無いモノが、無いモノを生み出すことは、絶対できません。
無いモノは、有るモノが、生み出すのです。
では、無いモノを生み出すことのできる人間は、有るモノということになるでしょう。
何せ、人間は、ビル・自動車・飛行機・コンピューター・戦争・病気・悩み・苦しみなど、沢山の無いモノを作っているのですから・・・。
では、有るモノとは、何でしょうか? それは、神であります。
ということは、人間は、神である、ということになります。
でも、神は、戦争や、病気や、悩みや、苦しみなどを、作るでしょうか?・・・。
運転経歴の浅い者が、危険な運転をするように、肉体の運転経歴の浅い者も、危険な運転をするのです。
同じように、神の子であっても、幼いうちは、どうしても、醜いものを創ってしまうのです。
しかし、幼い子も、いずれ、親になれば、美しいモノを創るようになるのですから、幼い子だからと言って、バカにしないことです。
2016.01.03
この宇宙の仕組みを創られた神の凄さは、筆舌にしがたいものがあります。
その一つが、「理解力によって、宇宙が進展してゆく」という仕組みです。
この意味は、あまりにも深いため、理解するのは容易でないかも知れません。
でも、知ってほしいのです。
したがって・・・
このように、理解力が、すべてを決めているのです。
このことが、心の底で解ったら、もう、現象の話は、勿論、現象の質問もしなくなるでしょう。
2016.01.10
サタン(自我・肉我)の常套手段は、人の気持ちを萎えさせること、落ち込ませること、不安にさせること、心配させることです。
そうすれば、気弱になり、エネルギーが低くなるので、彼らは、活動しやすくなるからです。
これに、打ち勝つには、心を強くすることです。つまり、原子核を増やすことです。
原子核が増えれば、エネルギーが強くなるので、サタンに負けなくなるのです。
原子核を増やすには、厭なことをやることが一番ですが、
手短な方法としては、
などが、挙げられましょう。
勇気を持って、という意味は、強い気持ちで、ということですが、強い気持ちで、やれば、不思議に、原子核が増えるのです。
手短に、心を強くする、もう一つの方法は、何事も、面倒がらないですることです。
つまり、腰軽になることです。
たとえば、
それも、厭わず繰り返すことです。確かに、要領は、悪いかも知れませんが、要領の悪い方が、原子核を増やせるのです。
これは、小さなことと思うかも知れませんが、ものすごく、心を強くすることができるのです。
病気は、心の弱い人がなりやすいのです。
気にしすぎる人、クヨクヨ考える人、心配性の人、何でも悪く受け取る人、妄念を作り上げる人などは、心の弱い人です。
心が弱いのは、エネルギーが弱いからであり、また、エネルギーが弱いから、心が弱くなるのです。心の強弱とエネルギーの強弱は、比例するのです。
エネルギーは、心であり、心は、エネルギーだからです。
今、病気で苦しんでいる人は、ぜひ、心を強くして欲しいと思います。
薬を飲んで癒すのは、他力ですから、根本治癒に結びつきませんが、心を強くして癒すのは、自力ですから、根本治癒に結びつくのです。
これは、肉体的な病気で苦しんでいる人は、勿論、精神的な病で苦しんでいる人にも、言えることです。
小さなことと思わず、ぜひ、日常生活の中で、心を強くして欲しいと思います。
2016.01.17
「何かを認めてやれる者だけが、原因者になれるのです。」、
だから、神は、表現宇宙を創造し、それを認めることで、原因者になろうとしているのです。
ということは、今、人間が、表現宇宙を認めているということは、人間は、原因者である証ではないでしょうか?
つまり、人間が、神である証ではないでしょうか?
私たちが存在できるのは、結果を認めて、原因者になれる意識を持っているからです。
ということは、自分の意識が、宇宙(何かを)を認めたとき、すでに、原因者になっているということです。
原因の原因は、意識される前の状態です。
しかし、意識される前の状態は、存在の範疇にないので、何の意味もありません。
だから、自ら幻を創造して、幻を認め、原因なき原因者になろうとしているのです。
それは、永遠に、幻を認め続けなければ、永遠の自分を維持できないからです。
「認められるものが無くては、原因者になれない!、つまり、認められるものがあるから、原因者になれる!(認める者が存在できる!)」というのは、実に滑稽な話ではないでしょうか?
2016.01.24
もし、姿形も無く、五感も無く、意識だけの自分なら、あなたは、「自分」のことを、何と思うでしょうか? 恐らく、自分が解らないでしょう。
だから、神は、形を持たせ、自我を持たせ、自分が何なのか解るようにしたのです。
でも、私たちは、そのために、本当の自分を見失ってしまいました。
形を持つと、形に惑わされ、意識の自分を見失ってしまうのです。
今、私たちが苦しんでいるのは、形に惑わされ、意識の自分を見失ったからです。
でも、それさえも、神の愛です。
なぜなら、その苦しみが、本当の自分を発見させるからです。
今、私たちは、自分の意識を感じています。感じられるのは、自分が意識だからです。
自分が意識でなければ、自分が意識だと感じられないはずです。
このことが、解った人のみが、自分の意識が、全てのモノを創っていることが、解るのです。
なぜなら、自分の意識が無くなれば、妻も、子も、地球も、宇宙も、すべて、消えてしまうからです。
人間も、神も、宇宙も、何もかも、自分の意識の産物なのです。
では、その意識の自分とは、
一体、何者なのでしょうか?・・・、
どこから、来たのでしょうか?・・・、
どこから、生まれたのでしょうか?・・・。
確かに、自我を持ち、自分が意識であることは、解りましたが、自分の意識の出処が解らないのです。
探っても、探っても、自分の意識が、どこから来ているか、源が解らないのです。
自分自身、意識でありながら、自分の意識の出処が解らない、こんな、もどかしいことが、ありましょうか?
でも、それで良いのです。
解ったら、終着駅に着いたことになるからです。
終着駅のある有限の旅は、つまりません。
だから、永遠に終着駅の来ない旅、つまり、自分の意識の出処が、永遠に解らない旅が楽しいのです。
自分の意識の謎解きは、永遠にできません。
永遠に解けないがゆえに、私たちは、幸せなのです。
2016.01.31
絶対という言葉は、対がない!、相手がない!という意味で、一つを意味する言葉ですから、絶対宇宙は、確定された宇宙です。
その絶対宇宙は、何もかも揃っている、総合された宇宙ですから、無限の創造性と、無限の可能性と、無限の発展性が、秘められているのです。
ゆえに、真実の宇宙と言えるでしょう。
対して、相対という言葉は、対がある!、相手がある!という意味で、複数を意味する言葉です。
ゆえに、相対宇宙は、不確定な宇宙です。
不確定なるがゆえに、確実な創造性も、確実な可能性も、確実な発展性もない、非真実の宇宙、つまり、幻の宇宙なのです。
このように言うと、相対宇宙は、存在価値が無いように思えますが、存在価値は、絶対宇宙と同等なのです。
なぜなら、不確定宇宙が無くては、確定宇宙の存在意味が無いし、確定宇宙が無くては、不確定宇宙が存在できないからです。
この二つの宇宙の存在価値を真に高められるのは、不確定宇宙と確定宇宙が相俟って、中庸宇宙に姿を変えた時です。
私たちの目的は、その中庸宇宙を創ることと、そこに帰ることなのです。
2016.02.07
よく、幽界の話を聞きたがる人がいますが、意識の高さ(理解力の高さ)によって進展してゆく、階層宇宙のことを、どうして、お話できるでしょうか?
オレンジ色と黄色との間には、無限の色があるのです。
ドとレの間には、無限の音があるのです。
同様に、表現宇宙にも、無限の階層があるのです。
その無限の階層の話を、どうして、できるでしょうか?・・・。
私たちが、知るべき話は、そんな、幻の世界の話ではなく、真実の世界の話ではないでしょうか?・・・。
自分の宇宙しか無いと知った者(唯我独尊(存)の意味を知った者)は、もう、幽界の話や、過去世の話や、物質化現象の話や、UFOの話などはしないでしょう。
なぜなら、実在しない幻の話をしても、何の意味も無いからです。
この宇宙で、本当に存在するのは、真実の宇宙(自分の宇宙)だけです。
なのに、幻の話に惑わされるとは、どういう、了見なのか?
よく、自省してほしいものです。
2016.02.14
今、どんな、苦しい環境にあろうと、そんな、苦しみなど、笑い飛ばしなさい。
どうせ、夢幻のドラマにしか過ぎないのですから・・・。
この世の、どんな出来ごとも、みな、消えて無くなる夢幻です。
そんな夢幻のために、心を痛めるなど愚かです。
さあ、真実のために生きましょう!
真実のために生きるとは、本当の自分に生きるという意味です。生命なる、神なる、自分に生きるという意味です。
夢幻に生きている者は、死人なのです。
本当の自分に生きている者は、生き人なのです。
ぜひ、生き人になってください。
2016.02.21
※ この宇宙で確かなモノは、自分の意識です。
この意識だけが、本当に有るモノなのです。
その意識が望んでいるモノは、真の幸せです。
幻に生きていては、一時の幸せは、得られても、真の幸せは、得られません。
どうか、真実のために、人生を使ってください。
この表現宇宙に、「ああだ! こうだ!!」と言える宇宙は無いのです。
なぜなら、この表現宇宙は、どこまでも、不確定な宇宙だからです。
ゆえに、普遍性もあり得ないし、再現性もあり得ないし、客観性もあり得ないのです。
ただ、その中にあって、一つだけ確かなことがあります。
それは、今、自分と思えているモノ(意識・想い)です。
これだけは、確かに存在しているのです。
しかし、それ以外は、みな、幻です。
その自分と思えているモノが、どのような理解力を持ち、どのような確信に基づいて、どのような想念を使うかによって、自分の宇宙の中に、自分独自の絵を描くことができるのです。
事実、理解力の無いモノ(人間)は、迷った想念を持ち、迷った確信に基づいて(自分を人間として誤解し)、幻の自分の宇宙の中に、様々な苦しみの絵を描いているし、
理解力のあるモノ(覚者)は、真実の自分の宇宙の中に、素晴らしい幸せの絵を描いているではありませんか。
このように、真実の自分を知ったモノだけが、究極の幸せが与えられるようになっているのが、唯我独存(尊)の宇宙なのです。
これは、「自分の思いだけが唯一真実である」と、理解できたモノだけに与えられる褒美と思ったら良いでしょう。
そうなのです。この宇宙で確かなことは、今、自分と思えている自分の意識、つまり、思いであり、その思いから創られた宇宙だけです。
その宇宙に、幸不幸があるのでは無く、そのモノの理解力に基づいて産まれる、幸不幸があるだけです。
しかし、その幸不幸も、そのモノの理解力の成長と共に進化して行くのですから、今の理解力に満足していてはいけないのです。
私たちは、常に、理解力を高めてゆく、必要があるのです。
それは、どこまでも、そのモノの理解力が、幸不幸を握っているからです。
まだ、解っていない人がいるようなので警告しますが、現象の中に、真の幸せを見つけることは、絶対できません。
したがって、過去世の話や、UFOの話や、幽界の話や、この世の現象の話に、興味のある者は、小山の大将になることはあっても、大山(お山)の大将になることはありません。
しかし、真実を知ろうとしている者は、大山(お山)の大将になれるのです。
なぜなら、現象を追いかけているモノは、真の自分を発見することはできませんが、真実を追いかけているモノは、真の自分を発見することができるからです。
さあ、意識を高め、理解力を高め、真の自分を発見しましょう!
その者は、もう、唯我独存(尊) 宇宙の大山(お山)の大将なのです。
どうか、大山(お山)の大将になって、高い山から下界を見下ろしてください。
2016.02.28
自分の家の中に無いモノは、どんなに家の中を探し回っても、見付けることはできないのです。
同様に、自分の心の中に無いモノは、どんなに自分の心の中を探し回っても、見付けることはできないのです。
したがって、家の中に無いモノは、出せないのです。
つまり、心の中に無いものは、出せないのです。
真の優しさを表そうと思っても、自分の心の中に、真の優しさが無かったら表わせないのです。
たとえ、表したとしても、それは、偽善になってしまうのです。
同様に、自分の心の中に、神が無かったら、神は、現せないのです。
では、どうすれば、現せるようになるか?
