神は空想や妄想の産物ではありません。神は実在そのもの、真実そのもの、現実そのものです。事実、私達は、今、神によって生かされ、働かされているではありませんか?。
みな神ではありませんか?。こんなにはっきりと神を見せられているのに、なぜ人間は神を認めようとしないのでしょうか?。
恐ろしいから?・・・
怖いから?・・・
従わなくてはならないから?・・・。
でもどんなに人間が認めなくても神は、今日も、明日も、明後日も、いや永遠に、働き続けてくれるのです。下僕のように・・・。
このように、実際に私達の生活にかかわり続けてくれているのが神なのです。有り難いことではありませんか。さあ、神に感謝しましょう。
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今の私に、
ただ清くありたいと思うだけ・・・。そう思うと、ひとりでに涙が出てくるのです。なぜ、こうも清くありたいと思うのでしょうか?。神の本性ゆえでしょうか?。この思いは日々強くなるばかりです。もう私に、どんな誘惑も無意味です。
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あなたは、今朝、家で妻や子とお話ししました。本当に、妻や子とお話ししたのでしょうか?。
先ほどあなたは、お店にやってきたお客様とお話ししました。本当に、お客様とお話ししたのでしょうか?。
言葉は神にしかありません。ならばお話しした相手は、みな神ではありませんか?。
そうです。
そういっている私も神です。それを聞いているあなたも神です。神しかいないのですから当然です。ただ、神と思っていないだけ・・・。
でも、あなたがどんなに神で無いと思おうが、あなたが神である事実は変わらないのです。
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この宇宙に存在するもので、神で無いものは一つもありません。すべてのものは初めから神であったし、今も神であるし、未来永劫に神なのです。だから、あなたは神です。でも、あなたは姿や形を見て、自分のことを人間だと思っていますね。その迷妄が、あなたを神で無くしているのです。でも、いかに迷妄を持っていようと、あなたが神である事実は変わらないのです。
あなたは、生まれながらにして神(仏)なのです。だから、神の権利はとうに与えられているのです。ただ、あなたが、その権利を行使しようとしないだけ・・・。
あなたの本性は、紛れもない神なのです。あなたが神であることは、決定済みなのです。だから、堂々と神の宣言をし、神の権利を行使したら良いのです。
あなたを神にしないのはあなたの思いです。あなたの思いがあなたを神にしないだけです。思いを変えれば即神なのです。
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もし、あなたがこの宇宙で探し物があるとしたら、どんな探し物でしょうか?。一体、何が探し出せるでしょうか?。神しか探し出せないはずです。なぜなら、神しかいないからです。見えるもの、見えないもの、みな神です。形の有るもの、形の無いもの、みな神です。鉱物、植物、動物、人間、みな神です。
そうです。あなたが何かを探しているとき、それは神を探しているのです。当然、誰かがあなたを探しているときも同じです。全てが神であり、探し物すべてが神ですから当然です。
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神はすべてのものの中に内在します。でも、意識して神を表現できるのは、唯一人間だけです。鉱物も、植物も、動物も、神の落とし子であり神ご自身でありますが、意識して神と対面できるのは、私達人間の外におりません。それほど、私達は、偉大な存在なのです。もし、人間が存在しなかったら、神は永遠に日陰の身のままでありましょう。そうなれば、神は永遠に宇宙の迷子です。しかし、幸いなことに人間は、神を意識し、神と語り合うことができます。ゆえに、神は、宇宙の王として君臨できるのです。
人間は神の窓口です。人間の思い、言葉、行為は、神の思い、言葉、行為を代弁代行するものです。今 思ったこと、今 語ったこと、今 行ったことは、神の思いであり、神の言葉であり、神の行った事と等しいのです。だから、人は神なり、神は人なりです。
神人とは、
「神の思いと言葉と行いを、忠実に表現できる人のことです。」
役所が抽象的な存在であるように、神も抽象的な存在です。抽象的な役所が何かをする場合、窓口を通してやるしかないように、抽象的な神が何かをする場合も、窓口である人間を通してやるしか無いのです。しかし、抽象的であっても、役所はしっかりとした意思を持って街に美しい絵を描いております。同様に、神も、しっかりとした意思を持って宇宙に素晴らしい絵を描いているのです。
役所の心が見えないように、神の心も見えません。でも、その創造の心は、手となり足となって働いている人間が実現させているのです。
