皆既月食 撮影:井戸和則
この宇宙には、宇宙生命という一つの命が存在するだけです。だから、一命と呼びます。その命は形が無いので見ることも触ることもできませんが、はっきりとした意識と、しっかりとした意志を持ちながら、この宇宙を永続させよう、調和させよう、喜ばせよう、と懸命に働いております。人格は持ちませんが、人格を持った人間以上に目的意識を持ち、あらゆるものの中で生きて働いているのです。
宇宙は生命で満々ているのです。宇宙は命の海なのです。勿論、私達の中にも同じ生命が生きて働いています。ということは、私達は「生命の子」ということになりませんか?。そうなのです。私達は生命そのものなのです。いや、私達はいないのです。私(生命)がいるだけです。なぜなら、一つしか無い生命を、分離したり分割したりすることなどできないからです。私の中に生きて働いている生命は、全体の生命、普遍の生命、無限の生命です。だから私達がいるのでは無く、私がいるだけです。唯一の私が、様々な姿形を取って自分を表現しているのです。表現された様々な形は、私の分身なのです。
今、私は人間の形を取っておりますが、形の人間が生きているのではなく、生命の私が形の中で生きているのです。ものを考え、思い、語り、行動しているのは、宇宙生命の私なのです。人間は、脳や、心臓や、肺や、腸などの部品が集まり、人の形を取って初めて生きるものになると思っていますが、人体はあくまでも生命の乗り物で、実際に生きて働いているのは生命です。"では生命を見せろ!"という人がいますが、生命は形が無いので見せるわけにはゆきません。どんなに科学が発達しても、生命は見ることができないのです。その見えない生命が、ものを考え、ものを聞き、ものを語り、行動指令を出し肉体を動かしているのです。
最近、ロボット工学が進み、人の動きに近いロボットが開発されていますが、そのロボットは自分で生きているのでしょうか?。スイッチを切ったら、動かなくなってしまうのですよ・・・。人間も、生命というスイッチを切ったら、ただの抜け殻になってしまうのですよ。蛇の抜け殻を蛇というでしょうか?。セミの抜け殻をセミというでしょうか?。命の抜けた人間を、人間というでしょうか?。中身が生きているのです。中身が働いているのです。人間の中に入って生きて働いている生命こそが、本当の自分なのです。でも私達は形を自分と誤信し、人間として生きています。だから、生・老・病・死の苦しみから逃れられないのです。
意識が生きているのです。意識=生命・・・生命=意識です。だから意識を持っている人間は、生命そのものなのです。人間が生命である証しは、意識を持っていることで証明されるのです。
-52-
意識とは、何でしょう?。
意識とは、存在の思いです。何かを感じられる思いです。私と思える思いです。思うにはエネルギーが必要ですから、意識はエネルギーでもあるわけです。先ほど、意識=生命 といいましたが、意識とは、エネルギーであり、生命なのです。
あなたの意識、私の意識など、沢山の意識があるように見えますが、宇宙には宇宙生命という、たった一つの意識があるだけです。そう断言できるのは、私自身 面白い体験をしているからです。
十数年前のことですが、家で子猫を一匹飼っていました。その子猫はやんちゃ坊主で、色々と悪さをしては家族を困らせるのです。あまり悪さをするので、私は本気で子猫を叩いたことがありました。それ以来、今まで私の膝の上で寝転がっていた子猫が、寄りつかなくなったのです。何日も寄りつかないものですから、やり過ぎたと思い、私は心の中で子猫に詫びたのです。すると、どうでしょう!?、詫びた途端、以前のように私の膝の上で寝転がるようになったのです。その時、私は、"思いは通じるものだな!"、とつくづく感心させられたのです。
花や木の世話をしている人の話を聞くと、思いを寄せた花や木と、寄せない花や木の花持ちの良さや枝ぶりは、明らかに違うといいます。これも、世話人の意識が影響しているからです。良く以心伝心とか、人を呪わば穴二つとかいわれますが、同じ一つの意識だから、通じ合うし、影響を受け合うのです。もし意識が別々なら、絶対このようなことは起きないはずです。
このように私達の意識も、万象万物の意識も、宇宙生命から生まれた同一の意識であり、宇宙生命そのものなのです。
-53-
自分のことをアヒルだと錯覚しているカモが、アヒルに生きるのは当たり前です。自分のことを人間だと錯覚している生命が、人間に生きるのもまた当たり前です。もしカモが、"自分はアヒルでは無くカモであった!" と目覚めたら、おそらく大空を自由に飛びまわることでしょう。人間も生命に目覚めたら、宇宙を自由に闊歩することでしょう。
本物が本物に生きるのは当たり前です。本物が偽物に生きるのがおかしいのです。だから生命の私達が、人間に生きるのはおかしなことなのです。
私達は、思っている通りの生き方しかできないのです。つまり、自分を「アヒル」だと思っているカモが、「カモ」に生きることは絶対ないということです。だから人間と思っている者に、「生命に生きなさい!」といっても無理な話なのです。
