生命は、姿形の無いものです。
だから、
また生命は、
生命には、
ゆえに、
なぜなら、
その生命は、
だから、
-309-
すべてのものは、生命という名の本質から生まれました。だから、どんなものとも融合し合えます。もし異質のものなら、物と物との融合はあり得なかったでしょう。
一なる光から発生し、無数の色に分かれ、多様な元素となり、その組み合わせによって生まれた物質同士だから融合し合えるのです。
人も同じこと・・、白色人種も、黒色人種も、黄色人種も、赤色人種も、緑色人種も、みな同根だから交わり合えるのです。信じ合えるのです。許し合えるのです。
-310-
私達の本性は、永遠に変わらない生命です。どんなに変えようとしても、本性は変えられるものでは無いのです。なのに人間は、「人間だ!、肉体だ!、個人だ!」といって変えようとしています。本来ならば、ニセモノの人間を捨てねばならないのに、ホンモノの生命を捨てようとしているのです。これは明らかに神に対する反逆です。
どんなに金に泥を塗りたくっても、金を泥に変えることができないように、どんなに生命に人間という泥を塗りたくっても、生命を人間に変えることはできないのです。ニセモノはどこまでもニセモノです。ホンモノはどこまでもホンモノです。ニセモノでホンモノを変えることなどできないのです。
何が変えられるもので何が変えられないものか、私達は確固たる識別心を持ちたいものです。
-311-
"天使とて生命を見たことが無い!"といわれるように、生命は決して見ることはできません。なぜなら、生命は無形無双の存在だからです。では、無形無双の存在を、どうして知ることができるのでしょうか?。
生命は自らの存在を示す方法を、たった一つだけ残しました。それは物質を通して示す方法です。つまり、生命は、見える物質に自ら化身することで、生命の存在を示したのです。
この理解力が、唯一生命の存在を明らかにできるのです。この宇宙には、たった一つの生命しか無いのです。だから、何を見ても感じても、生命と思ったら良いのです。
どんなものも生命ですから、生命以外何も見てはならないし、また、考えてもならないのです。
-312-
昨日まで元気だった「花子さん」が、突然、交通事故で亡くなりました。家族も、親しい友達も、みな嘆き悲しんでいます。でも、良く考えてみて下さい。花子さんって、本当にいたのでしょうか?。
「花子さん」という名前は、形に付けられた固有名詞にしか過ぎません。実際にいたのは「花子さん」では無く、「花子さん」の形をした「生命」です。私達は形に惑わされ、あたかも「花子さん」がいたかのような錯覚に陥っているのです。
形は必ず消えて無くなります。形が消えて無くなれば、形に付けられた名前はどうなるでしょう。しばらくは、親しい人の記憶の中に留まっているでしょうが、いずれ忘れ去られ消えてしまうでしょう。では「花子さん」は、一体、何だったのでしょうか?。
「幻」だったのです。実際にいたのは「花子さん」の形をした生命です。生命がしゃべり、泣き、笑い、生きていたのです。
生命は永遠不滅ですから、決して無くなることはありません。だから、人が亡くなったからといって、悲しんではならないのです。現に花子さんの中に生きていた生命は、今も厳然として宇宙に存在し、思い、考え、生きて働いているのですから・・・。
-313-
「悟るとなぜ肉体を持って生まれてこないのでしょうか?。」
それは、「私」、「あなた」があるからドラマになるのであって、自他の区別の無くなった悟り人の演じるドラマは、ドラマにならないからです。つまり、自分相手に一人芝居はできないからです。
「となると地上に降り立つ人間は、みな自我人間(迷い人)ばかりということになりますが・・・?。」
そうです。この地上界に生まれてくる人間は、みな迷い人ばかりです。
「では、すべての人間が悟り、この世に理想の世が開かれたら、もう地上にドラマを演じる舞台は必要なくなるのでしょうか?。」
当然です。膨張した宇宙はいつか必ず収縮し、形ある物はいつか必ず消えて無くなり、開かれた舞台はいつか必ず閉じられるのです。でも、心配いりません。収縮した宇宙はいつか再び膨張し、消えた物はいつか再び形を取り、閉じられた舞台はいつか再び開かれます。なぜなら、宇宙は循環によって永遠の命を得ているからです。ですから、一時のドラマの中断はあっても、永遠のドラマの中断は無いのです。
-314-
孤独感は、自分の他に何かがあると思っている人の持つ錯覚です。自分の他に何かがあると思っている人が、その何かと離れていれば、孤独に感じるのは当たり前なのです。
私達は一つの中に居るのであって、沢山の何かと共に居るのでは無いのです。たしかに、形を見ると沢山の何かがあります。でも、その沢山の何かを生み出している生命は、たった一つしかないのです。一つの生命が、様々な形となっているだけです。その一つしかない生命が、私なのです。
