真実とは何か?、この設問を軽々しく考えてはなりません。なぜなら、この設問の中に宇宙の謎・生命の謎・人類の謎が折りたたまれているからです。したがって、明快な回答が与えられれば、人類が抱えているあらゆる難題が、ことごとく解決されてしまうでしょう。
では、真実とは何でしょうか?。
真実とは、「永遠に無くならないもののことをいいます。」
では、永遠に無くならないものが、この世にあるでしょうか?。
山はどうでしょう?。
海はどうでしょう?。
地球は?、
月は?、
太陽は?、
人間は?、・・・。
残念ながら、すべて消えて無くなります。ということは、この世に真実なるものは一つも無いことになります。では、真実は、何処に、どのような形で存在するのでしょうか?。
真実は姿形が無いので、見ることも触ることもできません。しかし、真実は、厳然として存在しています。意識として、意志として、知恵として、力として、光として、その総合された生命として、・・・。しかし、姿形の無い生命は、そのままでは存在意味がありません。そこで、生命は、自分を代弁代行する媒体として人間を創ったのです。だから、人間の中には、生命のあらゆる能力が受け継がれているのです。人間を知れば、生命の実態が解るのはそのためです。
真実とは、このように、意識・意志・知恵・力・光・愛、そのすべてを併せ持った「生命」のことをいうのです。その生命のことを私達は、「神」とも呼んでいるのです。
-495-
私達は氷があると思っていますが、氷はどこにも存在していません。存在しているのは、氷の形をした水蒸気です。なぜなら、水蒸気が冷えて水になり、水が凍って氷となっているからです。永遠に無くならないのが真実ですから、無くなってしまう氷や水は真実ではないのです。
次のような例えも同じです。
国会議事堂が有るといいますが、国会議事堂はどこにも存在していません。存在しているのは、国会議事堂を形造っている材料です。なぜなら、国会議事堂は壊せば無くなりますが、材料は壊しても無くならないからです。同様に、人間はどこにも存在しておりません。存在しているのは、人間の形をした生命です。生命が形をとったものに人間と名前を付け、更に「花子」だとか「太郎」だとか名前を付け呼んでいるだけです。人間が死ねば形は無くなります。では、そこに存在していたのは 一体 何だったのか?、ということになります。
よろしいですか?。花子も、太郎も、ただの名前ですよ。名前が実在するわけがありません。だから、私は、人間など、どこにも実在しないというのです。実在しているのは、人間の形をした生命です。私達は形に惑わされ、実在する生命を見失っているのです。もし、実在するものが何なのか知ったなら、この世から物の奪い合いは無くなるでしょう。
人間が追い求めている、
ダイヤモンドは?、金は?、プラチナは?、家は?、車は?、あなたの家族は?、あなたの肉体は?・・・・。残念ながら、どんな物も時と共に朽ち果て、崩壊し、死に、消えて無くなります。その消えて無くなる物のために、競い合い、戦い合い、奪い合い、血を流し合っているのが人間ではないでしょうか?。愚かだとは思いませんか?。
求めるなら、永遠に無くならない「生命」を追い求めましょう。その者は、永遠の宝物を手に入れたことになるのです。
-496-
真実とは何でしょう?、非真実とは何でしょう?。あなたが、どんなに、この世で偉大なことを成し遂げても、人の羨むような素晴らしい家庭を築いても、どんなに大金持ちになっても、そんなものは、みな、時と共に消え去る非真実です。また、あなたが、どんな見事な国宝を見ても、どんな素晴らしい世界遺産を見ても、どんな感動的な天体ショーを見ても、それも、みな、時と共に消え去る非真実です。五官で感じるもので、真実なるものは何一つ無いのです。では、真実は 一体 どこにあるのでしょうか?。
私達の意識が永遠に無くならないことは、すでに知りました。だからこそ、意識の処遇に苦慮したはずです。この永遠に無くならない意識こそ、真実なるものなのです。私達は良く「自分」といいますが、自分とは、意識が「自」らを「分」けたのです。本来、意識は一つしか無いのですが、形を自分と思うことで、一つの意識を沢山の意識に分けてしまったのです。でも、どんなに分けようと、一つの意識はどこまでも一つの意識のままです。意識が一つしかないから、宇宙は真実を貫き通すことができるのです。
もう一度いいます。
真実は、この宇宙に一つしかありません。それは「私」という意識です。「あなた」という意識です。この事実を知った者は、真実を手に入れたのです。不動の幸せを手に入れたのです。なぜなら、意識こそ、幸せの本源だからです。考えても見て下さい。
これ以上の幸せがこの宇宙にありましょうか?。
何が真実で何が非真実か悟った者は、もう、外に何も求めなくなるでしょう。その者は、自分の意識の中で究極の幸せを満喫するでありましょう。
-497-
この宇宙には、無限の宝物が存在します。それは無限の知恵として、無限の力として、無限の光として、無限の愛として・・・。その無限の宝物は、誰でもいつでも自由に持ち帰ることができます。ただし、持ち帰るためには入れ物が必要です。それも、あなたが望む大きさの入れ物が必要です。なぜなら、この無限の宝物は、入れ物の大きさに比例して与えられるようになっているからです。だから、無限の宝物が欲しかったら、無限の入れ物を用意しなければならないのです。
