瞑想が、なぜ、必要か?・・・。
理由は、沢山ありますが、とりわけ、大きな理由は、次の三つです。
①・・・
人生の最大の目的は、己を知ること、つまり、悟ることです。
その悟りは、瞑想なしには、得られないのです。
瞑想すると、なぜ、悟りが、得られるかといいますと、「想念は実現の母!」だからです。
想念には、物事を成就させる、偉大な力が秘められております。
たとえば、物の創造を考えてみましょう。
神は、この表現宇宙を、己の想念を使って(姿形をイメージし)、創造しました。
姿形をイメージすると、電子を生み出しますので、原子化(物質化)するのです。
これを、応用したのが、瞑想です。
ただし、瞑想の場合は、姿形をイメージしないので、原子核だけが集まるのです。(姿形のない「神・生命」をイメージしても、電子を伴わないため、原子核だけが集まる。)
つまり、姿形をイメージしない瞑想は、電子を生まないので、原子核化するのです。「原子核化」とは、「エネルギー化」するという意味で、「魂」が増えるのです。魂とは、「原子核の塊」のことをいっているのです。
②・・・
瞑想は、天と地に架け橋を渡してくれます。地にいる子が、天にいる父に、コンタクトを取る、唯一の方法が、瞑想なのです。
「子が父を知ったとき、父は子を知りたもう!」とは、瞑想のことをいっているのです。その天は、真実の世界ですから、そこには、「光」と「知恵」と「力」と「愛」が、存在します。ですから、瞑想によって、天と地に架け橋が渡されれば、「光」と「知恵」と「力」と「愛」が、得られるのです。
これまで、人類が積み上げてきた、知恵や知識は、すべて、瞑想(直観・天啓・啓示)によって、天から得たものです。
③・・・
天とは、内側のこと、私達の心のことです。
地とは、外側のこと、物質宇宙(表現宇宙)のことです。
内側に、意識を向ければ、そこは、波動が精妙なため、平安になります。
外側に、意識を向ければ、そこは波動が鈍重なため不安になります。
今、人類が、不幸に喘いでいるのは、外側に意識を向け過ぎているためです。当然です。鈍重な波動の中にいては、心も、身も、健全で、いられるわけがありません。だから、瞑想が、必要になってくるのです。
瞑想は、私達の心身を健全にするだけでなく、地球の心身も、表現宇宙の心身も、同時に、健全にしてくれるのです。
2013年1月22日 更新
①・・・
努力という字は、「女」「又・・股」「力」と書き、「お産」の時の努力を意味します。
鮭が卵を産みに川を遡上するのも、お産のための努力です。
どちらも、大切なものを生むには、努力が必要ですよ!、ということを、私達に教えてくれているのです。
②・・・
何事でもそうですが、何かが欲しかったら、こちらから、求めねば、得られません。真理も、同じことで、こちらから、求めなくては、得られないのです。努力は、求めること、行動を起こすこと、なのです。棚ぼた式で得られるものなど、一つも無いということです。
放蕩息子が、改心したからと言って、何もしないで待っていては、親は、迎えに来てくれないのです。でも、こちらから、親に歩み寄れば、首を長くして待っていた親は、喜んで迎えてくれるでしょう。それが、「子が一歩近づけば、神は百歩近づいてくれる」という意味なのです。これは、一歩近づく努力の大切さを教えてくれているのです。
③・・・
通常、高いところにいる者が、低いところに降りてくることはありません。でも、真剣に望めば、情にほだされて、降りてきてくれるでしょう。でも、最初に行動を起こすのは、やはり、望む方です。望んでこそ、求めてこそ、与えられるのです。望む、求める、その働きかけが、努力なのです。
④・・・
何事も、時間が解決するいわれは、時間は、意識エネルギーが、生み出したものだからです。でも、時間そのものには、解決する力は、無いのです。時間を支えている、エネルギーが、解決しているのです。エネルギーは、物を変質させ、環境に変化を与え、気持ちを変えさせ、努力を生み出します。これ、すべて、エネルギーの働きです。その意味では、エネルギーに裏支えされている努力が、物事の解決を図っている、といっても、過言ではないでしょう。
