人間は、病気・事件・事故・災害など、偶然に起きると思っていますが、自己完結型宇宙において、偶然は、有り得ないのです。
なぜなら、自分を成長させるために、自分が用意した、病気・事件・事故・災害だからです。
偶然は、無秩序ですが、必然には、秩序があるのです。
秩序とは、法則と意思です。起きる出来事の背後には、必ず、法則と意思があるのです。当然です。自分が、そうしようと思って、そうさせているわけですから、偶然があるわけがないのです。
ですから、防衛したって、無駄です。もし、防衛できるなら、それは、矛盾です。真我が、そんな愚かなことをするわけがありません。
この宇宙で起きる出来事には、二つの見方があるのです。
一つは、自己完結型宇宙側から見た場合、もう一つは、原因と結果の法則側から見た場合です。
自己完結型宇宙側から見た場合は、ポジティブな見方になり、原因と結果の法則側から見た場合は、ネガティブな見方になります。
必然しか無い、と言うのは、すべての出来事の背後には、秩序立てている、何かが有るからです。
つまり、自己完結型宇宙側には、意思と言う、秩序が有り、原因と結果の法則側には、法則と言う、秩序が有るからです。どちらにしても、魂の成長のために必要な秩序です。
あなたが、厭なモノを見せられるのは、自分の中にある厭なものに気づかせるためです。
また、ドキッとすることを体験させられるのも、ドキッとしなくなる、不動心を築くためです。
人間は、雨が降ったら、どうしようとか、飛行機事故に遭ったら、どうしようとか、心配しますが、自分の成長にとって必要なら、「自分が・法則が」用意するのですから、心配することはないのです。
なぜなら、みな、良いことだからです。
自分で鏡を作り、その鏡に、自分の姿を写し、その姿を見て、自分の欠点を知り、その欠点を修正して、自分を成長させる、正に、この地球は、自己完結型の学習道場なのです。
2017年1月1日 更新
※自己完結型農法
自己完結型農法とは、肥料は、自分の身を使い、害虫から身を守るのも、自分がし、タネも、自分の残りダネを利用すると言った、正に、自力の農法です。
今、地球で行われている農法では、農薬や、化学肥料や、改良されたタネ、などが使われていますが、これは、外側の力に依存している、他力農法です。
自己完結型農法では、雑草が生えても、害虫が付いても、除草剤や農薬は、一切、使いません。
また、肥料も、昨年、自分が残した茎や葉や周りの雑草を使います。
それでは、雑草にやられたり、虫に食われたりするのでは、と思うかも知れませんが、雑草の中で競いながら育った種は強くなるので、一部分は、虫に食われても、全体には及ばないのです。ひ弱に育てるから、雑草にやられたり、害虫に食われたりする、弱い種になってしまうのです。
今の農法は、強い種を弱い種に変えてしまっているのです。
それは、楽に、早く、沢山、生産したいからです。
楽に、早く、沢山、生産したい、経済優先の社会では、無理かも知れませんが、儲ける必要のない社会では、自己完結型農法でも、十分にやってゆけるのです。
表現宇宙のすべてのモノは、元数1から生まれた子供たちですから、すべては、1です。
その1は、永遠と無限を示している、絶対真理です。
このことを前提に、1について考えてみましょう。
私たちは、今、現に、存在しています。これだけは、確かです。と言うことは、私たちは、1であると言うことです。
1であると言うことは、私たちは、永遠であり、無限である、と言うことです。
自分が、1であると、心の底で解ったら、すべては、自分ですから、そこに、敵対する相手は、生まれません。
それどころか、すべてのモノが、愛おしくなり、抱きしめたくなります。
不安も、恐怖も、一切、なくなります。
つまり、心は、平安になるのです。
すべてが、1である、と言う真理は、絶対宇宙と相対宇宙(表現宇宙)が、一つであることを意味し、さらに、神意識と人間意識が、一つであることを意味しているのです。
だから、今、相対宇宙の中にいながら、絶対宇宙の中におり、今、人間の思いでありながら、神の思いでもあるのです。
1は、どこまでも、1なのです。
1の中には、1しかないのです。
1しか無いから、境目がないのです。
1しか無いから、差別が無いのです。
1しか無いから、分けられないのです。
1しか無いから、誤魔化しようがないのです。
1しか無いから、平等なのです。
1しか無いから、真しかないのです。
1しか無いから、善しかないのです。
1しか無いから、美しかないのです。
1しか無いから、完全しかないのです。
1しか無いから、死がないのです。
1しか無いから、あなたは、私であり、私は、あなたなのです。
1しか無いから、人は、神であり、神は、人なのです。
1しか無いから、幸せしかないのです。
さらに、
1には、限界が無いのです。
1には、初めが無いのです。
1には、終わりが無いのです。
1は、永遠です。
1は、壊しようが無いのです。
1(○)は、完全な美形です。
このように、1は、完全であり、真・善・美そのものなのです。
その完全と真善美によって、存在させられている、私たちに、不完全も、偽りも、不善も、醜さも、ありません。私たちは、どこまでも、完全なのです。
もし、私たちが、「1である!」と、心の底で解ったら、一つの節目を超えたことになり、もう、この世の苦しみに悩まされることはなくなるでしょう。
それどころか、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの中に入れるでしょう。
どうか、自分が、1であることを知ってください。
2017年1月15日 更新
※ 1の中に全体が有り、全体の中に1が有る!
