瞑想している皆さんの悩みは、雑念が湧くことだと思います。
そこで、雑念を少なくする、三つの方法を、お勧めしたいと思います。
1. 瞑想をする前に体を動かすこと。
若い人は、エアロビックスのような、少しキツイ運動を・・・老人は、それなりの運動を・・・できたら、三分から五分くらい・・・。
身体を動かした後は、呼吸を整え、瞑想に入ってください。
2. 思いの壁を作ること。
瞑想に入る前に、「私は、神(自分のマントラ)以外、何も想わない!」と、強く思ってください。
強く、思えば、思うほど、思いの壁ができ、雑念が湧きづらくなります。
3. 目を開けて瞑想すること。
一番良いのは、マントラを書いた紙を壁に貼り付け、それをジッと見続けながら、マントラを想うことです。
雑念が少なくなったら、目をつぶって、瞑想に入ってください。
それも、重ねる瞑想を・・・。
人それぞれ、意識状態が違いますので、全員に有効かどうか分かりませんが、雑念が湧いて困っている人は、ぜひ、試してみてください。
2019年1月1日 更新
※ あなたが、瞑想している時は、アナタは、実在しています。
なぜなら、真実を創っているからです。
あなたが、この世のことを想っている時は、アナタは、実在していません。
なぜなら、幻を作っているからです。
でも、神は、幻の中でも、原子核を増やせるようにしてくれていますので、アナタは、実在しているのです。
どちらにしても、何かを想い、何かを語り、何かをしているアナタは、凄い存在なのです。
※ 瞑想は、神様から与えられた仕事だと想ってください。
そう思えば、使命感に燃えて、瞑想できると思います。
言葉には、陰の言葉と、陽の言葉があります。
陰の言葉は、人間社会で使われている、具象的な言葉です。
対して、陽の言葉は、「 神! 生命! 意識! 無限! 永遠! 」と言った、抽象的な言葉です。
陽の抽象的な言葉は、枠が無いので、意識が拡大しやすいのに対し、具象的な言葉は、枠が有るため、意識が固着しやすいのです。
具象的言葉の中でも、特に、否定的な言葉や、頭に濁音の付く言葉は、良くありません。
瞑想は、波動の精妙な世界と、コンタクトを取る必要があるので、抽象的なマントラが有効なのです。
理由は、陰の言葉は、波動が粗いのに対して、陽の言葉は、波動が精妙だからです。
抽象的言葉が、いかに凄いか、また、具象的言葉が、いかに虚しいか、私は、もう一段、心の深いところで知りました。
どうか、抽象的な言葉を有効に使ってください。
「ただ、抽象的な言葉を想うだけで良いのです」、想えば、波動が上がり、間違いなく、原子核が増えます。
また、「喜びと、潤いと、活気」を、もたらします。
2019年1月15日 更新
思いは見えません。それでは、どんなに素晴らしいことを思っていても、思っていないのと同じです。
どんなに素晴らしい絵の構想を持っていても、描いて見せなくては、空想にしか過ぎないのと同じです。現してこその絵の構想です。
だから、どうしても、表現(結果)が必要なのです。幸せも、同じです。
どんなに幸せだと思っていても、表現されない幸せは、無いのです。
たしかに、神は、素晴らしい幸せを味わっているかも知れません。
でも、その幸せは、表現されない幸せですから、無いのです。
神は、そのことに気づきました。
そこで、神は、自分が味わっている幸せを表現してくれる人類を創ったのです。
今、人類は、チッポケな幸せを味わっています。
確かに、小さな幸せかも知れませんが、神は、その小さな幸せを、神、ご自身の喜びにしているのです。
つまり、人類が、幸せを味わい、喜んでいる姿は、誰でもない、神、ご自身の姿なのです。
今、人類が味わっている小さな幸せも、進化するに従って、段々と大きな幸せになってゆきます。
そうなれば、幸せの喜びの表現も豊かになってゆくでしょう。
その豊かになってゆく喜びの様を、神は見たいのです。
人類が、幸せになればなるほど、神の幸せも増してゆくからです。
2019年2月1日 更新
※ うなぎのような、掴みどころのない宇宙で、唯一、確かなものは、幸せです。
幸せだけが、実在だからです。後のモノは、すべて、幻です。
だから、どんな生命体も、みな、幸せを欲しているのです。
あんな、大人しい人が、なぜ、あのような、恐ろしい殺人事件を犯すのだろうか?
そんな、疑問のわく凶悪事件が、最近、ますます、増えています。
これは、「憑依幽霊」による仕業です。
「憑依幽霊」と言う言葉を使うのは、「霊」は、「神」ですから、悪さをしませんが、「幽」は、迷った魂ですから、悪さをするのです。
でも、「幽」では、意味が通じないし、「霊」だと、誤解されるので、「幽霊」と言う言葉を使ったのです。
明るいポジティブな想いを持っていたら、そのような幽霊に憑依されることはないのです。ネガティブな想念を持っているから、同じ想念を持った幽霊に憑依されてしまうのです。
ですから、憑依幽霊の責任ではなく、悪想念を持った人の責任です。
医者は、憑依幽霊を認めませんから、頭の狂った人は、精神病患者として、臓器疾患は、病人として扱われるのです。
肉体は、神が作られた傑作品ですから、本当は、病気になることはないのです。
病気にしているのは、あくまでも、その人の悪想念です。
だから、私は、想念病だと言っているのです。病気の殆どは、憑依病なのです。
憑依幽霊は、寂しいのです。苦しいのです。たくさん鬱憤を持っている、可愛そうな存在なのです。
だから、人に憑依し、鬱憤を晴らそうとしているのです。
凶悪な憑依幽霊は、頭の方に憑きますので、憑かれた人は、精神病になります。
目とか、耳とか、鼻とか、口とか、顔の部分の病気、喉の部分の病気、胸や心臓の部分の病気、胃や、膵臓や、肝臓や、腎臓の部分の病気、腰や、腸や、陰部の部分の病気、膝や足の部分の病気と言ったように、上から下に降りてくるに従って、憑依度は、軽くなります。
身体の上部は、波動が高いので、憑依されづらいのですが、身体の下部は、波動が低いので、憑依されやすいのです。
その意味では、身体の上部を病んでいる人は、下部を病んでいる人より、悪い想念を多く持っていることになります。
波動が高まると、憑依霊は、下の方に降りてきますので、病んでいる部分が、上から下へ移ってきます。
更に、波動が高まり、身体の中にいられなくなると、憑依幽霊は、足の先から出てゆきます。
憑依されないためには、明るい、ポジティブな想いを持ち続けることです。
一番、良い想いは、神(マントラ)です。
ただし、神を想っていても、ネガティブな想いが、少しでも残っていれば、腰から足にかけて、憑依幽霊が居座ることがありますので、その部分が重く感じたり、違和感を感じたりします。
でも、気にしないでください。瞑想を続けていれば、いずれ、出てゆきます。
憑依されていると、本人が自覚していても、なかなか、自分で無くせるものではありません。 勿論、他人が無くせるものでもありません。
なぜなら、その人の思いが変わらない限り、憑依幽霊は、出て行かないからです。
それほど、憑依幽霊を無くすことは、大変なのです。
でも、家族の皆さんが、できるだけのことをしてあげてください。
一番、良いのは、憑依されている人のお世話を、真心を込めてしてあげることです。
そうすれば、真心にほだされ、憑依幽霊は、出てゆくかも知れません。
学びの友の皆さんは、エネルギーが高いので、瞑想しながら、背中や頭に手を当ててあげたら良いでしょう。
右の手の平で、右回りに、丸(円)を描くようにさすってあげたら、なお、良いでしょう。私の動画を見せるのも、良いでしょう。
でも、本人が嫌がるのに、強引にやっては、逆効果になりますので注意してください。
今、地球は、迷った憑依幽霊によって、数知れない凶事が起きています。
このままでは、地球は、憑依幽霊に、乗っ取られてしまうかも知れません。
さあ、地球は、どうするでしょうか?