それは・・自分で自分の心の中に作るしかないのです。
自分で自分の心の中に作るしかないという意味は、自分で体験して作るしかないという意味です。
すなわち、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、楽しいこと、嬉しいこと、感動的なことなど、様々な人生体験をし、さらに、瞑想して、原子核を増やすしかないということです。
体験して築き上げたものだけが、真に自分のものとなり、現せるようになるのです。
だから、気の遠くなるような人生体験(輪廻転生)が、必要になってくるのです。
付け焼き刃では、ホンモノは、現せない! ということです。
2016.03.06
キリスト教で言われている「最後の審判」は、世の終わりに、魂の選別がなされるという意味らしいですが、この世に、最後など、あるわけがないですから、信じてはなりません。
たとえ、一時、それらしきことが、あったにしても、選別は、誰かがするのではなく、自分自身がするのです。
といっても、皆さんは、すでに、自分の理解力で、ニセモノとホンモノを選別し、ここに来たのですから、改めてする、必要はないのです。
本屋さんに行ってごらんなさい。精神世界の本や宗教の本が、ところ狭しと並べられています。
また、インターネットでも、そのたぐいの情報が、飛び交っております。
その中から、ホンモノを選ぶのは、砂浜に落としたコンタクトレンズを探すくらい、難しいでしょう。
なぜなら、殆どが自我で書かれた、ニセモノの本ばかりだからです。
皆さんは、その中から、私の本を選んだわけですから、それは、それは、大変な選別をしてきたわけです。これは、自分を大いに褒めてやって頂きたい、と同時に、その苦労に報いるためにも、ぜひ、真理を、自分のモノにして、帰って欲しいと思います。
これは、外側の選別だけではなく、内側のニセモノとホンモノの選別についても、言えることなのです。
すなわち、自我(サタン)と真我との選別です。
ぜひ、外も内も、間違いのない選別を、やってください。
2016.03.13
あなたの出したモノは、どんなモノであろうと、必ず、あなたのところに返ってくるようになっているのが、宇宙の法則(原因と結果の法則とエネルギー均衡の法則)の仕組みです。
世の人々は、人から憎しみを受けたといって、腹を立てますが、それは、自分が出していたからです。
「私は、そんな覚えはない!」といいますが、原因を出していない人の所に、結果が返ってくるわけがないのですから、間違いなく、自分が出していたのです。
「お~い!」と言った、山彦は、必ず、「お~い!」と返ってくるのです。
つまり、憎しみの「お~い!」と言った、山彦は、憎しみの「お~い!」と言う、山彦となって返ってくるのです。
自分の中にないモノが出せない理由は、自分の倉庫にない在庫品は、出しようがないからです。
人の欠点は、気づいても、自分の欠点は、なかなか、気づかないものです。
だから、気づかせるために、自分の欠点を、人の欠点として、見せられるのです。
もし、あなたが、人の欠点を見せられ、嫌な気分になったら、それは、自分の欠点を見せられ、嫌な気分になったと思ってください。
そのように思えれば、欠点を気づかせてくれた相手にも、宇宙の法則にも、感謝できるでしょう。
人の振りみて我が振り直せる仕組みは、自分を成長させてくれる有り難い仕組みですが、これは、誰かが仕組んだのではない、自分が仕組んだのです。
「自分で鏡を作り、その鏡に自分の姿を写して、自分の欠点を見つけ、その欠点を修正し、自分が成長してゆく」、
この表現世界は、正に自己完結型の有り難い学習道場であります。
2016.03.20
認める人間がいなければ、認められる神は存在できないのです。
だから、神は、認識者である人間を創り、自分を認めてもらっているのです。
その意味では、人間と神は、相身互いの関係にあると思っていいでしょう。
ゆえに、神が上位で、人間が下位だと、言ってはならないのです。
いや、人間と神は、同等なのです。
つまり、人間 イコール 神、神 イコール 人間なのです。
だから、私は、堂々と、「人間は神である! 神は人間である!」と断言するのです。
認識されない存在(神)は、どんなに偉大な存在であっても、存在の意味はないのです。
認識されて、はじめて、偉大さが誇示できるのです。
しかも、その認識者(人間)は、被認識者(神)自らがなっているのですから、神の立場から見たら、人間は被認識者となろうし、人間の立場から見たら、神は被認識者となるのです。
でも、神と人間は、同一者ですから、どちらが、認識者になっても、被認識者になっても、良いのです。
2016.03.27
自分の想念が作らないものは、無いのです。
自分の想念が作るから、自分に返ってきて、有るようになるのです。
この真理は、なかなか、理解できないかもしれませんし、信じられないかもしれません。
でも、これは、間違いのない、真理なのです。
良く、自分の苦しみを、人のせいにする人がいますが、他人から与えられる苦しみなどないのです。すべて、自己責任です。
自分は、原因者です。他人は、結果体です。
結果体が、どうして、原因者に、苦しみを与えることが、できましょうか。
もし、できるなら、先に結果があることになり、この宇宙の秩序は、無茶苦茶になってしまいます。
そんな、無秩序な宇宙を、神が創られるわけがないのですから、苦しみが来ないよう、常に、良い想念を使わなければならないのです。
繰り返します。
「自分の想念が作るから有る」のです。
それは、あなたの内宇宙の出来ごとであると同時に、外宇宙の出来ごとでもあるのです。
なぜなら、「想念は実現の母」だからです。
あなたの内宇宙は、あなたの想念が握っていると同時に、外宇宙にも影響を及ぼしているのです。
それほど、あなたの想念力は、凄いということです。
あなたが、良い想念を使っている時は、白い息を吐いているのです。悪い想念を使っている時は、黒い息を吐いているのです。
内宇宙を愛しいと思うなら、外宇宙を愛しいと思うなら、そして、地球を愛しいと思うなら、ぜひ、良い想念を使ってください。
2016.04.03
※ 本来、外宇宙は、ありません。
客観的見方をしている人にだけある宇宙です。
誤解なきように・・・。
「神を認めないモノは存在しない!」という理由を説明しましょう。
神が一番に望んでいることは、自分の存在を認めてもらうことです。
自分だけ自分の存在を認めても、他に自分を認めてくれるモノがいなかったら、自分の存在はあり得ないからです。
認めるモノがいて、はじめて、認められるものが存在できるのです。
認められるモノが存在できないのでは、認めるモノが存在できないのも、道理です。
認めるモノ = 認められるモノ です。
認められるモノ = 認めるモノ です。
だから、神を認めないモノは、存在しないのです。
神の存在を認められないモノが、自分の存在を主張するのは、痴がましいというものです。
神を存在させられないモノが、自分だけ存在させようと思うのは、矛盾だからであります。
人類が万物の霊長と言われる所以は、神を認められるところまで進化した生き物だからです。
しかし、人類の中にも、無神論者のような、神を認めない人間もいます。
ということは、彼らは、存在しないことになるのです。
なぜなら、前述したように、神を認めないモノは、存在しないからです。
人類の中にも、神を認めない人間がいるわけですが、それは、まだ、そこまでの理解力を持っていないからです。
神は、自分を認めて欲しくて、人類を創ったのですから、その役割が果たせなくては、存在意味がないのです。
私が、理解力の大切さを訴えるのは、理解力が無くては、神を認めてやることが出来ないからです。
もし、この宇宙に、神を認める生き物がいなかったら、宇宙の存在も、神の存在も、あり得なかったでしょう。
幸いなことに、あなた達のような、神を認めてやれる者がいるから、宇宙も、神も、存在出来ているのです。
神を認めている者が神を存在させ、認められている神が認めている者を存在させているという、相身互いの関係にあるのが、人間と神の間柄なのです。
だから、神を認めない無神論者は、存在しないことになるのです。
神を認める理解力を持った時、はじめて、この宇宙に、その者が存在するのです。
2016.04.10
この現象の世界は、有るようで無く、無いようで有り、無いようで有り、有るようで無い、「うなぎ」のような、掴みどころのない世界です。
それは、この現象の世界に、確かなものは、何一つ無いからです。
しっかり、掴んでいたつもりが、いつの間にか、手からすり抜けてゆくのが、この現象の世界なのです。
ということは、自殺しようと悩むほどの世界ではないということです。
あなたが、今、見て、感じているモノ、あなたが、今、真剣に演じているドラマ、これ、すべて、消えゆく夢幻です。
そんな夢幻のために、心を痛めるなど愚かです。
だからといって、この世界を軽んじて良いと、いっているわけではありません。
なぜなら、この世界で演じているドラマのすべてが、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの味付け材料になっているからです。
私が言いたいのは、そんな夢幻のために、神経をすり減らして欲しくないということです。
今、あなたが、やらねばならないことは、本当にあるモノに生きることです。
本当にあるモノとは、あなたの意識です。
あなたの意識は、永遠になくならないのです。
その意識を、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの中に入れることが、人生の最大の目的なのです。
家族のこと、仕事のこと、この社会のことは、すべて、幸せを得るための方便です。
では、どうすれば、幸せの中に入れるか? ということですが、それは、「人類の夜明2・3・4」の書の中で述べていますので、じっくりと読んで頂きたいと思います。
2016.04.17
付記・・・何が一番大切なの?
一番大切なのは、何なのか? 形なのか?、意識なのか?
それは、意識ではないでしょうか・・・。
なぜなら、形は、一時の自分だけれど、意識は、永遠の自分だからであります。
では、その意識が欲しているものは、何でしょうか?
それは、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、究極の幸せです。
形がなくても、肉体がなくても、究極の幸せがあったら、それでいいのですから・・・。
意識が本当の自分なのですから、当然でしょう。
人生の最大の目的は、究極の幸せの中に、自分の意識を入れることです。
あなたが、 今、真剣にやっている、この世のことは、すべて、究極の幸せを得るための方便であることを知ってください。
「妄念」という字を見てください。
「妄」の字は、上に「亡」と書き、下に「女」と書きますが、
下の「女」という字は、物質のことを意味し、この世の物質のことを表しているのです。
上の「亡」は、「死ぬ・消える」ことを意味し、これは、幻のことを意味しています。
「念」という字は、「今」の「心」と書き、自分の今の心の想いを意味しています。
通して解釈すれば、妄念という字は、自分の今の心に「幻の物質を想い描く」という意味になります。
想念は実現の母といわれるように、物質の妄念を抱けば、波動が落ちるわけですから、苦しい人生になるのは、当たり前でしょう。
だから、覚者は、妄念を抱いてはならないと、口うるさくいうのです。
日本の漢字は、実に真理を的確に表現していると思います。
2016.04.24
注)・・・物質とは、単に、この世の物だけのことを言っているのではなく、表現世界の諸々のことを言っているのです。
つまり、人間社会の諸々のことを言っているのです。
よく、自分の苦しみを、人のせいにする人がいますが、人から与えられる苦しみなど、絶対ありません。
自分は、原因者(光)です。人は、結果体(影)です。
結果体(影)が、原因者(光)に、影響を与えることなど、出来るわけがないのです。
もし、与えられるなら、先に結果体が有ることになり、この宇宙の秩序は、無茶苦茶になってしまいます。
出すから、入るのです。
エネルギー均衡の法則が働いている宇宙において、これは、当然のことなのです。
何でもそうですが、出さなければ、入って来ないのです。
凹が生まれるから、凸が入って来るのです。
想念を出さなければ、凹が生まれることがないのですから、凸が入って来るわけがないのです。
しかも、このエネルギー均衡の法則は、出した凹と、同じ質の凸が、入って来るようになっているのです。
つまり、悪しき想念(凹)を出せば、悪しきモノ(凸)が入り、良き想念(凹)を出せば、良きモノ(凸)が入って来るのです。
苦しみは、あくまでも、自分の想念が生み出した結果なのです。
このことは、病気に置き換えてみたら、分かりやすいと思います。
病気になった結果があったということは、その結果を作った原因が、自分の中にあったということです。
つまり、悪しき想念(凹)を出していたから、悪しき病気(凸)が返って来たのです。
この表現世界は、見えない原因を、見える結果として写し出す鏡のようなものなのです。
見えない原因とは、心(想念)であり、見える結果とは、この場合、病気です。
肉体は、鏡なのです。
人の心の醜さが、肉体の鏡に、病気という姿で写し出されているのです。
神は、見えない心(想念)の状態を、見える病気という状態で現し、心の醜さに気づいてもらおうとしているのです。
これは、神の慈悲といっていいでしょう。
これは、ゴミについても言えることです。
今、地球環境は、悪化の一途をたどっていますが、これは、人類の心が汚れているからです。
人類の醜い心が、地球環境の悪化という形で現れているのです。
醜い心の社会からは、病気も、ゴミも、沢山、生まれるのです。
病気の多さと、ゴミの多さは、その星の進化のバロメーターになっているのです。
やがて、人類は、そのことに気付き、心を正してゆくでしょうが、その時は、病気も、ゴミも、減ってゆくでしょう。
これが、自分が自分に苦しみを与え、その苦しみから過ちを発見し、自分が成長してゆく、自己完結型宇宙の仕組みなのです。
2016.05.01
ある時、お釈迦様は、弟子のアルーンに、こんなことを言いつけました。
“アルーンよ!、すまないが、あなたの家の近くに落ちている小石を、毎日、一個拾って、私のところに届けてくれないだろうか!?”と・・・。
“はい、分かりました!” 愚直なまでに素直なアルーンは、そう快く返事をすると、何の疑いも持たず、お釈迦様の言われるとおり、毎日、小石を届けたのです。
それは、お釈迦様が亡くなられる日まで、四十年間続いたのです。
ちなみに、アルーンの住まいとお釈迦様の住まいとの距離は、歩いて片道一時間ほどかかったのですから、結構な距離だったわけです。
なぜ、お釈迦様が、アルーンに、このようなことを命じられたのか?
