この宇宙に存在するすべてのものは、一つのもので造られ、一つのもので生かされ、一つのもので働かされています。その一つのものとは、生命のことです。私も、あなたも、鉱物も、植物も、動物も、すべてこの一つの生命によって造られ、一つの生命によって生かされ、一つの生命によって働かされているのです。形は様々でも、その中で思い、考え、働いているのは、唯一の生命なのです。だから生命の世界においては、あなたや私はありません。すべて「私」です。このことを知れば、どのような不都合も、どのような争い事も解決します。なぜなら、すべて自分だと知った者が、どうして、人を憎んだり、恨んだり、怒ったり、争ったりするでしょうか?。人は自分ですから、自分を相手に、どうして、憎み、恨み、争えるでしょうか?、ということです。
-244-
一つ目になるとは、何を見ても生命だと思えるようになることです。この宇宙に実在するものは、すべて生命の化身ですから、山を見ても、花を見ても、動物を見ても、人間を見ても、何を見ても、生命だと思えるようになることです。そう思えるようになった者は、一つ目になったのです。
この理解力を高めましょう。
もし、どんな物も生命だと心の底で思えたら、自分も生命だと「自覚」できるようになります。そうなると、自分の細胞が震えてきます。自分が光ってきます。これは、自分が生命に蘇った証しです。これは大変な偉業です。
-245-
"ガラスがある形を取った。その形にコップという名を付けた。コップ・コップと呼ぶうちに、本当にコップがあるかのよう錯覚に陥ってしまった。"
このコップとガラスの話は、知花先生が最も理解して欲しいと願っている部分です。このコップとガラスの話の中に、真理が集約されているのです。だから先生は、常にコップを前にしてコンコンと説いているのです。もしこの理解が心底でなされたら、細胞が震えてきます。自分が光ってきます。内的光が見えてきます。そのためには、コップと睨めっこして下さい。そして、何があるからコップがあるのか深く考えて下さい。
冷静に考えれば、実際に有るのはガラスで、コップは形に付けられた名前であることが分かります。しかし、どうしても形に囚われ、コップをガラスだと思えないのです。でもコップを粉々に壊してしまえば、途端にガラスだと思えるようになるのです。この話を、人間と生命にそっくりそのまま当てはめて考えてみましょう。
"生命がある形を取った、その形に人間という名を付けた。人間・人間と呼ぶうちに、本当に人間がいるかのような錯覚に陥ってしまった。"
生命が人間の形を取ったのですから、実際にあるのは人間では無く生命です。もし人間が本当に存在するなら、人間から生命を差し引いても人間は残らなくてはなりませんが、生命が抜けたら、人間は存在しなくなるのです。それは、人間は名前だけの存在だからです。本当に無いからです。
この宇宙に生命の他に何も無いのですから、何かがあるとしたらそれは生命であるはずです。ならば現に存在している人間は、生命ではありませんか?。人間の形を取った生命はいても、人間の形を取った人間など、どこにもいないのです。
犬の子が猫の子になることはないのです。同様に、生命の子が人間の子になることはないのです。生命の子はあくまでも生命の子です。だから私達は間違いなく生命なのです。このことが心底で理解できたら、自分が生命だと思えるようになるのです。思えるようになった途端、細胞が震えてきます。内的光が見えてきます。そうなるまで自分を追求して下さい。
-246-
宇宙を理解するには、総合的に、包括的に、捕らえねばなりません。もし宇宙を分解して理解しようとすれば、恐らく元の姿とは似ても似つかぬものとなってしまうでしょう。一万円を細かくすればするほど勘定が合わなくなるように、小さな物差しで測れば測るほど狂いが生じるように、宇宙も分解すればするほど狂いが生じてくるのです。
一なるものは、一なる目で理解することです。小さな物差しで宇宙を理解するのではなく、無限大の物差しで理解することです。そうすれば、寸分も狂わぬ宇宙像を把握することができるでしょう。
-247-
私達は、人物の名や、地名や、難しい数学など学ぶ必要はないのです。
学ぶべきことは、
「この宇宙に、たった一つのものしか存在しない!」
という真理です。
なぜ、その学びが大切かといいますと、そのことを知れば、すべてのものが自分だと思えるようになるからです。すべてのものが自分だと思えるようになれば、すべてのものを等しく愛せるようになるでしょう。また、自分のことは何でも知っているはずですから、あえて外側の物を知る必要も無くなるでしょう。
