私は、思索をしなさいと、よく言いますが、人間の立場から、思索しなさい、と言っているのではなく、神の立場から、思索して欲しい、と言っているのです。
神は、
なぜ、そのような、物を、お創りになったのか?
なぜ、そのような、物を、与えているのか?
なぜ、そこに、置いているのか?
なぜ、そのような、性質を、持たせたのか?
なぜ、そのような、動きや働きをするようにしたのか?
なぜ、そのような、ことを、起きるようにしたのか?
なぜ、それを、見せようとしたのか?
なぜ、それを、体験させようとしたのか?
などを、神の立場に立って、思索して欲しいのです。
その疑問が解け、神の意図、思惑、大意などが解れば、神の高み、厚み、深み、大きさが増し、「吾神なり!」の瞑想が、より、深くなるのです。
どうか、神の立場から、思索してみてください。
人間の立場から、思索したのでは、知識で終わってしまいます。
2017.01.01
※ 人の道に外れても、神の道に外れてはなりません。
人の道は、時代と共に変わりますが、神の道は、永遠に変わらないからです。
これは、人の前で、正直でなくても、自分の心の前で、正直であったら良い、という考えにも、通じると思います。
今日は、「魂は、一生の内に、三段階成長できる」、という言葉の意味を、説明したいと思います。
よく、参拝一礼とか、万歳三唱とか、三三九度とか、三つ子の魂百までもとか、三の数字の絡む言葉を使いますが、この三という数字は、無限を意味する数字なのです。
それは、1を3で割っても、割り切れないからです。
ということは、「魂は、一生の内に、三段階成長できる」、という意味は、「魂は、一生の内に、無限に成長できる」、と言う意味になるのです。
もし、皆さんが、「一生の内に、三段階までしか成長できない」、という意味で、受け取っているなら、そんな、考えは、捨ててください。
そんな、限定的な思いを持っていては、本当に、三段階までしか、成長できなくなります。
私たちは、想念の使い方次第で、いくらでも、成長できるのです。
もう一つ、注意したいのは、”自分は、こんな狭い心を持っているから、こんな悪い性格を持っているから、こんな悪いことをしたから、自覚の境界線を超える資格が無いのでは?” と、思わないことです。
天使とて、地獄に落ちる、と言われるくらい、この表現世界は、厳しいのです。
熟した魂であっても、目覚める前は、一般人と同じように、悪い思いを持つし、悪い言葉を吐くし、悪いことをするのです。
私も、目覚める前は、人間のクズだったのです。
そんな、私でも、自覚の境界線を超えられたのですから、皆さんが、超えられないはずはないのです。
悪いことをするのと、魂の大きさとは、関係ないのです。
一度、大きくなった魂は、たとえ、人殺しをしたって、小さくなることはないのです。
自覚の境界線を、超えられるかどうかは、あくまでも、魂の大きさです。理解力の高さです。
理解力の高さが、自覚の境界線を、超えさせるのです。
自分を成長させるのは、自分の努力で、いくらでも、できるのですから、限定的思いを持たないことです。
2017.01.08
私が、地球人類に、声を大にして言いたいのは、想念の偉大さを、知って欲しい、と言うことです。
私たちの一想い一想いの想念が、人生環境を、社会環境を、世界環境を、自然環境を、良くも、悪くも、しているのです。
それは、私たちの想念が、神と寸分も違わない力を、持っているからです。
あなたは、
想念を使って、車を、手に入れたのでは、ありませんか?
想念を使って、嫁さんを、手に入れたのでは、ありませんか?
想念を使って、お金を、手に入れたのでは、ありませんか?
いや、病気も、事故災難も、家庭の不和も、人との諍いも、みな、自分の想念で作ったのです。
私は、そんなモノ作った覚えがない、と言われるかもしれませんが、あなたの、憎しみ・恨み・怒り・心配・恐怖・イライラ の想いが、遠因となって、そのような、不幸を作ったのです。
神の世界には、何も存在しないのです。
何も存在しないのは、神が、想念を動かしていないからです。
想念を動かさなければ、何も生まれないのです。
それでは、自分の存在がないので、神は、想念を動かして、表現世界を創り、そこに、自分の分身である、人間を送られたのです。
そのとき、持たされたのが、神と寸分も違わない、想念だったわけです。
ただし、一つだけ、神の想念と違う点は、「一時も、何も思わないでいられない!」と言う違いです。
でも、その想念が、私たちを、成長させてくれるわけですから、その想念を持たされたことは、有り難いことなのです。
あなたは、いつも、何を思っていますか? 良いことですか? 悪いことですか?
あなたは、良い想念が持てなくて、悩んでいるのでは、ありませんか?
人生の目的は、この想念を、正しく使えるようになることなのです。
もし、何も思わなかったら、何一つ、苦しみは、生まれないでしょう。
しかし、喜びも、幸せも、生まれないでしょう。
勿論、私たちの存在も、ありません。
それどころか、一瞬にして、表現世界は、消えてしまうでしょう。
幸いなことに、何も思わないでいられないから、私たちも、表現世界も、安泰なのです。
それほど、私たちの想念は、偉大な力を持っている、と言うことです。
私が、想念の偉大さを、知って欲しい、と言うのは、想念の使い方次第で、人生を、どうにでも、変えることができるからです。
人生万端、想念次第です。何もかも、想念次第です。
どんな問題も、想念で解決できるのです。
どうか、想念の偉大さを、知ってください。
2017.01.15
皆さんは、見えないモノを軽んじていますが、見えないモノの実体を知ることは、とても、大切なことなのです。
なぜなら、見えないモノの実体を知れば、幸せに近づくことができるからです。
それでは、見えないモノの実体を探ってみましょう。
なぜ、見えないのでしょうか?
それは、波動が精妙で、私たちの視覚で捕らえられないからです。
反対に、見えるモノは、波動が荒いので、視覚で捕らえられるのです。
私たちが、住んでいる、この表現宇宙は、波動の組み合わせによって出来ている、摩擦の世界なのです。
波動が、摩擦を生み出し、その摩擦が、見えるモノを生み出すのです。
見えるということは、摩擦があるという意味であり、見えないということは、摩擦がないという意味なのです。
ということは、見えるモノの沢山ある世界は、摩擦の多い世界だということです。
摩擦のある世界は、抵抗があるので、いつか、必ず、消えて無くなります。
つまり、摩擦のある世界は、有限の世界なのです。
しかし、摩擦のない世界は、永遠に無くなりませんから、無限の世界なのです。
では、摩擦のある世界と、摩擦のない世界の、どちらが、幸せ多い世界でしょうか?
それは、当然、摩擦のない世界です。
なぜなら、摩擦のある世界では、次のような厄介事が起きるからです。
さらに、
このように、摩擦(凹凸・波動)のある世界では、様々な波風が生まれますので、苦しみが多くなるのです。
摩擦がなければ、引っかかりも、衝突も、争いも、起きませんので、摩擦のない世界は、苦しみがないのです。
要するに、悩み、苦しみが、生まれる世界は、不完全で、悩み、苦しみが、生まれない世界は、完全であると言うことです。
見えるモノ・一時のモノ・有限のモノは、不完全なのです。
見えないモノ・永遠のモノ・無限のモノは、完全なのです。
だから、私たちは、見えないモノを、大切にしなければならないのです。
では、神は、なぜ、このような、摩擦の多い世界を、わざわざ、創られたのでしょうか?
もう、お解りのことと思いますが、摩擦の多い世界では、様々な体験ができるからです。
魂は、体験を通して、大きく育つのです。
ですから、摩擦の多い世界は、魂の成長のためには、どうしても、必要な世界なのです。
でも、皆さんのような、熟した魂には、もう、このような、苦しい世界は、必要ありません。
さあ、今、皆さんが持っている、見えるモノと見えないモノの見識を変え、一日も早く、摩擦の多い世界から、卒業しましょう。
2017.01.22
※ 何が、幸せをくれるのでしょうか?
物やお金でしょうか?、地位や名誉でしょうか?
いいえ、意識です。意識が、幸せをくれるのです。
なぜなら、意識が、幸せを感じるからです。
その意識は、実在です。
ということは、その意識が感じている幸せも、実在ということです。
幸せだけは、どんな幸せであっても、実在なのです。
例えば、
夢の中で味わっている、幸せも、
この世で味わっている、幸せも、
幽界で味わっている、幸せも、
自覚の境界線を超え、節目、節目で、味わう、幸せも、
みな、実在なのです。
実在という意味では、どんな、幼い魂が感じている幸せも、どんな、高度な魂が感じている幸せも、平等なのです。
勿論、幼い魂が味わっている幸せも、高度な魂が味わっている幸せも、比べることができませんから、幸せにおいても、平等なのです。
このように、実在においても、幸せにおいても、神の公平性は、保たれているのです。
真理を深めてゆくと、外側のものは、すべて幻で、実在しているモノでないことが、解ってきます。
そうすると、その人は、瞑想の時、外側のモノから離れようと、意識するようになります。
でも、意識すれば、意識するほど、外側のモノが気になり、いつまでたっても、外側のモノから離れられません。
外側のモノを意識している状態は、実際に無い幻のモノを作っている状態なのです。
つまり、肉体を意識している状態は、実際に無い幻の肉体を作っている状態なのです。
なぜなら、意識は、何でも作ってしまうからです。
とはいっても、五感がある限り、どうしても、肉体を意識してしまいます。
では、どうすれば、肉体から意識を離すことができるのか?・・・、
それは、意識を内側の一点に集中させることです。
私たちが、五感で感じているモノは、すべて、外側の幻です。
その外側の幻で、一番近くにあるのが、自分の肉体です。
私たちは、その肉体を、いつも、意識で感じているのです。
意識で感じているわけですから、意識を肉体から離せば、肉体は、消えてしまうはずです。
では、意識を肉体から離すには、どうすれば、いいのでしょうか?
一番簡単な方法は、背中の奥の奥の一点に意識を置くことです。
背中の奥の奥の一点に意識を置くと、次第に、外側のモノが消え、肉体感覚さえもなくなります。
どうして、そのようなことが、起きるかといいますと、実在しないモノは、意識しなければ、消えて無くなる仕組みになっているからです。
外側のモノは、一時、描かれた絵のようなモノですから、意識しなければ、消えてしまうのです。
でも、実在しているモノは、意識しなくても、消えないのです。
意識そのものが、実在そのものだからです。
私たちは、外側のモノが実在していると、誤解しているのです。
それは、五感があるためです。
五感が、実在しているような誤解を生んでいるのです。
実在しているのは、自分の意識だけです。
その実在している意識に、意識を集中するのが、瞑想なのです。
意識が意識を意識するのです。意識が意識を瞑想するのです。
意識そのものが、神だからです。
だから、神が神を意識するのです。神が神を瞑想するのです。
このことを、知花先生は、次のように、おっしゃっておられました。
「神を礼拝するには、己が神そのものと成って礼拝せよ!」と・・・。
つまり、「自分が神そのものに成って神を瞑想しなさい!」というわけです。
2017.01.29
※ 瞑想は、想念力に頼っています。
想念は、何でも実現させる力を、持っているからです。
その想念の力を、瞑想に利用しているだけです。
だから、想えば良いのです。ただ、それだけです。
人が何を言おうが、自分が楽しければいいのです。
こう言うと、“エゴイストだ!” と思うかも知れませんが、真理を深く知った人なら、私の言っていることが、解って頂けると思います。
私たちは、意識そのものなのです。
その意識は、宇宙に、一つしかありません。
一つしか無いということは、私たちは、宇宙そのものであるということです。
では、その意識は、何を欲しているのでしょうか?
物でしょうか?、お金でしょうか?、地位や名誉や権力でしょうか?
いいえ、自分の心が、
平安になること!・・・
楽しくなること!・・・
愉快になること!・・・
嬉しくなること!・・・
爽快になること!・・・
すなわち、幸せになることを、欲しているのです。
世の人々は、躍起になって、この世のモノを追いかけていますが、それは、幸せを得る、一つの方便であって、そんなモノが無くても、幸せになれるのです。
なぜなら、幸せは、肉体が感じるのではなく、意識が感じるからです。
意識は、実在しています。幸せも、実在しています。
ですから、実在している意識は、実在している幸せを、欲するのです。
その幸せは、誰かが与えてくれるのでも、何かが与えてくれるのでも、ありません。
自分が、自分に与えるのです。
では、どのように、自分に与えるのでしょうか?
それは、自分が意識そのものであると、心の底で知った時、自動的に与えられるのです。
どうか、自分が意識であることを、心の底で知ってください。
知れば、その幸福感は、全宇宙に波及して行きます。
それは、前述したように、宇宙そのものが、私たちだからです。
よく、考えてみてください! あなたは、何が欲しいのですか?
幸せだけが、欲しいのではありませんか?