アルーンの立場になって考えてみてください。
私が学びの友に言いたいことは、
それも、疑らないで、素直に、根気よく、やり続けることです。
これは、何の変化が起きなくても、一生、やり続けて欲しいと思います。
やり続ければ、間違いなく、大きな果実を手にして帰れるでしょう。
2016.05.08
※ この小話の中には、多くの真理が隠されているので、ぜひ、発見して欲しいと思います。
実際に有るものだけが、実際に有るのです。
この言葉を、心の底で噛みしめて欲しいと思います。
では、実際に有るモノとは、何でしょうか?
それは、永遠に無くならない、本質のことです。
その本質のことを、生命とも、神とも、意識とも、エネルギーとも、呼んでいるのです。
その本質が、形を生み出しているのです。
でも、その形は、実際に有るものではないのです。
なぜなら、一時の存在だからです。
一時の存在ということは、幻であるということです。
幻だから、消えて無くなってしまうのです。
見えるモノ、触れるモノは、みな、幻なのです。
見えない、触れない、永遠に無くならない本質が、実際に有るモノなのです。
ということは、消えて無くなってしまう人は、幻と言うことになるでしょう。
そう・・人は、幻なのです。
実際に有るものは、本質です。
その本質が、想い、考え、言葉を話し、行動しているのです。
ということは、今、考え、言葉を話し、行動している人は、実際に有る本質ということになるでしょう。
人の形はしていますが、その実体は、本質なのです。
だから、あなたは、間違いなく、生命であり、神であり、意識であり、エネルギーなのです。
誰もが、形に惑わされて、本当の自分を見失っているのです。
さあ、目覚めましょう。あなたは、本当に有る本質なのですから・・・。
2016.05.15
私たちは、宇宙がどうなっているか? 幽界ってどんなところか? 高級霊って何なのか? 宇宙人って何なのか? そんなことを学ぶ必要はないのです。
なぜなら、そんなモノは、みな、幻だからです。
幻を学んで、一体、何の益があるのでしょうか?
私たちは、本当に有るモノだけ、学べば良いのです。
では、本当に有るモノとは、何でしょうか?
それは、永遠に無くならない意識です。
その意識は、自分が持っているわけですから、自分から学べば良いのです。
では、「意識の何を学べば良いか?」ということですが、それは、「意識は何を求めているか? 何を欲しているか?」ということを学ぶことです。
私たちの意識は、何を欲しているのでしょうか?
それは、幸せではないでしょうか。
それも、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せを欲しているのではないでしょうか?
では、その幸せを得るには、何が必要でしょうか?
肉体が必要でしょうか?
形が必要でしょうか?
物やお金が必要でしょうか?
地位や名誉や権力が必要でしょうか?
高等数学を知る必要があるでしょうか?
宇宙人やUFOを知る必要があるでしょうか?
幽界を知る必要があるでしょうか?
宇宙の謎を知る必要があるでしょうか?
いいえ、必要なのは、原子核(魂)を大きくすることだけです。
原子核(魂)を大きくすれば、自動的に幸せの中に入れるからです。
原子核(魂)を大きくするには、
この三つの方法については、本でも、勉強会でも、詳しく述べているので、見て欲しいと思います。
この宇宙で、最も確かなことは、本当に有るモノだけが、本当に有るという真理です。
本当に有るモノとは、永遠に無くならない意識であり、その意識が感じる、永遠に無くならない幸せです。
意識も、幸せも、永遠に無くならないのです。
永遠に無くならないがゆえに、永遠に無くならない幸せは、永遠に無くならない意識に、受け取ってもらいたいのです。
永遠に無くならない幸せは、永遠に無くならない意識に感じてもらいたいし、永遠に無くならない意識は、永遠に無くならない幸せだけが欲しいのです。
私が、外側の現象を嫌うのは、外側のモノからは、決して、幸せは、得られないからです。
幸せは、意識が、感じるのですから、意識が、直接、幸せを受け取ったら良いのです。
だから、肉体も必要ないし、形も必要ないのです。
意識と幸せの間に、何も挟む必要はないということです。
このことが解った人は、もう、肉体に囚われることがなくなるし、外側の何モノも欲しがらなくなるでしょう。
2016.05.22
「この宇宙には、たった一つの神しか存在しない!」というのは、絶対真理であります。
この絶対真理を念頭に、何かが存在するための絶対条件を、考えてみましょう。
「何かが存在するためには、その何かを認めてくれる認識者が、絶対必要です。」
すなわち、「神が存在するためには、神を認めてくれる認識者が、絶対必要です。」
この絶対条件も、真理です。
なぜなら、認めてくれるモノが存在しなくては、認められるモノは存在できないからです。
でも、良く考えてみてください、「この宇宙には、たった一つの神しか存在しない!」という、絶対真理があるならば、神を認めてくれる認識者が、他に存在できないはずです。
もし、他に認識者が存在するなら、「この宇宙には、たった一つの神しか存在しない!」という、真理は、崩れ去ってしまうからです。
これは、神にとって、実に困ったことです。
なぜなら、前述したように、神が存在するためには、神を認めてくれる認識者が、絶対必要だからです。
神は、悩んだ末、次のような苦肉の策を、あみだしました。
それは、自分の分身を創り、その分身から、自分を認めてもらう、という方法です。
そのためには、分身に、自分と同じ能力を持たせ、かつ、客観的立場に立たせる必要がありました。
しかも、神の記憶を持ったままでは、意味が無いので、分身から記憶を奪う必要がありました。
そういうわけで、神は、分身に、自分と同じ能力を持たせ、かつ、記憶を奪い、さらに、客観視できる立場にして、表現宇宙に送り出したのです。
その時点で、神と分身は、同等の立場になったのであります。
人が、なぜ、神なのか?
それは、神と同じ能力を持つ認識者だからです。
神(原因者)・・認識する者 →→→→ 人(結果者) ・・認識される者
↓
認識する
神(結果者・被認識者)・・認識される者 ←←←← 人(原因者)・・認識者
↑
認識し返す
人が存在しなくては、神が存在できない、神が存在しなくては、人が存在できない、この相身互いの関係にあるのが、神と人なのです。
だから、私は、「人と神は、対等である!」というのです。
これが、絶対真理を支える絶対真理の必要な理由であります。
2016.05.29
神は、見えない。
でも、見えない神が信じられてこそ、はじめて、真の信仰者といえるのです。
病に犯されていた娘が、こんなことを、いっていました。
「病気を治してくれたら、私は神様を信じます」と・・・。
これでは、神を試していることになり、真の信仰者とはいえないのです。
とはいえ、やはり、何か目に見える形で信じたいのが、人間でしょう。
毎日、瞑想していても、何の変化も起きないようでは、「本当に原子核が増えているのか?」と、疑いたくなるのも、無理ないからです。
悲しいことですが、私たちは、目に見える変化がなくては、なかなか、信じられないのです。
でも、社会体験をし、瞑想をし、思索をしていれば、間違いなく、原子核は増えているのです。
このように、真理を実践している人は、実際に、目に見える形で、変化が起きているのです。
もし、「最近、あなた、変ったわね」と、人にいわれたら、原子核が増えた証しですから、大いに喜んでほしいと思います。
どうか、何の変化が起きなくても、日々、原子核を増やしてください。
あなたは、間違いなく、未来に向けて、布石を打っているのですから・・・。
2016.06.05
本当の自分を、つまり、神の自分を自覚すれば、変性変容が起きることは、これまで、何度も述べてきたところですが、この変性変容の程度は、自覚の深さによって、違ってくるのです。
浅い自覚には、小さな変化が・・・、深い自覚には、大きな変化が・・・、
神の自覚には、際限がないので、変化も、際限なく起き、際限なく続くのです。
その意味では、学んでいる皆さんにも、間違いなく、変化が起きているはずですが、変化の程度が、少ないため、なかなか、実感できないのです。
でも、原子核を増やす三つの方法を実践していれば、間違いなく、変化は起きているのです。
その証拠に、最近、学びの友の中に、「自分の身で」変化を体験した人が、出てきています。
これは、私の言っていることの正しさを示す、貴重な体験と言えましょう。
「自分の身で」という表現をしたのは、我々の身体(環境)は、神の表現媒体として、創られたものだから、自分が神の分身だと気付けば、そく、環境(身体)に変化が現れるようになっているからです。
自分が神であると、気付くことの大切さ、これは、実際に、我が身で体験した者でないと分からないでしょう。
正に、目からウロコの驚きの体験です。
その実体験したメールを、学びの友から頂いたので、そのまま、ご披露することにしましょう。
きっと、他の学びの友の励みになると思います。
メールを頂いた「Aさん」の体験談(本人の了解済み)
日々の生活において、「社会体験」、「瞑想」、「思索」を続けていますが、ずっと、親指の腱鞘炎と右腕の痛みが取れずにおりました。
仕事が縫製業で、指・腕を酷使する作業が、延々と続く為、職業病と半ば諦めていた所もあり、これを、「病気」だと思わずにいたのです。
それに加え、1週間前から、鉄線で体をぐるぐるに巻かれ締め付けられるような、ひどい痛みと、しびれが起こり、激痛で、おかしくなりそうな状態になりました。
こんなにも、神に意識を向けているのに、なぜ、こんな痛みが起こるのだろうと、思索をした所、「真剣に瞑想しなさい!」という答えが返ってきたので、「吾神なり!」のマントラを唱え(想い)ながら、真剣に、8時間ほど、瞑想した所、痛みが少し和らぐと伴に、自分の足りなかった部分にも、気づくことが出来ました。
瞑想をして、痛みが減るということは、この痛みは、元々無い物だと改めて気づき、かとうさんの書かれた「病で苦しんでいる人の為の小冊子・最新のオーディオブック版」を、何回も聴きました。寝ている時も、ずっと流していました。特に、第三章が、心に響きました。
おかげで、病気に対して、間違った認識をしていたことに気づきました。
たとえば、神が作られた、この身体は、使えば、使うほど、強靱・健全になる、使えば、使うほどに、進化・成長していく、肉体細胞を支配している生命に全託しておけば、自然と蘇生・修復してくれる等々・・・本当に、目から鱗が落ちる思いでした。
私の場合、毎日の仕事で、指や腕を使っているから、痛くなっても仕方ないと、諦めていたこと自体が、間違いだったのですね。
また、痛みがあるので、ストレッチをしたり、運動をしたり、痛みを無くそうと、自我の自分が躍起になっていたのも、間違いだったのですね。
この肉体細胞一つ一つが、神の意識核で作られているのだと、ストンと腑に落ちた瞬間、「私のこの意識も、神の意識であり、この肉体も、神の意識で作られている。あーー、私は、全て、神から出来ているんだーー!!」という想いが込み上げ、感動・感動・感動の波が押し寄せてきたのでした。
そして 「なーんだ。私って、神以外の何者でもないんだ!」と、可笑しくなって、一人でクスクス笑ってしまったのですが、次の瞬間、ボロボロと涙がこぼれて、止まらなくなってしまいました。
「私は、神だった!」、「私は、神の意志と意識で出来ている!」、この想いが、胸の中を、熱く・優しく包み込んで、涙が止まらないのです。
仕事中でしたので、涙を拭うのが大変でした。
今日、この身体を、神に全託し、迷いや不安を全て捨て、神の力を心から信じるように切り替えたら、あんなに痛みがあったのに、ピタッと治まってしまいました。
もう、指も、腕も、痛くないのです。時々、電気が走るような感覚もありますが、「幻が騒いでいるねー」と受け流していたら、それも、すぐに無くなりました。今は、本当に、楽なのです。
自分が問題を提起し、自分の想念が、痛みを作って、自分の過ちに気付かせ、解決した、貴重な体験をさせてもらいました。全て、自己完結型の宇宙なのですね。
今回の体験で、魂が大きく成長出来たと、実感しております。日々の原子核を増やす、小さな努力は、必ず、変性変容をもたらすということも、実感できました。
かとうさんの教えの通りでした!
これからも、こつこつと努力を続けていきます。
これから先、仕事で体を酷使しても、もう、怖いことはありません。使えば、使う程に、私の身体は、進化・成長して強靱になっていくのですから・・・完全なる神が作った、完全な身体ですから、100%、全託します。
このAさんの体験は、「自分が神である!」と、気付くことによって、身に変化の起きた、貴重な実例です。気付きと、自覚とは、紙一重なのです。
これは、当人の心の微妙な味わいなので、自覚と気付きの違いを判断することは出来ませんが、一つの節目を超えたことだけは確かでしょう。
「自分が神である!」と、自覚した深さの程度は、本人にも分らないのです。
でも、Aさんが体験した身の変化は、普通の意識状態で起きる変化でないことだけは確かです。
このように、日々、原子核を増やしていれば、間違いなく、変化が起きてくるのです。
神は、完全です。偉大な力を持っているのです。
私たちは、その神によって創られた、分身ですから、病気になるわけがないのです。
私たちの身体は、ものすごい、許容量と潜在能力を持っているのです。
だから、使えば、使うほど、頑健になるし、使えば、使うほど、働くようになるのです。
こう思ってください。
「完全な神によって運営されている身体は、完全な働きしかできないのだと・・・だから、自分の肉体は、健全・健康・完全なのだと・・・」。
2016.06.12
私たちが、真に望んでいるモノは、何でしょうか?