でも、無限の宝物を入れる「入れ物」など、この宇宙に有るのでしょうか?。有ります。それは、意識という入れ物です。神様は、私達に意識という自在な入れ物をお与え下さいました。その入れ物を使えば、どんな大きなものでも持ち帰ることができるのです。小さな入れ物にして少しの宝物を持ち帰るか、大きな入れ物にして沢山の宝物を持ち帰るかは、すべて本人次第だということです。
神様は、何と素晴らしい仕組みをお作りになったことでしょう?・・・。
-498-
人間は何でも知りたがります。それが万物の霊長たる所以なのでしょうが、果たして私達は何でも知ることができるのでしょうか?。また、知る必要があるのでしょうか?。
この表現宇宙には、無限の元素の組み合わせによって創られた、無限の物質が存在します。それも刻々と変化する物質です。その刻々と変化する無限の物質を、すべて知ることができるでしょうか?。
良く物知り博士だとか、クイズマニアだとか自慢する人がおりますが、彼らは海岸の砂粒(知識)を数える空しいことをしているのです。なぜなら、数字を1、2、3、4、5・・・と最後まで読み切ることができないように、無限に存在する物質も読み切ること(知ること)ができないからです。
しかし、神様は、無限の存在物を知る方法を一つだけ用意されました。それは、「たった一つのものを知れば、すべての物を知ることができる!」という方法です。
たった一つのものとは、真実です、真理です。このたった一つの真実を知れば、宇宙のすべてを知ることができるのです。なぜなら、すべてのものは、たった一つの真実から生まれているからです。
海岸で砂粒(知識)を数える暇があるなら、たった一つの真実を知ることに生涯をかけましょう。たった一つの真実を知れば、宇宙のすべてを知ることができるのですから・・・。
-499-
一度、放った悪的想念は、そのままでは永久に時空に止まったままになっております。だから、時々、降りて来ては苦しい結果を生みだし、原因を消そうとするのです。これが神の慈悲の働きです。この慈悲の働きは、時が解決してくれる根拠ともなっているのですが、それを当てにしていては時間がかかり過ぎるし、第一、苦しみや悲しみ(処刑)を待っている囚人のようで哀れ過ぎます。やはり、こちらから積極的に働きかけ、未だ来ぬ結果を先に打ち消した方が賢いでしょう。つまり、自分が出した悪的波動を、慈悲の波動で打ち消す作業を自ら率先してするのです。慈悲の波動とは、反省と強い決意のことです。
反省の波動は、悪的波動の反対の性質を持っていますので、波の干渉によって結果を和らげたり、消したりしてくれるのです。だから、反省の波動を慈悲の波動ともいうのです。ただし、反省には、「二度と過ちを犯さない!」という強い決意が伴っていなくてはなりません。もし、本心から悔い改めることができたら、間違いなく「黒石」を「白石」に置き変えることができるでしょう。
-500-
"禍福は糾える縄の如し"という諺がありますが、これは原因と結果の循環を通して進化する様子を語ったものです。
人間は過ちを犯します。そして、苦しみます。でも、その苦しみから学び、生き方を正すようになります。そうなると幸せがやってきます。しかし、人間は増長し、再び過ちを犯します。そして、苦しみます。でも、その過ちから学び、生き方を正すようになります。すると、また、幸せがやってきます。こうして不幸と幸せの間を行き来し、人間は成長してゆくのです。その姿が、「糾える縄」のようだといっているわけです。
この宇宙は、悪が勝つようにはできておりません。また、善が勝つようにもできておりません。善悪の消却を通し、完全な善に向かって進化してゆく営みがあるだけです。善悪の消却とは原因と結果の循環のことを指しており、この循環の営みがあればこそ、表現宇宙はより完全に向かって進化してゆくことができるのです。
-501-
私達の抱く想念が、人生を大きく左右していることを知って下さい。想念の偉大さを知った者は、宇宙の真髄を知った者であるといわれるくらい、大変重要なことなのです。
私達を無能な人間にしているのは、生命の自分を人間という思いで落としているからです。
「私は人間で無く生命である!」
この想念の入れ替えができたら、必ず変化が起きてきます。それも、自覚の強さに比例した変化が起きてきます。人それぞれ理解力が違いますから、全員に同じ変化は保証できませんが、想念が入れ替われば、間違いなく、あなたは変わります。
私達の肉体は、ほぼ同じ形をしていますから、外側からでは、その人の魂の大きさは分かりませんが、肉体を脱いだ時、その差は歴然とします。だから、今、何も変化が起きないからといって落胆しないで下さい。
さあ、目先の現象に惑わされず、一心に生命の自覚を高めましょう。その成果は、肉体を脱いだとき分かるのですから・・・。
-502-
人前で失敗すると、誰もが恥じ入りますが、そんな恥じは成長の喜びに比べたら、どうということはありません。それよりも、何も失敗せず成長しない方が恥なのです。
たしかに、人前で失敗すると、恥ずかしいし、気も滅入るかも知れません。でも、その体験から大変な学びをさせてもらったと思えば、むしろ喜べるはずです。