⑤・・・
土の上に描いた線は、雨が降れば、すぐ、消えてしまいます。でも、繰り返し、描いた線は、溝が深くなるため、少々、雨が降っても消えません。瞑想も、繰り返すことによって、溝が深まり、根付いてゆくのです。何でも、繰り返す努力が、必要だということです。
⑥・・・
この世に、生を受けた者は、みな、落第生です。まだ、課題を克服していないから、この世に、落されたのです。そんな、落第生が、何もしないで、ノホホンと生きていて、良いのでしょうか?。そうです。落第生には、努力が、必要なのです。
といっても、苦しむほど、努力しなさい、と言っているわけではありません。与えられた、今の環境の中で、できる限りの努力をしなさい、といっているのです。
⑦・・・
表現の世界は、創造の場です。思いの世界は、創造の力です。
思いの世界で、思ったことは、表現の世界で、行為として現されます。
努力が、なぜ、必要かは、努力なしに、思えないし、努力なしに、行為できないからです。
思えば、必ず、実現します。「想念は実現の母!」だからです。その力を利用しない手はありません。どうか、思いの力を使って、本当の自分を発見して下さい。
努力は、思うことであり、言葉や行為によって、実現させることなのです。
2013年2月1日 更新
この宇宙には、たった一つのものしか存在しません。
では、たった一つのものとは、何でしょうか・・・?。
それは、私の(あなたの)意識です。
この宇宙には、たった一つの私の(あなたの)意識しかないのです。だから、私達がいなければ、宇宙は、存在できないのです。もし、私達がいなければ、宇宙を認識する者がいないわけですから、宇宙が存在できるわけがないからです。宇宙は、私達が認識することによって存在できているのです。つまり、私達は、原因者であり、宇宙は、結果体なのです。原因者である、私達がいなければ、結果体である、宇宙は、あり得ないのです。しかし、残念なことに、地球人類は、百人が百人とも、自分を人間だと錯覚しているのです。本当の自分は、大いなる意識なのに、形を自分と錯覚することで、小さな自分にしているのです。
意識は、意識している通りのもので、それ、以上でも、以下でも、ありません。だから、私達は、花にも、鳥にも、雲にも、星にも、大宇宙にもなれるのです。
なのに、あなたは、
私達は、一つしかない、完全なる意識なのですよ!。その意識は、私も、あなたも、持っているわけですから、私達は、何んでも望める(意識できる)し、何にでもなれるし、何でも創造できるのです。私達は、建築主であり、設計家であり、建築家であり、建築物(素材)そのものなのです。つまり、私達は、原因者であると同時に、結果体なのです。
そうです!。
原因者である、私が(あなたが)いなければ、結果体である、妻(夫)も、子供も、会社の上司も、友達も、恋人も、花も、猫も、犬も、月も、地球も、宇宙も、何もあり得ないのです。
私は(あなたは)、有りて有るもの、すべてのすべてです。
だから、遠慮なく、大宣言すれば良いのです。
神とは、原因者とは、この宇宙に、たった一つしかない、私の(あなたの)意識のことを言うのです。
2013年2月15日 更新
「人間の最大の罪は無知である!」、といわれる理由は、自分が何なのか知らないがゆえに、罪を犯すからです。私達の本性は、生命です。この真理は、何ものも覆すことはできないのです。なのに、私達は、何百万年もの間、人間として生きてきたのです。人間として生きてきたということは、偏った生き方をしてきたということです。偏った生き方をしてきたから、今もって地球上に争いや苦しみが絶えないのです。
二重生命体である、私達には、肉体の私と、生命の私が、存在するのです。本当なら、この、どちらにも、偏らず生きれば、苦しみは無いのですが、残念なことに、私達は、人間として偏った生き方をしているために、生老病死という、四苦から逃れられないでいるのです。そればかりではありません。肉体を自分として生きれば、肉体保全が、人生の最大の目的になりますから、どうしても、経済が最優先されるようになります。そうなると、競わねばなりません。奪わねばなりません。戦わねばなりません。