その幸せは、外から得られますか?、何かモノから得られますか?、誰かから得られますか?
何も、誰も、与えてくれないのです。
あなたが、"自分をどう思うか" で、与えられるのです。
繰り返します。
あなたは、意識そのものなのです。
その意識は、楽しいことが好きなのです。嬉しいことが好きなのです。
つまり、幸せが好きなのです。
(2017年2月19日 大阪勉強会の動画を見てください)
2017.02.05
※ 肉体は、あなたでは、ありません。意識が、あなたです。
肉体は、意識の乗り物です。
意識は、いつか、必ず、肉体から降りるのです。
その意識が持って帰れるのは、幸せだけです。
見えるモノは、非実在です。見えないモノは、実在です。
見えるモノは、表面だけの(中身のない)モノですから、非実在なのです。
しかし、見えないモノは、奥の深い(中身のある)モノですから、実在なのです。
また、
見えるモノは、何の発展性も、何の可能性もない、死に絵です。
見えないモノは、無限の発展性と、無限の可能性のある、生き絵です。
その意味では、
人間は、見えるモノですから、死に絵なのです。
神は、観えないモノですから、生き絵なのです。
だから、人間は、非実在で、神は、実在だというわけです。
ただし、人間の中に宿っている意識は、実在します。
人間の形は、殻ですから、非実在ですが、その中に宿っている意識は、中身ですから、実在するのです。
私が「人間は神である!」と断言するのは、人間の中に宿っている意識は、神だからです。
形は、結果です。意識は、原因です。
原因と結果は、切り離すことが、出来ませんから、神は人間であり、人間は神である、と言うことになるわけです。
「人間は神である!」こんな確かなことを、どうして、人間は、信じようとしないのでしょうか?
2017.02.12
※ 幸せや善は、実在しますが、不幸や悪は、実在しません。
なぜなら、実在しない人間が作った、不幸や悪だからです。
でも、幸せや善は、実在するのです。
それは、実在する神が創った、幸せや善だからです。
宇宙は、単純に出来ています。
子供でも解るように、易しく創られているのが、宇宙なのです。
その証拠に、神は、一番必要なモノほど、私たちの身近に置いてくれています。
例えば、空気・水・土・労働力の順で、身近に置いてくれています。
また、肉体は、それよりも、近くに置いてくれています。
更に、近いのは、魂です。
そして、その魂が発信する、想念です。
この想念が、人生を作っているわけですから、最も身近な存在と言えるでしょう。
その想念が、幸せをくれるのです。
しかし、世の人々は、外に出て、お金を稼ぎ、外から幸せを買おうとしています。
それは、幸せが、何処にあるのか、知らないからです。
神が、一番必要なモノを、身近に置いてくれているように、幸せも、一番身近なところに置いてくれているのです。
それも、お金もいらず、何処へ行く必要もなく、「ただ、神を想うだけで良い!」と言う、簡単な方法で・・・。
難しく考えないでください。
今、あなたが、やらねばならない事は、
この二つを、やっていれば、あなたは、幸せになれます。
これは、今日まで、自分の想念によって、人生を作ってきた実績が、証明しているのですから、間違いないのです。
2017.02.19
※
悪い思いを持つ自分を責める人がおりますが、自分を責めてはなりません。
なぜなら、たとえ、悪い思いを持ったとしても、それは、今の原子核の量によって、思ったことですから、それは、必然であり、良いことだからです。
事実、その人は、悪い思いを持つことによって、痛い目にあい、成長してきたではありませんか?
ということは、その思いは、良い思いだったと言うことです。
私が、“あなたの選択した人生の道は、みな、良い道なのですよ!” と言うのも、今のあなたの原子核の量で選んだ、必然の道だからです。
たとえ、その道が、苦しい道であったにしても、苦しみが、成長を促すのですから、それは、悪い道では無かったと言うことです。
悪い必然など、無いのです。必然は、みな、良いことなのです。
必然は、成長を促す法則だからです。
“私は、容姿も醜く、こんな性格で、こんな欠点を持っている、何もできない人間です!” と、自分を責める人も同じです。
たとえ、どんなに醜く、能力的に劣っていても、その肉体環境は、魂を成長させるために与えられた、必然の環境ですから、自分を卑下してならないし、惨めになってもならないし、責めてもならないのです。
私たちは、失敗の中から学び、苦しみの中から強くなり、悪い環境の中から美しい花を咲かせるのです。
そう思えれば、どんな人にも、どんなモノにも、どんな環境にも、また、自分にも、感謝できるでしょう。
2017.02.26
※ なぜ、必然は、良いことか?
それは、必然は、完全から、生まれてくるからです。
もし、必然が、悪いことなら、神は、不完全な宇宙を創ったことになり、神は、不完全になってしまいます。
そんな、神がいるわけないのですから、必然は、どこまでも、完全で、良いことなのです。
「なぜ、私(自分)は、存在しなければならないのですか?
何も、私が存在しなくても、良かったはずです。
誰が、私を存在させてくれと、頼んだのですか?
私は、そんなこと、頼んだ覚えもないし、お願いした覚えもないのに、どうして、私が存在しなければならないのですか?
存在しなければならない義務でもあるのですか?
この宇宙に、私がいなくても、何の問題もないはずです。
なのに、今、私は、存在させられています。
いや、気が付いたら、存在していたのです。
そのために、苦しい人生を送らなければならない、こんな、理不尽な押し付けは、ないのではありませんか?」と、あなたは、文句を言うかも知れません。
そうですよね。
自分が存在していなければ、何の苦しみも、悲しみも、体験しないで済んだのですからね。
でも、良く考えてみてください。
もし、あなたが、いなかったら、この宇宙が、ありますか?
あなたが、いるから、宇宙があるのですよ!
それは、あなたが、宇宙の創造主だからです。
あなたが、いなければ、何も始まらないし、何も生まれないのです。
これは、今、始まったわけではないのです。永遠の昔から、そうだったのです。
宇宙は、永遠に、存在していたわけですから、あなたも、永遠に、存在していたのです。
ということは、あなた、そのものが、宇宙そのものである、という意味です。
このことは、あなたのような、熟した魂なら、解るはずです。
私も、真理を噛じり始めの頃、あなたと同じ疑問を持ちました。
自分を存在させてくれるなど、お節介だと・・・、
自分の意識がなかったら、何も苦しまないで済んだのにと・・・。
ですから、私は、「自分の意識を無くしてください!」と、神様に頼んだ時期があったのです。
でも、「お前がいなかったら、宇宙は存在できないではないか、宇宙はお前で、お前が宇宙なのだから!・・・」との、神様からの返答でした。
それで、私は、意識の無くなることを諦めたのです。
意識は、絶対、無くすことができないのです。
これだけは、神様の勝手な押し付けだと言ったって、どうしようもないことなのです。
あなたは、自分の意識の無くなった後の事を考えられますか?
絶対、考えられないはずです。
これは、あなたの意識が、意識の当体であり、意識の源であり、意識の大元だからです。
すなわち、原因無き原因者だからです。
あなたの意識が、あなたの意識を、生み出したのです。
この宇宙に、あなたしか、いないからです。
絶対、無くならない意識なら、どうすれば、良いのですか?
幸せの中に、入るしか無いではありませんか・・・。
そうです。苦しみたくなかったら、幸せの中に、自分の意識を留めるしかないのです。
その留める方法が、神の自覚に、入ることなのです。
注意・・この「私は」肉体の私ではなく、意識の私のことを言っているのです。
誤解のないように・・・。
2017.03.05
「吾神なり!」を、想い続けていれば、どんな問題も、解決するのです。
「ありがとう!」を、想い続けていれば、幸せになれるのと同じです。
なぜなら、「吾神なり!、ありがとう!」を、想いながら、同時に、悪い想いを持てないからです。
問題を解決する、こんな簡単な方法があったのです。
皆さんは、難しく考え過ぎなのです。
何か難しいことをしなければ、問題が解決しないと、思っているのです。
人生は、想念次第で、どうにでもなるのです。
良く考えてみてください。今まで、何が人生を作ってきたと思いますか?
肉親ですか? 隣人ですか? 学校ですか? 会社ですか? お金ですか? 地位や名誉ですか? 社会ですか? 国ですか? ・・・。
すべて、自分の想念が、作ってきたのではありませんか?
旅行に行きたいと想い、旅行に行ったはずです。
自動車が欲しいと想い、自動車を手に入れたはずです。
嫁さんが欲しいと想い、嫁さんを手に入れたはずです。
すべて、自分の想念の成果です。
モノだけでは、ありません。
病気も、事故も、自然災害も、みな、自分の想念が作ったのです。
あなたは、“私は、そんな不幸など作った覚えがない!” と言うかも知れませんが、
あなたの、憎しみの想いや、恨みの想いや、怒りの想いや、心配・恐怖・イライラなどの想いが、遠因となって作られたのです。
想念は、何でも作るのです。
それは、神と同じ想念を持っているからです。
自分の想念で、不幸を作ったのであれば、幸せも、自分の想念で作れるはずです。
それは、良い想念を持てば、すべて、問題解決する、という意味なのです。
良い思いの一番は、神を想うことです。
神を想っていれば、あなたの人生は、間違いなく、良い方向へ変わって行きます。
それは、神を想っている時は、悪想念を持てないからです。
「ありがとう!」の思いは、確かに、波動の良い思いですが、でも、「ありがとう!」を思っている時は、悪い想いが持てないというだけで、何かを作るわけではないのです。
しかし、「神を想い続けていれば」、
どうか、想念を有効に使ってください。
あなたの人生は、想念次第なのですから・・・。
2017.03.12
※ 思ったことは、必ず、実現する。
思わないことは、絶対、実現しない。
この意味の深さを、噛み締めてください。
世の中には、ボランティアーをやったり、寄付をしたりして、人助けしている人たちが大勢おりますが、心から、“人助けしたい!”と、思ってやっている人が、どれほどいるでしょうか?
つまり、純粋な動機で人助けしている人が、どれほどいるでしょうか?
そこに、何らかの成算が、入っていないでしょうか?
例えば、
人に良く見られたいとか、
犯した罪の償いのためにとか、
生きがいのため(心の空白を埋めたいため)にとか、
自分の名を知らしめたいとか、
自己満足のためとか、・・・。
殆どの人は、自己満足のために、やっているのではないでしょうか?
私は、これを批判するつもりはありませんが、「安易な人助けは、罪になる!」ということだけは、心に留めていて欲しいと思います。
では、なぜ、安易な人助けは、罪になるのか、真理の目から考えてみましょう。
人助けする場合、本当に、その人のためになっているか? よく、考えてせねばなりません。
近年では、災害が起きると、各地から被災地に、沢山の救援物資が送られてきます。
時には、あまり、多すぎて、処分に困るほどです。
勿論、被災地の人たちは、喜んでおりますが、本当に、被災地の人の為になっているのでしょうか?
このように言うのは、あまり、やり過ぎると、自力で立ち直る意欲を奪いかねないからです。
たしかに、切羽詰まっている場合は、助けてやらねばならないでしょう。
でも、どの程度まで、助けてあげるか?、見極めが大切なのです。
なぜ、苦しいことが、起きるのでしょうか?
自分が、苦しい原因を作っているから、では、ありませんか?
事件や、事故や、自然災害の苦しみも、病気の苦しみも、貧困による苦しみも、みな、自分が、原因を作っていたから、起きたのです。
なのに、安易に苦しみを取っては、そのことに、気付かないではありませんか?
それでは、成長が望めません。
だから、安易な人助けは、罪だと言うのです。
では、マザーテレサのやっていた人助けは、悪かったことか? ということになるわけですが、どんなに、動機が良くても、人の成長を考えず、人助けしていたなら、それは、良いとは、言えないでしょう。
ただし、こういうことは、言えます。
たとえば、不純な動機で、人助けしたとしても、それは、助けた人の今の原子核の量において、助けたいと思ってした、必然ですから、それは、良いことなのです。
助けられた人から見たら、どんなに、安易な助けられ方であっても、助けられるべきにして助けられた必然だからです。
助けられるべきにして助けられた必然には、ちゃんとした意味があり、また、安易な助けられ方の中にも、ちゃんとした意味があるのです。
それは、どんな助けられ方の中にも、ある部分を成長させる材料が、含まれているからです。
世の中には、なぜ、助けられる人と、助けられない人が、いると思いますか?
それは、その背後に、原因と結果の法則が働いているから、では、ありませんか?
