、どの側面を見るかだけなんです。天というのは、本質の事なんです。地というのは形の事なんです。だから、本質という天と、形という地は一体という事なんです。コップとガラスは一体なんです。コップとガラスの境目はどこにもないんです。人と神との境目はどこにもないんです。天と地の境目は?どこにも存在しない。その内なる本質、内なる天、内なる神となりますと。神に返るということを、どこに返るというの?天に返ると。天という神と地という人は、一体だということですよ。幾ら離れていると嘘をついても、離れられない。ね。その離れてるというのは分離感。二つ目になります。一つだと見る人は、一つ目になるんです。だから一つ目になる為には、現れてる形と現れている本質は、一体だということです。一つだということ。じゃあ、実際にあるのは、形の世界なのか?本質の世界なのか?ん?本質も有って、形もあるんでしょうか?本質のみが独存する。ということは、無限のみが、あなたの知ってるモノが何かと問われた時、無限のみですと答えなければならない。なんで?無限の他には何もないからであると。なんにもないと。じゃ、あとはお喋りじゃないでしょうか。ん?いろいろの事をお喋り。無いもの有るもの。お喋りする人もおりますけれども。お喋りは雑談と言って、何の役にも立たないんですよ。だから、あなたが幾ら二つのものがあると嘘ぶいても、ね。あなたが一つである事実は変わりません。その無限という真理と、個人という被造物との戦い。だから見るべきものは、実際にある無限であって、実在しない個人ではない。だから、個人というものは、非実在我で、無限というのは実在我であると。すなわち、天国とは実在そのものの事なんです。地獄とは非実在ということなんですね。で、あなた方は、個人という地獄を自ら造って、自らを留めているようなもの。ん。幾らあなたが個人という地獄を造っていようと、あなたの中に無限という天国がある事実は変わらない。じゃ、無限は、地獄なんでしょうか?天国なんですよ。天国は汝の内に在りなんですよ。だから、あなた方は、人間という形、本質がなければ、人間という形は絶対存在出来ないのに、存在するんだと錯覚してるんですね。で、形が形は造れませんので、この世の何物も親と呼んではならん。無限という神こそ、我々の親なんです。ということは、すべては神の子ということになる。神という本質がすべてを創って、神という本質がすべてに宿っていると。だから、人間という形は1秒間も本質という神から、離れることは出来ないということなんです。離れて存在してるというのは二枚舌。二元論。一つだということは、形と本質は別々に存在してるのか?ここからが形の世界、ここからが本質の世界って。別々には存在しない。だから、人間という形は、本質という神に繋がらなければ、不毛だということですよ。幾らあなたが人間があるんだと嘘ぶいても、嘘ついても、あるのは何のみなのでしょうか?神のみがあるわけです。神のみしかないということを知ってる人は、神のみぞ知ると。私は神以外には何も知りませんと。なんで?どういう形をしていようとも、本質においては何だからですか?様々な形をした何があるからですか?すべてに神を見て、すべてに神を感じなければならないんですよ。ね。すべてに神が宿ってなければ、神は無限者でありえなくなる。ということは、この世の中に1人でも個人が居たとすると、神は無限ではありえない。ね。じゃ、神はなぜ無限なのかと。全体が、無限だからですよ。もしこの世に1人でも個人が居たとすると、神は完全ではありません。全体性でもなくなります。ね。完全で無限である為には、全体が神でなくてはならない。その無限という神には、時空間がないということですよ。一点の空間でもあるとすると、神は。神には時空間が、ない。その無限という本質には、制限がない。制約がない。無制限。無制約。無碍であり、自在だということです。これが本来の、あなたなんです。本来のあなたは個人でもない。人間でもない。何そのものなんでしょう?吾無限なりなんですね。無限の他には何もない。なぜ?その無限という本質は、形を取ったらなぜ個人になるのかということですよ。形を取っても無限、形をとらなくても無限なんですよ。だから、本質が形を取ったからと言って、小さなものとか個人的なものになるものではない。この人間という小さな物は、無限から離れては存在しないからなんですよ。じゃ、皆さん方は、個人なのか無限なのかと。個人という偽物を見るのか。無限という本当の自分を見るのか。無限なるあなたと、個人なるあなたと、どちらがあなたなんでしょう。はじめに何があったんですか?はじめに?無限ありき。その無限は万物の創り主、万物の親。だから、無限の他に、他に真理があってはならん。それが、無限真理、宇宙真理と言われているもの。だから、あなた方は無限を知らずにして何も知ることは出来ない。ね。あなたの知っているものは何かと問われた時、無限のみですと答えなければならない。なぜ?無限の他には何も?幾らあなたが、人間だ個人だと嘘を言っても、あなたが今の今、無限である事実は変わらない。じゃ、あなた方は何か修行したり、何か特別の事をして無限になるのか?はじめから無限だったのかということです。無限になるのには、何か特別の事をする必要はない。嘘をつくか、本当の事を言うかだけの違いなんですよ。じゃ、私は個人ですということは、本当の事を言ってるの?嘘ついてるの?あ?実際にあるもの?ないもの?実際にあるもの?実際には?じゃ、実際に無い個人相談って、どういうこと?実際にあるのは、個人じゃなくて無限しかないならば、個人相談というものは、ないんじゃないでしょうか?或いは、個人的な闇って、何でしょう?実在するんでしょうか?その無限に悩みがあるはずがない。無限というものにはねえ、始まりがないんですよ。終わりが?無いんです。人間という形には始まりがあり、終わりがあるけれども、その本質には始まりがない。終わりがない。すなわち、無限という本質は、はじめを知らず、終わりを知らず。永遠だということですよ。今、即、久遠という意味なのです。だから、あなたが誰かに病気を治して貰おうと、何を治療して貰おうと、何の役にも立たない。ただ遊びなんです。それも。ね。あなたの知るべきものは、己がなんであるかということを、知ることなのです。じゃ、無限を知らずして、己を知ること可能なんでしょうか?ん?本来のあなたは人間なんでしょうか?無限そのものなんでしょうか?もう皆さんには、遊んでる時間はないと思う。ね。ままごと遊びの時間はもう終わった。ね。愛だ、調和だ、何だという時代はもう終わった。自分が何であるかを知ることなんですよ。だから、悟りとは己を知ることであると。本当の自分を知ることであると。じゃ、本当のあなたは人間だったんですか?無限だったんですか?