「無我」とは、「我が無い!」という意味ではありません。「無限の我がある!」という意味です。
つまり、
ですから、「無我になりなさい!」とは、全能の自分になりなさいという意味になります。
瞑想は、
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「無・空」とは、何も無いという意味ではありません。限りない性質と、限りない能力と、限りない可能性と、限りない発展性を秘めた状態を、「無・空」と呼んでいるのです。
すべてを包含している状態の時は、見えず、聞こえず、味が無く、臭わず、触感が無いのです。たとえば白光は、すべての色光を包含した状態ですから無色透明で見えません。見えるようになるのは、分光し色光となった時です。さらに、聴こえ、味わえ、臭え、触われるようになるのも、色光が元素となり物質化した時です。
このように、無限の「性質」と「能力」と「可能性」と「発展性」を秘めた状態は、見えないし感じないのです。でも、それこそが真実なるものの証しであり、かつ、宇宙生命の実態であり、正体なのであります。
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もし終わりがあるなら、宇宙は有限になってしまいます。
始まったことが無いから、終わったことが無いのです。終わったことが無いから、始まったことが無いのです。つまり大宇宙は、アルファーにしてオメガなのです。ということは、表現宇宙もアルファーにしてオメガであるし、そこに存在する人間も、アルファーにしてオメガであるということになります。なぜなら、表現宇宙と絶対宇宙は切り離すことができないからです。
だから宇宙は、永遠に脈を打ち続け、呼吸し続けるのです。
だから私達も、永遠に脈を打ち続け、呼吸し続けるのです。
-359-
この宇宙で確かなことは、唯一の無限が存在しているという真実です。もし、一物でも無限から独立した物があるなら、宇宙は無限でも、完全でも無くなってしまいます。無限が二つあるなら、無限でなくなってしまうからです。一つしかないから、無限は無限を貫けるのです。
一つの無限しか無いということは、個体は無いということです。個体が無いということは、あなたも私も無限であるということです。あなたも私も無限だから、宇宙は無限なのです。
個体が無い理由は、個体を形成している本質そのものが無限だからです。つまり、無限のエネルギーと、無限の知恵と、無限の光が、宇宙を構成している本質そのものだから、宇宙はそのままにして無限の生命なのです。その無限の生命の中に、今、私達は存在し、今、私達の中に無限の生命が存在しているのです。どんなに無限でないと突っ張っても、私達の中に無限の本質が生きて働いているわけですから、私達は無限で無いわけにはいかないのです。これが私達が無限である理由です。
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私達は、
これから無限になるのでも、誰かにならしてもらうのでも、何か修行をしてなるのでも、何か手続きをしてなるのでも無く、今の今このままにして無限なのです。もし、必要なものがあるとすれば、自分が無限だと思えるようになることだけでしょう。
自分が無限だと認めれば、即座に無限に早変わりできるわけですが、なかなかそのような意識状態になれない難しさがあります。だから、自分が無限であると思えるようになるまで、瞑想を続けるしかないのです。
何のお経も必要ありません。神棚や仏壇に手を会わせる必要もありません。外に出てボランティア活動する必要もありません。私達に必要なのは、
「自分が無限だと思えるようになること」
それだけです。
-361-
あなたがどう思おうが、何を思おうが、あなたが無限である事実は変わらないのです。
あなたは、
だから、無限になる努力は必要ありません。努力が必要だとすれば、無限と思えるようになる努力が必要なだけです。
私達は、何もしなくてもこのままにして無限なのです。ただ、気の遠くなる年月、人間(個人)として生きてきたために、無限だと思えなくなっただけです。思えれば、即無限に帰れるのです。なぜなら、私達の本質(生命・エネルギー)そのものが無限だからです。
宗教はこの事実を伝えることを忘れてしまいました。そして、今も私達に人間を押し付けているのです。本当は全能なるものなのに、自由なるものなのに、大いなるものなのに、人間と思うことによって、無能で、不自由で、小さな自分にしてしまったのです。
さあ、無限の自分を思い出しましょう!。無限の自分を発見しましょう!。人間という迷妄から目覚めましょう!。
-362-
無限はどこまでも無限です。無限の中に有限があるはずがないのです。もし、この宇宙に個人が一人でも存在するなら、宇宙は無限でも完全でも無くなってしまいます。それでは神は、無能な存在になってしまいます。すべてが無限なるがゆえに、神は全能を誇れるのです。
有限に見えるのは、形を見るからです。人間を見るからです。でも、その人間の本質は無限ですから、やはり無限なのです。私達は形を見て、自分を有限化しているだけです。それは人間の迷いが作った幻の有限であって、実際に有る有限ではないのです。身を縛られても、心を縛られても苦しいのは、自分の本性が無限だからです。