なぜ、過密都市が生まれると思いますか?。
なぜ、複雑雑多な社会が生まれると思いますか?。
なぜ、争い多い社会が生まれると思いますか?。
それは、経済が最優先されるからではありませんか?。経済が最優先されれば、人口が偏り・富が偏り・何でも偏ってしまうのです。それが、肉体保全が、人生の目的になっている社会の姿です。
もし、生命を自分として生きる社会になれば、最小限度の物があれば良くなりますので、経済が優先されることは無くなります。当然、争いのない、穏やかな社会になるでしょう。その社会で大切にされるのは、空気と、水と、土と、労働力です。この四つがあれば、簡単に物やサービスが生み出せるからです。
右手ばかり使っていたら、左手は使えなくなってしまいます。
左脳ばかり使っていたら、右脳は使えなくなってしまいます。
大自然が、左右対称に作られているのは、" 偏りなく生きなさい!" という、人間に向けて発信している、神の信号なのです。
どうか、生命と人間(肉体)を、バランス良く生きて下さい。といっても、私達は、今まで、トコトン、人間(肉体)として生きてきたのですから、これ以上、人間(肉体)を意識する必要はありません。生命だけを意識して生きたら良いのです。
難しいことはありません。今まで、人間だけを意識して生きてきたように、生命だけを意識して生きたら良いのです。肉体保全は、その中において、無理なく行われるでしょう。
2013年3月1日 更新
お釈迦様の教えの中に「毒矢の例え」があります。
ある者が、毒矢に射られました。伴の者が、すぐに、毒矢を抜き、手当てをしようとしたのですが、射られた当人は、"誰が、矢を射ったのか?、矢は、どの方向から飛んできたのか?、どんな弓矢を使ったのか?" など、詮索するばかりで、一向に、矢を抜かせようとしません。こんなことをしていては、毒が回って、死んでしまいます。今、一番に、すべきことは、あれこれ詮索することではなく、矢を抜き、手当をすることです。
真理の探究も、同じことがいえます。
求道者の中には、論議に夢中になり、一向に、瞑想しない人がおりますが、そんなことをしていては、悟る前に、寿命が尽きてしまいます。今、一番に、すべきことは、論議することではなく、実践することです。直接、神に繋がる、瞑想をすることです。神に繋がるのに、理屈や理論はいらないのです。
どうでしょう。頭で知って、泳げるようになりますか?。
どんなに理屈を知っても、実際に、プールに入り、体験しなければ、泳げるようにならないのです。
これは、次のようなことにも、当てはまるでしょう。
世の中には、良心的な人が大勢おり、何か災害が起こると、率先して、寄付をしたり、ボランティアをしたりします。
また、常日頃から、世のため、人のため、地球のため、一生懸命、献身的な活躍をしております。
また、政府も、多くの予算をつぎ込み、災害を無くそうと、様々な対策を講じております。
でも、災害は、一向に、無くなりません。
それは、政治家も、献身的な人も、結果対処に、気が取られ、原因対処に、目を向けていないからです。
なぜ、自然災害が、多く起きるのでしょうか?。
なぜ、貧困に、あえぐ人が、後を絶たないのでしょうか?。
なぜ、地球環境が、悪化の一途を辿っているのでしょうか?。
それは、人類が、悪的波動を多く出しているからではありませんか?。
悪的波動を多く出しながら、どんなに、結果対処(寄付や災害対策)をしても、それは、無駄骨というものです。
川下を、どんなに、綺麗にしても、川上を、綺麗にしなくては、根本的解決にはならないからです。
私達が、すべきことは、川下を綺麗にすることではなく、川上を綺麗にすることです。
では、どうすれば、川上を、綺麗にすることが、できるのでしょうか?。
それは、一人でも多くの人が、良い波動を出すことです。