本当の自分を知らない者が、どうして正しい見識が持てましょうか?。どうして正しい物事の判断ができましょうか?。どうして正しく生きられましょうか?。
カモに生きるには、カモの自分に目覚めるしかないのです。生命に生きるには、生命の自分に目覚めるしかないのです。では、どうしたら目覚めることができるのでしょうか?。それは、本当の自分を常に意識することです。生命の自分を常に意識することです。
もし生命に目覚めたら、この世から一切の争い事は無くなるでしょう。
-54-
本当に有るものとは、永遠に失わないもの、絶対無くならないもの、不滅なるもの、つまり生命のことをいいます。本当に無いものとは、時が来れば失うもの、朽ち果ててしまうもの、消えて無くなるもの、つまり物質のことをいいます。
形あるものは、必ず無くなりますので本当に無いものです。形の無いものは、絶対無くなりませんので本当にあるものです。その定義からいえば、私達の肉体は必ず無くなりますから、本物で無いことになります。しかし意識(生命)は 絶対無くなりませんから、本当にあることになります。その絶対無くならない「意識・生命」こそ、本当の私達なのです。今 思っている私が、今 考えている私が、実在する生命の私です。今まで私達は、生命が思い考えていたのに、肉体が思い考えていると勘違いしていたのです。思えるのは、考えられるのは、生命しか無いのですから、みな生命の仕業だったのです。
形に騙されないで下さい。実在とは、形の有る無しでは無いのです。生きているとは、形の有る無しではないのです。今 私と思っている意識こそが、本当の私なのです。本当に有るもの、すなわち意識です。本当に有るもの、すなわち生命です。それこそが本当の私なのです。本当に有るものと無いものを見分けるキーポイントは、
「意識が有るか無いか?」
「永遠に無くならないか?、無くなるか?」
であります。
-55-
時空界は、夢幻の世界です。肉体は、時空界を見聞するために用意された乗物で、一種のUFOなのです。
私達は、魂を成長させるために時空界に出てきました。しかし、あまりにも時空界に慣れ親しんだために、本当にある世界のような錯覚に陥ってしまったのです。
生きる苦しみも、老いる苦しみも、病む苦しみも、死ぬ苦しみも、みな夢の中のできごとです。学校で勉強することも、社会に出て働くことも、結婚して子供を設けることも、みな夢の中のできごとです。私達は今、"人間だ!、個人だ!、肉体だ!"と夢を見ている真っ最中というわけです。七十数億人 全員が、夢を真実と思い込み、夢の虜になっているのです。もうそろそろ夢から覚めたいものです。
では、どうすれば目覚めることができるのでしょうか?。それは瞑想です。神は時空界から一時避難させる手段として、瞑想を用意されたのです。瞑想している時は、時空界から真実の世界へ抜け出していますので、目覚めているのです。反対に夢の虜になっている時は、幻の世界におりますので、眠っているのです。すなわち、瞑想している時は生きており、夢の虜になっている時は死んでいるのです。
瞑想して下さい。瞑想している内に、やがて目覚めます。目覚めは(生命の自覚は)、時空界から抜け出した証しなのです。
-56-
私が一番不思議に思うのは、人間はあまりにも死に対して無頓着すぎるという点です。死は誰にでも間違いなくやってきます。これほど確実で平等なものはありません。生まれてくる子供のことは色々考えるのに、確実にやってくる死を、どうして真剣に考えようとしないのでしょうか?。子供は間違って生まれてこないことはあっても、人の死は百パーセント間違いがないことなのです。
「出入り」という言葉はあっても、「入り出」という言葉はありません。初めに「出」があって、後に「入り」があるのです。息も吐くから吸えるのです。すべて出から始まるのです。だから「出発点」というのです。「発出点」とはいいません。死は出口であり、出発点なのです。
世間の人は、よくこのように言います。
"誰べえさんが死にました。惜しい人を亡くしましたね。かわいそうですね!。人間は死んだらお終いですよ!"と・・・。
"そういっているあなたは死なないのですか?"、と私はお訊きしたい!。あなたも、あなたも、あなたも、いつか必ず死ぬのですよ!。他人事みたいにいって欲しくないものです。自分だけは死なないとでも思っているのでしょうか?。
死は誰にでも必ずやってくるのです。ただ、どの様な死に方をするか?、早く死ぬか?、遅く死ぬか?、だけの話です。その早い遅いも、宇宙時間から見れば一瞬です。その一瞬の命のやり取りに、人間は血を流し合っているのです。それもこれも、死に対して無知だからです。もし死を真剣に考えるようになったら、
「人間とは何か?」
「人生とは何か?」
「人は何のために生きているのか?」
「人間は何をなさねばならないのか?」
など、人間そのものを考えざるを得なくなるので、人の生き方も大きく変わってくるでしょう。
