物理の法則の中に「作用と反作用の法則」があります。
これは、「作用すれば、必ず、反作用が起こる」と言う法則です。
つまり、「原因を作れば、必ず、結果が生まれる」と言う「因果の法則(宇宙の法則)」と同じ法則です。
ただし、「作用と反作用の法則」は、物質世界にだけ、働く法則ですが、「因果の法則」は、物質世界にも、意識世界にも、働く法則なのです。
物質世界で働く、「作用と反作用の法則」は、人の目に見えても、意識世界で働く、「因果の法則」は、人の目に見えませんから、実際に、「因果の法則」が働いているかどうかは、人には、分かりません。
だから、科学者は、「因果の法則」の存在を認めようとしないのです。
でも、「因果の法則」は、目に見えなくても、間違いなく、働いているのです。
その良い証拠が、この世に、沢山の苦しみがあることです。
「作用と反作用の法則」で言えば、今の苦しい状態は、反作用を受けている状態で、それは、その前に、苦しくなる作用があった証です。
「因果の法則」で言えば、今の苦しい状態は、結果(反作用)を受けている状態で、それは、その前に、苦しくなる原因(作用)があった証です。
このように、今、苦しい状態があることが、「因果の法則」が働いている証なのです。
もし、「因果の法則」が働いていなかったら、今、苦しい状態があるわけがありません。原因なしに結果だけがあるわけがないからです。
どうしても、「因果の法則」の信じられない人は、次のことを、良く考えてみてください。
利口な人なら、分かるはずです。
この「因果の法則」は、「必然性の法則やエネルギー均衡の法則」を支えている、根本法則なのです。
2018年1月1日 更新
新しく、この真理に出会った人もいると思いますので、復習を兼ね、学びの再確認をしたいと思います。
1、学びの目的
まず、人生の目的を知ることです。
私たちは、真理を学ぶために、生まれてきたのです。
では、真理の何を、学ぶのか?・・
それは、「自分が、神である」ことを、学ぶのです。
何のために、学ぶのか?・・
それは、「自分は、神であった!」と、自覚するためです。
2、学びの手順
学びの目的は、神の自覚を得るためですが、それには、神の色々な側面を知らねばなりません。
その知識は、私の本と勉強会の動画から得てください。
ここまでが、学びの初歩の段階です。
知識を得たら、実践に入ってください。
実践することは、2つあります。
ですから、自分で自分なりの瞑想を開拓してください。
瞑想そのものは、何も難しいことはありません。
ただ、マントラを想えば良いだけです。
そのマントラですが、できるだけ、神の深みを持った、マントラを選んでください。
マントラについては、本にも書いていますし、動画でも語っておりますので、そこから知識を得てください。
学びの手順を確認しましょう。
3、瞑想の注意点
以上、学びの再確認をしました。
学びで必要なのは、続けることです。続ければ、必ず、結果は得られます。
これは、因果の法則が、保証してくれるので、間違いありません。
2018年1月15日 更新
※ 私が、嬉しいのは、何でも思える、何でも出来る、何でも生み出せる、想念を持っていることです。
もう一つ、嬉しいのは、「やれば、やった分なる!」と言う、原因と結果の法則が働いてくれることです。
この「想念」と「原因と結果の法則」がある限り、あなたの望みは、必ず、叶えられます。
ただし、やり続けなければ、叶えられません。
これだけは、言っておきます。
皆さんは、一般人と違い、見えないモノが、真実で、見える物は、幻であることを知っています。
さらに、皆さんは、見える物は、見えないモノから生まれ、見えないモノに戻り、再び、見える物に生まれる、輪廻転生のことを知っています。
しかし、科学者も、一般人も、そのことを認めません。
だから、科学者も、一般人も、人間は、死んだらお終いだと思っているわけです。
見える物が、いずれ、見えなくなることは、科学者も、一般人も、知っています。
ならば、見えないモノから、見える物が生まれることを、認めなくてはならないはずです。
もし、見える物から、見える物が生まれるなら、見える物は、永遠でなくてはならないからです。
でも、見える物は、必ず、見えなくなるのです。と言うことは、見えないモノから、見える物が生まれることに、疑問の挟む余地はないはずです。
このように言うのは、この宇宙には、見える物と見えないモノの二つのモノしかないからです。
ならば、見える物が生まれるには、見えないモノが見える物になるか、見える物が見える物になるしかないはずです。
でも、前述したように、見える物から、見える物が生まれることは、あり得ないわけですから、見えないモノから、見える物が生まれるしかないのです。と言うことは、見えないモノも、見える物から、生まれるしかないはずです。
「見えないモノも、見える物から、生まれるしかない」と言うのは、おかしいと思うかもしれませんが、見えない世界から見れば、見える物が、見えなくなる変化は、見える物から、見えないモノが生まれたように見えるのです。
それは、見える物も、見えないモノも、同じ、一つのモノだからです。
一つのモノが、見える物になったり、見えないモノになったりしているだけです。
その一つのモノを、私は、意識と言ったり、エネルギーと言ったり、神と言ったりしているだけです。
2018年2月1日 更新
※ 想った通りのものが帰ってくる。
こんな、単純で、確かな法則はありません。
「良いことを想ったら、良いことが帰ってくる。
悪いことを想ったら、悪いことが帰ってくる。
この世のことを想ったら、この世のことが帰ってくる。
神を想ったら、神の原子核が帰ってくる。」
単純に、それだけのことなのです。
私、私、私、私・・・・と、自分の意識を追いかけて行ってみてください。
どこまで、追いかけても、自分の意識は、掴めないはずです。
それは、自分の意識の源が分からないからです。
自分の意識の源が分からない、と言うことは、初まりも、終わりも、無いと言うことになります。
初まりも、終わりも、無いから、生まれた体験も、死んだ体験も、無いのです。
そうです。