失敗は失敗ではありません。大きな成功です。失敗を怖がり何もしない方が失敗です。失敗を後まで引きずる方が失敗です。失敗を糧とし、後々生かせばそれは成功なのです。小さな恥を嘆くよりも、そこから学んだ大きな収穫を喜んで下さい。一時の失敗を恥るか、体験から学んだ収穫を喜ぶかは、人生の意味を知った人なら分かるはずです。
-503-
迷いを毛嫌いする人がおりますが、迷いは決して悪いことではありません。なぜなら、迷った者ほど、多くの道を知るからです。歩いて損する道など、一つも無いのです。たとえ、その道が迷い道だとしても、迷うことによって色々な体験ができ、それが多くの発見につながってゆくからです。
迷いは迷いでは無く、本当の道を発見するために必要な迷いです。迷った者ほど、多くのことを知るのです。迷った者ほど、多くの何かを発見するのです。迷わず悟った覚者など、一人もいないのです。だから、多く迷いなさい!、といっているわけではありません。できるだけ迷わない方が良いに決まっています。でも、そうはいかないのがこの世の厳しさです。ならば、大いに迷い、早く本当の道を発見した方が利口ではないでしょうか?。
歩かなければ、棒に当たることはありません。棒に当たらなければ、躓くことも、転ぶこともありません。それでは、何の発見もでき無いのではありませんか?。
迷うことが悪いのでは無く、迷いから何も学ばないことが悪いのです。さあ、勇気を持って未踏の道を歩きましょう。そして、未踏の道から色々なことを学びましょう。それが賢い人の生き方です。
-504-
深い眠りから覚め、朦朧とした意識の中で、
「私は何ものなのか?」
「今、私はどこにいるのか?」
「私は一体?、私は?、私は?、私は?・・・」
こんな意識の迷子になった体験はありませんか?。まるで自分が何者か分からないのです。しかし、覚めるに従い、「そうか私は誰々だったのだ。今、何という町の、何というホテルに泊まっているのだ。そして、今日、これこれをするために、この町に来たのだ!」ということを思い出した、そんな体験はありませんか?。
人は深い眠りに入ると、形のしがらみから解放され、ただの私、つまり、純粋な生命の私に戻るのです。その時の意識には、何の色も、何の印も、付いていないのです。自我の自分に目覚めることで色や印の記憶が蘇り、自分が置かれている立場や、やらねばならないことを思い出すのです。
このことからも分かるように、本来、私達の意識には、何の色も、何の印も、何のラベルも付いていないのです。無所得の意識です。無差別の意識です。そこには、ただ一つの普遍的意識、生命意識があるだけです。
意識の迷子の体験は、この宇宙に一つの意識しかないことを知る貴重な体験です。ぜひ、朝方の朦朧とした意識の中で、唯一の生命意識を確認して下さい。
-505-
私達は何を知るべきでしょうか?。過去生の自分でしょうか?。それとも、本当の自分でしょうか?。
良く、"あなたの過去生は誰々だったのですよ!"、と人の過去生を教える宗教団体がありますが、そんなものを知って 一体 何になるのでしょうか?。この現象界は幻の世界ですよ?。しかも、過去は過ぎ去ったページです。そんな幻の世界の幻を追いかけ、何か得することでもあるのでしょうか?。たとえ、過去生で偉大な名を残した者であっても、今、人間として生きている限り、何の意味もないのです。ただ、自己顕示欲を満足させるだけです。
私達が知るべきことは、そんな幻の自分ではなく、真実の自分だと思います。真実の自分は、生命(神)ですから、生命の自分を心の底で知ることが大切なのです。なぜなら、過去生の自分を知っても、幻の世界へ帰るだけですが、真実の自分を知れば、真実(生命)の世界へ帰れるからです。幻の世界にいたかったら、どうぞ過去生の自分に酔いしれて下さい。でも、真実の世界へ帰りたかったら、過去生の自分に思いを寄せないことです。
過去生病にかからないようにして下さい。過去はもう終わったのです。今の今、本当の自分を知ることが大切なのです。
-506-
人の世に普遍法の網はかけられません。なぜなら、みな、個々の意識しか持ち合わせていないからです。個々の意識しか持ち合わせていなければ、立場の違いによる利害のぶつかり合いが生じるのは、当然で、それを同じ法の網で収めようなど、とても、できるものでは無いのです。立場の違いを超えてこその普遍法であり、それは個々人が一つの生命として同じ立場に立たない限り無理な話しなのです。同じ家族間においてさえ立場の違いが生まれるのですから、それを人類全体に押しなべようとしても、押しなべられるものでは無いのです。
人為法は、立場の違いをできるだけ客観的に捕らえ矛盾を埋めたものですが、どんなに矛盾を埋めても、こちらを立てれば、あちらが立たず、あちらを立てれば、こちらが立たずで、全員を納得させることなどできないのです。あなた私のある社会において、すべての人に都合の良い法などあるわけがないのです。どんなに議論しても、それは時間の浪費というものです。だから、人間社会では、常に法律の改正が行われているのです。
もし、真の人間を知り、人間が普遍的な存在であると知れば、そこに立場の違いは生まれませんので、普遍法の網にかけられても何の不都合も生まれないでしょう。でも、普遍的な自分になったら、普遍法そのものが自分ですから、もう、そのような法自体必要なくなるのです。