それは、究極の幸せでは、ないでしょうか?
その究極の幸せを得るためには、形から、見えるモノから、現象から、離れなくてはならないのです。
なぜなら、見えるモノ、聞こえるもの、感じるモノ、つまり、現象は、みな、幻だからです。
幻を追いかけ、どうして、幸せが得られましょうか?
しかし、私たちは、気の遠くなる年月、見える世界で生きてきたために、現象に興味を持っていると、どうしても、見える幸せを追いかけてしまうからです。
この宇宙に、どうして、見えるモノと、見えないモノが、あるのでしょうか?
それは、価値あるモノが、何かを、知るためなのです。
例えば、この社会の人々は、お金や宝石や美術品などが、価値あるモノだと思っています。
そう思うのは、それらのモノがあれば、幸せになれると思っているからです。
でも、本当に、それらのモノが、幸せにしてくれるでしょうか?
いいや、それらのモノは、幸せの媒体であって、実際に幸せにしてくれるのは、心なのです。
幸せ感というのは、心が受け取って得られるからです。
では、お金や宝石や美術品に、価値があったのでしょうか?、心に、価値があったのでしょうか?
心に、価値があったのです。
お金や宝石や美術品は、見えますが、心は、見えないのです。
ということは、本当に価値のあるモノは、見えないモノである、ということになるでしょう。
では、私たちは、何を大切にすべきでしょうか?
見えるモノでしょうか?、見えないモノでしょうか?
見えないモノですね。
すなわち、「意識・魂・心・想念」なのです。
世の人々は、見えるモノ(現象)に、目が狂わされ、このことを、忘れているのです。
さて、私たちは、価値あるモノは、見えないモノであることを知りました。
では、その見えないモノは、この宇宙に、幾つ有るのでしょうか?
見えないモノは、一つしか無いのです。
でも、言葉にしてみたら、沢山の見えないモノがあるのです。
例えば、キリストも、ブッタも、見えない、 生命も、無限も、永遠も、愛も、エネルギーも、意識も、魂も、心も、想念も、見えない、
その見えない総代表を、私は、神と呼んでいるのです。
だから、言葉が違うからといって、見えないモノを、違うモノだと思ってはならないのです。
宗教戦争してはならない理由は、見えないモノは、同じ一つの神だからです。
幸せは、見えないのです。神は、見えないのです。物質は、見えるのです。
これで、この宇宙に、どうして、見えるモノと見えないモノがあるのか、
また、私が、どうして、現象を嫌うのかも、分かったでしょう。
本当の幸せは、遠くにある、見えるモノの中にあるのではなく、手よりも、足よりも、近くにある、見えない心の中にあるのです。
2016.06.19
注・・・
確かに、見えないモノは、幸せの大元ですが、その見えないモノは、見えるモノと一対になって存在しているのです。
つまり、見えるすべてのモノは、一つの見えないモノによって、
つまり、神によって、存在させられているのです。
ということは、すべてのモノの中に、幸せがあるということになるでしょう。
それは、表を見るか(物質・現象界・幽界・を見るか)、裏を見るか(意識・魂・心を観るか)で、幸せにも、不幸せにもなる、という意味なのです。
「想念は実現の母である!」という言葉を、もう一度、噛みしめて欲しいと思います。
何度も言いますように、想念は、何でも生み出すのです。何でも実現させるのです。
その想念を、私たちは、持たされているのですから、私たちは、すでに救われているのです。
こんな凄い宝物を持たされているというのに、人類は、その宝物を正しく使っていないのです。
想念を正しく使ったら、戦争も、事件も、事故も、病気も、災害も、一切、無くなってしまうのです。
もう、防災費も、軍事費も、保険をかける必要も、医療費を払う必要も、規則も、法律も、警察も、検事も、弁護士も、裁判官も、刑務所も、何も要らなくなるのです。
しかし、悲しいことに、今の人類には、それが解らないのです。
「ならば、教えればいいじゃないか!」と、言うかも知れませんが、こればかりは、教えて解るものではないのです。
なぜなら、どんなに良い事を教えても、受け皿がなければ、受け取ることができないからです。
だから、私は、受け皿の備わった人達に向けて言っているのです。
この更新集を見ている人は、その受け皿の備わった人達なのです。
どうか、想念の凄さを再認識してください。そして、あなた達だけでも良いから、想念を正しく使うようにしてください。
それが、人類に、地球に、宇宙に、貢献することになるのですから・・・。
勿論、正しい想念を使っていれば、自分も、家族も、幸せになれるのは、当然です。
2016.06.26
注・・・
近年、台風・豪雨など、水の被害が多くなっていますが、なぜ、多くなっているのでしょうか?
「物質」の象徴的存在として「水」があります。
その水の被害が多くなっているということは、人類が物質に偏っているためである、と受け取れないでしょうか?
そうなのです。
自然界は、「あなた達は、物質に偏り過ぎていますよ!」と、警告しているのです。
ここに、一本の糸があったとしましょう。その糸は、本源の宇宙(真実の宇宙・絶対宇宙)においては、見えないため、存在しているように、思えないのです。
でも、見えなくても、思えなくても、その糸は、間違いなく、存在しているのです。
なぜなら、見えないのが、真実の証だからです。真実は、見えないのです。
でも、それでは、存在意味が無いので、神は、波動を下げて、見える無数の糸にし、表現宇宙に放出したのです。
だから、この表現宇宙には、波動の違う無数の糸が、存在しているのです。
例えば、クオークも、中性子も、陽子も、電子も、分子も、細胞も、名前は違うが、同じ一本の糸です。
今後、新しい素粒子が発見され、色々な名前がつけられるでしょうが、どんな名前がつけられようと、みな、同じ一本の糸の現れに過ぎないことを、忘れてはなりません。
神も、仏も、生命も、エネルギーも、光も、同じ一本の糸の現れです。
キリストも、ブッタも、アラーも、みな、同じ一本の糸の現れです。
土も、細菌も、ソマチットも、花も、犬も、人間も、みな、同じ一本の糸の現れです。
当然、白人も、黒人も、黄人も、赤人も、緑人も、同じ一本の糸の現れです。
だから、形や名前や性質が違うからといって、差別したり、敵対したりしてはならないのです。
わざわざ、探査機を飛ばして、宇宙の塵を拾ってくる必要がないのも、地球の塵も、宇宙の塵も、みな、同じ一本の糸の現れに過ぎないからです。
真理について、論議してならないのも、どんな論議の対象物も、みな、同じ一本の糸の現れに過ぎないからです。
人類は、名前に囚われ、何が大切なのか、見失っているのです。
大切なのは、名前を知ることではなく、真実の中身を知ることです。
その真実は、一つしか無いのです。
すなわち、一本の糸しか無いのです。神しか無いのです。
だから、私は、沢山のモノを知る必要はない、たった一つの神を知れば良い、と言うのです。
2016.07.03
私たちは、「今」を感じています。
この「今」が有る事実は、誰も否定できないでしょう。
「今」が、大切です! と、私が言うのは、「今」しか無いからです。
つまり、「今」が、原因点だからです。
ということは、「今」は、永遠に有り続けるということです。
これは、
この数式が証明してくれているのです。
この数式が成り立つのは、原因と結果の法則が、この宇宙を支配しているからです。
こういうことです。
「今」が有るのは、過去にも、「今」が有ったからです。
過去の「今」の原因なしに、「今」の結果は有り得ないわけですから、因果の法則が支配している宇宙において、これは、当然でしょう。
ということは、次の未来にも、次の次の未来にも、いや、永遠の未来に、「今」が有ることになります。
これは、過去・現在・未来が、一つだから言えることなのです。
これを、因果の法則における、三位一体といいます。
しかし、三位一体ではありますが、「今」が、すべてなのです。
なぜなら、今しか実在しないからです。つまり、今が原因点だからです。
では、この「今」を、「あなた」に置き換えてみましょう。
今、「あなた」がいるということは、過去に、「あなた」がいたからです。
ということは、次の未来にも、次の次の未来にも、いや、永遠の未来に、「あなた」がいることになります。
これは、今、「あなた」が、存在している事実が有る限り、当然なのです。
このように、「あなた」は、永遠に有り続けるのです。
永遠に有り続けるがゆえに、今、正しく生きなければならないのです。
なぜなら、今、正しく生きなければ、過去を、悲惨な過去にし、未来も、悲惨な未来にしてしまうからです。
過去は変えられないと思っていますが、今、正しく生きることで、変えられるのです。
なぜなら、今、正しく生きられるのは、過去で学んだ成果ですから、その過去は、良い過去に、変わってしまうからです。
しかし、あなたが、今、正しく生きなければ、過去で学ばなかったわけですから、その過去は、悲惨な過去で、終わってしまうのです。
ということは、未来も、悲惨な未来が、待っているということです。
今、正しく生きることが、いかに大切か、これで、分かっていただけたと思います。
何でもそうですが、今、何かが有る、今、何かが起きている、ということは、過去で、その原因を作っていたからです。
これは、良いことでも、悪いことでも、同じです。
その今は、未来を作っているわけですから、今、正しく生きることが大切になってくるのです。
今、正しく生きれば、あなたは、間違いなく、幸せになれるのです。
今、正しく生きれば、という意味は、今、正しい想念を持って生きれば、という意味なのです。
これは、因果の法則が、保証してくれるのですから、間違いないのです。
さあ、法則を信じ、今、正しい想念を持って生きましょう。
2016.07.10
※
どんな、良いことも、悪く受け取れば、悪くなるのです。
どんな、悪いことも、良く受け取れば、良くなるのです。
それは、実際に有る真実のみが有るから、そう言えるのです。
真実の中に、悪は無いのです。
ならば、どちらに生きた方が、賢いでしょうか?
あなたは、肯定人ですか? それとも、否定人ですか?・・・。
なぜ、聖者(覚者)は、瞑想をするのでしょうか?
その理由を、瞑想という文字から探ってみましょう。
「瞑想」の「瞑」とは、左辺に「目」、右辺に「冥」と書きますが、左辺の「目」は、見るという意味で、右辺の「冥」とは、見えないという意味です。
だから、「瞑」とは、見えないモノを観る、という意味になります。
ここで、「観る」という字を使ったのは、見えないモノを見るには、想いで観るしかないからです。
瞑想の「想」の上辺の「相」とは、真相(実相)のことを意味し、下辺の「心」は、言うまでもなく、人の心を意味しています。
だから、「想」とは、「真相」は、「心」の中にある、という意味になります。
したがって、「瞑想」の二文字を通して解釈すれば、「心の中にある真相」を「想いで観る」という意味になります。
このように、心の中にある真相を想いで観るのが、瞑想なのです。
心の中にある「真相」とは、「神・生命・宇宙」のことですが、その真相を知るには、想いで実感するしかないので、大昔より、瞑想が行われてきたのです。
瞑想の極意は、想いでなぞることです。
いつも言うことですが、今だけが実在です。
その実在の今を「わ・れ・か・み・な・り」の想いで、なぞれば、想いは、創造の力ですから、神を現すことができるのです。
つまり、想いで、原因を作れば、必ず、結果が現れるということです。
この瞑想は、地球だけでなく、無限の波動圏の中で(宇宙のいたるところで)行われているのです。
瞑想している時は、生きており、この世の事を思っている時は、死んでいる、と言われるのは、「神・生命・宇宙」を想っている時は、本当に有るモノに生きているが、それ以外の時は、本当に無いモノに生きているからです。
この言葉には、深い、重い、意味が込められているのです。
2016.07.17
※ この宇宙には、実際に有るモノ(真実)のみが、有るのです。
この意味の深さを、知って欲しいと思います。
知れば、夢から目覚められるでしょう。
この宇宙は、無限ゆえに、無限に知るべきことがあるのです。
その無限のほんの一部を知って、得意になっている人は、何も知らない人です。
覚者が、謙虚なのは、永遠に知り得ない宇宙の無限性を知ったからです。
どうか、増長しないでください。
あなたの得た知識なんか、ゴミにも当たらない、小さなモノなのですから・・・、
それも、体験の伴わない知識を、得ただけのことなのですから・・・。
2016.07.24
※ 偶然が有るなら、神も、偶然に存在していることになるでしょう。
そうなれば、我々も、偶然に存在していることになるし、何もかも、偶然に存在していることになります。
そんな無秩序な宇宙に、何の意味があるでしょうか?