私たちは、今まで、死んだこともなければ、生まれたこともないのです。永遠に、生き通しだったのです。
だから、死後のイメージも、生前のイメージも、持てないのです。
ある学びの友が、このようなことを言っていました。
“もし、自分の意識の源が発見できたら、こんな怖ろしいことはないですね!” と・・・。
もし、自分の意識の源が発見できたら、死ぬ自分を発見したことになりますから、こんな怖ろしいことはありません。
だから、神は、どんなに、「私、私、私、私・・・」と追いかけて行っても、掴めない意識を、私たちに、与えたのです。
あなたは、永遠に死にません。だから、安心して生きたら良いのです。
2018年2月15日 更新
※ 原子核を増やす方法は、1に社会体験、2に瞑想だと言ってきました。
1も、2も、想念を動かし、やっているわけですが、例え、体を動かさなくても、想念を動かせば、原子核は、増えるのです。
私が、「体を動かせば、原子核が増えるから、大いに体を動かしてください!」と言ってきたのは、その説明の方が分かりやすいからです。
もし、体を動かすことでしか、原子核が増えないなら、体の不自由な人は、原子核を増やせないことになります。
神は、そのような不平等な仕組みを作るわけがないのです。
体を動かさなくても、想念さえ動かしたら、原子核は、間違いなく、増えるのです。
体を動かすことに、囚われ過ぎている人がいるようですので、ご注意申し上げます。
でも、やはり、体は、できるだけ、動かしてください。
重い体を動かすには、やろうと言う、強い気持ちが必要で、その強い気持ちが(決意・決心)が、原子核を増やすのです。
運動は、家の中でも、家の周りでも、どこでも、できます。
どこへ行く必要も、お金をかける必要も、ありません。
神は、「簡単に、手短に」、原子核が増えるようにしてくれているのです。
今、あなたの環境で起きている、どんな問題も、すべて、瞑想で解決できます。
なぜなら、瞑想し、原子核が増えれば、理解力が増し、判断力が増し、先見の明ができ、知恵が増すからです。
知恵が増せば、どんな難解な問題も、解決の道が開かれるのです。
それだけではありません。病気・事件・事故・災難などの苦しみからも、逃れられるし、過去の業も、拭うことができるのです。
私たちは、苦労して、自分の欠点を直そうとしますが、直す必要は、無いのです。
瞑想し、原子核を増やせば、良いのです。
原子核が増えれば、神の性格に近付いてゆくわけですから、欠点などは、いつの間にか、無くなってしまうのです。
どうか、瞑想してください。どんな問題も、解決します。
瞑想で解決できない問題など、無いことを知ってください。
2018年3月1日 更新
※ 瞑想は、神が人類に与えてくれた、最大の贈り物です。
瞑想できることに、感謝しましょう!
幸せとは、神のことなのです。
だから、幸せな人は、神です。不幸せな人は、神ではありません。
でも、その本性は、神です。
人間が苦しんでいる状態は、神から遠い状態なのです。人間社会に不幸せがあると言うことは、全く、神と違う方向へ行っていると言うことです。
神は、この宇宙に、幸せ以外、何も、お創りになっていないのです。
なぜなら、神意識そのものが、幸せの素材だからです。
大宇宙は、その素材で満たされているのです。
だから、この宇宙に、幸せしかないことになり、神しかないことになるのです。
なのに、人間社会には、なぜか、苦しいことが、沢山あります。
それは、自分が、神の素材で創られた神だと思っていないからです。
皆さんは、何が欲しいのですか?
幸せ以外ないのではありませんか?
今、全人類が、幸せが欲しくて、生きているのです。
今、人類が、やっていること、全てが、幸せを得るための方弁なのです。
お金も、物も、幸せを得るための方弁です。
地位も、名誉も、権力も、幸せを得るための方弁です。
良い家庭を持つのも、幸せを得るための方弁です。
山に登るのも、海に潜るのも、スポーツをするのも、絵を描くのも、音楽をやるのも、すべて、幸せを得るための方弁です。
でも、そのことを知らない人間は、一生懸命、汗水流して、方弁のために生きているのです。
方弁に、走れば、走るほど、幸せから遠のくと言うのに・・・です。
2018年3月15日 更新
※ この世の物は、すべて、非実在です。
でも、幸せは、実在なのです。
たとえば、夢の中で味わっている幸せも、物を通して味わっている幸せも、どんな形で味わっている幸せも、実在なのです。
それは、幸せそのものが、実在だからです。
つまり、味わっている、意識そのものが、幸せの大元の神意識だからです。
すべての生き物が、幸せを求めて生きているのです。
それは、幸せだけが、確かなモノだからです。
だから、私の説いている真理も、確かなモノなのです。
皆さんは、この宇宙に、偶然が有ることを信じますか?
もし、偶然が有るなら、今、宇宙は、存在していないでしょう。
と言うことは、今、あなたも、存在していないと言うことです。
今、あなたが、存在していること自体が、偶然の無い証なのです。
それは、あなた、そのものが必然の産物だからです。
どうか、安心してください。この宇宙に、必然しかないことが、分かったら、もう、心が揺れることは、ありません。
また、起きていること、全てが、有り難く受け取れるでしょう。
あなたの前で起きている、良いことも、悪いことも、必然であり、それは、すべて、進化成長に結びついている、有り難いことだからです。
私が、一番嬉しいのは、この宇宙が、すべて、必然によって運ばれている点です。
必然によって運ばれている、と言うことは、なるべきにして、なっている、と言う意味ですから、起きていることは、すべて、良いことなのです。
必然とは、秩序がある、と言う意味です。法則がある、と言う意味です。整然としている、と言う意味です。
ですから、そこに、悪いことの起こりようがないのです。
ですから、必然の世界は、善そのもの、正義そのもの、整然そのもの、良いことだらけです。
反対に、偶然とは、無秩序である、と言う意味です。法則が無い、と言う意味です。無茶苦茶である、と言う意味です。
そんな、無茶苦茶な宇宙の中で、どうして、安心して生きられるでしょうか?