自分を有限化しないで下さい。あなたは人間ではありません。個人ではありません。形ではありません。
無限の生命です。無限の光です。無限の宇宙です。
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無限の私を知ろうと思えば、無限の私になって知らねばなりません。なぜなら、無限の私を知るのは、無限の私だけだからです。ニセモノがホンモノを知ることなどできないのです。ホンモノがホンモノを知るのです。ですから、無限の私を知ろうと思えば、無限の私になって知るしかないのです。無限の私に対面したくば、無限の私になって対面せよ!、ということであります。
これが、
「神を礼拝するには、自らが無限そのものとなって礼拝せよ!」
といわれる所以であります。
肉体の私が本当の私を知ることができない理由は、肉体には一カケラの意識も、一点の知恵も、一寸の力も無いからです。ですから、どんなに知りたいと願っても無駄骨であります。
本当の私を知るには、本当の私以外に無いことを知って下さい。無限の私を知るには、無限の私以外に無いことを知って下さい。
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実在しない肉体の私のことを、とやかく考えてはなりません。なぜなら、その考えそのものが迷いだからです。肉体の私のことを考えている私は、肉我の私であります。つまり存在しない影の私が、存在しない影の私のことを考えているのです。たとえ影の私が、どんなに偉大なことを成し遂げたとしても、どんなに素晴らしい宝物を手に入れたとしても、それは影を組み立て影を掴んだに過ぎないのです。
影は無いのですから、決して無いもののことを考えてはなりません。有るもののみを考えましょう。有るものとは、
永遠に無くならない無限のこと、神のこと、生命のこと、光のこと、真実のこと、つまり本当の私のことであります。
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この宇宙には、完全なものしか存在できません。なぜなら、本当に有るものだけが完全だからです。つまり、完全だから本当にあるわけです。ということは、この宇宙に不完全なものは存在しないことになります。
私達が苦しんできたのは、実在しない不完全なものを追い求めてきた結果です。つまり、お金や、地位や、名誉など、本当に無いものを追い求めてきた結果です。
どうして、不完全なものを追い求めて幸せになれるでしょうか?。不完全なものは、実在しないのですよ!。有るように見えるけれど、実際には無い幻なのですよ!。だから覚者は、声を大にしていうのです。
内在する真我(生命)は本当に有るものです。それが私達が追い求めるべき真の宝物です。
さあ、求めましょう!。永遠なるもの、完全なるもの、真実なるもの、本当に有るものを・・・。
-366-
「空」とは、何も無いという意味ではありません。むしろ、何もかもある、すべてのものが備わっている、あらゆるものが用意されてある、全存在の本源にして本質なるものを「空」と呼ぶのです。
すべてが包含された状態を、大調和といいます。そこは均衡のとれた平安の地です。穏やかな天国そのものです。私達は「空」から出てきたのです。そして、いつか「空」に帰るのです。そこには何もかもが揃っています。だから、この世から何も持ち帰る必要はありません。
さあ、心一つで帰りましょう!。裸一貫、何も持たず、手ぶらで帰りましょう!。
-367-
私達は、見えるもの触れるものを本当にあると思っています。しかし、本当に有るものは、見えもせず触れもしないものなのです。この宇宙の実態は、見えないものが本当に有るもので、見える物はみなニセモノなのです。見えるものは、見えないものによって写し出された影だからです。どうでしょう、影を実在というでしょうか?。影をホンモノというでしょうか?。
見えないものは、すべてのものを内蔵している本源本質です。その内蔵されたものの一部を取り出した時、姿形を現すのです。ですから、見えるものとなった物はみな幻で、内蔵された見えないものこそホンモノなのです。
私達はジャンケンをして勝ち負けを決めますが、思いの中にあるグー・チョキ・パーは生きております。それは限定されておらず、可能性が無限だからです。でも、表に現れた途端に、グー・チョキ・パーは死んでしまいます。決定した勝負が動かせないのは、現れた途端結果になってしまうからです。結果は動かせないのです。現れた物は進展しないからです。可能性がゼロだからです。それが死の意味です。
死の概念は、発展性ゼロ、可能性ゼロ、動かしようのない状態をいうのです。表現の世界に現れた物は、発展性ゼロ、可能性ゼロ、だから死んでいるのです。現れていないものは、発展性も、可能性も、無限大だから生きているのです。だから、見える物は非実在で、見えないものこそ実在だというのです。
-368-
宇宙の実態は意識です。すべての創造物は、意識の範疇にあるのです。その意識は無限ですから、すべて無限の中に収まるしか無いのです。だから、意識を限定したり制限したりしない限り、本来、私達に苦しみは無いのです。良く考えてみて下さい。人間が苦しんでいるのは、意識を限定しているからではありませんか?。
