" 私は、瞑想も、ろくにできていないし、世のため、人のために、何もしていないから、魂の成長は、望めないだろう!"、という人がおりますが、そのようなことは、ありませんから、安心して下さい。なぜなら、あなたが、この世に生まれてきたこと自体、魂を成長させているからです。
数ケ月間、お母さんのおなかの中にいて中絶される堕胎児がおります。産道を通るだけの体験をする死産児がおります。産まれて数年しか生きられない幼子がおります。なぜ、彼らは、そのような薄命を背負って生まれてくるのでしょうか。それは、少しでも、魂を成長させたいためです。生まれて、すぐ、死ぬと、分かりながら生まれてくるのに、どれほどの決心が必要だったと思いますか。それは、それは、断崖絶壁から飛び降りるくらいの決心が必要だったはずです。この決意・決心が、魂を大きく成長させるのです。
赤ちゃんが、泣き声をあげ生まれてくるのは、この世の厳しさを体験するのが嫌だからといいます。また、赤ちゃんがニコッと笑うのは、この世の厳しさを体験し、魂を大きくできる嬉しさからだといいます。どちらにしても、この世に肉体を持つということは、大変なことなのです。
なぜ、幽界では、魂の成長は、少ないかといいますと、痛い、苦しい、寒い、暑い、などを、感じる肉体が無いからです。幽界人は、生温い湯に入っているようなものなのです。生温い湯に入るのに、決心はいりませんから、あまり、原子核が増えないのです。この世においても、甘やかされて育った御曹司は、すぐに、弱音を吐くものです。それは、強い決意のいらない温室の中で育ったからです。
原子核は、強く決心すれば、するほど、増える仕組みになっているのです。これは、善悪に関係なしにです。だから、私は、いいたい! 嫌なことに、率先して挑戦して下さいと・・・。もし、臆病風を吹かし、家の中に閉じこもっている人がいたら、どうか、外に出て働いて下さい。間違いなく、自分を成長させることができるでしょう。
では、家に閉じこもっている人は、全く、無駄な人生を送っていることになるのでしょうか? いいえ、神の愛は、完璧です。どんなに家に閉じこもっている人でも、少なからず、原子核は、増えているのです。なぜなら、どんな弱い決意でも、原子核が増える仕組みになっているからです。たとえば、朝、顔を洗う、歯を磨く、風呂に入る、掃除をする、そんな、普段の生活の中にも、決心は必要とし、原子核を増やしているからです。ただ、外に出て嫌なことをするのと、家にいて甘えた生活をするのとでは、決意の強さが違うため、原子核の増え方が違うのです。ならば、外へ出て、チャンスを生かした方が得ではありませんか?。
魂を自由意志で大きくできるのは、自由意思を持った人間だけに与えられた特権です。どうか、その特権を有効に生かして下さい。
2012年1月15日 更新
この宇宙で、一番波動の低いのは、物質です。次に低いのは、幽質です。一番高いのは、霊質です。物質文明が栄えると病気が増えるのは、人類の意識が、物質に偏り、波動を落してしまうからです。今、地球の波動は、最低にまで落ち込んでいますが、これを上げることができるのは、唯一、波動を落としている人間です。波動を落としているのは、人間自身ですから、当然といえば、当然の話です。
波動を上げる一番の方法は、瞑想ですが、瞑想は、なかなか、難しく、一般人には、不向きです。そこで、私が提唱したいのは、次のような、想いと言葉を、日常生活で意識して使う方法です。
ありがとう!
はい!
行ってきます!
行ってらっしゃい!
お帰りなさい!
お休みなさい!
おはようございます!
いただきます!
ごちそうさま!
日常生活で使っている、ごく当たり前な言葉ですが、ただ、儀礼的に、あるいは、口癖のように使っているだけで、意識して使っている人は、殆どいません。意識して、という意味は、「心から」という意味です。
心を込めて使った言葉には、その人の波動が感じられます。この心から語ることを、本音で語るというのです。本音とは、神の御心が奏でる響きのことで、言霊(ことだま)のことです。
言葉は、心が、こもってこそ、生きてくるのです。心を込めて語った言葉は、間違いなく、波動を高めます。ぜひ、良い言葉を、心をこめて語るよう心掛けて下さい。そのような人が、一人でも多くなれば、地球の波動は、間違いなく、上がります。小さなことかもしれませんが、難しいことをやるより、今できることから始めた方が現実的ではないかと思い、あえて、私は、勧めるわけです。
ちなみに、波動の上がる響きの言葉は、あ・い・う・え・お、の「あ行」の清音の言葉です。波動を落とす響きの言葉は、ば・び・ぶ・べ・ぼ、の「ば行」の濁音の言葉です。
言葉も、使うなら、出来るだけ、波動の高まる「あ行」の清音の言葉を使いましょう。
2012年2月22日 更新
絶対宇宙には、唯一の意識体(宇宙意識)が存在します。これを、私達は、神と呼んでおります。しかし、神という名に囚われる必要はありません。神と呼ぶのが恐れ多いなら、
要するに、意識と意志を持ち、しっかりとした、目的意識を持って、宇宙を差配している存在が、神なのです。ここで、神という名を使わせていただくのは、古来より、人類が、あこがれ、畏怖し、崇め、すがってきた対象物が、神の名であったからです。
その神には、三つの悩みがありました。
(※ 神は、完全ですから、神に悩みがあるはずがありません。ここでは、説明上必要なので、このような表現を使いました。その点、誤解のないようにして下さい。)
「私は、偉大な能力を持っている。しかし、その能力は、私の思いの中にあるだけで、実現化されていないのだ! これで良いのか?」
そうです。どんなに偉大な能力を持っていても、表現しなければ、ただの自己満足にしか過ぎません。
どんなに素晴らしい理念を持っていたとしても、表わさなければ、単なる空論で終わってしまいます。
どんなに素晴らしい絵の構想を持っていても、描いて見せなければ、嘘になるのです。
これが一つ目の悩みでした。
二つ目の悩みは、次のようなものでした。
神は、絶対宇宙における、唯一の存在者ですから、そこには、自分しかおりません。
神は、思いました。
「自分が自分の存在を知っていて、いったい、何になるのだろう? 自分しか存在しない宇宙に、いったい、どんな意味があるのだろう? いや、自分しかいなければ、自分の存在は、無いのではないだろうか? 誰かに認められて、はじめて、存在意義が、出てくるのではないだろうか?」
そうです。一(いち)しか無ければ、一は、無いのです。自分しかいなければ、自分は、無いのです。なぜなら、自分が自分を見る(知る)ことなどできないからです。