助けられた人は、
助けてくれる人に出会ったのも、必然、
助けられる環境にいたことも、必然、
助けられる時代に生まれてきたことも、必然です。
一方、助けられなかった人も、
助けてくれる人に出会えなかったのも、必然、
助けられない環境にいたことも、必然、
助けられない時代に生まれてきたことも、必然です。
マザーテレサは、今の自分の原子核の量(魂の熟成度)によって、人助けしたいと思って、人助けしたわけですから、それは、必然的行為として良いことであり、それによって、助けられた人も、助けられるべきにして助けられた、必然ですから、それは、良かったのです。
必然は、みな、良いことなのです。
必然によって運ばれている宇宙に、悪い人助けなど無いのです。
とは言え、原因と結果の法則を無視した人助けは、できるだけ、避けるべきでしょう。
動機が大切なのは、法則を犯さないためです。
人助けするなら、相手の成長を考え、やり過ぎない配慮のもとに、やりたいものです。
2017.03.19
※ 安易な人助けは、罪になると言う話は、安易に病苦を取っては、成長の妨げになると言う話に通じています。
簡単に、病気を治したのでは、その人から、成長材料を奪ってしまうからです。
また、これは、人に、お節介を焼く事とも通じている話なのです。
世の人々は、良かれと思って、お節介を焼くのでしょうが、お節介を焼くことで、人から成長材料を奪っている場合が、往々にしてあるのです。
お節介焼きの心理状態は、自分が、お節介を焼いて欲しいからです。
これは、人に教えたがる人の心理状態と似ています。
自分の中に教えて欲しい思いがあるから、人に教えようとするのです。
これは、人を頼る癖をつけてしまい、良いこととは言えません。
何ごとも、努力して、厳しいことをして、成長してゆかねばなりません。
その意味では、厳しいことをさせてやることが、愛です。努力させてやることが、愛です。いらぬ手助けは、人を堕落させます。
たとえ、どんなに、動機が良くても、やり過ぎは、成長の妨げになるわけですから、中庸を見極め、助けてやることが大切です。
その中庸の見極めも、魂の熟成度によって違うわけですから、助け方も、みな、違ってくるということです。
奇数と偶数があります。
この二つの数字は、交互に置かれていますが、これは、補完し合うためです。
この宇宙は、相反するモノが、補完し合いながら、成長してゆくように、できているのです。
熟語として普通は、左側に、「善・悪」の「善」とか、「美・醜」の「美」とか、「幸・不幸」の「幸」と言った、良い意味の字を置くのに、なぜ、ここでは、左側に悪い意味の字を置いたかと言いますと、左側は、実際に無いもので、右側は、実際に有るモノだからです。
左側の世界(陰の世界・物質の世界)は、実際に無い世界なのです。
右側の世界(陽の世界・意識の世界)は、実際に有る世界なのです。
物質の世界は、一時存在している、ニセモノで、
意識の世界は、永遠に存在している、ホンモノなのです。
だからと言って、物質の世界を、軽んじるわけにはゆきません。
なぜなら、物質の世界が無くては、意識の世界の存在意味が無いからです。
その意味では、物質の世界と意識の世界は、同等の価値があると言っていいでしょう。
物質の世界と意識の世界は、互いに補完し合いながら、存在価値を高め合っているのです。
しかし、物質には、何の力もありません。
ですから、ホンモノを存在させるために、ホンモノが、ニセモノを装って、活躍しているのです。
つまり、神を存在させるために、神が、人間を装って、活躍しているのです。
二つは一つであり、一つは二つでなくては、一つになれないと言う、何とも不思議な関係にあるのが、物質宇宙(相対宇宙)と意識宇宙(絶対宇宙)の関係なのです。
つまり、人間と神が補完し合いながら存在を保っている、不思議な関係にあるのが、物質宇宙と意識宇宙なのです。
2017.03.26
学びの友の中に、真理を学んでいれば、自覚の境界線が超えられると、勘違いしている人がおりますが、真理が、自覚の境界線を超えさせてくれるのではありません。
真理を実践することによって、自覚の境界線が超えられるのです。
真理は、あくまでも、道理を示しているだけです。
実践の伴わない真理は、単なる絵に書いたボタモチです。
それは、毎週、日曜日、キリスト教会に行って、賛美歌を歌っているようなものです。
私の本を読んで、私の話を聴いて、満足しているのは、賛美歌を歌って、満足しているようなものなのです。
真理の実践とは、原子核を増やす、三つの方法のことを言っているのです。
つまり、社会体験をすること、瞑想をすること、思索をすることです。
この三つの方法は、実際に、エネルギーを動かしているわけですから、間違いなく、前に進むのです。
歩くから、景色が変わるのです。座っていては、景色は変わらないのです。
景色が変わらないということは、成長していないということです。
あくまでも、自力です。自力で成してこそ、扉が開かれるのです。
私は、努力の大切さを言っているのです。何かを成し遂げるには、努力が必要なのです。
くどいようですが、繰り返し言います。
真理が、自覚の境界線を超えさせてくれるのではありません。
真理を実践することによって、自覚の境界線が超えられるのです。
くれぐれも、誤解なきように・・・。
2017.04.02
※ 瞑想できる有り難さ!
瞑想できる幸せさ!
瞑想できるところまで進化してきた自分を、どうか、褒めてやってください!
私たちは、本当に幸せなのですから・・・。
1を知れば、10を知ると言われますが、そんな半端なものではありません。
1を知れば、無限数を知ることができるのです。
なぜなら、無限数は、1の分化したものだからです。
この宇宙には、1から分かれた、無限数の原子番号が有るのです。
つまり、元数1から分かれた、無限の分数が有るのです。
無限の分数は、元数1から分かれたものですから、分数の一つを知っただけでも、元数1を知ることができるのです。
今、この地球では、百十数個の元素が発見されていますが、宇宙には、無限に近い数の元素があるのです。
その一つ一つの元素は、元数1から出てきた同じ仲間ですから、一つの元素を知れば、元数1の正体が解るのです。
鉱物・植物・動物・人間は、その元素の組み合わせによって、作られたモノですから、鉱物を知っても、植物を知っても、動物を知っても、人間を知っても、元数1の正体を知ることができるのです。
今、科学者は、見えないモノに、様々な名前をつけておりますが、どんな名前をつけても、出処は、1ですから、その本性は、みな、同じ元数1、つまり、神なのです。
どうか、名前に惑わされないでください。
どんなモノも、元数1から出てきた、同じ神の子なのですから・・・。
この宇宙に、神でないものは、無いのです。
どうか、全ての兄弟姉妹を愛してください。
あなたと同じ、神の子なのですから・・・。
すなわち、自分なのですから・・・。
2017.04.09
※ 1が、二つも、三つも、あっては、無限でなくなります。
一つしか無いから、無限なのです。
無限が、二つも、三つも、あっては、無限でなくなります。
一つしか無いから、無限なのです。
だから、1は無限であり、無限は1なのです。
つまり、どんな数も、1であり、無限なのです。
これが、私が、1であり、無限である、と言える根拠です。
ある人は、言います。
「真理を、知れば、知るほど、自覚の境界線が遠のく」と・・・。
そうなのです。
この宇宙は、探っても、探っても、届かないほど、奥が深いのです。
それは、宇宙は、無限だからです。
無限を、どうして、知ることができましょうか?
あなたは、「これ以上無い幸せな意識体験をした!」と、思うかも知れません。
でも、それは、ほんの一端の体験です。
なぜなら、宇宙は、無限だからです。
私が、「人は、永遠に、悟ることができない!」と言うのは、宇宙は、神は、本当の自分は、無限だからです。
どこまで探っていっても、掴めないのが、宇宙なのです。神なのです。本当の自分なのです。
ですから、「私は悟った!」と言わないでください。
どんな覚者も、永遠に悟れない真理なのですから・・・。
宇宙の奥深さを知った者は、
それは、主観宇宙の確信を得たからです。
つまり、自己完結型宇宙の確信を得たからです。
でも、宇宙の奥深さを知らない者は、
それは、まだ、主観宇宙の意味を知らないからです。
つまり、自己完結型宇宙の意味を知らないからです。
だからと言って、その人を批判してはなりません。
なぜなら、その人の原子核の量によって思った事ですから、それは、必然だからです。
一挙に成長する者などいないのです。
少しずつ、少しずつ、成長するのです。
私も、そうだったのです。あなたも、そうだったのです。その人も、そうなのです。
ですから、温かい目で、見守ってやりましょう。
2017.04.16
注意・・ 学び始めの頃は、誰もが、「明日にでも、自覚の境界線が超えられる!」と、思うものです。
でも、学びが、深まれば、簡単でないことが、分かってきます。
それは、学べば、学ぶほど、真理の奥深さが、観えてくるからです。
だからと言って、諦めないでください。
なぜなら、風呂桶に、どれくらい、お湯が溜まっているかは、誰も分からないからです。
明日、百本目の刀が、得られるかも、知れないのですよ!
ですから、希望を持って、真理を学び続けましょう。
人間は、時間に拘ったり、年齢に拘ったり、性別に拘ったり、職業に拘ったり、慣習や風習に拘るなど、沢山の拘りを持ちます。
拘れば、拘るほど、自分を窮屈にするのに、人は、どうして、拘りを持つのでしょうか?
「人間の一番不可思議なところは、拘りを持つことである」と、ある覚者は、言っていますが、これは、自我人間の特徴の一つで、他の生き物にはない部分です。
では、一体、この拘りは、どこから、来るのでしょうか?
自分の身を守る、自己保存欲の拘りは、仕方がないとしても、慣習や風習など、他の拘りは、うまく立ち回れば、あるいは、人の目を気にしなければ、拘らなくても良い拘りです。
では、人間は、なぜ、拘りを持つのでしょうか?
それは、心が満たされていないためです。
心が満たされていないと、空白を埋める何かを、探そうとするのです。
でも、その空白を埋めてくれるモノが、何か解らないのです。
だから、じれったいのです。歯がゆいのです。もどかしいのです。
その鬱憤を、拘りで晴らそうとするのです。
真理を学び、自分の本性を知った者は、拘りを持つことが、少なくなります。
それは、心の空白が埋まったからです。
ですから、覚者は、一切、拘りを持たないのです。
2017.04.23
※ 拘りは、囚われであり、自己保存欲の一つです。
そんな、拘りに囚われては、自分を不自由にします。
どうか、拘りを捨ててください。
この世の拘り事など、実際には無いのですから・・・。
瞑想の仕組みの根底にあるのは、私たちが持っている想念です。
この想念は、神の意識から生まれたモノですから、神と同じ創造力が付与されているのです。
「想念は実現の母」と言われるのも、想念したことは、何でも実現するからです。
その想念の力を利用して、成し遂げようというのが、瞑想なのです。
私たちは、常に、何かを思っています。
私たちは、何も思えないでいられないように、できているのです。
と言うことは、常に、瞑想している、と言うことです。
瞑想とは、想うことなのです。
何か想っている時は、瞑想していることになるのです。
と言うことは、この世界で、瞑想していない人は、一人もいない、と言うことです。
皆さんは、毎秒・毎秒、瞑想しているのです。
ただ、私たちは、そのことに、気付いていないだけです。
今の今だけが、実在です。
その今の今を感じられるのは、私たちの意識です。
意識が想念を生み出し、その想念が、物事を成就させているのですから、私たちは、その想念を使って、今日まで、人生を作ってきたのです。
事実、私たちは、
学校に入りたいと想って(瞑想して)、入ったではありませんか。
お金を儲けたいと想って(瞑想して)、お金を儲けたではありませんか。
自動車が欲しいと想って(瞑想して)、自動車を手に入れたではありませんか。
伴侶が欲しいと想って(瞑想して)、結婚したではありませんか。
このように、私たちは、瞑想によって、何でも得てきたのです。
ならば、神を想って(瞑想して)、神の自覚を得ることも、できるのではないでしょうか?
想った事は、何でも実現するのが、想念の力ですから、その力を利用しないでは、もったいないです。
さあ、瞑想し、神の自覚を得ましょう。
2017.04.30
※ この地球で、真の瞑想をしている人は、殆どいません。
それは、瞑想の意味を、知らないからです。
瞑想は、無・空になること、では、ありません。
また、気持ち良くなること、でも、ありません。
神の想いを深め、神の自覚を得ること、です。
この「自覚」の意味が理解できないため、真の瞑想ができないのです。
理解できなくても、良いですから、想念の力を信じて、神を想い続けてください。
きっと、「ああ、そうか!」と、解る時がきます。
※ 私たちは、何と幸せなのでしょう!