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私達は初めから神の中に居たのです。いや、今も居るのです。私達は、神から一時たりとも離れたことが無いのです。私達は神と一体なのです。一体ということは、一つであるということです。神そのものであるということです。
今から神になるのでも、今から光になるのでも、今から完全になるのでもありません。私達は今の今、神であり、光であり、完全なのです。
神の懐に抱かれている私達、これほど幸せなことがありましょうか?。なのにあなたは、どうして外に飛び出したがるのですか?。あなたの心を魅了するものが、外に一つだってありますか?。どんなに華やかでも、どんなに美しくても、外側の物はみな幻です。そんな幻に心を売ってどうするのですか?。
さあ、
そして、
そこは至福に満ちた桃源郷、私達の故郷です。
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神に帰る条件は、すでに整っているのです。いや初めから整っていたのです。私達は何かして神になるのでは無いのです。初めから神だったのです。今の今、このままにして神なのです。ただ、心の底からそう思えない、そんな私がいるだけです。何がそう思わせないのでしょうか?。
恐ろしいことも、失うものもありません。神の館は平安そのものです。そこには何でも揃っているのです。この世は心配と恐怖の錯綜する世界です。煩わしいことも沢山あります。でも、神の館は平安そのものです。そんな平安な世界に帰れるというのに、なぜ、あなたはためらうのですか?。
この世の物がみな空しいものであることを、あなたは知ったのですよ!。なのに、どうして決断しようとしないのですか?。
何の手続きも、誰の了承も、何の修行も要らないのです。ただ、あなたが神だと認めれば良いだけです。認めれば即、神に帰れるのです。
神に帰る条件は、ただ、あなたが認めるだけです。決断するだけです。さあ認めましょう!。さあ決断しましょう!。今、決断を迫っているのは、誰だと思いますか?。
天にいる私です。神我の私です。本当の私です。
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何一つ神でないものはありません。もし、神でないものが一つでもあったら、神は全能でも、無限でも、完全でも無くなります。すべてが神だから、神は全能で無限で完全なのであります。
見えない神が表現しようと思えば、神自らが見える形を取るしかありません。なぜなら、自分の外、何も無いからです。だから、神は天下って人間の形を取ったのです。だから、人間は、神そのものなのであります。
人間がいるということは、神がいるということです。神がいるということは、人間がいるということです。だから私のいるところに神がおり、神のいる所に私がおるのです。
万象万物すべて神そのものです。
神が天下って形を取ったら、神以外の物になるのでしょうか?。天にいても神、地にいても神では無いでしょうか?。
ガラスがコップの形をしたら、ガラスで無くなるのでしょうか?。神が人間の形をしたら、神で無くなるのでしょうか?。
私は知っています。
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幸せは、いかに多くの光を受けるかで決まります。それは、思いにおいて、言葉において、行為において、いかに神の心に適っているかによります。
神は、良き思い、積極的な思い、建設的な思いが好きです。また、清純で素直なものが好きです。この性質を利用すれば、私達は幸せの中に生きることができるのです。
一番気を付けねばならないのは、純粋さを失わないことです。子供のころ天童と呼ばれた者が、大人になってただの人になるのは、純粋さを失ってしまったからであります。純粋なうちは光を多く受けるので運命は良くなりますが、増長して天狗になると光を受け無くなるので運命は悪くなるのです。
「初心忘れるべからず!」とは、「純真さを失うべからず!」ということです。
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神に逆らわない生き方とは、ポジティブに生きる生き方です。神の本性は、「明るく・楽しく・朗らかに」です。ですから、ネガティブに生きている人は、神に逆らって生きていることになるのです。
ネガティブに生きれば不幸が待っています。ポジティブに生きれば幸せが待っています。そのどちらを選ぶかは、本人の自主性に委ねられています。なのに多くの人間は、ネガティブに生きては苦しんでいます。なぜでしょうか?。それは、神の愛を信じられないからです。神の愛とは法則のことですから、法則を無視して生きれば苦しむのは当然なのです。
ポジティブに生きている人は、自分で自分を助けています。ネガティブに生きている人は、自分で自分を苦しめています。自分の思いが、言葉が、行いが、自分を苦しめたり助けたりしているのです。それは、自分が神そのものだからです。法則そのものだからです。
