○宇宙(十字)の法則
私達の想念というのは、何でも作るんよ。私達の想念というのが、いかに大切かっちゅうことをね。これを肝に銘じて欲しいんですよ。全部自分の想念で作ってんよ。幸せも不幸も、想念が全部呼び寄せてんよ。良い想念を出せば良いものが、悪い想念を出せば悪いものが・・・。これはね、想念はエネルギーそのものだからなんよ。エネルギーを出したら、その出したところに必ずエネルギーが入って来て均等にさせられる。悪いエネルギーを出したら悪いエネルギーが、良いエネルギーを出したら良いエネルギーが入ってくるの。均衡にさせられるの。これはもう法則だからね。だから私がいつも言うように、二つの法則は守って欲しいんですよね。十字の法則ですよね・・・。この十字は、人間の形を表してるんよ。キリスト教の十字架もそうなんよ・・・。横は陰と陽の法則を表し、縦は原因と結果の法則を表している。陰陽の法則とは、物質とエネルギーの均衡を保つこと。今人類の文明は、物質に偏りすぎちゃってますよね。だから、いろんな悪いことが生まれてる。これはこっちに偏り過ぎているからなんですよ。だから、エネルギーに偏って欲しいんですよ。エネルギーに偏って欲しいというのは、今の人類はあまりにも物質に偏り過ぎているからなんよ。本当は、こっちに偏り過ぎてもダメ、こっちに偏り過ぎでもダメなんよ。真ん中に来なくちゃ・・・。今の地球人類は、あまりにも物質に偏り過ぎているから、中心に戻す必要があるんよ。物質的に偏ると、どうしても苦しみが来る・・・。要するに想念の使い方だよね。想念を神の方に向ける。エネルギーの方に向ける。これは瞑想したらいいわけだから・・・。瞑想している時は中心にいるわけよね。神を思うということは、中心にいるっちゅうこと・・・。
この縦の原因と結果の法則は、さっきも言ったように、いいことをしたら、いい結果が返ってくる。つまり、いい思いを発したらいいことが返ってくる。だから、全部想念が関係しているわけよ。想念がいかに大切か、ということよね・・・。私達の幸不幸もそうだし、人類の幸不幸もそうだし、すべて想念次第ってわけよ。私たちは、何でも思えるもね。思うことは自由にできるでしょう。誰にでも自由な想念与えられている。どう思うかだけだもね。それは人に関係ないんよ。自分がどう思うかなんだから・・・。なんぼでも良く思えるんでしょう?・・・。ところが、一般の人達はこの想念を悪用しちゃってんの・・・。もう欲念に使っちゃてる・・・。そうすると、陰陽の法則も原因と結果の法則も二つとも動かしちゃうわけだから、それはもう病気にもなるし事故にも合うし、大変だよね。でもそのことが分からないから、今の社会では病気したら、仕方が無いとか、不可抗力だとか言ってるんよね。事故だって、みな偶然だと思っている、仕方無いと思ってる。とんでもない話よね。自然災害もそうよー。でも、みんな仕方ないで済ませちゃってる。私の叔父さんの会社のトラックが、エンジントラブルを起こして、列車と衝突した事故があっんだけれど、原因がわかんなかったものだから、仕方ないで済ましてしまったんよね。警察も、運転手も、これは仕方ないってね。でも、よく考えてごらん。あんな北海道の大平原の真っ只中でね、それも一時間に一本しか走っていない列車とどうしてぶつかるの?・・・何十万分の1以上の確率よ、これ・・・。それが偶然だって言うんだからね。みんな偶然だ!、偶然だ!、で済ましてるんよ。スリにスラれたのも偶然、頭の上に鳥の糞が落ちて来たのも偶然、石に躓いて転んだのも偶然、みな偶然で済ませてんよ。全部原因と結果の法則よ。原因を作ったから、頭に鳥の糞が落ちて来たんよ。こないだ私の車にね、糞が落ちていたのね。まあ、あまり気にしなかったんだけど、何回かやられるもんだから、ちょっと考えたんよ。したら、分かったんよね。あなたはね、たまには車を洗ってやりなさいって・・・そう言うことなんよ。私はね、真理のことは100%なんだけど、この世のことは五十歩百歩でいいと思ってたんよ。でもやはり、まずかったんでしょうね。だから鳥が教えてくれたんよ。
