ボディーを自分だと思っている人達は、物を正しく見ていません。なぜなら、実際に有るのは形(ボディー・物)ではなく本質だからです。形はあくまでも本質の現れであって、実際に有るものでは無いのです。実際に無いものを有ると見て、どうして正しい物事の判断ができましょうか?。それでは正しく生きられるわけがありません。人間の不幸は、ものを正しく見ない所から派生しているのです。
○ 内と外は同じものです。だから、内と外を同時に見なくてはなりません。
○ 空と色は同じものです。だから、空と色を同時に見なくてはなりません。
○ 本質と形は同じものです。だから、本質と形を同時に見なくてはなりません。
○ 生命と人間は同じものです。だから、生命と人間を同時に見なくてはなりません。
同時に見るとは、一つとして見なさい、同じものとして見なさい、という意味です。同じものとして見られるようになった時、私達は正しく生きられるようになるのです。なぜなら、正しくものが見られるようになった人は、人間として生きられると同時に、生命としても生きられるようになるからです。つまり、物ばかり重視する人から心も重視できる人になるからです。
その者は、もう天に入ったのです。
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私達はこの地上界に出るに当たり、二つの目が与えられました。一つは見える物を見る目、もう一つは見えないものを見る目です。見える物を見る目を肉眼といい、見えないものを見る目を心眼といいますが、この二つの目を上手に使い分けることで、この地上界を迷い無く生きられるわけです。でも私達は、いつの間にか肉眼だけを使うようになり、心眼を使うことを忘れてしまいました。その結果、偽物の影響を受けるようになり、様々な不幸を背負う羽目になったのです。
偽物とはいうまでもなく物質のことですが、実際に無い物質を有ると信じれば、物質の影響を受け無いわけにはゆかないのです。なぜなら、信ずる心が物質に力を与えてしまうからです。
心配、恐怖、イライラ、これみな偽物を信じた心の産物です。物欲、色欲、金銭欲、権勢欲、これも偽物を信じた心の産物です。これらの産物が、病気や、自殺や、事故や、戦争や、自然災害などの副産物を生み出しているのです。
もし物質が偽物だと心から思えたら、もう物質の影響は受け無くなり、そこに悪なる産物も副産物も生まれてこないでしょう。だから心眼を開く必要があるのです。
心眼を別名「理解眼」ともいいますが、心の底で見えないものが理解できるようになると、見えないものが見える状態、感じる状態になるのです。すなわち、理解力が物の本質である見えないものを見させるのです。その者は、物の奥に隠されている真実を見ることができるので、もう偽物の奴隷になることは無くなるのです。
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正しく生きるには、二つの意味合いがあります。
一つは、今の今を生きる生き方です。
私達が使える時間は、今の今です。私達は、今の中にしか生きられないのです。しかし殆どの人は、過去のことや未来のことに時間を使っています。それも、悔んだり、懐かしがったり、憂いだり、心配したりして大切な時間を浪費しております。過去は過ぎ去ったページです。未来はまだ来ぬページです。そんなページに、どうして大切な時間を使うのでしょうか?。
さあ、今の一瞬一瞬を大切に生きましょう。その人は正しく生きている人なのです。
二つは、真実に生きる生き方です。
殆どの人は、ボディーを維持するために、家族を養うために、今を生きております。これでは真実に生きているとはいえません。なぜなら、この世の生事や雑事はみな幻だからです。どうでしょう、肉体は永遠に無くならないのでしょうか?、いつまでも家族と暮らせるのでしょうか?。肉体も、家族も、この世の雑事も、みな消えて無くなる幻ではありませんか?。私達はそんな幻に生きるのではなく、真実に生きなければなりません。
真実に生きるとは、実際に有るものに生きることを意味し、それは生命に生きることなのです。生命は実際に有るものですから、生命に時間を費やしている人は真に生きていることになるのです。
正しく生きるとはこのように、「今の今を生命に生きる」ことなのです。
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では、今、雑事に生きている人は、無駄な人生を送っていることになるのでしょうか?。いいえ、決してそのようなことはありません。なぜなら、今、正しく生きられるようになるためには、雑事の中から色々学ぶ必要があるからです。