あなたは、自分を、直接、見たことがありますか? "鏡に写して、自分を見ました。あるいは、写真に撮って、自分を見ました。" といわれるかもしれませんが、それは、現象の自分を、間接的に、見たのであって、直接、見たわけではありません。
未だかって、直接、自分を見た人は、一人もいないのです。ましてや、真実の自分は、姿形が無いのですから、自分をみることなど出来ないのです。
このように、
絶対の中にいては、絶対は分からないのです。
一の中にいては、一は分からないのです。
自分の中にいては、自分が分からないのです。
最後の悩みは、次のようなものでした。
「確かに、今、私は、幸せいっぱいである。しかし、この幸せは、一体、いつまで、続くのだろう? 昔は、今、以上に、幸せだったのに、今は、それほど、幸せと思えない。どうも、幸せに慣れ、幸せの味が薄れてきたようだ。このままだと、今の幸せも、いつか、消えてしまうのではないだろうか?」
意識の一番の弱点は、飽きてしまうことです。皆さんも、体験があるかと思いますが、どんなに、面白い映画も、何度も見れば、飽きてしまうものです。どんなに、楽しい乗り物も、何度も乗れば、飽きてしまうものです。幸せも、同じ幸せの中にいては、飽きてしまうものなのです。これは、永遠の命を持つ者にとって、大問題です。
神は、この三つの悩みを、どう解決すべきか考えました。
「そうだ! もう一つの自分(相対宇宙)を創ろう! そうすれば、三つの悩みは、すべて、解決するはずだ!」
神は、このような理由から、もう一つの自分(私・人間)を創ることにしたのです。すなわち、相対宇宙(表現宇宙・物質宇宙)を創ることにしたのです。(自分とは、神「自」らが、自分を「分」けたという意味です。)
神は、相対宇宙を創るに当たり、自らの意識を四方八方に放射しました。(これを、ビッグバーン、あるいは、パンドラの箱現象ともいう。)
その放射した意識は、光であり、エネルギーであり、本質であり、神、ご自身なのです。
その意識は、波動を下げ、色光となりました。
さらに波動を下げ、意識核となりました。
さらに波動を下げ、原子となりました。
原子には、質量があるため、原子化された段階で、時間と空間が生まれます。これが、時空の誕生、すなわち、表現宇宙の誕生です。
「神が、物を創造する場合、神、自らが、その物になるしかない! 」といわれる理由は、宇宙には、神しか存在しないからです。神は、理念の主であり、本質そのものですから、物を創造する場合、自ら、その物になれるのです。ということは、この表現宇宙(相対宇宙)は、神、ご自身で構成されているということです。
言いかえれば、表現宇宙そのものが、神の身体であり、そこに創られた、様々な物も、神、ご自身であるということです。こうして、全能の神は、自らを素材として、この表現宇宙を創造されたわけです。
≪一つ目の目的達成≫
宇宙を、ご覧ください。あまねく輝く、銀河の群れ、多彩な色を放ち、宇宙を浮き彫りにしている、恒星たち、見事に散りばめられた、惑星や衛星、その合間を、かいくぐって遊ぶ、彗星たち、また、青い星々に誕生した、数知れない生き物たち、寸分の狂いも無く運行する、星の動きの妙技、ああ、神は、何と素晴らしい絵を、表現宇宙に描かれたことか・・・。この素晴らしい絵を、一目、見ただけでも、全能の神の偉大さが、分かろうというものです。
こうして、神の一つ目の目的は、達成されました。ただ、一つ憂いがあるとすれば、神が放射された意識核の記憶が希薄になった点でした。自分が、何ものか覚えていないのです。「私」という記憶は、あっても、私が、いったい、誰なのか分からないのです。
「私は、なにものなのだ! 私は、いったい、誰なんだ! 分からない? どうすれば、自分を思い出すのだろう?」
意識核は、戸惑います。意識核に、記憶が無ければ、意識核の集まりである、生命核(魂)に、記憶がないのは、当然です。だから、その生命核を宿している人間に、神の自覚がないのです。しかし、神は、そうなることを織り込み済みで、表現宇宙を創ったのです。それは、意図あってのことでした。
もしも、人間に、神の自覚があったのならば、自分相手に、一人芝居はできませんから、この表現宇宙に、感動のドラマは、生まれなかったことでしょう。後で説明しますが、感動のドラマが、生まれなくては、神の最終目的は、達成されないのです。
≪二つ目の目的の達成≫
神は、織り込み済みで、意識核の記憶を奪いました。しかし、神は、記憶を蘇らせる方法も、忘れませんでした。それは、意識核自らに、記憶を蘇らせる仕組みを持たせたことです。(エントロピー縮小の仕組み)
その仕組みのメカニズムは、こうです。
まず、親和力によって、意識核自らが集まってきて、宇宙空間に塵が生まれます。
その塵が集まって、星が誕生します。星の誕生、すなわち、鉱物の誕生です。
その鉱物の中心に、意識核の集合体である、生命核(魂)が宿ります。(形が創られると、中心に、生命核(魂)が宿るのは、宇宙の約束事(法則)である。)
やがて、本質の力によって、数知れない植物が繁茂し、星は緑で覆われます。当然のごとく、植物の中心に、生命核が宿ります。
次いで、動物が誕生します。動物が増えるのも、神が与えてくれた、本能力によるものですが、その中心に、同じように、生命核が宿ります。
そして、最後に、人類が誕生します。そこには、勿論、鉱物・植物・動物から受け継いだ生命核を宿しております。
このようにして、記憶を失った数知れない意識核が、生き物の中に生命核として濃縮されてゆくのです。
生き物の誕生は、生命核を濃縮する作業そのものであったわけです。
生命核が濃縮されて、ある量に達すると、失っていた記憶が、一部蘇ります。つまり、"ああ、私は、人間なんだ! 宇宙がある! 妻や子や友達がいる!" と、自覚できるようになるのです。これを、自我が備わった生命体といい、進化の第一段階を卒業したことを意味します。
宇宙を認識できるということは、神(自分・私)を認識できるということですから、これは、神が意図していた、二つ目の目的が達成されたことになります。
≪三つ目の目的の達成≫
さて、神は、二つの目的は、達成しましたが、最終目的である、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せを得る目的は、まだ、達成されておりません。では、どうすれば、達成できるのでしょうか。それは、私達が、この表現宇宙で、演じたドラマの数々を、神の世界に持ち帰ることで、達成されるのです。
これまでに、この表現宇宙の中で、どれほどのドラマが生まれたことでしょうか? また、今、どれほどのドラマが進行中でありましょうか?
