私達は気の遠くなる年月、人間として生きてきたために、生命でありながら生命と思えなくなってしまいました。オオカミに育てられた人間の子が、自分をオオカミだと信じ込んでしまったように・・・。
この思い癖を取るには、生命に対する瞑想が必要です。どうか「私は生命である!」と思って下さい。人間の思い癖を取るには、「生命」を何度も何度も思う瞑想しかないのです。根気良く思い続ければ、必ず思い癖は取れます。
くどいようですが、「私は生命である!」と無意識に思えるようになるまで、根気良く思い続けて下さい。騙されたと思って続けて下さい。たとえ 今生 何の変化が起きなくても、決して無駄になることはありません。なぜなら、今生だけが人生ではないからです。これまでも続いていたし、今も続いているし、今後も続くからです。成果は必ず実ります。
「瞑想すること」、これがあなたを変える唯一の方法です。
-463-
無いものをいくらいじくり回しても、そこからは何も出てきません。本物が欲しいなら、本当に有るものをいじくり回すことです。
本当に有るものとは、生命のことです。霊のことです。本当に無いものとは、物質のことです。人間のことです。物質も人間も幻ですから、そんなものをいくらいじくり回しても何も出てくるわけがないのです。無いものは、一切、考えない、見ない、触らない、認めない、いや、意識する必要さえ無いのです。
本当に有るもののみを考えましょう。霊のみ、生命のみを考えましょう。霊は、生命は、永遠に無くならないホンモノなのですから・・・。
-464-
今、私達は、肉の目で色々なものを見ています。しかし、本当は、見えないものを見ているのです。ただ、見ているのに見ていないと思っているだけです。それは、物質に対する理解力が希薄だからです。
物質と生命(霊)とは絶対不可分です。絶対不可分という意味は、物質と生命
(霊)は同じものだから絶対分けられないという意味です。ならば、物質は生命(霊)ではありませんか?。生命(霊)は物質ではありませんか?。それなら、あなたは、今、生命(霊)を見ているのではありませんか?。毎日、寸分の休みなく、生命(霊)を見ているのではありませんか?。ただ、物質だと思い違いしているだけです。
理解力をもって物質を生命(霊)だと思えば、それは生命(霊)なのです。もともと物質の本性は生命(霊)だから、生命(霊)だと思えば、それは、生命(霊)なのです。ただ思えば、それは生命(霊)なのです。本当にそうなのですから仕方がありません。
-465-
初めからあったものがホンモノで、途中で生まれた物はすべてニセモノです。ニセモノは無くなりますが、ホンモノは決して無くなることはありません。途中で生まれた物には寿命が付きまといますが、初めからあったものには寿命が付きまとわないのです。ホンモノは永遠不滅なのです。だから、ホンモノには誕生日が無いのです。誕生日があるのは、途中で生まれたニセモノだけです。
人間は盛大に誕生日を祝いますが、それは死に近付いたことを祝っているようなものです。肉体を自分だと思っている者は、どうしても、誕生祝いをしたがるものなのです。でも、それで良いのかも知れません。なぜなら、肉体から解放される日の近づいていることを祝っているとも言えるからです。
誕生が無ければ死ぬことがありません。死ぬことが無ければ生まれることもありません。だから、本来、私達(生命)に、誕生祝いは不要なのであります。
-466-
この宇宙で一番波動の低いのは、物質です。その次に波動の低いのは、幽質です。一番波動の高いのは、霊質です。その意味では唯物主義者は、一番低い波動を持っていることになります。一番鈍重な波動を持っているがゆえに、幽界の存在を知っただけでも波動は上がるのです。だから、無闇に幽界の話を退けてはならないのです。幽界があると知らしめることは、唯物論者を唯心論者に変えるきっかけになるからです。どんな進歩も、一挙というわけにはゆきません。少しずつ少しずつ無理解の垣根を取り払い、真実に近付けてゆくしかないのです。
ちなみに波動は、次のような意識を持っただけでも上がります。