地球において、水の洗礼は、これまで、度々、行われてきましたが、火の洗礼は、まだ数回しか、行われていません。
でも、これ以上、地球が荒らされたら、地球は、火の洗礼を考えるかも知れません。
水の洗礼は、「肉体」の浄化作業ですが、火の洗礼は、「魂」の浄化作業なのです。
火の洗礼を受けたくなければ、瞑想することです。
それは、私たち、学びの友だけができるのです。
どうか、瞑想してください。
2019年2月15日 更新
※ 憑依で苦しんでいる、学びの友に一言・・・
何よりも、あなたが、成長することが、一番なのです。
そのために、苦しい学びの教材を、あなたが、用意したのですから・・・。
そうです。家族も、あなたの周りの人たちも、社会も、世界も、あなたの進化成長のために、あなたが、用意したのです。
あなたが、用意したのですから、どんなことが起きようと、悩まないこと、悪いことを想わないこと、です。
今、あなたが、やるべきことは、瞑想をすることです。
※ 瞑想の有り難さが解った人は、幸せな人です。
「人類は、原罪を背負って生きている!」と言う、宿業説を唱える人がおります。
また、「人類は、もともと、悪の性質を持っている」と言う、性悪説を唱える人がおります。
なぜ、そのような説が生まれたかと言いますと、悪を犯さないでいられないようできているのが、肉体だからです。
では、肉体を持った人類が、悪いのでしょうか? 肉体を持たせた者が、悪いのでしょうか? 肉体を持たせた者ですね。
では、肉体を持たせたのは、誰でしょうか? それは、神です。
これが、神が、原因無き原因者と言われる、謂われなのです。
肉体を持った人類は、罪を犯します。
それが、人類が作った、最初の原因(業)です。
当然、苦しい結果がやってきます。苦しいがゆえに、悪い原因を作ります。
すると、また、苦しい結果がやってきます。苦しいから、また、悪い原因を作ります。
こうして、人類は、業の輪廻の渦に巻き込まれて行ったのです。
しかし、神は、業から抜け出す方法を、ちゃんと用意していたのです。
それが、「原因と結果の法則」です。
苦しい輪廻を繰り返すうちに、人類は、法則の存在を知ります。
知った者は、法則を守るようになりますから、悪い原因を作らなくなります。
作らなくなった途端、今まで作って置いていた黒石(悪い結果)のすべてが、白石(良い結果)に変わるのです。
なぜなら、神が人類に持たせた肉体は、進化成長に必要な白石だったからです。
「原因無き原因」は、良い原因だったと言うことです。
最初に白石が置かれているのですから、私たちは、ゆっくりと成長し、覚醒めたら良いのです。焦ることは、ありません。
どこかの生で、目覚めれば、過去に置いた黒石は、すべて、白石に変わるのですから・・・。
これが、神のオセロゲームの妙技なのです。
2019年3月1日 更新
※ 何かが、誰かが、波を起こさなければ、何も始まりません。
それでは、何のドラマも生まれません。
ドラマが生まれなければ、何の体験もできないので、進化成長できません。
だから、神は、想いの波を起こし(パンドラの箱を開け)、物質(人間)を創ったのです。
それが、表現宇宙の始まりなのです。
※ 刻々と変わって行くのが、無常の世界ですから、今の状況を、そう深刻に考えることはありません。
今、あなたが、やるべきことは、人事を尽くすことです。
つまり、社会体験と瞑想をすることです。
この宇宙で起きている、どんなことも、必然で起きているのです。偶然で起きることは、絶対ありません。
もし、偶然で起きるなら、今、宇宙は、存在していないでしょう。
宇宙が、今日まで延々と、存続して来られたのは、必然によって、運ばれてきたからです。
このことを念頭に、あなたが、思ったこと、あなたが、語ったこと、あなたが、したことについて、考えてみましょう。
あなたは、今日、悪いことを思いました。悪いことを語りました。悪いことをしました。
それは、偶然で思い、偶然で語り、偶然でしたのでしょうか? いいえ、必然で思い、必然で語り、必然でしたのです。
なぜなら、前述したように、この宇宙に、必然以外あり得ないからです。
でも、あなたは、悪いことを思い、悪いことを語り、悪いことをしたわけですから、あなたは、「因果の法則」によって、裁かれるでしょう。それも、必然だからです。
でも、その裁きが、あなたを成長させてくれるのですから、それは、良いことだったのです。
誰もが、自分が、思ったこと、語ったこと、したことを、偶然だと思っています。
でも、あなたは、必然で思ったのです。必然で語ったのです。必然でしたのです。
その必然は、すべて、進化成長に結びついている、必然です。
ですから、思ったこと、語ったこと、したことを、すべて、良いことだと思ってください。
この宇宙に、間違いなど、ありません。悪いことなど、ありません。
どんな、間違いも、どんな、悪いことも、みな、進化成長に結びついている、必然です。何と有り難いことでしょうか?
この仕組みを創った神の何と慈悲深いこと・・・ただ、ただ、頭が下がるばかりです。
2019年3月15日 更新
※ どうせ、死ぬのに、人は、どうして、生まれてくるのでしょうか?
それは、死ぬから、生まれてくるのです。
死ななかったら、生まれることは、ありません。
だから、私たちは、一日も早く、死なない自分にならなくてはならないのです。
つまり、死ぬ人間から、死なない神人にならなくてはならないのです。
でも、そうなるためには、死ぬ人間の体験をしなくてはならないのです。
だから、私たちは、死ぬと分かっていながら、生まれてくるのです。
死ぬのも、必然です。生まれるのも、必然です。
死ぬことによって、生まれることによって、進化成長できるからです。
一体、宇宙の何を知ることが、大切なのでしょうか? 見える物質でしょうか?、見えない本質でしょうか? 見えない本質ですね!