一足飛びに正しく生きられるようになる人など、この世に一人もおりません。色々なことを体験し、何度も何度も痛い目にあって、徐々に正しく生きられるようになるのです。その意味では、今、正しく生きていない人は、本線に入るための準備として、今、伏線上を歩んでいると思ったら良いでしょう。学習を終えたら、誰でも正しく生きられるようになるのですから、それまで温かく見守ってやりましょう。
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なぜ、私達に苦しみが多いと思いますか?。それは、今の雑事に心を痛めたり、過去や未来に思いを馳せ、悔やんだり、憂いたり、恐れたり、しているからではありませんか?。私達が見聞きしているもので、真実なるものが一つだってありますか?。またあなたの脳裏にあるもので、一つだって真実なるものがありますか?。本当にあると思っている肉体さえ、消えて無くなる幻なのですよ。そんな幻を追いかけ、どうして心穏やかに生きられましょうか?。
心穏やかに生きるためには、真実に生きなければなりません。すなわち、「生命」に生きなければなりません。生命は「永遠不滅・完全無欠」ですから、生命に生きれば心穏やかに生きられるのです。では具体的にどのように生きれば、真実に生きることになるのでしょうか?。それは次のような生き方です。
○ 宇宙の法則を遵守して生きることです。
○ 思いも、言葉も、行為も、生命に委ね生きること、すなわち、何を思うにしても、何を語るにしても、何を行うにしても、生命が思い、生命が語り、生命が行っていると思い生きることです。
○ 雑事から解放された時は、静かに本当の自分に(生命に)意識を留め、瞑想することです。
すべて思いが先行します。生命を意識して生きれば、思うことも、語ることも、行うことも間違いなくやれるでしょう。
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宇宙の法則を体系的に分ければ、「陰陽の法則と因果の法則」の二つに分けられます。陰陽の法則のことを横の愛ともいい、因果の法則のことを縦の愛ともいっており、この二つの交差した形を十字架と呼んでおります。十字架は、宇宙のバランスの象徴なのです。また陰陽の法則と因果の法則の交差した点を、O点とか聖点とか呼んでおり、表現宇宙におけるすべての現象は、この聖点を通して生まれ、この聖点を通して消える仕組みになっているのです。そして、この聖点こそ幸せの原点であり、私達の目標なのです。
私達は、陰陽の法則と因果の法則を順守して生きなければなりません。なぜなら、聖点から離れれば離れるほど幸せから遠のき、近寄れば近寄るほど幸せに近づくようになっているからです。
○ 陰陽の法則を遵守する生き方
物質とエネルギー(生命)をバランス良く生きる生き方です。すなわち、物質にもエネルギー(生命)にも偏らない生き方をすることです。今人間が様々な苦しみに喘いでいるのは、余りにも物質に偏った生き方をしているからです。物質に偏れば、エネルギーの低下を招きますので、どうしても不幸に見舞われるようになるのです。
○ 因果の法則を遵守する生き方
正しい思いと行為に基づいて生きる生き方です。原因が良ければ良い結果が現われ、原因が悪ければ悪い結果が現われます。この法則は絶対的な法則ですから、いかなる者も逆らうことはできません。だから私達は、素直に因果の法則を守って生きなければならないのです。
正しく生きるとは、真実に生きること、生命に生きること、すなわち、法則に生きることなのです。生命そのものが真実そのものであり、宇宙法則そのものだからです。
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未だかって、過去や未来が有ったためしがありません。過去や未来は、実際には無い現実の世界にのみあり、真実の世界には無いからです。ということは、過去や未来に想念を使っている人達は、実際には無い世界に生きているわけですから、正しく生きているとはいえないのです。
正しく生きるには、真実なる今のページに生きなければなりません。非真実なる過去や未来のページに思いを寄せていて、どうして真実なる今のページに足跡を残せましょうか?。真実なる今のページに足跡を残すには、今の一瞬を真実に生きるしかないのです。
今の一瞬を真実に生きれば、未来も必ず真実に生きられるようになります。それは、今、正しい原因を作っているからです。その人は過去を正当化したことになり、未来も正当化できるのです。なぜなら、今、真実に生きられるのは、過去において真実を学んだ結果であり、それは取りも直さず未来を正当化させることになるからです。