人間は、人間のことを知ろうとしないのです。自分のことを知ろうとしないのです。あなたは、自分の事をどれほど知っておりますか?。おそらく見て触れる、このボディーのことぐらいしか知らないのではありませんか?。それで本当の自分を知ったといえるでしょうか?。
政治も、経済も、科学も、教育も、すべて「人間とは何か?」から始まるのです。殺人兵器に沢山のお金をかけるのに、一番大切な死の問題にお金をかけないとはおかしな話です。そろそろ人間は、本当の自分を知るべきです。本当の自分を知れば、あらゆる難題が解決されるのですから・・・。
-57-
人間は目の前で繰り広げられる現実を真実と思い込み、百人が百人とも争い合い、奪い合い、戦い合って苦しみや悲しみを作っています。この世のすべての出来事が幻だというのに、そのカラクリを見破る者がいないのです。たしかに、痛いのです。苦しいのです。寒いのです。暑いのです。おいしく、気持ちが良いのです。だから、本当にあると錯覚するのも無理はありません。でも、このカラクリに騙されてはならないのです。
良く考えて見て下さい。真実なるものとは何でしょうか?。実在するものとは何でしょうか?。本当にあるものとは何でしょうか?。それは永遠に無くならないものではありませんか?。では、
では、
絶対無くなりませんね・・・。ならば何を大切にすべきですか?。そうです!。永遠に無くならない、宇宙を、生命を、本当の自分を、大切にすべきです。
宇宙のカラクリを見破るコツは、何が永遠で何が永遠で無いのかを知ることです。五感で感じる、見えるもの、聞こえるもの、味わえるもの、臭うもの、触れるものは、無常なるものですから偽物です。五感で感じられない生命は、永遠なるものですから本物です。私達は五感を絶対視する癖がありますが、五感にかかる物はみな偽物なのです。
さあ、偽物と本物を見分ける識別心を持って下さい。識別心を持った者は、もう偽物に騙されることはありません。
-58-
現実とは「現れている物」、すなわち今は有るように見えるが、いつか必ず消えて無くなる物のことをいいます。消えて無くなるのは、本当に無いからです。つまり、幻だからです。
一方、真実とは「現しているもの」、つまり、どんなに時が経とうと無くならないもののことをいいます。永遠に無くならないのは、本当に有るからです。すなわち、本ものだからです。「意識・生命・エネルギー・神」は、本当に有るものですから永遠に無くならないのです。
私達は良く「現実的ですね!」という言葉を使いますが、それは言葉の誤用です。なぜなら、本当に有るという意味で使っているからです。この世の物は幻ですから、「現実的ですね!」というならば、「幻的ですね!」という意味で使わねばならないのです。
本当に有るという意味で使うならば、「真実的ですね!」といわねばならないわけですが、この世に真実なるものは一つも無いわけですから、言葉不足を補うために「現実的」という言葉を使っているだけです。どうか、現実と真実の意味を誤解しないで下さい。
-59-
この宇宙で最も確実なことは、私の意識は絶対無くならないという事実です。でも、これが一番厄介なことなのです。なぜなら、意識があるから憂い、悩み、苦しむからです。もし永遠の「無意識状態」、いやそれさえも感じない全くの「空白状態」になれたら、どんなに幸せでしょう?。何せ、何も分からなくなるのですからね・・・何も感じなくなるのですからね・・・いや、こんな考えさえ持たなくて良いのですからね・・・。私の考えはおかしいでしょうか?。
残念ながら私の意識は、絶対無くなることはありません。これは実に困ったことです。
そこで私は神様に、
「私の意識を完全に葬り去って下さい!」とお願いしてみました。
しかし、
「お前の意識を奪えば、その瞬間 宇宙は消え去ってしまうではないか?、そんなことができるわけがない!、宇宙はお前で、お前は宇宙なのだから・・・。」
これが神様からの回答でした。
本当の私は、永遠に無くならない意識です。その意識は肉体に付属するものでは無く、宇宙に付属するものだから絶対無くなることは無いのです。ならば意識の無くなることを望むのでは無く、どうしたら永遠の幸せの中に意識を止め置くことができるか、そのことだけ考えるべきではないでしょうか?。
なぜ私達は悟らなければならないのか?。それは、私達の意識が永遠に無くならないからです。
-60-
もし、肉体が朽ちると共に意識が無くなってしまうなら、何一つ悩むことも、心配することもないでしょう。ただ肉体が朽ちるまで、おもしろ、おかしく、生きたら良いでしょう。その行為がどんなに悪意に満ちたものであっても、"後は野となれ山となれ!" だからです。
でも神様は、そのような野放図な仕組みをお作りになりませんでした。私達の意識は、決して無くなることは無いのです。また意識した事は、後々必ず何らかの結果を生むようになっているのです。
すなわち、
● 悪しき思いを持ち 悪しき行いをすれば、悪しき結果がついてくる。
● 良き思いを持ち 良き行いをすれば、良き結果がついてくる。