○想念は神
想念の中に神がいるんよ。だから、神の想念と自我の想念が近くなればなるほど、神に近い想念が出せるようになってくるよね。ところが私達は、肉体だと思っているから、肉体に都合の良い想念を持つようになるんよ。だから欲望を持つわけよ。いいもの着たい、いいもの食べたいってねー。これはね、自分のこと肉体だと思っているからそう思うんよ。そんな食べ物の欲望なんか、喉元過ぎれば、舌にちょっと触ったら終わりよ。着るものだってそうなんよ。あのねー、NHKのアナウンサー、毎日違うもん着てるよね。特に女の人。大変よねー。あの人達、どれだけ給料貰ってるかしらんけれど、あれも全部自我よ。よく見せたいのね。自我って、そういうもんよ。肉体を自分だと思ってるから、よく見せたいと思うんよ。ところが、神我が自分だと思ったら、どうして良く見せる?。形で見せられるわけないんだから・・・でしょう。よく見せるのにどうするの。それはやはり、想念しかないよ。想念を良くしていれば、形にも良く出てくんよ。それは、格好の良い形という意味じゃ無いよ。つまり行動で出てくるの。表現としては。思いというのは見えないよね。見えない思いを、表現するには形を通してやるしかないよ。だから神は、人間の形を通して自分を表現してるんだもね。だから手も、喉も、顔も、神の表現媒体なんだもんね。だから私達は、毎日神の思いを表現してるじゃない。手や口を使って・・・字を書いてるのもそうよ。何か物を組み立ててるのもそうよ。神がやってるじゃない実際・・・。神が声出してるじゃない。この喉仏というのはそうでしょう。仏なんよこれ。神なんよ。この喉仏を使って声にして神を表現してるじゃない。なのに分からないんだから。自分が神の分身だということが分かんないんだからね。実際神がやってんのに・・・。この想念というのが結局は、陰と陽、原因と結果をすべて良くする元なんよ。だから、想念をいかに大切に使うかなんよ。これをね、何とか皆さんに分かってもらいたい。いい想念を持つようにしてほしい。これは、ここにいる学んでいる人はやってほしい。そしたら、自分の心の中の環境まで変わってくるから。ぜひ、想念の管理して欲しい。つまり、できるだけ神を想うこと。それが一番大切なことなんよ。良いことを思えばいいんだから・・。ありがとうでもいいんよ。感謝の思いとか。幸せだな、嬉しいな、楽しいなあ、でもいいんよ。これは良い波動だしてんだから・・・。まあ、それよりも、「吾神なり!」と思ったときの波動というのは、すごいんよ。神が神を思うんだから。そうでしょう。神が神を思うんだからね。それこそ、素晴らしい波動が出るよ。その時には、悪い想念を出してないんでしょう。同時に二つの想念を持つことができないんだから・・・。「吾神なり!」と思ってる時には、二重の良いことをしてることになるんよ。なぜなら、憎しみの悪い想念から「吾神なり!」の良い想念に変わるわけだから、・・・・。だから常に良い思いを出して欲しいんですよ。そしたら、間違いなく環境も良くなるから。そしたら、なお一層真理を求めやすい環境が与えられるよ。神様というのは、自分を知って欲しいんだもんね・・・。自分に顔を向けている子供というのはかわいいよね。人間だってそうだよね。子供が親に反発してたら、親はかわいくないよ。でも、お父さんお母さんって言ってる子供っていうのは、かわいいよね。神様だって同じよ。お父さんって言って来てる子供を、神様は絶対泣かせるようなことはしないよ。だから私は、祈りの曲が一番好きなんよ。昔ね、私がまだ神を知らなかった頃、毎日毎日、西の空に向かってね、「私を世のため人のために使ってください」って祈っていたんよ。もう何年間も、ずーっと祈ってたんよ。それがあの曲なってるんよね。だからあの曲の中にね、私の思いが込められるよね。皆さんもね、「私を世のため人のためにお使いください」って祈ってほしいの。そしたらね、守護霊が黙ってないよ。守護霊と神とはね、直通だからね。だから心から祈ったら、その人が今できる一番いい方向に運んでくれるから。使ってくださいって言ってんだから、使ってくれるのは当たり前よ。実際にね、使ってくれてたんだからね。本当よ。使ってくれてんよ。これはね、ものすごいことなんよ。これは計画通りと言ったら、計画通りかもしらんけど。本当に使ってくれてるんよ。私がそうなんだから・・・。藤島さん、あの祈りの曲、どういう気持ちで作ったの?。この一曲作った時の動機?・・・。