やってあげたいから、やってあげるのです。
してあげたいから、してあげるのです。
そこに、微塵の成算も、入ってはなりません。
純粋に、純粋に、清く、清く、「ただ、世のため、人のため!」と思い、やってあげることです。
その純度が、高ければ、高いほど、あなたは、神人としての素晴らしい働きが、できるでしょう。
私たちは、間違いなく、神人なのです。神の代弁代行者なのです。
それは、私たちの本性(意識)が、神だからです。
どうか、神人として、神の代弁代行役を果たしてください。
では、私たちは、どのような、代弁代行役を果たせるのでしょうか?
(一)、何をやるにも、神が思い、神が話し、神が行っている、と思い、やることです。
そう思いながら、やれば、その思い、その言葉、その行為は、神の表現になります。
つまり、
その思いは、素晴らしい発明・発見を生み出し、
その言葉は、多くの人の心を揺さぶり、
その行いは、人の手本となるのです。
(二)、神を想い瞑想することです。
神を想う瞑想は、身体を浄化し、地球を浄化し、宇宙を浄化します。
神を想う瞑想は、雑念を一点に集約させ、心を穏やかにします。
神を想う瞑想は、あなたの欠点を無くします。
神を想う瞑想は、原子核を増やします。
このように、純粋に、清く、神の代弁代行役に徹すれば、素晴らしい神の表現が、できるのです。
さあ、純粋に、清く、神を想い、話し、行動してください。
それは、どこへ行く必要もないし、お金もかかりません。
あなたの今の環境の中で、できるのです。
その貢献度は、ボランティアーの比ではないのです。
2016.07.31
私は、姿形の無い意識だけの存在です。
だから、私は、私を知らないまま、今日まで、生きてきました。
一体、意識の私って、何だろう?
一体、意識の私は、何処から来たのだろうか?
一体、いつ、生まれたのだろうか?
いや、私は、生まれた覚えがない。だから、死んだ覚えもない。
気がついたら、私は、存在していたのです。
いや、その言い方は、正しい言い方ではありません。
「気がついたら」という言い方は、「生まれた時は」と言うことになるからです。
私は、私の存在を、永遠の昔から、知っていたのですから、生まれたという言い方は、正しくないでしょう。
永遠の昔から、私を知っていたということは、永遠の昔より、私は、いたということですから、いつも、いたということです。
そう、私のいない時は、なかったのです。
私には、初めは、なかったのです。だから、終わりもないのです。
私は、ずっと生き通してきたのです。
そんな、私が、私のことを知らないで、今日まで、生きてきたのですから、不思議と言えば、不思議な話しです。
では、もう一度、問いかけてみましょう。
一体、意識の私は、何者なのでしょうか?
一体、何処から来たのでしょうか?
しかし、どんなに問いかけても、答えは返ってきません。
いくら考えても、いくら思索しても、分からないのです。
多分、永遠に、意識の私のことは、分からないでしょう。
でも、意識の私のことは、分からなくても、これだけは、分かっています。
私が、唯一、欲しいのは、幸せであることを・・・。
それも、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、究極の幸せが欲しいことを・・・。
それで、良いのです。
なぜなら、幸せ以外、私は、何もいらないからです。
2016.08.07
※ 私が知りたいのは、私の意識を生み出したのは、「何か」? ということです。
どうか、皆さんも、私の意識を生み出した「何か」を探してください。
この宇宙は、均衡を保とうとするエネルギーが支配していますので、均衡が崩れれば、必ず、穴埋めさせられます。
例えば、
やれば、必ず、やりかえされます。
奪えば、必ず、奪い返されます。
与えれば、必ず、与え返されます。
この宇宙に、一方通行は、無いのです。
エネルギーは、出した分、必ず、返ってくるようになっているのです。
これは、原因と結果の法則が裏支えしているため、間違いなく、行われるのです。
だからこそ、私たちは、成長してゆけるわけです。
良いことをすれば、良いことが、悪いことをすれば、悪いことが返ってくるのは、因果の法則からして、間違いないわけですが、それだけで終わらないのが、この法則の凄いところなのです。
つまり、行ったことには、必ず、悪いリスクと良いリスクが付いてくるのです。
例えば、大掃除をすれば、家は綺麗になりますが、その代わり、着ているものが汚れたり、腹が空いたり、疲れたりします。これは、悪いリスクです。
遊園地帰りの親子が、電車の中で、コックリ、コックリする風景を良く見ますが、あれも、楽しみの後にやってくる、悪いリスクの一つです。
何かをすれば、必ず、リスクを背負うのです。
目に見えないリスクもありますが、それは、分散されて、目に見えないか、先延ばしされているかで、いつか、必ず、お返しがあるのです。
このように、考えてください。
大掃除をすれば、家は綺麗になりますから、これは、良いことです。
でも、肉体は疲れますから、これは、悪いことです。
でも、筋肉が強くなりますから、これは、良いことです。
でも、腹が空きますから、これは、悪いことです。
でも、原子核が増えますから、これは、良いことです。
「良いことが悪いことにつながり、悪いことが良いことにつながり、また、良いことが悪いことにつながり、悪いことが良いことにつながる」、このエネルギー均衡の法則が、魂を成長させてくれるのです。
神が、一番に望んでいることは、魂の成長です。
苦楽を交互に体験しながら成長するのは、進化のプロセスなのです。
神は、エネルギー均衡の法則を通して、私たちの魂を成長させようとしているのです。
2016.08.14
※ 何でもそうですが、馴れてしまうと、そのモノの良さが、分からなくなるのです。
だから、増長してしまうわけですが、これは、大変、もったいないことです。
真理も、そうです。私のホームページも、そうです。
最初に味わった感動も、馴れてしまうと、薄れてしまい、反発心さえ起こってくるのです。
私が、一番感心するのは、神は、出来ないことをさせて、私達を悟らせようとしていない点です。
「今の今、ただ、神を想い続けなさい!、そうすれば、神を自覚できますよ!」と、神は、言っているのです。
全能の神が、私達に、出来ないことをさせるわけがないのです。
もし、難しいことをしなければ、悟れないなら、神は、全能で無くなってしまいます。
全能の神なら、子供でも、大人でも、女でも、男でも、頭の良い人でも、悪い人でも、貧しい国の人でも、豊かな国の人でも、悟れる仕組みを、用意してくれているはずです。
そうです。悟るのに、難しい理論も、技も、何も要らないのです。
今の今、ただ、神を想うだけです。
ただ、続けるか、続けないか、やるか、やらないか、だけです。
でも、殆どの人は、忍耐力なく、止めてしまいます。
それでは、実が、実る前に手放してしまうのですから、果実が、得られるわけがないのです。「継続は力なり!」です。
何も変化が起きないからといって、諦めないでください。
今の今しか、実在しないのです。
その今の実在を使って、神を想い続ければ、間違いなく、神の自覚が得られるのです。
神は、こんな、簡単な方法を、用意してくれているのです。
これは、我が子を愛するがゆえの、神の計らいです。
さあ、今、神を想い続けましょう。
2016.08.21
※ 「神が、我が子に、出来ないことをさせるわけがない!」と言うのは、私達の日々の生活においても、言えることなのです。
神は、私達に、難しい生き方をしなさい、とは、言っていないのです。
今、あなたが、思ったことを、素直に実行しなさい!と、言っているだけです。
たとえ、そのことで、おかしなことになったとしても、それは、成長のために、そうなった必然ですから、決して、失敗したとは、思わないことです。
どんな道も、大道につながっているのです。
「光のメロディー・・・真理を求めている人へ捧げる曲(人生の道)」を見てください。
あなたの選んだ道は、みな、正しかったのですから・・・。
今まで、どんな凶悪な罪を犯していた者であっても、心から悔い改めたら(良心に生きるようになったら)、全ての罪は、許されるのです。
”私は、もう、悪いことを一切やらない! 私は、今から、良心に生きる!”、と、堅く誓った瞬間、今までの自分ではなくなるのです。
なぜなら、人間の自分から、神の自分に戻ったからです。
良心は、神の心です。實在する心です。
その心に生きるようになった瞬間、自我の自分は、存在しなくなるのです。
今まで、悪いことをしていたのは、実在しない自我(サタン)の自分だったのです。
実在しない自我(サタン)の自分に、罪があるわけありませんから、決して、肉体を罰してはならないのです。
ということは、この宇宙に、罰するモノなど、一つも無いということです。
真我人間とは、良心に生きるようになった人間のことです。
良心には、一点の汚れも無いのです。
よく、心が汚れているといいますが、汚れた心など、一つもありません。
ただ、心の周りに、ゴミが付着しているだけです。
ですから、改心し、ゴミを落とせば、そく、真心に戻るのです。
ゴミとは、迷いのことなのです。
迷いは、実在するものではありませんから、迷いを取れば、そく、真我の自分に戻れるのです。
迷いを取る作業が、反省・懺悔なのです。
私が、死刑に反対するのは、改心した、その瞬間に、罪人は、いなくなるからです。
いない罪人を殺すなど、大きな罪です。
迷いが、罪人を作っているのです。
憎むべき相手は、罪人ではなく、迷いなのです。
ですから、「迷いを憎んで、人を憎まず」です。
どうか、迷いを取っ払ってください。
それは、真理を知ることによって、取っ払えるのです。
「無知こそ最大の罪である!」と、覚者がいうのは、真理を知らなければ、どうしても、迷って、罪を犯してしまうからです。
どうか、罪人のいないことを知ってください。
2016.08.28
※ 昨日まで、体の調子が良かったのに、今日、急に調子が悪くなったという人は、間違いなく、ネガティブな波動に、やられています。
つまり、サタンに、やられているのです。
その時は、真理を求める気持ちも、弱くなっているはずです。
ぜひ、そのことに気付いてください。
気付いたら、「サタンよ、見破ったぞ! サタンよ、退け! サタンよ、出てゆけ! 出てゆけ! 出てゆけ!」と、何度も、心の中で叫んでください。
もし、どこかに、痛みがあったら、「想わない! 想わない! 想わない!」と、思ってください。「想わない!」と思うだけで結構です。
きっと、痛みが和らぐでしょう。
体の調子が良くなったら、瞑想してください。
この宇宙には、様々な進化の度合いを持った星が存在しますが、その星が、どれだけ進化した星か、判定する基準は、あるのでしょうか?
あります。それは、その星に住む人たちが、どれだけ高い理解力を持っているかが、判定基準です。
では、その理解力の高低は、どのようにして、判定するのでしょうか。
その判定基準は、幸福度です。
低い理解力によって創られた世界の幸福度は低く、高い理解力によって創られた世界の幸福度は高いのです。
でも、その幸福度は、通常、比べることはできません。
それは、当人だけが知る、幸福の高さだからです。
でも、現象の世界において、その幸福度は、平和という形では、見ることはできるのです。
心の幸福度は、必ず、形として現れるようになっているからです。
幸福度の高い星は、平和なのです。幸福度の低い星は、争い事が多いのです。
地球惑星に、戦争が絶えないのは、地球人類の幸福度が低いからです。
つまり、理解力が低いからです。
私たちは、これまで、何万転生も、輪廻を繰り返してきましたが、その輪廻において、どれほど、成長したか、知る決め手は、やはり、理解力の高さなのです。
多く輪廻を繰り返した人の理解力は高く、少ない輪廻を繰り返した人の理解力は低いのです。
当然、理解力の高い人の幸福度は高く、理解力の低い人の幸福度は低いでしょう。
このように、進化の決め手は、理解力であり、幸福度なのです。
もし、あなたが、自分の進化度を知りたかったら、幸福度の高低で推測してください。
それは、あなただけが知る、幸福度です。誰とも、比べることはできません。
でも、それで、良いのです。
このように、幸福の平等性は、どこまでも貫かれており、これが、主観宇宙の素晴らしいところであり、神の愛の素晴らしいところなのです。
幼い魂も、熟した魂も、神の目から見たら同じなのです。
でも、宇宙は、たしかに、進化してゆくのです。
それは、意識に飽きがあるからです。
飽きる意識を持っている宇宙は、進化し続けるしか無いのです。
幸福を得ても、飽きがくる意識は、その上の幸福を求めてゆかなくては、満足できないからです。
この満足できない幸福の欲求が、私たちの魂を進化させてゆくのです。
2016.09.04
※ 神とは幸せのこと・・生命とは幸せのこと・・
チルチルミチルは、幸せの青い鳥を探しに旅に出かけました。
でも、いくら探しても、幸せの青い鳥は、見つかりませんでした。
がっかりして、家に帰ってきた、チルチルミチルは、ふとしたことから、幸せの青い鳥を、自分の中に見付けます。
つまり、チルチルミチルは、幸せは、外の世界にあるのではなく、自分の心の中にあったことを知ったのです。
幸せは、心の平安が、もたらすのです。
その心の平安は、自分が、「神であり、生命である!」と、心の底で思えた時に訪れるのです。
人間を自分だと思っている限り、真の平安は、やってきません。
自分が、永遠に傷つかない、永遠に死なない、永遠に無くならない、神である、生命である、と思えた時に、不動の平安が得られるのです。
神とは、幸せのことだったのです。
生命とは、幸せのことだったのです。
本当の自分とは、幸せのことだったのです。
「人生の目的は、本当の自分を知ることである!」という意味は、「人生の目的は、真の幸せの中に入ることである!」という意味だったのです。
あなたは、真理を学んでいるのに、何も成長していないと、思っているかもしれませんが、あなたは、間違いなく、成長しているのです。
なぜなら、今、あなたが、ここに来て、この真理を学んでいること自体、成長している証だからです。
永い転生において、あなたは、この真理に出会うまで、どれほど、苦難の人生を歩んできたと思いますか?