楽しいドラマ、悲しいドラマ、感動的なドラマ、退屈なドラマ、それも、一つとして、同じ筋書きのないドラマばかりです。そのドラマの数々が、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せを生み出してくれるのです。まさに、私達の生み出したドラマは、次から、次へと、注ぎ込まれる、新鮮な水のようなものです。では、そのドラマを、神の世界に持ち帰るには、どうすれば、良いのでしょうか?
神意識の放射によって生まれた、この表現宇宙には、前述したように、無数の意識核が遍満しております。意識核が遍満している間は、時空は、そのままの状態で存在し続けます。それでは、ドラマを持ち帰ることはできません。ドラマを持ち帰るには、時空を縮める必要があるのです。その役割を担っているのが、人間の悟りなのです。悟った生命核(魂)には、膨大な意識核が濃縮されているわけですが、その意識核を、神意識の一点(パンドラの箱)に返すことが、最終目標なのです。
地球人類の生命核(魂)は、これまで、鉱物・植物・動物が集めてくれた意識核を受け継ぎ、さらに、自らも集め、やっと、"自分は、人間である!" と、自覚できるところまで成長してきました。しかし、まだ、神だと、自覚できるところまで成長しておりません。ということは、地球人類は、まだ、未熟な段階にあるということです。
生命核が、ある一定量、集まると、否応なしに、"自分は神であった!" という、自覚に至ります。これを、自覚の境界線を超えた生命体といい、進化の第二段階を卒業したことを意味します。この段階に至った人の魂には、膨大な量の意識核が濃縮されているのです。つまり、表現宇宙を縮小させる(時空を縮める)力が、秘められているのです。まだ、地球は、幼いために、悟り人は、少ないですが、いずれ、多くの人が、自覚の境界線を超え、進化の第二段階を卒業するでありましょう。
ビッグバーン、以来、表現宇宙は、膨張を続けてきました。その表現宇宙が成長し、ある境を越えると、膨張に、ストップが、かかり、安定の時期に入ります。それが、脈動運動の分岐点です。それを過ぎると、ゆっくりと収縮に転じるようになります。その収縮は、次第に、スピードを増し、やがて、スピードの極に達します。その頃には、多くの人類が、悟りの収穫時期を迎えております。つまり、自覚の境界線を超え、神意識の一点に帰る準備を終えているのです。やがて、表現宇宙は、一気に収縮を始めます。急激に時空が縮まり、神意識の一点に、私達の生命核(魂)も、相対宇宙も、すべて、呑み込まれて行きます。これが、一脈動運動の最期の姿です。
宇宙は、今まで脈動運動を続けてきましたし、今も続けていますし、未来永劫、続けるでありましょう。水は、流れているから、清いのです。流れなければ、淀んで、いずれ、腐ってしまいます。これは、死を意味します。永遠に尽きない、永遠に飽きない、幸せを得るためには、次から次へと注ぎ込まれる、新鮮な水が必要なのです。その水に当たるのが、人間が持ち帰る、数々のドラマなのです。
この宇宙の物語は、究極の幸せを得る物語ですが、それは、人生の目的そのものなのです。
2012年5月21日 更新
ギリシャ神話に欠かせない登場人物が、パンドラという名の女性です。ギリシャ神話では、パンドラは、地上で最初の女性ということになっておりますが、これは、物質を擬人化したもので、人間の女性のことをいっているのではありません。なぜ、物質のことを女性に擬人化したかといいますと、表現宇宙において、女性は、物質の象徴的存在となっているからです。(物質の素材となっている電子は、女性的存在であり、動力源となっている陽子は、男性的存在となっている。)
神ゼウスは、この女性に、あらゆる災いの種を封じ込めた、パンドラの箱を持たせ、地上に遣わしました。ところが、誤って、箱を開けたため、地上は、苦しみや悲しみに覆われることになった、と神話ではいわれています。しかし、この神話の本当の意味は、こうです。
神は、自分の存在を明らかにすると同時に、全能の偉大さを誇示するために、表現宇宙を創造しようと思い立ちました。その創造の心(意思)のことを、「パンドラの箱・心」といい、その箱から出てきた物質のことを、パンドラの女といっているのです。創造の心(意思)とは、「創造の想い・理念」のことです。パンドラの女とは、「原子」のことです。(厳密には、電子のこと・・・。原子は、原子核と電子によって構成されている。)
たしかに、物質は、多くの苦しみを生み出す要因となっています。しかし、この物質宇宙は、創造主にとって、必要なキャンバスだったのです。だから、じつは、誤って箱を開けたのではなく、創造主自らが、意図を持って開けたのです。
「初めに光ありき、その光によって、すべてはなれり!」と、旧約聖書に謳われているように、神は、表現宇宙を創る意図をもって、自らの意識(光)を放射したのです。このことをパンドラの箱を開けたといい、創造の第一歩だったわけです。放射された意識は、波動を下げ、意識核(エネルギー化した原子核)となりました。さらに、波動を下げ、原子となりました。この時点で、時空が生まれたわけです。
こうして、神の理念を現実化するキャンバスが、表現宇宙に作られたわけですが、神は、そのキャンバスに、銀河を創り、星々を創り、その星々に、様々な生き物を、お創りになりました。まさに、神は、偉大な、設計家であり、画家であり、彫刻家であり、建築家であり、また、ドラマの作家であり、演出家であり、演技者であります。
人間は、ドラマを演じる役者(人形)として創られたわけですが、その中に宿って、生きて働いているのは、神の分身である生命核(魂)です。分身である生命核は、しっかりとした、意識と意志を持ち、自らドラマを作り、自ら演じているのです。人間神の子のいわれは、神のあらゆる能力を備え持った、神のミニチュアだからです。
