どんなことでも、そうですが、何もしないで待っていては、与えられることは、ありません。真理も、同じことです。自ら探し歩いて、はじめて、与えられるのです。なぜなら、歩かなければ、目的地に着くことはないからです。
なぜ、生き物に足があると思いますか? それは、歩くためではありませんか? 歩けば、様々な人や物との出会いがあり、そこに、ドラマが生まれます。そのドラマが、真理を得る手掛かりになるのです。
このように、彼の偉大な覚者達でさえ、一時も休まず、歩き続けているというのに、どうして、凡夫の私達は、歩こうとしないのでしょうか? 歩かないで、求めないで、真理が与えられた人など、未だかつて、一人もいないのですよ!
どうか、自尊心を捨てて下さい。謙虚になって下さい。そして、歩いて、求めて、求め続けて下さい。向上心は、その望みの高さです。努力は、その意志の強さです。どんなことも、真理を得るために必要な道具です。どうぞ、しつこく、求めて下さい。しつこく、せがんで下さい。
どうでしょう? 我が子が、真理を欲しいと、せがんでいるのに、与えない親が、いると思いますか? 私達も、しつこく、せがめば、きっと、神様は、与えてくれると思います。
もう一度、いいます。待っていて、与えられることは、絶対ありません。
どうか、自ら求めて下さい。求めてこそ、与えられることを知って下さい。
2011年1月15日 更新
もしも、朽ち果てる肉体が自分ならば、肉体が朽ちるまで、面白おかしく生きたらいいでしょう。何をしようと、肉体が無くなれば、それで、お終いなのですから! もう、倫理も、道徳も、宗教も、必要ありません。勿論、先祖供養する必要もないし、子供たちに何かを残してあげる必要もないし、また、大意を抱く必要も、未来に希望を持つ必要も、夢を抱く必要もありません。し放題に、好き放題に、生きたらいいのです。それも、嫌なら、自殺したらいいのです。多くの人が、それができないのは、自分が、永遠の生命だということを、本能的に知っているからです。
そうです!
私達は、石ころみたいな虚しい存在ではないのです。本当の自分は、永遠不滅の生命です。意識です。本質です。神です。呼び名は、どうであれ、永遠に生き続ける生命が、本当の自分なのです。
しかし、自我(肉我)の自分は、それを認めようとしません。だから、律する自分と、放漫な自分との間で葛藤が生まれるのです。いわゆる、自我と真我との戦い、良心と偽心との戦い、サタンとキリストとの戦い、すなわち、聖戦です。
あなたには、良心がありますね! 理性がありますね! これが、人間は、神の子(生命の子)の証しなのです。私達は、自分が神の子であることに、薄々、気付いているのです。すなわち、本当の自分を、薄々、知っているのです。
2011年1月17日 更新
どんな物の中にも、その物を形作っている、本質が存在します。本質無き形体は、あり得ないのです。ならば、人間は、どんな本質で造られているのでしょうか?
どんな物も、分子の集まりであることは、現代人なら、誰でも知っています。その分子が、原子の集まりであることも、今や常識です。その原子が、人間の本質なのです。といっても、今の科学者達がいっている原子とは違います。絶対原子を内在させた原子のことです。厳密には、反原子と絶対原子を内在させた、三位(身)一体の原子です。(絶対原子のことを、魂とか、生命核、と呼んでいる。)
私達は、三位一体となった原子体(肉体)の中に、生命核(魂)を宿した、二重生命体なのです。例えれば、家を肉体と考え、家の中に灯された電燈を、魂だと考えたら分かりやすいかもしれません。要するに、形の中に電燈が灯されて、はじめて、使える物(生きる物)となるのです。
このように、人間は、原子によって組み立てられた肉体の中に、生命核を宿した、二重生命体なのです。形(家)の素材も、生命の素材も、同じ絶対原子を内在させた本質ですが、進化の過程が、少々違うため、同じように扱えないだけなのです。
この仕組みは、宇宙も同じで、宇宙の本質(属性)と人間の本質(属性)とは、瓜二つなのです。だから、人間の本質を追及すれば、宇宙を知ることができ、宇宙の本質を追及すれば、人間を知ることができるのです。これが、人間小宇宙といわれる理由です。
イエス様は、人間、神の子といわれ、お釈迦様は、仏の子といわれましたが、それは、神仏(宇宙)の属性のすべてが、人間に受け継がれているから、いえることだったのです。
宇宙には、唯一の本質しかありません。唯一の神しか存在しません。だから、神の呼び名が違うからといって、宗教戦争してはならないのです。
2011年1月20日 更新
全てのモノは、自分が作っているといったら、あなたは、信じますか? 信じませんか?