なぜなら、見える物は、みな、消えて無くなる幻だからです。幻を知ったって、何の意味もありません。
私たちは、永遠の存在ですから、永遠に無くならない本質を知らねば、意味がないのです。
そうは言っても、見えなくては、何の判断材料も、ありませんから、神は、見えない本質を写し出す鏡を用意し、そこに、見える幻を写し出しているのです。その鏡が表現宇宙なのです。
宇宙は、ある博士が論じているような、一面的な宇宙(物質宇宙)ではないのです。見える宇宙の背後に、見えない本質の宇宙があるのです。
ですから、見える表現宇宙を知れば、見えない本質の宇宙のことが解るのです。
と言うことは、見える人間を知れば、見えない本質が解ると言うことです。
あなたは、本当の自分を知っておりますか? 肉体の自分しか、知らないのではありませんか?
それでは、本当の自分を知ったことにはならないのです。
どうか、本当の自分を知ってください。
それは、見えない本質を知れば、解るのですから・・・。
では、見えない本質とは、何でしょうか?
それは、神のことです。神は、全ての本質なのです。
神なる本質が、表現宇宙を創造し、神なる本質が、創造物そのものになっているのです。
つまり、神なる本質が、人間を創造し、神なる本質が、人間になっている、と言うことです。
だから、人間は、神そのものなのです。
その神なる本質は、宇宙に、一つしかありません。
本質 = 1 = 神 = 宇宙 = 本当の自分 ・・なのです。
このことは、今の地球人類の原子核の量では、理解してもらえないかも知れませんが、皆さんなら、理解してもらえると思います。
2019年4月1日 更新
※ 今の自分の理解力で、宇宙を決めつけてはなりません。また、推測してもなりません。
今のあなたの理解力は、今のあなたの原子核の量のもので、最高点のモノではないからです。いいえ、最高点どころか、まだ、しっぽさえも、掴んでいないのです。
宇宙には、知るべきことや、解らないことが、無限に存在するのです。
どうか、謙虚になってください。
※ 下から上は見えません。上から下は見えます。
そのことが解った人は、今の自分の位置が分かりますので、謙虚になります。
解らない人は、自分が最高点にいると思うので、増長するのです。
この社会には、沢山の占いがあります。
たとえば、手相占い、顔相占い、タロット占い、方位占い、星占い、風水占いなど、上げれば、切がありません。
どうして、こんなに、占いが流行るのでしょうか?
それは、人生、一寸先が闇だからです。
私たちは、一秒後、何が起こるのか、今日、何が起こるのか、明日、何が起こるのか、一年後、何が起こるか分からないので、不安なのです。
だから、不安を解消したくて、占術に頼るのです。
確かに、現象の世界は、風水の力や星の運行力によって影響を受けております。
また、手相や顔相に、その人の性格や気質が表れますので、それを読み取ることで、アドバイスはできます。
でも、そんな、占いに頼らなくても、想念を正しく使っていたら、不安がることはないのです。
なぜなら、「原因と結果の法則」が、守ってくれるからです。
風水の力や星の運行力を信じる人は、自分の想念で引きよせ、影響を受けているだけです。
でも、信じない人は、そんな、影響は、受けないのです。
外側の現象界は、結果の世界です。内側の想念は、原因の世界です。
結果は、原因の後に生まれるのです。
ですから、原因である、想念さえ、しっかり管理していたら、悪い結果が、起きるわけがないのです。
明日のことを、煩わないでください。未来のことを、心配しないでください。
今、正しい想念を持つことです。
良い想念の一番は、神を想うこと(マントラを想うこと)です。瞑想することです。
2019年4月15日 更新
※ 風水の力も、星の運行の力も、現象なのです。
でも、私たちの意識は、真実です。
真実が、どうして、現象の影響を受けましょうか?
受けるのは、現象に意識を合わせるからです。
私たちの心臓は、自分の意思に、お構いなく、自動的に動きます。
でも、呼吸は、自分の意思で、自由に、吸ったり、吐いたりできます。
なぜ、神は、心臓と同じように、呼吸も、自動的にできるようにしなかったのでしょうか?
自然界の生き物たちの心臓も、自動的に動きます。
でも、呼吸は、自由意思を持っていないので、自動的にさせられているのです。
これが、人類と他の生き物たちの違う点です。
なぜ、神は、そのような違いを創ったのでしょうか?
自然界の生き物たちは、自由意思が無いので、生かされるままに生きるしかありません。だから、自然界には、病気も、事故災難も、無いのです。(人間界の波動を受けている生き物たちだけに、病気や事故災難がある。)
でも、人類は、自由意思があるため、欲望や感情のままに生きて、病気や事故災難を引き寄せています。生かされるままに生きれば、幸せな人生が送れるというのに、自分の都合の良い生き方をして、不幸せな人生を送っているのです。
自然界の生き物たちには、生かされるままに生きる、と言う、一つの選択肢しかありません。
でも、人類は、自由意思があるため、二つの選択肢があるのです。
神様は、人間に、二つの選択肢を与え、どちらを選べば、幸せになれるか、学びなさいと言われているのです。
今、人類は、自由意思で、好き勝手な生き方をして、苦しんでいますが、そのうち、生かされるままに生きる、尊さに気づくでしょう。
今、人類は、その学びをしている真っ最中と言うわけです。
人間の心臓は、神が動かしてくれていますので、神に任せていたら、ちゃんとやってくれます。
でも、呼吸は、自由意思で、できますので、好きな時に吸い、好きな時に吐けます。
しかし、自由意思で、できるからと言って、息を止めたのでは、死んでしまいますし、吸い過ぎても、死んでしまいます。
今、人類が好き勝手に生きている状態は、息を止めている状態か、吸い過ぎているかの状態なのです。これでは、いずれ、死んでしまいます。
どんなに、自由意思を持っていても、生かされるままに生きなければ、必ず、死を招くのです。
人類には、進化する大きな目的があります。他の生き物たちは、人類の進化を後押しする仲間です。その仲間から、人類は、学ばねばなりません。
だから、神は、人類と他の生き物たちの違いを創ったのです。
人類は、一日も早く、その事に気づかねばなりません。
どうして、神が、自動的に呼吸できるようにしなかったか? 解ったと思います。
もし、自動的に息ができたら、好き勝手に生きている愚かさに気づかないでしょう。
人類は、まだ、そのことに気づいていませんが、いずれ、気づく時がきます。その時、生かされるままに生きるようになるのです。
新時代の令和を、それに気づく、第一歩にしたいものです。
2019年5月1日 更新
※ この宇宙には、生かされるままに生きる生き方(心臓の生き方)と、自由意思で勝手に生きる生き方(呼吸の生き方)の、二通りの生き方があります。
自然界の生き物たちは、自由意思が与えられていませんので、前者の生き方をしています。
しかし、人類は、自由意思が与えられていますので、後者の生き方をしています。
前者の生き方をすれば、幸せになれますが、後者の生き方をすれば、不幸せになります。
その証に、人間界に、不幸はあっても、自然界に、不幸はありません。
人類は、今、自由意思を使って、後者の生き方をし、不幸せになっているのです。
でも、これは、進化のために必要な体験で、決して、悪いことではありません。後者の生き方をしているうちに、これでは、幸せになれない事に気づきます。
覚者は、そのことに気づいた人です。
神は、人類に、心臓と呼吸の仕組みを通して、どのように生きれば、幸せになれるか、知りなさい! と言っておられるのです。
あなたは、どれほど、長い転生をかけ、本物の真理を探し続けてきたと思いますか?