-507-
この世に、真に問題にすべき問題など何ひとつ存在しません。なぜなら、この世のものは、すべて消えてなくなる無常なものだからです。どんなに沢山の財産を持っても、それは、一時、自分の物になっただけで、永遠に自分の物になったわけでは無いのです。今あなたの手の中にあるどんな物も、いつか姿を 変え 消えて 無くなってしまうのですよ。第一、自分の物と思っているこの肉体さえも、自分の物ではないのですからね・・・。
沢山の財産を築いて亡くなったあなたの祖父は、築いた財産をあの世に持ち帰りましたか?。また、地位や名誉を築いて亡くなったあなたの叔父は、築いた地位や名誉をあの世に持ち帰りましたか?。あなたも、そうです。どんなに沢山の財産を築いても、どんなに地位や名誉を築いても、死ねば、みな、この世に置いてゆかねばならないのです。そんな世界に、どうして問題にすべき問題があるでしょうか?。この世は腰掛けの世なのですよ。ならば黄金の椅子など、いらないではありませんか?。
人間関係に悩み自殺する人がおりますが、どうして腰掛けの世に、死ぬほど悩まねばならない問題があるでしょうか?。自分で勝手に大きな悩みにして、苦しんでいるだけです。山より大きな猪は出ないのですよ!。だから、決して、自殺などしてはならないのです。
良く爆弾テロを起こして世の中を変えようとしている人がおりますが、十年もしたら、社会の情勢が全く変わってしまうかもしれないのですよ。そんな世の中に、真に問題にすべき問題などないのです。明日は明日の風が吹くのです。だから、短絡的なことはしないことです。
私が何事も五十歩百歩で止めなさい(五十パーセントの力で止めなさい)というのは、どんなに車をピカピカに磨いても、いつ、ハトの糞が落ちてくるか分からないからです。あなたは、磨いてすぐ雨に降られた体験はありませんか?。それなら、五十歩の力でやれば良いではありませんか?。
この世が本当に有ると思っている人や、肉体が自分だと信じている人は、どうしても小さな問題を大きな問題にして悩むのです。それは、この世のものを手放したくないからです。執着しているからです。この執着は無知から来るのです。だから、「無知こそ最大の罪」といわれるのです。この世のものが幻だと知った者が、どうして、この世のものに執着するでしょうか?。
賢い者は、この世が幻だと知っていますので、この世のものに執着しないのです。だから、彼らの目には、どのような大きな問題も小さな問題にしか写らないのです。
-508-
本当に無い人間を前提に社会を組み立て、どうして、まともな社会が築けましょうか?。それは、砂の上に築かれた建物のようなものです。
永遠の生命を前提に築かれた社会と、無常の人間を前提に築かれた社会の、どちらが揺るぎない社会になるかは、誰が考えても分かることです。しかし、人類は、今、無常の人間を前提に社会を築いています。これでは、建物が傾くのも無理はありません。もし、永遠の生命を前提に社会を築くなら、どのような嵐が襲ってもビクともしないでしょう。
地に足をつけて生きられる社会とは、本当に有る生命を前提に作られた社会のことです。地に足を浮かしてしか生きられない社会とは、本当に無い人間を前提に作られた社会のことです。本当に有るものと本当に無いものの識別がいかに大切か、もう、そろそろ人間は悟っても良いころです。
さあ、永遠に崩れない土台の上に社会を組み立てましょう。そこには、何一つ、不安も苦しみも生まれようが無いのですから・・・。
-509-
幸せの進化とは、生命の目覚めに比例して、幸せの味が増してくるという進化です。自分が人間だと思っている限り、人間としての幸せしか求めないし、事実、その幸せしか掴めません。でも、生命の自分に目覚めれば、生命としての幸せを求めるようになり、生命としての幸せが掴めるようになるのです。
人間が求める幸せは、一時の幸せ、色あせる幸せです。生命が求める幸せは、永遠の幸せ、色あせない幸せです。
幸せは、
この宇宙は、理解力が 増せば 増すほど、悟りが 深まれば 深まるほど、幸せの味が増すようになっているのです。
-510-
外側に幸せの青い鳥を探している者は、ボディーを脱ぎ捨てた後も外側に幸せの青い鳥を探そうとします。だから、彼らは、幾度となく形の世界(この世とあの世)を行ったり来たりするのです。
もし、この地上界にいる多くの者が、内側に幸せを求めるようになれば、幽界にいる兄弟姉妹も、それを見習って、きっと内側に幸せを求めるようになるでしょう。そうなれば、外側に幸せの青い鳥を探しに出かけることもなくなり、輪廻から抜け出すことができるでしょう。
「内側に幸せを求めるという意味は」、瞑想をするという意味です。瞑想は、幸せの青い鳥を見付ける唯一の方法なのです。その瞑想は、ボディーを持つ者だけがするのではありません。幽体を纏った意識の高い者もしているのです。いや、瞑想は、形を持つ持たないにかかわらず、宇宙の至る所で行われているのです。
幸せの青い鳥は、私達の心の中でずっと訴え続けています。「カゴの扉を開け、一時も早く私を自由にして下さい!」と・・・。さあ、"私は肉体では無い、生命である!"と宣言しましょう。それがカゴの扉を開ける秘訣です。
-511-