しかし、人間には、その自覚がありません。肉体を自分だと思い違いし、無力で、不自由で、苦しみ多い人生を送っています。人間は、その苦しみの中から、自分が神であることを悟ります。悟った人間は、お土産である、ドラマをもって、神意識の中に(パンドラの箱の中に・神の心の中に)帰って行くのです。
パンドラの箱とは、このように、「神の創造の心・理念」のことであり、私達の故郷なのです。
2012年6月1日 更新
この宇宙には、常に、安定の中にある、絶対宇宙と、常に、不安定の中にある、相対宇宙の二つの宇宙が存在します。私達は、後者の不安定な宇宙で、今、様々な体験を通して、安定の大切さを学んでおります。なぜ、そのような学びが、必要かといいますと、表現宇宙が、間違いのない進化の軌道を描くためには、人類の偏らない生き方の支えが必要だからです。
どうでしょう。今、人類は、偏らない生き方をしているでしょうか?。
いいえ、性の偏り、食の偏り、快楽の偏り、富の偏り、思想の偏りなど、すべての面において、偏りを見せております。そのために、精神の汚染が進み、肉体の汚染が進み、自然の汚染が進み、人類も、地球も、汚れに、汚れきっています。では、なぜ、偏ると、そのような、おぞましいことが、起きるのでしょうか?。
このように、何でも偏ると危険物になるのです。それは、エネルギー均衡の法則を犯しているからです。今、頻繁に自然災害が起きているのは、人類が偏った生き方をしているためです。人間が、物質に偏ると、自然界も、追随するように偏りを見せるのです。それは、人間に過ちを気付かせる反面教師になっているからです。自然は、私達に、偏りの危険性を身を挺して教えてくれているのです。
今、多くの人が、五感を最大限に使い、楽しみを謳歌しておりますが、それは、一つの感覚器官だけで満足しきれないほど、快楽に麻痺してしまったからです。特に恐ろしいのは、興奮剤を使って楽しむ、若者たちの行動です。麻薬患者が絶えない現代社会は、正に濃縮文明そのものといっても過言ではないでしょう。濃縮されたものは、必ず、放散させられるように、今日の濃縮文明も、やがて、放散させられる時がくるでしょう。今人類の文明は、その直前にいるのです。
2012年6月8日 更新
心ある先生達に、私は言いたい!、特に、小学校の先生達に言いたい!、あなたの教育指導要綱の中に「因果の法則」の一項を加えてほしいと・・・。因果の法則とは、「良いことをすれば、良いことが起き、悪いことをすれば、悪いことが起きる」という、単純な法則です。これは、宗教でも何でもなく、当たり前の科学的法則なのです。この法則を真っ白な心を持った子供の頃に植え付ければ、今、起こっている、いじめや、校内暴力や、登校拒否などは、一切なくなってしまうでしょう。さらに、その子供達が大人になった頃の社会に、犯罪人は、一人もいなくなってしまうでしょう。たった一つの法則を教えるだけで、社会を大きく変えることができるのです。それは、あなた達先生が、やる気になれば、できることなのです。私は、難しいことを、お願いしているのではありません。当たり前の、簡単なことを、お願いしているだけです。
私の子供の頃の話ですが、隣のおじさんに、子猫をいじめているのを見つかり、叱られたことがありました。ただ、叱られただけなら、そうショックはなかったのでしょうが、" 悪いことをしたら、罰が当たるぞ!" の言葉が、あまりにも、衝撃的だったため、いまだに、頭から離れないのです。子供の頃に受けた衝撃的言葉というものは、心が純真なだけに、大人になっても、なかなか、忘れられないのです。もし、純真な心を持つ子供の頃に、因果の法則を教えれば、どんな道徳教育よりも、確かな成果が上るでしょう。
どうか、子供たちに、因果の法則を教えて下さい。公然とできないなら、言葉を変えてでも、たとえ話に置き換えてでも、教えて下さい。良いと分かっているのに、教えないでは、もったいないではありませんか。良い教えは、どんなに反対されようと、教えるべきです。それは、先生方の決断一つで、できるのです。
2012年6月18日 更新
この世には、生まれてすぐ死ぬ、赤子がおります。数年しか生きられない、幼子がおります。二十歳を待たずして死ぬ、若者がおります。私の娘も、二十歳半ばで、この世を去りました。そんなわずかな人生に、一体、どんな意味があるのだろうと、誰もが思います。私も、真理を知るまでは、そう思いました。だから、神を恨んだりもしました。でも、真理を知ったとき、その考えが、間違いだったことが分かったのです。
神は、この宇宙に、無意味なモノは、何一つ、お作りになっていません。どんな無意味と思えることの中にも、みな、ちゃんとした意味があるのです。もし、私の娘の死に、何の意味も無いなら、娘の死は、無駄死になってしまい、これほど虚しいことはありません。でも、神は、そんな無意味なことは、なさらないのです。
乳の出ない母親の胸にすがりながら、死んでゆく幼子たち、爆弾テロで吹き飛ばされ、死んでゆく子供たち、自然災害で命を落とす、若者たち、こんな悲惨な人生でさえ、神は、しっかりとした意味を持たせ、人生を価値あるものへ運んでいるのです。
「人間万事塞翁が馬」の諺は、"人生において、何が幸せで、何が不幸か分からない! "、という意味だそうですが、本当は、" 神は、何一つ、無意味なことはなさらない!、どんなことも、良いことなのですよ!" 、という意味なのです。
「無用の用」という諺の意味も、" この世に、無用なことは、一つも無い、すべて、必要あって、起きているのですよ!" 、という意味なのです。
具体例を数例示しましょう。
このように、誰一人として、無意味な人生を、歩んでいる者はいないのです。だから、今、どんな境遇にあろうと、決して、自暴自棄になってはなりません。あなたの人生は、間違いなく、自分の糧にも、周りの人達の糧にも、宇宙の糧にもなっているのですから・・・。
2012年7月1日 更新