私達は、モノが先に存在し、後に意識がそのモノを認識したと思っています。しかし、それは、誤りです。先に認識があって、後にモノが生まれたのです。なぜなら、モノは、みな、自分の意識が生み出しているからです。自分が認識しないモノは、存在しないのです。自分が認めるからこそ、そのモノが存在できるのであって、自分が認めなければ、そのモノは存在できないのです。認識されるモノがあるということは、その前に、認識者が、必ず、存在し、そのモノを作っているということです。もし、先に結果体(モノ)が存在するならば、原因と結果の法則は逆転し、天地が逆様になってしまうでしょう。原因あっての結果です。「因果の法則」は、どんなに、変えようとしても、変えられない、真理なのです。
これは、次のような前提で、モノの成り立ちを考えれば、納得していただけるでしょう。
「認識者そのものが、そのモノの本質になっているということ・・・。」
既に述べたように、意識 = 生命 = 本質 ですから、認識したモノの中には、必ず、本質である認識者が存在するのです。そこに、そのモノがあるということは、そのモノを作っている認識者(本質)が、そのモノとなって、そのモノの中にいるということです。もし、そのモノの中に認識者がいなければ、そのモノは、あり得ないわけですから、認識できるわけがないからです。ですから、全てのモノは、認識者が作っているといえるのです。
つまり、モノは、自分の分身なのです。
本当の自分は、肉体ではありません。認識者です。意識そのもの、本質そのもの、生命そのものです。それが、本当の自分です。本当の自分を知るためには、自分が、意識そのものであり、その意識が、モノを作っていることを理解することです。
その認識者は、この宇宙に、一様(ひとさま)しか存在しないのです。その一様が自分ですから、自分がいなければ、この宇宙に、何も存在しないことになるのです。自分が抜けたら、一様しかいない本質は無いわけですから、宇宙が生まれるわけもないし、モノが生まれるわけもないからです。
さあ、本質の自分を心底で理解しましょう。その者は、もう、この世の何モノにも執着を抱くことはないでしょう。全てのモノは、自分そのものだからです。
2011年1月21日 更新
「嬉しい涙!、悲しい涙!」が、あるわけではありません。どんな涙であろうと、涙そのものには、何ら変わりはないのです。しかし、その涙の中に宿っている心色は、まるで違うのです。嬉しい涙には、嬉しい心色が、悲しい涙には、悲しい心色が、溶けて宿っているのです。こんな実験結果があります。
植物を、本当に怒りをもって、痛めつけた実験では、その植物は、相当のダメージを受けたといいます。一方、植物を強くするためと思い、愛情を持って、痛めつけた実験では、かえって、枝振りが良くなったといいます。
同じ怒りでも、心色によって、影響がまるで違ってくるということが、この実験から、はっきりと見てとれます。
私が、教育者に、怒りのムチで打つのではなく、叱りのムチで打ってほしいと願うのは、心色によって、子供たちに与える影響が、全く違ってくるからです。
本当に、子供を愛するなら、愛のムチで打って下さい!
本当に、我が子を愛するのならば、愛のムチで打って下さい!
想念ほど、頼もしく、また、恐ろしいものはないのですから・・・。
2011年2月6日 更新
これまで、世界中で、軍事費や災害防止費や事故防止費などに、どれくらいの予算が、つぎ込まれてきたことでしょう? おそらく、天文学的数字に上るでしょう。人類は、その膨大な予算を、どうして、心の研究に、つぎ込もうとしないのでしょうか? 災厄のすべてが心因にあるというのに、その心を無視するとは、どういう了見でしょうか?