ん?あなたはあなたの本質は人間なんですか?人間が人間を造るのか。本質である神が、人間を造るのかということですよ。すべてが神の子っていうのは、すべてが本質の子と言うことなんですよ。その本質である神は、万物の創り主、万物の親だということです。本質がすべての形態を造って、本質がすべての形態に宿っている。その本質は有限なんですか?普遍原質なんです。無限なるもの。だから、あなたは、私人間とか、個人とか、雑念にまみれていますけれども、その雑念が概念であり、雑念ですから、それを放棄せねばならない。じゃ、誰があなたを個人にし、誰があなたを人間にしたんでしょうか?それは、あなたが暗示をかけているだけじゃないですか?自己暗示ですよ。人間という催眠術をかけてるんですよ。だから皆さん方は、催眠状態ですよ。個人という催眠術。人間という催眠術。まだ解けてないですね。解けてるか、解けてないかというのは、一番あなたが知っている。もうあなたの中に、人間とか個人という思いが無くなったのかということですよ。自己催眠から覚めねばなりません。それを何という?私は人間だということを、何というかというと、暗示と言ってますね。暗示。これは誰が暗示するの?自己暗示なんですね。私、人間です。個人ですという催眠術かけるわけです。催眠術かけてるということは、寝てるということですよ。ん?吾無限なりは啓示なんです。その無限は天ですから。天啓となるんですよ。じゃ、この個人はどこに揚げることを、天に揚げるというの。個人を無限に上げることを、これを、意識の高揚といいますけれども。個人意識のことを自我意識というし、無限意識のことを真我意識。じゃ、個人意識も実在して、無限意識も実在するんでしょうか?個人はないわけですから。個人意識があるはずがない。だから、個人という思いは、あなたが作ったあなたの制約です。自己限定ですよ。その自己限定を解くのは、己自身なんですよ。幾らあなたが個人と嘘をついても、あなたが今の今、何ですか?無限なんですよ。無限!無限が人間の形をしてるだけ。どういう形をしていようとも、本質に於いては何ですか?即、無限。即、神ということです。こんな教えはここでしか聴けないですね。あとは、ヒーリングをしましょう。何をしましょう。瞑想をしましょう。何が瞑想なのということですよ。瞑想とは無限への、一心?無限の他には何もないんだから。じゃ、あなたは無限を知った時、全てを知ることになりませんか?何で?無限は?全てだからです。在りて在るものだからですよ。この宇宙であなたの知るべきものは1つしかない。それは、無限という真実なんですよ。だから神は、無限者であられ普遍者であられると。無限も有って個人もあるというのは、理屈にかなわない。理にかなわない。無限があるということは、個人が存在しないという意味なんです。ということは、何一元でしょうか?無限一元、神一元なんですよ。じゃ、真理って、何元論ですか?二元論ですか?神を説きながら、真理を説きながら、同時に二枚舌の人がおります。ということは、幾つ目になってるんでしょうか?彼は?二つ目ですよ。二心ですよ。神我も在ってね、自我も在ってねって。そんな馬鹿げた嘘はつくんじゃないっと!あるのは、実際にあるのは、自我じゃなくて、真我のみではないでしょうか。だから、人間一人びとりは、生まれながらにして神仏であると。生まれながらにして、無限であるということですよ。なぜ?無限は万物の創り主、万物の親ですよ。じゃ、あなたの中に個人が内在してるの、無限が内在してるの?ん?その無限が内在してることを、潜在意識となってるんですね。無限意識なんですよ。吾は、無限なりと。その個人という嘘が無くなるか無くならないかは、あなた次第。じゃ、私は個人と言っている人は、本当のことを言ってるの、嘘をついてるの?ん?あなた方は無限に嘘が付けませんよ。あなたは、人間と言っても嘘をついてるし、個人と言っても嘘ですよね。人間も個人も実在していませんよね。実際にあるのは?幾らあなたが人間だ、個人だと言っても、無限である事実は変わりますか?無限が本当のあなたなんだから。なぜ、その無限を疑うんですか?実際に無い人間を疑わないのに。あなた方は長い間、人間という先入観にまみれてきたんですよ。ね。だから、人間という先入観を捨てるのに、躊躇してるようなものなんですよ。幾らあなたが人間だ、個人だと嘘をついても、あなたの本質が無限である事実は変わらない。この個人という人間は、無限から1秒間も離れることは出来ないからなんですよ。無限から離れた個人も存在しないし、個人から離れた無限も存在しない。全知全能の無限は、個人から離れては全知全能でありえなくなる。ん?離れること出来ますでしょうか?どんな全知全能でも、個人から離れては存在しないんですよ。存在出来ない!出来るはずがない。個人から離れて無限が存在してんのは、無限じゃなくなりますから。だから、その無限という真理には区切りがない。分割がない。分断がない。離れたとか、独立してるとか、という嘘はつかないこと。何があるかと。大いなる一体です。全体は1つ。宇宙は1つ。全ては1つということです。それが全一体感。宇宙感なんです。宇宙即我と。我即無限と。その境地に達すること。無限の他には何もないということです。じゃ、あとは何でしょう?お喋りじゃない?あれやこれやとお喋りしますけれども。そのお喋りからは、何も得るものはない。ね。その無限の境地を、皆さん何と言ってるかというと、吾無限なりの境地を・・・。これ何と読みます?無限の、無我の境地。個人の境地?無限の境地?無限の境地。私は無限だという人は、本当のことを言ってます。なぜ?その無限そのものが真我だからですよ。ね。じゃ、個人はどこから出てきて、どこに帰るでしょう?個人は個人より来たれり?無限より来たれり?個人は全て無限から出てきて、個人は無限に帰ることに決まってます。この個人が無限に帰ることを、天に帰ると。内なる無限を、内なる天、内なる神となるからであると。じゃ、天はどこに御座すのでしょうか?天は汝の内にありと。内なる無限こそ、内なる天、内なる神なんです。だから、神の国は汝の内にありと。それは、内なる個人なんですか?内なる無限ですか?じゃ、個人の中に何が潜在してるんでしょうか?無限が潜在してる。それを、潜在意識となってます。だから、人間本来、無限能力と。個人能力というのは無い。個人は実在しませんから。だから、世界中の人が個人と嘘をついてるからと言って、あなたまで同類になって、嘘をつく必要はない。この世の中には、嘘つきしかいないということなんですよ。何という嘘ですか?個人という嘘をついてる。個人は嘘のあなたで、無限は真実のあなたになってる。じゃ、本当の自分は個人なのか、本当の自分は無限なのか?無限を見るべきなの?個人を見るべきなの?