愛はバランスです。そこに入れば、どんな不自由も、どんな汚れも、どんな不完全も、解消されます。愛は毒消しの役割を果たしているのです。
宇宙は愛の海ですから、本来そこには自由なるもの、美しいもの、完全なるものしか無いのです。なのに私達はどうして、不自由で、不浄で、不完全なのでしょうか?。いいえ、そう見えているだけです。私達はもともと自由なのです。美しいのです。完全なのです。
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一般的にいわれている愛は、夫婦仲良くとか、兄弟仲良くとか、隣人と仲良くとか、小さな愛を指していっているようです。勿論、それも愛には違いありませんが、本当の愛は、陰と陽のバランスを取る愛のことなのです。なぜなら、この宇宙に存在するすべてのものは、陰と陽のバランスから生まれた愛の結晶だからです。
原子が陰と陽のバランスのとれた結晶である理由は、一個の原子の中に物質の要素とエネルギーの要素がバランスよく配合されているからです。その原子によって造られたのが人間ですから、人間は愛の結晶と言っていいでしょう。しかし、愛の結晶であるためには、その証を立てなくてはなりません。つまり、正しい愛の表現をしなくてはならないのです。
世間には、義理人情に厚い人や家族に対して特別に情愛の深い人がおりますが、これでは正しい愛の表現とはいえません。なぜなら、それは偏狭な愛だからです。ではなぜ、そのような偏狭な愛にしか生きられないのでしょうか。それは、形に囚われ生命を無視しているからです。形をすべてと考えている人は、どうしても偏狭な愛の表現しかできないのです。もし生命を愛することができたら、生命すべてですから、すべての物を等しく愛せるようになるはずなのです。
「物質と生命を限りなく一つに近づけなさい!」という意味は、「物質と生命の隔たりを無くし、どんな人も、どんな生き物も、自分の如く愛せるようになりなさい!」という意味です。でも、一挙にそのような愛を育むことは苦しみとなりますから、まずは家族愛を通して学ぶわけです。
親子の関係も、兄弟姉妹の関係も、生まれる前にすでに契約済みです。
と、誓い合って出てきた仲間同士です。親も、子も、兄弟姉妹も、学びの友以外の何者でもありません。親だから、兄弟だから、姉妹だから、といった上下関係は一切無いのです。なのに多くの親は、子供を自分の持ち物のように扱おうとします。親は子を従属物にしてはならないし、子も親の従属物になってはいけないのです。あくまでも親子は対等の関係にあるべきです。本当に子供を愛するなら、あまり付き纏わないことです。自由にさせてやることです。子供が困っているからといって、すぐに助け船を出さないことです。子も親の顔色をうかがうのでは無く、やりたいことを伸び伸びやることです。また親が苦しんでいるからといって、自分まで一緒になって苦しまないことです。情を絡ませ自分まで苦しんでは、家庭全体が暗くなってしまいます。苦しみは人を成長させるのですから、今、学びの真っ最中なのだと思って、側で温かく見守ってやったらいいのです。どうにもならなくなったら、その時は手を差し伸べてやったらいいのです。まだ本人が解決できるのに、情に流され助け船を出せば、大切な学びの材料を奪いかねないからです。だから私は、淡白になりなさいというのです。薄情になりなさいといっているのではありません。甘やかせてはなりませんよといっているのです。
本当の愛には厳しさが必要です。情を絡ませた生温い愛では、人を成長させることはできません。情を絡ませず淡白でありながら、温かい愛を注いであげる、これが本当の愛を育てる秘訣だと思います。
兄弟姉妹の関係も同じです。兄弟姉妹 仲良くすることは良いことですが、情に流されお互い学びの材料を摘み取っていないでしょうか?。兄や姉が弟や妹をかばう、それを世間は美しい兄弟愛や姉妹愛だといいますが、本当にそうなのか良く考えて見ることです。案外と甘やかしになっている場合が多いのです。兄弟姉妹が互いに切磋琢磨し、厳しい愛を体験し合うことが真の愛だと思います。真の愛を育むには、生温い愛であってはならないということです。私達は家族を通して小さな愛を学び、それを隣人愛へ、国家愛へ、人類愛へ、宇宙愛へと拡大してゆかねばなりません。私達はそのために今、奮闘しているのです。
繰り返します。
真の愛は、人を成長させる愛でなくてはなりません。すなわち、魂を育てる愛こそが真の愛なのです。この事を強調しておきたいと思います。