何度も指摘してきたように、病気を含め、あらゆる不幸の原因は、心にあるのです。その心を整えたら、何もしなくても、幸せになるのです。なのに、人間は、原因である心を無視し、結果対処で物事を解決しようとしています。
どうでしょう。
そうではないはずです。どんなに結果対処したとしても、原因である心を放っておいては、根本的解決にはならないのです。
このようにいうと、"人の心を簡単に変えることができるくらいならば、とっくに、やっていますよ!" という、政治家がおります。しかし、やりもしないで、なぜできないと諦めてしまうのでしょうか? 未だかって、心の研究に、国の予算が使われたことは、一度もないのですよ!
せっかくのお金を使うのならば、生きたお金を使いましょう。どうか、心を重視して下さい。心に予算をつぎ込んで下さい。その先に、きっと素晴らしい社会が待っていることでしょう。
2011年2月14日 更新
"一向に環境が変わらない!" と、愚痴をこぼす人がおりますが、それは、努力が足りないからではありませんか?
たとえば、一生懸命、努力して、成績を上げれば、会社での地位も、給料も、上がることでしょう。
そうすれば、アパート暮しから、マンション暮らしに、変えられるかもしれません。
もっと、努力すれば、一軒家が持てるかもしれません。
それどころか、重役に抜擢され、大邸宅が持てるようになるかもしれません。
心の環境を変えるのも、同じなのです。
一生懸命、努力して疑問を追及すれば、理解力が高まります。
理解力が高まれば、気付きが起きます。
気付けば、自覚が高まり、変性変容が起きます。
このように、この世の環境も、心の環境も、努力次第で、いくらでも、変えることができるのです。
怠けていて、どうして、環境が変わりましょうか? 怠けている、ということは、歩いていない、ということですから、景色(環境)が、変わるわけがないのです。私が、他力を否定するのは、自分の足で歩かなければ、前進しないからです。前進しなければ、周囲の景色(環境)が、変わるわけがないのです。
自分の足で歩くという意味は、
何事も、努力と向上心なしには得られません。これは、当たり前のことで、何の不思議もありません。もしも、努力も、向上心も、不要ならば、この世に、そのような言葉は無かったはずです。あるということは、必要だからなのです。
2011年3月7日 更新
世の人々は、ポックリ死ぬことを願っております。苦しまず、一瞬のうちに死ねたら、こんな幸せな死に方はないからです。しかし、ポックリ死ぬことは、本当に良いことなのでしょうか?
世間では、ガン宣告することを避けています。特に末期のガン患者に対しては、その傾向が強いようです。今の医学では、ガンは死を意味するので、宣告された途端に絶望して、生きる気力を失ってしまうからでしょう。しかし、良く考えてみて下さい!
死が刻々と近づいているというのに、何の準備も、何の学びもさせず過ごさせることが、本当に本人のためになっているでしょうか? ガン患者は、死ぬ前に最後の学びをしようとしているのですよ!
ガンで死ぬ人は、死ぬまで一定期間の時間が与えられます。ガン宣告は、ショックかもしれませんが、宣告されることで、本人は、きっと、人生の思索をするはずです。
など・・・。
この思索は、魂を大きく飛躍させます。自殺や横死が犬死だといわれるのは、ポックリ死んでは、何の学びもできないからです。その意味では、死刑執行まで時間が与えられている死刑囚は、少なからず、学んで帰っているはずです。死刑囚とガン患者を一緒にするのは、不謹慎かもしれませんが、思索の時間が与えられている点では、同じだと思います。
だから、私は、死ぬまで時間の与えられているガンに対して、"ありがとう!"と、いいたいのです。(死ぬまで時間の与えられている他の病気も同じです。)
本当に、その人を愛するなら、苦しみを避けて通してはなりません。非情な言い方かも知れませんが、これは、愛するがゆえにと思って下さい。とはいっても、青い果実を、強引に、もぎ取るようなことはしてはなりません。つまり、ガンを宣告するにしても、その人の魂の成長が、どれほどなのか? 本人の心情が、どのような状態なのか? さらに、良くよく機会を伺い、適切な判断を持ってやることです。もし、魂が幼すぎて、宣告が耐えられないようなら、避けるべきでしょう。
苦しんでいるのは、当人だけではありません。肉親も、一緒に苦しんでいるのです。その苦しみを、苦しみで終わらせないためにも、病気から学んで下さい。
人間は、近視眼的モノの見方しかできないため、事の真意が把握できないでおりますが、神の意図は、苦しみの中に息づいているのです。どうか、苦しみの中に隠されている、真意を把握して下さい。そうすれば、苦しみや悲しみを、成長につなげることができるでしょう。
本当は、苦しまず、死を迎える方が良いに決まっています。しかし、幼い魂の多い今の地球では、死の苦しみは、必要なのです。その意味において、死は、地球人類の成長につれ、静かに、穏やかに、ポックリと、迎えられるようになるでしょう。
2011年3月22日 更新
近年、ますます、宝クジの当選金額が高額になっておりますが、これほど、国民を堕落させる悪法はありません。「国民に夢を与えるため!」だとか、いっておりますが、愛の法則を知らないから、そんなことを平気でいうのです。
宝クジに、当たって幸せになった人など、未だかって、一人もいないのですよ!