個人思考は偽物思考で、無限思考は本物志向になりませんか。目開きな者は無限を見るし、目暗な者は現れてる個人を見るんですよ。形の自分を見て、本質の自分を見てない。如何に愚かであるかということですね。私、個人です。顕座ですか?偶座ですよ。嘘つきですよ。だから無限という神には、あなた方、絶対に嘘がつけない。神に嘘がつけるはずが?じゃあ、嘘が勝つの、真実が勝つの?何が本物で、何が偽物かということを、識別すべきなんですよ。個人は偽物。無限は本物なんですね。その無限という絶対なる真理を知りもしないのに、人に真理を解いて歩いてる人がおります。真理でしょうか?真理は一つですよ。神は一様ですよ。なぜ神は一様なのか?無限が二つあるはずがないからですよ。いつなる無限のことを、いつなる神と呼んでいるんですよ。無限は幾つあります?二つの無限ってありえるんでしょうか?神は一柱と。ね。唯一の無限ですから。唯一神となるんですよ。無限もあって、小さなものもあるとか、個人的なものもあるとか、その無限というものには、大きい小さいがないということなんです。あるのは?あるのは、大きい小さいじゃなくて、無限のみなんですよ。形がどんなに大きかろうと、小さかろうと、そこに存在しているのは何でしょう?無限ですよ。砂浜の砂一粒という形の中にも、無限という本質が宿っている。なぜ?その本質は、形の制限は受けないものだからです。受けないから無限なんですね。受けるなら無限じゃなくなります。だから、無限には制限がない。区切りがない。分割がない。分断がないと。元々あったのは、何のみなんでしょう?無限一元なんです。神のみが独存する。無限のみが独存する。この境地に、あなた方は今の今、今日の今日、達することが出来る。ね。吾は無限なりと。だから、どうのこうのと、非常にあなた方を周囲から誘惑が来るだろうと。その誘惑に負けないように。あなたの知るべきものは、宇宙に一つしかない。それは、全てが神であり、全ては無限であったと。それが神のみぞ知る。無限のみぞ知る。その他にあなたが何か知ってるならば、あなたは、パーか、プーですよ。何も知ってはいけない。あるのは?何一元だから?実際にあるのは?実際にあるのは何でもなく?何ですか?無限のみなんですね。ということは、あなたは無限を知った時、全てを知ることになりませんか?なぜ?無限は全てだからですよ。無限を知らずにして、何ひとつ知ることは出来ないということですよ。だから、神を知る前に己を知りなさいと。己を知った時、神を知るのであると。神を知った時、己を知るのであると。人間が何であるかということを追求していきますと、必ず人間に到達するんですね。何に?神に到達しますよと。ね。無限という神が全てを創って、無限という神が全てに宿っているということですよ。だから、神と無限という神が、特定な場所に居るという嘘つきに騙されないこと。神には、礼拝堂も何もない。無限という神は、全宇宙に遍満しているからなんですよ。だから、個人的な神とか、イスラエルの神とか、アラーの神とか、嘘をつくのは止めたほうがいい。どこどこの神というのは無い。宇宙全体が御神体であり、神そのものだからです。だから、宇宙神なんです。宇宙即我なんですね。大宇宙、無限宇宙だと。それが、宗教家がいろいろな神を説きますね。本当に居るんでしょうか?いない神をこって、これを神話というんですね。神の話ということ。神話は真理ではないわけですよ。そういう神話を並べて、おとぎ話を並べて、人を満足させて、食い物にしているのが宗教じゃないでしょうか?だから宗教ほど恐ろしいものはない。阿片のようなものだということ。宗教家が神を知っているならば、宗教は作らない。作るはずがない。なぜ?全体が神だからです。と言いますと、これが神で、これは神ではないとは、言えないということなんです。ね。これは神でこれは神ではないという識別があるならば、宗教を必要とします。ことごとく、何だから?神だから。これが神よ、あれが神よという、嘘つき宗教家には騙されないこと。形あるもの形なきもの、ことごとく、何でしょう?神なんですよ。人間とは人間の形をした?神なんですね。だから、人に成していることは、全て神に成していることであると。人を罵るということは、神を罵ることであると。1人の影響は全体の影響。なぜ?その1人は、個人だから、全体だから?本質において、あなたは全体性なんですよ。本質においては無限性なんですよ。その本質においてあなたは完全性なんですよ。だから絶対に人間という形を見るべきではない。私は形に属するものと言わないように。吾は、血や肉、姿形、人間に属する者に非ずと。吾は本質なりと。その本質には姿形がない。無形無双の本質が様々な形をしているだけ。その形には寿命があるけれども、本質には寿命がない。人間という形が無くなったからと言って、本質が無くなるということはない。その本質は永遠じゃないですか?例えばです。このコップという形は破壊出来ても、ガラスは残るんですよ。人間という形が全部なくなっても、本質は永遠なんです。久遠常在の本質。何一つ失うものはない。失うものがあるとすれば、偽物のみなんです。しかしその偽者は、失おうとしても初めからないものなんです。あるのは?無限のみなんですね。じゃ本質がなくて、人間という形が存在するんでしょうか?ん?何が御座すがゆえに、形が御座すんですか?人間、一人びとりは全て本質の子であって、形の子じゃない。だからこの世の何者も、人間を何者も親と呼んではならないんですよ。その本質こそ我々の親だからですよ。だから私の本質と皆さんの本質は同じ本質なんです。あなたの物は私の物。私の物はあなたの物。私の中に居る神は、皆さんの中にも居るということですよ。たった一つの本質が、全てを創って、たった一つの本質が全てに宿っているから。全き本質ですよ。全き神ですよ。それは全体だと思う?ね。その無限という本質には、区切りや分離や分断、独立はないんでしょ?だから知花から独立した。えっ!無限なる本質は分割出来ませんので、独立はありえない。離れていったということは、分離感なんですね。本質は離れること出来る?一つの本質をどうして分割するんですか。だから神を、真理を説きながら、同時に分離を説く者は大嘘つきなんですね。神を知らない者が、神のお喋りをしているようなもの。これを、囂しいシンバルとう言うんです。この者は神を知って話してるのか。それとも、仮相の話をしているかぐらいは、理解していかなければならんですよ。その為には、人に騙されない為には、あなた自身があなたを騙しちゃいけないということですよ。ね。と言いますのは、自問自答することは、自分は人間なのか?無限なのか?個人なのか、無限なのか?誰に聞く?ん?誰に?あなたは死ぬまで人間という偽物で目隠しされて、無限という本当の見える自分を見失ったまま、帰ってはなりません。