「神は、1でありながら、無限であり、無限でありながら、1である」という、真理は、「1の中に、全体は有り、全体の中に、1は有る」と言う、真理と同じなのです。
しかし、「全体の中に、1は有り」と言うことは、理解できても、「1の中に、全体が有る」ということは、なかなか、理解できないでしょう。
でも、良く考えてみてください。
1の中に、全体がなくては、1は、1であり得ないのです。
なぜなら、1は、すべてを含み持った元数だからです。
つまり、1しか無いなら、全体は、1であり、また、1しか無いなら、1が全体なのは、当たり前だからです。
1しか無い宇宙において、この真理は、絶対崩せないのです。
ゆえに、私は、1です。1は、私です。全体は、私です。私は、全体です。
このことは、今は、理解できないかも知れませんが、いずれ、解る時が、くるでしょう。
人の心の汚れは、まず、病気に現れます。次に、犯罪に現れます。そして、ゴミの多さに現れます。
この原因は、物質主義にあるのです。人類が物に傾けば、病気が多くなり、争いが(犯罪・戦争)が多くなり、ゴミが多くなるのです。
私たちは、沢山の物が無くても、生きてゆけるのです。
しかし、人間は、心の虚しさを物で満たそうとしますので、どうしても、物質主義に傾いてしまうのです。
今の社会を見てください! 国が音頭を取って国民の欲望を膨らませ、経済成長させようとしているではありませんか。
資本主義は、経済成長させなくては、成り立たない仕組みですから、どうしても、そのような政策を取らなくてはならないのです。
資本主義経済は、シロアリ経済です。
シロアリは、家が倒壊するまで、トコトン食いつぶします。
同じように、資本主義経済も、地球資源を、トコトン食いつぶしてしまうのです。
地球環境の保護を訴えながら、経済を成長させなくてはならない矛盾に、みな、気付いているはずです。
でも、豊かな生活を望む人の欲望が、矛盾に目を背けさせているのです。
このまま、シロアリ経済を続ければ、地球環境は、持たないでしょう。
それどころか、地球は、灰色の星になってしまうでしょう。
何が、ゴミを多くさせているのか? 何が、人を物に縛り付けているのか?
政治家も、科学者も、教育者も、勿論、一般人も、分かっていません。
でも、学びの友の皆さんは、分かっているはずです。
せめて、分かっている、私たちだけでも、気を付けて生きたいものです。
2017年2月1日 更新
私たちは、永遠に、夢から醒めることはないのです。
なぜなら、私たちは、永遠に、夢の中に留まっていなければ、存在できないからです。
今、私たちは、夢を見ているのです。
でも、その夢から目覚めたと思っても、それも、夢なのです。
また、その夢から目覚めたと思っても、それも、また、夢なのです。
例え、自覚の境界線を超え、神人になったとしても、神人になった夢を見ているのです。
なぜ、夢から醒めることができないのか?
それは、表現宇宙から、永遠に出られないからです。
夢を見続けている、私たちがいるから、表現宇宙は、存在できるのです。
もし、私たちが、本当に夢から醒めたら、その瞬間に、神人も、表現宇宙も、消えてしまうのです。
本源におられる神は、夢を見ないのです。夢を見ないがゆえに、そこには、何も無いのです。そんな、何も無い宇宙では、何の意味もないので、神は、自分の意識を放射して、夢を作ったのです。
意識が、夢を見ている時だけ、何かが有るのです。何かがある状態は、夢の状態なのです。
神は、自分の意識を放射し、夢を見られる人間という生き物を、お作りになりました。
だから、人間だけが、夢を見られる、特殊な能力を持っているのです。
私たちは、始めから、夢を見ていたし、今も見ているし、永遠に夢を見続けるのです。
その夢は、節目を超えた、神人でも、永遠に見続けるのです。
それも、進化し、少しずつ夢から覚めるにしたがって、苦しい夢から、楽しい夢を見るようになるのです。
神が、このような宇宙を創られたのは、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの夢を、永遠に見せるためだったのです。
夢は、大勢で見るものではありません。一人で見るものです。
それは、私たちが、主観宇宙の主だからです。
ですから、自分だけ見る一種類の夢しか無いのです。
主観宇宙の中から、永遠に出られないのは、永遠に夢から醒めることがないからです。
2017年2月15日 更新
※ 宇宙を、頭(知識)で知ろうとしている人は、未だ、魂の幼い段階の人です。
心(実感)で知ろうとしている人は、相当、魂の熟した人です。
あなたは、本当の「自分」を観た事がありますか?
“私は、毎日、自分を見ています” と、あなたは、言うかもしれませんが、その自分(肉体の自分)は、ニセモノの自分であって、実在している自分ではないのです。
なぜなら、肉体の自分は、必ず、消えて無くなる自分だからです。
あなたは、自分って言いますけど、「自分」って言葉ですね。言葉が自分を表しているわけではないのです。言葉の中身が自分を表しているのです。
私たちは、言葉に惑わされ、肉体の自分を本当の自分だと誤解しているのです。
この宇宙の真実は、見えないモノの中にあるのです。
なぜなら、見えないモノが、生きているからです。見えないモノが、実在しているからです。
生きているモノは、見えないのです。実在しているモノは、見えないのです。
反対に、生きていないモノ(肉体)は、見えるのです。実在していないモノは、見えるのです。
もう一つ知って欲しいのは、生きている、と言う意味は、意識を持っている、と言う意味です。実在している、と言う意味は、意識を持っている、と言う意味です。
では、そのことを踏まえ、本当の自分を考えてみましょう。
本当の自分は、見えないのです。生きているモノは、見えないからです。実在しているモノは、見えないからです。意識は、見えないからです。
では、見えないモノは、有限でしょうか? 無限でしょうか?
見えないモノは、至るところにあるわけですから、見えないモノは、無限です。と言うことは、本当の自分は、無限であると言うことになります。
もう、本当の自分が解かったと思いますが、更に、念を押して言いますと、神は見えません。生命も見えません。エネルギーも見えません。本当の自分も見えません。
それは、生きているモノだからです。実在しているモノだからです。意識そのモノだからです。
すべてのモノの本質は、見えない意識なのです。その意識を本当の自分は、持ってますから、本当の自分は、「見えないものである」と言うわけです。
その見えないモノは、無限ですから、本当の自分は、無限であると言うわけです。
このように、本当の自分は、見えませんが、見えなくては、自分の存在がないので、見えるモノの中に入って、自分を表現しているのです。
石を自分の体として、花を自分の体として、鳥を自分の体として、人間を自分の体として、星を自分の体として、宇宙を自分の体として、・・・・。
ですから、どんな体を持とうとも、本当の自分は、変わらないのです。
さあ、本当の自分が何なのか? 再確認してください。
この自覚を深めてください。
※ 見えないモノが、本当にあるモノである。見えないモノが、実在するモノである、という意味の深さを知ってください。
その理解力の深さが、自覚を高めるのです。
2017年3月1日 更新
神を想えば、なぜ、幸せになれるのか?