自分しか無いと知った人が、何かを知ろうと思うでしょうか?。また、何かを欲しがるでしょうか?。他に何かがあると思っている人だけが、何かを知ろうとし、何かを欲しがるのです。
知識人が外側の物を知ろうと躍起になるのは、自分の他に何かがあると思っているからです。また多くの人が何かを欲しがるのも、自分の他に何かがあると思っているからです。この心理状態は、一つの真実を掴みたい欲求から出たものですから、決して悪いことではないのですが、外側に目が奪われ過ぎると、どうしても内側が疎かになり真実を閉ざしてしまうのです。
外側の物は実際には無いのです。真実は内側にのみ有るのです。でも、そのことを知らない人間は、外側の物をまさぐっては自分を慰めているのです。このことを知るのは容易なことではありませんが、いつか誰でも知らねばならない真理なのです。
-248-
人の世には、愛別離苦があります。愛しい人と別れねばならない、親しい人と別れねばならない、別れを前にして人は嘆き悲しみます。でも、これは無知ゆえの悲しみです。
形を本ものと思う人にとっては、形との別れは悲しいのです。でも、生命を本ものと思う人にとっては、当然と思えるのです。
別れは別れではありません。故郷へ帰る別れです。生命へ帰る別れです。人は幾度の出会いや別れを繰り返し、いつか終着駅である生命という故郷へ帰るのです。それは、出てきた処へ帰る別れです。一つに帰る別れです。一つに戻る別れです。そんな別れを別れというでしょうか?。
このことが理解できれば、もう別れを前にして嘆き悲しむことは無いでしょう。
-249-
宇宙空間は原子の海です。原子は、原子(闇・幻)の側面と絶対原子(光・真実)の側面とが一対となっておりますので、本来、宇宙には光だけしか無いのです。しかし人間は、闇である原子の側面だけを見るようになり、いつしか光の宇宙を闇の宇宙にしてしまったのです。
鉱物も、植物も、動物も、人間も、みな輝いております。この宇宙は、それはそれは美しい光の海なのです。地球は、その光の海に浮かぶ青い玉石です。私達の肉体も、水晶のようにそれは美しく輝いているのです。もし人間が一つ目でこの宇宙を見るようになったら、宇宙は即座に光の宇宙に変身するでしょう。一つ目とは、理解眼のことです。理解眼を持った人は、この地球上のあらゆるものを光輝ける工芸品として見ているのです。
-250-
地球上には、色も、形も、大きさも、性質も違う、様々な生き物が生息しています。人間一つ取って見ても、目の色も、肌の色も、形も、大きさも違う人種が存在しています。なぜ神様は、みな一様にお造りにならなかったのでしょうか?。
分数は、一なる元数から生まれました。物質は、一なる生命から生まれました。この宇宙に存在するものは、色や、形や、大きさや、性質が違うだけで、みな一つの本質(元数1)から生まれたのです。しかし、人間は差別観を抱いて敵対し、様々な争い事を生み出しております。
この宇宙には、たった一つのものしか無いのです。七光色を重ねれば白色となるのも、七色の絵の具を重ねれば黒色となるのも、すべて一つの色から生まれた同胞だからです。人間も元をたどれば、一つの色から生まれた同胞人なのです。分かれた七色が白光に帰らなければならないように、色分かれした人間も、いつか一つの白光に帰らなければならないのです。(オリンピック旗の五色の輪は、五つの人種の融和を願っている。)
形は違っても同じ兄弟姉妹なのですよ!、早く気付いて下さいと、神様は、色違いの人間を通して知ってもらおうとしているのです。
すなわち、
「多なるあなたを見て、一なるあなたを知りなさい!。」
これが神様が、一様にお造りにならなかった理由です。
-251-
この宇宙に沢山のものがあると思っている人は、無限を知らない人です。だから、その人は、不自由な有限世界で生きなければならないのです。しかし、一つのものしか無いと知った人は、一つの中にすべてを見ることができますので、無限世界で生きられるのです。
この宇宙は、一つのもので出来ているのです。一つのものから生まれたのです。一つの中には、一つのものしか無いのです。一つのものしか無いなら、個人があるわけがありません。だから、私達は、無限でなくてはならないのです。個人と思うから、有限観を持って不自由な世界で生きなければならないのであって、生命だと思えば無限観を持って自由な世界で生きられるのです。
「一つしか無いから無限である、無限だから一つしか無い、だから個人は存在しない!。」
この真理を心底で理解して下さい。理解すれば、一つ目になる理由も分かるはずです。