このメッセージは、準備のできた人に届くよう、プログラムされております。特に、ここまで読み進んできた、あなたは、準備ができた、選ばれた人です。そのことは、あなたの魂が、よく、ご存知です。そのことを踏まえた上で、お願いしたいのは、ぜひ、あなたのお子さんに、「神の子の教育をしてほしい!」という、お願いです。こんなことをいうと、一般人なら、"そんな非常識な事!" と、怒るかもしれませんが、選ばれた、あなたなら、解ってもらえるはずです。といっても、" 特別な教育をして下さい! " と、いっているわけではありません。普段の生活の中で、普通にやれる教育をして下さいと、いっているのです。
たとえば、
と、いったふうに声をかける教育です。ただし、その場合、その子を神の子として認め、神の子として接するよう、心がけねばなりません。ですから、悪いことをしても、怒ってはなりません。叱って下さい。勿論、体罰はいけません。体罰を加えないでも分かる魂だからです。それより、良いところを引き出す、ほめる教育をして下さい。この教育は、今、妊娠中のお母さんにも、お願いします。
やりかたは、まず、お中に手を当て、
" お母さんの言うことを、よく聞いて下さいね!" と、いってから、
と、いったふうに、やさしく声をかけてやって下さい。他にも、童話を語ってあげても良いでしょう。童謡を唄ってあげても良いでしょう。音楽を聞かせてあげても良いでしょう。要するに、子供が喜ぶようなことなら、何でも結構ですから、やってあげて下さい。そのように接すれば、知らず、知らずのうちに、" ああ、自分は神の子なんだ! " という、意識が芽生えてくるはずです。今は、非常識かもしれませんが、その子が、大人になるころには、常識になっているはずです。
どうでしょう?。神の子の教育をすることは、悪いことですか?。良い子には育っても、決して、悪い子には育たないと思います。幼い頃に受けた教育というものは、大人になっても、なかなか、忘れないものです。ぜひ、あなたのお子さんに、神の子の教育をして下さい。これは、選ばれた者の義務だと思ってやって下さい。
これから、地球は、聖なる星に向かって、突き進んでゆきます。その牽引車となるのが、あなたのお子さんです。どうか、立派な牽引車に育つよう、神の子の教育をして下さい。
2012年7月15日 更新
よく、世間には、人を、おとしめようとする者がおります。でも、その者は、自分を、おとしめていることに、気付いていないのです。こういうことです。
人を、おとしめるには、まず、自分の中に色々な策略を思い巡らせなければできません。その者は、その策略によって、自分を、おとしめているのです。悪しきことを思い巡らせること自体が、自分を汚していることになるからです。これが、人を、おとしめんとする者は、自分を、おとしめているという意味であります。憎しみの思いも、恨みの思いも、怒りの思いも、どんな汚れた思いも、自分の中から出てくるわけですから、自分を汚さないで、人を汚せるわけがないのです。汚物を外に出すには、出口(自分の口)を汚さないではできないからです。
逆も真なりで、人を愛するには、自分を愛さなくてはできません。人を清めるには、自分を清めなくてはできません。愛も、清らかな思いも、自分の中から出てくるわけですから、自分の中に無いものは、出しようがないのです。その意味では、愛深い人は、沢山、愛のある人であり、憎しみ多い人は、沢山、憎しみのある人である、ということになるでしょう。
人は、自分です。自分は、人です。この宇宙には、自分しかいないのです。だから、人を汚せば、自分が汚れ、人を清めれば、自分が清められるのです。すなわち、自分を汚せば、人を汚し、自分を清めれば、人を清めるのです。
本来、憎しみも、恨みも、怒りも、自分が作らなければ、そんなものは、無いのです。なぜなら、この宇宙に、汚れたものなど、一つも無いからです。あるのは、清いもののみ、すなわち、愛のみです。愛は、実際にあるので、与えることはできますが、憎しみは、実際にないので、与えることはできないのです。人から憎しみをもらった、という人は、自分が作るから、あるのであって、自分が作らなければ、そんなものは、無いのです。自分が作らなければ、無い、という意味は、外側から、どんな憎しみがきても、受け取らなければ、影響は受けない、という意味です。
よく、人に騙され、老後の貯えを奪われたという人がおりますが、自分の中に、汚れた思い(欲望)が無ければ、騙されることは、無いのです。また、人のコソコソ話を悪くとって、憎しみの妄念を作り上げている人がおりますが、これも、自分の中に、人を悪く思う心が無ければ、そんな妄念を作ることは、無いのです。すべて、自己責任です。だから、人に、おとしめられたからといって、人のせいにしてはならないのです。同じ波動を持っているから、共鳴し、騙したり、騙されたりするのですから、おとしめる人も、おとしめられる人も、同罪なのです。この点、よくよく、注意せねばなりません。
2012年8月1日 更新
自覚に、グレーゾーンはありません。白か黒か?、自覚したか自覚していないか?、のどちらかがあるだけです。
未自覚の状態は、「地」にいて、眠っている状態です。
自覚した状態は、「天」にいて、目覚めた状態です。
つまり、人間だと思っている時は、地におり、生命だと思っている時は、天にいるのです。
未自覚と自覚の間には、はっきりとした境界線があり、その境界線を、またいで、天に入ったら、自分が大きく変わるのです。それも、観念的に変わるのではなく、現実的に、実際的に、変わるのです。
たとえば、ものの見方や考え方が、全く、違ってきます。今まで、見えなかったものが、見えてきます。つまり、視野が広がり、遠くのものが見通せるようになるのです。
正しい判断ができるようになるため、正しく思い、正しく語り、正しい行為が、当たり前のようにできるようになります。