「ちょうどその頃、真理を始めていたんです。それで、この悲惨な世界に心が痛んで、いつか戦争がなくなってほしい、飢餓がなくなってほしい、みんなが一つになってほしい、そんな願いから、祈りという曲が生まれたんです。」
○祈り
なるほどね。そうだよね。それはもう、一番目に見える形の祈りだよね。私の祈りは、ちょっとそれの上を行っているのね。つまり、形の無い世界から自分を通して神を表現させるには、神と導通させなくちゃなんないのね。神に意識を向けて、神様お願いしますって思いをこっちから発信しなくちゃなんないのね。さっきも言ったように、思いを出したら入ってくるから・・・。神に向けて出したモノは、必ず神から入ってくるの。思索っちゅうのもそうなんのよ。自分の良心に向けて、こういうことはどういうことですか?って、疑問を投げかけると、こういうことですよって、自分の中から出てくるのね。それと同じなんよ。神様どうぞ私を使ってくださいって、神に向かってボールを投げたんだもんね。そしたら、神からボールが返ってくるんよ。必ず使ってくれるよ。皆さんもね、絶対祈るべきだと思うよ。はっきりした形で使ってくれるかどうかは分らないけれど、でも神が近づいてくれることは確か。「どうか神様、私を使ってください!」と神に全託するような形にしてごらん。ものすごく神は使いやすいよ。そこに我が入っていないから・・・。欲が入ってないから・・・。動機が純粋だと神は使いやすいよね。神というのは、素直でしょう。純粋でしょう。純朴さが神だよね。そういう純朴さで心の中を満たしてごらん、すーっと神と繋がっちゃうから・・・。これ言ったら、縛ちゃうからかわいそうかもしらんけれど、本当に神と繋がりたいんだったらね、やるべきだと思うよ。さっきも言ったように、自分の良心は神だよね。神の前に本当の心をさらけ出すというか、打ち明けるというか、私はあなたと一緒になりたいんだ! あなたを知りたいんだ! と、あなたに使ってもらいたいんだ! と、どれだけ真剣に思うかなんよ。その純度がどれだけの純度かによってね、まず光が見え出すよ。さらに、蕩けるような気持ちのよさを体験させられるはずよ。私がそうだったんだから。私が断崖絶壁から飛びおりる覚悟で神に祈った時、ものすごい気持ち良い状態が起きて、で、素晴らしいもん見せられたんよ。なんであんなもん見せられたのかって、今でも不思議に思うんよね。昔ねえ、セルロイドで作られたカラカラ回る、赤ちゃんをあやすための玩具あったんよね。ネジ巻きのね。それは色鮮やかな、あれに近いようなもの見せられたんよ。ものすごい気持ちの良い波動と共に・・・。私が神に自分を全部投げ出した時、そういうご褒美頂いたんよ。皆さんもやれば、きっと与えられると思うわ。私が体験していることだから。それからもね、いろんなものが見せられて・・。でも、あまりそんな現象に因われちゃダメよ。でもね、そういうものが与えられるとやる気になるのよね。私もやる気になったんだから・・・。こんなご褒美頂けるんだったら、やはり神はいるんだな。守護霊はちゃんと私を導いてくれるんだなって、ハッキリわかったのね。そうするともう、神キチガイになっちゃうのよ。それから本当に神キチガイになったよ。何をおいても、神しか思わなくなっちゃった。皆さんに私のようにやって欲しいとは言わないけれども、なんせ神に近づいて欲しいのよね。親しくなって欲しいのよね。それも純粋な動機を持って・・・。「本当に神を知りたいんです、世ため人のためになりたいんです」というような純粋な動機だよね。