なぜなら、瞑想できるからです。
鉱物や、植物や、動物は、瞑想できません。
でも、私たちは、瞑想できます。
これは、凄いことなのです。
どうか、瞑想できるところまで、進化してきた、自分を、褒めてやってください。
運命とは、「命」を「運ぶ」と書きます。
命を運んでいるのは、誰でもありません。自分の想念です。
良い想念を使えば、運命は良くなります。悪い想念を使えば、運命は悪くなります。
なぜ、そのようなことが、起きるかと言いますと、良い想念は、光を呼び、悪い想念は、闇を呼ぶからです。
事実、人類は、悪い想念を使って、病気や、事件や、事故や、自然災害などを、呼び寄せているではありませんか。
これは、光は、良いモノを実現させ、闇は、悪いモノを実現させている、分かりやすい実証例なのです。
あなたが、今の苦しい運命を、好転させたいと思うなら、どうか、良い想念を使うよう、心掛けてください。
私は、最近、よく、想念のお話をしますが、それは、想念ほど、頼もしく、また、恐ろしい、モノはないからです。
人生は、想念次第なのです。いや、魂の進化は、想念次第なのです。
それほど、想念は、偉大なのです。
どうか、良い想念を使うよう、心掛けてください。
そうすれば、もう、あなたの運命は、保証されたも同然です。
2017.05.07
※ 命は、永遠です。
ですから、運命は、永遠の命の歴史を通して、考えなくてはなりません。
今生の運命は、前世の運命を、背負っているのです。
前世の運命は、前々世の運命を、背負っているのです。
前々生の運命は、その前の世の運命を、背負っているのです。
だから、アナログ的な運命の見方が、必要になるのです。
今生、運命が良いからと言って、喜んでいてはなりません。
今の自分の一刻一刻の想念が、運命を決めている、と言う自覚を持って、想念を使ってください。
「出入り」という言葉はあっても、「入出」という言葉はありません。
「出発」という言葉はあっても、「発出」という言葉はありません。
「呼吸」という言葉はあっても、「吸呼」という言葉はありません。
何事もそうですが、先に出があり、後で入りがあるのです。
電車でも、エレベーターでも、先に人が出て、後で人が乗るのです。
そのことを知っている熟した魂は、「出」を重視します。
知らない未熟な魂は、「入」を重視します。
だから、未熟な魂は、物を多く集めようとするのです。
物を多く集めれば、当然、ゴミを多く出すでしょう。
ゴミの多い社会が、幼い社会だと言われるのは、幼い魂は、物を、沢山、集めるからです。
それは、心が満たされていないからです。
心に空白を抱えている幼い魂は、どうしても、物を多く集めようとするのです。
宇宙の整然とした働きを、ご覧なさい。
エネルギー均衡の法則によって、見事にバランスが、取れています。
人間社会は、どうでしょうか?
エネルギー収支のバランスが、完全に崩れています。
その良い証しが、病気・事件・事故・自然災害などの多発です。
物質文明が進めば、エネルギーが低くなるため、災厄が多くなるのです。
これは、思いの使い方も、同じです。
私たちは、どんな思いを出し、どんな言葉を出し、どんな行為をしているでしょうか?
出した思い、出した言葉、出した行為には、必ず、回答(結果)が返ってくるのです。
良い思い、良い言葉、良い行為には、良い結果が、悪い思い、悪い言葉、悪い行為には、悪い結果が・・・。
これは、一ミリの狂いもありません。
今、人間が苦しんでいるのは、悪い思い、悪い言葉、悪い行為を出しているからです。
苦しい人生にしたくなかったら、「出すもの」を良くしてください。
つまり、良い思い、良い言葉、良い行為を、出してください。
その人は、幸せな人生を、歩むことが出来るでしょう。
2017.05.14
必然とは、当然という意味です。なるべきにしてなる、と言う意味です。
この宇宙は、必然によって、運ばれているのです。
なぜ、必然によって、運ばれているかと言いますと、原因あっての結果だからです。
結果があったと言うことは、結果を生み出した原因があったと言うことです。
原因のない結果は、あり得ないのです。原因と結果は、一つなのです。切り離せないのです。
必然しかない理由は、原因と結果は、切り離せないからです。
もう一つ、知って欲しいのは、必然とは、秩序ある状態を言います。偶然とは、無秩序の状態を言います。
秩序が保たれるのは、法則があるからです。必然は、法則なのです。
「何もしないのに返ってくる、何もしないのに起きる、何もしないのに現れるのが、偶然であり、無秩序の状態であり、法則のない状態です。
何かしたことが返ってくる、何かしたことが起きる、何かしたことが現れるのが、必然であり、秩序のある状態であり、法則のある状態です。」
あなたが、
何もかも、必然の産物なのです。
ですから、法則も、必然の産物なのです。
これまで、宇宙が永続してこられたのは、必然の法則の下に、秩序正しく運営されてきたからです。
もし、必然の法則がなかったら、この宇宙は、とっくに、消滅していたことでしょう。
すべて、「法則が・必然が」宇宙を支えてきたのです。
あなたが、
すべて、神の思し召しによって運ばれている、必然です。
なぜ、必然が、神の思し召しかと言いますと、どんな苦しいことも、どんな悲しいことも、どんな厭なことも、みな、進化成長へ引っ張ってくれている、必然だからです。
神は、私たちを、成長させたいのです。
ですから、安心して、今、やるべきことを、真心を込めて、やることです。
そうすれば、間違いなく、あなたは、最終目標に到達できるでしょう。
これが、必然の宇宙における、進化の歩みなのです。
2017.05.21
どんな困難な問題も、真心を込めてやれば、必ず、解決できます。
神は、そのように、宇宙を創っているのです。
真心とは、神の心のことです。
その同じ心を、誰もが持っているのですから、真心を込めてやれば、相手に伝わらないはずはないのです。
家庭内の問題も、隣人との問題も、仕事での問題も、どんな困難な問題も、真心を込めて当たれば、解決できないことはありません。
これは、真理の学びにおいても、同じです。
今、やるべきことを、真心を持ってやること、瞑想も、真心を込めてやること、思索も、真心を持ってやることです。
そうすれば、真理の扉は、必ず、開かれます。真心は、岩をも砕くのです。
すなわち、真心は、天の岩戸も開くのです。
そのためには、強い意志がいります。強い決意がいります。努力と忍耐がいります。
何でもそうですが、何かをやり遂げるには、努力が必要なのです。
楽して得たものは、ホンモノではありません。
苦難の中から得たものが、ホンモノなのです。
人生の目的は、魂(原子核)を、大きくすることです。
困難なことは、魂(原子核)を、大きくするための教材ですから、やり遂げれば、間違いなく、原子核は、増えます。原因あれば結果ありです。
どうか、強い気持ちを持って、困難なことに挑戦してください。
あなたは、間違いなく、変わります。
あなたが、変わった分、周りの環境も、変わります。
2017.05.28
※ 治療が難しいと言われている、精神病患者(憑依霊)でも、真心を持って、お世話すれば、快方に向かうと、私は、信じています。
みな、同じ神の心を持っているのですから、真心を持って接すれば、通じないはずはないのです。
人の涙は、情から生まれた、汚れた涙です。
神の涙は、愛から生まれた、清い涙です。
同じ涙ですが、込められているモノが、全く、違うのです。
では、その違いは、一体、何でしょうか?
人の涙には、何らかの成算が、入っています。
たとえば、
自分を哀れんで流す、自己憐憫の涙、
人の目を気にして流す、自己顕示の涙、
感情を掻き立てて流す、作り涙、
人の気を引く、お芝居の涙、
など、不純な涙が多いのです。
この宇宙には、悲しみの涙とか、苦しみの涙とか、怒りの涙とか、悔しみの涙とか言った、汚れた涙など無いのです。
あるのは、独りでに出てくる、魂の喜びの涙だけです。
その涙の中には、何一つ不純な思いが、入っていないのです。
だから、清いのです。美しいのです。
その涙に触れた途端、どんな汚れも流れ落ちる、清純な涙です。
私たちは、そんな涙を流したいものです。
2017.06.04
私には、嬉しいことが、8つあります。
私たちは、きっちりとした秩序の中に、生かされています。
ですから、法則を守って生きていれば、誰でも、幸せになれるのです。
こんな、素晴らしい宇宙に、生かされている、私たち、何と幸せなのでしょう!?
私たちが、やるべきことは、今、できることを、精一杯やることです。
つまり、
すなわち、真心を込めて、瞑想することです。
2017.06.11
世の中には、お金や、物や、地位や、名誉や、権力などを、追い求めている人と、精神的なモノを、追い求めている人の、二通りの人種がおります。
なぜ、そのような人種が生まれるかと言いますと、物質の世界が、本当に有ると信じている人が、物質的なモノを追い求めるのも、当たり前ですし、また、意識の世界が、本当に有ると信じている人が、精神的なモノを追い求めるのも、当たり前だからです。
つまり、信じられるモノを追い求めるのも、当たり前、信じられないモノを追い求めないのも、当たり前だからです。
確信の持てないモノを、「追い求めなさい!」と言う方が、おかしいのです。
一般人も、真理を求めている人も、誰もが、今の原子核の量の自我の思い通りに、生きているのです。
それは、必然の生き方しかできないからです。
必然の生き方しかできないのは、今の原子核の量の思いしか、持てないからです。
思えないことを、やれるわけがないのです。
だから、自我の思い通りに、生きたら良いのです。
例え、その思いによって、痛い目にあったとしても、その痛い目が、魂を成長させてくれるのですから、それは、良いことなのです。
完全な神が、無駄なことを、思わせるわけがないし、やらせるわけもないのです。
すべて、意味あって、思わせ、意味あって、やらせているのです。
どうか、そのことを信じ、今の原子核の量の自我の思い通りに、生きてください。
ただし、次の二つのことだけは、やってください。
この二つを、やっていれば、必ず、原子核が増えます。
増えた分、自我の思いが、真我の思いに、近づきますから、良い思いが持てるようになり、良い行いができるようになります。
これが、神が考えられた、最良の進化の方法なのです。
2017.06.18
※「外側の何も変わらなくても、自分の意識が変われば良い!」
この短い言葉の中には、掴んでも、掴みきれない、無限の意味が込められているのです。
どれほど、深い意味が込められているかは、原子核が大きくなり、理解力が増せば、増した分の深みを、自分から教わるでしょう。
その時、あなたは、驚愕するはずです。
※ 真理を、学び続けている人は、心の深みで確信を得たからです。
途中で、学びを止めてしまった人は、心の深みで確信を得ていなかったからです。
私が、神キチガイと言われるまでに、神を求めるのは、そこまで、原子核の量が増え、確信を深めたからです。
私と同じように、原子核が増えれば、誰だって、神キチガイになるのです。
これは、あたり前のことであって、何も不思議なことではないのです。
いずれ、地球人類の誰もが、神キチガイになる時代が来るでしょう。
「私は、若い時、こんな、悪いことを思っていた! だから、今までも、悪いことが起き、これからも、起きるのではないか?」と、心配する人がおりますが、あまり、深刻に考えないでください。
なぜなら、今まで起きていた悪いことは、業の消えていっている姿だからです。
もし、悪いことが起きたら、「ああ、今、業が、消えていっている! 消えていっている! 良いことだ!」と、思ってください。
心配して、業の上塗りをする方が、良くありません。
さあ、今の今を、ポジティブな思いで、生きてください。
それは、難しいことではありません。ただ、神を想ったら良いだけです。
想念は、実現の母です。
あなたは、これまで、悪いことを思っていたから、不幸がやって来たのです。
その悪い思いを、良い思いに変えたら、もう、不幸がやってくることがないのです。
良い思いの一番は、神を想うことです。
心配しても、何の益にもなりません。
心配する時間があるのなら、神を想うことに、時間を使ってください。
その時間は、建設的な時間になります。生きている時間になります。
どうか、心配しないでください。
あなたの宇宙を、良くも、悪くもするのは、あなたの思い一つなのですから・・・。
2017.06.25
※ 人類が苦しんでいるのは、法則を使い切っていないからです。
この宇宙には、「原因と結果の法則」と言う、素晴らしい法則があるのです。
その法則を、人類は、正しく使っていないのです。
良い思いを持てば、良い原因を作っているのですから、良い結果が来るのです。
こんな、素晴らしい法則の下に生かされているのに、人類は、その法則を、悪いことに使い、良いことに使っていないのです。
※「私は、心配性だ! 私は、人を愛せない! 私は、ダメな人間だ!」なんて、自分を責めないでください。
原子核を増やせば、自然と、自分の欠点は、無くなるのですから・・・。
何をしなくても、今の時を、今の自分を、今の世界を、今の宇宙を、感じている時は、原子核を増やしているのです。
なぜなら、感じている状態は、意識している状態、意識している状態は、原子核を増やしている状態だからです。
意識すれば、必ず、原子核が増えるのです。
それは、意識すれば、原子核が集まるように、できているからです。
何を意識しても、原子核が増えるのですから、神を意識している、私たちは、日々、どれほど、沢山の原子核を増やしていることでしょう。
“私は、瞑想がうまくできないから、原子核が増えない!” と思わないでください。
意識している事、自体、原子核を増やしているのですから・・・。
意識を持っている、あなたに、無駄な日々はありません。
意識を持っている、あなたに、無駄な人生はありません。
どうか、自分の人生に、自信を持ってください。
2017.07.02
皆さんは、何十億年もの時をかけ、真理の基礎を築き、真理の柱を立て、真理の壁を作り、真理の屋根を上げ、やっと、真理の建物を完成させる寸前まできた魂です。
もし、その真理が、間違いだったら、苦労して築いて来た建物を壊さなければならないのですよ!