私達は最終的に、一番波動の高い生命の世界へ帰らなくてはなりません。そのためには、波動を上げる訓練がどうしても必要です。波動を上げる訓練とは、意識を高める瞑想のことです。
波動は正直です。決して裏切ることはありません。あなたが成長した分、波動は付いてきます。ぜひ、波動を上げる訓練をして下さい。
-467-
私達が住んでいる物質の世界は、幻の世界です。といっても、なかなかそう思えないのが私達ですが、それはどんな物も同じ土俵の上に乗っているからです。つまり、同じ時の流れの中で生きているから、幻と思えないのです。
このようなことが言えるでしょう。
落ち葉と自分の乗っているボートが、同じ川の流れに沿って前進しているとします。その時の落ち葉とボートは、同じ流れの中におりますので、どちらも動いている実感がないのです。でも、岸辺(実相)から見れば、動いていることがわかります。つまり、動かない意識(実相)の目から見れば、自分が動いているかどうかが分かるのです。でも、仮相(物質の世界)の中に取り込まれている私達は、同じ変化する目で見るために、どうしても物質の世界があるような錯覚に陥ってしまうのです。その錯覚は、命の儚さや人生の虚しさを体験しなければ解けないのです。ようするにショックを与え、一時的に仮相の世界から実相の世界に意識を向けさす必要があるのです。
命の儚さを示すことわざに、「カゲロウは一日の命、蝉はひと夏の命」というのがありますが、実生活から遠いため、なかなか命の儚さを我が身に置き換えることはできません。我が身に置き換えられるのは、自分の不幸や肉親の不幸に出会った時です。不幸は、命の儚さや人生の虚しさを実感させてくれる好機なのです。
この世の時の流れから外に出て、冷静に観察する目を養いましょう。そのためには、肉体と意識を分離し、意識で物を見る訓練をすることです。肉体は時の流れの外に置くことはできませんが、「意識」は時の流れの外に置くことができます。そこから、この世の出来事を観察し、本当に有るものと無いものを識別することができれば、もう、この世のニセモノに騙されることはないでしょう。また、その観察力が身に付くにしたがい、あなたは、この世の出来事に心を痛めなくなるでしょう。
-468-
あなたは一日二十四時間、一体、何を思い、過ごしておりますか?。自分の想念の動きを観察して見た事がありますか?。百人が百人とも、過去のこと、未来のこと、今の雑事のことを思い過ごしているのではありませんか?。それも色々な妄想を描いて・・・。これでは、本当に生きているとはいえません。なぜなら、過去も、未来も、今の雑事も、みな幻だからです。
今の雑事を思っているならまだしも、昨日に憤怒し、明日に恐怖し、様々な妄想を描いて人殺しまでしている人がおります。無いものを自分の妄念で有るように組み立て、憤怒し、恐怖し、自分を苦しめているのです。何と恐ろしいことでしょう。
過去は過ぎ去ったページです。未来は未だ来ぬページです。今、雑事に追われている人も幻に生きている限り、本当に生きているとはいえません。真に生きているのは、真実に思いを向けている時です。つまり、生命の自分に意識を向け、生命を自分として生きている時です。
何度もいいますように、この世は刻々と変化する無常の世界です。この世の物に、一つだってホンモノは無いのです。そんな幻に時間を費やすほど、愚かなことはありません。人生を意義あるものにしたいなら、本当に有る「生命に意識を留め、生命を我が思い」として生きることです。瞑想している時は、生命に意識を留めていますので、本当に生きていることになります。また、外側の物を見ていても、その物の背後にある 生命(真実)を意識している時は、本当に生きていることになります。
さあ、自分の想念を良く観察しましょう。そして、できるだけ 真実(生命)に思いを向けて生きるように努力しましょう。その人は、人生を無駄なく生きている人です。
-469-
有るものと無いものの識別は、形の有る無しや、見える見えないで判断してはなりません。なぜなら、見えても実際に無いし、見えなくても実際に有るからです。
