○自覚とは
この宇宙というのは、無限ですから果てがありません。果てがないから魂の進化の旅も、永遠に続くんです。その永遠の進化の旅の間に、オアシスのように休息できる節目節目があるんです。人生の目的は、自分が何なのかを知ることです。これ程大切な人生の目的はありません。でも、知っただけではダメなんです。自分がそのものにならなくちゃ意味ないんです。知っただけでは、一般の宗教をやってる人達と何も変わらないんです。「あなたは神の子ですよ!」と言っている宗教は沢山ありますよ。でも、神の子だと知っただけでは何にもならないんです。神そのものにならなくちゃ・・・だから努力がいるんです。神そのものにならなくちゃと言っても、神になる必要はないんです。すでに私達は神なんですから・・・。ただ、神と想えるようになる努力が必要なんです。
私達は、鉱物、植物、動物の段階から、原子核を集めて集めて集めて集めて、やっと人間の魂まで進化してきたんです。ですから私達の中には、神が放射された意識核がたくさん集まっているんです。この意識核の一つ一つは、私という意識はあるんですよ。でも私という意識があっても、私が誰なのか忘れているんです。意識が希薄なので、記憶を失っているわけです。そこで記憶を戻すために、原子核を集めて集めてきたわけです。そしてやっと、「私は人間だったんだ!」と自我を持つところまで進化してきたんですね。人間は、自我を持った段階です。私という存在が解る。嫁さんも子供も友達もいるということが解る。宇宙があるということも解る。それは自我が作られたからですよ。人間は、そこまで進化してきたんです。動物から人間になる前に自我の境界線というのがあって、その境界線を私達は超えてきたんですよ。この間、何十億年もかかっているんですよ。そして、やっと人間だという自我を持つところまで進化してきたんです。そして今、人間として生きているわけです。これから「私は神である!」という自覚を持つところまで進化してゆかねばならないんです。つまり、自覚の境界線を超えなければならないんです。これが、人生の大目的なんです。今私達は、その目的に向かって進んでいるわけです。神の自覚に入らなかったら意味がないんですよ。頭で知っただけでは何にもならないんです。知っだけでは、知識人で終わってしまうんです。自分が神そのものになるということは、言葉ではいい表しようが無いんです。自覚というのは、言葉や文字で表現できないからです。だからこの自覚は、人に伝えられないんです。この自覚というのはね・・・たとえば、「あの人は誰だったか? 」と喉に突っかかっていた人の名前を「あっそうか!」と思い出した時の状態に近いんですね。でも、なかなか自覚に至らないんですよね。これは、原子核の量が少ないからなんですよ。ある一定量の原子核が集まると、自動的に自覚の境界線を超えるんです。これは自動的です。ただ集めればいいんです。理屈も理論も何もいりません。単純にやれば、いつか必ず超えられるようになっているんです。この宇宙は、そういう仕組みになってるんです。難しい理論も修行もいりません。
世の中には、いろいろな修行をしている人達がいますよね。滝に打たれたり、山野を駆け巡ったり、針の上に座ったり、いろいろな修行をやって悟ろうとしていますが、そんなことで悟れるならスポーツマンはみな悟っているはずです。スポーツマンは、山を駆け巡るなどのそんな生易しいものではないんですからね・・・。そんなことをして悟れると思いますか? たしかに忍耐力はつくかもしれない。でも忍耐力をつけるんなら、わざわざ山野を駆け巡るより、スポーツをやったらいいじゃないですか。その方が、ずっと忍耐力がつきますよ。それは、一つの方便なんです。ここまで来た人は、忍耐力をつけることなんかは、とっくに終わっているんです。集中力も結構ついているんです。でなければ、ここには来ていませんよ。ここに来る魂は、殆どそういうことは終わっているんです。すでに基礎が出来上がっているということです。では、そういう基礎の出来上がった魂は、これからどうするのかということですが、それはこれまで作った土台の上に、さらに原子核をどんどん集めて大きくしていくことです。皆さん悟りというのはね、意識状態なんですよ。その意識状態は、瞑想によって体験できるんです。
○瞑想は無空になることでは無い!