あなたは、もう一度、何十億年もの時をかけ、建物を建て直すつもりですか?
もし、この真理が、間違いだったら、あなたの眼力が、未熟だったことになるのですよ!
それだけ、では、ありません。
今日まで導いてくれた、あなたの守護霊まで、否定してしまうことになるのですよ!
あなたは、自分の眼力を信じないのですか?、あなたの守護霊を信じないのですか?
自分を信じないで、守護霊を信じないで、一体、何を信じるというのですか?
たしかに、真理を求め続けるのは、大変な根気が入ります。
自分の中にも外にも、あなたを惑わすサタンがいるのですから・・・。
そのサタンは、巧みな言葉で、あなたを惑わします。
ですから、気持ちが揺らぐのも、無理は無いのです。でも、負けてはなりません。
この真理に出会って感動した、あの時の自分を思い出してください。
良いのです。苦しかったら、来なくても良いのです。
でも、帰ってきたくなったら、いつでも、帰っていらっしゃい。門は、いつも、開かれています。
「過ちては改むるに憚ることなかれ!」です。恥じることなど、ありません。
いや、かえって、勇気ある魂だと、私は、敬服します。
2017.07.09
※ あなたは、私に感動の涙を流させてくれました。
そして、あなたも、一緒に涙を流してくれました。
いいえ、あなたや、私だけでは、ありません。
沢山の人たちが、今も、涙を流しています。
彼らの感動の涙は、嘘の涙なのですか?
あなたと私が流した、あの感動の涙は、嘘の涙だったのですか?
よく、「自我丸出し!」とか、「自我人間だから仕方がないよ!」など、と、自我を悪く言う人がおりますが、これは、自我の意味の知らない人の言う言葉です。
自我は、決して、悪いモノではありません。いや、むしろ、必要不可欠なモノです。
なぜなら、自我が無くては、自分の存在が無いからです。
自我とは・・・
つまり・・
相手が認められるのは、自我があるからです。
自分を認める自我があればこそ、自分が存在でき、相手も存在できるのです。
これは、当たり前のことであって、何の不思議もありません。
あなたは、今日まで、自我の思いに添って生きてきました。
自我の思いに添って生きてきたがゆえに、苦しかったことが、沢山、あったでしょう。
でも、その苦しみが、あったればこそ、真理に、つながったのですから、それは、良かったのでは、ありませんか?
そうです。今日まで、自我で選んで来た、あなたの人生は、みな、良かったのです。
私たちは、自我の思いに添って、生きるしかないし、また、自我でしか、生きられないのです。
なぜなら、猫の前に鰹節を置いたら、必ず、食べるのです。
これは、当たり前のことです。私たちの人生も、同じです。
自我で生きるのは、猫が鰹節を食べるようなもので、誰でも食べるのです。
これは、神が許している、必然なのです。
ですから、自我で生きるのは、悪いことではないのです。
どうか、安心して、今の自分の思いに添った生き方をしてください。
ただし、次の2つのことだけは、やってください。
この2つのことを、やっていれば、原子核が増えるので、自我の思いが、真我の思いに近づいてゆきます。
そうすれば、学びやすい環境が与えられます。
当然、これまで以上に、原子核が増やせるでしょう。
神は、私たちに、出来ないことをしなさい、とは言っていません。出来ることをしなさい、と言っているのです。それが、自然な生き方だからです。
「人生の道」の曲を見て、今日まで歩んできた、自分の人生を、振り返ってみてください。
きっと、勇気が、わくはずです。
私の歩んできた人生に、間違いはなかったと・・。
2017.07.16
【光のメロディー集/ 人生の道 】
なぜ、余計な情報を発信してならないかと言いますと、余計な情報を発信すれば、余計な情報が入ってくるからです。
余計な情報が入ってくれば、当然、余計なことを考えるでしょう。
余計なことを考えれば、余計な連想をします。
それも、一旦、連想が始まれば、止めどもなく、連想するのです。
その連想の中身は、大方が、悪いことばかりです。
想念は、実現させますから、当然、悪いことばかりが、起こるでしょう。
つまり、原因と結果の法則によって、悪い結果が、やってくるわけです。
人間は、全員が全員、妄想によって、自分を苦しめているのです。
でも、そのことに、誰も気付いていないのです。
”私は、なぜ、こんな苦しい目に合わねばならないのだ!” と、人間は嘆きますが、それは、自分が妄想していたからです。
私たちは、肉体を持っていますので、肉体を維持するために必要なことは、やらねばなりません。
でも、今、必要なことを考え、今、必要なことを話し、今、必要なことをすれば良いのです。
余計なことを考えるから、余計なことをしなければならなくなるのです。
どうか、余計な情報を発信しないでください。
そうすれば、余計なことを考えないで済みます。
余計なことを考えなければ、苦しみは、やって来ません。
今、あなたが、やるべきことは、今、生きるに必要なことを、精いっぱい、やること、そして、瞑想することです。
念を押します。
この二つを、やっていれば、自覚の境界線に近づくことを、私は、保証します。
2017.07.23
※ 想わなければ、何も生まれないのが、宇宙の仕組みです。
当然、何の悩みも、何の苦しみも、何の不幸も、生まれません。
しかし、楽しみも、喜びも、幸せも、生まれません。
これでは、生きている、と言えるでしょうか?
皆さんは、想わなければ、不幸せを体験せずに済むけれど、幸せも体験できない、と言うことを、どう思いますか?
「想念を持っていれば、不幸を作るから、想念なんか要らない!」と言うのですか、それとも、「不幸は体験するけれど、幸せも体験できるから、持っていたい!」と言うのですか?
「生きている」とは、何でしょうか?
苦楽を体験することが、「生きている」と言う意味ではありませんか?
つまり、幸不幸を体験することが、「生きている」と言う意味ではありませんか?
何の体験もできないようでは、「生きている」とは、言えないはずです。
この宇宙に、悪いことなど、一つもありません。
なぜなら、どんなに、悪いように、見えていることも、すべて、進化成長に結びついている、良いことだからです。
意味のないことは、起きないのです。
不必要なことは、起きないのです。
進化成長に結びつかないことは、起きないのです。
起きていること自体が、必然であり、良いことだからです。
この宇宙は、すべて、必然によって、運ばれているのです。
その必然は、進化成長に必要な必然ですから、何が起きても良いことなのです。
ですから、今、自分に起きている苦しみを、悪と受け取らず、成長のための必然として、良く受け取ってください。
“あのことがあったから、今の自分が有るのだ!、本当に良かったな!”と、思える自分になってください。
絶望しないでください!
落胆しないでください!
悩まないでください!
心配しないでください!
この宇宙に、悪いことなど、一つも無いのですから・・・そう思えたら、心穏やかになるでしょう。
2017.07.30
※ 幸福だけ欲しいと、だだをこねている人は、下り道だけ欲しいと、だだをこねている人です。
幸福だけ欲しいと、だだをこねている人は、相手なんか認めないと、だだをこねている人です。
その人は、自分をやめてください。
自分をやりたいなら、相手を認めてやることです。
なぜなら、相手は、自分が創っているからです。
一つでは、一つはないのです。二つあるから、一つがあるのです。
自分があるから、相手があるのです。
相手がいらない(不幸せなどいらない)と、だだをこねている人は、自分がいらないと、言っているようなものです。
楽したいと言う思いが湧いてきたら、サタンに、やられていると思ってください。
私たちは、気の遠くなる進化の旅を続け、やっと、自我を持つ、人間へと成長してきました。
この進化の旅は、霊性の進化の旅だったのです。
霊性の進化とは、鈍重な波動から、精妙な波動へ、自分を昇華させることですが、そのためには、これまで付けてきた、鉱物臭さ、植物臭さ、動物臭さ、人間臭さを取り去らねばなりません。
取り去るためには、できるだけ、物質的なモノから離れる必要があるのです。
具体的には、
このように言うのは、波動の低いモノに意識を傾けていては、霊性を高める妨げになるからです。
霊性を高めるのに、難しいことをする必要はありません。
次の二つのことを、すれば、良いだけです。
社会体験とは、肉体を維持するために、今、やらなければならないことを、真心を込めてやることです。
瞑想は、言うまでもありません。神を想い続けることです。
この二つを、やっていれば、間違いなく、霊性が高められます。
高められた暁には、私たちは、幸せの境地に入れるのです。
それは、
霊は、神です。生命です。光です。幸せの大本です。
霊は、幸せの別名なのです。
それは、自分と切り離されているモノではないのです。
2017.08.06
※ 霊性の進化の大きな節目の一つは、自我を持つ、人間に進化することで、私たちは、そこを、超えました。
次の大きな節目は、神の自覚を持つ、神人へ進化することです。
そのためには、人間臭さから、一日も早く、抜け出さねばなりません。
夕時になると、家々の窓から明かりが、夕餉の臭が、漏れてきます。
誰もが、ホッとする一時です。
でも、それを、懐かしがっていてはいけないのです。
この世は、一夜泊まるホテルのようなモノです。そこに、長居は、禁物なのです。
どうか、これまで付けてきた、鉱物臭さ、植物臭さ、動物臭さ、人間臭さを取ってください。
苦しいことがやってくると、殆どの人が、その苦しみに負けて、業の上塗りをしてしまいます。
これでは、いつまでたっても、苦しみから抜け出せません。
では、業の上塗りをしないためには、どうすれば、良いのでしょうか?
皆さんは、まだ、自分の想いの凄さを、知りません。
皆さんの想いは、何でも作るのです。何でも生み出すのです。何でも成就させるのです。
想いほど、恐ろしく、また、素晴らしいモノはないのです。
こう言っても、皆さんは、まだ、他人事のように思っています。
即、今のあなたの人生に、関わってくることなのですよ!
“何も想わなかったら、何も生まれない!”
この言葉が、どれほど、深い意味を持っているか、知ってください。
もし、心の底で知ったら、あなたは、”やったぞ!” と、ガッツポーズをすることでしょう。
私が、何を言わんとしているのか、解りますか?
私は、今、凄いことを言っているのですよ!
私は、今、皆さんに、宇宙一の宝物を与えようとしているのですよ!
繰り返し言います。
“何も想わなかったら、何も生まれない!” のです。
良い事も・・・悪い事も・・・どうか、この意味の深さを知ってください。
2017.08.13
※ “想わなかったら、何も生まれない!”
しかし、私たちは、一時も、何も想わないでは、いられないのです。
想わないでいられないなら、何を想うべきですか?
「光は神なりき!」と、言われていますが、なぜ、光は、神なのでしょうか?
それは・・神と同じ能力を持っているからです。
このように、光は、神と同じ能力を持っているのです。
だから、“光は神なりき!”と、言われるのです。
光は、神の別名なのです。
2017.08.20
※ 光は、オールマイティーですから、光が強くなれば、間違いなく、人生は、好転します。
では、光を強くするには、どうしたら、良いでしょうか?