それは、それは、気の遠くなる転生をかけ、探し続けてきたのですよ!
そして、今生、ついに、本物の真理を探し当てたのです。
このチャンスを逃してはなりません。
さあ!、真の求道者なら覚悟してやってください。
「私は、真理に人生をかける」と・・・ぜひ、人生の目的を貫徹して帰ってください。
あなたは、この世の何かをするために、生まれてきたのではないのですよ!
あなたは、自分の原子核を大きくするために、生まれてきたのです。
目的と手段を取り違えないでください。
2019年5月15日 更新
※ 私は、「何事も中庸を見極めやってください!」と言います。
それは、良いことも、出すぎると、悪いことになるし、引っ込み思案も、良くないからです。
この世のことは、何を成しても、幻です。そんな幻のことで言い争って、自分の宇宙を汚しては、大損です。
どうか、中庸を見極めた上で事に当たってください。
「どこまでが、中庸か?」、その眼を養うのも、学びの一つなのですから・・・。
※ 身は汚くても、心だけは美しくありたいものです。
なぜなら、身は幻でも、心は真実だからです。
※ 何でも否定したがる人、或いは、何でも悪く受け取る人、或いは、何でも反対する人は、心のネジ曲がった人だと言われます。
この心のネジ曲がりは、長い転生を重ねれば、誰でも持つ欠点ですから、恥じることはありません。
ただ、「ああ そうか!、自分には、そのような欠点があるのか!」と言うことだけ、認識しておいてください。
後は、2つのことをやれば、欠点は、自然と無くなってゆくのですから・・・。
世の人々は、神仏や先祖が、私たちを守ってくれる、と思っています。
もし、神仏や先祖が、守ってくれるなら、
どうして、大聖堂が、火事になるのですか?
どうして、仏壇のローソクの火で、火事になるのですか?
どうして、墓参りの行き帰りで、交通事故に遭うのですか?
占いが、あなたを守ってくれるのではないのです。
星が、あなたを守ってくれるのではないのです。
方角が、あなたを守ってくれるのではないのです。
お守りが、あなたを守ってくれるのではないのです。
守ってくれるのは、想念です。原因と結果の法則です。
良い想念を持てば、幸せになるのです。悪い想念を持てば、不幸せになるのです。
人生を、良くするのも、悪くするのも、あなたの想念の持ち方 次第です。
どうか、迷信に惑わされないでください。
2019年6月1日 更新
※ 私たちのボディーは、神の代弁代行を果たすために与えられました。
ですから、ボディーを自我のために使っては、盗みの罪を犯すことになるのです。
代弁代行の目的の一つは、原子核を大きくすることです。
もう一つは、この地球上に、理想の世を創ることです。
自我のためにボディーを使うのは、最低限で良いのです。
どうか、神の代弁代行役を果たすために、ボディーを使ってください。
そうすれば、エネルギーが、ドンドン、入ってきます。少々、厳しく働いても、疲れません。勿論、病気などなりません。
自我の欲望のために使うから、疲れたり、病気になったりするのです。
※ 真剣に、神を求めてください。真剣に、神を意識してください。真剣に、神を想ってください。その者は、間違いなく、神様から、ご褒美が頂けます。
(想念は実現の母ですから、あなたの想念が、ご褒美を与えると言う意味です。想念は、神様からの贈り物ですから、神様が、ご褒美を与えたことになるのです。)
「私には、こんな欠点がある! 私は、こんな悪い性格を持っている!」と、落ち込むことはありません。
あなたが、どんなに良いことをしようと、どんなに悪いことをしようと、それは、体験ですから、あなたは、間違いなく、成長しているのです。
魂を大きくする体験に、善悪はないのです。良いことをして、どんなに良い成績を残そうと、悪いことをして、どんなに悪い成績を残そうと、成績は、残りませんが、体験で大きくなった魂は、永遠に残るのです。
何万転生の間に付けた、心の垢や癖というものは、そう簡単に取れるものではありません。いいのです。取ろうとしなくても・・・2つのことを、やっていれば、いずれ、必ず、取れるのですから・・・。
繰り返し言います。
自分の欠点に、落ち込むことはありません。あなたが、想った事、語った事、行った事は、すべて、良い体験です。体験は、宝なのです。
さあ、落ち込む暇があるなら、2つのことをやって、魂を大きくしましょう。
2019年6月15日 更新
※ 人生の目的は、この世の成績を残すことではありません。
体験によって、魂を大きくすることです。
本当に有る、一(絶対)そのものを示す言葉などありません。
でも、それでは、黙っているしかないので、私は、相対的言葉を使って、本当に有る、一(絶対)を説明しようとしているのです。
「本当に有る、一(絶対)だけが、本当に有るのですよ!」と言ったところで、それでは、説明したことにはならないからです。
本当に有る、一(絶対)を示すには、多(相対物)を相対させて示すしか方法がないのです。本物を示すには、偽物を相対させて示すしか方法がないのです。
一(絶対)そのものを示す言葉がないから、反対の言葉を使って、一(絶対)を示そうとしているわけです。私の苦衷を察してください。
私は、良く言います。言葉の裏には、反対の意味があるのですよと・・・。
つまり、「良いよ!」の反対には、「悪いよ!」が・・「嫌い!」の反対には、「好き!」が・・「光」の反対には、「闇」が・・・。
これも、本当に有るものを示す一つの方法なのです。反対のものを相対させれば、反対の意味が分かるからです。
とは言っても、相対させて、一(絶対)の存在は、示すことはできても、一(絶対)そのものを示すことはできません。
つまり、一(絶対)の存在を示すことはできても、一(絶対)そのものの正体は、依然として不明なのです。
一(絶対)は、表現されないので、一(絶対)の正体を言葉や文字で示すことはできないのです。当人が、理解して、納得するしかないのです。
だから、一(絶対)は、理解した者だけにあるのです。
と言うことは、一(絶対)は、理解力が生み出したモノとも言えるでしょう。
でも、その理解力は、一(絶対)が生み出したのですから、やはり、一(絶対)は、もともと、有ったのです。
本当の自分の意識(一・絶対意識)を知ることはできないけれど、今、自分と思える相対意識(自我意識)がある限り、本当の自分(一・絶対意識)は、間違いなく、存在しているのです。
でも、その自我の自分がある限り、本当の自分には戻れない!、帰れない!、ということも、確かなのです。
2019年7月1日 更新
※ 真我の自分の意識を知るには、自我の自分の意識で知るしかないけれど、いかに、知ろうとしても、永久に知ることはできません。
神を知ることは、永久にできない! 宇宙を知ることは、永久にできない!