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この宇宙は愛に満ち溢れています。その愛に満たされている限り、創造性においては自由です。だからある日突然、今まで無かったバイ菌や病気が発生するのです。ガンや、エイズや、O-157や、鳥インフレエンザや、狂牛病などがそうです。醜い虫も、厭なバイ菌も、みなそうです。人間はこれを悪と毛嫌いしますが、すべて愛の動機に基づいて生まれた愛の創造物です。愛ゆえに、自分を犠牲にしてまで警告してくれているのです。それが人間には理解できない、だから憎み、恨み、バイ菌を殺そうとする、でも殺せば殺すほど抵抗力は増す。これも愛ゆえの抵抗です。人間が過ちに気付いたら、そんなものは黙っていても消えてゆくのです。
このように病気の殆どが、人間の過ちに対する警告です。特に、エイズという病気はそうです。もしエイズという病気が無かったら、性の暴走によって人類は滅びていたかも知れません。
蚊もハエもゴキブリも、愛の使者です。「不衛生ですよ!、手入れを怠っていますよ!、環境を良くしなさい!」、と警告してくれている健気な働きものです。もしこれらの虫がいなかったら、今のような清潔な環境は保たれていなかったでしょう。人間は嫌なものを見せられたり、痛い目に遭わなければ気付かないのです。次のようなことも同じです。
良く人に騙されたといって怒る人がおりますが、それは自分の心を見せられている姿なのです。自分の心の中に人を騙したいという思いがあるから、そのような事件を呼んだのです。自分の意識の中に無いものは、絶対、現れません。あくまでも波動の同調によって生まれた愛の現象です。なぜ愛の現象かといえば、不幸はバランスを取り戻す愛のエネルギーから生まれたものだからです。だからそのような目に遭った人は、" まだ自分の中にそのような思いがあったのだなあ! "、と気付いて反省することです。
この宇宙に存在するもので、愛の動機に裏打ちされていないものなど何一つ存在しません。必要だから生まれてくるし、必要だから存在させられているし、必要だから働かされているし、必要だから消えてゆくのです。その意味では、今人類が様々な苦しみに喘いでいるのは、愛ゆえの現象だと思ったらいいでしょう。要するに、一生懸命バランスを取り戻そうとしている健気な愛の姿なのです。
人間は馬鹿ではありません。やがて気付きます。小さな愛を育むことに躍起になり、大きな愛を育もうとしなかったことに・・・。その時、地球に愛の鐘が鳴り響くのです。
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" 人類愛・宇宙愛を育みなさい!" というと、" そのような大きな愛など育めませんよ!" という人がおりますが、私は何も、愛を育みに宇宙に出て行きなさい!、といっているわけではありません。一番身近な、自分を、家族を、隣人を、自然を、地球を、愛しなさいといっているのです。なぜなら、私も、あなたも、家族も、隣人も、自然も、地球も、宇宙の一部であり全体だからです。
どんなものも宇宙の一部であり、宇宙生命そのものですから、何を愛しても愛を育んでいることになるのです。宇宙愛を育むとはこのように、すべてのものを自分のごとく愛することなのです。ただし、すべてのものを自分のごとく愛せるようになるためには、すべてが生命だと認めなくてはなりません。だから、認める瞑想が必要になるのです。
瞑想し生命を意識している時は、真に愛を育んでいる時です。すなわち、生命に一心集中している時は、愛を紡ぎ育んでいる真っ最中なのです。形は実在していませんから、形を愛している時は愛の育みにはなりませんが、形の中に宿っている生命を意識している時は実在しているものを愛しているわけですから、真に愛を育んでいることになるのです。
愛を育むコツは、すべての物の中に生命を観ずることです。
さあ、
その時あなたは、宇宙を愛していることになるのです。
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子供を愛している親は、常に子供のことを意識しています。反対に子供を愛していない親は、子供のことを忘れています。自分を愛するのも同じです。
自分を愛している人は、常に本当の自分を意識しています。自分を愛していない人は、本当の自分を忘れています。本当の自分は生命ですから、常に生命を意識している人は、自分を愛している人なのです。またこうもいえます。