さらに、驚くべきことは、自分の身体に、変性変容が起きてくることです。これは、驚くべき変化です。(変性変容について、詳しく知りたい方は、「自分を変える瞑想法」を読んで下さい。)
おもしろいことに、自覚の境界線を、またいだ、瞬間、この世が夢の世界だということが、はっきりと分かります。その時、一人で笑っちゃいます。
" 何だ!、今まで、自分は、夢を見ていたのか!、ハハハハ!" と・・・。
こんな体験ありませんか?。
夢の中で悪者に追いかけられ、心臓が止まりそうなほど、恐怖している。でも「これは、夢なんだ!」と思えた瞬間、恐怖が去ったという体験が・・・。
これと同じことが、自覚の境界線を、またいだ時に起きるのです。
私達は、今、夢を見ている真っ最中なのです。この夢には、寒さや、暑さや、痛みが伴い、また、夢にストーリー性があるため、誰もが、夢の虜になってしまうのです。夢が本当だと思えば、苦しく、悲しく、恐ろしいのです。この夢から目覚めるには、人生について、人間について、死について、宇宙について、深い疑問を持ち、その疑問の謎解きをしなくてはなりません。自問自答と瞑想は、その謎を解く、最良の方法です。
私は、「神である!、生命である!」と、心の底で思えた状態を、自覚の境界線を超えたといい、これが、夢から目覚めた状態です。でも、これは、本人にしか分からない意識の中の出来事ですから、人に伝えることはできないのです。だから、仏典の中にも、聖典の中にも、その記述が見当たらないのです。でも、幸せなことに、私達は、知花先生によって、自覚の大切さを学びました。つまり、進むべき、求めるべき、中身(道)を知ったのです。
2012年8月15日 更新
「花咲か爺さん」の童話には、一つの戒めと、一つの真理が隠されております。
一つの戒めとは、悪いことをすれば、不幸になり、良いことをすれば、幸せになる、という、因果応報の話です。
一つの真理とは、生命不滅の法則の話です。
ご存知のように、花咲か爺さんの話は、欲のないお爺さんは、殿様から、ご褒美をいただいて幸せになり、欲張りなお爺さんは、殿様の怒りを買い、不幸せになるという話ですが、この童話は、「悪いことをすれば、悪いことが起き、良いことをすれば、良いことが起きる」という、因果の法則を、分かりやすく説いた話なのです。
さらに、この童話は、生命不滅の法則を、説いている話でもあるのです。殺された犬の生命は、木に宿り、灰に宿り、桜の花に宿りました。どんなに姿を変えても、命の花は、永遠に咲き続ける、すなわち、生命不滅の法則を、この童話は、教えているのです。この話を、さらに、深く追及してゆくと、生命不滅の法則は、エネルギー不滅の法則でもある、ということも、分かってきます。
たとえば、熱エネルギーは、運動エネルギーに変わり、運動エネルギーは、位置エネルギーに変わり、位置エネルギーは、再び、熱エネルギーや運動エネルギーに変わります。そのエネルギーは、最終的に、大地や大気に還元されますが、どんなに、姿を変え、性質を変えても、エネルギーは、永遠に生き続けているのです。私達の命も同じように、姿を変え、性質を変えても、永遠に生き続けているのです。
2012年9月1日 更新
ここで、今日、私達が抱いている価値観が、本当に正しいかどうか、検証してみることにしましょう。
今日の社会において、希少価値の低いものは、疎んじられ、高いものは、大切にされています。なぜか?、それは、希少価値の低いものは、手に入りやすく、希少価値の高いものは、手に入りずらいからです。これは、当たり前のように思いますが、少し視点を変えれば、真逆になる価値観なのです。
よろしいですか?。なぜ、この世に、多いものと、少ないものが、あると思いますか?。それは、多いものは、必要性が高く、少ないものは、必要性が低いからではありませんか?。ならば、必要性の高い、空気や、水や、土が、貴重物になるのではありませんか? しかし、どうでしょう。この社会では、必要性の低い、金や、ダイヤモンドが、貴重物になっているのではないでしょうか?。
そうです。金も、ダイヤモンドも、人の欲と見栄が生み出した、この社会ならではの価値観で、真に価値ある物ではないのです。真に価値あるものは、私達の身近にある、空気や、水や、土です。金や、ダイヤモンドが、無くても、私達は、生きられますが、空気や、水や、土が、無ければ、私達は、生きられないからです。しかも、空気や、水や、土は、身近に、沢山あるため、手に入りやすいですが、金や、ダイヤモンドは、遠くに、少なくしかないため、手に入りずらいのです。これは、一体、何を意味しているのでしょうか?。
神は、生きるのに必要な物は、身近に、沢山、置き、あまり必要で無い物は、遠くに、少なく、置いてくれているのです。つまり、生きるのに必要な物こそ、価値あるもので、生きるのに必要でない物は、あまり、価値の無いものですよ!、ということを、神様は、教えてくれているのです。このように考えると、今まで、私達が抱いていた価値観が、誤りだったことに、気付くでしょう。
もう一つ、真に価値あるものを付け加えるとすれば、私達の労働力です。労働力が無かったら、たとえ、空気や、水や、土や、資源があっても、何も生み出すことができません。ということは、労働力こそ、真に価値あるものである、ということになるでしょう。
このように、真に価値あるものとは、それが無くては、生きられないもの、しかも、身近に、沢山ある、ありふれたものを言うのです。この自然の配剤の妙を深く追及すると、次のようなことが分かってきます。
「身近に、沢山あるものを、食べ、使えば、健康で、争いない社会を築けるが、遠くに、少なくあるものを、食べ、使えば、不健康で、争い多い社会になる」、という戒めです。人類は、この戒めを守っていないため、病気も、争い事も、絶えないのです。もし、人類が、この戒めを守ったら、この地球上に、病も、争い事も、一切、無くなるでしょう。