過去は今の原因です。今は未来の原因です。だから、今、真実に生きている人は、過去を正しく生きたことになり、未来も正しく生きられるようになるのです。
今の一瞬に真実の足跡を残すことができれば、過去の足跡を正当化できると同時に、未来にも真実の足跡を残すことができる。
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見えるのは、ある幅の波長の光を目が捕らえ、心に伝えているからです。もし、心が受け付けなかったら、目の前に何があっても見えないのです。また、見える物の理解がなされていなければ、どんなに見ていても見えている状態にはならないのです。心が受付、さらに理解し、はじめて見えている状態になるのです。
見えないものを見る場合も、同じ理屈が働いています。見えない生命を見るには、生命が何なのか理解が伴っていなければ見えないのです。心が「なるほど」と納得すれば、見えない生命が見える状態、感じる状態になるのです。
宇宙には、目で捕らえ切れない光が数多く存在しますが、理解力が乏しいうちは見えないのです。しかし、意識が高まり理解力が増せば、見えない光も見えるようになってくるのです。そうなると、まるで違った宇宙観を持つことができます。神様は私達に肉眼という狭量な目と、理解眼という万能な目の、二つの目をお与え下さったのです。正しく生きるためには、この万能の目を有効に使わなくてはならないのです。
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小学校の理科の授業で習ったと思いますが、物質の色を混ぜ合わせれば黒くなり、光の色を混ぜ合わせれば白くなります。これは白の中にも黒の中にも、すべての色が包含されている証です。いわゆる、黒も白も総合色なのです。だから黒はただの黒ではないし、白はただの白ではないのです。この理解がなされれば、黒と白の中にすべての色を見ることができるし、単色の中に黒色と白色を見ることもできるのです。見えないものを見る場合も、同じ理屈が働いています。
見える物は見えないものの塊です。見えないものが集まって見える物になっているのです。その理解がなされれば、見える物の中に見えないものを見ることができるようになるのです。単色の中に、白色や黒色を見ることができるように・・・。
私達は同じものを見ているつもりですが、人それぞれ理解力の違いによって見ているものが違っているのです。つまり理解力の違いによって、世界観や宇宙観が違っているのです。だから、人のいうことを否定しても、批判してもならないのです。自分の理解している世界と、人の理解している世界の齟齬を、言葉や文字で埋め合うことなどできないからです。
正しく生きるためには、一人ひとりが理解している世界を認めてやることです。そうすれば、争い合うこともなくなるでしょう。
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「正しく見なさい!」とは、たとえていえば、描かれた絵の中に描いた画家を見なさいということです。つまり、表現物の中に表現者を見なさいということです。表現物をただの表現物として見るなら、その表現物は死んでしまうのです。現しているものを無視し、現れている物だけ見ている者は、その物を殺してしまうのです。だから人間の中に生命を感じなければ、人間はただの死に絵になってしまうのです。
正しく表現するためには、現実の世界と真実の世界を同時に見、同時に生きなければできません。絵が(人間が)、私は画家(生命・神)だと思えなければ、画家(生命・神)の思いを正しく表現できないのです。要するに、天の意を地に正しく表現できないのです。今の私達は、描かれた絵を自分と思い違いし、絵として好き勝手に生きているのです。だから、この地上世界に不幸が絶えないのです。
人間が生きているのでは無く、生命・神が生きているのです。表現物が生きているのでは無く、表現者が生きているのです。表現物が生きていると思うから、表現物としての生き方しかできないのです。実際に無い表現物が、実際に有る表現者の立場で生きられるわけがないのです。人間の立場でものを見るということは、実際にない立場でものを見るわけですから、正しい判断ができるわけがないのです。
もし自分のことを、生命・神だと思えたら、天の意を地に正しく表現できるでしょう。地上天国が到来するのはその時です。