みなさん、瞑想を誤解しないでください。瞑想を教えている人がいますが、瞑想は人に教えられないんです。よく、瞑想は無・空になることだという人がいますが、瞑想は無・空になることではないんのです。瞑想は、神を想うことなんです。マントラを想うことなんです。それも、意味のこもったマントラを想うことなんです。マントラについては後で言いますが、繰り返しマントラを想うことが、とても大切なことなんです。これは藤島さんにも言いたいのだけど、同じことを何度も繰り返すということは、これは自分の欠点を発見するためにとてもいいことなんですけれど、それ以上に原子核をふやしているんですね。繰り返すことが、いかに大切かということ・・・。私が昔からそうなんですよ。何か知らないけれど、同じことを何度も何度もやらされることが多かったんです。でも、それによってね集中力がついたんですね。繰り返すことがいかに大切ということを、学ばされていたんですね。これは、藤島さんも長沢さんも言えることなんです。今同じ文章を何度も見させられているでしょう。それによって、絶対気づきが起きているはず。発見があるはずです。心当たりない? 絶対あるはずよ。あっ!、何だこういうことだったのか!って、やりながら気づくことがあるでしょう。繰り返すことが、いかに大切かということよ。これは単純作業だから、何の技術もいらない。ただ子供のように、素直にやることなんですよ。子供は言われたら、素直に何回でもやるんですよ。でもこの単純作業が、魂を大きくするんですよ。魂を増やすには、単純に繰り返すことが大切なんですよ。なぜなら、長いものに巻かれるからですよ。私がいつも神と親しくしなさいと言うのは、「繰り返しなさい!」という意味なんですよ。何回も神と接するわけでから、長いものに巻かれて知らないうちに神の自覚が増すんですよ。これは間違いないんです。ハッキリ言って、今あなた達のやっていることは、役得なんですよ。このことを、お二人に知って欲しいんです。だから、「ああまたこんなことをやらされる!」、と腹を立てないこと・・・。それをやることによって原子核が増えると思ったら、張り合いを持ってやれるんです。本当にそうなんですよ。いかに繰り返すことが大切かということです。でも皆んな途中で諦めちゃうのね。続けて欲しいんです。特に若い人に言いたいんよ。これから何十年もチャンスがあるわけでしょう。そのチャンスを無駄にしないで欲しいんです。いかに続けていくかです。これが、私が一番言いたい事なんですよ。
もう一つ私が言いたいのは、できるだけ神の中身を知ることです。いつも言うように、神の中身を深く知れば知るほど、「吾神なり!」のマントラの一言が重く厚くなるんですから・・・。神の中身を自分の心の中でイメージできるようになると、「吾神なり!」の一言がドンドン重く厚くなってゆきます。だから、神をよく知ることは大切なんですね。光のメロディー集の中でも、結構神の側面を歌っているよね。神とは無限ですよ! エネルギーですよ! 愛ですよ! 知恵ですよ! 光ですよ! って、いろんな側面を言っているよね。そういう神の側面を沢山知ることによって、「吾神なり!」のマントラの厚みが増すわけです。神の全体像が、パーッとイメージできるようになんです。だから、神とはどういうものか知ることは大切なんですね。このマントラというものは、あくまでも呼び水みたいなものです。私達はね。長いこと人間をやっているうちに、神を忘れたわけですよね。だから呼び水を入れて、神を思い出そうというわけです。マントラは、記憶を戻す呼び水的なものです。マントラは、神じゃなくてもいいんですよ。先程も言ったように、生命でもいいし、無限でもいいし、愛でもいいし、光でもいいんです。神の側面の一つを、自分のマントラにしたらいいんですよ。ようするに、神と深く思える言葉を選んでマントラにしたらいいんです。これは自分で決めていいんです。例えば、創価学会では「南妙法蓮華経」を唱えていますよね。他の宗教でも「南無阿弥陀仏」を唱えていますよね。でも彼らは、その言葉の意味を知らないで唱えているんですよ。