つまり、本当の自分を知ることは、永久にできない! と言うことです。
※ 「幸せ!」と思えるのは、その背後に「不幸!」と思える思いがあるからです。
「嫌だ!」と思えるのは、その背後に「良い!」と思える思いがあるからです。
人を「憎」めるのは、その背後に人を「愛」する思いがあるからです。
「私は、こんな悪い思いしか持てない!」と、自分を責めないでください。
相対的思いがなければ、絶対的思いは生まれないのですから・・・。
※ これまで、人類が得た見識など、無限宇宙の見識から比べたら、チリみたいなものです。ですから、今の自分の見識で物事を量ってはなりません。
何でも知っていると思っている人は、何も知らない人です。
何も知らないと思っている人は、宇宙の深遠さを知った人です。
どうか、謙虚になってください。
※ 相対的言葉を使って、真我を示そうとしている、自我の自分が、真我の自分の存在を可能にしているのです。
つまり、客観者の自分が、主観者の自分を示そうとしている行為自体が、主観者を生み出しているのです。
客観者の自分がいなければ、主観者は、生まれないと言う意味です。
「私の意識」、「私の意識」、「私の意識」・・・、この「私の意識」って、一体、何なの? 誰なの? 何者なの? 何処から生まれたの? 何処から来たの? 何処に帰るの? ・・・・。 この疑問は、尽きることがありません。
疑問を、膨らませれば、膨らませるほど、私の心を悩ませます。
どんなに、知りたいと思っても、決して、「私の意識」を知ることができません。
でも、それで良いのです。知った途端に、「私の意識」が、消えてしまうからです。
なぜ、消える? 知った途端、私は、有限の存在になってしまうからです。
有限とは、限りがある、という意味です。終りがある、という意味です。
つまり、死がある、という意味です。
「私」は、死にたくありません。だから、「私の意識」は、不明のままで良いのです。
ちなみに、神の別名は、「不明」です。
それは、神を知ることが、永遠にできないからです。
ゆえに、「不明」なモノは、すべて、神の名で表わされるのです。
命も「不明」です。
光も「不明」です。
エネルギーも「不明」です。
宇宙も「不明」です。
だから、命も、光も、エネルギーも、宇宙も、神と呼ぶのです。
と言うことは、「不明」な、私の意識も、神と呼ぶしかないでしょう。
そうです。私は、「不明」な神です。「不明」ですから、私の意識を永遠に知ることができません。
でも、私は、間違いなく、存在しています。今、「私」と思えることで・・・。
知れるモノは、有限なのです。知れないモノは、無限なのです。
死にたくなかったら、有限になりたくなかったら、永久に、「私の意識」を知らなくて良いのです。
2019年7月15日 更新
※ あるモノの一方面から、光を当てれば、後ろに、一方面の影が生まれます。
角度を変えて、光を当てれば、変えた角度の影が生まれます。
360度、角度を変えて、光を当てれば、360度、角度の違った影が生まれます。
これは・・一方面から、光を当てれば、一方面の神の側面が解り、360度、角度を変えて、光を当てれば、360度の神の側面が、浮き彫りになると言う意味です。
でも、神は、無限の角度を持つ存在ですから、無限の角度の神の側面が浮き彫りになるのです。
だから、私は、角度を色々と変えて、神の側面を説明しているのです。
私たちが、物を買うのは、日々の生活を豊かにしたいからでしょうが、使わず寝かせていたのでは、意味がありません。
物には、みな、意識があるのです。その物は、私たちに使ってもらいたいのです。
私たちは、物を通して学び、また、物は、私たちを通して学んでいるのです。
買っても、使わなければ、体験できないので、何も学べないのです。
もし、不要な物があるなら、使ってもらえる人に上げてください。
どうしても、不要な物は、有効利用できないか考えてみてください。
例えば、着物なら、雑巾に加工して使えます。食べ物でも、猫や犬が食べられるよう料理すれば使えます。他の不要な物も、代用品として利用できないか考えてみてください。
代用品として利用すれば、新しい物を買う必要がなくなりますので、ますます、整理がつきます。それよりも、何よりも、使ってあげた物が喜んでくれます。
また、そのようなことをすれば、物と向き合うことになりますので、物も、自分も、成長できるのです。物と向き合っている時は、自分の心と向き合っている時なのです。
それは、反省にも、気づきにも、つながるのです。
未熟な魂は、物を通して成長するので、沢山、物は必要ですが、皆さんのように、魂が成熟してくると、余り物を必要としなくなるのです。
まだ、沢山、物を持っているなら、少しずつ整理していってください。
勿論、家族のある人は、家族のことを考え整理してください。
どの程度、整理するかも、中庸の学びの一つです。
物の整理について、面白い記事がありましたので、ご紹介します。
「片づけで夫婦仲が良くなるなんて、嘘っぽい…」 でも、このまま自分のことをわかってくれない夫と何十年も連れ添っていくと考えると、将来が不安、、、夫との関係を良くしようと、自己啓発のセミナーに通ったり、心理学も勉強してみたけれど、どれも、その場かぎり。たかが片づけで夫婦仲が良くなるなんて・・あなたは、嘘みたいだと思っていませんか? 私も、そう思っていた一人です。でも、違ったのです。
私の個人的な話をさせてください。
数年前のある日のこと、私は、泣き崩れそうになっていました。「もう無理、限界。」 私は、時々、家の喫茶店の手伝いをしていたけれど、基本的には、専業主婦でした。特に、片づけが苦手なわけではなく、テレビや雑誌を参考に収納だって、うまくやっていました。なので、今更、片づけをしたところで、人生が変わるほどの変化なんて訪れないと思っていたんです。でも、夫との関係は冷えきっていました。私から話しかけるばかりで、夫からは話しかけてこない。子どもの話は相談にのってくれるけど、私の話は、うわの空・・・「こんな冷めた関係、夫婦として一緒にいる意味あるのかな…?」私の頭に”離婚”という2文字が浮かぶようになりました。人生やり直すなら、早い方がいいとさえ思っていました。友達に相談してみても、「よくある話よ~」と笑われたけど、私にとっては大きな悩みでした。子どもも、それほど手がかからなくなり、夫と2人だけの将来を考えると、ため息ばかり…「もう私は誰からも必要とされていない…」そんな風に考えると、自然と涙がこぼれることも増え、トイレで隠れて泣くようになっていました。そんな状態が数年、続きました。でも・・そんな私でも、夫との会話が増え、夫との将来が楽しみになったんです。(今では、2人でデートや旅行をするようにまでなってます)
それは、断捨離を実行したからです。実際に、やってみたところ・・周りから、「仲のいい、理想の夫婦ね」なんて言われるようになったんです。正直、もう離婚するしかないと思っていたのに・・・すごくないですか?笑・・しかも、やったことといえば、家にいてモノを選んで捨てることくらい。風水にならって家具の配置を変えたり、パワーストーンを買ったり、思ってもいない感謝の言葉を言ったわけではないんです。モノを減らしたことくらいで、そんなに変化が起きるわけないでしょ…と疑う方が、ほとんどだと思いますが、でも、この方法は、本物でした。
収納術じゃダメなんです… 私も色々な片づけや収納術を試したことはあるのですが、どれも大して変わりないじゃん…と思って、すぐに、やめてしまいました。でも、私が間違っていたんです。断捨離と他の片づけ術とは、全然、違うんです!(というか、断捨離は、ただの片づけじゃなかったんです!)