" 私は幸せになりました!" という人は、人生の続きを見ていないからです。
この宇宙は、楽して、得するようにも、苦しんで、損するようにも、できていないのです。なぜなら、この宇宙は、愛の法則で支えられているからです。愛の法則は、バランスですから、偏りを嫌うのです。もし、愛の法則に逆らい、楽ばかり追いかけるなら、反動として、大きな苦しみが与えられるでしょう。
たとえば、
事実、" 私は何も悪いことをしていないのに、なぜ、こんな苦しい目に合わねばならないのだ!" と、嘆いている人がいるではありませんか。その人は、前世のツケを、今生で払わされているのです。因果応報に支えられている愛の法則は、決して偏りを許しません。この愛の法則は、絶対的法則ですから、誰も逆らうことはできないのです。
だから、楽して儲けようなど、よこしまな考えは、持たないことです。" 今、よければ良い!" という人は、どうぞ、愛の法則を犯して下さい。来生、きっと、地獄のような苦しみが待っていることでしょう。
どうか、額に汗して働いて下さい。愛の法則は、きっと、あなたの生命核(魂)を大きくしてくれるでしょう。
2011年4月1日 更新
神は、なぜ、痛みや苦しみを、用意されたのでしょうか。
それは、次のような理由からです。
1、肉体を粗末に扱うのを避けるため。
もし、痛みや苦しみが、無かったら、自分の体を粗末に扱ってしまうでしょう。それでは、肉体維持は適いません。(それでなくても、人間は、怪我をしたり、病気をしたり、人殺しをしたり、自殺をしたり、肉体を粗末にしている。)
痛いから、気を付けるのです。痛いから、身を守ることができるのです。痛みや苦しみは、危険から身を守る、警報装置の役割を果たしているのです。
2、現実を現実たらしめるため。
もし、痛みや苦しみが、無かったら、私達は、この世を夢か幻だと思い、真剣に生きようとしないでしょう。それでは、何一つ学ぶことができません。この世が、修業の道場といわれるのは、痛みや苦しみを通して、真剣に学べるからです。
3、神に顔を向けさせるため。
人間は、真実を知るために生まれてきたにもかかわらず、一向に、真実に顔を向けようとしません。だから、神は、顔を向けさせるために、痛みや苦しみを用意したのです。
誰でも、耐えられない痛みや苦しみに襲われると、"神様、助けて下さい!" と、神頼みするようになるものです。これは、人生の思索を始める、重要な一歩になるのです。
4、反省をさせるため。
痛みや苦しみに、襲われると、"なぜ、私は、こんなに苦しまねばならないのか?、何かバチでも当たったのか?" と、疑問を持つようになります。痛みや苦しみが、無かったら、自分が暴走していても、気付きません。振り返ってこそ、反省してこそ、どんな走り方をしているか、気付くのです。反省は、方向転換させる、大変意義あることなのです。
5、疑問を持たせるため。
4の反省は、結局、人生の思索を始める、きっかけになります。人間とは、何か?。人生とは、何か?。人は、死んだら、どうなるのだろうか?、等々・・・。これは、特に、死に直面している人の中に芽生えてきます。疑問は、気付きにつながり、気付きは、目覚めにつながります。だから、痛みや苦しみは、眠っている魂には、どうしても、必要なのです。
6、因果の法則を知らしめるため。
善い行いには、良い結果が、悪い行いには、悪い結果がついてきます。でも、痛みや苦しみが、伴わなかったら、そのことに、気付くことはありません。悲しいことですが、人は、この身で、痛みや苦しみを体験しなければ、自分の過ちに気付かないのです。痛みや苦しみは、因果の法則を知らしめる、重要な役割を果たしているのです。
7、肉体の執着を解くため。
幼い魂は、肉体を、自分だと思い違いしていますので、寿命が来ても、なかなか、肉体から離れようとしません。でも、どんなに、執着を持っている、魂も、耐え切れない、痛みや苦しみに襲われると、肉体から出たいと思うようになります。痛みや苦しみは、肉体の執着を解く、重要な役目を果たしているのです。
8、相手をいたわる心を育てるため。