私たちが、曲がりなりにも、安心して生きられるのは、偶然の無いことを本能的に知っているからです。
必然しか無い、と思っている人は、心穏やかになります。
偶然が有る、と思っている人は、不安だらけです。
人生を苦しくしているのは、何事も、偶然に起きると思い、不安・心配・恐怖の中で生きているからです。
心穏やかに、生きられるようになるためには、起きていること、すべてが、必然であり、それは、すべて、良いことであると、どれほど、信じられるかです。
必然が、良いことである理由は、必然の背後に、完全な法則が働いているからです。
完全な法則の下では、悪いことは、起こりようがないのです。
法則の下で、悪いことが起きるなら、宇宙は、そく、消滅してしまうからです。
神は、魂を進化成長させるために、表現宇宙を創造されたわけですから、あなたの周りで起きている、どんなことも、良いことなのは、当たり前なのです。
ですから、どんなに、悪いように見えていることも、良いことだと思い、決して、ネガティブにならないことです。
どうか、必然を信じてください。
あなたの人生を、暗いモノにするか、明るいモノにするかは、いかに、必然を信じられるかで決まるのですから・・・。
2018年4月1日 更新
※ 必然が良いことなのは、私たちの先輩である、お釈迦様や、イエス様や、知花先生が、自分の思い通りに生きて、自覚の境界線を超えられたこと、そして、今も、自分の思い通りに生きて、進化の途を歩まれていることが、証明しています。
そんな、確かな証拠があるのですから、あなたも、自分の思い通りに生きたら、間違いなく、自覚の境界線が超えられるのです。
人から何か嫌なことを言われた途端に、”カーッ!” となる。
これは、言った人が、”カーッ!” と、させたのでしょうか?
聞いた自分が、”カーッ!” と、させたのでしょうか?
聞いた自分が、”カーッ!” と、させたのです。
”カーッ!” としたら、自分の心が汚され、身体まで毒されるわけですから、こんな大損なことはありません。でも、殆どの人が、大損なことをしているのです。
自分の宇宙(心)の管理者は、自分自身です。
嫌なものを、自分の宇宙(心)に、入れるか、入れないかは、管理者である、自分の自由意志で出来るのです。
自分が、入れなければ、自分の宇宙(心)に、嫌なことは、入ってこられないのです。
だから、すべて、自己責任です。
日々の生活を、良くするも、悪くするも、人生を、良くするも、悪くするも、想念が握っているのです。
それは、どんな、想念を持つかで、決まるのです。
では、どんな、想いを持てば、良いのでしょうか?
それは・・・
一番、良い思いは、神を想うことです。
神を想っている時は、日々の生活を良くし、人生を良くしています。
物質のこと(この世のこと)を想っている時は、日々の生活を悪くし、人生を悪くしています。
無常のモノを、無いモノを、幻のモノを、想う(瞑想)から、そうなるのです。
目をつぶってやることだけが、瞑想ではありません。
普段、思っていること、すべてが、瞑想なのです。
私たちは、今日まで、 何気なく思っていたことで、人生を作ってきたのです。
それは、瞑想して、人生を作ってきた、と言う意味です。
そのことを知らない人間は、思いたい放題のことをしては、事故・災難・病気などを招いて、苦しい人生を送っているのです。
思いを軽んじることほど、大罪なことはありません。
なぜなら、悪い思いが、悪い思いを呼び込み、争い事を生み出してしまうからです。
争いごとのすべてが、思いが原因で起きていることを知ってください。
こんな重要なことを、まだ、人類は、気付いていないのです。
どうか、良い想念を持つよう、心掛けでください。
それは、自分だけでなく、人類のためにも、地球のためにも、なるのですから・・・。
2018年4月15日 更新
※ 皆さんのような熟した魂は、繊細な心を持っていますので、どうしても、先読みしがちです。
先読みは、余計なことを考えるわけですから、これは、良いことではありません。
先読みしないことです。
つまり、こうなるのではないか? ああなるのではないか? と、まだなっていないことを、先読みしないことです。
また、人がこう思っているのではないか、ああ思っているのではないかと、余計な妄念を抱かないことです。
今、あなたが、やるべきことは、肉体を維持するために必要なことを、真心を込めて、やることです。そして、余った時間を、瞑想に使うことです。
「人類の夜明3・・真実はひとつ」の書は、真理の書としては、最高傑作品です。
ただし、単に言葉や文字として受け取るなら、それは、知識ですから、心までは、届きません。
でも、波動として受け取るなら、心の深いところまで届きます。
神は、夢の中でさえ、真理を学べるようにしてくれているわけですから、「人類の夜明3」の書を単なる知識の書で終わらせるはずがありません。
そうです。「人類の夜明3」の書の中には、天の想いが篭っているのです。
ですから、声に出して読めば、響きの中から、文字に書けば、形の中から、神の想いの波動を汲み取ることができるのです。
私が、皆さんに、ぜひ、お願いしたいのは、「人類の夜明3」の書を手書きして欲しいと言う願いです。
難しいことはありません。ただ、「人類の夜明3」の書の中から、あなたの好きな言葉を選んで、手書きすれば良いだけです。
大切なのは、手書きすることです。多く手書きすれば、するほど、天との通路が太くなりますので、天の想いが降りやすくなります。
できたら、毎日、書いてください。その手書きした真理をまとめれば、自分の座右のバイブルになります。
私のホームページは、真理の宝庫ですから、どこからでも真理の言葉を探し出すことができますが、特にお勧めしたいのは、「人類の夜明3・・451ページ(神の独り言)」です。本をお持ちでない方は、当ホームページの「神の独り言」をご覧ください。
学びの友の皆さんは、選ばれた天使です。
天の光を地に降ろす使命があるのです。
それは、瞑想と、真理の言葉を手書きすることで、果たすことができるのです。
これは、凄いことなのです。
手書きの言葉の一例・・・
○ 私は神!
神を・・
遠くに探しに行ってはなりません
神は・・
私の手より足よりも近くにおられるからです
また、神を・・
外に探しに行ってもなりません
神は・・
私の中におられるからです
また、神を・・
神秘化してもなりません
神は・・
何処にでもいる、ありふれたお方だからです
神は・・私です
私は・・神です
○ 私は光!
私は光!・・私は光!・・私は光!・・
私は、光から生まれた光の子です。
私は・・眩しいまでに光り輝いています。
光!・・
光!・・
光!・・光!・・光!・光!・光!・光!・・・・・
私は・・幸せいっぱいです。
○ 笑いの心!