物事を点で捕らえると、前後のつながりが不明になるため予見がしづらくなり、間違った方向に進みかねません。でも、線で捕らえると、前後の状況が分かるため予見がしやすくなり、正しい方向に進むことができます。生と死も同じです。
死をデジタル的に捉えると、人生の流れが見えないため、恐ろしいもの、悲しいもの、として嫌われます。しかし、アナログ的に捉えれば、人生の流れが良く見えるため、尊ぶべきもの、喜ぶべきもの、として受け入れることができるのです。
死を終わりとする今の世の中の考えでは、人生の流れを消し去ってしまうことになり、これは進化を目指す私達にとって非常に損です。第一、死を恐れること自体、真実を目隠ししてしまうことになり、成長の妨げとなります。
このようなことがありました。
臨終を間近に控えた、おばあさんが、病院のベッドで寝ておりました。あまり枕元で家族が泣き叫ぶので、おばあさんが意識を取り戻したのです。
その第一声がこうでした。
「なぜ呼び戻したのですか?。せっかく気持ちの良い世界にいたのに・・・」
肉体は苦しんでいるように見えても、本人は苦しんでいないのです。いや、苦しいどころか、喜びに満ちているのです。死を苦しみの代名詞にする人もいますが、死は苦しいものでは無く喜ぶべきことなのです。青いうちに、もぎ取るから苦しいのです。熟した柿が自然と落ちるように、十分本懐を遂げた生命は、苦しむことなく肉体を離れて行くのです。カゴから解き放され喜ばない鳥がいないように、私達も本懐を遂げれば、喜んで天に舞い上がって行けるのです。私達は、これまで、何万回と無く死を体験してきたのですよ。今更、どうして死を恐れるのですか?。
死は、生と生とをつなぐ一時の休息です。前の生と今の生は、つながっているのです。今の生と未来の生も、つながっているのです。私達は、今、前後の生をバトンタッチし、より高い進化の階段を上っている真っ最中なのです。このことが分かれば、死を恐れることも、悲しむことも無くなります。当然、肉体への執着も無くなるでしょう。もう、豪華な棺桶はいらなくなります。お墓も納骨堂もいりません。衛生上、火葬場は必要かも知れませんが、焼いた骨は砕いて土に埋めるか川に捨てるかすれば良いのです。土から出た物は土にかえすのが自然です。もし、骨壷に入れ大切に保存しようものなら、骨が元の原子に戻るのに時間がかかるので、原子の進化を遅らせることになるでしょう。
迷信や俗信に惑わされず、何事も科学的に考えて下さい。お経が人を救うことなど無いのです。神仏を拝んで救われることなど無いのです。救うのは自分自身です。人間だ!、肉体だ!、個人だ!、と誤解しているのは自分ですから、自分で誤解を解くしか無いのです。だから、他力はありません。すべて自力です。
死を点で捕らえ、過去・現在・未来の線を消している社会に進歩はありません。さあ、デジタル的な死生観を捨て、アナログ的な死生観を持ちましょう。
-512-
知花先生は、
「肉に生きるは死である。肉に死んでこそ真に生きる者となる。」
とおっしゃっておられますが、この真理は人間社会における生き方についても当てはまることなのです。
たとえば、私達は、
生活を守るため、家族を守るため、一生懸命生きている人達を私は批判するつもりはありませんが、その行き過ぎで身を滅ぼしている人達が人間社会には多いのです。人は、どんなに生きても百年そこそこです。ならば、日々生きられるだけのお金や物があれば良いのではないでしょうか?。しかし、人間は欲に誘われ、百年そこそこの命を守ろうとして、返って命を縮めています。この世に争いが絶えないのも、余りにも保身に走り過ぎるからです。もし、足る事を知り、必要最小限度の生活で甘んじるなら、人と人との諍いは勿論、国と国との諍いも決して起こらないでしょう。
"あの島は私の国の島である!、いや、私の国の島である!"、と島の取り合いをしていますが、この地球上に 私の島も あなたの島も 無いのです。あるのは、みんなの島です。神は、私達に、何でも平等に与えてくれております。それを崩しているのは、人間の欲望です。人より多くの物を、人より豊かに、この欲望が争いを生み出し身を滅ぼしているのです。
過剰なほど身を守ろうとするのは、自分のことを肉体だと思っているからです。肉体を自分だと思っている限り、この世から争いを無くすことはできません。だから、覚者は口を酸っぱくしていうのです。
「生命に生きよ!、欲を捨てよ!、足る事を知りなさい!」と・・・。 「身を捨ててこそ渡る瀬もあり!」という諺がありますが、その意味は、身を捨てる気なら渡る瀬はいくらでもありますよ、すなわち、過剰な保身に走らなければ生きる方法(道)は、いくらでもありますよ!、といっているのです。もし、人類がこの諺を杖として生きるなら、戦争は勿論のこと、経済問題も、環境問題も、国内外の諸問題も、ことごとく解決するでしょう。
-513-
ここで、命の本質も、物質の本質も、同じ一つの意識主(創造主)から生まれたことを確認しておきたいと思います。意識主という表現をするのは、本質そのものに意識と意志が、すなわち、命が存在するからです。その本質と命によって埋め尽くされている宇宙は、当然、意識主そのものといえるでしょう。要するに、宇宙そのものが、意識と意志を持った一匹の生き物なのです。
宇宙そのものが、一つの命であり、本質ならば、そこに存在する、砂一粒も、虫一匹も、花一輪も、みな、創造主ではありませんか?。だから、万物の霊長である人間が創造主なのは当然なのです。