それを持ってたらね、神は絶対悪いようにはしないと思うよ。これは私の体験から言えること・・・。でも、なかなかそれができないのよね。なんでかっ言うと、自分の中にも周りにもいっぱいサタンがいるんだもん。自我人間は全部サタンよ。あのねー、私がまだ迷っていた頃の話だけど、子供の誕生日にケーキを買って帰るよねえ。子供たちは喜んで待っててくれるんだけど、私は喜べないの。あの時の心の状態というのは、よく分るんよ。もう完全にサタンにやられてるの。自我の思いなんよね。要するに、子供と一緒に喜べないんよ。その喜べないのがね、私が目覚めるまで続いたんよ。あのー皆さんね、旦那さんと奥さんの間で、ありがとうございますって、心をこめて言える人は、真我の状態なんですよ。子供に対しても、素直にありがとうございますって言える人は、自我の少ない人、真が状態になっている人なんよ。なかなか言えないよね。言える人は素晴らしいよ。サタンにやられている時は、自分の気持を正直に表せないのよ。真我では、ああー、子供にこういうこと言ってやりたいって思ってるんだけど、それが表現できないの。自我が濃い時には、そういうもんなんよ。でも、そういうことを見分けるってこともまた必要なんよね。なにせ、自分の良心のままに表現ができないように、サタンがするんよ。だからね、純粋に神と一体になろう真剣に思っていても、なかなかでもできないんよね。もしそれができたら、絶対神と一体になっちゃうよ。だって皆さんは、元々神なんだから。皆さんの中に神しかいないんだから。そうでしょう。この肉体は、ただの乗り物でしょう。こんなもん。いつか必ず無くなるんでしょう。でも本当の自分は、永遠に無くならない。真我の自分は永遠に無くならない。つまり、魂の自分は永遠に無くならない。でもね、その真我の自分となかなか一体になれないんよ。なんでかって言ったら、まだ原子核の量が少ないから。でも本当は一つなんよ。なにせ、この宇宙には真我は一つしかないんだから。ただ肉体を自分だと思って分けているだけなんだから。そうでしょう。本当は一つしかないんよ。この宇宙にはね、寛大な魂が一つあるだけなんよ。今皆さんのところに入ってる、ここに入っている魂は、分化された魂なんよ。つまり自我の魂よ。ハッキリ言って、神我の魂っちゅうのは、この宇宙にたった一つしかないよ。絶対宇宙に・・・。その魂と一つになるという意味なんよ。いつかそうなるんだけれどもね。まあ、その途中の進化状態もあるんだけれどね。その自我の魂が、だんだんだんだん真我の魂の状態になってく過程はあるんだけれどもね。でも本当に、素直に、純粋に、もうー子供心になって一体になりたいって思ったらなれるんよ。私が体験してることだもん。そのかわりね、悪いことできなくなるよ。もう、ほんのちょっとのことも悪いことできなくなっちゃうよ。もちろん。この世の事の悪いことっていう意味よ。でもこの世の悪いことの中にも、良いことも沢山あるんよ。また、この世の良いことの中にも、悪いこも沢山あるんよ。でも、魂が大きくなってくると、その判断ができるようになってくる。見分ける目が持てるようになってくる。
○人の道に反しても神の道に反してはならない
よく人の道に反してはならないと言われるけれど、神の道に反して無ければそんなの気にすることはないんよ。まあ、人前でしたらみんなに悪い影響を及ぼすから、してはいけないっちゅう部分はあるけれども、でないときは別に構わないんよ。人道なんか、人の道なんか外れたって構わないもん。神の道に外れてなかったら。人道というのは、あくまでも人間が作った法律よ。ハッキリ言って、法律には間違っているものいっぱいあるじゃない。だから権力者が変わったら、すぐに法律が改正されるでしょう。昨日まで善だった法律が今日は悪になってんよ。この人間界では・・・。そんなものが法律?。それは人律よ。人の律だから・・・。でしょう。それは、真理じゃないからよ。それはそうだよねえ。