自分を助けるのは、神なる自分です。法則なる自分です。人が人を助けるので無いことを知って下さい。
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あなたはノーコントロール投手で、いつも暴投しております。でも、心配いりません。どんなボールを投げようと、あなたはいつも神に向かってボールを投げているのですから・・・。なぜなら、神は土の中にも、壁の中にも、草の中にも、ネットの中にも、スタンドの中にも、ミットの中にもいるからです。だから、ボールが右にそれようと、左にそれようと構いません。さあ、遠慮せず思いっきり投げましょう。
私達は日常生活において、常に神とキャッチボールをしているのです。私達がどんなひねくれボールを投げようが、どんな癖のあるボールを投げようが、神は文句一ついわず受け取ってくれています。でも、神は、時々、きついボールを投げ返すことがあります。それは、"今あなたは良くないボールを投げていますよ!"ということに気付いてもらいたいためです。
「私達が神に向かって投げるボールは原因です。」
「神から投げ返されるボールは結果です。」
さあ、神から投げ返されたボールの意味をしっかりと受け止め、神が望むボールを投げ返しましょう。
-401-
神は偶然を知りません。なぜなら、神は偶然を作らなかったからであります。しかし、多くの人間は、偶然を信じ生きています。
私の高校生の頃の話ですが、伯父の経営する会社のトラックが、エンジントラブルによる踏切事故を起こしたのです。エンジントラブルの原因が不明だったため、警察はこの事故を偶然で処理してしまいました。
この例えを持ち出すまでもなく、今日の社会では、原因不明の交通事故も、地震で家が倒壊したことも、鳩の糞が頭に落ちてきたことも、悪友に道でバッタリ出会ったことも、みな偶然と思い「仕方が無い!」で済ましています。ならば、どんな出来事も偶然で処理すれば良いはずですが、サイフをすられたり、人に騙されたなどの出来事は、警察沙汰にしているのです。なぜ、事故は仕方無いで済まし、サイフをすられたことは警察沙汰にするのでしょうか?。本当に偶然を信じているなら、どちらも偶然で処理するのが筋ではありませんか?。
偶然は無秩序を意味し、必然は秩序を意味する言葉です。すなわち、偶然は因果関係を認めず、必然は因果関係を認める言葉なのです。それを前提に考えれば、偶然を信じている人は、自分の身に何が起きても人に罪を問えないことになります。なぜなら、偶然を信じながら人に罪を問うのは矛盾だからです。
偶然が本当にあるなら、サイフをすった悪人は偶然に悪い環境に生まれ、偶然にスリ仲間に出会い、偶然にスリになったわけですから、偶然に責任を取ってもらうしかないでしょう。でも、今の社会では、自然災害や事故は偶然で処理し、人災は必然で処理して、人を罰しているのです。ということは、この社会の人達は偶然を信じながら、実際は必然を認めているということです。
もし、本当に偶然を信じているなら、偶然にスリになった人の乗っている電車に偶然に乗り、偶然にサイフをすられたわけですから、スリに罪を問うのはお門違いというものです。スリに罪を問うのは、必然を(因果関係を)認めているからです。つまり、スリ本人に責任(原因)があると思っているから罪を問うのです。だから、この社会には、罪人を取り締まる警察があり、罪人を裁く裁判所があり、罪人を刑に服させる刑務所があるのです。
何事も偶然に起きるなら、サイコロの目を頼りに生きたら良いでしょう。そこに何の努力も必要ありません。一生を面白おかしく好き放題に生きたら良いのです。でも、神は、そのような無秩序な宇宙はお創りになっていないのです。
平安はどこから来るのでしょうか?。無秩序の中からですか?、秩序の中からですか?。もし、この宇宙に偶然があるなら、今、カミナリに打たれて死んでも、隕石に打たれて死んでも、何の不思議もありません。私達が間借りなりにも安心して生きられるのは、目に見えない秩序が働いていると、心のどこかで信じているからではありませんか?。そうでなければ、一時たりとも笑っていられないはずです。
そうです。この宇宙には、ちゃんとした秩序があるのです。秩序とは法則のことです。法則によって秩序だてられている宇宙には、成るべきにして成る必然があるだけです。だから、法則を信じ法則に生きている聖者に心配や恐怖は無いのです。
赤ちゃんが、母親の胸に抱かれお乳を飲んでいる時ほど、安らいだ顔をしている時はありません。それは母の愛(法則)を心から信じているからです。私達も宇宙の法則を心から信じられたら、赤ちゃんと同じような顔をして生きられるのです。
偶然を認める社会に真の安らぎはありません。真の安らぎが欲しかったら必然を認め、その必然(因果の法則・心の法則)を犯さない生き方をすべきです。そうすれば、地球に真の平和が訪れるのは間違いないでしょう。
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