理由は、想念は、願いを成就させる、力を持っているからです。
私たちの人生は、すべて想念が作ってきました。
入学も、就職も、結婚も、みな、自分の想念によって成就させたのです。
その想念を使って、神を想えば、幸せになれるのは、当たり前なのです。
何せ、これまで、人生を作ってきた実績が証明しているのですからね・・・。
想念は、原因です。 成ったのは、結果です。
「原因と結果の法則」は、科学的法則ですから、想念したことが、成就するのは、当然なのです。
今、あなたが、苦しいのは、苦しいことに想念を使ってきたからです。
誰も、あなたを、不幸にしていないのです。
あなたの想念が、あなたを、不幸にしてきたのです。
もし、想念を良く使っていたら、今、あなたは、幸せになっているはずです。
どうか、そのことに、気付いてください。
といっても、この世の良いことを思っても、この世の良いことしかやってきません。
それでは、神を求めている人は、満足できないでしょう。
神を求めている人は、神を想ってください。
原因と結果の法則が、間違いなく、神に近づけてくれます。
つまり、神を想えば、神と似たような性質になるので、欠点が無くなります。
当然、業は、消えます。 何よりも、原子核が増えます。
私たちは、こんな凄い想念を持っているのですから、利用しなくては、もったいないです。
私は、今、もの凄いことを言っているのですよ!
宇宙のどんな宝物を発見したよりも、凄いことを言っているのですよ!
ぜひ、神の自覚を得るために、想念を使ってください。
神の自覚が得られたら、幸せの中に入れるのですから・・・。
2017年3月15日 更新
※ なぜ、神の自覚が得られたら、幸せになれるのかと言いますと、神意識そのものが、幸せそのものだからです。 意識そのものは、幸せなのです。
その同じ意識を、私たちは、持っているのですから、本来、私たちも、幸せそのもののはずなのです。
ただ、私たちは、その意識を悪想念に変えているため、幸せになれないだけです。
それは、自分の事を、人間だと思っているからです。
自分が、神だと思えれば、神意識は、幸せですから、幸せの中に入れるのです。
真我意識(絶対宇宙)が、すべての大本ですが、真我意識だけでは、真我意識の存在がないので、真我意識は、自分を認めてくれる、自我意識(相対宇宙)を創り、その意識を通して、自分を認めてもらおうとしているのです。
悲しいけれど、どんな偉大な能力を持っている真我意識でも、自分を認めてくれる自我意識が無くては、自分の存在が無いのです。
また、自我意識も、真我意識が無くては、自分の存在が無いわけですから、厭でも、真我意識を認めてやらなくてはならないのです。
「真我は自我を創って自分を認めてもらい、自我は真我に創られて真我を認めることによって自分を存在させている」と言う、不思議な関係にあるのが、真我と自我の間柄なのです。
言い換えれば、互いに足りない部分を補完し合いながら存在しているのが、真我意識(絶対宇宙)と自我意識(相対宇宙)の関係なのです。
これは、他人事ではなく、神と私たち(人間)の関係のことを言っているのです。
相手は、誰が創ったのでしょうか? 自分ではありませんか。
自分がいなかったら、相手はいないのですよ!
また、自分がいても、相手がいなかったら、自分はいないのですよ!
認めてくれる相手が無かったら、認められるモノは無いのです。
つまり、認めてくれる人間がいなかったら、認められる神は無いのです。
また、神がいなかったら、当然、人間も、存在しないのですから、神と人間は、相身互いの関係にあるのです。
ならば、どうして、人間は、小さな存在なのでしょうか?
人間が、神を存在させているのですよ!
人間がいなくては、神はいないのですよ!
だから、私は、「神と人間は、同じ価値がある」と言うのです。
皆さん、自分を小さな存在にしないでください。
「私は、神である!」と、堂々と、思ってください。
2017年4月1日 更新
※ 真我(神)と自我(人間)が同じなのは、この宇宙に、一つの意識しかないからです。
「神が人間を生み、人間が神を認めることによって、二つの自分が存在できる」、この痛し痒しの滑稽さを、解ってあげてください。
この宇宙に、問題視すべき拘り事など、何一つ無いのです。
私たちに、苦しみが生まれるのは、拘るからです。拘るということは、不自由になると言うことです。限定されると言うことです。
これでは、自由な魂が、苦しむのも無理ありません。
私たちの魂は、自由奔放な存在です。何でも想えるのです。何でも創れるのです。何でも出来るのです。何処へでも行けるのです。
そんな、自由な魂に、問題視すべき拘り事など、あるわけがないのです。
今、多くの人が、お金・地位・権力・人種・性別、あるいは、勝敗や損得などの拘りを持つ事によって、苦しんでいます。
でも、その拘り事は、人間社会が生み出した特有のモノで、絶対視すべき拘り事ではないのです。
特に、風習や慣習や俗習などの社会常識は、うまく立ち回れば、回避できる拘り事です。
この世の社会常識って、何ですか? 風習って、何ですか? 慣習って、何ですか? 俗習って、何ですか?
絶対、従わなくてはならない、決まり事ですか?
人の目さえ、気にしなければ、どうでも良い、拘り事ではありませんか?
これは、真理を知らないからです。
つまり、自分の本性を知らないからです。
真理を知らないと、社会常識に従わなくてはならない、錯覚に陥ってしまうのです。
だから、私は、真理を知って欲しいと願うのです。
どうか、この世の拘り事を捨ててください。人間が拘っている事などは、つまらない事なのですから・・・。
私たちが、従わねばならない拘り事は、宇宙の法則です。
これだけは、拘ってください。
2017年4月15日 更新
※ この世の社会常識に囚われると、柔軟な発想ができなくなります。
これは、悟りの障害になります。 良くよく、注意したいものです。
あなたは、どうして、否定語を使うのですか?
この宇宙に、否定すべき事が、一つだってありますか?
「肯定語を使おう!」と、私が言うのは、神が創られた完全な宇宙に、否定すべきことは、何も無いからです。
どんな事も、良いことなのです。どんな事も、有り難いことなのです。
それは、神が完全だからです。
その完全なる神が創られた宇宙を否定すれば、あなたは、自分を否定することになるのです。
なぜなら、あなたは、神によって創造された、神の子だからです。
ですから、決して、否定語を使ってはなりません。
このように言うと、「でも、悪がある、この世界で、否定語を使わなくては、会話になりませんよ。実際、今、あなたは、”決して、否定語を使ってはなりません!”と言う、否定語を使ったではありませんか?」と、反論するかも知れません。
確かに、私は、否定語を使いました。でも、この場合の否定語は、悪を否定し、善を肯定するための否定語ですから、肯定語になるのです。
確かに、この世界には、沢山の悪があるように見えます。
例えば、私たちは、ライオンが子鹿を襲う醜い姿を見せられます。
また、病気や、事件や、事故や、災害などで、苦しむ人を見せられます。
でも、その悪は、本当に悪でしょうか?