その時代の人の都合のいい、それも権力者の都合のいいように、法律が変えられていくんだもん。どんどんどんどんと、そうでしょう。今は民主主義の世の中だから、全体の利益を考えるようにはなってるよ。でも、考えてごらん。その利益は、万民に平等に及んでいる?。こちらの人の利益はこちらの人の不利益、こちらの人の不利益はこちらの人の利益、まるで矛盾だらけ・・・。それは、真理じゃないから・・・。神の法は完璧平等よ。それも何が起きたって変わらない恒久法よ。それが真の法律じゃない。でも人間には、その考えが及びつかないから、法律が正しいと思って、それが正義になってる。それも、長いものには巻かれろ主義でね。多いものが正しいんだもん。この世の中、そうでしょう。こんな話、一般の人達の前でしてごらん。キチガイ扱いよ。この人バカじゃない、こんなこと言って・・・。私は精神病院行きよ。本当は、みんなが精神病院行きなのにね。まあ、仕方がないんだけれどね・・・。でも、ここにいる人には分かってもらえると思う・・・。私が言いたいのは、人の道に反しても神の道には反してはならないということ・・・。つまり、宇宙の法則(原因と結果の法則と陰陽の法則)は犯してはならないということよ。だからと言って、法律を犯していいって言っているわけではないよ。それは、郷に入れば郷に従うってことがあるから、守らなくちゃならなんど・・・でも他の人に関係ないところだったら、人道犯したっていいんでしょう。いつも言うようだけどねえ。北海道にはね、10分間走っても車一台会わない道路があるんよ。そしたら、この道この通り走る必要ある? 道の真ん中走ったらいいじゃない。そうでしょう。それが科学的生き方ってことよ。つまり、真理に素直な生き方ってことよ。でも、幼い魂の前でやっちゃダメ、真似しちゃうから・・・。危険だから・・・。でも、誰もいないところだったら、神の道に従ったらいいんよ。人間社会の法律なんか、もう本当に矛盾だらけ・・・。でも今私達は、人間社会で生きているわけだから、それはそれで従わなくちゃなんない。でも、そういう考えは持ってたらいいと思うよ。神の道は絶対従うけど、人の道は臨機応変にしましょってね。なんせ、私達の中に神がいるんだから。裁判官がいるんだから。この裁判官が許したらいいの。ハッキリ言ってそうでしょう。この裁判官は全能なんだからね。ちゃんと見分けできるんよ。判断力もあるんよ。だから、こういう場合にはこういうことしてはならない、こういう場合にはこういうことをしてもいいって、正しい判断力ができるわけだから・・・。それは、神に近づけば近づくほど神に近い生き方ができるようになるから、正しい言葉も出せるようになってくる。上から降りてくる言葉というのはね、そのままでは表現ができないんだから・・・。私は今、右脳で直接受け取ってんよ。でも、直接受け取ったものをそのままじゃ皆さんに伝えることができないから、左脳で翻訳して話さなくてはならないわけよ。でもそっから来ているから、ここの波動はもう天の波動なんよ。だから、眠くなったりするわけよ。それは、その波動に共鳴したからなんだよね。神の言葉を表現するためには、必ず媒体が必要なんだもん。形の無いものは、形を通してしか表現できないんだもんね。
○神の媒体になる
あのねー、宇宙エネルギーは、そのままでは使えないんよ。使えるようにするためには、媒体を通さなきゃなんないんよ。電気を光にするには、電球を通さなきゃなんないのと同じ。私は電球みたいなもの。宇宙のエネルギーを、私を通してスパークして放出してるみたいなもの。私がこうやってお話しているときは、宇宙のエネルギーをここでスパークして出してるんよ。みんなの目には見えないかもしれないけど、もうこの部屋は光の渦で満ち満ちているんよ。媒体がなかったら神の光は出せない。神のエネルギー出せないんだから。これは皆さんも同じこと・・・。皆さんも媒体なんだから。だからさっき言ったように、自分と神とが一体になった時にはね、エネルギーの媒体になれるし、神の言葉も話せるっちゅうことよ。