個人というものは、全て無限から出てきて、無限に帰る。無限は全ての原点だからです。無限は宇宙に一つなんですよ。全ては無限という天から出てきて、無限という天に帰らねばなりません。誰が返すんでしょうか?あなたに個人という思いがある限り、人間という思いがある限り、無限という天には帰りませんよということですよ。だから、人間という形に死ぬことは、無限という天に帰らんが為であると。だから、肉に生きるは死なのです。人間に生きるは死んでるんです!生きてるのは人間ではなくて、無限のみが生きているからなんです。人間、一人びとりは、無限によって創られた無限の住み処だからです。生ける無限の宮であると。神の宮であると。神のみが生き、神のみが働くと。人間という形は、神によって創られた神の、生ける神の宮なんです。だから、あなたはもう今日から、全てに神を見て、全てに神を感じなければならない。っとなりますと、人様の悪口を言うはずがない。人の悪口を言っているということは、誰の悪口を言ってるの?神の悪口を言うことになるんですね。その一人びとりがなんだからですか?神だからですよ。人を憎むということは、神を憎むことになる。1人を憎むことは、全体を憎むことなんですよ。なぜ?その1人に何が居るからですか?全体が居るからなんですよ。全我なる本質が全てに宿ってますから。だから、1人の影響は、1人の影響は、全体の影響。私は、あの人だけの悪口を言っていると。あの人だけというのは無いんですから。その1人は全体ですから。だから、全我なる心なんですね。例えを申し上げますと、この木の葉が、この木の葉を憎んだとする。2人だけの問題なんでしょうか?全体に繋がっているわけですから。だから、夫婦だけの喧嘩だと思ったら大間違いですよ。宇宙の戦争ですよ。ね。無限ですよ。2人だけの問題というのは、ありえない。だから1人の影響は、全体の影響ということですね。じゃ、この木の葉が傷ついた時、木の葉だけが傷ついたの?全体が傷ついたの?全体が傷つくことになりますよ。1人の影響は。その一人びとりが、全体であるからですよ。本質においては、皆さんは全体性なんですよ。だから、個人的な話はしないように。部分的な話をしないように。全体を見つめましょうと。それは無限という全体ですよ。ね。だから、視野を狭くしないように。現れている個人という形だけを見て、その宇宙という、全体という宇宙を、見失ってはならない。宇宙感じゃありませんか?全体感じゃありませんか。それが視野の拡大なんです。視野の広い人は、無限を見ます。視野の狭い人は、現れている個人を見る。個人というは現れているものは、無限の現れなんですよ。確かに無限の一部です。で、一部は全体なんです。全体は一部なんです。この木の葉が、全体に繋がらなければ不毛であるように。あなた方一人びとりも、無限に繋がらなければ不毛だということですよ。不毛だということ。じゃ、今日もうここで、個人というものはないっと言うことが言えますね。あるのは?無限のみだということ。例えばです。この木の葉が、私、木の葉ですと言っても、全体である木である事実は変わらない。嘘ついているだけ。木の葉と木とは、何が違うんですか?木の葉と木は、別々には存在しない。木の葉は即、木であり、木は即、木の葉なんです。あなたは即、個人であり、個人は即、無限であるということですよ。個人は何に繋がらなければ不毛なの?無限という本質に繋がらなければ、不毛なんですよ。現に今の今、皆さん方は無限の中に居るということです。で、無限は?皆さんの中に居るということ。なぜ?無限の外なんて、ないからですよ。これは神の中の神と。無限の中の無限。そうなりますと、そこにあるのは無限のみではないでしょうか。これが何次元ですか。二元論?一元論?神一元と。無限一元と。神の他に無限の他には何にもない。だから、あれやこれやと周囲を混乱させる人がいます。あの人が何と言っている。この人は何と言っている。言わしておけって!それは、神我から言われているからですか?あ?無限という神我が誰かを嫉妬するというということは、絶対にありえない。無限という神我が、誰かの悪口を言うということはない。なぜ?全体だからですよ。自我、個我。自分が分離感を持った者が、人の悪口を言うのであると。それをまともに受けて、聞いたんじゃ、たまったもんじゃない。ね。だからベラベラ何と喋ろうと、そういう誘惑に負けないこと。あなたが、絶対なる無限を自覚しているならば、実際に無い個人の影響を受けるはずが?じゃ、あなたは無限に、絶対なる無限という原点にたどり着いたならば、子と成れりじゃありませんか?そこは地獄なんでしょうか?極楽ですよ。ね。永遠の園ですよ。天国ですよ。無限は天国ですよ。あなた方は勝手に個人という地獄を造っているだけなんですよ。個人に生きるは地獄なんですよ。すなわち自我は地獄で、真我は天国となりますと。また、地獄も実在して、天国も実在すると言っちゃ駄目ですよ。実際にあるのは、天国のみなんです。その地獄というものは、個人という地獄は、実際にあるもの?ないもの?実際にはないです。あるのは?天国というものは、実在のことを意味しているわけです。ね。天国に帰るとは、実在に、非実在の吾が、実在の吾に帰る。個人も人間も実在するものではない。実際にあるのは、無限のみであった。ね。今までさんざん、嘘をついたことを悔いて、そして無限に改める。誰がですか?悔い改めですよ。じゃ、あなたは人間だ、個人だと言っている時、本当のことを言ってるの?嘘をついてるの?ん?嘘つき!嘘をつくのも程々にせねばなりません。汝、嘘つくなかれです。あなたを個人にしたのは、あなた自身です。それを自己限定というですよ。或いは、自縛というんですよ。その個人からの解放を、地獄からの解放と。無限が個人に落ちることを、地獄に落ちるというんですね。で、個人に生きるは地獄ですよ。無限に生きるは?じゃ、誰がこの個人を、無限に上げるんでしょうか?誰がですか?個人が無限に帰ることを、昇天、成仏というんですよ。帰れないことを?あなたは自分のことを個人だと思っていて、成仏出来るというのですか?絶対出来ませんよ、不成仏ですから。だから、誰でも皆さんを無限という天には帰しませんよと。あなたというものが、無限という本質の世界に帰るのには、1円のお金もいらない。如何なるお経もいらない。如何なる宗教もいらない。帰る、帰らないは?じゃあ、天国というものは、天国という場所があるのじゃなくて、意識状態じゃありませんか?ん?汝、汝意識しているところに居るのであると。自分が無限だと思っていて、個人社会に居ることは出来ない。個人だと思っていて、無限に居ることは出来ない。だから、あなたは自分のことを個人だと思っている時、無限になれるはずがない。誰が上げないんですか?誰が?