いつも言うことですが、悪は、善の裏返しなのです。悪は、善たらしめるための悪ですから、それは、悪ではなく、善なのです。
どんな悪も、成長のために必要な悪ですから、みな、善なのです。
悪がなかったら、私たちに、成長は無いのです。
否定語は、波動が低く、肯定語は、波動が高いのです。
ですから、否定語を使えば、運命が悪くなり、肯定語を使えば、運命が良くなるのです。
どうか、肯定語を多く使ってください。
2017年5月1日 更新
※ 人の運命は、光の強さによって、決まります。
光が強ければ、良い運命が、弱ければ、悪い運命が・・・。
その光の強弱は、想念が握っているのです。
ポジティブな想念を持てば、光は強くなります。
ネガティブな想念を持てば、光は弱くなります。
だから、私は、肯定語を使いなさいと言うのです。
肯定語は、光を呼び、否定語は、闇を呼ぶ、と言うことです。
どうして、完全な神が、幼い子供たちに、難しいことをさせるでしょうか?
神は、簡素・簡潔・単純・簡単なことが、好きなのです。
その良い例が、一番必要なモノほど、私たちの身近に、沢山置き、しかも、簡単に手に入るようにしてくれている点です。
例えば、
そんな、神が、私たちに、難しいことをさせるわけがないのです。
そう考えると、瞑想も、簡単に、できるようにしてくれているはずです。
そうです。
瞑想は、ただ、自分の想念を使って、神を想い続けることです。
自分の想念は、自由意志で使えます。誰にも邪魔されません。どこに行く必要もありません。また、何の技術もいりません。勿論、お金もかかりません。
やる気になったら、いつでも、できます。
瞑想を難しく説いている人は、瞑想を知らない人です。
どうか、瞑想を難しく考えないでください。
2017年5月15日 更新
※ 瞑想は、「私は、神であった!」と、心の底で思えるようになることです。
この、心の底で思えた意識状態を「自覚した!」と言うのです。
ただし、どのような意識状態なのかは、人に教えることはできません。
自覚は、味わった(体験した)、当人しか解らないのです。
だから、途中で諦めてしまう人が多いわけです、でも、諦めず、瞑想を続けていれば、必ず、自覚できる時がきます。
それは、原因と結果の法則が、実現させてくれるからです。
いつも、言うことですが、「私は、神であった!」と、知識的に知っただけでは、駄目なのです。心の底で、思えなくては、自分が変わらないのです。
私たちは、永遠の昔から、神だったのです。これから、神になるのではないのです。すでに、神なのです。
ただ、記憶を失い、神だと思えなくなっているだけです。
記憶を蘇らせるためには、瞑想するしかないのです。
瞑想し、一定量の原子核が増えれば、自動的に、「私は、神であった!」と、心の底で思えるようになるのです。
その、心の底で思えた意識状態を、「自覚の境界線を超えた」と言うのです。
瞑想は、観念的なものではありません。現実的なものであり、実際的なものであり、真実的なものです。
瞑想を、お遊びでやっている人は、瞑想する資格はありません。
どうか、真剣にやってください。
「人生で一番大切なことは、瞑想である!」と言う、自覚を持って、瞑想に挑んでください。
どんな人も、刻々と進化の道を歩んでいます。
これは、命を持った、すべての生き物に言えることです。
この宇宙は、進化へ、進化へと、突き進んでいるのです。
次のV字の進化図を見てください。
V字の左側は、暗黒の時代です。右側は、光明の時代です。
なぜ、左側は、暗黒の時代で、右側は、光明の時代かと言いますと、左側にいる人は、神を認めない、暗闇の中で生きており、右側にいる人は、神を認める、光明の中で生きているからです。
動物から人間に進化したばかりの幼い魂は、物質世界(表現世界・相対世界)が珍しいのです。
ですから、どうしても、モノの虜になるのです。
でも、どんなに、物を得ても、心は満足しません。
そこで、満足させてくれそうな、権力や、地位や、名誉など、を追いかけるようになるわけですが、得ても、得ても、虚しさが、増すばかりです。
地球人類の70~80%は、暗黒の時代に生きている人たちで、特に、冨と権力を欲しいままにしている人たちは、進化のどん底にいると言っていいでしょう。
でも、彼らも、日々、進化しており、やがて、金や、物や、権力で、幸せが得られないことに気付きます。
ここが、暗黒の時代から、光明の時代に入る、ターニングポイントです。
光明の時代に入った魂は、次のような疑問を持つようになります。
「心を満たしてくれるのは、精神的なモノでは無いだろうか?」と・・・そこで、宇宙に目を向けたり、宗教に入ったり、哲学を学んだりするようになります。
これが、神に顔を向けるようになった、第一歩です。
つまり、「知る」時代の幕開けです。
何事も、「知る」ことから始まるのです。
知って、体験し、理解し、気付き、自覚に入るのです。
これは、誰もが、通る道で、決定済みなのです。
ただし、その道筋は、自我人間には分かりません。
分からないから、手探りで道を探し、手探りで歩んで行かねばならないわけですが、それは、正に、重き荷を背負って、山道を登るがごとしです。
このV字の進化図を見て、今、自分は、どの辺りに位置しているのか、確かめてみてください。
2017年6月1日 更新
「虚」とは、見えるモノ(物質)を意味し、「実」とは、見えないモノ(意識)を意味します。
「虚」の世界は、客観的見方をした時に現れる、非真実で、「実」の世界は、主観的観方をした時に現れる、真実です。
客観的見方をすると、外側に沢山のモノが存在することになりますので、客観的見方をしている人は、外側のモノが、自分に害を与える、錯覚に陥るでしょう。
今、地球人類は、その錯覚に陥り、戦争までしているわけです。
でも、虚は、実際に無いモノですから、本来、「虚」が「虚」に害を与えることなどできないのです。
つまり、「虚の他人」が「虚の自分(肉体)」に害を与えることなどできないのです。
錯覚した、実(思い)が、虚を動かし、虚を害しているだけです。
本来、この宇宙には、一つの「実」しかありません。
つまり、一つの真実しかありません。
それは、宇宙に、意識は、一つしかないからです。
一つの意識しか無いから、すべてが、自分になるのです。他人がいないので、敵対することも、害し合うことも、ありません。
「虚」は、光に映し出された、影です。
「実」は、映し出している、光です。
影は、光なしに生まれないし、影なしに、光の存在はありません。
だから、光と影は、同等の価値があるのです。
でも、実際に有るのは、光の方です。
つまり、
実(光)は、永遠に存在する、真実です。
虚(影)は、映されている時だけある、非真実(幻)です。
でも、虚の体験無しに、実が解らないので、私たちは、虚の世界に出てきて、実を解ろうとしているのです。
それほど、虚と実は、切っても、切れない、関係にあるのです。
だから、物質を軽んじてもならないし、意識を軽んじてもならないのです。
2017年6月15日 更新
※ あなたの残りの人生で、真理を求めること以外、何か、やるべきことがありますか? ないはずです。
それは、何がホンモノで、何がニセモノか、解ったからです。
解っていない人は、真理から離れていって、いいのです。
でも、解った人なら、どうか、真理を求め続けてください。
もし、解っていて、真理から目を背けるなら、あなたは、心穏やかに生きられないはずです。
そんな、心穏やかでない人生を、あなたは、送りたいのですか?