簡単なことです。想念を良く使うことです。
つまり、どんなことも、良く受け取り、悪想念を抱かないことです。
悪想念を抱かないようにするためには、時間の許す限り、神を想うことです。
たった、これだけで、人生は、好転するのです。
○が万能なのは、神と同じ、すべての要素が備わっているからです。
○は・・・
ですから、○は、自由です。
○は・・・
水が方円の器に添うように、空気圧が均衡を保つように、隙間が生まれても、いつの間にか、埋まっているのが、○なのです。収まりのつくのが、○なのです。
○は・・・
○は・・・
完全な○には、一つの欠陥もないのです。一つの無駄もないのです。一つの不都合もないのです。
ですから、○の世界に、不幸は、ありません。何が起きても良いことです。
だから、○は、肯定です。
○は・・・
○は・・・
それは、永遠に無くならないからです。
○は・・・
それは、循環しているからです。
循環しているから、無限のエネルギー(光)を生むのです。
○は・・・
摩擦がないから、熱が生まれません。
だから、争いがないのです。
○は・・・
偏りがないから、苦しみが生まれません。痛みが生まれません。不幸が生まれません。
○は・・・
だから、平和なのです。
○は・・・
どんな○も、真(誠・実)の○なのです。
○は・・・
○を思うと、気持ちが良くなるのは、○には、歪みがないからです。
歪んでいるのは、悪です。不正義です。
だから、悪を見ると、気持ちが悪くなるのです。
○は・・・
○ほど、美しい形は、ありません。それは、歪みが無いからです。
美は、総合されたものです。美は、すべてを受け入れた状態なのです。
○は、すべてを受け入れた状態なのです。
すなわち、○は、あらゆる歪みを消化し、統合した姿なのです。
○は・・・
○は、無くしようのないものです。崩しようのないものです。
ですから、○に、逆らうことは、できません。
逆らえば、苦しみが、やってくるだけです。
○は・・・
○は、永遠に生き通す命なのです。
○は・・・
○には、中心核(中芯核)があります。 神にも、中心核があります。
中心核がある限り、永遠に存在し続けます。
中心核が、光(エネルギー)を補給するからです。
○は・・・
この宇宙には、○のみがあるのです。
私たちの住んでいる、相対宇宙にも、○は、ありますが、その○は、多面の○です。
しかし、絶対宇宙の○は、一面の○なのです。
これが、表現宇宙の○と、絶対宇宙の○の、大きな相違点です。
でも、多面の○だからこそ、表現宇宙に、無数の表現物が生まれてくるのです。
絶対宇宙に、表現物がないのは、一面の○しかないからです。
しかし、一面の○だからこそ、万能なのです。
このように、○は、万能なのです。万能ゆえに、○は、神なのです。
2017.08.27
※ 表現物の中で、一番調和の取れているのが、○と言う形です。
一番波動の良い形が、○なのです。
だから、○を思うだけで、○を語るだけで、○を見るだけで、幸せな気分になるのです。
その証に、○を描いてみてください。気持ちが良くなります。
手で空中に、○を描いても、思いで描いても、結構です。
それも、できるだけ、ゆっくり、描いてください。
心が和むはずです。心が穏やかになるはずです。心が落ち着くはずです。
真理に目覚めた途端、積極的な人になるのは、潜在していた神の本能が、働き出したからです。
真理に目覚めた人は、なぜか知らないけれど、動きたくなるのです。
これは、動けば、原子核が増えることを、本能的に知っているからです。
この宇宙は、動けば、動くほど、進化成長するよう創られているのです。
その証拠に、宇宙の運行や、自然界の働きや、生物の動きを、見てください。
星雲も、恒星も、惑星も、彗星も、空気も、水も、土も、菌も、虫も、鳥も、魚も、どんな生き物も、みな、動いています。
それも、楽しく・・・、ウキウキと・・・、自我はなくても、彼らは、動けば、原子核が増えることを、本能的に知っているからです。
自我のないモノでさえ、そうなのですから、真理に目覚めた者が、動くようになるのは、当然でしょう。
でも、人間の中には、動くのを嫌っている者がおります。
これは、動くことの重要さを、知らないからです。
知らなければ、どうしても、楽な生き方を選んでしまうのです。
一万円、持っていても、持っていることを、知らなければ、使えないのです。
パソコンを持っていても、使い方を、知らなければ、使えないのです。
「無知こそ最大の罪!」と言われるのは、知らなければ、原因を作ろうとしないからです。
でも、私たちは、原子核を増やす方法を知ったのです。
それも、絶対間違いない方法を・・・。
なのに、あなたは、どうして、やろうとしないのですか?
信じられないからですか?
やって、嘘なら、引き返したらいいではありませんか?
やりもしないで、嘘だと決めつけるのは、賢い人とは言えません。
どうか、積極的な人になってください。
「犬も歩けば棒に当たる!」の諺を信じ、ぜひ、動いてください。
動いて(体験して)損することなど、絶対ないのですから・・・。
2017.09.03
※「犬も歩けば棒に当たる」の諺の意味は、犬もフラフラ歩いていると、棒に当たって転ぶものです。
でも、転んだら、必ず、何かを拾って起き上がるものです。
何かを拾うとは、体験する、と言う意味です。
体験は、間違いなく、人を成長させるのです。
だから、諺は、「フラフラでもいいから動きなさい!」と言っているのです。
最近、数人の皆さんから、“素晴らしい意識体験をしました!”と言う、ご報告を頂いております。
これは、嬉しいことなのですが、誤解すると、道を遠回りしかねないので、ご注意申し上げます。
霊能者たちが、次のような、意識体験をしたと言っております。
周りの人たちが、自分に思えてきて、抱きつきたくなったとか、
自分が、宇宙大に拡大し、宇宙そのものになったとか、
すべてのモノが、神に思えてきて、愛おしくなったとか、
神の光に満たされ、言いようのない至福感を体験したとか・・・。
中には、青龍の背に乗って、天に昇った、と言う人もおります。
他にも、
自然の息遣いが、感じられるとか、
樹液の流れが、感じられるとか、
自分の胸の中で、宇宙が回転しているのが、見えるとか、
まるで、覚醒剤を飲んで、ハイになったような、意識体験をしているのです。
このような、意識体験は、感情を揺ぶるため、涙が止めどもなく出てくるのです。
私も、奇想天外な、意識体験を数多くしておりますが、これは、有る意識ゾーンに入った時に起きる現象で、これを、仏教では、アラヤシキ(阿頼耶識)の境地に入った、と言っております。
でも、意識に、そのような、ゾーンが有るわけではありません。
すべて、内側の(自分の)想念感情が創った、現象です。
これは、「自分しか存在しない! 主観宇宙しかない! と思っている人には、解って頂けると思います。」(なぜ、想念感情が、そのような現象を創るか、考えてみてください。これは、宿題です。)
私たちの想念は、何でも創るのです。
その自分で創った現象を、悟りと誤解してしまう人が多いので、私は、現象を良く思わないのです。
世の中には、悟ったと誤解し、宗教の指導者になっている人がおりますが、これは、人を惑わすことになるので、大変危険です。
皆さんは、熟成した魂ですから、そのようなことは、しないと思いますが、増長すると、そうならないとも限らないので、注意してください。
私たちが、得るべきモノは、あくまでも、自覚です。
この自覚は、現象とは、関係ないのです。(自覚の意味が心の底で解ったら、そのような、現象に惑わされることはなくなる。)
宇宙は、無限です。神は、無限です。
その宇宙を、その神を、知ることは、永遠にできないのです。
素晴らしいモノを掴んだと思っても、その先に、それ以上の素晴らしいモノが見えてくるのが、宇宙の深淵さだからです。
ですから、素晴らしい意識体験をしたからと言って、「これが悟りだ! これが最高だ!」と、誤解しないでください。
誤解すれば、意識を限定するので、成長が止まってしまいます。
水をさすようですが、世の中には、そのような、意識体験をしている人は、沢山いるのです。
ある人は、このようなことを、言っておりました。
“私は、最高の絵の構想を持って描いていたつもりだったが、描き終わった途端、色褪せてしまった!”、と・・・。
私たちは、一刻一刻、成長しているのですから、今、最高と思っていることも、次の瞬間、虚しくなるのは、当然なのです。
でも、虚しくなるのは、自分が成長している証ですから、それは、良いことです。
私たちは、永遠に到達できない(悟れない)道を、永遠に歩んで行くのです。
でも、永遠に到達できないが、ゆえに、素晴らしいのではありませんか?
ここで終わり、と言う宇宙に、何の魅力がありますか?
終着点のない宇宙だからこそ、希望が持てて、楽しいのです。
手の届く幸せは、幸せではないのです。
永遠に、手の届かない幸せだからこそ、幸せなのです。
その幸せは、理解力と自覚が、与えてくれるのです。
ゆえに、大切なのは、現象ではなく、理解力と自覚です。
どうか、誤解しないでください。
原子核を増やして、理解力と自覚を高める、正しい真理の求め方をしてください。
それは、二つのことを、やればいいのです。
2017.09.10
※ 先日、「食後、瞑想してはいけないのですか?」と言う、質問を受けました。
そのようなことは、ありません。
ただ、食後、瞑想すると、眠くなるので、避けた方が良いかもしれません。
でも、眠くならないなら、やっても良いのです。
私たちは、宇宙エネルギーで満たされると、心穏やかになるように、できているのです。
食べ物の中にも、宇宙エネルギーが入っているわけですから、食事をすると、心穏やかになり、眠くなるのは、当然なのです。
この社会では、処世術に長けている人が、出世でき、処世術の下手な人は、出世できないようですが、不思議なことに、賢い人ほど、処世術が下手なのです。
彼らは、おべんちゃらも言えない、胡麻をすることもできない、へつらうこともできない、うまく立ち回ることもできない、およそ、出世とは、縁遠い生き方をします。
なぜでしょうか?
それは、この世の何を得ても、喜べないからです。
何と、つまらない人と、思うかもしれませんが、でも、そのような、生き方をしている人の方が、賢いのです。
なぜなら、心が、穏やかに、生きられるからです。
世の人々を、見てください。
毎日、物や、金や、地位や名誉を、得るために、戦々恐々として、生きています。
ライバルとの闘い、得意先との競争、ノルマ達成など、寝る時間を惜しんで、働いています。
このような、生活が、賢い人の生き方でしょうか?
私たちに、必要なのは、物や、金や、地位や名誉、では、ありません。
心の穏やかさです。
心穏やかに生きるのに、処世術など、必要ないのです。
だから、賢い者は、出世欲を持たないのです。
賢い人は、
このような、生き方をしている人は、神に近いので、原子核を増やすチャンスが、巡ってくるのです。
2017.09.17
私が望んでいる今は、今の今です。
過去の今でも、未来の今でも、ありません。今の一時の今なのです。
しかし、その今の一時は、すぐに、過去の一時になってしまいます。
でも、すぐに、今の一時は、やってきます。
と言うことは、今の一時は、永遠に続く、今の一時である、と言うことです。
それは、今しか無い、と言う意味です。
「今・今・今・今・・・」だけが、永遠に存在する、と言う意味です。
では、その今の一時を使えるのは、何でしょうか?
それは、想念です。想念だけが、今の一時を使えるのです。
なぜなら、想念だけが、時を、なぞれるからです。
想念、以外、時を使うことは、絶対できません。
それは、想念意識そのものが、時だからです。時が、意識そのものだからです。
ですから、想念意識だけが、時を、なぞれるのです。
このことだけは、知っておいてください。
では、その想念意識を使えるのは、誰でしょうか?
それは、人間なら、誰でも、使えます。
金持ちであろうが、貧乏人であろうが、白人であろうが、黒人であろうが、男であろうが、女であろうが、大人であろうが、子供であろうが、頭が良かろうが、悪かろうが、想念だけは、平等に使えるのです。
では、その想念を使うのに、何か特別な技術が、いるのでしょうか?
いいえ、何の技術もいりません。ただ、想えば良いだけです。
ただし、想いの内容を考え使ってください。
なぜなら、想念したことは、何でも実現するからです。
実際、私たちは、今日まで、苦しい人生も、楽しい人生も、自分の想念で作ってきたでは、ありませんか?
でも、地球人類は、残念なことに、未だに、そのことに、気付いていないのです。
だから、自分(想念)で、苦しみを作りながら、人のせいにしたり、偶然のせいにしたりして、嘆き悲しんでいるのです。
これでは、いつまで経っても、成長できません。
病気も、事故災難も、家庭内の不幸も、みな、自分の想念が作ったのです。
「想念は実現の母!」です。
どうか、このことに、気付いてください。
2017.09.24
「宇宙は、有限である!」と言う人がおりますが、宇宙の奥に、何か壁でもあるのでしょうか?
もし、あったとしても、その壁の向こうは、どうなっているのでしょうか?
また、壁があるのでしょうか?
もし、あったとしても、その壁の向こうは、どうなっているのでしょうか?
また、壁があるのでしょうか?
どんなに壁を作っても、この話は、永遠に続くのです。
だから、宇宙は、無限なのです。
それでは、宇宙は、無限である、と言う前提のもとに、話を進めましょう。
あなたは、Aさんを殴りました。
それは、殴らなければならない、原因があったからです。
では、その原因は、何でしょうか?
Aさんに殴られたから?、嫌なことをされたから?、嫌なことを言われたから?
理由は、どうあれ、殴る原因があったから、あなたは、Aさんを殴ったはずです。
さて、Aさんを殴った原因は、Aさんを殴ったことで、消えています。
殴られた、Aさんの原因も、あなたに殴られたことで、消えています。
ですから、お互い、殴り殴られたことで、原因と結果の法則は、終息しています。
では、Aさんは、どうして、あなたに、殴られるようなことをしたのでしょうか?
何の理由もなくするはずがありません。
あなたが、Aさんに、何か嫌なことをしたから(原因を作ったから)、Aさんは、あなたに、嫌なことをしたはずです。
でも、その嫌なことをした、Aさんは、その前に、あなたから、嫌なことをされたから、嫌なことをしたはずです。
でも、その嫌なことは、その前の前に、あなたから、嫌なことをされたから、したはずです。
こうなると、嫌なこと(原因と結果)が、永遠に、めぐることになり、終息点は、ありません。
では、どうして、最初に、嫌なことが、生まれたのでしょうか?