当時の私は、断捨離という言葉は聞いたことがありますが、「片づけの方法の一つでしょ」くらいにしか思っていませんでした。衝撃!私の家は、片づいていると思っていたのに、片づいていなかったのです! 私は、自分のことを収納上手だと思っていたので、衝撃でした。手始めに、お財布の断捨離をしてみると、想像以上に要らないレシートやポイントカードがありました。毎日、見ているようで、見えていなかったモノがあるんだと、驚きました。そして、お財布という小さな空間でしたが、スッキリ感と達成感がありました。「家の中にも、要らないモノがたくさんあるかも・・・」私は、休日を利用して、キッチンの断捨離に取り組むことにしました。食器の断捨離をやってみると、引っ越して以来、7年以上使っていないお皿が出てきました。(あったことさえ忘れていました!)それは、全然、私の好みではなく、「もらったから、捨てられない」、「まだ、使えるから、捨てられない」、「使えるモノを捨てるなんて、ひどいやつだと思われる!」と思い、使わないけれど、とっておいたのです。
それを見て、私は、いかに他人軸で生きてきたかを感じました。つまり、人の目や評判ばかりを気にして、自分がどうしたいのか、自分が使いたいのか、全く自分の心に目を向けていなかったのです! モノだけに想いが張り付いていることがわかりました。
断捨離のおかげで、なぜ、とっておいたのか、そして、なぜ、捨てられないのかに、気づくことができました。 私は食器棚を片づけながら、今までの自分を振り返っていました。
私は、いろんな心のガラクタを抱えながら過ごしていたんだと気づきました。
そして、同時に、私は、やっても、やっても、終わりのない家事や、正解のない子育てを、ずっと頑張ってきたんだな、と少し自分で自分を認めてあげられるような気分になりました。
私は、ずっと、”誰か”に認めてもらいたかった。夫から、”よくやってるね、すごいね”という言葉が欲しかった、親や子どもたちからも認められたかった。けれど、違ったんです。本当は、自分が自分を認めてあげてなかった。誰に褒めてもらえなくても、自分で自分を褒めてあげたらよかったんだと思えたんです。
ずっと他人の目ばかり気にして、自信がなかった、私ですが、少しだけ自信がついた気がしました。そんな気持ちで断捨離を進めていると、”あるモノ”が出てきました。それは、私が40歳の誕生日の時にくれたマグカップでした。それは、仲のいい家族3組で旅行に行った旅行先で、夫がサプライズでプレゼントしてくれたものでした。そのマグカップは、もったいないからと一度も使うことなく箱に入ったまま埃をかぶって、奥にしまいこんでありました。そのカップを見たときに気づいたんです。「夫は、いつも、私を喜ばせようとしてくれていた。いや、今もそうかもしれない。夫は、私のことを嫌いになったわけではなく、私が夫の態度をそっけないものにしていた。」当時の私は、子育てや家事に追われて、余裕がなく、いつも、イライラしていました。夫は、仕事で疲れて帰ってくるのに、怒ってばかりいる、私しか見ていなかったので、距離を置いていたんだと・・。夫婦関係をぎくしゃくさせていた原因は・・私だったんだ。そう気付いた時、情けなさと申し訳なさで、キッチンで思いっきり泣きました。そして、夫に、「ごめん」と謝ると、「いいよいいよ」と言ってくれたのです。それからというもの、夫との会話は、徐々に増え、夫から外食に誘ってくれるまでになりました。きっと、私のイライラがなくなって、ごきげんな時間が増えたからだと思います。
なぜ、このような記事を皆さんに紹介するのか?・・考えてみてください。
色々な気付きが起きるかも知れません。
2019年8月1日 更新
人にない技を身につけると、あるいは、人にない物を持つと、試したくなり、使ってみたくなるものです。幼い魂に危険物を持たせてならないのは、使ってしまうからです。
そうです・・・。すべて、心です。心が肉体を動かしているのです。
人間は、このことを、深く考えようとしません。だから、心を粗末にするのです。
この事実を、しっかりと認識すべきです。
真に国民の幸せを考えるなら、心のメカニズムを解明し、正しい心の使い方を国民に周知させるべきです。これは、国策として、真っ先に取り組まねばならない重要課題です。
源流を清めれば、黙っていても、下流が清まるように、原因である心を清めれば、社会は、黙っていても、平和になるのです。
何事も「心」が関係していることを、科学者にも、教育者にも、政治家にも、知って欲しいと思います。
2019年8月15日 更新
※ 戦争の悲惨さや、災害の恐ろしさを伝える、語り部がおりますが、これは、反対に、戦争の因・・災害の因・・になるのです。
なぜなら、想念は、何でも実現させるからです。
ネガティブなことは、想わないこと、話さないこと、行わないことです。
過去は、終わったのです。
想うなら、建設的なこと、前向きなこと、ボジティブなこと、を想うことです。
苦しめば、苦しむほど、魂が成長するのは、間違いありません。
なぜなら、苦しみの中には、魂を成長させる、色々な要素が含まれているからです。
でも、本来、この宇宙は、楽しみながら成長できるようになっているのです。
でも、楽しみながら成長するためには、真理を深く知らなくてはなりません。
なぜなら、真理を知らない者は、想念を悪用し、苦しみを作ってしまうからです。
真理を深く知った者は、想念を悪用しませんから、苦しみは、やってきません。苦しみが、やってこなかったら、楽しみながら成長できるのです。
真理を知らない幼い魂は、苦しみながら成長するしかありませんが、皆さんのように、真理を深く知った魂は、楽しみながら成長できるのです。
これは「原因と結果の法則」から言って、当然のことなのです。
さあ! 楽しみながら成長してください。
ただし、2つのこと(社会体験と瞑想)は、やってください。
やれば、間違いなく、原子核が増えます。増えたら増えた分、考え方も、生き方も、高度になります。そうなれば、ますます、楽しみながら成長できるようになります。
2019年9月1日 更新
※ 師は、常に、自分の中におられます。自分が自分に教えるのです。
難しいことは、ありません。ただ、2つのことをやり続ければ良いだけです。
それは、何処へ行く必要もありません。
どうか、自分の足で歩いてください。人を頼っていてはなりません。
※ 外側のモノは、内側の自分が創っていると腹の底で思えた時、自他一体になれ、唯我独存(尊)の境地になれるのです。
唯我独存(尊)の境地になった時、神人になったと言うのです。
この宇宙には、「無色透明の一つの本質」があるだけです。
すなわち、「無色透明の一つの意識」、「無色透明の一つの光(力・エネルギー)」、「無色透明の一つの命」、「無色透明の一つの魂」、「無色透明の一様の神」が、存在するだけです。