個人は無限に上げることを、昇天、成仏と言うんですよ。吾は無限より語るということは、天より語るということですよ。それを、天啓と言われているもの。ね。その無限は神我ですから、神我より語れと。個人は自我意識ですから、自我より語れと。ね。すなわち、自我は地獄で神我は天国となってますと。だから、個人意識のことを真我意識というの?自我意識というの?自我意識、無限意識のことを。じゃ、吾は?じゃ、神我到達とは?吾?吾?誰が神我に、天に到達させるの?その無限という神我に到達した時、事は慣れりですよ。人生の旅は終わった。迷妄の旅は終わったということですよ。なぜ?久遠のホームに、ホームインしたから。無限に原点にたどり着いたからですよ。なぜ?全ての形態は無限から出てきて、全ての形態は無限に帰ることに定まっているんですよ。それが世の定めなんですよ。だから人生の目的というのは、個人という自我は、無限という神我によって克服せねばなりません。じゃあ、克服したか、してないかは誰が知っている?あなたに個人という思いがあるならば、これは、神我でしょうか、自我でしょうか?個人という自我が、個人という自我を克服するのではない。なぜ?克服すべき自我はないからなんですよ。無限という本物が現れれば、自ずから個人という自我は残る?じゃ、個人を無くする為には何を持ってくるの?無限も実在して個人も実在するわけにいきませんので、無限が現れれば、自ずから個人という自我、偽者は消えるのであります。じゃあ、偽物自我を無くする為には?自我で自我はなくせるんでしょうか?皆さん方、自我を無くしなさいと言ったら、自我で自我を無くそうとしている。個人を個人、偽物が偽物を無くすることはない。偽物を無くする為には、無限という本物を持ってこなくちゃならない。ね。えー、無限という本物が勝つのか、個人という偽物が勝つのかということですよ。正義は勝つ。悪は滅びる。個人という形は滅び行くもの。無限という本質は永遠なるもの。いつか勝たねばなりません。勝った暁には、あなたは勝利者になりますと。吾は、この世の無知と悪と闇に打ち勝った者であると。自分は人間でもない個人でもない。この自我人間の言葉や態度に、振り回されることはない。振り回されます?ん?あの人がこう言ったからこれをやめましょう。あの人がこう言ったからこれをしましょうとか。言う問題じゃない!我々は自我の支配下になるべきではないということですよ。その人は神我から言っているのか、自我から言っているのかということですよ。全部、自我なんです。自我が克服されてないからなんですね。それは個人本位なんですよ。個人的なものの見方をしているだけなんですよ。無限が人の悪口を言ったり、ああしちゃいけない、こうしちゃいけないという規制はない。自由だと思う。じゃあ、あなたはこの無限という真理を、あなたの全ての一切の迷妄から、解放しませんか?真理は汝を自由ならしめん。無限は汝を自由ならしめん。あなた方は、その無限という真理は、全ての迷妄からあなたを開放しますよ。人間という迷妄。個人という迷妄。肉体という迷妄。物体という迷妄からあなたを開放するだろうと。なぜ?無限は唯一の救い主だからですよ。無限を通さずして、何者も天国には入らずですよ。なぜ?無限そのものが地獄だから?何だから?じゃ、その無限という天国はどこにあるの?手よりも足よりも近しじゃありませんか。じゃ、牧師や坊主が天国に返せますか。その牧師や坊主も天国には帰らない。だから、未だかって牧師や坊主が天国に帰った坊主はいない。牧師もいない。天国を知らぬが故なんです。天国は汝の内にありと。それは即、無限。だから神の国は汝の?ここは御国なんです。神の国は霊と水の国。霊と水は汝の内にありと。それは有限なんでしょうか?無限大でしょうか?だから神は無限者であられ、普遍者であられると。これを繰り返し繰り返し、己に聞くべきなんですね。己に自問自答するべきなんですよ。あなた方の人生の目的は何だと思いますか?金儲けだと思うんですか?悟ることなのか?悟りとは、本当の自分を知ることなんですね。本当の自分とは血や肉、人間ではなくて、なんだったんですか?無限そのもの神そのものなんですよ。神そのもの。形という仮相、人間、或いは個人という偽りに、いつまでも目隠しされて、無限という本当の自分を見失ってはならんと。本来の自分は、無限ですよ。なぜ?全てはどこから出てきたから?無限から出てきたということを知っている者のみが、無限という天に帰るのであると。天から生まれし者は、天に帰る。肉から生まれし者は肉に帰る。人から出てきたんだと思っている人は、再び人に帰るだろうと。これを輪廻転生、転生輪廻なんです。だから、あなた方は再び生まれてはならんということなんですよ。だからイエス・キリストは輪廻を頭越しで否定した!していいんですか?その無限という真理に輪廻があるんですか?悟った人が輪廻をあります?無限は輪廻します?無限には始まりがないし終わりがないし、聖典がないんですよ。無限は過去を知りません。未来を知りません。何を知ってるかと。永遠しか無いんです。だから、過去世の話なんてとんでもない話なんですよ。無限に過去があるんですか?過去の無限とか未来の無限というのがあるんでしょうか?無限という真理は過去を知りません。未来を知りません。永遠しか知らないということですよ。それが過去の話、過去世においてはとか、そういう出鱈目の嘘っぱちに騙されないこと。有頂天にならないことですよ。本質には始まりがないし終わりがない。無限が、どこで始まってどこで終わる無限なんてない。だから皆さん方には、形あるものには初めがあり、終わりがあります。それは本物なんでしょうか?全て偽物なんですね。だから、偽者の話に迷わされないこと。この人はどこから語られてるのか、ということをよく知るべきなんですよ。無限からなのか、自我からなのか。その内容は、いとも簡単に識別出来ます。内容が個人的であるならば、自我的であるし、無限的であるならば、真我的であると。無限からの言葉は、全体は一つですから、全体になりますよ。なぜ?神我は個人ですか、全体性ですか?全我なるものですから。だから、内容が個人的か普遍的か。その指導者が自我の指導者なのか、本物の指導者なのか?内容が個人的であるならば、その指導者は偽りの目暗の偽りの指導者であるということです。本物を見ていない。全体が一つという、一元論をしてない。一元論を知らない者は、二元論でモノを説こうとします。二元論では真理は説けないということです。説けます?説けるの、説けないの?形と本質はどう違うんですか?形と本質が違うならば、二元論になりますけれども、形と音質が異なるわけにはいかない。コップもあってガラスもあるという二枚舌にならぬように気を付けたらいいでしょう。コップは即カラスであるし、ガラスはコップなんです。