つまり、最初の原因は、どうして、生まれたのでしょうか?
それは、原因なしに、生まれたのです。
なぜなら、宇宙は、無限だからです。
無限宇宙には、最初が無いわけですから、原因が無いのです。
これが、原因無き原因の謂われなのです。
と言うことは、あなたは、原因なしに、Aさんを殴ったことになります。
この原因なしに殴った例え話が、原因無き原因の存在する理由なのです。
もし、事の起こりに、原因が必要なら、この宇宙に、何も生まれなかったでしょう。
何も生まれなかったら、どうして、私たちは、学べるでしょうか?
学べない宇宙に、何の意味があるでしょうか?
私たちは、成長してゆかねばなりません。
そのためには、体験して学ぶ、必要があるのです。
だから、体験できる宇宙を創る、原因無き原因者が、必要なのです。
でも、その、原因無き原因者は、神であろうが、誰であろうが、良いのです。
つまり、誰が、最初に殴ったかなど、どうでも、良いのです。
ただ、私たちは、体験し、学び、成長できれば、良いのですから・・・。
2017.10.01
この世で起きている、すべての事象は、法則どおり、寸分の狂いもなく、展開されて行きます。
そこに、一切の偶然も、奇跡も、例外も、特別も、ありません。
ただ、法則どおりに、粛々と進められて行くだけです。
ですから、法則どおり、生きていれば、私たちに、苦しみはないのです。
情け容赦なく、法則どおり、展開してゆく宇宙は、まさに、神の峻厳な愛の現れです。
冷たいように思えますが、それが、一番、間違いのない、進化の方法だからです。
もし、人間のような、情をかけたら、宇宙は、大混乱に陥ってしまうでしょう。
とは言っても、神は、一つだけ、恩情を示されました。
それは、「二度と罪を犯さない!」と、堅く心に誓った時に許される恩情です。
神は、ご存じです。「肉体を持っている限り、罪を犯すのは仕方がない!」と・・・。
だから、神は、悔改めた者に、恩情を示されたのです。
私たちは、進化成長するために、生まれてきました。
この世の厳しいドラマは、進化成長のために、自分が用意した課題ですから、乗り越えられない課題など、一つもないのです。
ただし、漫然と生きていては、乗り越えられません。
次の二つのことだけは、やってください。
2017.10.08
※ 社会体験とは、今、やらねばならないことを、真心を込めて、やることです。
瞑想とは、神を想うことです。
この二つを、やっていれば、あなたの生活環境は、間違いなく、良い方向へ開けてゆきます。
今のあなたの環境が変わらないのは、まだ、その環境で学ぶ必要があるからか?、真剣に、やっていないか? の、どちらかです。
銃社会と言われるアメリカで、銃撃事件が起きる度に、銃規制問題が取り沙汰されますが、一度だって、法制化されたことがありません。
人間は、自分の身を守るために、武器を手放せないでいますが、本当は、自分で身を守る必要など無いのです。
なぜなら、法則(因果の法則)が、身を守ってくれるからです。
法則を犯せば、痛い目にあいます。法則を守れば、幸せになります。
つまり、法則を犯せば、法則によって罰せられ、法則を守れば、法則によって守られるのです。
でも、人間は、そのことを知りませんから、軍備の増強をして、身の安全を図ろうとするのです。
確かに、銃を持っていれば、身の安全が図れるような気がします。
でも、全く、反対なのです。
なぜなら、相手も、身の安全を図ろうとして、銃を持つようになるからです。
「北風と太陽」と言う、童話があります。
この童話は、北風と太陽のどちらが、旅人の上着を脱がせることができるか、勝負する話ですが、
まず、北風が、旅人に風を吹きかけ、強引に上着を脱がせようとします。
でも、吹きかければ、吹きかけるほど、旅人は、身を固くして、脱ごうとしません。
北風は、諦めます。
次に、太陽が挑戦します。
太陽は、旅人に、陽の光を優しく注ぎます。
暑くなった旅人は、たまらなく、上着を脱ぎます。
力づくで脱がせようとした、北風の方が負け、優しく陽の光を与えた、太陽の方が勝ったのです。
この童話が示すように、強引に脱がせようとすれば、相手も防御を固め、開襟を見せれば、相手も開襟を見せてくれるのです。
抑止力として核兵器が必要だと言いますが、均衡を保つには、倍の核兵器が必要になるため、危険も、間違いも、倍になるのです。
人間は、感情の生き物ですから、間違って、使わないとも限らないのです。
事実、感情の抑えられない人たちが、凶器を使って、様々な惨事を起こしているでは、ありませんか? 凶器がなければ、そんな惨事は、起きないのです。
確かに、因果の法則は、人の目に見えづらいだけに、信じられないかも知れません。
でも、信じられなくても、間違いなく、因果の法則は、身を守ってくれるのです。
いずれ、地球人類は、銃で身を守らなくても、法則が守ってくれることを、知るでしょう。
人類は、それを、知るために、今、痛い目にあっているのです。
繰り返します。
身の安全を図りたいなら、法則(因果の法則)を、守ることです。
そうすれば、法則が、身を守ってくれます。
それは、誰に頼む必要もないし、お金もかかりません。
こんな素晴らしい、セキュリティーシステムがあると言うのに、どうして、人類は、使おうとしないのでしょうか?
さあ、法則を信じ、法則を守ってください。
法則を守っていれば、何もしなくても、身の安全が図られるのですから・・・。
2017.10.15
先日、特に用もないのに、わざわざ、車を運転して、清里まで行ってきました。
私は、なぜ、そのような、行動を取ったのでしょうか?
それは、常々、清里に行きたいと、思っていたからです。
皆さんも、体験あると思いますが、なぜか知らないけれど、やりたくなる、したくなる、行きたくなる、と言った気持ちが起きるのは、普段、そう言う思いを持っていたからです。
一回や二回、思っても、行動につながりませんが、何度も、思っていたら、行動につながるのです。
私が、普段の思いが、大切だと言うのは、常々、思っていたことが、肉体上に、行動上に、環境上に、現れてくるからです。
戦争も、テロも、盗みも、人殺しも、自殺も、病気や、事故や、災難や、災害も、普段の思いの現れです。
人生は、すべて、想念次第なのです。
想念次第なら、想念で、人生を、どうにでも、できるのですから、こんな安心なことは、ありません。
しかし、殆どの人が、人生に、不安を抱いています。
それは、想念を信じないで、運や偶然を信じているからです。
この宇宙に、運や偶然など、微塵もないのです。
あるのは、想念によって作られる、必然のみです。
普段、思っていたことが、行動に現れる、と言うことは、
普段、思っていたことが、人生に現れる、と言うことですから、
普段の想念を、良くよく注意して、使わなくてはなりません。
どうか、良い想念を持つよう、心掛けてください。
そうすれば、もう、保険に入る必要も、銃を持つ必要も、ありません。
2017.10.22
注・・・
普段、“私は、誰よりも、理解力が高い!” と思っている人は、何かの拍子に、言葉や態度に、出るものです。
本当に、理解力の高い人なら、そのような思いは、持ちません。
世の中には、威厳を見せ、話をする指導者や、威厳を頼りに、話を聞く人がおりますが、内容で勝負できない指導者は、威厳を見せて、人を引きつけるしかありません。
また、聞く方も、理解力がなければ、威厳や、名声や、現象などを頼りに、話を聞くしかありません。
これでは、空っぽのものを、食べ合っているので、何も身に付きません。
でも、偉く(威厳を)見せなくては、話を聞いてくれないし、また、聞く方も、理解力がなければ、威厳を頼りに、聞くしかないのです。
幼い魂は、偉く見せかける人(先生・肩書・名声、など)の話は、聞くけれど、そうでない人の話は、聞かないのです。
それは、この社会で「名のある人は偉い!」と言う、概念が、独り歩きしているからです。
先生の名が、大切なのではなく、その人が話す内容が、大切なのではありませんか?
本来なら、威厳など、見せる必要はないのです。反対に、親しく接するべきです。
覚者が、“私とあなた達とは、何も変わらないのですよ!” と言うのは、親しく接すれば、 “私でも悟れる!” と思ってもらえるからです。
皆さんのように、理解力の高い魂には、もう、威厳も、名声も、現象も、必要ありません。
私が、皆さんと、親しく接するのは、「皆さんと私とは、大して変わらない!」と言うことを、知ってもらいたいからです。
だからと言って、人の家に土足でヅカヅカと入る、非常識なことはしないでください。
真の求道者は、常識人なのですから・・・。
2017.10.29
※ 節目を超えた人の心は、無限大です。
どんなことも受け入れる、大きな心を持っています。
ですから、常識人です。誰とでも、親しく付き合います。
決して、自分を偉く見せません。偉く見せるどころか、頭の低い人です。
どうか、気軽に付き合ってください。
一般人の殆どは、本当の自分を、知らないで、生きています。
彼らが、知っているのは、肉体の自分だけです。
それで、生きている、と言えるでしょうか?
では、本当の自分とは、何でしょうか?
それは、意識です。
でも、意識は、見えませんから、知ろうにも、知りようがありません。
では、どうすれば、意識の自分を、知ることができるのでしょうか?
それには、まず、意識の本質(本性)を、知らねばなりません。
では、知りましょう!
意識は、すべての本質です。
すなわち、モノの素材であり、エネルギーであり、光です。
その意識は、自由意思を持っています。意図を持っています。計画性を持っています。創造力を持っています。更に、無限の可能性と発展性を持っています。
つまり、意識は、無限の能力を持っているのです。
しかし、どんな偉大な意識でも、見える(感じられる)状態にしなくては、存在しているかどうか分かりません。
そこで、神は、意識を見える状態にするために、私たちに、想念を持たせたのです。
私たちは、今、自分の想念を使って、様々な物を創造しています。様々な人生を作っています。様々な幸不幸を作っています。
これは、見えない意識を、見える状態にした、表現方法なのです。
でも、今の地球人類は、自分の想念で、人生を作っているとは、思っていません。
だから、意識を、自分だと思えないのです。
自分を、意識だと思えるようになるためには、自分の想念で、人生を作っていることに、気付かねばならないのです。さあ、気付きましょう!
こんなに、はっきり、見せられているのに、人間は、自分の想念で、人生を作っていると思っていないのです。想念しないでは、何も生まれないのに・・・です。
その想念は、意識から、生まれたのです。
と言うことは、想念を持っている、私たちは、意識そのものであることになります。
その証拠に、あなたの意識が無くなれば、全て、消えてしまいます。宇宙さえも、消えてしまうのです。
でも、誰一人として、自分を、意識だと思っていないのです。
これでは、自分を見失ったまま、一生を終えてしまうでしょう。
どうか、自分が、意識であることを、知ってください。自分が、想念であることを、知ってください。
今後、どのような人生を作り上げて行くかは、想念の使い方次第なのですから・・・。
2017.11.05
※ 小学校で、一番に、教えねばならないのは、想念についてです。
次に、教えねばならないのは、死についてです。
この二つを教えたら、社会は、一変するでしょう。
どうか、自分の力を信じてください。自分の中に潜在している力を信じてください。
皆さんは、自分の力を信じないで、外側の人に、外側のモノに、頼り過ぎているのではありませんか?
外側のモノに頼り過ぎると、自分の中に潜在している力を、見失ってしまうのです。
皆さんの中には、偉大な力が潜在しているのですよ!
その力を使えば、何かに頼る必要はないのです。
自分の力を信じるとは、自分が持っている、想念の力を信じる、と言う意味です。
想念の力は、絶大です。
これは、自我を持った時に、神が与えてくれた、宇宙一の贈り物です。
想念を使えば、あなたの欲しいモノは、何でも手に入るのです。
人生を豊かにすることもできます。
神に近付くこともできます。
勿論、幸せにもなれます。
そんな、想念を持たされているのに、殆どの人は、そのことを知らないで、生きているのです。
大金を持っていても、持っていることを、知らなければ、使えないように、偉大な力を持っていても、知らなければ、使えないのです。
どうか、自分の持ちモノに、気付いてください。
気付けば、宝の持ち腐れにしないで済みます。
さあ、自分の中に潜在している力に、気付いてください。
気付いたら、信じてください。信じたら、使ってください。
そうすれば、あなたは、宇宙一の豊かな者になれるのですから・・・。
2017.11.12
※ この宇宙に、割り切れるモノは、何一つありません。
それは、想念が、割り切れないからです。
割り切れないから、割り切れない(再現性のない)幸せが、味わえるのです。
でも、割り切れない不幸と、隣り合わせになっていることも、知らねばなりません。
想念は、実に不思議な存在です。
どうか、想念を、一生の研究課題にしてください。
なぜ、瞑想は、科学なのでしょうか?