本当は同じなんですよ。南妙法蓮華経でも南無阿弥陀仏でも、中身を深く知れば神と同じわけですから。南無阿弥陀仏は、神のこと言ってるわけですからね。でも口先だけで言ったのでは、何にもならないんです。どんなに朝から晩まで「南無阿弥陀仏」を唱えても、中身を知らなきゃ意味ないんです。神の中身を知ること・・神の実態を知ること・・神の側面を知ること・・・。私の本の中に、神の側面を沢山書いてるよね。それを何回も何回も読んで理解しないと意味ないんですよ。神を頭で知っただけでは、南妙法蓮華経と言ってるのと同じことなんです。それじゃ、「吾神なり!」のマントラが重くならないんです。だから私は、神の側面を知って欲しくて、いろんな切り口から神を説いているんです。
○瞑想は神と親しくなること
私の本を何回も何回も読んでください。そしたら、気づきが必ず起きます。気づきが起きるたんびに、「吾神なり!」のマントラが重くなってきます。何せ、気づいて欲しいんですよ。発見して欲しいんですよ。この宇宙というものを、神というもを、いろんな側面から知って欲しいんですよ。知れば知るほど、「吾神なり!」のマントラが重く深く厚くなるから原子核が増えるんですよ。口先だけじゃ、やはり少ないんですよね。でも口先だけでも神と親しくすることは、とても大切ですよ。なぜかというと、私達の中に神がおられるからですよ。皆さんはね、毎日神と交流できるんですよ。誰もしていないだけ・・・。実際、自分の中に神がいるんですから・・・。だって考えてごらん。私と思えるんでしょう! 私と思える私が、神なんだから・・・。これがね、皆んな解らないんですね。私と思えるんでしょう! その思っているのは、誰なんですか? 思えるのは、神だからじゃないですか? これが、なかなか分からないんですね。よーく、考えてみてください。「吾神なり!」と言っているのは、誰が言っているの? 神が言っているんですよ。だって、思いは神しかないんだから・・・。だから私は、「神と親しくしてください! 」というんです。神と親しくなるとは、そういうことなんですよ。神に意識を向けたら、神と親しくしていることになるんですから・・・。神に意識を向けるということは、神と対面しているということなんよ。皆んな外側に意識を向けているじゃない。1日24時間、どれだけ神に意識を向けていますか? よく瞑想している人でもまあ、4時間やっていたら最高、殆どこの世の事に時間を使っているはずよ。神の意識を、皆んな無い世界の事に使っているんだから。この世の事を何を知ったって、何を得たって、何を体験したって、みんな幻よ・・・消えちゃうんだもん・・・。そうでしょう。肉体さえ消えちゃうんでしょう。この地球さえ消えちゃうんよ。そんな消えるもの知ったって何になるの!・・・。意識は永遠に無くならないんよ。その意識を、何に使うの? 神の方に向けて欲しいんですよ。神の方に向けるということは、神は実在するわけだから、神に意識を向けているときは、その人は実際に生きていることになるんですよ。ところがこの世のことに意識を使っている人は、死んでいるんですよ。だって、無いものに使っているんだから・・・無くなるものに使っているんだから・・・。皆さん、朝から晩まで何を考えています? 過去のことを悔やんだり、未来のことを案じたり、今のことに悩んだり、殆どこの世のことに使っているんじゃないですか? 神に意識を向けている時間が、全く少ないんじゃありませんか? だったら、神が現れるわけがない。「真剣に!」と私が言うのは、そこなんですよ。本当に神と対面したかったら、真剣に神と向き合って欲しいんですよ。自分の中にいるんだもん。意識を内に向けたら即神に会えるんでしょう。吾と思っている吾が、神なんだから・・・。そこに意識を向けるということよ。そしたら、神と対面してることになるんよ。その時は、本当に生きている人になるんよ。外側に向けているときは、みんな死んでるんよ。外は無いんだから・・・。外側のものは全部無いんよ! これが解るかな?・・・。何を持ってきても、外側のものはみんな幻なんよ。消えちゃうんよ。そこに意識を使っているんじゃない、皆さんは・・・朝から晩まで・・・。そしたら、その意識は死んでるんよ! ハッキリ言って・・・。それじゃ本当に生きているって言える? その意識を神に使って欲しいんですよ。例えば1時間神に意識を向けたら、往復2時間その人は生きてることになんんです。1時間神に意識を向けるということは、物質に向けている意識が1時間減ったわけだから、往復2時間生きていることになるんですよ。1時間だったらできるはずよ。もちろん4時間やっている人は、8時間やっていることになるよね。
