「吾は光なり!」と思ったら、ただでは済みません。それなりの変化が起きます。なぜなら、想念はものを具現する力を持っているからです。どのような変化がもたらされるかは、思った人の理解力と念の強さによります。これは良きにつけ、悪きにつけです。それほど私達の想念は、偉大な力を秘めているのです。
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心とは何でしょうか?。心とは思いの根源です。思うには力が要りますから、心はエネルギーでもあるわけです。だから思力とも、念力ともいうのです。
私達は人の数だけ心があると思っていますが、心は宇宙に一つしかないのです。「宇宙心」、それがこの宇宙に唯一存在する心です。その心は一つでありながら、無限の表現ができるのです。でも一つしかない心が、どうして無限の表現ができるのでしょうか?。こういうことをイメージしてみて下さい。
ここに一つの酒樽があるとします。その酒樽に蛇口が一つしかない場合は、一つの蛇口からしか酒を注ぐことができません。でも蛇口が沢山ある場合は、蛇口の数だけ酒を注ぐことができます。この沢山の蛇口に当たるのが、人間の心なのです。一つの蛇口しか無い場合には、一つの表現(味)しかできませんが、沢山の蛇口があれば沢山の表現(味)ができるのです。つまり、蛇口の数だけ個性を持った表現(個性を持った味)ができるわけです。蛇口に個性が生まれるのは、それぞれの蛇口に五感が備わっているためです。このように一つしかない宇宙心は、人間(蛇口)の心を通すことによって、沢山の心の表現ができるわけです。
このような例え方もあります。
大海には無数の波頭(人間)が浮き沈みしております。その波頭の一つが自分だと思えば、一つの波頭としての心を作るため、波頭の数だけ心が有るように見えるのです。しかし大海だと思えば、大海としての心しか作らないため、一つの心しか生まれないのです。本当は大海なのに、一つひとつの波頭が自分だと思うことによって、どうしても個別の心を作ってしまうのです。
波頭が大海に沈めば一つになります。私達も宇宙心に沈めば一つになるのです。波頭と大海の境目が無いように、宇宙心と個人の心にも境目は無いのです。境目がないということは、宇宙心と個人の心は同一のものであるということです。波頭と大海は同じですから、当然といえば当然の話です。ただ、どれほど本当の自分(宇宙心)を自覚しているかによって、宇宙心に近い表現ができるかできないか決まってくるだけです。つまり、個人と思えば個人としての心の表現をするし、宇宙と思えば宇宙としての心の表現をするというわけです。
同様に一つひとつの蛇口(人間)が、同じ酒樽(宇宙心)の蛇口だと思えば同じ味の酒を出すけれど、別々な酒樽の蛇口(人間)だと思えば違った味の酒を出すのです。今人間が衝突し合っているのは、一人ひとりが違う酒樽の蛇口だと思っているからです。
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心の特性の一つは、心は自由であるという点です。もう一つは、心は時空を超越しているという点です。ですから、心を大きく広く使うこともできれば、小さく狭く使うこともできれば、一瞬のうちに宇宙の果てに飛ばすこともできれば、小さなボディーの中に留めることもできるのです。
ある川に荷車がやっと一台通れるほどの狭い橋が架かっていました。その橋の上をAさんが荷車を引いて渡っておりました。途中まで来たところで、向こうから一台の荷車がやってくるのに気づきます。相手も気づき立ち止まります。どちらかが譲らねば渡れません。でも同じ距離だけ来ているので、どちらも譲りたくありません。しばらく無言のにらみあいが続きます。やがてAさんが苛立つようにいいました。「私はこの荷を時間まで届けねばならないのだ!。すまないが私を先に通してくれないか?。」しかし相手も、「いや、私もこの荷を時間まで届けなければならないのだ、私を先に通してほしい!。」といい返します。金銭が絡んでいるだけにどちらも譲れません。
これを解決するには、大きな心が必要です。もし、心を小さく使ったらどうなるでしょう?。多分、喧嘩になってしまうでしょう。この世の争いの大半は、心を小さく使うことによって起きているのです。あなた私があれば、立場の違いや利害の違いが生まれますから、譲る心は生まれないでしょう。でも、あなたは私であり 私はあなたであると思えれば、あなたの得は私の得に 私の得はあなたの得になるわけですから、どちらが得しても良いと思えるはずです。このように心を大きく使えば、どんな障害も克服できるのです。