では、良い波動を出すには、何をすれば良いのでしょうか?。
それは、「身口意」の実践と、「瞑想」をすることです。
一人でも多くの人が、身口意の実践と瞑想をするようになれば、それは、全体に及び、世のため、人のため、地球のためになるのです。
コップの中に、淀んだ水があるとします。もし、そのコップの中に、清い水を、一滴入れたら、どうなるでしょうか?。清い水一滴だけが、固まっているのでしょうか?。それとも、全体に溶けて行くのでしょうか?。
ある国のサルが、芋を洗うようになったら、全世界のサルが、芋を洗うようになったのも、個の影響が、全体に及んだからです。
意識は、一つしかないのですから、個の影響が、全体に及ぶのは、当然なのです。
"私一人、瞑想をやっても"、といわないで下さい。
あなたが、瞑想すれば、全体に影響が及ぶのです。
あなたが、成長すれば、全体が、成長するのです。
繰り返します。
今、私達が、一番に、すべきことは、
どうか、瞑想して、内側の自分に繋がって下さい。
それは、自分の成長だけでなく、人類全体の成長にもなるのですから・・・。
2013年3月15日 更新
"あなたは、生命なのですよ!"と、私がいうと、"生命になった覚えはないのに、なぜ、私は、生命なんですか?"と、問い返す人がおります。
では、私は、訊きたい、"あなたは、今、人間だといっていますが、人間になった覚えがありますか?"と・・・。
そうなんです。誰も、人間になった覚えなどないのです。気が付いたら、人間だったのです。なのに、あなたは、今、何の疑いも無く、人間として生きています。もし、あなたが、生命になった覚えのないことに、疑問を持つなら、人間になった覚えのないことにも、疑問を持つべきでは、無いでしょうか?。
しかし、おかしなことに、誰も、疑問に思わないのです。
誰も、人間になった覚えがないように、誰も、生命になった覚えなどないのです。
でも、どんなに、生命になった覚えが無くても、あなたが、生命なのは、間違いないのです。
なぜなら、この宇宙に、生命のほかは、何もないからです。
あなたは、初めから、生命だったのです。
生まれながらにして、生命だったのです。
ただ、生命と思っていないだけです。
では、なぜ、生命と思わず、人間と思っているのでしょうか?。
それは、見て、触れる、この肉体を、自分だと思っているからです。
もし、生命という、衣装をまとっていたら、あなたは、生命を自分と思うでしょう。ただ、生命は、見えもしないし、触れもしませんので、生命だと思えないだけです。
あなたの本性は、紛れもなく、生命(意識・エネルギー)なのです。
その生命は、何にでも入ることができるのです。花の中にも、鳥の中にも、犬の中にも、雲の中にも、人間の中にも・・・。
生命は、思っている通りの物で、それ、以上でも、以下でも、ないのです。
ただ、どんな衣装をまとうかで、自分が変わるだけです。
花の衣装をまとえば、花と思うのです。
鳥の衣装をまとえば、鳥と思うのです。
雲の衣装をまとえば、雲と思うのです。
星の衣装をまとえば、星と思うのです。
今、あなたが、人間の衣装をまとって、人間だと思っているように・・・。
あなたは、どんな確信に基づいて、人間だと思っているのですか?。
見て、触れる、この肉体を見て、人間と、確信しているのではありませんか?。
そうです。私達が、自分のことを、人間だと思うのは、肉体を、自分だと思う確信からきているのです。ならば、肉体を、自分だと思う確信を、生命という確信に、置き換えられたら、生命を、自分だと思えるようになるのではないでしょうか?。
では、どうすれば、人間の自分から、生命の自分に、確信を置き換えることができるでしょうか?。
そのためには、肉体と生命の、どちらが、ホンモノか、識別する必要があります。
では、識別してみましょう。
こうして比べてみると、どちらが、ホンモノか、解りますね。
そうです。生命こそ、真実なるものです。
では、確信は、何に置くべきですか?。生命ですね。