それが、真に価値あるものを、沢山、与えてくれた、神に対する、礼儀だと思います。
2012年9月15日 更新
キリスト教では、イエスが、人類のすべての罪を背負って、十字架にかかったと教えています。また、イエスは、神の一人子であるとも教えています。いずれも、イエスを神秘化するための作り話です。どうして、人の罪を、他人が肩代わりすることができるでしょうか?。なぜ、同じ手順を踏んで生まれた人間なのに、イエスだけが「神の子」で、私達は、「人間の子」なのでしょうか?。おかしいとは、思いませんか?。
この宇宙には、「原因と結果の法則」が、厳然として存在し、その法の下に、すべての生き物が、平等に生かされております。「因果応報」、「作用と反作用」、すなわち、「自分が蒔いた種は、自分が刈り取らねばならない!」という法則です。この法則は、宇宙を支えている絶対的法則ですから、いかなるものも、曲げるわけにはゆきません。なのに、どうして、他人が蒔いた種を、イエスが、刈り取ることができるのでしょうか?。池に石を投げ入れたら、投げ入れたところに、波は返ってくるのですよ!。投げ入れてもいないイエスのところに、どうして、波が返ってくるのでしょうか?。もし、イエスが、人類の罪を背負って、磔にかかったなら、なぜ、人類は、今もって、様々な罪に喘いでいるのでしょうか?。
また、代理贖罪が可能なら、人間に、自由意思が与えられることは、無かったでしょう。なぜなら、自由意思で悪いことをしておきながら、他人が罪をかぶってくれるなら、自由意思を与えた意味がなくなるからです。また、そんな、無秩序が、まかり通るなら、この宇宙は、一瞬の存在も、許されないはずだからです。
イエスが、磔にかかったのには、二つの理由がありました。
一つは、神に対する信仰心の深さを示すためと、もう一つは、原因を作れば、必ず、結果がやってくるという、因果の法則の確かさを示すためでした。
イエスは、手や足に釘を打たれようが、槍で突き刺されようが、神の信仰心を最後の最後まで捨てようとはしませんでした。身を消すこともできた、イエスが、わざわざ、磔の刑にかかったのは、どんなに、ひどい目にあわされようと、神を否定してはならない!、という信仰心の深さを、人類に見せるためだったのです。この信仰心の深さは、いついかなる状態に置かれようと、神は、決して、私達を見捨てない!、つまり、神は、必ず、良きようにしてくれるという、神の完全性(神の愛)の裏づけがあるからで、イエスは、それを、心の底から信じていたのです。
神は、完全です。その完全なる神が、理由なく、人間を苦しめるわけがないのです。苦しむには、苦しむだけの理由が、ちゃんとあるのです。その理由が分かれば、私達は、大きく成長できるのです。だから、苦しみは、悪いことではないのです。それが信じられたら、もう、何の憂いも、何の恐れも、何の心配もなくなります。傷ついても善し、病んでも善し、老いても善し、死んでも善しと、この身を、神に委ねることができるのです。それを、イエスは、我が身を犠牲にして教えてくれたのです。
もう一つの理由は、こうです。
偉大な知恵を持つ、イエスが、言い逃れできないはずはなかったのです。でも、それでは、磔の刑にはかからない、そこで、イエスは、あえて、言い逃れをせず(自ら磔になる原因を作り)、その結果、磔にかかったのです。なぜ、そのようなことをしたかといいますと、それは、どんな偉大な覚者であっても、原因を作れば、このような結果を招きますよ!、ということを、人類に教えたかったからです。ところが、キリスト教は、その教えを、代理贖罪にすり替え、イエスの意図を踏みにじってしまったのです。私は、このことを知った時、身震いしました。これでは、イエスの死は、犬死にではないかと・・・。これからでも遅くありませんから、ぜひ、この真実を知って下さい。
知花先生も、手や足に怪我をしたことがありましたが、それは、どんな覚者であっても、注意を怠り、自然の法則を犯せば、つまり、原因を作れば、このような結果を招くのですよ!、ということを、教えたかったからです。私達は、イエスや知花先生の実証実験の確かさを見せられたのですから、もう、そのような真似をする必要はありません。私達は、覚者の犠牲を無駄にしないためにも、法を信じ、法を守り、法を犯さないことです。
神を信ずるとは、宇宙の法を、信じ、守り、犯さないことです。人類が、法を犯さなくなったら、十字架にかかった、イエスの犠牲も、報われると思います。どうか、神を信じて下さい。宇宙の法則を信じて下さい。神は、法は、決して、悪いようにはしないのですから・・・。
2012年10月1日 更新
よく、" 本音で語りなさい!" といいますが、この本音とは、何かといいますと、神の心から発せられた音のことです。この音は、神音とか聖音とか呼ばれており、宇宙には、この精妙な波動の高い聖音のみが存在しているのです。でも、その聖音は、波動が精妙なため、通常、音として捕えることはできません。音にするためには、媒体が必要になるわけですが、その役割を担っているのが人間なのです。人間の声帯は、まさに、神の声を響かす聖なる場所です。だから、その場所を、「のど仏」とか「聖帯(声帯)」などといっているのです。しかし、残念なことに、今の地球人類の声帯からは、歪んだ音しか発せられておりません。(歪んだ音とは、偽心で語る言葉のことです。)
現状の地球で、聖音を降ろす役割を担っているのは、聖人たちだけです。彼らは、自分のことを、神だと自覚していますので、その口から語られる言葉は、みな、歪みのない聖音です。