神に意識を向ければ向けるほど、神に接近できるということ・・親しくなれるということなんよ。自分の中に神がいるんだから・・・実際に・・・。でなかったら、自分ってないんよ。自分て、自らを分けたって書くでしょう。神が自らを分けたんよ。だから自分は神なんよ。ただ、形を見て人間と思っているだけ・・・神がよ・・神が錯覚して人間と思っているだけなんよ。人間が人間と錯覚しているんじゃないよ。人間なんて生きてないんだから・・・。形なんか生きてないんだから・・・。人間の中で生きてる神が、錯覚しているんよ。人間だと錯覚してんよ。分かるよね・・・。だって意識は神しかないんだから・・・。その意識が意識しているということは、神が意識をしているということでしょう。だから、神に意識を向けたときには、もうすでに神と対面しているということよ。あのいつも私言うんですけどね・・・神の居場所なんだけれど、居場所というのも誤解を招くんだけれども、神というのは時間空間を超越しているから場所が無いわけだけれど、場所という言い方をしなければ説明できないのでそう言うんだけれど、難しいよねえ、この言い方がね。意識をどこに持っていくか。神を意識するということは、表現のしようがないよね。そこに、そこにと言ったら場所になってしまうよね。どう言ったらいいでしょうね。まあこう言いましょう。私達は目を開けていると色々見えるよね。見えるということは、幻の世界を見てるんですよね。そう、目を開けているときは、幻を見ているわけですよ。目をつぶったら見えないものを見ているわけですよ。神は見えないものですよね。だから目をつぶったら、神を見てることになるんよ。神の居場所が説明できないのは、神は意識でしか解らないからなんですよ。私達は、自分の意識が肉体に引っ張られているため、肉体に意識があるように錯覚しちゃうんですよ。だから私は、意識を奥の奥の奥の背中の奥の奥の奥の方に持っていきなさいというんですよ。肉体に意識が引っ張られているために、どうしても意識が前に出てきてしまうんですよ。それじゃ駄目なんですよ。意識を奥の奥の奥に持って行かなきゃ・・・だから、背中の奥の奥の奥の奥に意識をズーと持っていってそこに置く、というような言い方しかできないのですよ。私達は、どうしてもこの五感に意識が引っ張られて、人間だと思って前に意識を持ってきてしまうんですよね。それじゃ、意識を五感から離すことができないんですよ。意識が囚われちゃってるんですよ。この肉体に・・・。だから、この肉体が自分だと思ってしまうわけですよ。長いこと人間をやってきているわけだから、仕方のないことかもしれないが、これをどうやって切り離すかということですよ。そしたら、やはり意識を奥の奥の奥に持っていくことによって、肉体感覚を無くすしか無いんですよ。意識を前に持ってきている時は意識が肉体に囚われちゃっているから、どうしても肉体意識になっちゃう。ところが意識を奥の奥の奥にずーと沈めていったら、感覚から意識が離れていって、肉体感覚がなくなってくるのね。まあこれも訓練だから、すぐになれるということはなかなか難しいかもしれないけれど・・・。でもこれも訓練だからね。何でもそうだけど、やること、単純にやること、それしかないんです。ここまで瞑想のことについてお話しましたが、瞑想はね、説明することができないんですよ。瞑想っていうのは、自分で体験するしかないんです。
○原子核を増やすもう一つの方法