自分が体験した、痛みや苦しみは、結局、相手を、いたわる心を育てます。"自分が、あれだけ痛かったのだから、相手も、同じように痛いはずだと"・・・。つまり、自分の苦しみを、相手の中に見ることができるようになるのです。特に、肉親の痛みや苦しみは、自分のこととして、受け止められるだけに、より、切実に感じるでしょう。この切実感が、魂を大きく成長させるのです。
このように、痛みや苦しみは、今の私達にとって、なくてはならないものなのです。神は、何一つ、不要なものは、お作りになっていません。だから、痛いから、苦しいから、といって、神を憎んではならないのです。憎むのではなく、なぜ、このような苦しみが与えられたのか、自分に問いかけることが大切なのです。
2011年4月1日 更新
これまで、私は、この世は、非真実の世界である! 幻の世界である! と、何度も訴えてきました。世の偉人達も、この世は、無常の世界である、といっております。しかし、多くの人は、移り行く、この世の儚さや、人の死の哀れさを、目の当たりにしながらも、未だに、この世を真実の世界だと思い込み、消えゆく、物やお金のために、あくせく働いています。なんと、可哀そうな事でしょう!
今、お金や物に生きている人は、幻に生きているのですよ! 幻に生きているということは、死んでいるということです。
どうも、私達は、長いこと、人間として生きてきたがために、長い物に巻かれてしまったようです。
それは、長いこと、寅さん役をやっていた渥美清が、本当に寅さんになってしまったようなものです。
さあ、もう一度、目を見開いて下さい。
この世は、無常の世界なのです! 実際に無い世界なのです!
どうか、実際に有る、生命に生きて下さい。その人は、真に生きている人なのです。
2011年4月3日 更新
お釈迦様は、生まれてすぐ、三歩あゆむと、天と地を指さしながら、"天上天下唯我独尊" と唱えたといわれます。でも、これは、お釈迦様を神秘化するために、後の人が作った作り話です。お釈迦様は、私達と何ら変わらない手順を踏んで生まれた、普通の人間です。どうでしょう。生まれたばかりの赤ちゃんが、歩くと思いますか?。話すと思いますか?。
天上天下唯我独尊の字も、意味も、誤謬化して伝えられています。「天上天下唯我独尊」という字が使われていますが、本当は、「天上天下唯我独存」が正しいのです。その意味も、「この宇宙で自分が最も尊い者」と伝えられていますが、正しくは、「この宇宙には、自分(私)しか存在しない!」という意味なのです。
お釈迦様は、説法の中で、"この宇宙には、私しか存在しません!" と、はっきり、いっておられます。この、 "私しか!" 、という意味は、仏しか(神しか)存在しない、という意味で、人間を含め、万象万物は、みな、仏(神)の現れですから、お釈迦様が、"私しか存在しない!" と、いったのも、頷けるというものです。(仏と神は同じ)
2011年4月8日 更新
私抜きで、何事も始まりません。その宇宙において、私は、唯一の存在であり、主役なのです。なぜなら、私の意識は、主観的意識だからです。この主観という見方が、その宇宙を理解する上において、とても大切なことなのです。
主観という意味は、一つの立場から観る、世界観・宇宙観のことです。ですから、その立場(主観)に立てる者は、一様しかいません。唯一の宇宙しか存在しない理由は、その立場に立てる主観者は、一様しかいないからです。その宇宙を存在させているのは、唯一、その主観者であるということです。
その主観者が、私なのです。あなたなのです。ということは、その主観者は、人類の数ほど存在することになります。なぜなら、一様しか存在しない主観者は、内側には、一様しかいないけれど、外側には、人類の数ほど存在しているからです。ならば、その宇宙は、人類の数ほど存在することになり、その主観者が、観ずる宇宙は、無数にあることになります。(人類は、無数に存在している。)
その宇宙と表現したのは、その主観者の観る宇宙は、という意味であって、唯一の主観者を意味しているわけではありません。すなわち、唯一の主観者は、一様しかいないけれど、その主観者は、人類の数ほど存在するという意味です。