この宇宙のカラクリは、実際に有るものは見えなく、実際に無いものは見えるのです。なぜ、見えるものが無く、見えないものが有るのかといいますと、見えるものは必ず消えてなくなり、見えないものは永遠に無くならないからです。私達(本当の自分は生命である)は永遠不滅の存在ですから、永遠不滅の私達に対して永遠不滅のものは絶対的存在となるので本当に有ることになるけれど、消えて無くなる物は永遠不滅の私達に対して相対的存在となるので、本当に無いことになるのです。この宇宙は絶対が真実で相対は非真実ですから、そのような論理が導き出されるわけです。私達は、この真実を知るために生まれてきたのです。
さあ、この真実を心の底で知りましょう。そうすれば、二度とこの世に舞い戻ってこなくて良いのですから・・・。
-470-
人間が実在しない理由。
(理由1)
形あるものは必ず消えて無くなります。見える物は、見えない生命の現れとして 一時 存在しているだけで、実在しているものでは無いのです。雲が色々な形を取って 一時 空に浮かんでいるように、蜃気楼が 一時 空中に漂っているように、人間も 一時 形を取っている幻なのです。
形はすべて幻なのです。形は見えない生命によって 一時 現されているだけで、実在するものではないのです。見える形は、見えないものによって生かされ、動かされているのです。もし、形が生きているというなら、冷蔵庫が動いているといわねばなりません。冷蔵庫は見えない電気によって動かされているのです。人間も、見えない生命というエネルギーによって生かされているのです。見える形は、見えないものから離れて存在することは絶対できないのです。この事を前提に考えれば、人間は実在しないことになります。
(理由2)
永遠に無くならないものは、生まれもしなければ死にもしません。ならば、人間は実在しないことになりませんか?。なぜなら、人間は生まれて死ぬからです。人間が実在しないと私がいうのは、人間は必ず生まれて必ず死ぬからです。
実在するものは、生まれもしなければ消えて無くなることもありません。生まれるのは、実在しないからです。消えて無くなるのは、実在しないからです。生まれるということは、死ぬということです。死ぬということは、生まれるということです。そのような一時の存在を、どうして実在と呼ぶでしょうか?。
このような理由から、人間は実在しないのです。
-471-
なぜ、この世に病気というものがあるのでしょうか?。神は必要ないものはお造りにならないわけですから、あるからには何か理由があるはずです。
病気は、人を目覚めさせる手段として用意されているのです。人は苦しまなければ自分の過ちに気付かないし、自分の本性にも気付かないのです。このようにいうと、なぜ、生まれたばかりの赤子が病気になるのですか?、という質問がきます。
因果の絡みは複雑なので一概にはいえませんが、大抵の場合、十四歳以下の子の病気は、その子の両親に向けて発信されている「メッセージ」です。つまり、我が子の苦しみを通して過ちに気付きなさい!、自分の本性に気付きなさい!、というメッセージなのです。(中には、人類を目覚めさせるために、大義を背負って生まれてくる魂もある。しかし、それとて原因と結果の範疇で行われている)
私自身を顧みても、不調和な時代には子供達が相次いで病気になりましたし、交通事故などの災いにもたびたび見舞われました。それでも目覚めないものですから、今度は自分自身が痛い目を見、やっと目覚めたのです。目覚めて生き方を正すと、すべてが好転していったわけですが、この変化は驚くほどでした。
不幸になるからには、なる原因が必ずあるのです。病気や災いで苦しんでいる人は、己の「身・口・意」を一度チェックしてみて下さい。必ず、思い当たることがあるはずです。
外から与えられた病気など、一つもありません。みな自分が作った病気です。このことに気付いたら、その時点から病気は快方に向かうでしょう。
病気から解放される一番の早道は、人生の目的(何のために生まれてきたか?)を知り、正しい生き方に方向転換することです。正しい生き方とは、正しい行いをすること、正しい言葉遣いをすること、正しい想念を持つこと、すなわち、「身・口・意」の正しい表現です。
病気は複雑に絡み合う原因によって引き起こされていますので、人の常識では計り知れない部分がありますが、基本的には己の本性を目覚めさせるために用意されたメッセージです。