人間即神、神即人間。個人は即無限であり、無限は即を個人であると。個人と無限は別々には存在しない。全ては無限の中に存在して、無限は全てに存在しているならば、そこにあるのは無限のみだということです。今日ここで、無限になってください。じゃ、言います。あなたは、今から何かをして無限になるの?初めから無限だったの?ただ嘘をついていただけじゃないの。個人と嘘をついていただけじゃないの。じゃ、この人は、嘘つきかということを、見抜けるんじゃないでしょうか。ん。無限という神には、嘘がつける?嘘が?じゃあなたは、人の嘘が見抜けないんですか?見抜けるんですか?あなたは絶対に知花に嘘をつくことは出来ないんです。個人的な話をする人は、みんな嘘の話なんですよ。個人は嘘だからです。無限は真実だからです。内容が個人的か、全体的か。神は個人的ですか?全体者ですか?全我なるものなんです。大いなる一体なんですよ。その無限という真理が、全ての迷妄を打ち消すのであると。個人という迷妄、人間という迷妄は、無限が現れれば自ずから消えゆくものであると。ここで皆さんに一つ、瞑想をしていただく!何への瞑想でしょうか?無限への一心集中!無限に一心を集中している時、いろいろなものが見えてはならない。無限は1つしかないからですよ。二つは無限はありませんので。無限に一心を集中していて、あれが見えたこれが見えたと言わないように。無限を見てないから、あれが見えたこれが見えたというのであって、未だかって無限を見た者はいない。なぜ?見えるものだから?見えないモノだからですよ。見えない無限が、様々な見えるものを現しているだけなんです。無限には形がないので見えるはずがない。無限は無形にして無双であると。形をとれば、即、仮相であると。形の世界は仮相の世界で、本質の世界は実相世界であると。だから、誰かを皆さんを悟らすことは出来ない。他力的に誰かがあなたを悟らすという人がおったら、この人は用心せねばなりません。あなたを個人にするか無限にするかは、他人次第なんですか?己なんですか?お金を払ったらあなたを悟らしてあげる人がおったら用心せねばなりませんよ。お金を払ったら、あなた個人と思えるか、無限と思いに変化するんでしょうか?しません!詐欺師に引っかかっただけなんですよ。ね。タダなら、まあ、やって貰った価値あるけれども、お金まで払って、この幾ら払ったら悟らしてあげるとか。一瞬にして悟らすことが出来るんだとか。嘘、嘘、嘘。悟らすこと出来ます?ここで話を聞いていてさえも悟れないのに、お金払ったらなぜ悟るんですか?そんな出鱈目な嘘に引っかからないこと。他力本願というのは存在しません。神は、自らを助くる者を助く。汝の救いは?じゃあ誰が、あなたを個人と思わすの?誰が無限だと思わすの?そのお金を貰った人がですか?あなたの思いをお金で変えることは出来ない。あなた以外には。個人と思えば自我。無限と思えば真我だけなんです。思っている通りの者。それ以上の者でも以下の者でもないということです。想念は実現の母なんですよ。じゃ、あなたに誰が個人と思わせてるの?誰が無限だと思わすの?あなたは個人という側面と、無限という側面。しかし、境目はない。ただ、今まで個人という現れている側面を見て、無限という現している側面を見てなかっただけじゃありませんか。じゃ、個人の背後には何があるんでしょう?無限が実存していませんか。だから、初めに個人ありきじゃなくて、初めに無限ありきなんですよ。その無限が、様々な形をしてるだけ。どういう形をしていようとも、本質においては即、無限であり、即、神だということです。となりますと、何一元でしょう?無限一元、神一元じゃありませんか?じゃその他に、あなたは何も知るべきものは?あなたの知っているモノは何かと言ったら、神のみですと!神のみぞ知るということなんです。神の他には何もないからなんです。どういう形をしていようと、本質においては、神だからですよ。神が様々な形をしているだけ。で、形の数ほど神がいるわけじゃない。一つの本質が様々な形をしている訳ですから。それは無限なるが、形を取っているだけじゃありませんか?じゃあ、人間一人びとりは何の化身ですか?神の化身。インドのサイババだけが神の化身と嘘をつかないこと。だから、サイババもハッキリと言ってるわけですよ。あなた方と私の違いは1つしか違わないと。あなた方は人間だと思っているし、私は神だと思っているだけの違い。思い違いも程々にしなさいと。あなた方は偽物人間を見ているし、サイババは本物である神を見ていた。人間一人びとりの本質が神であるということを、心眼が天眼が開かれているだけなんです。じゃ、無限を見ている人と個人を見ている人と、どちらが正しくものを見てます?無限は偽物?ん?無限思考は本物!思考で、個人思考は?個人という偽物で目隠しされて、無限という本当の自分を見失ってはならんということですよ。あなたの見るべきものは、現れている個人じゃなくて、それを現している、背後にある無限だということですよ。だから、無限という本当の自分を見るのか、偽りの個人という人間を見るのかということですよ。偽物個人を見た瞬間、あなたは偽物を見てます。無限を見た瞬間、本物なんです。視野を拡大しましょう。人間を見ている人は偽物を見ています。無限を見ている人は?あ?人間という形を見て、その本質を見てないということ。だから、あなた方の見ているのはただの人間。ただの人間を見るんですか?人間は何たるかを見るんでしょうか?ただの人間を見るべきじゃありませんね。人間の本質を見なくちゃなりませんね。人間の本質は人間だったんですか?無限だったんですか?なんだった?無限なる本質ですから。だから、自分のことを人間だ、個人だと見ている人は、ただの目暗じゃありませんか?目暗な者は実在しない人間を見るし、目開きの者は実在という無限を見るはずですよ。じゃ、心眼を開くべきなの?肉眼を開くべきなの?あ?この肉体という偽物を、私と言わないように。内なる神をぜひ、私と心眼に目覚めていただきたい。真我到達とは神への到達です。あなたは、人間という自我は、神という神我には勝てない。人間という偽物と神という本物との戦い。すなわち人と神との戦いです。人間意識は自我意識で、神意識は神我意識となってます。じゃ、あなたは人間と思った瞬間、神我なんですか自我なんですか?あ?人間意識は?自我意識で、神意識は?あ?あなたからはまだ自我が無くなってないということは、人間という思いが無くなってない。自我の強い人というのは、人間という思いの強い人なんですよ。人間と思っていては、人間以上の者にはなれないということです。汝の見る者受け継がんだからです。人間という偽物を見ておって、無限という神を受け継いだものは1人もいない。無限を受け継ぐ為には、無限を凝視せねばならない。