私達は、何かを認識できる意識を持っているわけですが、その意識は、あくまでも、主観的なものです。主観者が認めなければ、何も存在しない理由は、主観者が認めて、はじめて、認められるものが存在できるからです。認める者がいなければ、宇宙は、おろか、何も存在できないのです。その認識できる意識は、あくまでも、主観的なものですから、主観意識を持つ私達は、唯一の主役であるといえるわけです。主観者抜きで、何も始まらないのは、主役抜きでは、何の物語も生まれないからです。
神とは、この主観者のことをいうのです。主役のことをいうのです。だから、私は、神です。あなたは、神です。その意味では、この宇宙には、無数の主役(神)が存在すると同時に、唯一の主役(神)しか存在しないことになるでしょう。先ほども、いったように、その主観者は、外側には、無数に存在するけれど、内側には、一様しか存在しないからです。
人の意識状態が大切なのではない! 自分の意識状態が大切なのである。
なぜなら、自分の意識の外に、何も存在しないからである。
2011年5月11日 更新
これまで、何度も述べてきたように、強い決意は、原子核(魂)を間違い無く増やします。では、その決意の有益な使い方を教えましょう。
1、瞑想に使う。
瞑想には、集中力が必要ですが、殆どの人は、雑念に阻まれ、納得できる瞑想ができないでおります。その雑念を、強い決意をもって、退けようというのが、一つ目の使い方です。
まず、瞑想に入る前に、"私は、これから、生命に一心集中します!。生命以外、何も思いません。" と、強く決意して下さい。そうすれば、意識の中に決意の壁ができますので、雑念が入りづらくなります。
2、反省に使う。
反省で重要なのは、反省前の強い決意と反省後の強い決意です。
反省前の強い決意とは、"私は、断崖絶壁から飛び降りるくらいの強い決意を持って、反省する"、という、強い決意のことです。つまり、命を懸けるくらいの強い気持ちで、反省することです。
反省後の強い決意とは、"二度と過ちを犯さない!"と、良心に堅く誓う決意のことです。
3、自分を大きくするのに使う。
人間は、楽な方へ、楽な方へ、と傾きたがります。これは、肉体を持つ人間の弱さですが、そこに付け込んで、堕落へ、怠惰へと、誘ってくる邪悪な波動があります。この誘いに勝つためには、強い理性と強い決意が必要です。甘い誘惑が来たら、強い決意を持って次のように退けて下さい。
"誘惑に負けてたまるか!、サタンよ退け!"と・・・。
聖戦とか、ジハードとか、いわれる戦いは、この、サタンとの戦いのことで、これは、もろ刃の剣のような戦いなのです。つまり、誘惑に勝てば、原子核を増やせるが、負ければ、自分を堕落させるという、裏腹の意味を持った戦いです。それほど、強い決意は、私達が考えている以上に、重要なことなのです。どうか、決意を有効に使って、自分を大きくして下さい。
2011年6月5日 更新
人生の目的を見失うと、どうしても、生き方にブレが生じてしまいます。物に溺れる人、金儲けに躍起になる人、ギャンブルに手を染める人、地位や名誉に固執する人、権力に執着を持つ人、情欲にのめり込む人など、みな、目的地を見失った人達です。目的地が見えないと、人間は、どうしても、迷ってしまうものなのです。
はっきり、いいましょう!。
「私達は、本当の自分を発見するために、生まれてきたのです。」
人生は、そのためにあるのです。これさえ、しっかり掴んでいれば、たとえ、病気になって、人生を疑るようになっても、ブレが生じることはありません。もし、人生にブレが生じた時には、「人生の目的は、何なのか?」に、思いを寄せて下さい。そして、「本当の自分を発見するために、生まれてきたのだ!」ということを、思い出して下さい。きっと、軌道修正できるでしょう。
2011年7月11日 更新
人間は、何ものにも邪魔されない、自由意志を持っています。しかし、その自由意志で、自分を苦しめていることに、誰も気付いていないのです。