神は、一番必要なモノを、身近に置いてくれています。
私のホームページも、その一つです。
さあ、私のホームページから、必要なものを受け取ってください。
それは、お金もかからない、何処へ行く必要もないのですから・・・。
神とは、いかなる、存在でしょうか?
神って、一体、何なのでしょうか?
神って、何処にいるのでしょうか?
神って? 神って? 神って?・・・・。
さあ、神の正体に迫ってみましょう。
今まで、神を見た者はいません。
神は、
見えないのです。
触れないのです。
聞くことができないのです。
味わうことができないのです。
嗅ぐこともできないのです。
神は、私たちの五感に、かからない存在だからです。
ですから、神の側に行くことは、永遠に、できません。
永遠に、掴みようのない存在、永遠に、知りようのない存在が、神なのです。
あえて言うなら、神とは、
意識です。
意志です。
意思です。
理念です。
知恵です。
命です。
光です。
力(エネルギー)です。
愛です。
バランス(中庸)です。
絶対善なる存在です。
永遠不滅なる存在です。
完全無欠なる存在です。
無限無窮なる存在です。
ゆえに、無限の発展性と、無限の可能性と、無限の創造性を、秘めています。
その神は、すべての創造物を、創り、動かし、働かせ、生かしているのです。
すべての創造物の背後に、おられるのが、神なのです。
その神のことを、私たちは、生命とか、霊とか、呼んでいるわけですが、どんな言葉を使っても、表しようのないのが、神なのです。
では、その表しようのない神を、どうすれば、知ることができるのでしょうか?
それは、「1」を知ることです。
神は、この宇宙に、一様しか、おられません。一様しか、おられないがゆえに、すべては、神なのです。
「私は、神である! あなたは、神である! すべてのモノは、神である!」と言えるのは、神が、「私に」、「あなたに」、「すべてのモノに」、なったからです。
それは、神は、「1」だからです。「一様」だからです。
と言うことは、「自分」を知れば、神を知ることができる、と言うことです。
覚者が、「神を知るには、その子を知れば良い!」と言うのは、「自分」は、「その子」だからです。 つまり、神の分身だからです。
あなたは、「自分! 自分!」と、よく言いますが、「自分」とは、「神」が、「自」らを分けたのです。 自分は、神なのです。
だから、自分を知れば、神を知ることができるのです。
神を知る、こんな簡単な方法があったのです。
でも、人間は、誰も、「自分」を、神だと思っていません。
それどころか、神を畏れ多い存在にして、遠くに離しています。
神は、手よりも、足よりも、近くにおられるのです。
「おい!」と言ったら、「はい!」と、すぐに応えてくれるのが、神なのです。
神の言葉が違うからと言って、神の取り合いをしてはなりません。
言葉が、神を表しているのではないのです。神の中身が、神を表しているのです。
ゼウスも、アラーも、キリストも、ブッタも、同じ神です。
だから、宗教戦争などしてはならないのです。
2017年7月1日 更新
※ 神が、1(一様)なら、どんなモノも、神であるはずです。
あなたの魂も、神です。 あなたの肉体も、神です。
神は、完全ですから、あなたの魂も、完全です。あなたの肉体も、完全です。
ですから、あなたの魂が、迷うこともないし、病気になることもありません。
あなたが、憎んでいる人も、嫌いな人も、厭なモノも、みな、神です。
だから、決して、嫌ってはなりません。嫌えば、神を嫌うことになるからです。
どうか、自分を愛してください。人を愛してください。すべてのモノを愛してください。
できるなら、自分を、神だと、心の底で思えるようになってください。
心の底で思えるようになったら、もう、あなたの所に、病気や事故災難が、やってくることはないでしょう。
(2017年1月22日 大阪勉強会動画より)
サタンとは、
「どうなってもいい!」と言う、投げやりな心です。
「私なんか死んだ方がいい!」と言う、ステバチな心です。
「嫌だ! 厭だ!」と、逃げ回る心です。
「面倒くさい!」と、煩わしがる心です。
これ、すべて、あなたの弱い心が作ったサタンです。
そんな、心になると、体調不良になるので、ますます、弱気になってしまいます。
それに、漬け込んでくるのが、周りの悪的波動です。
そうなると、本当の自分を見失ってしまいます。
肉欲に、負けてはなりません。
感情に、負けてはなりません。
外側の人の誘いに、負けてはなりません。
外側の現象(幻)に、負けてはなりません。
肉体なんて、実際には、無いのですよ!
この形の世界なんて、実際には、無いのですよ!
なのに、無いものに惑わされ、自分を見失うなど、愚かです。
神は、どうして、私たちに、理性と知性を与えたと思いますか?