原子核を増やすもう一つの方法は、社会体験です。社会体験というのは、もう一般の人がすでにやっていること、皆さんもやっていること・・・。社会の中で生きていれば、特にこの資本主義社会の中で生きていれば、仕事の面においていろんな問題がありますよね。たとえば営業をやっている人だったら、ノルマがあるかもしらんしねえ、まあない人でも、会社の中でいろんな地位があって、その中で人間関係もあるし、まあお客さんとの対応もあるしね。いろいろと仕事やっている中において、沢山嫌なことがあるはずなんよね。特にこの資本主義社会ではね・・。何んせ、儲けなきゃならないんだから・・・ということは、毎日毎日社会の中で嫌なことをやってるってことよ。まあ、ちっちゃなことを言ったら、寒い朝布団から出るのも、一つの嫌なことですよね。でも、そのことによって原子核が増えてるんよね。嫌なことをやれば、その段階で必ず原子核が増えているんですよ。社会の中で生きていれば、嫌なことが沢山あるはずだよね。だからこの社会で生きている人は、間違い無く原子核が増えているんですよ。この地球に生まれてきた人達は誰でも・・・。でも、意識してやっている人はいないんですよ。特に一般の人達は・・、嫌なことを回避しようとして、人に押し付けたりなんかする人が多いんですよね。ところが、ここで知った人は逃げなくなるんですね。嫌なことを率先してやるようになる。自分からわざわざ嫌なことをもらいに行く必要はないけれど・・・。自分の前に嫌なことがやって来たら、逃げないでやること・・・
会社の中でも、家の中でも何でもそうですよね。私が子供の頃ね、あのー、北海道って寒いでしょう。石炭ストーブを、1日3回くらい替えなくちゃならないんですよね。だから石炭替えに外に出なくちゃなんないんですよ。昔は今どこじゃないんですよね。寒かったんよね。だから、石炭を替えに外に出て行くの嫌ですよね。
「お前が替えに行け!」って、親父さんに言われるでしょう。
でもイヤだ行きたくない!
兄貴は弟に押し付けるよね。弟はまた下の弟に押し付ける。結局、私のところに回ってくるんだよね。仕方無く替えに行く。寒いよね。でも、それをやることによって原子核が増えたわけよ。母親はかわいそうよね。毎朝早く起きて、石炭に火つけるんよ。石炭に火をつけるのはね、なかなか火がつかないんよ。今のようなわけにはいかない。昔はね、新聞紙に火をつけてね、それを燃えやすい木に移して、石炭の下に入れてね・・・石炭に燃え移るまで結構時間がかかるのよね。それを母親は毎朝、寒い思いしてやってたわけよ。あれ、結構原子核が増えてるんよ。うちの母親っていうのは、ものすごく我慢強い人。私も結構我慢強いけれどね・・・そう、私はけっこう嫌なことを先にやる性格なんよ。これをやってくださいって言ったらね、普通はね、嫌なことを後回しにしようと思うよね。私は先に嫌なことをやるの。その方が気楽だと思うから・・。要するに、嫌な事やれば原子核が増えるようになっているんですよ。そういう風な仕組みになっている。宇宙の仕組みというのは、実にうまくできているんよ。地球に生まれた人たちは全員、原子核を増やして帰っているんよ。だから退化というのはないの。この宇宙には進化しかない。このことを知った人は、もう逃げないはずよ。だって自分の原子核を増やすんだからね。嫌なことが回ってきても、「はい私やります!」というようになるはずよね。これはねえ、私が体験しているから分かるんよ。嫌なことをやった後のあのすがすがしさというか、達成感というか、あれは原子核増えているからよ。逃げた時というのは、何んか嫌な感じがするでしょう。人に嫌なことを押し付けたら、後ろめたい嫌な感じがするでしょう。あれは、自分が損してるからなんよ。魂が嘆いているわけよ。みんな体験あるはずよ。自分がやった時は、ものすごくやったと思う。何かうれしくなるでしょう。ところが人に押し付けたらね、嫌な感じがするはずよ。あれはね、やった時は魂が喜んでいるし、人に押し付けた時は嘆いているからよ。これはね、もう本当にそうなんだから・・・。宇宙は実にうまくできてるんよ・・・。神様というのはね、ひとつも無駄なことはしない・・・。だから嫌なことをやればやるほど、自分が大きくなるんよ。だから人を恨まないこと。「あいつ俺にこんなことやらせて!」と言わないこと。魂を大きくすることをやらせてくれたんだから、感謝しなきゃなんないんよ。実際そうなんだから・・・。