いかに神と接近できるか、そのために神と親しくなって欲しいのね。だから瞑想の曲の中にも、親しくして欲しいっちゅうこと書いてるよね。あれはもう単純なんよ。何の技術も何の努力もいらない。ただ、素直に素直に神と親しくなること。ちゅうことは、神を思うこと。それでいいんよ。間違いなく原子核増えてるから・・・。一番の目的はね、自覚の境界線を超えることだもんね。そのために私達は、今こうやって肉を持っているんだもん。特にここにいる人達は、その近くにいる人達だから。一般の人達とは大違い・・・。でも、一般の人達も原子核は増やしているんですよ。社会生活をする中で、間違いなく原子核を増やしているんだから・・・。だから無駄な人生なんてないわけよ。一般の人達は、瞑想なんかしてないよ。でも、それはそれでいいわけよね。まだその段階だから・・・。自分の子供も、親も、兄弟も、同じ魂であるけれども、生まれた時期が違うわけだから、魂の大きさはみな違うわけよ。でも早く生まれたのか、遅く生まれたのかの違いだけであって、みんな同じダイヤモンドの原石であることは間違いないんよ。みんなが少しずつ少しずつ成長していて、角が取れて最終的には、一体になるわけでしょう。でも、やはり生まれた時期が違うから、意識的なレベルに差があっても仕方が無い。それを上の者が自覚してあげないと。下の者は自覚できないんだから・・・。上の者が自覚して、そういう対応の仕方してやって欲しいんですよね。ああ、この子はまだ幼いんだからこんな無理言っても仕方が無い、許してあげましょうっていう寛容の心持てるでしょう。下の者は無理だけど、上の者はそれができるよね。上の階からは遠くを見通せるけど、下の階からは目先しか見通せないんだから、そんな子供と一緒になって喧嘩したんじゃダメ。上の者は、下の子供たちを支えてあげなくちゃね。要するに、幼い魂の成長になることをしてあげるんよ。あの、本当の愛というのはね、そうなんよ。本当の愛というのは、肉体的に良いことをしてやるんじゃなくて、その子供の魂の成長のためにやってあげることが本当の愛なんよ。だから、どうしても厳しい愛になるよね。だからここにいる人達は、厳しい愛を与えてあげなきゃなんないよね。一般の人達は、すぐに堕落させる愛を与える。何かあったらお金出して助け合う。それは必要な場合もあるけど、結構甘やかしになってる場合があるんよ。特に、老人ホームでの介護なんかそうよね、私、母親を介護してたから分るんよ。結構甘えるんよ。やってくんないと、文句だって言うようになるよ。それは本当の愛じゃないと思うよね。まだ体が動かせるんだったら、本人にやらせるべき。私は母親にそうしたよ。うちの母親が大腿骨折った時のことだけど、医者は折れた箇所をボルトで止めるっていってたんだけれど、私は反対したの。自然に任せましょうって。それじゃ骨がつくまで、ふた月程遅れるって医者は言ったけれど、うちの母親は頑張りやでね。骨がついたぐらいになった時から、自分で歩こうとビハビリーやりだしたのね。九十近い老人よ。普通だったらやらせないよ。でも、私はやらせたよ。そういう頑張りさせることが愛じゃない。甘やかすことが愛なの?それじゃ原子核増えないよ。原子核はね、嫌なことをすればするほど、大きくなるようになってるんだから。それを甘やかせたらどうなるの? 一般人は甘やかせるよ。なんでかって言ったら、自分がよく見られたいから。ああ、あの人はよく介護してるねって。それはその人のためじゃなくて、自分のためにやってるんよ。殆どはそうよ。昔の先生はねえ、結構厳しかったよね。私の中学生の頃だけど、悪いことをしたら教壇の上がらされてね、よく竹箒の上に座らされたものよ。それをやっていいと言ってないけど、でもその先生には愛があったように思う。だから何か知らんけどね、その先生が憎めなかった。それは、子供を良くしたいという愛があったからだと思う・・・。もう1人の先生はね、違ったんよ。私はその先生は、あんまり好きになれなかった。その先生はね、本気で生徒を蹴飛ばすの・・・。どこまでも追っかけて蹴飛ばす先生。その先生は、本当に憎くてやっんだろうね。面白いもんでね、心というのは通じ合うの。だから、本当にその子のためと思ってやることは、その子に通じるはず。いつも言うけれど、なんでも動機だよね。その人の魂を成長させたいという動機でやったら、相手はわかってくれるよ。厳しくてもね。