-252-
この宇宙には、神の外に何もありません。神の外に何も無いなら、すべてのものに神の名を付けるべきでしょう。もし紛らわしいなら、神1、神2、神3、と番号を付ければ良いでしょう。そうです。神の番号、それが原子番号なのです。
宇宙には無数の元素が存在しますが、それは白光から放たれた色光の数だけあります。白光そのものが元数1そのものであり、そこから枝分かれした色光の一つ一つが、分数である元素一つ一つとなっているからです。その元素一つ一つには、みな特異な性質が持たされており、それが個性として付された原子番号となっているのです。
この宇宙に一つのものしか無い理由は、すべての物質が元数1から生まれた分数の子供達だからです。今、地球上に七十億を越す人間が存在していますが、元を正せば一組の人類から分かれた子孫達なのです。いやその一組でさえ、最初は一様だったのです。原子も同じなのです。
-253-
私は、宇宙に一つしか無い素材です。なぜ、そう断言できるかといいますと、宇宙に素材は一つしか無いからです。一つの素材しか無いなら、今、現に存在している私は、その一つしか無い素材の現れではありませんか?。
そう、私という素材がすべての物の中に存在し、すべての物を形造っているのです。もし、私の外に何かがあるなら、私はその物の中に居ないことになるわけですから、その物があるわけもないし、認識することもできないはずです。一つのものしか無いから、私は至る所に居てあらゆる認識の基となれるのです。
あなたは私から離れたことも無ければ、私はあなたから離れたこともありません。いや、すべてのものは私から離れたことが無いし、私はすべてのものから離れたことが無いのです。一つのものの中に、「私・あなた」があるはずがないからです。一つのものを分けるわけにゆかないのですから、一つのものの中には私だけがいるのです。分けられないなら、あなたは私であり、私はあなたではありませんか?。すべてのものは私であり、私はすべてのものではありませんか?。 形において別々に見えても、中身は一つなのですから、そうなるのは当然です。
-254-
「万象万物は初めから一であった!」という意味は、一なるものが万象万物に化身しても、一には何ら変りなく、依然として一であり続けるからです。一なるものは素材そのものですから、万象万物に化身しても素材であり続けるのは当然です。だから、万象万物は初めから一なるものなのです。
どんなに古くても、途中で生まれたものは子孫と呼ばれ、すべて消えゆく幻です。人間が神になれない理由は、人間は途中で生まれた幻だからです。人間はもともと神だから、神になれるのです。
初めからあった元数は実在しますが、途中で生まれた分数は実在しません。しかし、分数は、もともと元数から生まれた子供達だから、元数になれるのです。同様に人間も、もともと神から生まれた子供達だから、神になれるのです。このように一から生まれたものは、一になれるのです。もし、この宇宙に二つのものがあるなら、このようなことは絶対いえないはずです。
-255-
人の迷いの目が、生命と物質を分け、天と地を分け、神と人を分け、一を二に分けてしまったのです。もし、すべてのものを一つのものとして見られるようになったら、神と人間との境目は無くなるでしょう。境目が無いなら、どこからどこまでが神で、どこからどこまでが人間だとはいえなくなります。ならばすべて神だといっても良いし、すべて人間だといっても良いことになります。私はその時ためらい無く、"私は神である!"と大宣言するでしょう。なぜなら、神は私そのものであり、すべてのものの源泉だからです。
この宇宙には、一様の神しか存在しないのです。ただ、裏の側面と表の側面があるだけです。でも、それは一つのものです。手に裏表の境目が無いように、神にも裏表の境目は無いのです。
-256-
この宇宙に一つでも独立しているものがあるなら、宇宙は無限でなくなるし完全でも無くなります。表面上、独立しているように見えても、本質的には無限のつながりを持っているのです。
本質が無限であるということは、この宇宙に本質は一つしかないということになります。一つしかないなら、分離することも分断することもできないのは当たり前です。だから本質を見る者は、宇宙を一つとして見られるし、無限として見られるのです。
その本質が形を支えているのですから、どんな形も兄弟姉妹です。それも、無限を内在させた兄弟姉妹です。表面を見れば兄弟姉妹ですが、内側を見れば一つの本質、一つの無限、すなわち一つの私なのです。