欲望と感情を、知性と理性で、制御するためではありませんか。
それが、使えないようでは、私たちは、動物に成り下がってしまうのですよ。
今の人類を見てください。殆どの人が、欲望と感情に翻弄された生き方をしています。
と言うことは、今の人類は、動物とあまり変わらないと言うことです。
真理を学んでいる、皆さんだけでも、万物の霊長として、欲望と感情に翻弄されない生き方をしてください。
2017年7月15日 更新
※ 本当の私たちは、有るものです。
なぜなら、私たちは、神の意識によって創られた、心だからです。
心は、永遠に存在するのです。
私たちは、肉体では、無いのです。物質では、ないのです。本当に有る心です。
どうか、心を強くしましょう。心を強くすれば、どんな誘惑にも勝てます。
心を強くすれば、
心を強くする方法は、三つです。
一つは、社会体験です。
二つは、瞑想です。
三つは、思索です。
この三つをやれば、間違いなく、心は強くなります。
なぜなら、原子核が増え、光(エネルギー)が強くなるからです。
光(エネルギー)が強くなれば、心も強くなるのです。
闇や、弱みや、悩みや、病は、光の無い状態ですから、光が強くなれば、そんなモノは退散するしか無いのです。
どうか、原子核を増やし、弱気な心を蹴散らしてください。
セミさんたちが、うるさく鳴いています。
カエルさんたちが、うるさく鳴いています。
鳥さんたちが、うるさく囀っています。
アリさんたちが、せわしく動いています。
雀さんたちも、鳩さんたちも、何もかもが、せわしく動いています。
それも、短命な生き物ほど、時間を惜しまず、動いています。
彼らは、人間のように、乗り物は使っていません。自分の体を使って動いています。
彼らは、どうして、そのように、健気に動くのでしょうか?
それは、命のある間に、できるだけ、原子核を増やしたいからです。
私たちも、見習いたいものです。
この表現宇宙で、動いていないものは、一つもありません。
星雲も、恒星も、惑星も、衛星も、小惑星も、彗星も、流れ星も、みな、動いています。
地球の中においても、空気・水・土・原子など、動いています。
物質を、絶対零度に凍結しても、動きを止めることはありません。
それは、原子核を増やしたいからです。
神は、動くことによって、原子核が増えるよう仕組まれたのです。
それを、自然界は、私たちに、教えてくれているのです。
どうか、動くことを嫌わないでください。
体の動かせない人は、想念を動かしてください。
つまり、瞑想と思索をしてください。
動けば、動くほど、原子核が増えるのですから・・・。
2017年8月1日 更新
思索の題材・・・
すべては幻
この宇宙に、存在するモノは、あなたの意識が認めなければ、存在しません。
今、あなたが、認識している、地球も、自然も、人も、あなたが、意識しなくなった途端に、消えてしまうのです。
なぜ、意識しなくなった途端に、消えてしまうかと言えば、あなたの意識が、そのモノを創っていたからです。
あなたが、意識している時は、あるけれど、意識しなくなった途端に、無くなってしまうと言うことは、そのモノは、本当に有ったからでしょうか?、無かったからでしょうか?
有ったとしたら、意識していた時だけ、有ったのでしょうか?、意識していない時も、有ったのでしょうか?
意識していない時も、有ったとしたら、それを、誰が、証明してくれるのでしょうか? 証明できないのではありませんか?
と言うことは、あなたの意識の中の現象にしか過ぎない、と言うことです。
外側に、何かがあり、その何かが、勝手に自分の意識の中に入ってきたように見えますが、外側の何かが、自分の意識の中に勝手に入ってくることは、絶対ありません。
もし、あるなら、結果(幻)が、原因者(真実)の中に勝手に入ってきた事になり、この宇宙は、逆さまになってしまいます。
認識する前に、何かが無い理由は、原因に先んじて、結果が有るわけがないからです。
認識した何かは、意識した時に生まれた結果なのです。
結果が、結果を生むことも、結果が、原因を生むこともないのです。
原因が、先にあり、後に、結果が生まれたのです。
確かに、私たちの目には、結果が、先にあったように見えるかも知れません。
でも、その結果は、原因者の認識によって創られた結果なのです。
あなたは、「私は、そんなモノを作った覚えはない!」と、言うかもしれませんが、あなたが、認識しなかったら、そのモノは無いのですから、間違いなく、あなたが、作ったのです。
では、そのモノは、本当に有ったのでしょうか? 無かったのでしょうか?
私たちは、どうして、幸せな気分になるのでしょうか?
幸せの気分になる要素は、一体、何なのでしょうか?
まだ、あるかもしれませんが、このような要素が、幸福感を生み出しているのではないでしょうか?
それは、これらの要素が、心に光を呼び込むからです。
私たちの心は、光に満たされれば、幸福を感じるようにできているのです。
その意味では、幸せの要素は、そのまま、光の要素でもあるわけです。
その光は、神、ご自身ですから、神そのものが、幸せの要素でもあるわけです。
だから、私たちは、神を想っている時、幸福感に満たされるのです。
2017年8月15日 更新
※ 五官で感じるモノは、みな、現象であり、幻です。
なぜなら、必ず、消えて無くなるからです。
意識で感じるモノは、永遠に無くなりません。
それは、真実だからです。
ですから、目で見る光は、消えて無くなる、幻の光です。意識で観る光は、永遠に無くならない、真実の光です。
太陽の光は、現象の光です。 幽界の太陽の光も、現象の光です。 オーラの光も、現象の光です。 月の光も、星の光も、オーロラの光も、雷光も、虹の光も、電球の光も、現象の光です。
また、まぶたの裏側で見える、ギラギラした光も、ピカッとした光も、リング状の光も、現象の光です。
だから、光が見えたからと言って、喜ばないでください。
私たちの目で見える光は、粗い波動の光だから、目で見えるのです。
確かに、どんな光も、真実(神)から来ていることは、間違いありません。
でも、その光は、表現宇宙に降りてくると、粗い光に変わってしまうのです。
真実(神)の光は、そんな粗いものではないのです。何とも言えない穏やかな光です。心を溶かすような、心地よい光です。朝日が部屋に差し込んできたような、爽やかな光です。
それは、内的光です。 自分自身が光るのです。
ですから、真実の光に触れたら、気持ちの良い状態になるのです。
真実の光は、幸福の要素を、すべて持っているため、真実の光に触れたら、幸福感に満たされるのです。
真実の光は、神の意識ですから、神そのものであり、幸福そのものなのです。
その真実の光は、心(意識)の目でしか観えません。観せてくれるのは、理解力です。理解力が増し、自覚が高まれば、自分の心(意識)の中に、真実の光が観えてくるのです。
その真実の光は、永遠に無くなりません。
本モノは、決して無くならないのです。 ニセモノは、無くなるのです。
このように、光には、現象の光と真実の光の二種類の光があるのです。
どうか、正しい光の見極めをしてください。
※ 瞑想をしていて、光やビジョンが見えたと言う人がおりますが、これは、決して、悪いことではないのです。
たとえ、現象の光やビジョンであっても、ホンモノの光を観るコツを掴むことにつながるからです。
ただし、囚われてはなりません。
多くの人が、現象から抜け出せないのは、見えるモノに囚われてしまうからです。
何でも、体験することは、良いことですが、目的を見失うようなことだけはしないでください。
この宇宙は、きっちりとした、分業制が敷かれています。
覚者が、単独行動しているのは、分業制の表れの一つです。
覚者一人ひとりは、自分の使命に徹しているのです。
意識の世界においても、分業制は、守られています。
つまり、真我意識は、肉体(宇宙)を健康・健全へ引っ張る役割に徹し、自我意識は、原子核(魂)を大きくする役割に徹しているのです。
この分業制が、守られている限り、私たちは、一生、健康でいられるのです。
しかし、残念なことに、地球人類は、分業制を守っていないのです。
殆どの人が、心配・恐怖・イライラ・怒り・憎しみ・恨み・とりこし苦労など、様々な悪想念を肉体に介入させているのです。
これでは、生命力は、健全な働きをしてくれません。
肉体のことは、生命に任せたら良いのです。
あなたの身体の中で働いている生命力は、中途半端な力ではないのです。
宇宙をも創造するくらいの偉大な力を秘めているのです。
その生命力に委ねれば、肉体は、活き活きと働くのです。
もう、健康食品もいりません。健康診断を受けに行く必要もありません。
さあ、役割分担を守りましょう。
2017年9月1日 更新
※ あなたの想念は、何でも作るのです。良いことも、悪いことも・・・。
ならば、その想念を、良いことに使ったらどうですか?