私達の想念は、何でも作り出す偉大な力を持っています。しかし、人間は、そのことを知らないために、その偉大な想念を自由意志で悪く使い、自分を苦しめているのです。想念を良く使えば、幸せになれるのに、悪く使って、苦しんでいるのです。
自分の身に起きた苦しみは、すべて、自分の想念による作品です。誰かに強要され生まれた想念の作品ではないのです。自分の自由意志を使って生まれた想念の作品なのです。
それなのに、人間は、何か悪いことが起きると、人のせいにします。これは、自分の想念で作品を作っていることに、気付いていないからです。
近年、占いがブームになっているようですが、そんなものに頼っている人は、自分の人生を、サイコロ任せにしている、無責任極まりない人です。他人や、占いや、偶然や、どこかの神が、自分の人生を作るのではありません。
自由意志を持つ自分自身が、自分の想念を使って、自分の人生を作るのです。その想念を、良く使うか、悪く使うかは、自分の自由意志なのです。
賢い人は、自分の想念を良く使い、幸せな人生を送っています。
愚かな人は、自分の想念を悪く使い、不幸せな人生を送っています。
これは、誰の責任でもありません。自由意志を持つ、自分の責任です。この自由意志は、人間にだけ与えられた特権で、他の動物には、このような特権はありません。
さあ、特権を有意義に使って幸せになって下さい。そのためには、自分の人生を人任せにしないことです。どうか、自分の人生に、責任を持って下さい。
2011年7月29日 更新
今の自分に、嫌気がさしている、あなた!
自分の人生が、無意味に思える、あなた!
前が真っ暗で、先が見えない、あなた!
に進言したい、ぜひ、私の勧めることを実践してみて下さいと・・・きっと、自分を変えることができるでしょう。
私達は、正真正銘の神の子です。ですから、本来、私達の心には、一点の汚れも付いていないのです。ただ、肉体を自分と思い違いすることで、心に汚れを付けてしまっただけです。でも、それは、心に汚れが付着しただけで、心そのものが汚れたわけではないのです。だから、汚れを落とせば、そく、神の心に戻すことができるのです。
良く、水が汚れたといいますが、未だかって、水は汚れたことはありません。水にゴミが付着しているだけです。ゴミを取り除けば、そく、綺麗な水に戻るのです。
心の汚れも同じなのです。
では、どうすれば、心の汚れを落とすことができるのでしょうか?。それは、反省をすることで落すことができます。反省は、心の汚れを落とす、唯一の方法なのです。(反省の仕方は、「自分を変える瞑想」に書いてありますので参考にして下さい。)
反省で一番大切なことは、反省後、"二度と過ちを犯さない!"、という、堅い決意と誓いをすることです。後は、日々、心に汚れを付けないよう注意して生きていれば、神の心と自分の心が共鳴するようになり、神のエネルギーが、神の光が、入ってくるようになります。この現象は、第一次の変性変容が起きた事を意味し、自分が変わった証しです。
このように、自分を変えるコツは、心の汚れを落とすことです。少々、難しいかもしれませんが、本当に自分を変えたいなら、ぜひ、挑戦してみて下さい。
2011年8月18日 更新
このようなことを言う人がおりました。
"私は、アセンションが終わってから、人生設計を立て直すのだと"・・・。
なんと、愚かな考えでしょう。この人は、アセンションが起きれば、自分が変わると思っているのです。自分は、何もしないで、どうして、自分が変わるのでしょうか?。神は、怠け者に、都合の良い仕組みなど、作るわけがないのです。
よろしいですか?。
この宇宙は、愛のエネルギーが、均一に遍満しているのですよ!。宇宙のどこかに、エネルギーの高い場所があるわけではないのです。ならば、どうして、アセンションが起きるのでしょうか?。アセンションとは、自力で波動を上げれば、高い波動と同調できるようになるため、ヒント(啓示)が得やすくなる、という意味です。そのヒントをもとに思索すれば、当然、自分の意識を高めることができるでしょう。高い波動と同調できるという意味は、守護霊と同調できるという意味で、これは、あくまでも、自力によるのです。だから、私は、常々、" 自力で波動を上げなさい!、そうすれば、守護霊が導きやすくなりますよ!" と、いっているのです。