だから私達は、常に正しい想念を持ち、常に正しい行為をなさねばならないのです。見えないからといって、意識を甘く見てはなりません。意識は生きものです。何でも知っています。何でも作れます。何でもできます。意識ほど、素直で、正直で、確かなものはないのです。
-61-
この宇宙には《私》という、たった一つの意識があるだけです。その《私》が形にまみれることにより、偽我の「私」を作ってしまったのです。その「私」は、形に惑わされ作った偽物の「私」であり、真我の《私》を目隠ししている「私」です。真我なる《私》が、偽我の「私」によって「私」は《私》を見失い、その結果大きな意識の《私》が小さな意識の「私」に成り下がってしまったのです。
形を「私」と思って生きる限り、《私》は小さな意識に止まっていなければなりません。それは正に、カゴの中に閉じ込められた小鳥 同然です。自由になりたかったら、形から意識を解き放ち、本来の《私》に立ち帰ることです。それはただ、思うだけでなれるのです。
偉大な魂は意識を宇宙大にしております。「私」も意識を拡大させることで、偽我の「私」を真我の《私》に帰すことができるのです。
-62-
宇宙の謎は、表裏を解体することで明かされるようになっています。
たとえば、
一対で成り立っている宇宙は、一つを二つに分けることで謎解きができるようになっているのです。
すなわち、
もともと宇宙は一つのもので出来ているのですから、一つのものを深く理解すれば、すべての謎解きが可能なのです。それが相似形の宇宙を知るコツであり、真実を知るコツなのです。
-63-
黒板が便利なのは、書き込んだ絵や文字を消し、再び書き込むことができるからです。宇宙が永遠の存続が可能なのも、宇宙に描いた表現物を消し、何度も描くことができるからです。要するに黒板も宇宙も、循環の法則によって再表現できるから便利なのです。
理念の主である生命は、自分の思いを表現する場として、時空という黒板を作りました。思いを表現する媒体は原子で、原子はチョークのようなものです。そのチョークによって描かれた絵が私達です。でも描かれた私達(絵)は、いずれ消えてゆかねばなりません。もしそこに居続けたら、黒板(宇宙)は絵で一杯になってしまうからです。でも、残念がることはありません。そこで体験した諸々は、宇宙の記憶庫に保管され、再び形を取る時に生かされるようになっているからです。
表現し、消え、表現し、消え、表現し、消える・・・。この繰り返されるドラマが、表現宇宙を進化させる原動力になっているのです。宇宙は実にうまくできているものです。
-64-
本当に有るもののみが、生きているのです。本当に有るもののみが、生き永らえることができるのです。生かされているものは、生かされている間だけ生きられるのであって、生かされなくなれば消えてゆくしかないのです。それは消極だからです。自分で生きていないからです。
意識は自分で生きているものです。生命は自分で生きているものです。でも、肉体は自分で生きているものではありません。だから、本当に有るものでは無いのです。
肉体に執着してはならないのは、本当に有るものではないからです。永遠の意識が無くなる肉体を追いかけ、苦しく無いはずがありません。本当に有るものが、本当に無いものを追いかけるのは矛盾だからです。
求めるなら、永遠に無くならないもの、自分で生きているもの、本当にあるものを追い求めましょう。それが、永遠の幸せを掴む秘訣です。
-65-
本当の自分を追究してゆくと、誰でも自分が宇宙であることを知るようになります。なぜなら、自分の意識が宇宙そのものであることを知るからです。自分の意識が無ければ、妻も、子も、宇宙も、ありません。自分の意識が認めるから、それらの物は存在できるのです。何があろうと起ろうと、すべて自分の意識の中の出来事です。自分の意識が無ければ、何もあり得ないし、何も起こりようがないのです。自分の意識が拒否すれば、宇宙だって消し去ることができるのです。
でも 、"自分の意識が無くなっても、他人の意識は無くならないのだから、宇宙が無くなるはずがない!"、とおっしゃるかも知れません。でもそれは、客観的に物事を考えているからです。意識はあくまでも主観的なものです。自分が意識しなければ、何も生まれないし、何も存在しないのです。あなたが見ている妻も、子も、宇宙も、あなたの意識の中での出来事であって、他人が関係していることではないのです。
たしかに肉体が意識を作るなら、肉体の死は宇宙の死を意味するかも知れません。しかし、肉体が死んでも意識は絶対無くならないのですから、宇宙が無くなるわけがないのです。肉体を自分と思うから、肉体の死が宇宙を消し去ってしまうのです。
あなたは死後、本当に自分の意識が途絶えると思えますか?。永遠の眠りに就いてしまうと思えますか?。いつかまた自分と思える意識が生まれ、目覚める日がやってくると思うのではありませんか?。そう思うのが自然です。そうでなければ、あなたのこれまでの人生は 一体 何だったのでしょうか?。妻(夫)をめとり、子をなし、色々な人と出会い、泣き笑いしてきた人生は、一体 何だったのでしょうか?。