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見える物は見えないものであり、見えないものは見える物です。見える物と見えないものは同じものだから、見えないものが見える物になれるのです。見える物と見えないものが別々のものなら、見える物は永遠に見える物であるし、見えないものは永遠に見えないもののままであるはずです。とすると、その宇宙は死んでいることになります。なぜなら、変化しない宇宙は死んでいるからです。
私達は形だけを見て物の判断をしますが、形があるからには必ず素材である本質があるのです。見える物は、見えない本質なしに見える物になれないのです。何かが生み出されるからには、その何かを生み出した本質が必ず背後にあるのです。これは当たり前のことですが、その当たり前のことを人間は心から理解できていないのです。だから人間は形に翻弄され、様々な苦しみを背負ってしまうのです。
心から物の本質が理解できるようになれば、見える物の中に見えないものを見ることができるようになるのです。その者は見えない本質としての、正しい生き方ができるようになるのです。
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ガラスが形を取ったものに、コップという名を付けた、コップ!コップ!と呼ぶうちに、本当にコップがあるかのような錯覚に陥ってしまった。同様に、生命が形を取ったものに、人間という名を付けた、人間!人間!と呼ぶうちに、本当に人間がいるかのような錯覚に陥ってしまった。どちらも名前に溺れ、本当にあるものを見失った姿です。名前は物を区別するために付けられた、便宜上の固有名詞にしか過ぎないのに、その名前に溺れ本質を見失ったのが人間なのです。
人間の不幸は、たった一つのものしか無いのに、名前の数だけ物があると錯覚したところから生まれたのです。自分や自分の家族しか愛せない小さな愛の持ち主になったのも、お金や権力にしがみつくようになったのも、物欲や情欲の虜になったのも、一つのものを分けて考えるようになったからです。これは、正しくものを見ていないがゆえの弊害です。もし正しくものが見られたら、物に溺れることはなかったでしょうに・・・。すべてのものを差別なく愛せたでしょうに・・・。
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正しくものが見えるようになった人は、生命 以外 何も見えません。大生命しか無いと思っている人の目には、大生命しか写らないのです。
たとえば、パンも、クッキーも、ケーキも、小麦粉によって作られていると知った人の目には、みな小麦粉に見えるのです。花も、虫も、人間も、宇宙も、生命によって作られていると知った人の目には、みな生命に見えるのです。
理解眼を開くとは、理解力によってものの真意を把握することです。心からものの真意が把握できれば、見えないものが見えるようになってくるのです。見えるといっても、形として見えるのではなく、光として見えるのです。光は生命そのものであり、本質そのものだから、当然といえば当然の話です。この真意を把握する眼のことを、理解眼というのです。
私達には、見える物を見る肉眼が与えられていると同時に、見えないものを見る理解眼も与えられているのです。
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心ある多くの人は、法律を守ったり、倫理や道徳を守ったり、人の道に恥じない生き方をすることが、正しい生き方だと思っております。私も十数年前までは、そう思っていました。特にある宗教を信じていた私は、娘にもからかわれるような四角四面の生き方をしておりました。でも、知花先生の教えに触れ、その誤りに気付いたのです。
たしかに、人の道に恥じない生き方をすることは大切です。なぜなら、人の道に反した生き方をしていては、心穏やかに生きられないからです。心穏やかに生きられなくては、瞑想どころではありません。でも、どんなに人の道に恥じない生き方をしても、神の道に反した生き方をしていては、正しく生きているとはいえないのです。つまり、この世の雑事に追い回され、神に意識を向けない生き方は、正しい生き方とはいえないのです。
正しく生きるとは、
神に愛されるには、常に神に意識を向けていなければなりません。本当の自分に愛されるには、常に本当の自分に意識を向けていなければならないということです。
神に、生命に、本当の自分に、意識を向けていれば、自然と正しく生きられるようになります。その者はもう、倫理も 道徳も 宗教も 必要ありません。正しく生きるとは、そういうことなのです。