○神の愛
神の愛もそうだと思う。今、沢山痛み苦しんでいる人がいるけど、あれ、神の愛よねえ。しょっちゅう、事故、事件、戦争、災害など起きているよ。でも、それもみんな神の愛よ。病気にしたって、みんな神の愛よ。それは私達を愛しているから、そういうものを与えてるんよ。まあ与えてると言ったら誤解するよね。これは原因と結果の法則でなっているわけだから。神が与えてるわけではないけれども、そういう仕組みを作られたのは神だからね。神が与えているとも言えるわけよ。本当は、自分で原因と結果の法則を犯して、自分で苦しんでるんよね。それは、私達を成長させるための神の仕組みなんよね。それをどう受け取るかなんよね。幼い子たちはそれが分からないから、人のせいにしたり偶然のせいにしたりしてるんよね。だから、なんぼお尻叩かれても、その子達は気づかないんよ。ところがここにいる人達はね、お尻叩かれたら気づくんよ。あっ! 何で叩かれてるのかなって・・・、気づくぐらいの魂になっているから、なお成長できるんよね。神の愛を信じて欲しいんよ。とことん神を信じて欲しいんよ。神は絶対に悪いようにはしないよ。たとえ手や足をもぎ取られても、神を信じて欲しいんよ。そこには、絶対に意味があるんから・・・。必ずその魂の成長になっているから・・・。世の中には、強制労働させられている人ね。手足もぎ取られている人もいるよね。たとえば昔中国では、手足を切ったりなんかしたらしいけれどね。確かに、そういうことはやってはいけないけれども、幼い魂同士の間では、そういうことも許されるんよね。成長のためには・・・。許されるったら、これはまた神がやってると思っちゃいけないよ。これは原因と結果の法則によって、そのような目に合ってるんだから・・・。人間の自我がやっていることだけれども、それを支えてる原因と結果の法則というのは、あくまでも魂を成長させるために必要だからよね。あの、今日本でもまだ死刑あるよね。確かに人が人を殺すという死刑は、とんでもない話なんよ。でも良くないけれども、今の地球人類においてはね、これも必要なんよね。私は、賛成してるわけじゃないよ。ただ、魂の進化の目から見たらって言ってるわけよ。なんでかって言ったら、死刑囚見てごらん。死のことしか考えないから・・・。独房に入れられてね、一日中何を考えてると思ったら、死のことしか考えないよ。それだけ死を見つめられる環境が与えられてるということよ。だから聖書を読むようになるとか、真理の本を読むようになるとか、なるわけよ。これは病人にも言えるわけよ。なんでこんな病気にならなきゃなんないんだって疑問に思うでしょう。特に、癌患者なんかはそうだよね。でも死刑囚と同じように、癌患者の場合もちゃんと死ぬまでの期間をおいてくれてるよ。思索する期間を・・・。なんで私は病気になったのか? 人間って何なのか? 人間はなぜ生まれて来るのか? って考えられる時間与えてくれてるんよ。これは神の愛だよね。神が病気を与えたわけじゃないよ。自分が因果の法則を犯し与えているんだけど、この法則を作ったのは神だから、神が与えているとも言えねわけよ。でもこれは、神の愛と考えるべきだよね。だから病気になることも良いこと。何が起こっても良いこと。すべて良しなんよ。そういうふうに思えるようになったら、その人の成長なんよね。何か起こったらすぐ腹を立てるのでは、まだ幼いってことよ。全で意味あるんだから、何か起こったら、これはもしかしたら何か意味あるんじゃないかなって思うこと・・・。神は決して、意味の無いことはしないんだからね。そう思える人は、間違いなく成長できるよ。
○神を信じる