意識はあなたです。あなたは意識です。そのあなたの意識は、絶対無くならないのです。そうでなければ、今のあなたの存在はあり得ないのです。今あなたが存在していること自体、永遠のあなたを保証しているのです。なぜなら、永遠に無くならない意識は宇宙に一つしか無いからです。
永遠に無くならない自分の意識と、永遠に無くならない宇宙はイコールなのです。すなわち、「自分 イコール 宇宙」です。だから、あなたは永遠の存在なのです。
この事実を心の底で知った者は、もう何も知ろうとしないでしょう。また、何も求めようとしないでしょう。なぜなら、自分しかいない宇宙で、他に何を知ろうというのですか?。何を求めようというのですか?。
-66-
私達は見える物や触れる物が、本当に有ると思っています。でも本当に有るものは、見えもせず触れもしないものなのです。見える物は見えないものによって写し出された影だからです。
見えないものは、すべてのものを内蔵している本源・本質です。見えない本源・本質の中に、すべての見える物が内蔵されているのです。その内蔵された見えないものの一部を取り出した時、姿形を現し見える物になるのです。ですから見えるようになった物はすべて幻で、内蔵された見えないものこそ本物なのです。これが、見えないものこそ絶対実在であるといわれる理由です。
すべてを包含しているものは見えないのです。それは完成されたものだからです。一部分のものは見えるのです。それは未完成のものだからです。私達は、今、見える世界におりますが、それは取りも直さず不完全な世界にいることを意味します。でも落胆することはありません。なぜなら、不完全な世界にいればこそ、完全を知ることができるからです。
私達は完全を知るために、不完全な世界に出てきたのです。
-67-
宇宙の構造は、すべて三位一体になっております。
たとえば、
でも実在しているのは空気であり、霊界であり、絶対原子です。絶対原子という聞き慣れない言葉が出てきましたが、絶対原子は生命そのものであり、創造主そのものであり、宇宙の主そのものです。いわゆる姿形のないものです。ですからそのままでは、何の意味もなしません。そこで絶対原子は姿形を取ることにしたわけですが、絶対原子は生命意識(エネルギー)ですから、そのままでは物の形を取ることはできません。そこで絶対原子は、反原子を吐き出し、さらに原子を吐き出し、それを組み立て物の形を取ったわけです。ですから原子と反原子と絶対原子は、通常時空において三位(身)一体の構造をなして存在しているのです。それは丁度、原子の中に物質と反物質と生命意識(エネルギー)が同居している状態と考えたら良いでしょう。さらにいうなら、原子は「濃厚な影」、反原子は「薄い影」、絶対原子は「光」と考えればなを解りやすいかも知れません。
-68-
表現宇宙のすべてを知るには、無限の時が必要でしょう。いや無限の時をかけても、恐らく知ることはできないでしょう。なぜなら、表現世界において元数1は、無限の分数に分割されているからです。無限の分数を一つ一つ知ることなど、とてもできるものではありません。ましてや、無限の分数の組み合わせによって造られたすべての表現物を知ることなど、とてもできるものではありません。たしかに、多くの分数を知れば活用範囲が広がり、私達の生活に役立てることができるかも知れません。でも、危険性も伴ってくるのです。その典型的例が核爆弾です。だからこの宇宙では、知る権利に一定の歯止めがかけられているのです。
私達に必要なのは、知識や物ではありません。究極の幸せです。知識や物は幸せを得る一つの方便ではありますが、目的では無いのです。真に求めるべきは、本当の自分を知ることです。本当の自分を知れば本源を知るので、余計なことを知る必要も、余分な物を得る必要もなくなるからです。
本当の自分とは元数1のことです。そこには、宇宙のすべての知恵が埋蔵されております。だから元数1を知れば、宇宙一の知恵者になれるのです。さあ、本当の自分を知って下さい。そして、そこから知恵を頂いて下さい。この知恵を称して、打ち出の小槌というのです。
-69-
エネルギーは、高いところから低いところへ流れようと常に身構えています。山を削り、谷を埋め、平坦にする働きです。これがエネルギー均衡の法則の特徴です。欲念によってお金を集めても、いつまでも手元に置いておけないのは、エネルギー均衡の法則が働いているためです。エネルギー均衡の法則は「金持ち三代続かず」の裏付けになっているのです。
宝くじに当たった人を幸せ者と考えるのは、愚かな考えです。なぜなら、エネルギーの先取りをしているからです。先取りしたエネルギーは、必ず返さねばならないのが宇宙の鉄則です。その返済内容は人様々ですが、大抵の場合 当人もしくは家族の不幸によって清算させられます。(前世あるいは今生で、どれだけ世のため人のためにエネルギーを使っていたかで、清算内容は違ってくる)