私しかいない世界で、どうして私以外のものを探そうとするのでしょうか?。自分の他に何かがあると思うから、他に何かを探そうとするのです。周りの物すべてが私だと思えば、私に囲まれている私は幸せ一杯ではありませんか?。
何もかもが私です。何もかもが私の化身です。すべては私なのです。形を見るから、物と私が別だと思うのであって、その物の正体が私であると思えば、私に囲まれている私に孤独感が生まれるわけは無いのです。
孤独感は、本当の自分を知らない者が感じる錯覚なのです。
-315-
生きもの(生命)とは、「意識」あるものを指します。形があろうがなかろうが、意識あるものはみな生きものなのです。
素粒子も生き物です。空気も生き物です。水も生き物です。石も生き物です。花も生き物です。犬も生き物です。人間も生き物です。万象万物すべて生き物です。ということは、その集まりである地球も生き物ということになりませんか?。そうです。宇宙そのものが生き物なのです。ミクロからマクロまで、生き物で埋まっているのが宇宙の実態なのです。
宇宙は意識の海なのです。生命の海なのです。生き物の海なのです。私達は生き物の中に 今 住み、生き物は 今 私達の中に住んでいるのです。つまり、私達は 今 意識の中に住み、意識は 今 私達の中に住んでいるのです。
「意識」は、私達の外にも内にも存在しているからです。
-316-
臭いも、味も、触覚も、生命(エネルギー)の一表現方法です。たとえば、生命力の強い間は、臭いも強く、味も良く、触覚も敏感ですが、エネルギーが弱まってくると、臭いも弱くなり、味も悪くなり、触覚も鈍ってきます。若者は音に敏感ですが、老人は鈍感です。若者の目は青く澄んでいますが、老いてくると黄色く濁ってきます。死ぬ間際の人の影が薄くなるのも、生命力が弱化したために起きる現象です。このように、すべて生命力の強さと関係しているのです。五感を利用した瞑想法が開発されたのも、太極拳が開発されたのも、この生命の特性を考慮してのことでした。
この表現の世界で、生命と関係していない物など一つも無いのです。すべての表現、すべての働き、すべての現象に、生命は顔を出しているのです。
このように、生命の表現が多様なるがゆえに宇宙は面白いのです。
-317-
「死」を一言でいえば、不自由な状態を指します。形ある物は、固着化された不自由な状態だから死んでいるのです。つまり、形ある物は時間と空間に縛られるので、自由な動きや働きができないのです。だから、その世界には、死の概念があるのです。でも実際には、形のある物は形のない世界へ帰り、再び形ある世界へ戻ってきますので、私達の考えているような死の概念は無いのです。形のある宇宙と形のない宇宙との循環は、二つの宇宙を永続させている命の源泉なのです。
生命は形がありませんので、時・空に縛られない自由な身です。生命に死の概念が無いのは、自由だからです。
「自由は生、不自由は死」
この意味を心から理解した者は、もう永遠の命を得たのです。
-318-
宇宙に死はありません。私達がいっている死は、死では無く一つの変化です。変化があるから宇宙は永遠なのです。
宇宙は常に安定(バランス・愛)を保とうとしております。でも、その安定が不動の安定であれば宇宙は固着化してしまい、死んでいるのと同じになります。だから、時々、凹凸を生み出し、新鮮さを吹き込んでいるのです。
凹凸は一つの変化です。なぜなら、凹凸を埋め安定を保とうとする働きそのものが変化だからです。
「宇宙における、誕生・成長・老い・消滅のサイクルは、新鮮さを吹き込む新陳代謝の変化なのです。」
滞りは腐敗させ、固着化は死をもたらします。流れは清め、動きは新鮮さを吹き込みます。宇宙が永遠なのは、流れているからです。動いているからです。循環しているからです。
-319-
形は生命という名の本質によって作られた本質の住処です。もし、形が生命を生むなら、肉体が生命を生むことになり、唯物論者と同じ考えになってしまいます。
パンもコップも人間も名前ですから、名前が物を生むことは無いのです。本質である小麦粉がパンを生み、本質であるガラスがコップを生み、本質である生命が人間を生むのです。初めから有った本質が物を生むのが創造の原理ですから、途中で生まれた物が物を生むことは無いのです。途中で生まれた物が、どうして初めから有った生命を生むでしょうか?。初めから有ったものが、生みの親なのです。先祖なのです。実際に有るものなのです。
-320-
形は本質から離れて存在することはできません。また、本質も形から離れて存在することはできません。
形と本質が絶対不可分であるように、天と地も、生命と人間も、絶対不可分です。もし形と本質を強引に切り離したら、その時点で時空は消え、表現宇宙は消滅してしまうでしょう。宇宙が存在していられるのは、二つが一つに結びつき調和されているからです。だから形と本質は絶対切り離せないし、天と地も絶対切り離せないし、生命と人間も絶対切り離せないのです。ということは、すべては一つであるということです。