無限への一心集中は不可欠であるということです。だから瞑想とは、無限への瞑想なんです。あなたの見るべきものは、現れている様々な形じゃなくて、それを現しているいつなる無限だということですよ。じゃ、神は何名おります?ん?無限は幾つあります?一つあるから無限なんですよ。その無限というのは、分割出来ないから無限なんですよ。分割出来ないから、完全なんです。あなた方は本質においては、無限であり、本質においては全体であるということですよ。それが全我なる心なんです。今日から人間とか個人とか言う観念、概念、雑念を捨てたらどうですか?捨てられない?その為には無限を持って来るしかない。自問自答しましょう。自分は個人なのか無限なのか?個人なのか無限なのか?誰に聞くと思う?ん?答えはどこにあると思う?無限という答えは汝に、内にあるんですよ。それが無限真理ですから。無限は万物の、創り主、万物の親なんです。無限が万象万物を造って、無限が万象万物に宿っているだけなんです。どういう形をしていようと、本質においては即無限なんです。じゃあ、砂浜の砂一粒には、何が宿ってます?無限が宿ってますね。その無限という本質は、形の制限制約は受けない。いと大いなるモノ、いと小さきモノにも、無限という本質は宿っている。形は大きい小さいは一切関係ない。形の制限は受けるものではないからなんです。だから本質は無制限であり、無制約であると。無碍であり自在だということです。あなたは無限以外には何も知ってはならない。何も無いからなんです。あるのは?何一元ですか?無限一元、神?その時、あなた幾つ目になります?全てに無限を観、全てに無限を感じた時、一つ目になります。心は幾つになります?一つになります。それは無限という心。寛大な心なんですよ。小さな心とか、人間的な心というものが無くなります。だから、皆さん方は、あなた方に何か文句を言ったりクレームを付けたりする人は、真我から言ってるの自我から言ってるの?それ本物なの偽物なの?ん?偽者の言いなりになるんですか?真我が自我のいうこと聞くんでしょうか?自我は神我で克服せねばならないものなんですよ。自我の支配下に受けてはならない。ここでもう一つ注意したいことは、この個人という偽物を無限に、無限という天に向けたとき、偽物である個人の影響を受けますでしょうか?あ?無限である真我は、自我の影響を受けるもの受けないもの?受ける?受けませんよ。だから私はこの世の手の届かないところに留め置いたのであると。この個人とか人間を、無限という天に留め置いた時、その仮相というものがあなたの影響を及ぼすことはない。そこにあるのは何だと思います?平安ですよ。その無限という本質には、生老病死という四苦は全くない。無限は病むことでもない。死ぬことでもない。生まれることでもない。永遠に生き通しだということ。その無限の世界には何一つ失うものはない。無限に失うものがありますか?何を失うまいと心配してるんですか?偽者人間を失っても、無限という本質は永遠ではありませんか。何一つ失うものはない。しかし皆さん方。形が無くなること、本質が無くなると、錯覚です。それは大いなる錯覚ですよ。違いますか?人間という形が無くなったら、霊と水が無くなりますか?なくならないんですよ。久遠ですから。だから、皆さん方もう本当に一元論と二元論、一つ目と二つ目、一心と二心。人の心もあって神の心もあると。疑心もあって本心もあると。言わないように気を付けてください。疑心ってどこにあるんでしょう?あ?本心があるのみですね。その本心は?個人の心?無限大じゃありませんか。全てを包容する心だと思う。だからこれは寛大な心と言われているモノ。それは寛大な魂。すなわち寛大な意識と言われているモノ。普遍意識です。今日、皆さん方は非常に得をしましたね。何が本物で何が偽物かということを、自分で分らなかったのに、答えが出されてしまっているわけですから。だから、その識別をしたら良いと思います。今日、家に返りましたならば、自分は個人なのか?無限なのか?無限という本質がなければ、人間と個人という形は存在出来ないのだと。そのことを、繰り返し繰り返し。この状態を皆さん方は、人間の曼荼羅と受け止めてください。ね。人間の曼荼羅だと。本質と形。人と神。一体感。人間という形は、神という本質との境目はない。これが人と神との一体感。じゃ皆さん方は、人に属するものなのか、神に属するものなのか?人を見るべきなのか、神を見るべきなのか?人間という側面を見て、神という本質を見ていない人は、裏切り者なんです。何を裏切ってる?神を裏切ってる。自分は人間だと信じている人は、神を信仰することは出来ない。ね。人間という形も信仰して、神という本質を信仰することは出来ない。だから、牧師も坊主も宗教家たちはみんな無心論者なんです。無心論者。神は信じていません。形という仮相を信仰してしまっているわけです。人間という形を信仰して、その本質である神を信仰していない。だから、牧師や坊主に神を信じている人は1人もいない。自分は神を信じないのに、人に神を信じよとは、なんたることかということです。己が信じなさいと。じゃあ、今まで皆さん方は人間信者だったの?神信者だったの?あなた方には人間という側面と神という側面がありますよ。どの側面を信ずるべきですか?どの側面を見るべきですか?あなたは人間という形の側面を見て、その本質なる神を見ていないわけです。じゃ、本質的なものを見るの?形的なものを見るの?何あるがゆえに形があるんですか?それは、いつなる本質だと思う。本質が人間の形をしているだけ。本質が形を取ったら人間にはなりません。人間の形を取った神なんですよ。ね。じゃあ、人間ってどこから持ってきたかということですよ。作り話なんですよ。人間という。周囲はみんな人間だと思っているから、自分も人間だと思い込んでいるだけなんですよ。人間て実在していません。実際にあるのは神のみなんですよ。神のみが独存すると。このことを肝に銘じていただきたいと思いますね。吾!吾?神なりと。だから皆さん方は、お釈迦様はこう言いました。外を見よっと言った?外を見れば形、内を見れば?内なる本質と外なる形は表裏一体なんですよ。ね。形の世界を外界と呼んでおりますし、本質の世界を?本質は内的自分で、形は外的自分なんですね。吾は形なり、吾は人間なりは、外念なんです。吾本質なりは、憶念、正思念なんですよ。じゃあ、本質を見ている時は内観で、形を見ている時は、外観。形という外の世界を見るの?本質の世界を見るのということですよ。どちらが正しくものを見ていますか?形の世界は仮相の世界で、本質の世界は実相世界ですから。実相において、あなたは形ではない。実相には形がないんです。ね。無形にして無双の本質が、様々な形をしているだけ。だから、形もあって本質もあると言わないように。