"宝くじが当たって私は幸せです!"という人は、人生の続きを見ていないからです。
もうお分かりですね・・・。
徳を積むことがなぜ幸せにつながるかといいますと、エネルギーを天に積んでいるからです。つまり、エネルギーを先に放出しているからです。宝くじやギャンブルで得たお金はエネルギーの先取りですが、徳を積む行為はエネルギーの先払いですから、後々埋め合わせが起きるのは当然なのです。
エネルギー均衡の法則は、絶対ごまかしが利きません。だから楽して儲けようなど、よこしまな考えは持たないことです。エネルギーは出した分、入ってくるようになっているのですから、まずは先に出すことです。息も出すから吸えるのであって、吸う一方では窒息死してしまいます。その意味では、人に何かを恵む場合も、エネルギー均衡の法則に照らして適正に行うべきでしょう。
-70-
宇宙には誰彼の生命も、誰彼の魂も、誰彼のエネルギーも、ありません。たった一つの、無所得で無差別の「生命・魂・エネルギー」があるだけです。ただ私達は、形を自分と思い違いすることで、無差別の魂を個別の魂にしてしまっただけです。意識を小さくすれば小さな魂となり、大きくすれば大きな魂となるのは、意識の大きさに魂が添ってくれるからです。だから魂を大きくしたければ、意識を大きくすることです。意識の大きさが魂の大きさなのです。
意識を小さく分けた魂を分霊・分魂と呼んでいますが、霊も魂も分けられるものでは無く、共有されているものなのです。共有されているという言い方は、自我の魂が沢山あるとしたところから生まれた言葉で、本来、自我は無いわけですから、分霊・分魂という言葉さえ無いのです。意識を宇宙大にしている者にとっては、あくまでも寛大な魂が一つあるだけです。個別の魂があるように見えるのは、寛大な魂から放たれた一光線の末端を見ているからで、一光線を辿ってゆけば光源につながっているわけですから、本来、同じ一つの魂なのです。ただ意識を光線の末端に持って行くか、光源に持って行くかで、大きな魂となるか小さな魂となるかだけの話しです。
小核は大核そのものです。小生命は大生命そのものです。分霊は大霊そのものです。ただ意識を外に向けるか内に向けるか、縮めるか拡大するかで、分霊となるか大霊となるか決まるだけです。あくまでも意識の持ち方一つです。
私達の意識は、個の意識であると同時に全体意識であり、全体意識であると同時に個の意識なのです。その理由は、意識は宇宙に一つしか無いからです。意識次第で宇宙の中心点に立てるのも、宇宙に一つの意識しか無いからです。
一個の小核は大核と縦でつながり、また小核は小核同志で横につながっているのです。宇宙は無限の球体となっていますので、すべての核は大核とつながりながら中心点に立てるのです。
人間は宇宙そのものです。ただ意識を小さく使うか大きく使うかで、小さな人間となるか大きな宇宙となるか決まるだけです。
-71-
世の中には、株価や為替レートを知ろうと躍起になっている人は沢山いるけれど、真理を知ろうと躍起になっている人は殆どおりません。偽物を知ろうと躍起になっている人は沢山いるけれど、本物を知ろうと躍起になっている人は皆無なのです。消えるものに夢中になり、永遠のものを疎かにする、こんなおかしな話がありましょうか?。しかも、それをおかしいとは誰も思っていないのです。
真理を知ろうと思わない人は、自分を知ろうと思わない人です。本物を知ろうと思わない人は、自分を知ろうと思わない人です。
あなたがニヤニヤ手にしている物や金は、すぐに消えてしまう幻なのですよ!。あなたがほくそ笑んで手にしている財産は、すぐに消えてしまう幻なのですよ!。あなたが鼻高々に自慢している地位や名誉は、すぐに消えてしまう幻なのですよ!。でも誰も見向きもしない真理は、永遠に無くならない本物なのです。すぐに消える幻が大切か、永遠に消えない真理が大切か、良く考えて欲しいものです。
-72-
私達は自分のことを知っているつもりでおりますが、本当に知っているのでしょうか?。
● あなたは、どれほど自分のことを知っておりますか?。
● あなたは、どれほど人間のことを知っておりますか?。
私達は自分のことを何でも知っているつもりですが、知っているのは幻の部分で、真実の部分は何一つ知っていないのです。
● あなたのボディーは、実際にあるものですか?。
● あなたが今日まで体験した諸々の出来事は、本当にあったことですか?。
いいえ、・・・みな夢幻です。
自分のボディーを含め、この世の様々な物、様々な人、様々な出来事、これすべて時と共に消え去る幻です。消え去る物に、一つとして真実なるものは無いのです。私達は幻を見て、本当にあると錯覚しているのです。そんな幻を知ったって、得たって、一体、何になるというのでしょうか?。私達が知るべきこと、得るべきものは、絶対無くならない真実です。
真実なるもの、それは見えません。聞こえません。味わえません。臭いません。触れません。真実なるものは、五感を超越しているからです。つまり本当の自分は、五感を超越した自分の心の中にあるのです。ですから感覚で知ることはできません。でも意識で知ることはできます。