本当の自分は、肉体ではなく、生命だという、確信を深めて下さい。この確信を深めることによって、「自分は、生命である」と、思えるようになるのです。
どうか、生命の自覚を持って下さい。持てば、そく、あなたは、生命なのです。
不自由な肉体に生きるか、自由な生命に生きるかは、あなたの確信次第、自覚次第なのです。
2013年4月1日 更新
本来、この宇宙には、善も、悪も、無いのです。あるのは、完全のみです。完全の中に、どうして、悪があるのでしょうか?。悪と思うのは、自分の中に、悪感情(善悪を認める感情)があるからです。その悪感情は、損得感情からきているのです。(悪感情を持っていることを、善悪の木の実を食べているという。)
たとえば、私達は、悪さをする虫を悪と見ます。そう見るのは、その虫が、自分達にとって、都合が悪いからです。あなたの立場に立てば、たしかに、嫌な虫かもしれません。でも、虫の立場に立ってみて下さい。虫は、自分の使命を果たしているだけです。
たとえば、蚊を一例に取って見ましょう。蚊は、不潔な水たまりに、多く発生しますが、これは、「家の周りの水はけを良くしなさい!」、つまり、「生活環境を良くしなさい!」、という警告なのです。蚊は、警告の使命を果たしているだけです。もし、彼らがいなかったら、人間環境は、今以上に、悲惨な状態になっていたでしょう。
もともと、害虫なんていないのです。必要な虫がいるだけです。ですから、もし、あなたの前に、虫が現れたら、なぜ、現れたのか?、理由を良く考えてみて下さい。必ず、理由が見つかるはずです。
たとえば、
建物に隙間があるとか?・・・、
家の中が不衛生になっているとか?・・・、
家族の間に何か不調和なことがあるとか?・・・、
理由が解れば、虫の対処の仕方も違ってくるでしょう。(大抵の場合、虫たちは、何かを訴えている。)
何事でもそうですが、何か事象が起きるには、起きる原因が、必ず、あるのです。その事象が、自分にとって都合が悪いから、悪といっているのであって、起きていること自体は、善いことなのです。なぜなら、その事象が起きることによって、私達は、過ちに気付けるからです。もし、その事象が起きてなかったら、私達は、何も気付くことなく、過ちを繰り返してしまうでしょう。これでは、進歩は、ありません。虫たちは、気付かせるため、悪役を買って出てくれているのです。そんな虫を、害虫といって、責めるのは、お門違いというものです。
これは、人間関係においても、当てはまることです。
極端な例ですが、あなたが、Aという人に殴られたとしましょう。殴られた結果があったということは、殴られる原因があったということです。つまり、Aは、殴る原因を持っていたから、あなたを殴ったのです。あなたは、殴られる原因を作っていたから、あなたは、殴られたのです。つまり、Aは、原因と結果の法則によって、殴る使命を果たしていたことになります。もし、あなたが、殴られたことに腹を立て、そこから、何の益も受け取らなかったら、無駄な痛みを体験したことになります。しかし、殴られた原因を見付け、過ちを正したら、その体験は、あなたにとって、有益な体験になります。ということは、殴られたことは、悪ではなく、善だったことになり、殴ってくれた人に、感謝しなければなりません。だから、人を殴って良いといっているわけではありません。「原因を作れば、必ず、結果が付いてきますよ!、良い原因には、良い結果が、悪い原因には、悪い結果が」、といっているのです。
悪は、善悪の感情を持っている人にのみ、あるのであって、持っていない人には、無いのです。つまり、善悪の木の実を食べている人にのみ、あるのであって、食べない人には、無いのです。
繰り返します。
この宇宙には、善も、悪も、無いのです。あるのは、完全のみです。善悪の消却を通して、進化する、完全があるだけです。それが、分かると、人を責めることも無くなるし、自分を責めることも無くなるでしょう。人を許し、自分も許せるのは、すべての事象(現象)は、完全に向かって進化する姿である、と思えた時に生まれるのです。
2013年4月11日 更新