私はねえ、母親の最後の面倒を3年間見たんだよね。もう下の世話から、洗濯から、食事から・・・、でも母親に感謝したよ。母親は私のためにわざわざああいう嫌なことをしてくれたと・・・ああいうような状態、本人だって嫌なはずよね。男の子に下の世話までさせてよ、ご飯から何から何まで全部やらせてよ。でも私としては、それがものすごく嬉しかったの。もうまだやりたいと思ったよ。死んでからもね・・・何か知らんけど、いなくなったらげっそりしちゃったというか、そのくらいやることがものすごく嬉しかったの・・・。真理かじって、知花敏彦先生の話を聴いていたからできたんだろうね。何せ、やることが楽しかった。嫌なことをやることが楽しかった。これは原子核が増えると思えたから、できたんだろうね。やれば必ず自分の魂のためになるわけだから・・・。たとえ今生自覚の境界線を超えられなくても、それをやることによって原子核を増やして帰れるわけだから・・・。来世それだけ進歩した状態から始められるんだから・・・皆さん、今こうやってここに来ているのは、前世そういうふうにしてやっていたからなんよ。でなかったら、今どっかの宗教やっていたかもしれない。でもここに来られたということは、結局そこまで過去世でやってきたということよ。これは自分を褒めてやったらいいと思うよね。だから社会体験というのはね、ものすごく大切なこと・・・。
私のところにね、ある若い人が瞑想を教えてくれと言って来てね・・・清里では仕事が無いのね。だからブラブラして、時々何かやってたみたいだけど・・・。まあ、食べなければなんないわけだから、アルバイトかなんかしてたんでしょうけれども・・・、そんなことして原子核増えると思う? それよりも社会に出て、働いて嫌な体験をしている方がどれほど原子核が増えているかということよ。そのことをその子に何回も言ったけど、今どうしているか知らんけどね。最近来なくなったけれども。私は何回も言ったのよ。私の話を聞いて瞑想したって意味ないって・・・。それよりも、社会に出て働きなさいって・・・。働くと必ず嫌なことがあるよね。その方が、原子核が増えるのよ。これはね、自分のためであり、神のためでもあるんよ。自分の中に神がいるわけだからね。あのね、皆さん良心というのがあるでしょう。良心というのが神だからね。神そのものだから、良心の前に絶対嘘はつけないんだよね。どんなに嘘ついても、自分をごまかせないよね。だからいいカッコをしてもだめ。自分の良心の前でいいカッコしても意味ないよ。みんな知っているんだから。神を求めるのもそうなんよ。いい格好してもだめよ。本当に真剣に神を求めているかというのは、自分が良くしているわけだから。そうでしょう。形だけやっても意味ないよ。だから偶像崇拝が意味ないというのはそこよ。皆んな見てごらん。どこの宗教に行ったって、皆んな傍の目を気にしているよ。あのー、中東の方に行ったら、朝からやってるでしょう。大地にひれ伏して・・大きな拡声器でウワーンって・・やってるでしょう。あれみんな傍の目を気にしてやってるんよ。あんな事しなくてもいいんでしょう。自分の心の中でやればいいんだから。皆んな傍の目よ。何も音を出さないでいいんよ。自分の心の中でやればいいんだから。そうでしょう。自分の心が密室だからね。神がおられる場所だからね。この世の中の人というのは、皆んな偽善者ばかり・・・。なんぼ偽善でやったって、自分の中に神がおられるのだから、裁判官の前で嘘をついているようなもんよ。そうでしょう。そんなに宗教をやって、神が喜ばれると思う?・・・本当に神を求めるんだったらね、嘘をつかないこと。つまり、どれだけ真剣に神を求めるかということよ。これは、よく自分が知っているわけだから。そうでしょう、自分に嘘つけないんでしょう。そしたらね、今以上に真剣に神を求めるようになるよ。