見えない意識の自分こそ、本当に知らねばならない自分です。ぜひ、本当の自分を知りましょう。
-73-
宇宙には白と黒とが存在します。白いものの代表は白光で、すべての命の源になっています。黒いものの代表は物質で、元素がその源となっています。命の源も、物質の源も、出所は同じ白光です。ですから命を遡っても、物質を遡っても、白光に辿り着くわけです。ためしに、真っ白いものをジッと見詰めてみて下さい。そこに何かうごめくものを感じるでしょう。また真っ黒なものをジッと見詰めてみて下さい。どんな色もイメージしやすいはずです。単色の中に七色をイメージするより、白や黒の中にイメージする方がイメージしやすいのは、白と黒の中にすべての色が包含されているからです。白と黒は同じものなのです。ただ物質の世界では黒となり、生命の世界では白となるだけです。
白こそ絶対実在です。他の色は、みな非実在です。
-74-
白光は、無数の色光の集合されたものです。その色光は、波長の違いによって特異な性質を持っており、この表現宇宙では、その性質を利用した創造が行われているのです。すなわち、白光を色光とし、さらに元素とし、性質を際立たせ、その性質を利用することで物の創造が可能になっているのです。
味や臭いも同じです。本来、宇宙には、集合された味と臭いがあるだけです。つまり、無味・無臭があるだけです。無味・無臭とは、「無い!」という意味ではありません。すべての味と臭いが包含されているという意味です。その包含された一部を取り出した時、特異な味と特異な臭いが生まれるのです。
色や、音や、味や、臭いや、感触を分離させれば表現上個性が生まれ、集めれば表現上個性が無くなるのです。ですから一なるもの、集合されたものには何の性質も無いのです。そこにあるのは、全体性のみです。完全性のみです。それを大調和というのです。
一なるものを多に分ける作業は、物の創造の始まりです。多なるものを一つに統合する作業は、物の終焉の始まりです。
「初めに光ありき、その光によってすべては成れり!」
「終いに闇ありき、その闇によってすべては終われり!」
この相反する働きが循環の法則によって一つとなり、宇宙は永遠と完全を得ているのです。
-75-
無限大に膨張した宇宙は、やがて無限小に帰ります。膨張したものは必ず収縮するのです。その収縮も膨張と連動しております。収縮すれば一点に収まると考えますが、無限の縮小は無限の膨張と連動しているのです。もし収縮に終わりがあるなら、宇宙は無限でなくなってしまいます。一点に収まることは、循環の停止を意味するからです。無限に縮小したその先には、無限の膨張が待っているのです。無限に膨張したその先には、無限の縮小が待っているのです。いや無限の縮小は、無限の膨張そのものなのです。無限の膨張は、無限の縮小そのものなのです。意識に大きい小さいは無いのですから、当然といえば当然の話です。だから宇宙に、小さい大きいは無いのです。
-76-
大きなものに終わりがあるなら、宇宙は無限でなくなります。また小さなものに終わりがあっても、宇宙は無限でなくなります。宇宙が無限であるためには、極小は極大でなくてはならないし、極大は極小でなくてはならないのです。無限大の極小、無限小の極大という意味です。ようするに一つに帰るのです。これが循環の法則の一つの特徴です。ですから、宇宙に「停止」「終わり」「死」はありません。「永遠」と「無限」と「完全」があるのみなのです。一本の線を辿ってゆくと元の線に戻ってくるのは、宇宙が永遠であり無限だからです。
人は不老不死に憧れますが、もし不老不死が可能なら、それは苦しみの何ものでもないでしょう。なぜなら、永遠の生は永遠の死を意味するからです。あなたは、同じ家族と「永遠」に顔を突き合わせて暮すことができますか?。あなたは何の変化もない環境で「永遠」に過ごすことができますか?。永遠にですよ!・・・。
どんな美人も、毎日、見ていたら飽きがくるものです。どんな綺麗な水も、動かなければ腐ってしまうものです。変化があるから、日々新鮮に生きられるのです。宇宙に永遠が約束されるのは、変化があるからです。つまり、循環しているからです。循環は死の世界にはありません。循環こそ永遠の生を約束する原動力となっているのです。
-77-
私には、外なる「私」と内なる《私》があります。本来、私は一つしかないのですが、ボディーの私を私と思う人には、二つの私があるのです。そのボディーなる「私」が本当の《私》を知った時、私は一つの私になるのです。
すなわち、
外なる「私」が内なる《私》を知った時、外なる「私」は内なる《私》となるわけです。
本当の私は特定することができません。限定することもできません。姿や形が無いからです。本当の私は大宇宙に遍満・偏在し、宇宙を構成している本質そのものですから、本当の私を見ることは誰にもできないのです。もし見られるとすれば、私の化身が見られるだけでしょう。
それは、
○ 原子として、・・・