-321-
形の中に本質である生命を見ることができたら、私達は光る者となれます。でも、心の目で見なくては、光る者となれません。なぜなら、本質という生命は心でしか見えないからです。
形が形を生むことはありません。形の生みの親は、あくまでも本質である生命です。生命という本質が無くては、いかなる形も生まれないのです。このことが心の底で理解できたら、途端に私達は光り出します。
理解力は私達を迷いから救い出します。どうか理解力を高め、物の本質が何であるか知って下さい。
-322-
本当に有るもののみが、もの思えるのです。本当に有るもののみが、もの語れるのです。本当に有るもののみが、もの行えるのです。
人間は本当に有るものではありませんから、もの思うことも、もの語ることも、もの行うこともできません。本当にある「生命」が、思い、語り、行っているのです。
だから、
そうです。
ニセモノのあなた(人間)が、やったのではありません。ホンモノのあなた(生命)が、やったのです。
-323-
私達は今から生命になるのではないのです。もともと生命だったのです。いや今の今、このままにして生命なのです。何かして生命になるのではなく、今の今、何もしなくても生命なのです。ただ自分が、「私は生命である!」と認めれば良いだけです。何の手続きも、誰の許しも、何の修行も、何の努力も要らないのです。もし努力がいるとすれば、「人間!」と嘘をつかない努力がいるだけです。
私達は初めから生命だったのです。今も生命なのです。未来永劫、生命なのです。自分が「生命である!」と認めれば、即生命に蘇れるのです。生命に蘇った者は、自由になれ、知恵者になれ、力ある者になれ、光ある者になれます。どうか本当の自分を、生命の自分を、認めて下さい。生命に蘇れるかどうかは、あなたが認めるか認めないかだけです。
-324-
生命に形は関係ありません。だから、私は、形に関係無いものです。ただ、何と思うかで、私の形が決まるだけです。花だと思えば花になるし、雲だと思えば雲になるし、人間だと思えば人間になるし、宇宙だと思えば宇宙になるし、生命だと思えば生命になるだけです。でも、どうしても生命になれない私がおります。なぜでしょう?。それは、形に囚われているからです。
生命になるのに、形など関係無いのです。私はもともと形の無い意識ですから、形にこだわる必要は無いのです。そのものになりたいと思えば、形があろうが無かろうが、そのものになれるのです。
形に惑わされないで下さい。私達は何にでもなれる自由な生命(意識)なのですから・・・。
-325-
万象万物は大生命の反映です。形ある物は、すべて大生命の表現媒体なのです。大生命は一つですが、万象万物は無数に存在します。一なる生命が無数の形となって現れているのが、この世の実態なのです。内の「一」なる生命が、外に「多」となって現れているのです。すなわち、一なる生命が形を取った時「多」に変わり、形を失った時「一」なる生命に帰っているわけです。だから、色々なものがあると思ってはなりません。この物も、あの物も、その物も、みな同じ生命の現れだと思うことです。
内に潜れば一つ、外に現れれば無数、これは大海の波頭をイメージすれば分かりやすいでしょう。
-326-
大生命が人間を造り、大生命が人間の中に宿っているなら、人間は大生命そのものではありませんか?。大生命が人間になったら、別モノになるのでしょうか?。形を取ったら人間で、形を取らなかったら大生命ということはあり得ません。形を取っても生命であれば、形を取らなくても大生命であるはず・・・。もし、生命と人間が別モノなら、人間から生命が抜けても、人間はそのまま存在していなければなりませんが、生命が抜けた途端、人間は消えて無くなるのです。では、そこにあったのは何だったのか?、ということになります。
この宇宙には、大生命以外何も無いのです。あなたは「人間の皮をかぶった生命」なのです。「人間の形をしたロボットの中で運転している生命」なのです。
-327-
実際に有るものが実際に有るものを理解するのであって、実際に無いものが実際に有るものを理解できるわけはないのです。ホンモノがホンモノを理解するのであって、ニセモノがホンモノを理解できるわけは無いということです。たとえ理解できたとしても、それはニセモノのみでしょう。なぜなら、ニセモノはニセモノしか知らないからです。だから人間は、ニセモノしか理解できないのです。(この世の知識は、みなニセモノです。)
人間が真理を理解できない理由は、そこにあるのです。
だから、いわれるのです。
記憶するのも、保存するのも、同じ理屈が働いています。無常なるものは無常なるものを一時記憶し、一時保存するだけです。だから、無常な人間の脳は、無常なるものを一時記憶することしかできないし、一時保存することしかできないのです。永遠に記憶し保存するのは、実際に有る生命です。