それは、それは、大変な苦難の人生を歩んできたのですよ。
そして、ついに、この真理に出会えたのです。
そして、今、その真理を、自分のものにしようとしているのです。
もし、今、学んでいる真理が、マガイモノなら、あなたの過去の人生は、失敗の人生になるのです。失敗の人生にしたくなかったら、今の真理を学び続けてください。
あなたは、ここまで導いてくれた、あなたの守護霊を信じないのですか?
この真理を選んだ、あなたの眼力を信じないのですか?
自分の守護霊を信じないで、自分の眼力を信じないで、何を信じるというのですか?
どうしても、信じられないなら、次の数式だけは、信じてください。
・・・という数式です。
この数式は、神に失敗はない、という数式です。
神が創られた宇宙に、失敗は無いのです。
この数式は、あなたに、失敗が無いことを保証してくれている、数式なのです。
たとえ、失敗のように見えても、それは、成功のための失敗ですから、成功なのです。
さあ、自分を導いてくれた守護霊を信じ、そして、この真理を選んだ自分の眼力を信じ、自覚の境界線を超えてください。
2016.09.11
※ 真理を求めることの難しさ!
私は、新しく来た、学びの友に、良く、こう言います。
「勉強会に来なくてもいいから、原子核を増やす、三つの方法を実践してください!」と・・・。
勉強会に来て、私の話を聴いている時は、波動が高いので、やる気になりますが、波動が落ちると、どうしても、やる気を削がれてしまうものです。
何せ、外にも、内にも、真理を阻むサタンがいるのですからね・・・。
私たちの中には、二人の自分がいるのです。
本当は、真我の自分しかいないのですが、周りの悪的波動にやられると、サタンが頭をもたげ、邪魔をしてくるのです。
それも、光が強くなればなるほど、闇も強くなるため、より、サタンが活発化するのです。
知花先生は、良く、こうおっしゃっておられました。
「サタンに、やられなかったら、悟るのは、案外と簡単なのですよ!」と・・・。
それほど、サタンは、大敵なのです。
何せ、自我の思いを、真我の思いにさせられてしまうのですから・・・。
それも、気づかない巧妙な思いにして・・・。
それほど、真理を得ることは、難しいのです。
もし、簡単に真理が得られるなら、とっくに、地球は、理想の世になっていたでしょう。簡単に得られないから、今もって、喘ぎ苦しんでいる人達が絶えないのです。
でも、いつまでも、そんな、地球にしておいてはなりません。
一日も早く、サタンに脅えることのない、地球にしたいものです。
何事も、真心を持ってやれば、必ず、相手に伝わります。
あなたの心は、全ての人の心と、つながっているのです。
形を見れば、別々ですが、本源においては、一つなのです。
ですから、真心を持ってやれば、必ず、相手に伝わるのです。
この宇宙には、
あなたの心は、宇宙の心と、一つなのです。
ですから、思ったことは、一瞬にして、宇宙に伝わるのです。
いくら、やってあげても、相手に伝わらないという人は、真心を尽くして、やっていないからです。
「いいえ、私は、真心を尽くしてやっています!」と、言うかも知れません。
でも、どんなに、形上、一生懸命やっても、少しでも、不純な思いがあれば、相手に伝わらないのです。
これは、真理も、同じなのです。
不純な動機で、しかも、生半可な気持ちで、真理を求めても、神に通じないのです。
私の恩師である、知花先生は、「心を尽くし、魂を尽くし、精神を尽くし、神を求めなさい!」と、おっしゃっておられましたが、神は、純なお方ですから、真心を持って、真理を求めなくては、神に伝わらないのです。
どうか、真心を持って、事に当たってください。必ず、相手に、神に、伝わります。
2016.09.18
※ これだけは、言っておきます!
「真剣に真理を求めている人の前に、神は、絶対、石や岩は置かない!」と言うことを・・・。
余計なことを、考えないようにしよう!、という意味は、余計な情報を、発信しないようにしよう!、という意味です。
この宇宙は、考えたこと(想ったこと)が、実現する仕組みになっています。
皆さんも、体験があると思いますが、余計なことを考えれば、余計な情報を発信するようになります。
余計な情報を発信すれば、余計な情報を受け取るようになりますから、ますます、余計なことを考えるようになります。
こうなると、平安な心は、維持できません。
私達は、情報を多く、受け取れば、受け取るほど、雑念が膨らむようになっているのです。
余計なことを考えなかったら、余計な情報を発信しませんから、余計な情報が入ってこなくなります。
つまり、余計な原因を作らなければ、余計な結果は、やってこないということです。
世の人々は、余計な情報を発信します。
余計な情報を発信すれば、余計な原因を作るわけですから、それに見合った、余計な結果がやって来ます。
良い情報を発信するのでしたら、良いでしょうが、殆どが、悪い情報ばかりです。
だから、悪い結果がやってきて、自分が苦しめられるのです。
家族間の諍い・企業間の諍い・国家間の諍いなど、この世のすべての諍いは、余計なことを考えるから起きるのです。
できるだけ、余計なことを考えないようにすることです。
そうすれば、余計な情報を受け取らなくなりますから、心穏やかになるのです。
みなさんは、何が欲しいのですか?
平安が、欲しいのでは、ありませんか?
心穏やかでありたいのでは、ありませんか?
心穏やかでありたいなら、外側の情報をシャットアウトすることです。
そして、内側に、意識を持ってゆくことです。つまり、神を想うことです。
2016.09.25
※ 意識の不思議な習性
意識は、実に、不思議な習性を持っています。
どんな習性かといいますと、動いたモノに向かうという習性です。
例えば、何かが動いたら、意識は、動いたものに移動するのです。
この宇宙が、なぜ、創造されたかといいますと、神の想念が動いたからです。
神の想念が動いた時点で、意識が、その動いたものに向かって移動したのです。
意識は、エネルギー(素材)そのものですから、動いた想念に、エネルギーが移動して、想念通りのモノを創造したわけです。
この意識の習性(原理)を利用したのが、瞑想です。
瞑想は、想念を動かして行います。
例えば、「吾神なり!」と、想念すれば、その想念に向かって、エネルギーが移動し、想ったモノ(神)を創造するわけです。
神は創られませんが、エネルギーが、原子核(生命核・魂)を増やすのです。
前述したように、意識は、エネルギー(素材)そのものですから、そのエネルギーが、想念したモノを創るわけです。
「真理をやり始めたら孤独になった!」という、学びの友がおります。
確かに、自分の理解力の中においては、孤独に感じます。
なぜなら、解って貰える人が、いないからです。
でも、それは、仕方のないことなのです。
また、それで、良いのです。
理解力だけは、共有できないのです。
自分の理解力は、自分だけのものです。
人と付合せすることができないのが、理解力なのです。
だから、誰も、自分の理解した世界に、入れることは、できないのです。
それは、当然です。自分しかいないからです。
自分しかいない処に、孤独は、無いのです。
いや、むしろ、安心なのです。心が穏やかなのです。満ち足りております。
それは、何もかもが、自分だからです。すべてが、自分だからです。
2016.10.02
※ 私は、これだけのことを知ったから偉いと思っている人は、何も知らない人です。
この宇宙には、知るべきことが、無限にあるのです。
覚者が、偉ぶることがないのは、宇宙の深さを知ったからです。
「知っても、知っても、知り尽くせないことがある!」と解った覚者は、謙虚にならざるを得ないのです。
皆さんも、どうか、謙虚になってください。
この宇宙は、一つです。
一つは全体であり、全体は一つなのです。
その一つが、自分なのです。
だから、誰のための人生でもありません、すべて、自分のための人生です。
ですから、他人の成長を考える必要はありません。
自分が成長したら、それで、良いのです。
自分が成長したら、他人も成長するからです。
今、起きている出来事は、すべて、自分の成長のために起きているのです。
ゆえに、苦しいからといって、人のせいにしてはならないのです。
すべて、自分が連れてきたのです。
それは、自分が成長したいからです。
自分のことは、自分が良く知っているのです。
自分に、どんな欠点があり、どんな課題を克服しなければならないかは、自分が良く知っているのです。
だから、自分の成長に必要な、人を、物を、環境を、自分が用意して連れてきたのです。
この宇宙は、自分が成長するために、自分が用意した学びの舞台です。
自分が用意した舞台ですから、その舞台に登場する、人も、物も、環境も、全部、自分が用意したのです。
人のための人生ではなく、すべて、自分のための人生であることを、知ってください。
2016.10.09
※ 私たちは、間違いなく、日々、成長しております。
さあ、眠る前に、こう思ってください。
「私は、今日も成長した! 私は、今日も成長した! 私は、今日も成長した!」と・・・。
翌朝、起きたら、こう思ってください。
「私は、今日も成長する! 私は、今日も成長する! 私は、今日も成長する!」と・・・。
思ったことは、必ず、実現します。
それは、時間の中に居るからです。
時間の中に居る限り、私たちは、間違いなく、成長するのです。
この宇宙は、単純に出来ています。
それは、神が「簡素・完結・単純」な思考の持ち主だからです。
食べ物でも、栄養価が高く、一番美味しいのは、表面の皮の部分です。
真理も同じで、表面の浅みに、美味しい味(謎)があるのです。
科学者が複雑に考えるのは、奥深いところに、宇宙の謎があると、誤解しているからです。
チルチルミチルは、幸せの青い鳥を探しに、旅に出ましたが、探しても、探しても、見つかりませんでした。
疲れ果てて、家に帰ってきた、チルチルミチルは、フトしたことから、自分の中に、幸せの青い鳥を、発見します。
このチルチルミチルのお話は、「真理は一番身近な処にあるのですよ!」ということを、教えてくれているのです。
ですから、真理を探る(思索する)場合、単純に考えることです。
もし、難しい真理なら、神は、無能な神になってしまいます。
なぜなら、難しく創るのは、無能だからです。
全能の神は、日時計を創るのです。無能な人間は、機械時計を作るのです。
無能者は、難しい作り方をし、全能者は、簡単な創り方をするのです。
それが、神と人間の大きな違いです。
どうか、単純に、考えてください。
つまり、単純に、神を「探して、求めて、叩いて」ください。
その単純な作業が、瞑想なのです。
瞑想には、何の理論も、何の技術も、何の修行も、要りません。
ただ、単純に、神を想い続けることです。
やれば、間違いなく、扉は開かれます。
難しいことがあるとすれば、続けることだけでしょう。
2016.10.16
※ この宇宙は、私の海です。「私! 私! 私!」だけ居る、大海原です。
その大海原に生み出された、無数の波頭は、個性化された、私です。
個性化された、私だから、自分を見失ってしまうのです。
でも、どんなに、個性化されても、私に、違いはないのです。
想念は実現の母です。
これは、何度言っても、言い過ぎることは、ありません。
思えば、必ず、実現します。
それも、強く思えば、強く実現し、弱く思えば、弱く実現するのです。
世の中には、心にドロドロしたものを持ちながら、世の成功者と言われる人たちがおりますが、彼らは、欲念が強いから、この世の物を、引き寄せることができたのです。
つまり、世の成功者と言われる人たちは、ただ、お金や、地位や、権力を、引き寄せる念力が強いと言うだけで、人格とは関係ないのです。
だから、世の成功者を人格者と呼ぶのは、正しくないのです。
生命核(魂)を大きくした人が、人格者なのです。
ですから、正しくは、「命格者」と呼ぶべきでしょう。
「身・口・意」という言葉がありますが、「身・口・意」の真の意味は、何事も思いが先立って実現されるという意味です。
思って、言葉になって、行為になるのです。
この世は、波動が荒いため、思っても、すぐに実現しませんから、思いが、言葉や行為に結びついていると思えませんが、意識界(幽界)は、波動が精妙なため、思ったら、すぐ、実現するのです。
しかし、波動の粗い、この世でも、何度も思えば、間違いなく、実現します。
事実、病気・事件・事故・テロ・戦争・自然災害などは、思いの産物ではありませんか?