(人それぞれ魂の遍歴が違うのでその内容は一様ではないが、基本的には過ちを気付かせるため、己の本性を目覚めさせるために用意されたメッセージである)
用意されたといっても、自分が用意したのであって、誰かが用意したわけではありません。あくまでも原因あっての結果です。ただ、魂の遍歴の違いによって、不幸の種類や、大きさや、方向性が違っているだけです。
このように病気はメッセージですから、メッセージに応えれば、黙っていても病気は消えてゆくのです。生き方を変えることは、原因を変えることになるわけですから、結果が良くなるのは当たり前なのです。良い原因には良い結果が・・・、悪い原因には悪い結果が・・・、この宇宙は実に単純で正直にできているのです。
「問題が起きるからには、起きる原因が必ずあり、起きる意味が必ずある!。」
このことを心に留めておけば、何かあった場合でも軌道修正しやすいでしょう。
-472-
この世に、どんな病気も治すことのできる医者と、どんな病気にもならないよう教える医者がいたとすると、どちらの方が名医でしょう?。後者の方ですね。では、今、人類は、どちらの医者にかかっているのでしょうか?。
この宇宙は神が創造なされた完全な世界ですから、本来、病気(不幸)などという不完全なものがあるわけがないのです。しかし、現実には、多くの病気(不幸)があります。なぜでしょう?。それは自分のことを人間と誤解し、人間として生きているからです。この誤解を解かない限り、人間社会に病気が無くなることはありません。といってもこの誤解は、魂の幼さが生み出しているものですから、そう簡単に無くせるものではありません。多くの苦しみと悲しみを体験し、自分の本性に目覚めるまで待つしかないのです。だから、
「病気は魂を目覚めさす手段として用意されている!」
、といわれるのです。
神が人に万能の薬を与えないのは、そういった理由があるからです。
気の遠くなる年月、苦しみと悲しみを体験してきた地球人類は、もう、そろそろ自分の本性に気付いて良いころです。しかし、気付くどころかますます誤解を深め、一層お金と手間のかかる方法で病気を治そうとしています。すなわち、人類は、病気にならない方法を教えてくれる名医を選んでいるのではなく、病気を治そうとする医者の方を選んでいるのです。原因を良くしようとしているのではなく、結果を良くしようとモガイテいるのです。
結果対処では、手間と時間とお金がかかるばかりで、病気(不幸)を根絶させることは絶対できません。原因対処こそ、病気(不幸)を根絶させる唯一の方法であることに、一日も早く気付いて欲しいものです。
-473-
病気は過ちを気付かせるためにある、人生の意味を知らしめるためにある、とこれまでいってきましたが、そのことを前提に病気の治療方法を考えてみましょう。
第一の方法・・人生の思索をすること。
「人間は 一体 何者なのか?」
「自分はどこから来てどこへ帰るのか?」
「人生は何のためにあるのか?」
など、人生の思索を始めたら病気の進行はまず止まります。軽度の痴呆症なら回復します。その証に、人生の思索をしている人に痴呆症はありません。
人生の思索をし始めると、想念の回路が天に向けられるので、光に満たされるようになるのです。
第二の方法・・懺悔・反省をすること。
さらに私が勧めたいのは、「懺悔・反省」です。これまでの人生を振り返り、生き方に過ちがなかったか反省し、過ちがあったら「二度と過ちを犯さない!」と堅く心に誓えば、病気は快方に向かいます。懺悔・反省は人生の思索を行った時と同じように、想念の回路が天に向けられるので、光に満たされるようになるのです。
第三の方法・・唯物的なものの考えから唯心的なものの考えに改めること。
人間には右脳と左脳がありますが、唯心的なものの考え方をすると右脳が開発され、エネルギーが高まるのです。反対に唯物的なものの考え方をすると左脳が開発され、エネルギーが低下するのです。その理由は、右脳は宇宙(天)と直結しているのに対して、左脳は物質(地)と結びついているからです。高い天はエネルギーが高く、低い地はエネルギーが低いのです。
第四の方法・・腹式呼吸をすること。