私たちは、「苦楽」があると思っていますが、「表から見たら苦」になり、「裏から見たら楽」になる、本質があるだけです。
つまり、「渦を上から見たら左回りの渦になり、下から見たら右回りの渦になる」、或いは、「包丁を料理に使えば善になり、人殺しに使えば悪になる」本質があるだけです。
この宇宙には、「一つの無色透明の本質」しか無いのです。
その一つの無色透明の本質には、「良し悪し」のレッテルは貼られていないのです。
「どう見るかで? 、どう受け取るかで?、」レッテルが変わるかだけです。
それは、「見る人が、受け取る人が、」決めるのです。
だから、私は、「何事も良く見なさい! 何事も良く受け取りなさい!」と言うのです。
このように、この宇宙には、何色にも染まっていない、無色透明の本質が、一つあるだけなのです。
その本質を、良い色にするか、悪い色にするかは、私たちが「どう見るか?、どう受け取るか?」で、決まるのです。
2019年9月15日 更新
※ 神は、無色透明の本質です。
神の世界には、善悪も、良し悪しも、美醜も、男女も、高低も、左右も、大小も、軽重も、無いのです。
有るのは、何色にも染まっていない本質(力)が、一つ有るだけです。
「何色にも染まっていない本質が一つ有る」と言う意味は、神は、中道である。中庸である。中性である。真ん中である。と言う意味です。
神には、差別がないのです。偏りがないのです。平等なのです。
※ 何色にも染まっていない一つの本質は、「力」なのです。「働き」なのです。
その力と働きは、想念に素直に従ってくれるのです。良い想念を使えば、良い力として働き、悪い想念を使えば、悪い力として働いてくれるのです。
働きだけ考えると、自由意思が無いように見えますが、善悪を見極めて「因果の法則」を行使する力を持っている働きですから、やはり、自由意思があるのです。
※ 宇宙は、受け取り方次第で変わるのです。
それは、私たちの想念が、宇宙を創っているからです。
この表現世界は、魂を成長させるために神が用意したトリックの世界です。トリックの世界ですから、何一つ、ホンモノは、ありません。
ですから、本当は、心を痛めることなど、何もないのです。
でも、悲しいことに、人間は、トリックに引っかかり、悩み、苦しみ、恐怖しながら、生きています。
では、どうしたら、トリックの世界から抜け出すことができるのでしょうか?
それは、次のことを常に自分に思い聞かせることです。
自分は、永遠に死なない、「意識なのだ!」、「命なのだ!」、「魂なのだ!」と、常に自分に思い聞かせ、死ぬ自分と死なない自分の識別をしっかりしてください。
しっかり、識別できたら、トリックから抜け出すことができるでしょう。
2019年10月1日 更新
※ 真理を求める心が萎えたら・・、或いは、迷い心が生じたら・・
きっと、冷水を浴びせられたように、迷い心が吹き飛んでしまうでしょう。
本当の私は、姿形が無いので、そのままの状態では、私は分かりません。
でも、形を取り、その形に名前を付けた途端、私が分かるのです。
なぜなら、形に付けた名前が、私になるからです。
私に無限という名前を付けたとしましょう。名付けた途端、私は、無限になってしまうのです。
生命と言う名前を付けたとしましょう。名付けた途端、私は、生命になってしまうのです。
神という名前を付けたとしましょう。名付けた途端、私は、神になってしまうのです。
あなたが、今、人間と思っているのは、形に人間の名が付いていたからです。
もし、形に虫と言う名が付いていたなら、あなたは、虫と思っていることでしょう。
虫が、人間のように考えても、話しても、行為しても、何の不思議もないからです。
名前は、単に、具体性を示す言葉にしか過ぎません。
私たちは、今、人間と思っていますが、人間と言う名だけでは、具体性がないので、人間と言う名に、更に、太郎とか、花子とか、名を付け、具体性を高めて、自分を誇示しているのです。
さらに、花子の名の元は、何なのか探れば、細胞の名であり、分子の名であり、原子の名であり、クオークの名であり、意識の名であり、最終的に、神の名に辿り着くのです。
このように、名前を付け、具体性を高めることで、そのモノの奥に隠れている本性、つまり、神に迫ることができるのです。
2019年10月15日 更新
※ 私たちは、絵(鉱物・植物・動物・人間)が、最初にあり、後から名が付いたと思っていますが、本当は、逆で、思いが先にあり、後で名が付いたのです。
その名前は、言葉なのです。「言葉が生まれ、名が生まれた、名が生まれたから、言葉が生まれた」、どちらでも、同じなのです。言葉そのものが、名前だからです。
※ 地球人類は、沢山の言葉を持っていますが、それは、多く具体性を持たせなくては、モノの中身が理解ができないからです。具体性とは、言葉(名前)や、文字や、絵のことです。
進化した星での伝達手段は、テレパシーですが、テレパシーには、「思い・言葉(名前)や、文字や、絵」のすべてが入っているのです。でも、地球では、テレパシーが使えないので、どうしても、言葉や文字などの伝達手段が必要なのです。
思いの波動を感じれば済むのに、それができないから、言葉や文字で伝達するしかないわけです。
※ 名前(言葉)や文字や絵は、どんな役割を持っているのでしょうか?
それは、伝達手段としての役割です。
でも、それよりも、もっと大切な役割があります。
それは、神を知らしめる役割です。名前は、具体性を示しているのです。
「人類と言う名」も、
「日本人と言う名」も、
「分子と言う名」も、
「原子と言う名」も、
「クオークと言う名」も、
「意識と言う名」も、神を具体的に示した名前です。
神と言う名は、抽象的なので、細かく名前をつけ、具体性を高めているのです。
この宇宙には、「不明なモノ」が沢山あります。
例えば、
宇宙も「不明」です。
意識も「不明」です。
命も「不明」です。
魂も「不明」です。
心も「不明」です。
掲げれば切がありませんが、本当は、たった一つ、不明なモノがあるだけなのです。
そのたった一つの不明なモノを、「神」と呼んでいるのです。
神と言う名は、不明なモノの総称なのです。不明なモノは、すべて神の側面なのです。
私が、神の側面を多く語るのは、神の側面を多く知れば、神の具体性が増し、神の正体が薄っすらと解ってくるからです。
私は、更に具体性が増すように、神の側面に、もう一つ「力」を加えてみました。
さあ、どうでしょう?、不明な神が少し解ってきたのではありませんか?。
すべての事象に、力という言葉を使ってみましょう。神が身近になると思います。
では、その力を生み出している力は、どこから、生まれてきたのでしょうか?