私は、宇宙に全一体として存在する本質です。だから、私は、唯一の宇宙です、唯一の生命です。唯一の神です。
-257-
手には裏と表がありますが、どこからが裏でどこからが表だという境目はありません。しかし裏と表は、厳然として存在しております。もし境目を見るとすれば、理解力で見るしかないでしょう。
この宇宙のすべてのものは、二つで一つなのです。その代表例が、エネルギー(生命)と物質です。表である物質は見えても、裏であるエネルギーは見えないのです。どこからが見える物質で、どこからが見えないエネルギーだという境目が無いのです。だから裏を知るには、理解力で表を見て知るしかないのです。すなわち、境目の無い「表」(物質)は、そのままにして「裏」(エネルギー)ではないのか?。「裏」は、そのままにして「表」ではないのか?。境目が無いのですから、そのような見方ができるはずです。
-258-
地球には五大陸があり沢山の島々がありますが、本来、地球には地球島という島が一つあるだけなのです。なぜなら、五大陸も島々も海の下ではつながっているからです。いや陸だけで無く、空気でもつながっているし、水でもつながっているし、エネルギーでもつながっているのです。この考えを広げれば、私達の地球は無数の星々ともつながっていることが理解されるでしょう。一つの生命で、一つのエネルギーで・・・。
私達はどうしても形に囚われ、他人がある、他国がある、他の生き物がある、他の星があると思いがちですが、私達はみな一つのものでつながっているのです。一つなるがゆえに、私が病めば宇宙が病むのです。あなたが病めば宇宙が病むのです。私が苦しめば宇宙も苦しむのです。あなたが苦しめば宇宙も苦しむのです。だから自分を苦しめてはならないし、どんなものも苦しめてはならないのです。
さあ、宇宙が健康になる生き方をしましょう!。宇宙が喜ぶ生き方をしましょう!。宇宙に別ものなど無いのですから・・・。みな一つなのですから・・・。
私は宇宙です。あなたは宇宙です。万象万物は宇宙です。どうか今日から、「私」を宇宙に置き換えて下さい。
-259-
本来、宇宙には、一元論しか無いのです。二元論は人間の迷いが生み出した迷信であって、真実ではありません。確かに、宇宙は対で成り立っているように見えます。でもそれは見えているだけで、実際には一つのものしか無いのです。
すなわち、
このように、すべて見せかけとして作られた現象です。私達は、一つを二つに見せかける巧妙なトリックに引っ掛かっているのです。この迷信から目覚めるには、瞑想によって意識を高めるしかありません。二つが一つに見えるようになった時、私達は真実が見えるようになったのです。
-260-
面白いから面白いのです。楽しいから楽しいのです。面白いにも、楽しいにも、何の理屈も要らないように、生命だと思えるのに、何の理屈も要らないのです。ただ、”生命” を思い続けていれば、いつか、"生命" と思えるようになるだけです。
生命を思い続けていれば、必ず生命と思えるようになります。これは理屈抜きです。何の技術も、何の修行も、要りません。
本当に生命だと思えたら、自分が変わるのです。誰かに、何かに、変えてもらうのでは無いのです。そう思えたら、ひとりでに変わるのです。思えるか?、思えないか?、ただ、それだけのことです。なぜ、そのようなことが起きるかといいますと、私達は、元々、"もの思える" 生命だからです。もの思える生命だから、生命と思えれば生命になれるのです。生命イコール思いです。思いイコール生命です。「生命そのものが思いそのものである!」という意味です。だから生命だと思えれば、生命になれるのです。いや、なれるのではなく、"そのものである!" ということです。
生命になるのに、何の理屈も、何の技術も、要らない事を知って下さい。
-261-
宇宙が存在している絶対条件として、これだけは知って欲しいと思います。
二つが無いということは、一つしか無いということです。
別々なものが無いということは、一体であるということです。
独立したものが無いということは、全一体であるということです。
孤立したものがないということは、一つのものの中にいるということです。
離れ離れが無いということは、すべて自分であるということです。
それでは絶対条件を満たすことはできません。ということは、宇宙は存在できないことになります。
だから、
-261-