ありがとう! ありがたい! の感謝の心
うれしい! 楽しい! の喜びの心
成せばなるぞ! の希望の心
やってやるぞ! の闘志の心
すごいなあ! 素晴らしいなあ! の感動の心
前進! まい進! のひるまぬ心
わはは! あはは! の笑いの心
○ 神様ありがとう!
どんな辛いことも、全て善いことです!
どんな苦しいことも、全てありがたいことです!
それが・・
進化成長に運んでくれる神の愛です
もう、ありがたくて! ありがたくて! 仕方がないのです
神の愛が、あまりにも、深く、高く、大き過ぎて・・
“ありがとう!” の言葉しか出てこないのです
神様、ありがとう!
本当の自分よ、ありがとう!
2018年5月1日 更新
瞑想ほど、大切なことはありません。
瞑想は、何でも成就させる力を持っているからです。
その事を踏まえ、瞑想の特典を考えてみることにしましょう。
自分の本性が自覚できるようになる。
求道の目的は、「自分は、神であった! 生命であった! 光であった! 意識であった!」と、心の底で思えるようになることです。
その境地は、瞑想し、原子核が増えれば、自動的になるのです。
業が解消される。業を作らない。
なぜ、業を消し、業を作らないか、と言いますと、瞑想している時には、悪いことが考えられないからです。
不思議なことに、瞑想し、原子核が増えれば、段々と、悪いこと(余計なこと)が考えられなくなるのです。
悪いことを考えなければ、業が作られないわけですから、原因と結果の法則によって、穏やかな人生になるのです。
病気にもならず、事故災難にも遭わない。
病気になるのも、事故災難に遭うのも、光が少ないからです。
瞑想し、原子核が増えれば、光が強くなるので、病気にもならないし、事故災難にも遭わなくなるのです。
自分だけでなく、肉親や、親しい人たちや、死んだ人たちの進化に貢献できる。
瞑想し、光を放てば、肉親や、親しい人や、幽界に帰った人たちの進化にも貢献できます。
ある段階まで成長した幽界人は、死んで、向こうへ帰っても、真理を求め続けているのです。
そのような魂は、真理を学んでいる人たちの動向を常に見ているのです。
もし、皆さんが、真剣に瞑想している姿を見せつければ、彼らは、きっと、見習って、瞑想するでしょう。
例え、迷っている幽界人であっても、瞑想して光っている姿を見せつければ、何かを考えさせることができるでしょう。
このように、瞑想は、自分だけでなく、周りの人たちにも、幽界人たちにも、影響を与えることができる、大変意義あることなのです。
人類を、地球を、宇宙を、浄化することができる。
瞑想している時は、光を放っています。その光は、人類をも、自然をも、地球をも、宇宙をも、浄化してくれるのです。
2018年5月15日 更新
※ 瞑想すれば、人生が好転するのは、この世のことを思わなくなったからです。
「想念は、実現の母」と、言われるように、思ったことは、何でも実現するのが、想念の力です。
その力を、今まで、皆さんは、この世の苦しいことに使ってきたのです。
だから、苦しいことが、やってきたのです。
人生を良くしたかったら、想念を良いことに使うことです。
良いことの一番が、神を想うことなのです。
どうか、やってみてください。やってダメでも、もともとではありませんか?
やらないで、嘘だと言わないでください。
※ 瞑想すれば、罪滅ぼしになります。
瞑想するまでに進化したのは、過去生で犯した罪が、学ばせてくれたからです。
罪を悔やんで、自分を責める時間があるなら、瞑想してください。
その時、あなたは、罪滅ぼしをしているのですから・・・。
愛し合うとは、何を愛し合うのでしょうか? 人を? 何かを?
いいえ、愛し合うとは、自分を愛し合うことなのです。
それも、外側の自分と、内側の自分が、愛し合うことなのです。
自分の中には、二人の自分がいるのです。一人は、真我の自分です。もう一人は、自我の自分です。
真我の自分が、自我の自分を愛し、自我の自分が、真我の自分を愛するのが、愛し合いなのです。私たちは、二人の自分を愛し合いながら成長してゆくのです。
外側の世界は、幻の世界です。内側の世界は、真実の世界です。
ですから、他愛は、無いのです。あるのは、自愛のみです。
自愛しかできないのは、他人がいないからです。
世間では、「他愛ない!」と言う、言葉を、 ”つまらない!” 、とか、 ”しようもない!” と言う意味で、使っていますが、他人がいないのですから、他愛ないのは、当たり前です。自分しかいない世界に、他愛があるわけがありません。
だから、自愛で良いのです。
では、真我の自分が自我の自分を愛し、自我の自分が真我の自分を愛する愛し合いは、どのような、愛し方なのでしょうか?
それは、いつも、想い合うことです。いつも、意識し合うことです。
つまり、真我は、いつも、自我を想い(意識し)、自我は、いつも、真我を想う(意識する)ことが、愛し合うことなのです。
この愛し合いは、瞑想を意味し、自覚の境界線を超えても、永遠に続けられるべきものなのです。
2018年6月1日 更新
※ ある学びの友の詩記(気づき)・・・
神の絆奏曲「愛」を聞いていて気づきました。
人は、自我の自分を愛しながら成長してゆくのだと・・・。
つまり、自我の自分を認めて、意識して、愛して・・いずれ、宇宙を認めて、意識して、愛することができるようになるのだと・・・そう思えた途端、感動で涙が溢れました。
私の自我が、私(真我)にとっての相手だったんだ・・・この自分がいなければ、何も始まらないんだ、と知って、びっくりしました。
これは、「真我が私で、自我があなたになった」、何とも不思議な感覚です。
今まで、私は、一人の人間として瞑想してきましたが、実際は、自我の私と真我の私が愛を紡ぎ合っていたのですね・・・。
神は完全です。その完全な神が、意味なく何かを起こすはずがありません。
起きたことは、みな、意味のある必然なのです。
その必然は、すべて、良いことなのです。
それは、そのことしか、起きようがなくて、起きているからです。
完全な神が、そのことしか、起きようがなくて、起こしているのですから、それが、必然で、良いことなのは、当然では、ありませんか?