そうです。人が苦しむか苦しまないかは、限定意識を持つか持たないかで決まるのです。
たとえば、
これすべて、意識を限定することによって生まれた苦しみです。意識を限定すれば光を遮ってしまうため、どうしてもエネルギーの低下を招くのです。プレッシャーは、意識を「ねばならない!」という限定枠に閉じ込め、光を閉ざした時に起きる現象です。光を閉ざせばエネルギーは低下しますから、持っている力が出せなくなるのです。反対に開き直れば、光を閉ざしていた心の制約を打ち破るので、エネルギーが強まり、持っている以上の力が出せるようになるのです。
意識を限定すれば、必ず苦しみとなります。これは意識を限定した自分の責任で、誰のせいでもありません。宇宙が常に自由を望んでいるように、私達の意識も常に自由を望んでいるのです。
だから、
自分は、
このように思えれば、本来、自由な意識を持つ私達に苦しみは無いのです。
-369-
私達は一個人であると同時に、家族の一員です。家族の一員であると同時に、一市民です。一市民であると同時に、一国民です。一国民であると同時に、一地球人です。一地球人であると同時に、一宇宙人です。一個の細胞が無ければ健全な肉体があり得ないように、私達一人欠けても健全な宇宙はあり得ないのです。
"私は何の役にも立っていない!、だから居ても居なくてもいいんだ!"と自殺する人がおりますが、とんでもありません。あなたが居なくては、宇宙は成り立たないのですよ。あなたは大切なドミノの一つなのです。一つのドミノが無くてもドミノ倒しが完成されないように、あなたがいなくては宇宙のドミノ倒しは完成されないのです。このように考えて下さい。
あなたは、あなたの周囲の人達の学びの材料の一つなのです。良くも悪くも、あなたがいなければ学べることも学べないのです。一つのはめ絵なくても絵が完成されないように、あなた一人いなくても宇宙絵は完成されないのです。
このように、個人の集まりが無限宇宙を作っていますので、あなた一人いなくても無限宇宙はあり得ないのです。無限は一から離れて存在できず、一は無限から離れて存在できないのは、このような理由があるためです。だから一は無限であり、あなたは無限であり、すべては無限なのであります。
-370-
南無とは、「南」は「無い」という意味です。つまり、「マイナスは無い」「陰は無い」「影は無い」「物質は無い」「人間は無い」、という意味です。裏返せば、実際に有るのは「北」である「プラスである」「陽である」「光である」「エネルギーである」「生命である」、ということになります。
浄土教に「南無阿弥陀仏」というお経がありますが、「阿弥」とは「私」のことを意味し、「陀仏」とは「ほとけ」のことを意味し、通して解釈すれば、"私は肉体では無く仏である!"と唱えていることになるのです。だから「南無阿弥陀仏!、南無阿弥陀仏!」の念仏は、"私は人間では無く仏である!、神である!"と宣言していることと等しいのであります。だから念仏の意味をしっかり知った上で唱えれば、瞑想と同じ効果を生み出すのです。
念仏三昧とは、一心に「南無阿弥陀仏」を唱えて、神・仏に帰依すること、神・仏そのものに成り切ることを意味しており、南無阿弥陀仏の意味をしっかり知った上での念仏三昧は、決して誤っていないわけです。
ちなみに「念仏」とは、「今」の「心」に「仏」を想うと書き、瞑想のことを意味しているのです。
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無限とは、限界が無いという意味です。それは空間のことを指しているのではなく、意識のことを指しているのです。私達の本性が無限なのは、意識そのものが私達であり、その意識が無限だからであります。
その無限意識を限定し、小さな自分にしているのが私達なのです。意識を限定しなければ無限の能力が使えるのに、意識を小さく限定し、小さな能力しか使えないようにしているのです。それは、自分のことを人間だと思っているからです。個人だと思っているからです。肉体だと思っているからです。まさに私達は、無限宇宙の家の中に小さな家を建て(肉体を作り)、その家が(肉体が)自分の家だと思い込んでいる迷い人です。
私達は永遠の昔より、無限宇宙の家の中に住んでいたのです。今も住んでいるのです。これからも住むのです。その無限宇宙の屋根は、満天に輝く星々です。銀河はシャンデリアです。こんな素晴らしい家に住んでいるというのに、どうして小さな家を建てて住むのですか?。あなたは、小さな家の方が好きなのですか?。
無限の自分を限定しているという意味は、無限宇宙の家に住みながら、そこに小さな家を建てて住んでいるという意味です。すなわち、大きな意識を小さくし、小さな肉体の中に住んでいるという意味です。
さあ、小さな建物の屋根(意識)を取っ払って下さい。取っ払えば、満天に輝く星々の屋根と、無限にキラメク銀河の屋根が展望できるのですから・・・。
個人が個人を生むなら、それは個人かもしれない。しかし、無限が個人を生むのですから、それは無限であるはず・・・。
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