力の正体は、何でしょうか? 解りません? 力も不明なのです。
私たちは、その不明な力から、生まれ、生かされ、動かされ、働かされ、存在させられているのです。
ですから、私たちも、不明なのです。でも、不明で良いのです。
「自分は、不明な存在である!」と、解ければ、自覚に近づくことができるからです。
2019年11月1日 更新
※ なぜ、自分を知ることが出来ないかと言いますと、自分を創ることが出来ないからです。自分を創れる者だけが、自分を知ることが出来るのです。
でも、未だかって、自分を創ったモノはいません。万能の神でさえ、自分は、創れないのです。
だから、私たちが、自分を創れないのは、当然です。と言うことは、神も、私たちも、永遠に、自分を知ることが出来ないと言うことです。
※ 本当に有るモノが、本当に有るモノを創ることはできないのです。
本当に有るモノが作れるのは、本当に無いモノだけです。
と言うことは、自分が自分を創れないと言うことです。
※ 自分を知ることは、永遠にできません。
でも、間違いなく、自分は存在しています。それは、自分と思えるからです。
※ 自分を知らないで生きている私って、何んておかしな私でしょうか?!
私って誰?・・ 何処までも姿を見せない私って何者?・・ 何んて薄気味の悪い私なのでしょうか!
※ 何かが存在しているからには、その何かを産み出した親が、必ず、いなければなりません。親のいない子は、無いからです。
では、神を産んだ親は、誰でしょうか?
それは、原因なき原因です。
神は、原因なき原因から産まれたから、神を知ることはできないのです。
矛盾とは、矛を持ち盾を構えている状態を言います。矛を持ちながら、盾を構えるのは、矛盾なのです。
つまり、相手を攻撃する構えをしながら、自分を守る構えをするのは、矛盾なのです。
なぜなら、攻撃されることを前提に、防御しているからです。
これは、攻撃されるのを望んでいるようなものなのです。望めば(需要を作れば)、与えられる(供給される)のが、原因と結果の法則ですから、望んだ通りになるのです。
駅のホームに掲げられている広告で一番多いのは、病院の看板です。
これは、病人が、沢山きてくれることを望んで宣伝しているようなものですから、矛盾なのです。
国は、医学の進歩のために、沢山のお金をかけていますが、これも、病人が多くなることを前提にやっているわけですから、矛盾なのです。
本当は、病気などないのですから、病気のことなど、考えない方が良いのです。病気のことを考えれば、需要を作ってしまうわけですから、供給されるのです。
考えることは、思うことですから、思えば、与えられるのです。(想念は実現の母)
だから、病気になりたくなかったら、病気のことは考えないことです。
この宇宙は、需要者側(認める者)が、主導者で、供給者側(認められる者)は、従属者なのです。何でもそうですが、認めるから、認められる物が、生まれるのです。あくまでも、需要者側が主体者です。
2019年11月15日 更新
※ 人類は、幾つもの矛盾を抱え生きています。
でも、そのことに気づいている人は、一人もいないのです。
例えば・・
今、人類は、無い病気を・・無い悪人を・・無い戦争を認め、無くそうとしていますが、無いものを、認めれば、認めるほど、有るものにしてしまうのです。
これは、矛盾なのです。
なぜなら、需要を作っている(思っている)からです。
でも、人類は、そのことに、気付いていないのです。
真理も、同じです。
※ あなたが、望まなかったら(需要を作らなかったら)、何も生まれません。
今、あなたに、苦しみがあるとしたら、それは、あなたが、望んだからです。
あなたが、望みながら、苦しみたくないと思うのは、矛盾なのです。
※ あなたの意識の前で、悪いことが起きたり、悪い物を見せられたりするのは、あなたが、望んでそうしたからです。なのに、「悪いことが起きた! 悪いものがある!」と、腹を立てるのは、矛盾なのです。
本源の神の宇宙には、何も有りません。しかし、何でもある宇宙でもあるのです。
私たちが、存在している、この表現宇宙は、「意・口・身」によって創られました。
つまり、神は、表現世界を創ろうと言う、「意(思い・意思)」を持ち、「口(言葉)」を使って、「身(波動・響き)」を生み出し、表現宇宙を創ったわけです。
「意」は、創ろうと言う思い(意思)であり、「口」は、言葉であり、「身」は、「波動・響き」です。
この「意・口・身」は、自我から生まれたものです。と言うことは、創造主である神に、自我が有ることになります。
神は、自我がないと言われますが、そんなことは、ありません。神は、自我そのものなのです。
なぜなら、自我が無くては、思い(意思)が持てないからです。
思いが持てなくては、表現宇宙は、創れません。
だから、神は、自我を持っているのです。
ただし、自我が生まれるのは、表現宇宙を創造した時だけです。
その前は、無波動の状態なのです。
無波動の状態、と言う意味は、何もない状態、と言う意味です。
しかし、いつでも、発動できる、何でも思える、状態でもあるのです。
これが、本源の宇宙は、何も無い宇宙だけれど、何でも有る宇宙である、と言う意味なのです。
私たちも、自我を持っています。その自我で、思っています。自我で言葉を話しています。自我で行為をしています。
一体、私たちと、神は、どこが違うのでしょうか?
2019年12月1日 更新
表の見える物を見ている時は、その裏の見えないモノ「無色」も見ているのです。
音楽を聴いている時は、その裏の「無音」も聴いているのです。
食べ物を味わっている時は、その裏の「無味」も味わっているのです。
臭いを嗅いでいる時は、その裏の「無臭」も嗅いでいるのです。
感触を感じている時は、その裏の「無感触」も感じているのです。
大元がなかったら、色も、音も、味も、臭いも、感触も、生まれないのです。
私たちは、感覚にかからないモノを、理解力で受け取るしかないのです。
感覚にかからないモノを理解力で受け取ることによって、「ああそうか! 感覚にかからないモノの背後には、神が存在しているのだ!」と言うことを知るのです。
感覚にかからないモノは、神の側面であり、その側面は、理解力でしか受け取れないのです。
つまり、感覚にかからない、原因なき原因者(神)は、理解力でしか、感得する(知る・納得する・受けとる)ことが、できないのです。
2019年12月15日 更新
※ 本当に有るモノ(絶対的なモノ)には、反対は、ありません。
本当に無いもの(相対的なモノ)に、反対なモノが、有るのです。
それは、一つの中に、相手は、いないからです。
でも、相手がいないと、自分の存在がないので、相手(相対世界)を作り、自分自身を創り続けているのです。
※ 何でもそうですが、こうだと、決めつけてはなりません。
なぜなら、こういう人だと、決めつければ、自分の想念で、そのような人を作ってしまうからです。
宇宙(人・社会・世界)を、こうだと、決めつければ、そういう、宇宙(人・社会・世界)を、自分の想念で作ってしまうのです。
それは、自分で自分に催眠術をかけているようなものです。