悪いことに使っている人は、自分で自分の首を絞めているようなものです。
どうか、想念を良いことに使ってください。
このような、質問を受けました。
“自分の思い通りに生きたら良いのでしょうか?” と・・・。
そうです。あなたの思い通りに生きたら良いのです。
なぜなら、人間は、今の自分の原子核の量に相応した、生き方しかできないからです。
つまり、今の原子核の量に相応した、思いしか持てないし、話せないし、行動できないからです。
あなたは、そうして、今日まで、自分の人生を作ってきたのです。
確かに、苦しいことや、悲しいことが、あったかも知れません。
でも、その苦しみや悲しみが、あなたを、成長させてくれたのですから、あなたの生き方は、正しかったのです。
ですから、これからも、あなたの思い通りに生きてください。
ただし、今の自分に満足していてはなりません。
自分の思い通りに生きながらも、次の二つのことだけは、やってください。
この二つを、やっていれば、原子核が増えますので、自分の思い通りの生き方が、高度になります。
神の創られた世界は、うまく出来ているもので、自我の思いで、どのような道を選び、どのような生き方をしても、みな、良かったのです。
皆さんは、そうして、今日まで、成長してきたわけですから、今、苦しいからと言って、失敗の人生だと思わないでください。
この宇宙に、失敗など、無いのです。
どんな生き様も、成功です。
なぜなら、必然しか無いからです。
2017年9月15日 更新
※ そう思ったのも、必然、そう話したのも、必然、その行為も、必然です。
その生き方しか、できないからです。
しかし、それで、成長して来られたのですから、それは、良かったのです。
宇宙が、完全なのは、必然のすべてが、進化成長に結びついているからです。
人間社会では、何か事が起きると、起こした人を探し出して罰します。
それは、二度と起こされては困るからですが、これは、社会の秩序を保つためには、必要なことです。
でも、人を罰することなど、天に任せておいたら良いのです。
なぜなら、事を起こした人は、原因と結果の法則によって裁かれるからです。
大切なのは、人を罰することではなく、起きた事から学ぶことです。
誰かが、悪いことをしなければ、事は起こりません。事が起きなければ、何も体験はできません。それでは、個人も、社会も、成長できないのです。
一般人は、事の起こりに気を取られ、学ぶことを忘れています。
大切なのは、起きた事から学び、成長することです。
だから、私は、事の起こりなど、どうでも良いと言うのです。
繰り返します。
大切なのは、体験し、学ぶことです。学べば、必ず、成長します。
と言うことは、事を起こしてくれた人は、有り難い人だと言うことです。
ですから、一般人は、仕方ないにしても、皆さんは、事を起こした人を責めないことです。
事を起こしてくれたお陰で成長できたのですから、有り難いと思うことです。
2017年10月1日 更新
※ もし、事を起こした人を責めるなら、宇宙を創造した神を責めなくてはなりません。
神は、厳しい表現世界を創ったのですから・・・。
学びの友の中に、過去の人生を悔やんでいる人がいるようなので、一言、ご注意申し上げます。
あなたは、今日まで、出来ることを精一杯やって生きて来たのです。
それは、その時、そう思った事を実行したまでです。
それは、必然で、良かったのです。
確かに、苦しいことが、あったかも知れません。
でも、そのお陰で、真理に出会えたのですから、今日までの人生は、大成功だったのです。
過去の人生を振り返り、自分を責めても、何の益にもなりません。
大切なのは、今を、どう生きるかです。
どうか、今を、真理に生きてください。
今、真理に生きたら、過去の黒石は、すべて、白石に変わるのですから・・・。
2017年10月15日 更新
※ “ 私は、真理を実践しているのに、苦しみが無くならない!” と言う人がおりますが、それは、いまだに、悪想念を使っているからです。
苦しみは、業の消えている姿ですから、悪想念の上塗りさえしなければ、苦しみは無くなってゆくのです。
でも、苦しいことが来ると、どうしても、また、苦しい想念を使ってしまいます。
それが、いつまでも、苦しみの無くならない理由です。
悪想念を持たないためには、外側の現象に負けない強い心を育てる必要があります。難しいかも知れませんが、どうか、強い心を育ててください。
強い心を育てる方法は、
私たちは、神の分身ですから、もともと、自己開発能力が備わっているのです。
それは、想念を持っているからです。
でも、幼い時期には、そのことを知りませんので、想念を自己開発に使おうとしません。
だから、地球人の殆どが、小さな能力に甘んじて生きているのです。
皆さんは、そうであってはなりません。
ぜひ、想念を使って、自己開発してください。
自己開発の仕組みは、次のようになっています。
時間の中で生きている、私たちは、時々刻々と原子核を増やしています。
原子核がある一定量に達すると、正しい指導者に出会うようになっていますから、そこで、原子核を増やす方法を学びます。
学んで、原子核が増えれば、宇宙の仕組みが理解できるようになります。
まず、①宇宙の法則が解ります。
次に、②想念の使い方が解ります。
そして、③瞑想の方法が解ります。
①、②、③を実践すれば、潜在していた能力が目を覚まします。
その能力を生活の中で試すと、”なるほど、自分は、このようなことが出来るのだ!” と言うことを知ります。
自分の能力を拡大してゆけば、いずれ、私たちは、様々な生き物を創造できるようになるでしょう。星を創造できるようになるでしょう。銀河を創造できるようになるでしょう。
このように、原子核を増やし、自分の能力を試しながら、成長してゆくのが、自己開発の仕組みなのです。
地球人類は、自己開発できる、偉大な想念を持ちながら、使っていないのです。
学びの友の皆さんは、自分の想念の偉大さを知ったわけですから、ぜひ、自己開発に使って、能力を拡大してください。
2017年11月1日 更新