神が不完全なら、偶然に悪いことが起きても、仕方ありません。
でも、神は、完全ですから、良い必然しか起きようがないのです。
何かが起きたのは、必要あって起きた必然で、そのことが起きることによって、進化成長できるからです。
ある学びの友が、こんなことを言っていました。
「偶然で起きた悪いことは、嫌なことですが、必然で起きた悪いことは、良いことですね!」と・・・ 。
必然しかないのですから、起きたことが、良いことなのは、当然です。
起きたことは、結果です。結果が生まれて、はじめて、起きたことの意味が分かるのです。結果が生まれなかったら、起きたことが、良かったか、悪かったか、分かるはずがありません。それでは、学べないのです。
どんな悪しきことも、良いことだ、と言えるのは、どんな悪しきことも、進化成長させてくれるからです。
この宇宙には、良い水しか無いのです。川から水を汲んでも、井戸から水をくんでも、海から水を汲んでも、みな、良い水なのです。
その人には、不利益な水に見えても、その不利益な水は、利益の水につながっているのですから、不利益な水など、無いのです。
それは、一つの神の水しか無いからです。
これが、何が起きても、必然で、良いことだ、と言う意味です。
神が、どうして、悪と思えることを、人類に許しているのでしょうか?
それは、自我の思いが、必然で、その思いで起きた悪いことが、すべて、良いことだからです。
銃を作るのも、必然、銃で脅すのも、必然、銃で傷つくのも、必然、銃で殺されるのも、必然です。神は、こんな理不尽なことまで、許しているのです。
それは、幼い魂を成長させるために、必要なプロセスだからです。
だから、私は、核爆弾を、作ることも、使用することも、肯定はしないけれど、否定もしないのです。
今、地球上にある、悪と思われる、物・人・環境は、正しい道に乗せるために、必要な諸悪であり、みな、必然が用意した良いことなのです。
この宇宙は、善と悪・光と闇が、互いに支え合いながら、進化成長するようにできているのです。
悪はないのです。闇は無いのです。すべて善であり、すべて光なのです。
2018年6月15日 更新
※ あなたに起きた、どんな出来事も、すべて、良き必然だと思ってください。
例えば、事故に遭った・・ 蚊に刺された・・ 足をくじいた・・ 人に騙された・・ 試験に落ちた・・ 確かに、現象面だけ見たら、良いとは思えません。
でも、「風が吹けば桶屋が儲かる」の譬えのように、すべて、自分を成長させる、良いことにつながっているのです。
確かに、苦しいでしょう! 辛いでしょう! 煩わしいでしょう! 腹立たしいでしょう!
でも、その厳しいことを乗り越えれば、大きく原子核を増やすことができるのです。
苦しいことを回避しようとする、自己防衛は、進化成長を妨げる矛盾です。
どうか、苦しいことから、逃げないでください。
果敢に挑戦し、乗り越えてください。
自分の欠点も、自分が克服しなければならない課題も、自分の存在さえも、結果が教えてくれます。
私は、いつも、言います。
「相手(結果体)が、どうして、いるのですか?
それは、自分(原因者)が、いるからではありませんか?
自分(原因者)が、いなければ、相手(結果体)は、いないのですよ!
なぜなら、自分がいるから、相手関係が生まれるのであって、自分がいなければ、相手関係が生まれるわけがないからです。
と言うことは、相手は、自分が連れてきた、自分である、と言うこと、つまり、自分が創った、自分である、と言うことです。
そう、断言できるのは、相手(結果体)の中に、素材である、自分(原因者)がいるからです。」と・・・。
このように、自分(原因者)が、相手(結果体)を創り、相手(結果体)が、自分(原因者)を創っているのです。
自分(原因者)の存在さえも、相手(結果)が教えてくれると言うのは、見える相手(結果体)が、見えない自分(原因者)を教えてくれるからです。
ですから、見える結果体が存在しなかったら、私たちは、永久に、自分(原因者)の存在が分からないのです。
これは、自分(原因者)と、相手(結果体)が、一つだからです。同じだからです。
しかし、一般人は、原因者と結果体との関係を認めようとしません。
だから、彼らは、過ちが見付けられないので、余り成長できないのです。
でも、学びの友の皆さんは、認めていますから、過ちを正して、成長できるのです。
皆さんにとって、結果体は、本当に、ありがたい存在なのです。
「結果が、見えて、肌で感じられること(痛いこと・苦しいこと・悲しいこと)は、素晴らしいことですね!」と、ある学びの友が言っていましたが、正に、そのとおりです。
もし、結果が見えなかったら、私たちは、過ちを正そうとしませんから、永久に、成長できないでしょう。と言うより、自分の存在さえも、分からないのですから、宇宙の迷い子です。
見えて、肌で感じられる、肉体(結果体)が、あるから、私たちは、自分(原因者)の存在を知ることができるのです。
では、原因者とは、何でしょうか? それは、私たちの意識です。
肉体は、結果体なのです。
もし、結果体(肉体)が、見えず、肌で感じられなかったら、私たちは、自分(意識)の存在を、永久に、知ることはできないはずです。
だから、私は、自分(意識)の存在を教えてくれる、結果(肉体)は、ありがたい!、自分の過ちを教えてくれる、結果(起きたこと)は、ありがたい!、と言うのです。
科学者も、誰もが、先に、物(表現宇宙)があって、それを、私たちは、見ていると思っています。
でも、それでは、原因と結果が逆さまになってしまい、宇宙は存在できません。
あくまでも、先に、原因があって、後に、結果が生まれるのです。
原因なしに、結果が生まれるわけがないのです。
私たちの意識が、原因ですから、私たちの意識(原因)が、物(結果・表現宇宙)を創り、私たちの意識が、その物(結果・表現宇宙)を、見て感じているのです。
だから、私たちの意識が、宇宙を創っていることになるのです。
でも、その意識の存在は、見える結果体がなくては、分からないのです。
例え、私たちの意識があっても、見える結果体がなくては、証明してくれるものが無いわけですから、私たちの意識は、無きに等しいのです。
結果体が、証明してくれるから、私たちの意識の存在が、可能なのです。
と言うことは、結果と原因は、対等だと言うことです。同格だと言うことです。
原因と結果の関係は、表裏の関係にあるのです。
裏(原因)がなければ、表(結果)は無いし、表(結果)がなければ、裏(原因)も無いのです。両方あって「ソノモノ」が存在できるのです。
だから、結果体は、原因者そのものであり、原因者は、結果体そのものである、と言えるのです。
でも、実際にあるのは、あくまでも、原因者の方です。
これだけは、絶対に譲れません。 譲ったら、両方が消えてしまうからです。
どうか、結果が、過ちを教えてくれる、結果が、自分(原因者)の存在を教えてくれる、「原因と結果の法則」に感謝しましょう。
2018年7月1日 更新
神は、永遠に知ることができません。
その永遠に知ることのできない神が、今、私の中にいるのです。
だから、私も、永遠に知ることができないのです。
でも、それで良いのです。
もし、知ることができたら、それは、神でなくなるし、私でもなくなるからです。
神は、無限なのです。そんな、神を、どうして、知ることができましょうか?