この表現宇宙には、反原子と絶対原子に支えられた三位(身)一体の原子が遍満しております。なぜ三位一体になっているかといえば、原子も反原子も絶対原子も、単独では時空に存在できないからです。絶対原子が時空で活動するためには、自らが反原子と原子を吐き出して乗り物を造り、その乗り物に乗って出て来るしか無いのです。絶対原子のままでは、時空に存在できないということです。勿論、絶対原子が存在できなければ、反原子も原子も存在することはできません。第一、時空そのものが生まれません。空気が水となり氷となっているように、絶対原子も反原子となり原子となっているのです。
その原子によって造られた人間は、当然のごとく反原子と絶対原子を内在させ、表現宇宙と同じ構造を成しています。
だから原子と、人間と、宇宙は、相似なのです。
-262-
造られたものと造り主は、絶対不可分といって、決して分離することはできません。なぜなら、造られたものは造り主そのものだからです。造り主が何かを造ろうと思えば、造り主 自らがそのものに成るしか無いのです。すなわち、造り主が人間を造ろうと思えば、造り主 自らが人間になるしかないということです。幸い造り主は素材そのものですから、直接そのものになることができるのです。
造り主が誰かに頼んで何かを造ってもらえない理由は、この宇宙には造り主しか存在しないからです。唯一自分しか存在しないから、自分がそのものになるしかないのです。だから造られたものと造り主は、同じものなのです。
そこには、ただ一つのもの(創り主・神・生命)があるだけです。
-263-
この宇宙に個人問題など、ただの一つもありません。なぜなら、個人など何処にもいないからです。一つの生命が、すべての物の中に生きて働いているわけですから、全体問題はあっても個人問題などあるわけがないのです。”これは個人問題だから放っておいてくれ!”という人がおりますが、個人は全体とつながっているのですから、口が裂けてもそのような事はいえないのです。
一人の苦しみは全体の苦しみです。一人の悩みは全体の悩みです。細胞一つ病んでも身体全体が痛むように、あなた一人病んでも宇宙は痛むのです。だから自愛が大切なのです。自愛は一見利己的に見えますが、これは利他愛につながっているのです。だから、決して自殺などしてはならないのです。
自分を大切にする者は、全体を大切にする利他愛者なのです。
-264-
元数1は、すべての分数の親元です。すなわち、すべての創造物の大元となっているのが元数1なのです。知恵も、力も、光も、形も、そこから生まれてきます。その元数1から生まれた分数には、無限の能力と、無限の可能性と、無限の発展性が受け継がれております。(元数1の中に無限の分数が存在し、無限の分数の中に一なる元数1が存在している。)だから分数を組み合わせ、様々な物を創造することができるわけです。ただし、その能力と可能性を発揮するためには、分数が元数1から出てきたことを悟らねばなりません。
なぜ私達分数は、一つに帰りたがるのでしょうか?。それは自分が元数1の子であることを、本能的に知っているからではないでしょうか?。そうです。私達分数は、元数1から出てきた兄弟姉妹同士なのです。にもかかわらず、私は分数1だ!、分数2だ!、分数3だ!、といっては、いがみ合っています。でも、神はそうなることを予測し、私達に愛のDNAを組み込まれました。
それは、
結晶し合い、融合し合い、団結し合い、吸引し合い、元のさやに帰るよう意図されているのです。
一から出てきた分数は、一に帰るのが定めです。一つのさやに帰ってこそ、宇宙は永遠の営みが可能なのです。
-265-
どんな物の中にも核が存在します。たとえば、雨の中にも、貝の中にも、原子の中にも、地球の中にも、太陽の中にも、銀河の中にも、勿論、私達の中にも存在します。核が無ければ、形が維持できないのです。なぜなら、核が無ければエネルギーが貰えないからです。
原子核は宇宙の中心核と結びつき、そこからエネルギーを貰って形を維持しています。それは白光から放射された光線一つ一つが原子となり、元素となり、物質となっているからです。
このようにイメージして見て下さい。
まず大宇宙を無限の球体と考え、その中心に霊太陽が輝いているとイメージします。次に霊太陽から放たれた無数の光線一つ一つが原子となり、その原子一つ一つの中に核が存在するとイメージします。その霊太陽の核と原子一つ一つの核が連なり、さらにすべての原子核同士が横のつながりを持っているとイメージして下さい。そのようにイメージすれば、無限の球体の宇宙においてどの原子核も宇宙の中心核になれるはずです。なぜなら、宇宙においては大核も小核も無いからです。だから、どんな原子も大宇宙の中心点に立てるし、その原子を内在する私達も宇宙の中心点に立てるのです。