※ 自分の能力の可能性を追求しているのは、私たちのような、瞑想している者だけです。 瞑想は、自己開発の最良の道具なのです。
あなたは、自分を無くすことができますか? 絶対できないはずです。
なぜなら、自分が無ければ、何も始まらないし、何もあり得ないからです。
つまり、過去も無いし、今も無いし、未来も無いのです。
親も、子も、兄弟も、友達も、無いのです。
鉱物も、植物も、動物も、何も、無いのです。
勿論、地球も、宇宙も、ありません。
自分と言う認識者がいなければ、認識される相手も、認識される宇宙も、あり得ないのです。
それは、自分が認識し、「相手を」、「宇宙を」、創っているからです。
「私は、相手を創った覚えなどない!、宇宙を創った覚えなどない!」と言っても、自分が認識して、相手を創り、自分が認識して、宇宙を創っているわけですから、絶対否定できないのです。
こう言えるのは、宇宙に、たった1つのモノしか無いからです。
その、たった一つのモノが自分ですから、創った覚えがなくても、間違いなく、自分が創ったのです。
他に、誰かがいるなら、誰かに頼んで、創ってもらうことも可能でしょうが、自分しかいないのですから、自分が、創るしかないのです。
あなたは、今、自分がいる事実を否定できますか? 絶対、否定できないですね。
ということは、自分は、たった1つのモノであるという証拠なのです。
ゆえに、自分を無くすことは、絶対、できないのです。
2017年11月15日 更新
※ 自分とは、神が「自」らを「分」けたと書きます。
この自分は、絶対、無くなりません。
もし、無くなるなら、神が無くなるからです。
神は、永遠不滅の存在ですから、神は、絶対、無くならないのです。
と言うことは、自分も、絶対、無くならない、と言うことです。
日本には、何々道と言う極めるべき道が、沢山ありますが、この何々道と言う道は、想念を一つのこと(道)に集中すると言う意味で、瞑想のことを言っているのです。
私たちが、日々、やっている、社会体験も、想念を集中しなくてはできません。
買い物をするときには、買い物に、想念を集中してやっています。
仕事をするときには、仕事に、想念を集中してやっています。
遊びに行くときには、遊びに、想念を集中してやっています。
その意味では、社会体験も、社会道と言う、一つの道になるのです。
不動心を極めるために行われている、花道も、茶道も、剣道も、柔道も、想念を集中してやらねばできませんので、結局、瞑想の技術を磨いていることになるのです。
このように、社会体験も、道を極める何々道も、すべて、瞑想の技術を磨いていることになるのです。
(家族体験も、道の一つですから、家庭道になるでしょう。)
2017年12月1日 更新
※ 瞑想とは・・
一点から出てきた、意識核を、一点に帰す(集める)作業です。
一点から出てきた、光を、一点に帰す(集める)作業です。
一点から出てきた、命を、一点に帰す(集める)作業です。
それは、
宗教がするのではありません。
キリストがするのでもありません。
釈迦がするのでもありません。
外側の誰かが、何かが、するのではありません。
自分の想念がするのです。
それは、自力です。自分しかいないからです。
ですから、この宇宙に、他力で、何かを得ることは、絶対ないのです。
今、あなたは、自分の存在を感じていますね。 どうして感じられるのですか?
それは、今、あなたが、存在しているからでは、ありませんか?
今、あなたが、存在していなければ、今、あなたは、自分を感じていないはずです。
このことから言っても、今、あなたが、存在している事実は、否定しようがないのです。
と言うことは、あなたは、永遠の昔にも存在していたし、永遠の未来にも存在すると言うことです。
なぜなら、今、あなたが、いるのは、過去に、あなたが、いたからであり、また、未来に、あなたが、いるのも、今、あなたが、いるからです。
今、あなたが、存在していること自体が、永遠の過去にも存在していたし、永遠の未来にも存在する証しになっているのです。
それは、今のあなたの存在が、原因点となっているからです。
今、あなたが、存在しているのは、結果です。
今、結果が有ると言うことは、過去に、原因が有ったからです。
その過去の原因は、その前の原因の結果です。
その結果は、その前の前の原因の結果です。
このように、この原因と結果の輪廻は、永遠に続くのです。
では、最初の原因は、いつ、どこから、生まれたのでしょうか?
この宇宙は、無限であり、永遠ですから、最初がありません。
ですから、原因があるわけがありません。
と言うことは、あなたは、原因無き原因者であると言うことです。
未来も同じです。
今、あなたが、存在している結果は、すでに、未来のあなたの存在の原因を作り、未来のあなたの存在の結果を生み出しています。
その未来のあなたの存在の結果は、更に、その未来の未来のあなたの存在の原因を作っています。
このように、あなたが、今、存在していることが、未来永劫、あなたを存在させることになるのです。
もし、あなたが、いなければ、宇宙の存在も、神の存在も、認めてやれませんから、宇宙も、神も、存在できません。
認める者が、存在しなかったら、認められる者が、存在しないのは、当然だからです。
審判員のいない試合は、成立しないのです。
あなたは、審判員のような存在なのです。
だから、神が存在していた時には、すでに、あなたは、存在していたし、あなたが、存在していた時には、すでに、神も存在していたのです。
と言うことは、あなたと、神とは、同格だと言うことです。
同格どころか、あなたは、神そのものなのです。
2017年12月15日 更新
※「誰の宇宙でも無い、自分の宇宙である!」と言うのは、自分の宇宙以外ないからです。
だから、誰の成長を願う必要もなければ、誰の幸せを願う必要もない!
ただ、自分の成長のみ考え、生きたら良いのです。
自分が成長すれば、自分の宇宙に登場する、すべての者が成長するからです。
それは、自分しかいないからです。
自分の宇宙に登場する役者さんは、自分が用意した、自分なのです。