もし、知れたら、それは、有限の神になってしまいます。
有限ということは、終りがある、と言う意味ですから、それでは、神でなくなってしまいます。
神には、終わりが無いのです。終わりが無いから、始まりもないのです。
終わりも、始まりも、無い存在を、どうして、知ることができましょうか?
始まりがあり、終わりがあれば、引っ掛かりがあるので、爪でメクルことができますが、引っ掛かりがないので、爪でメクルことができないのです。
神は、まっ平らなのです。
“何だ! 神って、永遠に知ることができないのか!?” と、ガッカリしないでください。
神は、知ることができます。
永遠に神を知ることができない、と知ったことが、神を知ったことになるからです。
そのことを、今、あなたは、知ったのです。
と言うことは、あなたは、今、神を知った、と言うことです。
永遠に知ることができないのが、神の証なのです。
永遠に知ることができないのが、私の証なのです。
2018年7月15日 更新
この宇宙で、最も確かなことは
神のみが、語れる、という事実です
ならば・・
言葉を語れる、あなたは
神ではありませんか?
あなたは、先ほど
友たちと語り合いましたね
本当に、友たちと語り合ったのでしょうか?
いいえ、
あなたは、神と語り合ったのです
神である、あなたが・・
神である、友たちと語り合ったのです
なのに、あなたは・・・
人が語っていると、誤解しています
これは、神に対して失礼です
あなたは、先ほど・・
自分のことを、人間だといいましたね!
これも、神に対する冒涜です
これでは、神様から・・
「あなたは、嘘をついていますよ!」
といわれても、仕方ありません
どうか、
言葉を盗まないでください
どうか、
嘘をつかないでください
あなたは、間違いなく、神なのですから・・・
2018年8月1日 更新
※「身・口・意」は、三位一体です。
口(言葉)は、三位一体の真ん中に位置します。
ですから、口(言葉)は、神人に当てはまります。
(人 = 神人 = 神)・・三位一体
神は・・意です。
神人は・・言葉です。
人は・・行為です。
言葉(神人)は、神の意と人間の行為が合わさった状態なのです。
※ 自覚の味を知らない者が、真理を語る、資格はありません。
また、自覚の味を知らない者が、瞑想を、教えることもできません。
※「 真理(宇宙)を、知った!」と言う人は、何も知らない人です。
「真理(宇宙)は、知れない!」と言う人は、何かを知った人です。
その人は、謙虚になります。
それは、謙虚にならざるを得ない、真理の深みを、知ったからです。
私たちは、意識を持っています。
その意識は、前後のつながりを持っている、アナログ的な意識です。
アナログ的意識だから、自分が何なのか分かるのです。
もし、デジタル的(ぶつ切りの)意識だったら、前後のつながりがないので、自分の存在も、妻子の存在も、表現宇宙の存在も、分かりません。
それでは、表現宇宙に、何も物語が生まれないのです。
意識が、アナログ的であると言うことが、自分の存在と宇宙の存在を確かなものにし、究極の幸せを生み出してくれているのです。
安心してください。 自分の意識は、絶対無くなりません。
こんな、幸せなことが、ありましょうか?
いや、こんな、苦しいことが、ありましょうか? と言うべきでしょうか?
なぜなら、意識があるから、苦しむからです。
でも、意識がなかったら、苦しみも体験できないけれど、幸せも体験できないのです。
あなたは、幸せが、欲しくないのですか?
「苦しまないで済むなら、幸せなどいらない! 意識などいらない!」と言うのですか?
でも、どんなに、いらないと言ったところで、自分の意識は、絶対なくならないのです。 それは、意識が、アナログ的だからです。
永遠の意識を持つことが、苦しいと思えば、苦しいのです。
永遠の意識を持つことが、楽しいと思えば、楽しいのです。
それは、意識の使い方次第なのです。
どうせ、無くせない意識なら、楽しいことに、意識を使ったら、どうでしょうか?
学びの最終目標が、意識(想念)のコントロールであると言われるのは、使い方次第で、幸せな宇宙にも、不幸せな宇宙にも、できるからです。
2018年8月15日 更新
※ 意識は、絶対実在です。意識がなかったら、何も生まれないのですから、意識が絶対実在であることは、間違いありません。
では、意識って、何でしょうか?
意識は、何処から来るのでしょうか?
意識の源は、何んでしょうか?
意識を生み出しているのは、何でしょうか?
どうして、意識が有るのでしょうか?
意識を意識している意識、その意識を意識している意識、そのまた意識を意識している意識、どんなに、意識を探って行っても、意識の源は、分かりません。
一体、意識の正体は、何なのでしょうか?