一つの意識・一つの命・一つの本質はイコールですから、自分が生き、自分が創造し、自分が働くことができるのです。この宇宙に一つのものしか無いがゆえに、宇宙は永遠に存続し得るのです。もし、二つのものがあるなら、ぶつかり合いが生じ、宇宙はとうに消滅していたはずです。
この宇宙には、一つの本質しかないのです。一つの命しかないのです。一つの意識しかないのです。すなわち、私しかいないのです。
-514-
人間は造られたもの、生命は創り主、人間が真実なるものを創れない理由は、人間は造られたニセモノだからです。造られたニセモノは、真実なるものを考えることも、真実なるものを語ることも、真実なるものを創造することもできないのです。なぜなら、真実を知らないからです。真実を知らないから人間をやっているのですから、そんな無知な者が真実なるものを創造できるわけがないのです。
真実は真実しか知らないのです。偽りは偽りしか知らないのです。真実しか知らないものは、真実しか考えられないし、真実しか語れないし、真実しか創れないのです。反対に偽りしか知らない者は、偽りしか考えられないし、偽りしか語れないし、偽りの物しか造れないのです。だから、偽りの人間は、環境を破壊するのです。人間社会に不幸が絶えないのは、偽りを偽りとも思わず偽りの物を創造しているからです。
だから、人間は一日も早く、生命に目覚めなければならないのです。本当の自分が生命だと知れば、真実しか知らない者になりますので、偽りを考えることも、偽りを語ることも、偽りの物を造ることもなくなるでしょう。
-515-
外側の物がすべて幻であることは、これまで何度もいい続けてきたところですが、その意味の深さを知るのは容易なことではありません。そこで、再度、復習を兼ねて勉強したいと思います。
外側に現れた物は死に絵だといい、本当にあるもので無いといいましたが、その理由は、形を取った物は次元が違うからです。私達の意識(心)は絶対界に属するものですから、本来、次元の違う外側の物の影響を受けることは無いのです。影響を受けるのは、外側の物を本当にあると認めるからです。それは、あたかも、恐ろしいテレビ・ドラマを見て恐怖しているようなものです。テレビ・ドラマは次元が違うのですから、影響を受けることはないのです。同様に、この世の出来事も次元が違うのですから、絶対界に属する私達の心に影響が及ぶことはないのです。
どんなに外側の物が暴れても、自分の心が認めなければ、シミ一つ、傷一つ、付くことは無いのです。それは影だからです。幻だからです。もし、傷付いたとしたら、それは誰が悪いのでもなく、外側の物を認めた自分が悪いのです。本当は無いのに、あると認めるから傷付くのです。
この宇宙には、たった一つの主観的な意識しかないのですから、主観的宇宙しかないのです。主観的宇宙しかないということは、自分の宇宙しかないということですから、自分の意志で自分の宇宙をどうにでもできるのです。だから、意識の持ち方が大切になってくるのです。(そのためには、宇宙の仕組みを良く知ることである。)
恐れるべきは、唯一自分の想いです。心穏やかでありたかったら、絶対に自分の心をネガティブな想いで汚さないことです。そのためには、実際に無い外側の物を認めないことです。受け入れないことです。
「認めるからある!」
この意味の深さを良く理解して下さい。
-516-
「先生」とは、「先」に「生」まれたものと書きます。この世に存在しているものは、すべて途中で生まれたものですから「後生」と書き、一人として先生の資格はありません。真に先生と呼べるのは、永遠の昔よりこの宇宙に存在していた「生命・神」だけです。だから、覚者はいうのです。「この世の何者も先生と呼んではならない!」と・・・。
良く、私があなたの苦しみを取ってあげましょうとか、救ってあげましょうとかと言う人がおりますが、他人が他人を救うことは絶対できません。なぜなら、人間と思わせているのは他人ではなく、自分自身だからです。自分で自分のことを「人間だ!、肉体だ!、個人だ!」と思って迷っているのですから、自分で自分の迷いを取るしか無いのです。
たしかに、側から迷っている人に「あなたは人間ではなく生命ですよ!」と、アドバイスはできるかも知れません。でも、そのアドバイスを受け入れ、生命と思えるようにするのは自分しかいないのです。自分が自分に教え、自分が自分を目覚めさせ、自分が自分を救うのです。
「未だかって真理の導き手が人手に渡ったことが無い!」
といわれるのは、私達の中にホンモノの指導者がおられるからです。
「自分が自分を救う!」
とは、そういう意味なのです。
さあ、永遠の昔よりいる先生(大師・生命)から教えを請いましょう。その先生は、手よりも足よりも近い自分の中にいるのです。
-517-
ここまで、
「私達は生命である!。」
「私しか存在しない!。」
「私達は無限の存在である!。」
と、いい続けてきましたが、それを心の底で理解できた人は殆どいないと思います。当然です。人の体験したことを言葉や文字で伝えても、その中身は体験した本人しか解らないからです。裾野の景色しか見ていない人に、頂上の絶景が分るはずがありません。それを承知の上で真理を伝えてきたのは、