大きい小さいは、意識によって生まれる幻です。小さな肉体の自分を意識すれば小宇宙となり、大きな宇宙の自分を意識すれば大宇宙となるだけです。だから、意識次第で宇宙の中心点に立てるのです。
-266-
見える物と見えないものは同一のものだからです。
外と内は同一のものだからです。
外側の物が分からなければ内側のものは分かりません。内側のものが分からなければ外側の物も分かりません。その者は何も知らない者です。 反対に、外側の物が分かる者は、内側のものが分かります。内側のものが分かる者は、外側の物も分かります。その者はすべてを知った者です。
この世とあの世は同一のものだからです。
表と裏・この世とあの世・外と内とは同じものだからです。
内と外とが同一のものなら、内外平等に愛さねばならないでしょう。もし、外側の物を粗末にするなら、内側のものも粗末にすることになるし、内側のものを粗末にするなら、外側の物も粗末にすることになるからです。二つのものを一つに見る者は、両方を愛せる者です。二つのものを二つに見る者は、どちらも愛せない者です。
このように表を追究すると裏が解り、裏を追究すると表が解るのです。
-267-
自分しかいなくては自分が分からないように、一つの中に居ては一つが分からないのです。だから、私達は、表現宇宙に出て多くのものと交わり、この宇宙がたった一つのもので出来ていることを学んでいるのです。すなわち、外に出て多くのものと出会い、一つの真実を知ろうとしているのです。
私は、私 以外のものを知ることで、この宇宙に 私 以外 何も存在しないことを知りました。私 以外 何も存在しないと知った私は、宇宙のすべてを知ったことになりますので、私はもう宇宙の知恵者です。
これは凄いことです。
私 以外 何も無いことを知った者は、宇宙の大王です。天上天下唯我独尊(存)を豪語できる者です。
-268-
この宇宙には、宇宙生命という生き物が一匹存在するだけです。私達は、その生き物の細胞の一つ一つです。でも、その一つの細胞は、単なる一つではありません。一つでありながら全体であり、全体でありながら一つなのです。なぜなら、私達は宇宙生命という生き物の中におり、私達の中に宇宙生命という生き物がいるからです。だから、私達は、宇宙生命そのものといえるのです。
なぜ、地球に争いが絶えないのでしょうか?。それは地球の細胞である人間同士が、「私は私」「あなたはあなた」という分離観を持ち、敵対し合っているからでは無いでしょうか?。もし、一つ一つの細胞が、「私は地球だ!」という一体観に目覚めたら、決して敵対し合うことは無いでしょう。一体観に目覚めた者のサイフ(ポケット)は一つになりますから、もう私のサイフ(ポケット)あなたのサイフ(ポケット)とはいわなくなるでしょう。
AのポケットもBのポケットも同じ私のポケットなら、どのポケットに財があっても良いのではありませんか?。足りなければ財を移せば良いのですからね・・・。そんな考え方が定着したら、もう、あなたが損した、私が儲けたとはいわなくなり、お金も必要なくなるでしょう。
-269-
役者が化粧を変え、カツラを変え、衣装を変えても同じ役者に変わりがないように、生命がどんなに姿形を変えても生命であることに変わりはないのです。
「一つのものの中には、一つのものしかない!」という考えは、とても大切なことです。もし、この宇宙に異質のものがあるなら、一時の存在も許されなかったでしょう。幸い一つのものしかないから、これまで宇宙は存続してこれたし、これからも存続できるのです。私達が日々無事で生きられるのも、同じ一つの中にいて、同じ一つのものと接し、同じ一つのものと融合し合っているからです。
私達は一つの生命から生まれた生命の中の生命です。
だから、
ゆえに、私はあなたであり、あなたは私です。すべての物は私であり、私はすべての物です。
-270-
一つのものの中には、一つのものしか無いのです。一つのものを分けるから、損と得、貧乏と裕福、不幸と幸福、悪と善、不完全と完全、偽物と本物が生まれるのです。
偽物から偽物が生まれることはありません。偽物は本物から生まれるのです。一見、詭弁に聞こえますが、無いものからは何も生まれないのです。有るものから、すべての物が生まれるのです。だから、元に戻せば、すべて本物に帰すわけです。
実際に無い悪が 悪を生むことはありません。実際に有る善が 悪を生むのです。でも、その悪はもともと善ですから、元に戻せば善に帰るのです。もし、本当に悪があるなら、一旦、悪になったら永久に悪で無くてはなりませんが、幸い悪は善から生まれた偽物ですから、元に戻せば善に帰すことができるのです。だから、一つは一つで置くべきです。二つに分けるから災いを招くのです。でも、その災いは幸いです。なぜなら、幸いから生まれた災いだからです。