意識が意識して意識を生み出している。意識の生みの親は、意識なのです。
意識が原因者である、と言う意味です。
でも、意識された意識は、結果です。その意識が意識した意識も、結果です。
その結果は、原因者が、生み出しているはずですが、その原因者である意識も、結果です。と言うことは、依然として、意識の正体は、解らないのです。
どんなに、探っても、解らないのが、意識なのです。
解らない意識を探るほど、愚かなことはありません。
でも、意識とは、そう言うモノである、と言うことだけは、知っておいてください。
何事も、「拘ってはならない!」と言われるのは、この世は、腰掛けの世界だからです。
腰掛けの世界に、”こう、あるべきだ! ああ、あるべきた!” と言った、拘り事など、あるわけがないのです。
折り紙の「騙し船」のように、こちらを掴んでいたつもりが、いつの間にか、別な所を掴まされているのが、腰掛けの世界なのです。
良いではありませんか? どんなに器量が悪くても、どんなに頭が悪くても、どんな学校を出ていても、どんな仕事に就いていても、どんな小さな家に住んでいても、すべて、魂を大きくするための方便なのですから・・・。
どんなに、お金や、地位や、名誉や、権力を持っていても、どんな、素晴らしい家族を持っていても、死ねば、みな、置いて帰らねばならないのですよ。
そんなモノのために拘って、悩み、苦しむなど、愚かです。
賢い人は、持って帰れるモノのために生きます。
持って帰れるモノとは、唯一、原子核(魂)です。
2018年9月1日 更新
※ 勝敗に拘って成績を落としている、アスリートがおりますが、拘れば、光を閉ざすので、成績が悪くなるのです。
競技を楽しんでください。楽しめば、光が入ってくるので、成績が良くなります。
求道の旅も、同じです。
「ねばならない!」と言った、拘りを持って、真理を求めると、苦しくなります。
どうか、楽しみながら、真理を求めてください。
真我意識は、真我意識だけでは、存在できません。
もう一つの意識があって、はじめて、真我意識が、存在できるのです。
もう一つの意識とは、自我意識のことです。
真我意識と自我意識は、同じ一つの意識ではありますが、別けなければ、客観的見方ができないため、真我意識を別けたのです。
別けて、初めて、真我意識が存在できるようになったのです。
自我意識が存在しなかったら、たとえ、真我意識が存在していたとしても、存在していないのと同じなのです。
なぜなら、認める意識がなければ、認められる意識は、存在できないからです。
このように、自我意識と真我意識は、相身互いの関係にあるのです。
どちらが、存在しなくても、どちらも、存在できない、と言うことです。
これは、次のような例えで示せるでしょう。
「雑巾」には、表と裏がありますが、この段階では、雑巾は存在していないのです。
表だけの雑巾もなければ、裏だけの雑巾も無い、という意味です。
「雑巾」は、表と裏があって、はじめて、「雑巾」として存在できるのです。
意識も同じように、表の意識(自我意識)と裏の意識(真我意識)があって、はじめて、本当の私(神人の意識)が存在できるのです。
「雑巾」とは、「神人の意識」のことです。すなわち、本当に有る意識のことです。
「神は絶対有るモノ・・人間は無いモノ・・神人は本当の有るモノです。」
2018年9月15日 更新
※ あなたは、今まで、一度も、自分の意識から離れたことがないのです。
と言うことは、あなたは、今日まで、自分の意識に、監視されてきた、と言うことです。
だから、あなたは、自分を偽ると苦しくなるのです。
自分の意識から離れたことがないのは、自分の意識は、二つであり、一つだからです。
神の心は、真心です。神は、その真心を使って、この表現宇宙を創造されました。
その神と同じ心を持っているのが、私たちですから、真心を使ってやれば、成し得ないこと(不可能なこと)は、無いのです。
私は、やっているけれど、何も変わらない、と言う人は、真心の込め方が足りないからです。 つまり、真剣さが足りないからです。
真剣さの中には、動機も含まれていますから、不順な動機で、やっていないかも、顧みてください。
これは、家庭生活においても、社会生活においても、真理を求めることにおいても、言えることです。
特に、真理を求めることにおいては、真剣さと動機が大切です。
あなたは、真剣に、しかも、純粋な動機で、真理を求めていますか?
片手間で、この世のご利益が欲しくて、真理を求めていませんか?
神は、あなたの中に、おられるのですから、どれほど、真剣にやっているかは、ご存知なのです。
どうか、神が納得するような、真剣さと動機を持ってやってください。
そうすれば、必ず、あなたは、変わります。あなたの周りの環境も、良くなります。勿論、健康にもなります。
そうすれば、真理も、求めやすくなります。
もう、あなたの前に、何の障害物も置かれないでしょう。
2018年10月1日 更新
※「ただ、やりたいからやる!」と言うのが極上の動機です。
でも、それでは、目的が見えないので、力が入らないでしょうから、原子核が有る大きさに達するまでは、「世のため人のためにやる! 原子核を増やすためにやる!」と言う、動機でやってください。
悪を知らない、赤ちゃんは、確かに、善人かも知れません。
でも、それでは、真の善人とは、言えないのです。
なぜなら、体験のない、善人だからです。
真の善人とは、悪の苦味を体験して、善の尊さを知った人です。
同じように、この世の苦味を知らない、無垢な神では、神人にはなれないのです。
この世の苦味を知った人間が、神に目覚めた時、神人になれるのです。
ですから、どうしても、人間として生まれ、この世の苦味(悪)を体験する必要があるのです。
私たちは、間違いなく、神です。でも、体験途中の神なのです。
体験を深めれば、心の底で、神(本当の自分)を知るので、神人になれるのです。
2018年10月15日 更新
※ 神を説明する言葉は、この宇宙には、ありません。
でも、近い言葉なら、あります。
それは、意識です。生命です。光です。魂です。本質です。一です。○です。
しかし、それでも、依然として、説明し切れていません。
でも、それで良いのです。
説明し切れたら、神は、有限の存在になってしまうからです。
世界を変えたい、と言って、デモをする人がおりますが、そんな、人騒がせなことをしなくても、自分の意識を変えれば、世界は変わるのです。こう言うことです。
私たちが、日々、見て、感じている、世界は、理解力の高さによって、見ているモノが違ってくる世界です。
ですから、同じ世界を見ているようで、人それぞれ、見ているモノが違っているのです。
原子核が大きくなり、理解力が高まれば、自分の意識に変化が起きてきます。
そうすると、今までの、見方が変わり、感じ方が変わり、受け取り方が変わり、納得の仕方が変わってくるのです。
例えば、今まで、憎んでいた相手や、厳しく思えた環境が、なぜか、憎めなくなり、なぜか、厳しく思えなくなるのです。
それどころか、反対に、愛おしい相手に見え、穏やかな環境に見えるのです。
それが、自分の意識を変えれば、世界が変わる、と言う意味なのです。
それで、良いのでは、ありませんか?