○ 鉱物・植物・動物・人間として、・・・
○ マクロ宇宙として、・・・
更に、無限の知恵として、無限の力として、無限の光として、無限の愛として・・・。その私は、永遠不滅の存在です。完全無欠の存在です。絶対善なる存在です。私は大バランス、すなわち大調和そのものです。私は言葉や文字を超越した存在です。
その私に名前を付けるとすれば、「生命」という名が相応しいでしょう。なぜなら、生命は意識そのものであり、意識は生命そのものだからです。「私」が《私》と思えるのは、意識あるがゆえですから、意識を持つ私を生命と呼ぶに何の問題があるでしょう。
-78-
誰もがこのボディーを自分だと思って生きています。本ものの自分(生命)と偽物の自分(ボディー)が、あまりにも一体化しているため、どうしても錯覚してしまうのです。
私は今日まで、このボディーを自分だと思って生きてきました。しかし瞑想を続けるうちに、どうもこのボディーが自分では無く、ボディーを動かしている何かが本当の自分でないかと思えるようになりました。その自覚が強くなるに従い、形の私の影が薄くなり、見えない本当の私が前に出て、以前の私と全く違った言動を取るようになったのです。どうやら、本当の私が主導権を握ったようです。
ボディーを自分だと思っている限り、どうしてもボディーが主導権を握りがちです。何をするにも、ボディーの安全第一を考えてしまうのです。だから本当に善かれと思うことも、やれずに終わってしまうことが多いのです。
では主導権を握った見えない私とは、一体、何者なのでしょうか?。それは、今、私と思っている意識です。意識こそ、本当の私なのです。その私に名前を付けるとすれば、「生命」という名が妥当でしょう。あなたは、今、意識を持っていますね。その意識を持っていること自体が、生命である証しなのです。
-79-
宇宙の実相は、
すなわち、神のみです。
しかし、一のみでは宇宙は成り立ちません。なぜなら、光一辺倒では物語は生まれないからです。影があってこその光です。どうでしょう。一人で芝居ができますか?。絡み合う相手があって、芝居ができるのではありませんか?。
真っ白な雪の中で、白ウサギがどんなに素敵なパフォーマンスをしても、見えなくては自己満足にしか過ぎないのです。神がどんなに素晴らしい理念を持っていても、表現しなくては無きに等しいのです。理念を具体化するには、手足となって働いてくれる何かが必要であり、それが鉱物であり、植物であり、動物であり、人間なのです。その手足を使ってキャンバスに絵を描く、そこに感動的なドラマも生まれてくるのです。
だから、
要するに、二つのもの(相対と絶対)が必要なのです。
この宇宙は両輪揃って完成されるのです。
-80-
私達の住んでいるこの世界は相対世界といわれ、すべてが相対的に創られています。なぜこのような世界が用意されたかといいますと、一つでは事の善し悪しが分らないからです。
たとえば長いか短いかは、二つのものを並べてみなくては分かりません。速いか遅いかは、二つのものを走らせてみなくては分かりません。善も 悪も 完全も 不完全も、比べてみなくては分りません。愛を育むにも、一つでは育めないのです。
私達は今、相対の世界にいますが、それは相対を知って絶対の偉大さ、有り難さ、尊さ、素晴しさを知るためです。
すなわち、
この地球は、それを知るために用意された学びの道場なのです。
-81-
絶対宇宙は理念(心・意識)の中にありますので、姿形が無いのは当然です。いわゆる、頭の中にある想いにしか過ぎないのが絶対宇宙です。ですからそのままでは、闇の中にある絵のようなもので、何一つ感動を生み出すことはできません。表現されないものは、有っても無きに等しいのです。だから絶対宇宙は、自分の思いを具現する場として相対宇宙を創られたのです。頭の中にある見えない絵を見える絵にするには、どうしてもキャンバスが必要だからです。
絶対宇宙は原因の世界で、そこには必ず理念の主である創造主・神がおられます。
○ 神を否定する人は、絵を肯定し画家を否定する愚かな人です。
○ 神を否定する人は、建物を肯定し建築主や設計者や大工を否定する愚かな人です。
○ 神を否定する人は、子供を肯定し親を否定する愚かな人です。
あなたに親がいるように、何かが存在するからには、何かを生み出した親が必ず存在するのです。
絵が絵を生むことが無いように、人間が人間を生むこともありません。絵は画家が生むのです。人間は理念の主が生むのです。画家が絵の生みの親であるように、理念の主が表現宇宙の生みの親なのです。その理念の主を私達は、神と呼んだり、仏と呼んだり、生命と呼んだり、しているのです。神という言葉が嫌いなら、創造主と呼んでも、宇宙意識と呼んでも、表現者と呼んでも良いのです。呼び名は何であれ、創られた物の背後には、必ず創り主が存在しているのです。
● 創られた物は結果で、相対宇宙です。
● 創り主は原因で、絶対宇宙です。
宇宙はこの二つが一つとなってはじめて存続でき、存在意義が出てくるのです。
-82-