-328-
もし、私達が肉体ある限りのものならば、無常の物を追い求めるのもやむを得ないでしょう。しかし、私達は、永遠に無くならない生命なのです。ならば、永遠に無くならないものを追い求めるべきではありませんか?。
見える物は見える限りのものです。この世限りのものです。どんなに沢山のお金を持っても、財産を持っても、生命の世界に持ち込むことはできないのです。なのに多くの人は、無常の物集めに躍起になっています。
私は、貧乏で有りなさいといっているのではありません。
「お金や物よりも、もっともっと大切なものがありますよ!、」
といっているのです。
「何が大切か価値観の識別をして下さい!、」
といっているのです。
消えてなくなる物や金集めの一生に、何の価値があるというのですか?。ぜひ、生命を追い求める一生に価値を見出して下さい。それは、ひとえに、あなたの真偽を見分ける判断力次第なのです。
-329-
生命の条件は、すでに整っていたのです。いや、初めから整っていたのです。私達はもともと知恵そのものであり、光そのものであり、力そのものなのです。これから条件を整え、生命になるわけではないのです。すでに条件の整った生命なのです。あとは、自分が生命であることを認めるだけです。
すなわち、
「生命と思うか?」「生命と思わないか?」
「生命を認めるか?」「生命を認めないか?」
それだけが残されているのです。
「生命になろう!」、じゃないのです。すでに生命なのです。初めから生命なのです。今の今、このままで生命なのです。生命になるのに、何の努力も、何の修行も要らないのです。
ただし、生命になる努力はいらなくても、生命と思えるようになる努力は必要です。なぜなら、私達は気の遠くなる年月、人間という思い癖を付けてきたからです。この思い癖を取るには、瞑想という努力がどうしても必要なのです。
-330-
宇宙のカラクリの見事さは、一つのものを二つに見せかける巧妙な技法です。
たとえば、
宇宙は、「相対させることで一つの真実を明かそうとしている」のです。一つのものを二つに見せかけねば、真実を知ってもらうことができないので、神は相対観念を通して私達の意識を研いているのです。
どうでしょう?。
小さなものがあるから、大きなものがあるのではありませんか?。右があるから、左があるのではありませんか?。上があるから、下があるのではありませんか?。どうかこの意味の深さを考えて下さい。
-331-
私達は気の遠くなる年月、人間と誤信して生きてきたために、生命でありながら生命と思えなくなってしまいました。オオカミ少年がオオカミに育てられ、自分のことをオオカミだと誤信してしまったように・・・。だから、誤信を解く瞑想が必要になるのです。
「私は生命である!」と思い続けて下さい。誤信を解くには、反対語を思い、反対語を口にするしかないのです。何の技術も、何の修行もいりません。ただ、生命の自分を思い続けることです。思い続ければ、必ず誤信を解くことができます。
くどいようですが、「私は生命である!」と無意識に思えるようになるまで思い続けて下さい。瞑想して下さい。瞑想を難しく考えないで下さい。思い続けることが瞑想なのです。
-332-
私達は初めから生命なのです。今も生命なのです。未来永劫、生命なのです。本質において、すでに生命ですから、生命になる努力は必要ないのです。努力がいるとすれば、生命と思えるようになる努力がいるだけです。
私達は本質的には元々「金(生命)」なのです。ただ金に纏わり付いているドロを見て、「ドロ(人間)である!」と思い違いしているだけです。だから、ドロを取り除けば金が顔を現すのです。
ドロとは、人間と思い違いをしている妄念のことです。概念のことです。私達は形に惑わされ、ドロだと思い違いをしているだけです。でも、どんなにドロが付いていようと、私達は元々金ですから、ドロさえ落とせば「金」に戻ることができるのです。
繰り返します。
金になる努力はいらないのです。ドロを取り除く努力がいるだけです。ドロを取り除く努力が、瞑想という努力です。
-333-
「吾生命なり!」
「吾生命なり!」
「吾生命なり!」
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この言葉の中に、私の思いの丈を込めました。私が実感した生命の味を、どうぞあなたも味わって下さい。
そして、
「吾生命なり!」「吾生命なり!」「吾生命なり!」
、と幾度も幾度もいい続け、思い続けて下さい。これは何百万回いおうといい過ぎるということはありません。
もし本当の自分が肉体ならば、消えて無くなる物や金集めに躍起になっても仕方がないでしょう。しかし、あなたは、そのような生き方ができない!。それは、本当の自分が永遠の生命だということを本能的に知っているからです。
-334-