「あなたも登れば素晴らしい景色が見られますよ!」
と、いいたかったからです。
宇宙の景色の素晴らしさは、登った人にしか分からないのです。ただ、私は、"このようにして登ったのですよ!"と、その体験談を語ったまでです。つまり、天に昇る道を示したまでです。その体験談を足掛かりとし、実際に登るのは皆さんです。
私の体験談を疑い、"そんな景色があるはずがない!"といわれる人は、登ってからいって下さい。登ってもいないのに景色の素晴らしさを疑るのは、宇宙に対して失礼です。
「これが私の恩師である、知花先生がおっしゃりたかった本音であり心情だと思います。」
「景色の素晴らしさは、登った者にしか分からない!」この先生の心情をくみ取って下さい。
-518-
私達は、日々、化学研究所と科学研究所の両研究所で研究にいそしんでおります。化学研究所は物質の法則を主な研究課題にしており、その場所は最も身近な私達の家庭です。特に台所や風呂場やトイレは、化学研究の重要な実践の場です。また、肉体そのものも、研究課題の一つでしょう。
一方、科学研究所における研究の主題は心です。その実践の場は、家庭や職場や社会全体です。そこで、様々な心の機微を研究します。中でも、どのような想いを持ち、どのような言葉遣いをし、どのような行動をすれば、幸せになれるかなどの研究は、最も重要な研究題材の一つでしょう。
私達は、家庭や職場や社会で実践を通して研究し、一つ一つ自分の心の中に研究成果を積み上げて行くのです。その成果は、実践者 自らが受け取ります。そして、その成果を基に、宇宙の仕組みや本当の自分を発見してゆくのです。このように、一人一人の心が、研究所であり、実践の場であり、成果の受取人です。すべて、そこに自分が入っています。
どんな偉大な物を作るより、どんな偉大なことを成すより、心の研究ほど大切な研究はありません。なぜなら、心こそ真実なるものだからです。その研究の鍵となっているのが疑問です。日々の生活の中で疑問を持ち、その疑問を自分に問いかけ、気付いた事を実践する、この実践自体が研究発表となっているのです。
私達の日常生活そのものが、科学研究そのものです。私達は、日々、科学研究所の中にいることに気付いていないだけです。
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私達は、「知った」といいますが、ここまで知った、という言葉は使えても、全部、知ったという言葉は使えないのです。なぜなら、知ることには際限が無いからです。また、その知る内容も、知る人の意識の高さや理解力の高さによって違ってきますので、一様な知り方はできないのです。その意味では、この宇宙の仕組みを一様に、しかも、完全に知ることは永久にできないでしょう。
たとえば、ある宇宙の仕組みを知ったとしましょう。その知り得た内容は、その人の意識の高さや理解力の範疇で知ったのであり、すべてを知り得たわけでは無いのです。ましてや、それを人に伝えるとなると、伝える側と受け取る側に意識的ずれがある(意識の高さや理解力が違う)ため、一様に伝えられないし、一様に受け取れないし、また、真意も伝わらないのです。ですから、現代科学で重視されている、「普遍性」や「再現性」や「客観性」は、意識の世界では、あり得ないのです。受け取る側の意識の高さや理解力の高さが違えば違うほど、普遍性や客観性が失われてしまうからです。意識の世界が、一つの枠の中に収められないのはそのためです。
主観で知ったことを客観的に伝えることは絶対できません。だから、一人ひとりが、自力で、自分の主観の中で知るしかないのです。人をあてにして ならない理由は、人の思いを自分の思いにできないからです。
裏返せば、
ことの証しなのです。
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人間には五感という感覚器官があるため、心はどうしても痛みや苦しみのダメージを受けます。一旦、痛みや苦しみが現象化されると、ますます、気が(心が)落ち込みますので、痛みや苦しみは増大します。これが、原因と結果(心と現象)の悪循環といわれるもので、こうなると、病気が主導権を握るようになり、あたかも、病気が先に有ったかのような錯覚を与えてしまうのです。持病とか慢性病といわれる疾患は、心が長期間ダメージを受け、思い癖が付いた状態なのです。要するに、体の病気が心まで病気にしてしまうわけです。こうなると、原因と結果が逆転してしまい、先に現象(結果)を無くす必要が出てくるのです。つまり、心が新たな原因を作り出さないよう、薬や手術によって結果(痛みや苦しみ)を摘み取る必要が出てくるのです。
(原因と結果の悪循環)
心の歪み(原因)が、→→→→→→ 痛みや苦しみ(結果)を生み
痛みや苦しみ(結果)が、→→→→ 心に新しい歪み(原因)を生む
私が現代医学を否定しないのは、心と現象の関係があまりにも複雑なため、痛みや苦しみを先に取る物理療法が必要だからです。でも、本末転倒だけは、しないで下さい。どんなに病気が主導権を握っても、あくまでも、心の歪みが病気の原因ですから、心の管理だけは忘れないで下さい。