「こちらが、一歩、近づけば、神は、百歩、近づいてくれる!」
とは、このことをいっているのです。守護霊は、常に、私達を導こうと身構えております。でも、今の私達は、波動にギャップがありすぎて、導こうにも導けない状態なのです。それは、欲におぼれ、波動を落としているからです。欲に目がくらまされ、お金や物の虜になっている間は、守護霊は、導きたくても導けないのです。
たしかに、ふたご座の時代から、みずがめ座の時代に移行しつつある今、かってないほど、人類の意識が高まりやすい環境にあるのは、事実です。それは、今、地球上に多くの覚者が下生し、法を説いているからです。でも、それは、あくまでも、真理を、自力で追及しての話であって、何もしないで、意識が高まるわけではないのです。何もしないで、自分が変われるなら、こんな楽なことはありません。
原因あっての結果です。良い原因を作りもしないで、どうして、結果だけ良くなるでしょうか?。神が、そんな仕組みを作るわけがないのです。もし、作るなら、神は、全能でなくなります。また、そんな仕組みがあるなら、わざわざ、この世に生まれてくる必要もないではありませんか?。
どうか、巷のうわさに惑わされないで下さい。
2011年9月15日 更新
※ アセンションの真の意味は、"節目の時代に多くの覚者が下生し、法を説くことによって、真理が根付き、地球(人類)の波動が、上がる" 、と言う意味です。
求道者の中に、このような人がおります。
このような人は、自分で勝手に言い訳を作って、求道に背を向けている臆病者です。本来、求道に、障害物などあるわけがないのです。神を求めている人の前に、どうして、神は、障害物を置くでしょうか?。もし、障害物があるとしたら、それは、生半可な自分を叱咤激励するために、自分が置いた障害物でしょう。
神は、いつでも、手を広げて、私達のくるのを待っています。
どうか、臆病にならないで下さい。
どうか、真理に背を向けないで下さい。
神は、乗り越えられない障害物は、決して置かないのですから・・・。
2011年10月19日 更新
"真理を求めたいが、求めるのが苦しい!"、といわれる人に、私は、言いたい!、強い勇気と強い意志をもって下さいと・・・。たしかに、この世の生活をしながら、真理を求めるのは、大変なことです。でも、今、せっかく、布石が打てるというのに、そのチャンスを逃しては、大損ではありませんか?。このチャンスを逃したら、また、いつ、チャンスが巡ってくるか、分からないのですよ!。あなたは、また、何千年も、さ迷いたいのですか?。また、同じ苦しみを味わいたいのですか?。もう、こりごりですよね!・・・。
本当は、苦しんでいることを、あなたは、喜ぶべきなのです。なぜなら、苦しむところまで、魂が成長してきたからです。世の中には、この言っている意味さえ分からない魂が、沢山、いるのですよ!。それに比べたら、意味を知っている、あなたは、どれほど、成長した魂か・・・。さあ、魂の望みに応えるためにも、今、一つでも多く、布石を打っておきましょう。それは、誰のためでもない、未来の自分のためなのですから・・・。
確かに、多くの人が、外で汗まみれになって働いている時、一人、静かに、神に意識を向けている自分に、疑問を持つのも、無理はありません。いくら、神に意識を向けても、一向に手応えがない!、一体、こんなことをして、本当に意味があるのだろうか? そう思うと、虚しくなって涙が出てくる・・・。でも、良く考えてみて下さい。外で働いている人達は、永遠のものを求めているのですか? 朽ち果てる物を求めているのですよ! それに対して、あなたは、永遠のものを求めているのですよ!
どうか、自分を信じて下さい。神を信じて下さい。この宇宙の仕組みを信じて下さい。宇宙の法則を信じて下さい。それが、信じられたら、あなたに、もう、迷いはないはずです。
2011年11月10日 更新