ちなみに、聖人の「聖」とは、「耳」と「口」と「王」(王とは天のこと)と書き、これは、天の言葉を、正しく「耳」で聞き、正しく「口」に出して話す、「人」のことを意味しているのです。天の言葉は、波動が精妙なので、正しく受け取るには、大きな耳が必要ですし、また、口が歪んでいては、天の言葉を正しく話すことができませんので、まっすぐな口が必要です。だから、聖人の耳たぶは、大きく、口は、まっすぐな口をしているのです。これは、お釈迦様の像を見れば、分かっていただけると思います。政治家に歪んだ口をしている人が多いのは、言葉を正しく語っていないからです。
この聖音は、二千五百年前に、お釈迦様を通して、二千年前に、イエス様を通して、降ろされました。では、今は、聖音は、降ろされていないのでしょうか?。いいえ、そんなことはありません。この地球上に、聖音の閉ざされた時代は、一度もないのです。いつの時代も、どんな場所にも、どんな人種にも、聖音は、平等に届けられています。天は、えこひいきするようなことはしないのです。ただ、降ろされた聖音を、どのような解釈力を持って受け取るか?、どれほどの理解力を持って受け取るか?、によって、聖音になるか、ならないか、決まるだけです。
聖音を受け取るには、次のような、心がけが必要です。
以上の三点を守って受け取れば、歪みのない聖音を受け取ることができるでしょう。
先程、地球上に聖音の閉ざされた時代は無いといいましたが、その理由は、聖者がこの世を去る時には、必ず、後継者に、バトンタッチして帰るからです。いずれ、地球人類も、全員が聖音を語れるようになるでしょうが、その時こそ、地球は、聖なる星になるのです。
2012年11月27日 更新
宇宙エネルギーを注いでも、癒される人と、癒されない人が、出てきます。なぜでしょうか?。 与える側に、問題があるのでしょうか?、それとも、受け取る側に、問題があるのでしょうか?。
宇宙エネルギーは、決して、えこひいきするようなことはしません。どんな極悪人であろうと、どんな善人であろうと、平等に、エネルギーは、注がれてゆきます。注がれてはゆきますが、受け取る側に、準備ができていない場合は、受け取れないのです。準備ができていない場合は、という意味は、まだ、克服すべき課題がある場合は、という意味です。
この宇宙は、因果の法則によって、整然と運ばれていますので、その法則を無視して、病気になることも、癒されることも、無いのです。病気になるには、なるだけの原因があり、癒されるには、癒されるだけの原因があるからです。だから、どんなに最新の医療を受けても、原因を取り除かない限り、癒されることは、無いのです。もし、法則を無視し、強引に癒すならば、魂の進化を遅らせることになり、後々、大変な、しっぺ返しを受けるでしょう。だから、もし、私に、" 病気を治す万能の手を与えよう!" と、神がいわれても、私は、お断りします。なぜなら、私は、罪人には、なりたくないからです。人を安易に癒すのは、大変な罪を犯すことになるからです。
正しい治療法は、原因を取り除くことなのです。原因を取り除くことが、課題を克服する、という意味なのです。宇宙の法則を犯し、病気になったのですから、その事に気付き、生き方を正したら、病気が治るのは、当たり前なのです。病気は、気付きなさい!、課題を克服しなさい!、という警鐘なのです。
今、病気で苦しんでいる人は、どうか、警鐘に耳を傾けて下さい。そして、何を正すべきなのか?、どんな課題を克服すべきなのか?、自分に問いかけてみて下さい。必ず、答えが見つかるはずです。
これは、真理を受け取る場合にも、当てはまることです。
どんな素晴らしい真理も、受け取る側に準備ができていない場合は、受け取ることができないのです。準備ができていない場合とは、理解力が備わっていない場合、あるいは、理解力が備わっていても、既成概念にガンジガラメに縛られ、真理の受け入れる隙間の無い場合です。人それぞれ、魂の成熟度が違いますから、真理を受け取る能力(理解力)や環境が違ってくるのは、当然です。だから、同じ真理を伝えても、受け取れる人と、受け取れない人が、出てくるわけです。だから、私は、何事も、受け取る側に責任があるというのです。
2012年12月3日 更新
ある人から、こんな質問を受けました。
"悪業は、瞑想によって、消すことが可能である!、と、いっている一方、反省によって、消すことも可能である!、と、あなたは、いっておりますが、「汝の見るもの受け継がん!」という法則を前提に考えれば、これは、明らかに矛盾だと思います。瞑想は、悪を見ず、善(神)のみを見て、悪を消す方法ですから、納得できますが、反省は、悪を見て、悪を消そうとする方法ですから、法則に反すると思います。"
たしかに、この人の言うように、悪を意識して、悪を消そうというのは、法則に照らして、明らかに矛盾です。でも、瞑想で、簡単に悪業を消せるものでしょうか?。しかも、過去世で付けた悪業は、根深いため、簡単には、取れないのですよ!。そんな悪業を抱えながら、心静かに瞑想など、できるものではないのです。でも、今生付けた悪業ならば、反省によって、簡単に取ることができるのです。
例えば、ここに、二つの病気を抱え苦しんでいる人がいるとします。一つは、内臓にガン(過去生の業)があります。もう一つは、腕に外傷(今生の業)があります。外傷は、簡単に治すことができますが、ガンを治すには、大変な時間と手間がかかります。この場合、医者は、どのような治療をするでしょうか?。簡単に治せる外傷を、先に治そうとするでしょう。その方が、少しでも、苦しみを取ってやれるからです。これと同じことが、悪業を取る場合にも言えるのです。
瞑想によって、どんな悪業も消すことができるのは、確かです。でも、それには、相当な時間と手間が必要になるのです。私が、" 簡単に悟れるなら、反省などいらない!" というのは、ガン(悪業・悟る)を治すのは、容易ではないからです。ならば、簡単に治せる外傷(今生の業)を、先に治した方が、賢明ではないでしょうか?。
宇宙の法則は、臨機応変に用いなければなりません。相反するものも、使い方いかんによっては、善になるからです。
2012年12月20日 更新