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真の人類救済とは、病気を治してあげたり、経済的に助けてあげたりすることでしょうか?。いいえ、そのような救済はインスタントの救いであり、真の救いではありません。真の救いとは、本当の自分に帰してやることです。すなわち、生命に目覚めさせてやることです。人を目覚めさせる救いは、永遠の救いです。だから、覚者達は、救いの矛先をその一点に絞り、必死になって訴え続けているのです。
勿論、肉体が不健全であれば真理の探究どころではないでしょうから、病気を治してやることも、経済的に助けてやることも、必要な場合があるでしょう。でも、それを安易にやっては、返って真理の探究の邪魔になる場合があるのです。必要だから貧しくなり、必要だから病気になったのですから、その学びの材料を安易に奪っては成長を遅らせかねないからです。だから、物的な救済は、よほど慎重にやらねばならないのです。
肉体は無常なるものですが、心は永遠なるものです。永遠なるものを救ってこそ、真の救いになるのです。
このように真の人類救済とは、「魂を目覚めさせる」救済のことなのです。
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人の世では人情というものが尊ばれておりますが、人情は、本当に、人のためになっているのでしょうか?。人情をかけ過ぎ、人を駄目にした例は、いくらでもあります。また、余りにも人情が深いため、悲しみや苦しみが深くなる、あるいは、恨みや憎しみが深くなる、といった例も沢山あります。ですから、私は、人情をあまり好ましく思わないのです。
この宇宙には、天の情と地の情があるのです。天の情を愛情といい、地の情を人情といいます。愛情は天から来ており、人情は地から来ているところから、そのように呼んでいるわけですが、その中身は、まるで違うのです。天から来ている情は魂を成長させ、地から来ている情は魂を堕落させるのです。たとえば、すぐに助け船を出すのが地の情けです。この行為は、助ける方は自己顕示欲を満足させ、助けられる方は甘やかしを助長させるといった、人を堕落させる方向に働くのです。それに対して、すぐに助け船を出さず、アドバイスをしながら見守るのが天の情けです。勿論、耐え切れない場合は助け船を出しますが、苦しみから何かを掴むまで、できるだけ助け船を出さないようにするのが天の情けなのです。
巣立ちを怖がる小鳥を巣から突き落とす親鳥の愛のように、峻厳な愛こそ真に人を成長させてくれるのです。甘やかしの愛では、決して人を成長させないことを知って下さい。
といっても、天の情を施すのも相手によりけりである、ということも知っておかねばなりません。人それぞれ魂の遍歴が違いますので、それを無視し一様に天の情を振りかざしては、返って成長の妨げになる場合もあるからです。ですから、人を見て助け船の出し方を考えねばならないのです。その見極める目を養うのも、大切な学びの一つです。
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これまで、真実について述べてきましたが、ここで、総まとめをしてみたいと思います。
真実とは、この宇宙に、たった一つしか無い、意識です。意志です。理念の主です。知恵です。力です。光です。愛です。これらをすべて併せ持った「生命」です。すなわち、「私」です。
その私は、永遠不滅です。完全無欠です。無限なるもの、普遍なるもの、絶対善なるもの、それは無形にして無双です。だから、目で見ることも 肌で感じることも できません。でも、意識でなら 見ることも 感じることも できます。なぜなら、意識を持っている、私そのものが、真実そのものだからです。なぜ、私が真実かは、次のような論理で示すことができるでしょう。
もし、肉体が無くなると同時に、私の意識が無くなってしまうなら、意識は肉体に対して絶対的なものになりますから、宇宙は「無」となり、真実を失ってしまうでしょう。しかし、肉体が無くなっても、私の意識は決して無くならないわけですから、意識は肉体に対して相対的なものとなり、宇宙は真実なる「有」を貫き通すことができるのです。
「無」の宇宙に何の意味があるでしょうか。「有」の宇宙だから意味があるのです。私の意識は、その「有」を実感してやれる唯一の存在なのです。だから、私の意識は、真実そのもの、生命そのもの、宇宙そのものといえるのです。
意識こそ、真実の実態です。意識あるものは、全て、真実そのものなのです。ということは、全ての物に意識があるわけですから、宇宙そのものが、真実そのもの、ということになるでしょう。だから、私達は、何を見ても、何を感じても、真実と思わなくてはならないのです。
あなたの両親は、真実そのものです。あなたの妻(夫)は、真実そのものです。あなたの子供は、真実そのものです。隣人も、友人も、会社の上司も、同僚も、部下も、みな、真実そのものです。黒人も白人も、どんな人達も、みな、真実そのものです。鉱物も、植物も、動物も、みな、真実そのものです。だから、全ての人達を、全ての物を、等しく愛さねばならないのです。
(形を真実だといっているわけではありません。形の中で生きて働いている一なる生命を真実だといっているのです。その点を誤解しないで下さい。)
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