人類の歴史において、剣の響きと銃声の鳴りやまない日は、一日も無かった、と言われるほど、人間は、愚かにも、戦いを続けてきました。戦いからは、何も得られないということを、厭というほど、体験したはずなのに、いまだに、止めようとしません。なぜでしょう。それは、幼さゆえです。無知ゆえです。人間は、骨身にしみるまで、苦しまなければ、戦いの愚かさに、気付かないのです。悲しいことですが、仕方がありません。
でも、人間は、馬鹿ではありません。いつか、きっと、戦いの愚かさに気付き、平和の道を歩むようになるでしょう。私は、一日も早く、その日の来るのを願うばかりです。
2013年8月15日 更新
現代宗教の一番の過ちは、神を、私達の手の届かないところに祭り上げてしまったことです。一番近くにあるべき、神を、このように、遠くに祭り上げては、世が混乱するのも、無理はないのです。しかも、覚者までも、遠ざけてしまったのですから、これは、大変な罪を犯していることになるのです。
父と子と聖霊とは、宇宙における三位(身)一体の創造の仕組みを説明した言葉です。
氷は、水を、凍らせたものです。
水は、空気を、冷やしたものです。
その大元(本質)は、空気です。
父と子と聖霊に、例えれば、
父は、空気に当たります。
子は、氷に当たります。
精霊は、水に当たります。
空気と、氷と、水は、三位(身)一体で、同じ一つの物です。
父と、子と、聖霊も、三位(身)一体で、同じ一つのものです。
同じ一つのものとは、父(空気)そのものであるという意味です。
では、
父とは、何でしょうか?。
子とは、何でしょうか?。
精霊とは、何でしょうか?。
父とは、神のことです。
子とは、人間のことです。
精霊とは、魂のことです。
私なりの言い方をすれば、
父とは、生命のことです。
子とは、物質のことです。
精霊とは、生命核のことです。
宇宙の創造の原理は、すべて、三位(身)一体、となっているのです。
三位(身)一体とは、一つの本質から、すべてのものが、生み出されている、という意味です。
だから、人間は、人間であると同時に、精霊(魂)であり、神なのです。
すなわち、氷であると同時に、水であり、空気なのです。
どうか、科学的に考えて下さい。科学的に考えれば、神が、遠くに祭り上げられる存在でないことが分かるでしょう。
イエス様も、お釈迦様も、人間です。私達も、人間です。と同時に、神なのです。イエス様や、お釈迦様だけが、神の一人子なのではありません。全ての人間が、同じ神の子なのです。つまり、その本性(本質)においては、神(空気)なのです。
覚者も、私達と同じ、人間であり、神です。ただ、彼らには、神の自覚があり、私達には、神の自覚が無いだけです。しかし、どんなに、神の自覚が無くても、私達が、神である事実は、変わらないのです。
どうか、神を、覚者を、神秘化しないで下さい。遠ざけないで下さい。
私達の一番近くにいるのが、神であり、覚者なのですから・・・。
2013年11月4日 更新
聖書の中に、「人は、パンのみにて生きるに非ず、主の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」と、謳われていますが、その言葉の真の意味を、知っている人は、殆どいません。では、この言葉の真の意味は、どのようなものなのでしょうか?。
人間は、物質的な側面と霊的な側面を持った、二重生命体です。
つまり、二つの顔を持っているのが、人間なのです。
二つの顔を持つからには、持つ意味が、必ず、あるはずです。
そうなのです。人間は、物的なものだけで、生きるのではなく、霊的なものでも、生きられるようになっているのです。霊的なものとは、エネルギーのことですから、人間は、霊的エネルギーによっても、生きられるようになっているのです。
私たちは、通常、食べ物から、エネルギーを摂取して、生きております。
でも、本当は、空気中から、宇宙エネルギーを吸収して、生きることもできるのです。
仙人は、霞を食べて、生きているといわれますが、これは、人間なら、誰でも持っている能力なのです。