もう一つ、心は思い癖が付きやすいという、非常に厄介な特性を持っています。たとえば心配性の人は、心配性の癖が心にシミついてなかなか消えないのです。これを業といっておりますが、一旦付けた心の癖を取るには大変な苦労がいるのです。なぜ思い癖ができるかといいますと、思いにも慣性の法則が働くからです。私達が今、人間と思っているのも、その慣性の法則のせいです。一種の催眠術に陥っているのです。この癖は死後の世界まで持ち越され、さらに次生にまで持ち越されるという悪循環を生み出すのです。良く仏教で成仏とか不成仏とかいいますが、人間と思い込んだままこの世を去ると、不成仏となってこの世とあの世を輪廻せねばならないのです。だから生きている時に、心の癖を取っておく必要があるわけです。このように思い癖は、私達の人生に大変な影響を与えているのです。
心の最大の特性は、何でも生み出す力を持っているという点です。心はエネルギーの増幅器であり、物を具現する製造機でもあるのです。
ある人が、こんなことをいっていました。
"どんな高級料理よりも、母が握ってくれたオニギリの方がおいしい!"と、・・・。私も同感です。では、なぜおいしいのでしょうか?。それは、母の心がこもっているからです。コンビニのオニギリがあまりおいしくないのは、握っているのは心の無い機械だからです。たとえ人が握っていたとしても、商売心(儲け心)で握っていたとしたら、おいしいわけがありません。
心は使い方いかんによって(受け取り方によって)、与える影響がまるで違ってくるのです。つまり、良く使えば 良い影響を与え、悪く使えば 悪い影響を与えるのです。それも強く使えば 強く・・・、弱く使えば 弱く・・・、心はもろ刃の剣のようなものなのです。私達には、最良の武器と最悪の武器を持たされているというわけです。だから、よほど注意して使わねばならないのです。
利口な人は心の特性を上手に利用します。
たとえば、朝、家を出たとたん石に躓いて転んだとします。その時、誰もが、" 朝から縁起が悪い! "と腹を立てるでしょう。" でも待てよ?、転んだおかげで車に跳ねられずに済んだのかも知れない! "とポジティブに受け取れば、腹を立てずに済むのです。事実、石に躓かなかったら、そうなっていたかも知れないのです。
最近、いじめが社会問題になっていますが、いじめは子供社会にだけあるのではなく、社会のいたるところにあるのです。それを気にしていたのでは、この社会で生きてゆくことはできません。恐れたり逃げたりするのではなく、いじめを逆手に取って自分の成長につなげることが大切なのです。いじめられることによって自分が強くなれると思えば、相手を許せるし感謝もできるはずです。たとえ耐え切れないいじめを受けた場合でも、" いじめられるには、いじめられるだけの原因があるはずである。今生、身に覚えがなくても、過去世で原因を作っていたのかも知れない。今、自分をいじめている相手は、過去の自分の姿なのかもしれない、ならば相手を恨むのではなく、気付かせてくれたことに感謝しよう!" とポジティブに受け取り、心からその人に詫びれば、自分を納得させることができるのです。詫びるといっても、わざわざその人の所に行く必要はありません。心の中で詫びれば良いのです。そうすれば、いじめはピタリと止まるでしょう。ただし、あまり期待してはなりません。期待は強要することになり、欲につながるからです。あくまでも心から詫びること、感謝することを目的として下さい。
いじめられ自殺する人がおりますが、自殺しても苦しみから逃れられるものではありません。逃げるのではなく、いじめられる原因を見つけ出し、その原因を勇気をもって断ち切ることが肝心なのです。
私達は今、心の使い方次第で凶にも吉にもなることを、試練を通して勉強させられているのです。
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世の中には、思いたい放題のことをしている人達が結構おりますが、心の特性を考えるとこれほど恐ろしいことはありません。私達は何でも思える特権を持たされていると同時に、責任も持たされているのです。その責任は苦しみとして、悲しみとして、痛みとして、自分が背負わねばならないのです。自由な思いには責任が伴うということです。