自分の心が穏やかになることが、大切なのですから・・・。
「人を変えたい! 環境を変えたい!」と、悩まないでください。
原子核を大きくしたら、自分が変わるのですから・・・。
2018年11月1日 更新
※
※ 宇宙の法則から言って、内側(魂・原子核)が変われば、外側(人・環境)が変わるのは、当然です。
しかし、今の地球は、波動が粗いので、変わるには、時間がかかります。
でも、根気よく、内側を変えてゆけば、必ず、外側は変わります。
内側を変える方法は、社会体験と瞑想です。
この2つのことをやれば、原子核が大きくなるので、自分の意識が変わります。
自分の意識が変われば、外側の環境も、変わってくるのです。
この世には、イモ人間だとか! イモ野郎だとか! イモ侍だとか! イモ姉ちゃんだとか!、芋をあざ笑う言葉がありますが、「イモをあざ笑う者はイモに泣く」のです。
こんな話があります。
ある国に、コメの栽培を奨励する殿様と、イモの栽培を奨励する殿様がおりました。
コメの栽培を奨励する殿様は、イモの栽培を奨励する殿様を「バカな殿様だ!」と、あざ笑っていました。
ある年、その地域に、干ばつが襲いました。
稲は、干ばつに弱いので、米作りを奨励していた国では、ほとんど、コメが取れませんでした。
ですから、その国では、多くの餓死者を出しました。
一方、イモは、干ばつに強いので、イモの栽培を奨励していた国では、一人の餓死者も出ませんでした。
「イモ」は、どんな荒れ地でも採れる、ありふれたものです。
「想念」も、誰でも持っている、ありふれたものです。
でも、そのありふれた想念が、人生を、良くも、悪くも、するのです。
想念を軽んじて使っている者は、必ず、痛い目に遭います。
それが、「想念(イモ)をあざ笑う者は、想念(イモ)に泣く」と言う意味です。
私は、イモが大好きです。イモさえあれば、他に何もいりません。
つまり、想念さえあれば、他に何もいりません。
人生は、想念次第なのです。 想念さえあれば、人生は、いかようにもなるのです。
皆さんは、想念の凄さ、想念の偉大さが、まだ、解っていません。
この表現世界で、最も大切なモノは、家族でも、仕事でも、地位でも、権力でも、お金でも、宝石でも、ありません。 想念です。
どうか、想念を重んじてください。
2018年11月15日 更新
※ 外側のモノに頼らないでください。内側の想念に頼ってください。
神仏や、親や、友達や、先生や、薬や、医者や、お金や、権力に頼っても、それは、外側頼り(他力)ですから、成就しませんが、想念は、内側頼り(自力)ですから、間違いなく、成就するのです。
自分が存在している証は、今、自分と「思」える意識を持っていることです。
今、自分と「思」える意識を持っていることが、自分の存在を証明しているのです。
では、その自分と思える意識は、何処から来たのでしょうか? それが謎なのです。
どんなに、探っても、解らないのが、自分の意識なのです。
でも、解らなくて良いのです。解ったら、自分が消えてしまうからです。
求道者の目的は、解かりようのない「意識」の謎を永遠に探って行くことです。
解かりようのない「意識」の謎を探って行くことに、どんな意味があるのか、と思われるでしょうが、探って行けば、「意識」の謎の一部分が解かり、解った分、新鮮な幸せが得られるからです。
私たちが、欲しているのは、永遠に尽きない、永遠に色あせない、新鮮味のある幸せです。
その幸せは、意識の謎(宇宙の謎)が解ったら、解った分、得られるようになっているのです。
だから、私たちは、解かりようのない意識の謎(宇宙の謎)を、永遠に探って行く必要があるのです。
2018年12月1日 更新
※ 自分の意識を無くすことは、絶対できません。
どんなに、無くしたいと思っても、無くすことができないのが、自分の意識なのです。
なぜなら、今、自分と思えているからです。
自分の意識の永遠性は、今、自分の意識が存在していることが、証明しているのです。
※「自分の意識が無かったら、どんなに、幸せか?」と思うかも知れませんが、自分の意識が無かったら、その幸せさえ、味わうことができないのですから、そんな思いを持つこと自体、無意味なのです。
「真剣に・純粋に」真理を求めている者を、神は、決して、悪いようにはしません。
マラソンで、2時間1分台の新記録を出した選手が、優勝後のインタビューの中で、こんなことを言っていました。
「マインドが記録を作った!」と・・・。
真理を、どれほど、知っていたかは、分かりませんが、走ったのは、肉体ではなく、心だと、彼は、言いたかったのでしょう。
今の地球人類は、身体が、何かをやっていると思っています。
でも、すべて、心(想念)が、やっているのです。
心(想念)が、なかったら、指一本、動かすことができないのです。
心(想念)が、ご主人様で、身体は、下僕なのです。
下僕ですから、身体は、心(想念)に、絶対服従です。
心が嬉しければ、身体は、嬉しい表現をするのです。
心が苦しければ、身体は、苦しい表現をするのです。
この表現世界は、心(想念)の絵の展示場のようなものなのです。
心が美しければ、美しい絵が展示され、心が醜ければ、醜い絵が展示されるのです。
今、社会に、醜い絵が展示されているのは、人類の心が、醜いからです。
地球で、真理の火の手が上がるのは、スポーツ界からです。
スポーツは、「原因と結果の法則」が、いち早く現れるので、一般人にも、分かりやすいのです。
2018年12月15日 更新
※ もし、スポーツ界で、心が重視されるようになったら、驚くような記録が続出するでしょう。もう、競うこと自体、無意味になるでしょう。
※ この世の何が信じられなくても、自分の想念だけは、信じてください。
なぜなら、自分の想念だけが、実在だからです。
※ この世に、恐ろしいものが有るとすれば、自分の想念です。
この世に、素敵なものが有るとすれば、それも、自分の想念です。
※ たかが、想念、 されど、想念です。
想念を軽んじている者は、想念で泣かされるでしょう。