だから、イエス様は、思いに対しても「汝姦淫するなかれ!」と戒められたのです。
「私は、何度も思ったが、実現しなかった!」という人がおりますが、それは、未だ、結果が降りていないだけで、いずれ、必ず、実現するのです。
例え、今生、実現しなくても、来生以降、何らかの形で実現するのです。
「私は、思いと裏腹な言葉が話せます」と言う人がおりますが、そんな芸当は、絶対できません。
裏腹な思いを持っていても、話す瞬間、正常な思いを持ち、正常な言葉を語っているのです。
また、「私は、言葉は汚いが、心はきれいだ」という人がおりますが、そんなことも、絶対ありません。
悪い想いを持っているから、悪い言葉が出てくるのです。
例え、褒め言葉を語ったとしても、腹の底に悪意を持っていれば、おべんちゃらに、聞こえるのです。だから、褒められても、嫌な気分になるのです。
この世では、思いの伴わない行為があります。反射運動が、そうです。
思わなくても、体が勝手に動く現象です。
何度も、何度も、身体に覚えさすことによって生まれる、条件反射的行為ですが、それは、肉体細胞自体に意識があるためで、アスリートは、この条件反射を、うまく運動に利用しているわけです。
しかし、これも、身体に何度も覚えさす段階で、思いが関わっているわけですから、やはり、思いがしているのです。
このように、すべて、思いが先立っての話なのです。
2016.10.23
※ 身口意
身口意という言葉があります。
この身口意の「身」とは、行為のこと、「口」とは、言葉のこと、「意」とは、想いのことです。
「身」も、「言葉」も、五感で捉えられます。
でも、「意」は、五感で捉えられません。
だから、どうしても、「意」を軽視してしまうのです。
でも、この三つのうちで、一番大切なのは、「意」です。
なぜなら、身を動かすのも、言葉を話すのも、想いがやっているからです。
原因(想い)あっての、結果(言葉や行為)です。
「想い」は、原因次元なのです。「言葉や行為」は、結果次元なのです。
結果は、原因なしに生まれないのです。
でも、人間は、「意」を軽視し、平気で悪い想いを持っています。
それは、想念の恐ろしさを、知らないからです。
私が「想念が全てですよ!」と、口うるさく言うのは、「意」だけが、真実だからです。
言葉も、行為も、現象で、真実では無いのです。
何が最も大切か、この際、もう一度、考えてみてください。
この宇宙には、全く波の無い霊から、波動の粗い物質的霊まで、様々な種類の霊が存在します。
本当は、全く波の無い霊しか存在しないのですが、それでは、表現ができないので、神は、波動を下げ、物質的霊を創造されたわけです。
私たちは、その全く波動の無い霊(神)から出てきた、霊(神)の子供たちです。
ですから、私たちは、霊性の進化を遂げ、波の無い霊(神)の世界に、帰って行かなければなりません。
世の中には、沢山の物を集めている人たちや、部屋に、鉱物を置いたり、植物を置いたり、猫や犬を飼っている、人たちがおりますが、私たちは、そんな波動の粗い物から、一日も早く、抜け出さなくてはならないのです。
なのに、懐かしいからと言って、波動の粗い、鉱物や、植物や、動物を、身近に置いていて、良いでしょうか?
部屋の飾り物として置くなら、良いでしょう。
でも、観賞用として、或いは、ペットとして置くのは、いかがなものでしょうか?
物質は、波動が低いのです。霊は、波動が高いのです。
どうか、波動の高い霊(神)を、意識して生きてください。
私たちは、霊性の進化を遂げるために、生まれてきたのですから・・・。
2016.10.30
※「霊」とは、巷間で言われている、「祟の霊」とか、「迷いの霊」とか、「動物霊」とか、そんな、幽霊(幽界の霊)ではないのです。
「霊」とは、神です。創造主です。生命です。意識です。光です。エネルギーです。
「霊性の進化」とは、神の子である人間が、元の「神の霊」に帰る進化のことなのです。
どうか、「霊」を、誤解しないでください。
皆さん、よく考えて見てください。
どうして、自分がいるのですか? どうして、相手がいるのですか?
自分がいるから、では、ありませんか?
勿論、自分がいなかったら、自分もいないし、相手がいないのも、当然です。
一体、自分なしに、何があるのですか?
一体、自分なしに、何が始まるのですか?
自分抜きでは、何も始まらないのです。
ということは、自分が、すべてのモノを、生み出しているということです。
つまり、自分が、自分を創り、相手も創っている、と言うことです。
“いいえ、自分がいなくても、相手はいますよ!” と、あなたは、言うかも知れません。
でも、自分がいなかったら、相手がいるかいないか、どうして、分かるのですか?
自分がいなくなった瞬間、相手がいなくなっているかも知れないのですよ。
そうなのです。自分抜きでは、何もあり得ないのです。
親も、子も、友だちも、地球も、宇宙も、全部、自分が創っているのです。
と言うことは、自分が創造主である、と言うことです。
お釈迦様が言われた、「天上天下唯我独存(尊)」の意味を、噛み締めてほしいものです。
宇宙の存在を証明できるのは、自分しかいないのです。自分抜きでは、何も証明できないのです。
だから、自分が存在していた時には、宇宙が存在していたし、宇宙が存在していた時には、自分が存在していたのです。
自分は、宇宙の存在を認めてやれる、唯一の存在者なのです。
と言うことは、「自分は、神である」ということです。
だから、自分と言う字は、「神が(自)らを(分)けた」と書くのです。
勝手に、相手がいると思ってはなりません。
相手は、自分が創った相手なのです。自分が連れてきた相手なのです。
自己完結型宇宙が成り立つのは、自分しかいないからです。1しか無いからです。
(この数式が、自分しかいないことを証明している)
1しか無いなら、自分しかいないなら、すべての物は、自分で創造するしかないでしょう。
つまり、自己完結型宇宙に成らざるを得ないわけです。
2016.11.06
※ 永遠の昔より、宇宙が存在していると言っても、そのことを認める者がいなくては、単なる観念論にしか過ぎません。
ですから、どうしても、意識を持った認定人(判定人)である、人間が必要なのです。
真理とは、「不変・不動・永遠不滅」なるモノです。
何が起きようが、絶対、変わりようのないモノが、真理です。
その真理は、この宇宙に、一つしかありません。
では、一つしか無いモノとは、何でしょうか?
それは、意識です。意識は、この宇宙に、一つしか無いのです。
意識は、絶対、無くならない、「不変・不動・永遠不滅」なる真理なのです。
その意識のことを、神とか、仏とか、生命とか、キリストとか、ブッタとか、呼んでいるだけです。
対して、非真理とは、必ず、無くなるモノです。
どんなに、見えても、触れても、必ず、無くなるモノが、非真理です。
それは、本当に無いからです。
ということは、この世も、幽界も、必ず、消えてなくなりますから、非真理(幻)と言うことになります。
今、私たちは、非真理の世界にいるのです。幻の世界にいるのです。
このように、真理とは、永遠に無くならない意識です。
ということは、私たちは、真理ということになります。
なぜなら、私たちは、意識を持っているからです。
私たちは、意識そのものなのです。
「吾真理なり!」
「吾真理なり!」
「吾真理なり!」
です。
2016.11.13
※ 私たちは、真理を得るために、生まれてきたのです。
学校に行くのも、仕事をするのも、家庭を持つのも、すべて、真理を得るための方便です。
お金も、財産も、地位も、名誉も、真理を得るための方便です。
方便のために、悩み、方便のために、苦しまないでください。
どうか、本当の自分を知ってください。意識の自分を知ってください。
それも、頭で知るのではなく、心の底で知ってください。
心の底で知ったら、至福感に満たされます。
その人は、もう、この世の何も欲しがらないでしょう。
※ どうして消えるの?
あなたの周りから、毎日、沢山の人たちが、消えていっています。
勿論、あなたも、いつか、必ず、消えてしまいます。
人間だけでは、ありません。花も、木も、犬も、猫も、あなたが住んでいる街も、国も、この地球でさえも、いつか、必ず、消えてしまいます。
どうして、消えてしまうのですか?
それは、本当に無いから、では、ありませんか?
その本当に無いモノのために、どうして、あなたは、命を削ってまで、生きようとするのですか?
本当に有るモノのために、生きましょう。
本当に有るモノとは、意識です。
どうか、本当に有るモノと本当に無いモノの識別をしてください。
私たちは、霊性の進化を遂げてゆかねばならない、高貴な霊の子です。
その高貴な霊が、グルメに夢中になり、快楽に溺れ、物欲に明け暮れている、実に、動物的生き方だと思いませんか?
一般人は、仕方ないとしても、真理を学んでいる、私たちは、一日も早く、そのような生き方から、卒業しなければなりません。
では、どのような、日常生活が望ましいか、考えてみることにしましょう。
人生の目的を見失わないこと。
私たちは、本当の自分を知るために、生まれてきました。
この大目的を見失っては、何のために、生まれてきたのか、分かりません。
私たちは、「私は、神の子である!」と、心の底で思えるようになるために、生まれてきたのです。
今の今を大切に生きること。
「私は神の子である!」と、心の底で思えるようになるためには、瞑想は、欠かせません。
そのためには、今の今を大切に生きなければなりません。
今の今を大切に生きるとは、神を想うこと、生命を想うこと、つまり、マントラを想うことです。
日常生活の何をやるにも、「神がやっている!」、と思いながらやることです。
原因と結果の法則と陰陽の法則を守ること。
原因と結果の法則と陰陽の法則を守るのは、求道者として、当然の義務です。
真理を学んでいる者なら、この法則を、常に胸に秘めて、生きなければなりません。
正しい想念を持って生きること。
想念は、実現の鍵です。
あなたの成長は、想念次第なのです。
想念については、これまで、クドいほど述べていますので、ここでは、触れませんが、今まで学んだことを、何度も復習してください。
どうか、想念を、良いことに、使ってください。
良いことの一番は、神を想うことです。良い思いを持つことです。
すなわち、瞑想をすることです。
家族を通して学ぶこと。
家族との生活は、情愛と感情を克服する学びの一環です。
つまり、情に流されず、かつ、情を失わず、の情と、厳しからず、甘からず、の愛を、家族を通して学ぶことです。
余計なことを考えないこと。
終わった、過去のこと、まだ来ない、未来のことを、くよくよ、考えないことです。先読みしないことです。妄想を抱かないことです。余計なことを考えないことです。
嫌なことから逃げないこと。
与えられた、嫌なことから逃げないことです。
嫌なことを追いかけなさい、と言っているのではありません。
やって来たら、逃げないで、やりなさい、と言っているのです。
人事をつくしたら、後は、天に委ねること。
やるだけのことを、やったら、くよくよ、考えたり、心配したりしないで、待つことです。
神は、最善を尽くした者を、見捨てるわけはないのです。
今、やらねばならないことを、淡々と、こなすことです。
中庸の生き方をすること。
この世は、すぐに、旅立たねばならない、腰掛けの世界です。
そんな、腰掛けの世界で、命を削ってやることなど、一つもないのです。
ほどほどに、中庸を守って生きたら良いのです。
五十歩百歩の生き方をすることです。
一生懸命やること。
ただし、やるときには、一生懸命、真心を込めて、やることです。
一生懸命、やっていれば、周りの人たちも見習い、一生懸命、やるようになります。
一生懸命やっている姿は、輝いています。
その輝いている姿を、周りの者に見せることです。
特に、自分の家族の者に見せることです。
一生懸命やれば、原子核は、間違いなく、増えます。
腰軽になること。
体を、動かせば、動かすほど、原子核は、大きくなります。
つまらないことでも良いですから、体を動かすことです。
腰軽は、サタンに勝つ、一番の方法なのです。
繰り返すことを嫌がらないこと。
真理というものは、一度や二度で、身につくものではありません。
何度も、何度も、繰り返すことで、身につくのです。
何度も、何度も、読むことです。
何度も、何度も、聴くことです。
何度も、何度も、見ることです。
何度も、何度も、やってみることです。
繰り返すことを、嫌ってはなりません。
面倒かもしれませんが、手間を掛けることです。
手間を掛ければ、かけるほど、成長するのです。
この世の物を愛玩しないこと。
私たちは、鉱物、植物、動物と、進化を遂げ、やっと、自我の持つ人間まで、成長してきたのです。
それだけ、苦しい進化の過程を踏んできたということです。
なのに、懐かしがって、鉱物や、植物や、動物などの愛玩物を、身近に置いていては、進化の妨げになります。
愛玩するのは、懐かしいからです。
家の中に、そのような、愛玩物を置けば、波動が落ちるのです。
私たちは、一日も早く、波動の低い物質から、波動の高い霊に、上り詰めねばならないのです。
その他、日常生活で守らねばならないこと。
買い貯めしないこと。
物を寝かさないで、使ってやること。
できるだけ、歩くこと、できるだけ、動くこと。
互いに環境を守り合うこと。
親切心で、やってあげ、相手の学びを奪わないこと。
やるなら、相手の成長を考え、やること。
以上、望ましい日常生活を、ピックアップしてみました。
どうか、参考にしてください。
注 魂が成長すれば、守るべき内容も、厳しくなって行くでしょうが、安心してください。
成長した魂にとって、その厳しさも、そう厳しいとは、思えなくなるのですから・・。
2016.11.20
全てが、私なのです。
この、大宇宙、大自然、鉱物、植物、動物、人間、全てが、私なのです。
空気、水、土、全てが、私なのです。
創造物の全てが、私なのです。
なぜなら、私が、全ての創造物を創り、その中に居るからです。
私は、全てのすべて有りてあるものです。
私に、恨み言を言う人も、罵声を浴びせる人も、嫉妬する人も、みな、私なのです。
私の中に、私が居るのです。あなたの中に、私が居るのです。
すべてのモノの中に、私が居るのです。
そして、私の中に、私がおり、私の中に、あなたが居るのです。
私の中に、すべてが、あるのです。
だから、何も、誰も、批判できないのです。すべて、私の責任です。
痛みの中に、私が居るのです。
苦しみの中に、私が居るのです。
悲しみの中に、私が居るのです。
勿論、感動の中にも、喜びの中にも、幸せの中にも、私は居るのです。
私は、自由に何でも創造できるのです。何処にでも行けるのです。
私には、生がないのです。だから、死もないのです。
私は、永遠不滅の存在です。無限の存在です。私には、限定が無いのです。
だから、私は、自由です。自由なるがゆえに、完全なのです。
私には、失敗はないのです。
たとえ、失敗に見えても、それは、成功のための失敗ですから、成功なのです。
ということは、どこまでも、完全であるということです。
私に、不完全はないのです。
この宇宙が、今日まで、存続してこられたことが、それを、証明しているのです。
私のいない時は、ないのです。
私のいない宇宙は、無いのです。
私抜きの宇宙など、無いのです。
私抜きのドラマなど、無いのです。
だから、私が私を愛するのです。
だから、私が私を慈しむのです。
だから、私が私を労るのです。
私の中の私です。
私の内の私です。
私しかいないのです。
2016.11.27
私は、よく言います。
過去世の人の業を、あなたが背負うことはない、魂に背負ってもらったらいいと・・・。
たしかに、その通りです。
でも、実際に、今、苦しいのです。今、痛いのです。放っておけるでしょうか?