私達の心と宇宙の心は一つであるといいましたが、その心を汚したら誰を汚したことになるのでしょうか?。自分を汚すと同時に、他人を汚し宇宙を汚したことになるのです。反対に自分の心を清めたら、他人を清め宇宙を清めたことになるのです。
先日ある人から、こんな質問を受けました。
「私は今日まで、世のため人のために何もしてきませんでした。これからでも何かしたいと思うのですが、私に何ができるでしょうか?。」
私はこう答えました。
「世のため人のためになりたいなら、何も思わないことです。」
彼は不思議な顔をして、
「何も思わないことが、どうして世のため人のためになるのですか?。」
と問い返してきました。
「あなたは普段、良い想いと悪い想いのどちらを多く使っていますか?。」
と質問すると、彼はすぐに理解できたようで、笑いながらこういいました。
「悪い想いの方が多いようです。分かりました。では、できるだけ何も思わないようにします。」
私は彼の誠実さを感じたので、
「何も思わないのは苦しいでしょうから、うれしいとか!、楽しいとか!、ありがとうとか!、良い想いを持ったらどうでしょう。さらに、私は愛である!、宇宙である!、生命である!、と思えたら最高です。決してネガティブな想いを持たないことです。」
と助言しました。
私達は、同時に二つの思いを持つことはできないのです。すなわち、悪い想いも持ち、良い想いも持つことはできないのです。ならば、良い想いばかり持とうではありませんか?。これはボランティアをやるより、よほど世のため人のためになっているのですよ。ボランティアをやりながら、一方で悪想念を放っていたのでは、何のためのボランティアか分かりません。
良い想いを持っている時は、私達は白い息(光の息)を吐いているのです。悪い想いを持っている時は、黒い息(毒の息)を吐いているのです。だから悪い想いを持っている人は災い人です。良い想いを持っている人は幸い人です。どうぞ幸い人になるよう努めて下さい。
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結果「現象」を生み出しているのは、原因である意識・思い・心です。ですから心を上手に使えば、みな幸せな人生を送れるはずなのですが、心の使い方が下手なため、多くの人が不幸せな人生を送っております。
私は以前、後頭部に傷を負ったことがありました。治りかけてカサブタができたのですが、どうもそのカサブタが気になるのです。それ以来、カサブタが無くならないのです。一種の皮膚病になってしまったようです。
真理をかじり始めたころ「意識が物を作る」と書いてある本を見て、ハッと気づいたのです。もしかしたら、気にしているから無くならないのではないかと・・・。そこで私は、気にしないよう心がけたのです。気にしなくなって三週間ほどたった頃、フト頭に手をやると、何とカサブタが無くなっているではありませんか。当時、私の母も首筋に何かできており、毎日、軟膏を塗っていました。そこで母に私の体験を話し、意識しないよう進言したのです。何週間か経ったある日、フト母の首筋を見るときれいに治っているのです。母は大感激でした。「悪に抗するなかれ!」とは、" 悪にエネルギーを与えるな!、相手にするな!"、という意味なのです。
こんな嘘のような本当の話もあります。
ある人が医者から胃ガンの宣告を受けたのです。当人が悩んだのはいうまでもありません。でも三週間後、それが誤りだったことが分かったのです。どうも、他人のレントゲン写真と取り違えていたらしいのです。告げられた本人はホットしましたが、どうも胃の具合が良くないのです。そこで改めてレントゲン検査したところ、何と、以前レントゲン写真に無かった病巣が写っているではありませんか。それも、見せられた写真と同じ場所にできているのです。たった三週間で、自分で病気を作ってしまったというわけです。きっかけとなったのは誤報ですが、病気を作ったのは自分の心です。肉体は生きていないのですから、肉体が勝手に悪くなるはずはないのです。三週間、悩んだ自分の心が病を作ったのです。
ガン検診は、ガンを恐れている人達のすることです。だからガン検診を受けている人ほど、ガンになる確率が高いのです。意識しなければなることは無いのですから、意識しないことです。