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「何を食べ、何を飲み、何を着けんと思い煩うことなかれ!」という言葉には、深い意味合いが込められています。
この世に、縁によらないで生まれてくるものなど一つもありません。また縁によらないで与えられる物も、環境も、一つもありません。国も、家族も、友達も、職場も、生活必需品も、すべて縁によって与えられているのです。
私達は今、生活必需品を遠いところから取り寄せて使っていますが、本来それらの物は身近なものを使うべきなのです。私達の肉体そのものが、その土地に根差したものだからです。気候風土にマッチした肉体が、気候風土にマッチしたものを使う、それが自然の摂理です。だから、食べ物も、着る物も、住む家にしても、地縁の物を使うべきなのです。
自然の摂理といえば、結婚するのも、子供を授かるのも、縁を大切に考えなくてはなりません。縁がなければ一生独身でも構わないし、縁がなければ子供を産まなくても良いのです。人の腹を借りて子供を授かるなど、言語道断といわねばなりません。気持ちは分からないでもありませんが、理の無いことは避けるべきです。
○ 今、食卓に上がった食物を感謝して食べましょう。
○ 今、与えられた衣服を感謝して着ましょう。
○ 今、与えられた住まいを感謝して使いましょう。
○ 縁が与え縁が結び付けてくれた、親や、妻や、夫や、子や、孫や、生き物に感謝しましょう。
それが「何を食べ、何を飲み、何を着けんと思い煩うことなかれ!」の本当の意味なのです。
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殺生には二通りの殺生があります。一つは殺す殺生、もう一つは生かす殺生です。
私達の生活は、鉱物や植物や動物などの犠牲の上に成り立っておりますが、本当に必要な消費は生かす殺生になり、欲望や遊びの消費は殺す殺生になるのです。鉱物も、植物も、動物も、人類の進化を援護する使命をもっていますので、本当に必要なら彼らは喜んで私達の犠牲になってくれます。でも、理の無い使い方をされると、彼らは涙を流して悲しがります。モルモットとして殺されるネズミや、闘牛によって殺される牛や、釣りや狩猟マニアによって殺される魚や動物は、みな泣いています。無駄に使われている品々も、寝かされている品々も、きっと同様の気持ちでしょう。ある人がこんなことをいっていました。
「引っ越しの際、タンスや引き出しの中に一度も使ったことのない物があるのに気付いて驚いた」と・・・。タンスや引き出しの中で寝かされていた物は、きっと泣いていたことでしょう。有効に使われてこそ、彼らの使命は全うされるのです。
理の無い消費も殺しの殺生ですが、使われない消費も殺しの殺生なのです。
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本当の自分を知った者は、自然社会においても、人間社会においても、正しく生きられるようになります。それは生命の本源につながったからです。
その者は、
世の中には、派手なパフォーマンスをして人の目を引く人達が沢山おりますが、彼らは何に揺り動かされ、そのようなパフォーマンスをしているのでしょうか?。自我に揺り動かされしているのでしょうか?、それとも真我に揺り動かされしているのでしょうか?。
いいえ、それは自己満足にしか過ぎません。
正しく生きるとは、常に本当の自分を意識し、本当の自分に生きる生き方です。本当の自分を意識することは、神を意識することですから、神と同じ思いで生きられるのです。神は大調和ですから、神の思いで生きる人は、神と同じ調和のとれた生き方ができるのです。すなわち、常識人として、当たり前な人として、愛深い人として、奉仕者として、光りを放つ人として・・・。
瞑想している時は、真理を実践しておりますので、光の中におります。光の中にいる者は、光を放射していますので、これ以上の奉仕はありません。釈迦が「三千名に飯を盛るより、瞑想する方が 世のため 人のため になるのですよ!」といわれたのは、このことをいっておられたわけです。
私達は、どうしても派手なパフォーマンスをしたがります。人に良く見られたいという自己顕示欲が働くからでしょうが、一旦、外側に表した奉仕は、もう真の奉仕ではありません。パフォーマンスをした時点で、徳が自己宣伝費として使われてしまったからです。
真の奉仕とは、人の目の届か無い所でする無欲の奉仕です。中でも、心の中でする奉仕は、最も尊い奉仕です。すなわち、多くの人に安らぎと平安をもたらす瞑想の奉仕は、最上位の奉仕なのです。だから瞑想に勝る奉仕は無いといわれるのです。