神をトコトン信じて欲しいんよ。私は神様を信じているよ。トコトンとまで言えるかどうかわからないけどね。でも私の今の意識状態では、神様が「ここから飛びおりてください」って言ったら飛びおりるよ。あのね・・・。耳元で飛び降りろっていう声はね、幽界の迷った霊の声なんよ。そんな声が聴こえてきても、絶対信じちゃだめよ。神様は飛び降りろ何んて絶対言わないんだから。例えばの話をいっているんよ。そのくらい、神様を信じてるってことよ。だから皆さんも、何が起こってもいいことだ。意味があると思って欲しいんよ。いつも言うように、虫1匹通ってもちゃんと意味があるんよ。本当に意味があったでしょう。私はあの虫から教えられたんだもん。あれが無駄だったら、神様は無能よ。すべてに意味があるっちゅうこと。石に躓いて転けたことも、意味があるんよ。意味の無いこと起きないの。でも人間は、みな偶然に起きていると思っている。なのに人間社会には、警察署や裁判所ある。おかしいと思わない? そうでしょう。もし偶然を認めているなら、人に罪を求めるのは矛盾だよね。警察署や裁判所があるということは、必然を認めているって言うことよ。つまり、原因と結果の法則を認めているということよ。今の社会では。偶然を認めてながら、法律のもとに必然にやってるんよ。おかしいよね。本当に偶然を認めているんだったら、全部偶然で処理しなくちゃならないんじゃない。交通事故も偶然、殺したのも偶然、盗んだのも偶然、何をしたのも偶然、なのにどうして偶然を認めながら人を裁くの? それじゃ必然を認めているんじゃない。おかしいよね、この社会は。矛盾だよね。
○克服すべき三つのこと
因果の法則を想念によって完結できるのは、想念の持ち方次第で良くも悪くもすることができるからなんよ。陰陽の法則も、原因と結果の法則も、想念次第っていうことよ。だから、想念のコントロールというのが、私達の最終目標になるんよね。いつも言うように、まず欲望のコントロールができるように、次に感情のコントロールができるように、最後に想念のコントロールを目指すわけだけれど、ここにいる皆さんはねえ、大体欲望のコントロールはできてるんですよ。感情の克服も結構できてる。家族の情愛関係はちょっと抜け出せない部分があるけれども、何とかできている。一般の人達は、まだ感情の克服どころじゃないんよね。まだ性欲や食欲や物欲なんかの基本的欲望のコントロールが殆どできていない。感情の克服なんかは、まるっきりできていない。なにせ、感情のぶつかり合いでしよっちゅう喧嘩してんだからね。でもここにいる人達は、あまり感情のぶつかり合いがなくなってるんじゃない? でも想念のコントロールは、まだできていないと思う。殆どこの世の事しか思っていないわけだから・・・。そうでしょう。この世の事しか思ってないっちゅうことは、陰の方しか思ってないっちゅうことよ。物質の方しか思ってないっちゅうことよ。つまり、偏ってるっちゅうことよね。こっちに・・・。だから、十字の法則のまだ中心点に行っていないわけよ。陰の方に偏っている。だから、苦しみがやってくるわけよね。あまり欲望を持たなくなり、感情のコントロールもできるようになったら、原因を作らないわけだから、結果も良くなってくるはずだよね。でも皆さんは一般の人から比べたら、大分、苦しみが少なくなってるんじゃない。たとえば、事故にあったり、人に騙されたり、強盗にあったりちゅーなことは、ここにいる人達は殆どなくなっているはずよ。原因を作ってないから・・・。昔より良くなっている。当然だよね。良く思ったら良いことが、悪く思ったら悪いことが起きるのは・・・ね。まあ時々悪いことを想うかもしれないけど、これも少しずつなくしていけばいいんよ。焦る必要はない。感情のコントロールと、想念のコントロールを並行して克服していけばいいんよ。想念のコントロールが、あなた達の最後の克服しなきゃならない課題なんですよ・・・。では時間になったので、今日はこれで終わりましょうか。ありがとうございました。