それは、原因を作れば、必ず、結果が得られる、と言う、「因果の法則」を利用しているからです。
因果の法則を利用するのは、誰でもない、自分です。
瞑想が科学である、と言うのは、自分の想念を、因果の法則に、関与させるからです。
自分の想念を、関与させなくては、因果の法則は、働かないのです。
なぜなら、自分の想念しか、原因を作れないからです。
自分の想念によって、原因を作り、その結果を、自分の中に積むのが、科学なのです。
自分が、自分の想いを使って、瞑想するわけですから、自分の中に結果が積まれるのは、当然でしょう。
だから、瞑想すれば、必ず、自分が変わるのです。
変わらない瞑想は、嘘です。何かが、どこかが、間違っているのです。
もしかしたら、形や作法に囚われているのかも知れません。
あるいは、想念を正しく使っていないのかも知れません。
あるいは、急ぎ過ぎなのかも知れません。
あるいは、結果が欲しくて、想いを分散させているのかも知れません。
でも、想いを使って、瞑想すれば、必ず、結果は、得られるのです。
例え、あなたが望む結果は、得られなくても、それに近い結果は、必ず、得られます。
例えば、集中力が得られます。忍耐力が得られます。未来に向けて布石が打たれます。
瞑想は、因果の法則を利用した科学ですから、やれば、必ず、何らかの痕跡(結果)を残すのです。
神は、決して、無駄なことはさせません。
あなたの瞑想は、いつか、必ず、花開きます。
それを信じて、瞑想を、やり続けてください。
2017.11.19
※ 瞑想する前に、次のような、強い意思を持ってください。
“私は、五分間、神(自分のマントラ)以外、何も想わない!”
五分間は、あくまでも、理想です。一分でも、五秒でも、一秒でも、結構です。
私たちは、よく、「愛」という言葉を口にしますが、「愛」という言葉を聞いて、嫌がる人はおりません。
それは、素晴らしい波動を持った言葉だからです。
ですから、「愛」という言葉を聞いただけで、嬉しくなるのです。
しかし、「愛」の言葉に、騙されてはなりません。
なぜなら、偽善の愛や、思い違いの愛も、あるからです。
人は、良く、”愛しています!” という言葉を使いますが、愛の真の意味を理解して使っているでしょうか?
殆どの人は、”好きです” 、とか、 ”恋い慕う” 、といった意味で使っています。
確かに、それも、愛の一面ではありますが、真の愛は、そんな軽薄なものではないのです。
真の愛とは、「大バランス・大調和・中庸・中道・真ん中」に引き寄せる力のことです。
宇宙が望んでいることは、魂を進化成長させることにあるわけですから、その目的に近づけてくれる、「大バランス・大調和・中庸・中道・真ん中」に引き寄せる力が、真の愛の意味になるのです。
神が、峻厳な愛を行使するのは、厳しい愛でなければ、中庸を維持できないからです。
先程、偽善の愛も、思い違いの愛も、あると言いましたが、人間が使っている愛は、中庸から離れた、優しさや、思いやりなどの、甘やかしの愛なのです。
そんな、甘い愛では、魂は、進化成長できないのです。
世の中には、愛を誤解して使い、人を駄目にしている人が結構いるのです。
誤解して使っているならまだしも、愛と言う言葉を巧みに使って、人を騙している人もいるのです。
確かに、愛と言う言葉は、美しいです。心地よい響きを持っています。
ですから、愛という言葉に酔ってしまい、真の愛が何なのか、判断ができなくなるのです。
どうか、真の愛が何か、理解した上で、受け取ってください。また、使ってください。
真の愛は、原因と結果の法則が支えていますので、どんなに、媚びても、へつらっても、許してくれません。
厳しいと思われるかも知れませんが、厳しいからこそ、成長できるのですから、真の愛を嫌わないでください。
2017.11.26
真理を生半可でかじっている人の中に、現代医療を否定する人がおりますが、これは、大変危険です。
確かに、私たちの中には、偉大な生命力が宿っていますから、生命力に任せるのは、正しいのですが、それは、真理を心の底で知った人(自覚の境界線を超えた人)に言えることであって、一般人を含め、殆どの人は、知識段階ですから、この話は、当てはまらないのです。
私たちには、五感があるため、病気になると、どうしても、患部を意識してしまいます。
意識すれば、エネルギーを与えるわけですから、病気は、なかなか、治らないのです。
本当は、病気になっても、意識しなかったら、自然治癒力によって、病気は、治ってしまうのです。
しかし、痛みや苦しみの症状が出ると、どうしても、意識しないでいられません。
ですから、痛みや苦しみを取る、薬や手術などが必要になるのです。
これは、今の人類には、止む得ぬことですから、現代医療を使って良いのです。
ただし、正しい使い方をしなくてはなりません。
正しい使い方とは、
薬は、痛み苦しみが無くなるまで、使用すること。
痛み苦しみが取れたら、あとは、生命力に任せ、一切、病気のことは、忘れることです。
この忘れることが、とても大切なのです。
昔から、病気は、峠を越えたら、心配いらないと言われてきましたが、これは、峠を越えたら、自然治癒力が働きだすからです。
この生命力の働きは、中途半端な働きではないのです。
ですから、自然治癒力が働きだしたら、余計なことはしないことです。
もし、峠を越えた人に、薬を与え続けると、細胞は、薬に頼るようになるため、生命力が働いてくれなくなるのです。当然、副作用も起こります。
特に、現代医療で使われている薬は、強力ですから、使い過ぎると、良い細胞まで悪くしてしまうのです。
本当は、できるだけ、薬は使わない方が良いのです。使うにしても、峠を越えるまでです。
病気は、私たちに問いかけているのです。
あなたの生き方は、何処か間違っていませんか?、
どんな、想念を持って、生きていますか? と・・・。
病気で苦しんでいる人は、どうして、病気になったか、考えてみてください。
原因を見つけ、生き方を正したら、病気は、治ります。
それは、もう、危険信号を送る必要がなくなったからです。
病気は、業の消えている姿ですから、忘れることです。
病気で、一番大切なことは、病気を忘れることなのです。
忘れること、触らないこと、いじらないこと、意識しないこと、これが、病気にならない最良の方法であり、病気を治す最良の方法なのです。
何も想わなければ、何も生まれないのです。反対に、想えば、何でも生まれるのです。
これは、病気に限らず、人生万端に言える、想念の使い方の注意すべき点です。
どうか、想念の偉大さを知ってください。
そして、正しい想念の使い方をしてください。
正しい想念の使い方とは、恨まない、怒らない、憎しみを持たない、心配しない、要するに、悪いことを、想わないことです。
そうすれば、絶対、悪いことは、起きないのですから・・・。
2017.12.03
この宇宙には、たった一つのモノしかありません。
たった一つのモノしか無い、と言うことは、すべては、一つのモノの現れですから、砂一粒も、宇宙だと言うことです。
ですから、砂一粒でも無くなったら、その時点で、宇宙は、無くなってしまうのです。
二つのモノがあるなら、一つのものが無くなっても、もう一つのものが有るわけですから、一つは残ります。
でも、一つのモノしか無いわけですから、一つのものが無くなったら、何も無くなるのは、当然なのです。
その一つのモノを、神と呼んでいるだけです。
神と言う名が嫌いなら、「原子」と呼んでも良いのです。
なぜなら、「一つのモノ」が、「原子」になっているからです。
もし、あなたが、砂一粒を、軽んじるなら、宇宙を、神を、軽んじることになるのです。
つまり、自分を、軽んじることになるのです。
自分は、一つのモノの現れだからです。
私が、”すべてのモノを愛しなさい!”、と言うのは、すべてのモノは、自分だからです。
だから、自愛しか無いのです。
あなたが嫌う、あの人も、この人も、あの菌も、この虫も、この汚物も、みな、自分です。
どうか、自分を嫌わないでください。
2017.12.10
※ あなたが、どんなに、神ではなく、肉体だと言い張っても、
あなたの肉体は、細胞の集まりであり、
その細胞は、分子の集まりであり、
その分子は、原子からできており、
その原子は、神の意識によって創られたものですから、
あなたは、間違いなく、神なのです。
もう、いい加減に、人間と言い張るのを止めてください。
人間は、自分の能力が、どのくらいあるか、気付かず生きています。
それは、肉体を、自分だと、誤解しているからです。
肉体を自分だと思えば、肉体は、自然法則内の能力しか出せませんから、小さな能力に甘んじるしかありません。
でも、生命だと思えたら、自然の法則の外に出てしまうので、大きな力が発揮できるのです。
今の地球人類は、自然の法則に縛られ、窮屈な生き方をしているのです。
人間の中には、二人の自分がいるのです。
自我の自分は、幻の自分ですから、いつか、必ず、無くなってしまいます。
でも、真我の自分は、無くしたくても、無くせないのです。
それは、意識だからです。エネルギーだからです。魂だからです。
つまり、生命だからです。
その生命の自分は、無限の能力を持っているのです。
ただし、持っていても、持っている事を知らなければ、使えないのです。
今の人類は、無限の能力を持っていながら、そのことを知らないため、使っていないのです。
それは、本当の自分が、何か知らないからです。
もし、本当の自分を、心の底で知ったら、宇宙さえも創れるようになるのです。
どうか、本当の自分を知ってください。
無限の能力を持った偉大な存在であることに、目覚めてください。
2017.12.17
学びの最終目標は、自分が「1」であることを、心の底で知ることです。
人生は、唯一、それを、知るためにあるのです。
私たちの周りには、沢山の人・物・社会・国・自然環境があり、そこで、毎日、様々な出来事が起きています。
でも、それ自体には、何の意味もないのです。
なぜなら、外側の出来事は、すべて、現実(幻)だからです。
意味があるのは、様々な出来事を通して、“自分が「1」であった!”と、心の底で知る意味です。
すべてのモノは、神の表現物として置かれてありますから、置かれてある物、一つひとつには、意味はあります。
でも、そのモノ自体には、何の重要性もないのです。
なぜなら、そのモノは、「1である」と、気付かせる方弁としての存在物だからです。
すべてのモノは、「1である」、「1であった」と、気付かせるための道具です。
道具そのものは、重要ではないけれど、気付かせるために必要な道具ですから、現実(道具)と真実は、同格だと、私は、言うわけです。
重要なのは、自分が「1」であると、自覚することです。
その自覚は、瞑想によって得るわけですから、やはり、瞑想が重要になってくるのです。
瞑想とは、「1」なる私が、「1」なる私を、意識することです。
つまり、「1」が、「1」を、想うことです。
自分が、「1」だからです。
この宇宙には、「1」しか無いのです。
2017.12.24
人は、どうして、苦しみに、喘がねばならないのでしょうか?
神様は、苦しめるために、人間を創られたのでしょうか?
いいえ、苦しんでいるのは、無知ゆえです。
本当の自分を知らないから、苦しいのです。
実際に無い物を有ると、思い違いしているから、苦しいのです。
本当の私たちは、肉体では無いのです。肉体は、本当の自分の乗り物です。
本当の自分は、肉体の中で働いている生命です。
生命には、姿形がありませんから、生きる苦しみが無いのです。老いる苦しみが無いのです。病む苦しみも無いのです。勿論、死ぬ苦しみもありません。
私たちは、形を持って生きることが、幸せだと思っていますが、形を持たないで生きることが、幸せなのです。
なぜなら、形を持てば、不自由です。
また、形は、壊れやすいですから、形を維持するために、様々なケアーが必要です。
第一、消えて無くなる心配があります。
これでは、心穏やかに生きられません。
でも、形がなければ、自由です。
消えて無くなる心配や、壊れる心配がありませんから、心穏やかに生きられます。
生命が、一番安心できる状態は、形を持たないことなのです。
形は、波動が低いですから、形を持って生きることは、生命にとって、余り、気持ちの良い状態ではないのです。
この宇宙の実態は、形を持って生きることは、異常で、形を持たないで生きることが、正常なのです。
ただ、それを知るには、形の虚しさや苦しさを体験する必要があるので、今、私たちは、形の中に入って勉強しているのです。
ですから、この宇宙には、形を持たないで、幸せに生きている生命が、無数に存在するのです。
彼らは、形を持っている生命を見ると、異常だと思うのです。
今、苦しんでいる人は、こう思ってください。
“今、私は、真の幸せを知るために、肉体の中に入って勉強しているのだ!” と・・・。
今、私たちが体験している苦しみは、宇宙時間で言えば、一瞬です。
後に待っている幸せのことを考えれば、そんな、苦しみなど、大したことありません。
どうか、そう思って生きてください。
2017.12.31
※ 神様は、“難しい生き方をしなさい!” とは、言っておられません。
“自分の思い通りに生きなさい!” と、言っておられます。
ただし、次の二つのことだけは、やってください。
この二つのことをやり、自分の思い通りに生きたら、間違いなく、原子核が大きくなります。