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「快楽」とは、読んで字のごとく、「快く楽する」ことです。しかし、この快楽は苦の対極にありますので、どうしても苦が付き纏うのです。麻薬と良く似ているのがこの快楽なのです。
「快楽」と対照的なのが「喜び」です。これは心で味わう喜びですから、満ち足りた喜びを満喫することができます。瞑想から得られる喜びは、その最たるものといって良いでしょう。
その喜びは、
楽しみも適度な楽しみなら良いのですが、度を超すと苦しみに早変わりしますので要注意です。特に、肉の快楽には気を付けたいものです。
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時をデジタル的に捕らえると一秒先も見通すことができませんが、アナログ的に捕らえると案外と見通しやすいのです。それは、原因を線として捕らえることができるからです。これが一般的にいわれている、先見の明といわれるものです。
過去は現在の原因です。現在は未来の原因です。この流れを読めば、現在の結果がどのような原因から来ているかが分かり、過ちが修正しやすくなります。修正された原因は正しい未来の流れを作りますので、未来の予測がしやすくなります。それはもう予測では無く実測です。なぜなら、原因と結果は一致するものだからです。だから今を正しく生きれば、未来を安心して生きられるわけです。
過去を悔み未来を憂いるのは、原因点である今を正しく生きていないからです。「今は過去であり、今は未来である」といわれるのは、今の原因点の中に過去も未来もあるからです。その意味では、過去の結果を今の原因点の中で修正すれば、過去の原因を修正したことになり、さらに未来を正しく築く原因ともなるのです。
それをはっきり知るには、時空から意識を引き上げねばなりません。つまり、相対界から絶対界へ意識を引き上げ、過去を今として、今を今として、未来を今として見ることです。
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どのような宗教も、善業を成しなさいといいます。でも、真の善業がどのようなものか教えている宗教はありません。
真の善業とは、ボランティアをしたり、人に施しをしたりすることではありません。自分の心の中に巣くっている悪癖を無くすことが、真の善業なのです。すなわち善業を成すとは、外側で何か良いことをすることでは無く、自分の心に良いことをすることなのです。この考えは一見利己主義に見えますが、心は全体性ですから、己の心の革命は全体の心の革命になり、それは全体主義になるのです。
人間は様々な悪癖を持っています。たとえば、酒や麻薬にのめり込む癖、バクチや性欲の虜になる癖、強欲な癖、怒りっぽい癖、ネクラな癖、引っ込み思案癖、嫉妬深い癖、ねたみ深い癖、被害妄想癖など、挙げれば限りがありませんが、これすべて心の中に巣くっている悪癖です。世間には、これらの悪癖を持ったまま一生を終えてしまう人が多いわけですが、これではこの世でどんな偉業を成し遂げても何の意味もありません。
人生の目的は、地位や名誉や財産を得ることでは無く、自分の心の中に巣くっている悪癖を一つでも多く無くして帰ることなのです。”一日一善”という言葉がありますが、これは一日一つ良いことをするという意味もありますが、本当は、一日一つ自分の心に良いことをするという意味なのです。自分の心に良いことをするという意味は、自分の心に善い想いを持ってくる、すなわち神の想いを持ってくるという意味です。
ある宗教では、悪癖を出さないよう意識して生きることが大切であるといっておりますが、それでは悪癖を認めることになり矛盾になってしまいます。悪癖を認めながら悪癖を無くすことなど絶対できないのです。悪癖(結果)を無くすには、単純に善い想い(原因)を持ってくれば良いのです。
善い想いを持ってくる手段が瞑想です。神(生命)は善い想いそのものですから、神を想えば悪癖は消えてゆくしかないのです。瞑想が悪癖を無くす有効な手段といわれるのは、神の想いそのものが善い思いだからです。もし瞑想によって悪癖を無くすことができれば、これは大変な偉業です。
さあ、強い決意を持って悪癖を無くす瞑想に挑戦しましょう。それが私達がこの世に生まれてきた目的であり、使命なのですから・・・。
外側の革命を成すより、内側の革命を成すほど偉大な革命は無い!。
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