しかし、今の人間は、その能力が、全く失われております。なぜ、失われたかといいますと、宇宙エネルギーを取り入れる脾臓を使わなくなったからです。どんなに素晴らしい能力を持っていても、使わなければ、使えなくなってしまうものなのです。
「人は、パンのみに生きるに非ず、主の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」の真の意味は、イエスが語る真理を理解して、霊的自覚を高めれば、宇宙エネルギーによって、生きることができる、という意味だったのです。イエスは、実生活に密着した、現実的な話をされたのであって、観念的な話をされたわけではないのです。
人間は、神の子です。したがって、人間の中には、神の偉大な能力が備わっているのです。ただ、今の人間には、神の自覚が無いため、偉大な能力が、使えなくなっているだけです。神の自覚ができれば、偉大な能力が、蘇るのです。
例えば、
沢山、食べなくてもよくなります。
あまり、寝なくてもよくなります。
また、疲れなくなりますし、病気をしなくなります。
このように、霊的自覚が高まれば、神に近い生き方ができるようになるのです。しかし、今の人間は、そのことを、全く知りません。だから、今もって、生・老・病・死に苦しんでいるのです。
この地上界に争い事が絶えないのは、必要以上に、身を守り過ぎるからです。神の自覚ができれば、それほど、身を守る必要が無くなりますから、物の奪い合いをすることがなくなるのです。そうなれば、地球上に、理想の世が開かれます。イエスは、そのことをいいたかったのです。
2013年11月20日 更新
※ 人間には、脾臓(火臓)という、特殊な臓器が備わっています。呼吸によって取り入れた、宇宙エネルギーは、この脾臓によって、体内エネルギーに変換されるのです。だから、火臓、つまり、エネルギーの臓とも、呼ぶのです。この脾臓は、悟れる人間にだけ与えられた、特殊な臓器で、他の生き物に、このような働きをする臓器はありません。
今の環境が、自分の成長にとって、必要であっても、与えられた課題が克服できれば、いつまでも、今の環境に、止まっている必要はありません。なぜなら、合格点を取った者は、もう、その環境で、学ぶ必要がないからです。
だから、私は、" 今の環境から逃れたかったら、一日も早く、課題を克服しなさい!" というのです。それには、真理を知ることです。多くの人は、真理を知らないがゆえに、同じ学びを、繰り返しているのです。そして、あたかも、他人が、苦しみを与えたかのように、嘆いているのです。
自分が成長しないで、どうして、環境が良くなるでしょうか。私が、自力を説くのは、今の苦しい環境を作っているのは、自分自身だからです。自分が作った苦しい環境なら、自分の力で取り除くしかないのではありませんか?。そうなのです。環境は、誰も変えてくれません。自分が、何の努力もしないで、環境が変わるわけがないからです。
真理を学ぶ必要があるのは、真理は、環境の変え方を、教えてくれるからです。
さあ、今の苦しい環境を変えたいなら、真理を学び、自分を成長させましょう。自分が、成長すれば、環境は、自然と変わってゆきます。それが、学びの成果なのです。
神は、小学生に、大学生の問題は与えません。
また、大学生に、小学生の問題も与えません。
神は、乗り越えられる問題しか与えないし、また、乗り越えた問題も与えないのです。もし、今、厳しい環境(問題)が与えられているとしたら、その厳しい環境(問題)を克服できる実力の持ち主だと、神が判断したからに、他なりません。ですから、逃げるのではなく、果敢に挑戦して、一日も早く、課題を克服することです。それが、今生における、あなたの人生の目的です。
課題を克服し、合格点が取れれば、自然と環境は、変わってゆくものです。さあ、自分を成長させ、神の期待に応えましょう。その方法は、「人類の夜明2と3」の中に書いてあります。ぜひ、読んで、自分を成長させてください。
2013年12月10日更新