世間には、孤独に耐えかねている人達が結構おりますが、その人達は自分と他の物を分けて考えているから寂しいのです。身の回りにペットや植物を置きたくなる心理状態は、物と自分との隔たりを少しでも無くしたい思いから生まれているのです。つまり、好みの物を身近に置くことで、物との隔たりを少しでも埋めたいと思っているのです。
私達はみな一つなのです。どんな物も、どんな人も、みな自分です。一つのものを、二つにも、三つにも分けるから、一つに合わさっていなければ孤独を感じてしまうのです。一つしか無いと思えば、常に一緒にいるわけですから、孤独を感じるわけは無いのです。
どうでしょう?。自分と他の物を分けている人が、どうして自分を愛しているといえますか?。自分と他の物を分けている人は、自分を手放しているわけですから、自分を愛しているわけがないのです。
自分を愛するなら、常に本当の自分(生命の自分)を意識して下さい。自分を愛するなら、すべてのものを自分と思い、自分のごとく愛して下さい。本当に自分を愛しているなら、できるはずです。
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貰おうとばかりしていて愛を与え無い人に、愛が与えられるわけがありません。愛は出した分、与えられるようになっているのですから、まずは自分の方から愛を与えるべきです。会社でも商店でも、物を出すからお金が入ってくるのです。息も出すから入ってくるのです。太陽も光を放射し続けているから、いつまでも輝いていられるのです。受動と能動は同時に働いているのです。吸引と放射は同時に働いているのです。この宇宙に一方通行は無いのです。自分の働きによって相手が動き、相手の働きによって自分が動くのです。
愛の法則に支配されている宇宙においては、どこかに愛の欠如が生じれば、必ず豊かな処から愛が流れて行くようになっています。だから愛が欲しかったら、まず自分の方から愛を与え、凹を作ることです。そうすれば、凸から凹へ愛は必ず流れて行くでしょう。これが安定を願う宇宙の「愛の法則」の働きです。
「与えよ、さらば与えられん!」は、愛の法則そのものなのです。
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この表現宇宙は、神の愛によって創造された愛の館です。その館は完全と絶対善に支えられていますから、本来そこに不幸は無いはずなのです。でもどうしたことか、私達の周りには沢山の不幸があります。なぜでしょうか?。それは、神の愛を信じられないからです。
自然界を見てください。小鳥は嬉々としてさえずり、子猫はじゃれあい、子犬は所はばからず走り回っています。なぜ彼らは、そのように無邪気でいられるのでしょうか?。それは、神の愛を心から信じているからではないでしょうか?。
そうです。彼らは、なるがままに!、あるがままに!、生きております。何が起きようと、良い方向へ運んでくれる神の愛を疑わないのです。人間はどうでしょうか?。万人が万人、躍起になって保身に走っております。神の愛を信じられないから、そのような生き方をするのです。
私の幼いころを振り返れば、毎日が楽しくて仕方がありませんでした。そのころの私には、なんの悩みも無かったのです。それは私の心の中に、なんの不信も、なんの疑心も、無かったからです。それは、何を見ても良いものしか見えなかったのです。しかし成長するにつれ、今まで見えなかった悪が見えるようになりました。そこに不信が生まれ疑惑が生まれ、それが恐怖へ心配へと発展し、私の心の中に苦悩が生まれたのです。いつまでも幼子のような心を持っていたら、このような苦悩は生まれなかったのでしょうが、周りの環境がそれを許さなかったのです。でも、もし神の愛を信じられたら、このような苦悩は生まれなかったかも知れません。
私達を不幸(病・災厄)にしているのは、神の愛に対する不信です。
神の愛を疑れば、心配や恐怖が膨れるため、平安な心が保たれるわけがないのです。
さあ、もう一度、神の愛を信じ直しましょう。神は決して悪いようにはしないのですから・・・。どんな出来事も、みな良い方向へ運ばれているのですから・・・。そう信じられたら、もう恐怖心は生まれません。どうか神の愛を信じ、今、自分がやれることを精いっぱいやって、光の訪れる日を待って下さい。
愛の人とは、神を心から信じられる人のことです。すべてを神に委ねられる人のことです。そうなれば、
人の幸せは、神の愛をどれだけ信じられるかで決まるのです。
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