善が善のままでは善ではありません。悪の苦みを知ればこその善です。だから、悪は悪では無く善なのです。神は、なぜ、一つのものを二つに分けられたのか?、もうお判りになったことでしょう。
-271-
「1」なる元数は、無限を示しております。元数「1」は、無限の要素を備えているからです。では分数は、なぜ無限を示せないのでしょうか?。それは、すでに確定した数字だからです。元数の中には無限の分数が包含されているので無限の表現ができますが、分数は単数しか包含していないので有限の表現しかできないのです。(分数2は2しか、分数3は3しか、分数4は4しか表現できない) だから、分数のことを、幻数とも呼ばれているのです。なぜ幻数かといいますと、幻の世界を表現するために用意された数字だからです。幻の物質を作るためには、幻の数字が必要なのです。幻の時間と空間に縛られた世界では、どうしてもこの幻の幻数が必要なのです。
その幻数は、いつまでも幻数のままでいることはできません。いつか必ず、元数に帰らなければならない運命にあります。なぜなら、幻数はもともと元数から生まれた分身だからです。といっても、幻数が元数に帰るためには、自分が元数から出てきた幻数であることを認めなくてはなりません。つまり、私は幻数(人間)では無く元数(生命)であると悟らなくては、本源の世界に帰ることができないのです。
このように幻数が元数に帰るためには、幻数が元数であることを悟らなければならないわけですが、それができたら、幻数の能力は元数の能力まで拡大するのです。
-272-
一つのものが、一つのものの前で何かを見せても、何の意味も成しません。なぜなら、どんなに素敵なパフォーマンスを見せても、自分一人の前ではただの自己満足にしか過ぎないからです。同じように、神がどんな素晴らしい技を披露しても、自分一人の前では自己満足にしか過ぎないのです。だから、神は、相対界を造ってそこに分身である人間を送り、その分身を通して自分の存在を認めてもらおうとしたのです。
しかし、神なる人間は、その相対界を本物の世界だと誤認するようになり、損得感情や善悪感情など様々な悪感情を作ってしまいました。従って自分を認めてもらう以前に、その悪感情を取り除く作業が急務になってきたのです。
この悪感情を取り除くには、偽物と本物を一つのさやに戻さなくてはなりません。つまり、次のような理解力を持って誤解を解かなくてはならないのです。
一つであるということは、「幻は無い!、物質は無い!、人間は無い!、」ということになり、そこに損得感情や善悪感情などの悪感情は生まれません。あなたのさやと私のさやを分けるから、悪感情が生まれるのです。さあ、さやを一つにして、一つのさやの中にあなたと私を帰しましょう。帰した時、初めて、分身が神のパフォーマンスを認めることができるのです。
-273-
あなた(私)が持つ答えは、たった一つです。それは「生命」という答えです。なぜなら、この宇宙には生命の他には何も無いからです。だから、どんな質問を浴びせられても、あなたは「生命」という一つの答えを用意すれば良いのです。もし、他に答えがあるなら、この宇宙は無限でも永遠でも無くなり、生命(神)は完全で無くなってしまいます。そうなれば、あなたは消えて無くなるしかありません。しかし、生命(神)はどこまでも完全ですから、あなたは決して消えて無くなることは無いのです。ゆえに、あなたの持っている一つの答えで事足りるのです。
なぜ、あなたを(私)としたかといいますと、一つの答えしか無いからです。一つの答えしか無いということは、あなたは私であり、私はあなたであるということですから、あなたを(私)としたのです。
このように、一つの中にあなた私は無いのですから、一つの答えを用意すれば良いのです。
-274-
この宇宙には、たった一つのものしかありません。これは絶対真理ですから、誰も覆すことはできません。ということは、すべての物は、その一つのものではありませんか?。一つのものしかないなら、どんな物も一つのものなのは当たり前ではありませんか?。
ということは、
宇宙に一つのものしかないという意味は、そういうことなのです。
形を見ないで下さい。形の背後にあるたった一つのものを見て下さい。そう見れたら、もう"私の物とか、あなたの物とか"といわずに、"私の物はあなたの物、あなたの物は私の物"というでしょう。
-275-