気(エネルギー)は空気中に充満しているわけですが、それを体内に取り入れるには腹式呼吸が一番なのです。腹式呼吸を続けていれば、身体はポカポカしてきますが、これはエネルギーが高まった証しです。病を治す、こんな簡単な方法を使わない手はありません。ぜひ腹式呼吸をお勧めします。
第五の方法・・ポジティブな想いを持つこと。
ネガティブな想いは光を閉ざし、ポジティブな想いは光を呼び込みます。光はエネルギーですから、光を閉ざせばエネルギーが低下し、光を呼び込めばエネルギーが高まるのです。さあ、次のように思いをコントロールして下さい。
ベッドで寝ている人は何もすることがないのですから、やる気になればできるはずです。真剣にやれば、間違いなく効果はあらわれます。
第六の方法・・睡眠を多く取ること。
人はなぜ眠ると元気になるかといえば、眠っている間ネガティブな想いから解放されるからです。ネガティブな想いから解放されれば光が入ってきますので、エネルギーが高められ元気になるのです。だから、病人は、できるだけ睡眠時間を多く取る必要があるのです。といっても、睡眠薬で強制的に眠らせることは良くありません。では、どうすれば良いか?。
それは「神・生命」を想うことです。私達の本性は神ですから、神を想えば心が安らぎ眠くなるのです。ポジティブな想いも、平安をもたらし眠気を誘います。要するに、光を呼ぶ想いを持ち続ければ、ひとりでに眠くなるのです。これを腹式呼吸と並行して行えば、どんな薬より効果的です。
第七の方法・・生命力に委ねること。
私達の本性は生命ですから、私達の中には偉大な生命力が宿っています。その生命力を信じ、その生命力に何もかも委ねることです。任せることです。預けることです。心から委ねれば、偉大な生命力が働き出します。
殆どの病人は、医者や薬に”おんぶにだっこ”です。自分の中に偉大な生命力が備わっているにもかかわらず、それを使おうとせず、医者や薬に任せっきりなのです。医者も医者の権威を振りかざし、患者に有無をいわせず薬や手術を行っています。これでは、偉大な治癒力が眠ったままになってしまいます。真理の会得が自力によらなくてはならないように、病を治すのも自力によらなくてはならないのです。こう思いましょう。
病気の治療方法を再確認しましょう。
1、人生の思索を行うこと。
2、懺悔・反省をすること。
3、唯物的ものの考え方から唯心的ものの考え方に改めること。
4、腹式呼吸をすること。
5、ポジティブな想いを持つこと。
6、睡眠時間を多く取ること。
7、生命力に委ねること。
このような生活を続けていれば、病気は間違いなく快方に向かいます。それは、もう病気になる理由がなくなったからです。ここに書かれた7つの治療法は、原因対処の方法ですから、根本治癒が期待できます。「継続は力なり!」です。ぜひ続けてやって見て下さい。
-474-
人間は誰でも想念を持っています。この想念こそ、波動を高める唯一の道具なのです。では、その道具をどう使えば波動を高めることができるのでしょうか?。一つは、使う人のイメージ力と理解力を利用することです。
例えば、「神」を想念する場合、神がどのような存在か?、その理解力とイメージ力を想いの中に乗せるのです。何もイメージせず「吾神なり!」と思った場合と、イメージと理解力をもって「吾神なり!」と思った場合とでは、波動の高まり方に大きな差が出てくるのです。
ここでは神という象徴語(マントラ)を例えとして用いましたが、神秘的なもの、大きなもの、掴めえないものをイメージできる象徴語なら、どんな象徴語を用いても結構です。例えば、無限、普遍、空、宇宙、生命、エネルギー、光、愛、などの言葉です。
もう一つ、波動を高めるには、想念を上手に使わなくてはなりません。
想念は、思いの強さ、集中の仕方、継続の仕方によって、波動の高まり方が違ってくるのです。上手に使うとは、集中して、強く思って、使うという意味です。それも、一生継続してやるという意味です。
想念は人間にだけ与えられた特殊能力です。つまり、神の分身だけが持つ特殊能力です。その能力をどう使うかで、私達は幸せにも不幸にもなるのです。どうか、波動を高める上手な使い方をして下さい。
-475-