では、どうすれば、過去世の業の苦しみから逃れられるか、実例を参考に考えてみましょう。
実例1
私は、神経質な母親の想念の悪影響を受け、幼い時から、とても、胃腸が弱かったのです。
大人になっても、その影響は続き、時々、下痢などをしていたのです。
でも、ある時、母親の暗示が、胃腸を弱くしていたことに、気付いたのです。
私は、それ以来、下痢が起きても、その下痢を、良く受け取るようにしたのです。
つまり、「ああ、今、業(暗示)が、消えている! 消えている! 消えている!」と思って、業の上乗せをしなかったのです。
業というものは、現象(幻)ですから、放っといたら、消えて無くなるのです。
でも、痛みや苦しみがあるため、どうしても、新たな業を作ってしまうのです。
痛くても、苦しくても、これは、業の消えている状態だと思って、心配しないことです。
痛んだら、苦しくなったら、「今、業が消えていっている!、嬉しいな! 嬉しいな!」と思うことです。
悪く思うことが、一番良くないのです。
心配や悩みが、一番良くないのです。
実例2
ある学びの友から、大変嬉しい、お便りをいただきました。
その学びの友は、自分の息子から、暴力を受け、悩んでいたのです。
その息子さんは、生まれた時から、父親に、なつかなかったらしく、父親の顔を見ると、すぐに、泣き出したらしいのです。
父親も、そんな息子を、好きになれるわけがありません。
ですから、何かにつけて、厳しく当たってきたらしいのですが、そのためか、大きくなるにつれ、父親に暴力を振るうようになったというのです。
私は、彼に、こう、アドバイスしました。
「あなたは、過去世において、その子と敵対関係にあったため、お互いに好きになれない業を、持ち合っているのです。
その業を解消するには、子供さんから、何をされても、言われても、甘んじて受けることです。
ここが、一番肝心なところです。
たとえ、息子さんから、どんな仕打ちを受けても、”ああ! 今、業が消えている。嬉しいことだ! 良いことだ!”と思うことです。
決して、腹を立てない、憎まない、恨まないことです。
これが、業の上乗せをしないコツです。
業の上乗せをしなければ、つまり、悪い原因を作らなければ、悪い結果は、やってこないのです。
反対に、腹を立てれば、業の上塗りをするわけですから、いつまでも、業の輪廻から、抜け出すことが、出来ないのです。
これは、大変努力のいることかもしれませんが、強い意志を持ってやれば、間違いなく、息子さんは、変わります。」
と、私は、アドバイスしたのです。
彼は、私のアドバイスを聞き入れ、実行したわけですが、半年ほどすると、息子さんの態度が、少しずつ変わってきたといいます。
そして、一年たった今は、息子さんと和やかに話せるほどになったというのです。
私たちの想念は、一度に、二つのことは、思えないように出来ています。
良いことも思い、悪いことも思えないのです。
この想念の性質を、カルマの解消に、利用することです。
つまり、常に、神を想うことです。
神を想っている時は、悪いことは、思えないわけですから、カルマは、消えてゆくのです。
この表現宇宙は、白板のようなものなのです。
白板に書かれた文字は、時間が経てば、消えてゆくように、出来ているのです。
新たな文字さえ、書かなければ・・・。
業も、同じなのです。
新たな業を作らなければ、時間が来れば、自然と消えてゆくのです。
でも、苦しいと、どうしても、業の上塗りをしてしまうのです。
病気の苦しみも、息子の乱暴な態度も、みな、現象です。
現象は、実際には、無いのです。
その実際に無い現象に、惑わされ、悪想念を抱くから、苦しい結果が、やってくるのです。
想念は、何でも生み出すのです。
想念ほど、恐ろしく、また、頼もしいものはないのです。
どうか、悪い原因を作らないようにしてください。
そうすれば、間違いなく、今の苦境を乗り越えることができます。
「原因と結果の法則は、間違いない!」ということを、強調しておきたいと思います。
2016.12.04
※ なぜ、業は、放っといたら、消えるのか?
その謎を、はっきり、させたいと思います。
業というものは、現象であって、実在しているもの、では、ありません。
人の悪想念が作った、現象(幻)です。
幻ですから、放っておいたら、消えて無くなるのは、当然なのです。
でも、何も残さず、消えていったのでは、悪想念が、苦しみの原因であることに、気付いてもらうことができません。
そこで、神は、業が消える時に、痛みや、苦しみを、合図として残してゆくよう、仕組まれたのです。
でも、人間は、その合図の意味が解らないため、再び、心配したり、恐怖したり、悩んだりして、業の輪廻を生み出しているわけです。
この、業の輪廻から抜け出すには、痛み、苦しみは、業が消える時に残す、合図だと思うことです。
痛み、苦しみを、悪く受け取れば、エネルギーを落としてしまうのです。
つまり、
否定の思いは(悪いと思えば)、エネルギーを落とすのです。
肯定の思いは(良いと思えば)、エネルギーを高めるのです。
痛み、苦しみは、業が消える合図ですから、良い事として、肯定しなくてはならないのです。
悪い業を消そうと思っても、なかなか、消せるものではありません。
放っといたら、消えるのですから、消す必要はないのです。
悪い原因を、新たに作らなかったらいいのです。
どうか、「この痛みや、苦しみは、業の消えてゆく合図だから、良い事だ! 嬉しい事だ! 嬉しい! 嬉しい! 嬉しい!」と思ってください。
そうすれば、エネルギーが高まりますから、痛みや、苦しみは、消えて行くのです。
神は、業を消す、こんな簡単な方法を、用意してくれているのですから、それを、利用することです。
人は、本来、誰でも、幸せに生きられるように、創られているのです。
あるモノさえ、正しく使っていたら・・・。
あるモノとは、想念のことです。
神は、私たちに、「想念」という、素晴らしい宝物を与えてくれました。
この想念を、正しく使えば、誰もが、幸せに生きられるのです。
でも、今の地球人類は、そのことを知らないのです。
「無知こそ最大の罪」と言われるのは、知らなければ、正しく使うことができないからです。
想念は、誰でも、自由に使えるのです。何処に行く必要もありません。誰にも邪魔されません。国の違い・人種の違い・大人子供・男女・貧富の差、一切、関係ありません。
ただ、どう使うかだけです。
「想念を正しく使いましょう!」
「想念を正しく使いましょう!」
「想念を正しく使いましょう!」
これは、何度言っても、言い過ぎると言うことはありません。
なぜかと言いますと、私たちは、すぐに、サタンに、やられてしまうからです。
サタンに、やられると、良い想念が持てなくなるのです。
さあ、良い想念を持ちましょう。
良い想念を持てば、私たちに、苦しみは、無いのです。
良い想念の一番は、神の想いです。
「吾神なり!」
「吾神なり!」
「吾神なり!」
これ以上の良い想念はありません。
2016.12.11
※ 地球人類は、みな、自殺している
今日、日本国内だけでも、3万人近い、自殺者を出していますが、本当は、死人全員が、自殺しているのです。
なぜなら、想念を悪用し、死を招いているからです。
病気の死も、事件や事故の死も、災害の死も、戦争の死も、みな、悪想念によって招いているのです。
だから、私は、地球人類は、みな、自殺しているというのです。
“何だ! ただ、神を想い続けていれば、いいだけじゃない!”と、あなたが、気付いたら、もう、学びは、終わりです。
実に、単純な学びです。
神は、私たちに、こんな単純な学びをさせているのです。
私たちが、今日まで、何万転生もしてきた、この世の学びは、この単純な学びを修業することだったのです。
何万転生してきた学びが、この想念のコントロールであったと解った途端、笑ってしまいます。唖然としてしまいます。正に、目からウロコが落ちる思いです。
肉体は、影ですから、何の力もありません。
病気や事故災難を作っているのは、すべて、想念です。
だから、良い想念を使っている限り、不幸はないのです。
つまり、神を想い続けている限り、悪業は作らないわけですから、不幸はない、ということです。
勿論、自分の欠点も、無くなります。
原子核が増えますから、自覚の境界線も、超えられます。
神を想い続ければ、良いこと尽くめなのです。
だから、私の恩師である、知花敏彦氏は、“私たちの最後の学びは、想念のコントロールなのですよ! ”と、言われたわけです。
どうか、想念の学びの重要さを、知ってください。
何も難しいことを考える必要はないのです。
また、余計なことを考える必要もないのです。
ただ、神を想い続けていれば、人生の学びは、終わるのです。
さあ! 子供心で、「単純に! 単純に! 単純に! 、素直に! 素直に! 素直に!」、神を想い続けてください。
神を想ったら、良いこと尽くめなのですから・・・。
2016.12.18
※ 神を想い続けていれば、病気にもなりません。家族関係も良くなります。心配も、恐怖も、なくなります。勿論、サタンにも、やられません。
神を想ったら、良いこと尽くめなのです。
さあ、子供のように、素直な気持で、神を想い続けましょう!
神が、苦しみを、与えているのではありません。
私たちが、自分の想念を悪く使って、自分に、苦しみを、与えているのです。
想念を悪く使うのは、長い転生で付けた、悪癖なのです。
克服しなければならない、最大の課題です。
でも、神は、自我を持たせた段階で、すでに、悪癖を無くす方法を、授けてくれていたのです。
それは、「想念を良く使うこと! 」と言う、簡単な方法です。
ですから、本当は、反省さえ、必要ないのです。
私が、反省を勧めるのは、耐え難い苦しみを消す、即効性があるからです。
でも、自己完結型宇宙の仕組みを知ったら、反省の必要は無くなるのです。
反省対象の相手は、実際にはいないからです。
痛みや、苦しみが、来た状態は、すでに、業の消える工程に入っているのですから、業の上乗せをしない限り、黙っていても、業は、消えてゆくのです。
上乗せするから、また、同じ、痛みや、苦しみが、やってくるのです。
宇宙の仕組みは、実に、単純です。
「悪想念を使って、苦しみを生み出したなら、良い想念を使って、苦しみを消しなさい!」という、単純な仕組みです。
この仕組みを利用したら、私たちに、苦しみは、無いのです。
それどころか、人類に、地球に、宇宙に、貢献できるのです。
お金もかかりません。何処に行く必要もありません。
ただ、悪想念を使わないようにするだけです。
とはいっても、私たちは、どうしても、チラッチラッと、悪いことを思ってしまいます。
これが、厄介な点なわけですが、でも、その時は、神を想えば良いのです。
神を想えば、「業を作らない、自分の欠点は無くなる、原子核も増える」、正に良いこと尽くめです。
さあ、神を想い続けましょう。
2016.12.25
※ 人類は、未だに、想念の偉大さを知らないで、生きているのです。
だから、悪想念を使い、自ら、苦しみを、招いているのです。
想念は、何でも生み出し、何でも実現させ、何でも成就させるのです。
でも、地球人類は、そのことを知らないため、悪想念を使っては、苦しんでいるのです。
もう、そろそろ、気付いて良い頃ではありませんか?