形と本質は異なるもの同じもの?あ?形イコール本質。本質イコール形なんです。コップは即ガラスであるし、ガラスは即コップ。コップとガラスが別々にしているのは、二つ存在していなければならない。一つのモノしか存在してない。ね。だから二枚舌にならないように。二元論にならぬように気を付けていただきたいと思います。じゃ、言います。あなたは無限を知らずにして、何か知ることが可能なんですか?ん?無限を知らずにして、何か知ること可能なんですか?何で?無限の他に何もないからですよ。その無限を知った時、あなたは何を知ることになるの?全てですよ。だから、世界中の形をあなたが知ってようと、何も知ったことにはならない。何も重要ではないんですよ。あなたの知るべきものは、様々な形じゃなくて、それを現しているいつなる無限じゃないですか。どうですか?様々な現れているモノを知るべきなのか、それを現しているいつなる無限を知るべきなのかということですよ。いつなる真理でしょ。そうですね。だから様々な形の話をしないように。その仮相の話に、そのまみれてはならないと。仮相の世界にまみれて、仮相の話しか出来ない。仮相しか集めることの出来ない愚かなものと同類になってはいかんということなんですよ。あなたはこの世に、形という仮相を集めに来たのじゃない。永遠に失わない本質を集めに来たと思う。その本質的な富は、久遠の富で、形の富は一時的なもの。過ぎゆくものなんです。形には寿命があるけれども、本質には寿命がない。その本質的なものは永遠であり、無限じゃないでしょうか。久遠の富、無限大の富、その無限大の富は、永遠に失うことはないだろうと。だからこの世の物に満ちたりし者は災いであると。この世の物に貧しき者は幸いであると。もう形集めで、仮相を集めて、一生懸命汗水を流している者は、ラクダが針の穴を通るが如しなんです。ね。その者は天国を見ることはないだろうと。形という仮相を欲しているからなんです。子供が石を欲しがるのに、パンを与えましょうかと。パンを欲しがるのに、石を与えましょうかと言うことです。本質的なものを欲しがるのに、仮相が与えられるかと。仮相を欲しがるのに、本質が与えられるかと。皆さん方も、何を欲しているかということです。本質的なものなのか、形的なものなのかと。あなた方はこの世の姿形という仮相を集めに来たのじゃない。だから、形という仮相に満ちたりし者は災いであると。貧しき者は幸いなりと。あなた方は形に価値感を置くのか。それとも、本質に価値感を置くのかということです。どこに価値感を置きます?形に価値感を置いている者は、形集めの為に生涯を汗水を流して終わっちゃいますよ。その形には終わりが来ますね。集めた形よりも、集めた形が早く無くなるかもしれません。それは墓場まで持ち帰れませんということです。形を墓場に持ち帰った者は一人もいない。持ち帰れるのはせいぜい本質のみなんです。その本質は永遠ですから、何一つ失うものはない。これを久遠の富と言われるもの。永遠の富と言われているもの。だから形を見て、形の世界から物事を語ったり話したりする人に、騙されてはならない。それは実在しないからなんです。ね。仮相の話しか出来ない。仮相しか知らない人間は、仮相の話しか出来ないということですよ。あなたの知るべきものは実相です。それは本質的なものなんです。これを徹底して追求していきたいと思いますね。本質の追求が真理の追求です。ここに説明する道を案内する者がいるうちに、歩まねばなりません。光があるうちに歩めというのは、その意味なんです。えー、まあそういう意味におきまして、今日のこの横浜の勉強会。皆さん、多く集まっていただきまして、ありがとうございます。ぜひ、私達は本来の吾に、天国に帰りましょう。だから、誰も人間という形を本質という天にあげることは出来ません。あなた以外には。だから汝の救いは、汝自身なりと。その個人を無限に上げることをどこに上げるというの?天に上げると。ね。あなたは個人と思った瞬間、無限が地に落ちることになります。その個人意識を無限意識に上げることを天に上げると。意識の高揚。昇天。成仏と言われているもの。だから誰でも、あなたを成仏させることは出来ません。あなた以外には。だから汝の救いは、どこにも他力がないということなんですよ。この個人を無限という原点に返すか返さないかは、あなた次第。この個人という肉体という形態を、私のモノと言っている人は、盗人であるということです。盗みの罪を犯している。この肉体という形はあなたが作ったのじゃなくて、神が造りたもうたので、神に捧げなければならない。神のモノは?神に上げなければなりません。それが神への全託。誰が作ったんですかこれ?誰が?じゃこれ、誰のモノ?神のモノは?神に返せということですよ。これを勝手に私のモノは私のモノと盗みの罪を犯していただけ。この肉体形態は、あなたのモノではありません。全ては神のモノなんです。神のモノは神に返しましょうと。神に全託しましょうと。ね。で、全託したとき、神に委ねたとき、その内なる神は皆さんを通して顕現したまう。無限なるものは小我を通して現れたもう。その人間という形は、本質の表現媒体であるからであると。すなわち、神の表現媒体。だから、人間本来、無限能力と。無限が小我を造って、無限が小我の中に宿りたもうからであると。そのことが理解出来ました時、自分の中に無限大の神が顕現されます。それを神我顕現と。すなわち、知恵と力とが顕現されると。その為には、この肉体を私のモノと言わないように。ね。神が肉を造りたもうて、肉の中に宿りたもう。この肉は自分のモノではなく、神のモノであったと。一旦神に捧げた暁には、払い下げて貰えばいい。その時神のモノは私のモノ。私のモノは神のモノと言えるようになるだろうと。もう嘘つきでも盗人でもありません。この肉体を自分だと思っている人は、自分のモノだと思っている人は、嘘つきであると。嘘の罪と盗みの罪を犯している。汝嘘つくなかれ。汝盗むなかれ。幾らあなたがこの肉体私のモノと言っても、神のモノである事実は変わらない。神のモノはどこに返す?神に返さねばなりません。意味分りますでしょうか?もう返しましたか?返さないのか?いつまでも盗みの罪を犯すのか?犯さないのか?皆さんが自由意志です。一生涯、盗みの罪を背負って生きても構いません。幾らあなたのモノと言っても、この肉体は神のモノなんです。神が造りたもうたからであると。だから、自らの住み処を自ら造りたもうて、自らを留めたもうたと書いているわけです。本質が全てを造りたもうて、全ての中に留めたもうと。それは無限なる本質であると。その無限なる本質こそ、絶対実在と。無限こそ絶対実在。神こそ絶対実在という境地に達するように努力していただきたいと思います。ご静聴、ありがとうございました。