「寝ている子を起さないことです。」
私達が苦しむのは、嫌なことを自分の意識に入れるからです。これは丁度、おいしい食べ物に誘われて食べ、腹を壊すようなものです。食べなければ腹を壊すことはないのですから、食べないことです。
ここで述べたことは、決して現代社会では珍しいことではありません。病気の情報・薬の情報・食療法の情報・ガン検査の情報・紫外線情報・花粉情報など、マスコミは良かれと思ってやっているのでしょうが、これは心の法則を知らない無知な者のする所業です。だからといって、マスコミを責めるわけにはゆきません。毒を食べ腹を壊したのは、私達なのですからね・・・。
意識すれば、何でも与えられるのが宇宙の法則です。ならば、良いことを意識しようではありませんか。
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この世の中には、剣道・柔道・花道・茶道・書道など、極めるべき道が多々ありますが、どんな道も心の鍛錬が最終目標になるようで、宮本武蔵も 晩年 心の鍛錬に励んだといわれます。ではなぜ、心の鍛錬が最終目標になるのでしょうか?。それは、技の鍛錬は物理法則内が限度ですが、心の鍛錬には限度がないからです。限度のない心の鍛錬こそ、究極の道につながっているのです。究極の道、すなわち悟りの道です。
心は知恵の源であり、創造力の源です。心を上手に使えば、成せぬことは何もないのです。だから私はいうのです。人道も社会道も同じ道ならば、心を整えることに重点を置くべきだと・・・。
心が整えば、黙っていても社会は整います。母の握ったオニギリがどんな高級料理よりおいしいように、心を前面に打ち出した社会も、きっと素晴らしい社会になるでしょう。
私達は表現された物(絵や音楽を含む)に価値を見出そうとしますが、それは表現物を通して語りかけた心の表現であって、表現物その物が語りかけているわけではないのです。心を通さなければ何の価値も何の感動も生まないのは、表現された物が生きているのではなく、表現された物の中に表現者の心が生きているからです。
どうか本物を見て下さい。真実を見て下さい。心を見て下さい。
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人間はあまり心を重要視しようとしませんが、それは心には形がないからです。しかし形のない心が、形の世界に大きな影響を与えていることを忘れてはなりません。それを端的に現しているのがスポーツです。
多くのアスリートは、技を磨くこと(体力を強化することを含め)に時間を費やしています。でも私は、技を磨く時間と心を磨く時間を同じにすべきだと考えています。なぜなら、技の乱れは心の乱れから来るからです。よくプレッシャーに負け、力を出せない人がいますが、それは自分の心をコントロールできていないからです。余計なことを考え、自分で自分の心を乱しているのです。よく無心になれとか、リラックスせよとかいわれますが、人間は余計なことを考えれば、どうしても心を乱してしまうものなのです。
有名になった途端 成績が下るアスリートがおりますが、これは周りからチヤホヤされ雑念を多く抱えるようになったからです。たとえば、報道関係者と多く接するようになった、コマーシャルに出演するようになった、様々な行事に引っ張りだこになるなど、多く雑念を持つようになると、どうしても心を乱してしまうのです。
良い成績を長く保ちたいなら、できるだけ周囲との関係を断つことです。勿論、周囲との関係を保ちながら良い成績を残せるなら、それに越したことはありませんが、そうはいかないのが人間の心なのです。それでも良い成績を残したいなら、技を磨く時間と心を磨く時間を同じくすることです。
心を磨くとは、集中力を養う鍛錬のことです。心を制御する鍛錬のことです。瞑想は、それを成し遂げる最も手短な方法です。もし瞑想によって心を制御できたら、驚くほどの成績を残すことができるでしょう。
どうか「技の乱れは心の乱れ」という言葉を忘れないで下さい。
たとえ身は汚しても、心まで汚してはならない!。なぜなら、身は一時の自分であるが、心は永遠の自分だからである。
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