人に生きる者は偽りをいいます。罪を犯します。だからこの世には、法律や罰則が欠かせないのです。生命に生きる者(良心に生きる者)は偽りをいいません。罪を犯しません。人の目の届かない所でも、けして曲った行動を取ることはありません。生命に生きる者は、悪心が持てないからです。私はその原因が、波動にあることを知りました。
波動は実に正直です。精妙な波動は精妙な波動(愛・善)と共鳴し合い、鈍重な波動は鈍重な波動(不調和・悪)と共鳴し合うのです。生命に生きる者は精妙な波動を持っていますので、低い波動とは同調できないのです。もし同調しようとすれば、自分の波動を落とさなくてはなりませんから、苦しくなるのです。人に生きる者は、鈍重な波動とのギャップが少ないため、あまり苦しまないのです。でも本性は生命ですから、やはり心のどこかで苦しんでいるのです。
生命に生きるようになると、あまり物を必要としません。お金もあまりいりません。ましてや、地位や権力が欲しいなどとこれポッチも思いません。なぜでしょう?。生命には、すべてのものが与えられているからです。また生命のモットーは、中庸・均一・平等・バランスに生きることですから、偽りや偏りを嫌うのです。欲は偏りですから、生命に生きるようになると欲が持てなくなるのです。これは意識してそうなるのではなく、自然とそうなるのです。だから生命に目覚めた人は無欲になり、ゆったりとした生き方をするようになるのです。
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"私達は 今、生きていると信じていますが、本当に生きているのでしょうか?。"
一体、生きるとは、どういうことなのでしょうか?。
生きるには、二つの意味合いがあります。
一つは、「意識(生命)を自分として生きる意味合いです。」
もう一つは、「今の今に生きる意味合いです。」
一つ目の、「意識(生命)を自分として生きる意味合いとは」、こういうことです。
世の中には、形が生きていると思っている人が大半ですが、形は生きておりません。生きているのは形ではなく意識です。この宇宙の実体は、形を持たないのが正常で、形を持つのは異常なのです。なぜならこの表現宇宙は、意識によって生み出された映像(形)の世界だからです。映された映像(形)は仮相(幻)で、映し出している意識が実相なのです。ですからボディー(形)を自分として生きている人は、本当に生きているとはいえないのです。
形を持って生きるのと、形を持たないで生きるのと、何が違うのでしょうか?。もし形が生きるというなら、植物人間も生きているといわねばなりません。ものを見ず、ものを聞かず、ものをいわない植物人間が、果たして生きているといえるでしょうか?。どうも私達は、長いこと形の中で生きてきたために、形がなくては生きていると思えなくなったようです。意識こそ実在です。意識こそ主人です。このことを、決して忘れないで下さい。
といっても、本当は形がなくては生きているとはいえないのです。なぜなら、どんな素晴らしい絵の構想を持っていても、描いて見せなければ何の感動も生まないように、表現されない意識は有っても無きに等しいからです。意識は表現してこそ、自分を誇示できるのです。
二つ目の「今の今に生きる意味合い」とは、" 今の今に生きることが真実に生きることになる、"という意味合いです。
未だかって、過去や未来があった試しがありません。永遠に続く、今・今・今があるだけです。その今を生命に生きることを、真実に生きるというのです。過去を懐かしがったり、悔しがったりしている人や、未来を憂いたり、心配したりしている人は、真実に生きているとはいえません。また今この世の雑事に生きている人も、真実に生きているとはいえません。過去に生き、未来に生き、今、雑事に生きている人は、今を逸しているのです。今を逸しているということは、今に死んでいるということです。だから今を逸している人は、死人といわれても仕方が無いのです。
今、私達が見聞きしているもので、真実なるものが一つだってありますか?。一瞬一瞬状況が変わり、一刻一刻 姿を変えてゆく幻ばかりなのですよ。このボディーさえ消えて無くなる幻なのです。そんな幻を追いかけ、どうして生きているといえるでしょうか?。
人間が苦しむのは、今を真実に生きていないからです。もし今を真実に生きれば、過去にも、未来にも、多くの実りをもたらしてくれるでしょう。それは、今、真実に生きれば過去を正しく生きたことになり、未来も正しく生きられるようになるからです。
今、正しく生きられるのは、過去、真実に生きた結果です。未来を正しく生きられるのは、今、真実に生きた結果です。過去、真実に生きずして、どうして今、正しく生きられましょうか?。今、真実に生きずして、どうして未来を正しく生きられましょうか?。過去過ちを犯していた者が、今、正しく生きられるわけがないし、今、過ちを犯している者が、未来を正しく生きられるわけもないのです。あくまでも原因あっての結果です。
例えば、ここに正常な麦の刈り取りをしている農夫と、毒麦の刈り取りをしている農夫がいたとしましょう。正常な麦の刈り取りをしている農夫は、良い種を撒いた結果として今、豊穣を手にしています。この農夫は今後も良い種を撒くでしょうから、未来の豊穣は約束されたも同然です。一方、毒麦を刈り取っている農夫も、悪い種を撒いた結果として今、毒麦を手にしています。もしこの農夫が、何の疑問も持たず悪い種を撒くなら、再び毒麦を刈り取らねばならないでしょう。しかし原因に気づき良い種を撒くなら、未来の豊穣は約束されるはずです。
私達は、過去は変えられないと思っていますが、今どう生きるかで、過去を変えることができるのです。つまり農夫が良い種を撒こうと気付いたのは、過去の学びによるものですから、過去における成果です。ということは、過去を変えたことになるのです。今が変われば、未来も変わります。だから今、真実に生きれば、過去を正当化させ、未来も正当化させられるわけです。
私達が使える時間は今の今です。今の中にしか真実はないのです。その今しか使えない時間を、私達はどのように使っているでしょうか?。
このように、ボディーを自分として生きている人、あるいは今に生きていない人は、本当に生きているとはいえないのです。そう考えると、本当に生きている人の何と少ないことか・・・?。殆どの人は幻に生きながら、本当に生きていると信じているのです。
冒頭に、"私達は生きていると信じていますが、本当に生きているのでしょうか?"と疑問符を投げかけたのは、このことをいっていたのです。今、生命に生きている人は、本当に生きていることになるし、今、この世の雑事に生きている人は、空しい人生を送っていることになるのです。
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この表現宇宙は、生命の表現の場としてありますから、物質と生命をバランス良く生きれば、幸せに生きられるようになっているのです。ところが今人類は、物質に偏った生き方をしているために、様々な不幸に苦しんでおります。これを打開する方法は一つ、生命(陽)を意識する時間を増やし、物質(陰)を意識する時間を減らすことです。つまり、できるだけ生命を思って生きることです。生命を思うに、思い過ぎるということはありません。さあ、できるだけ生命を意識して生きましょう。
○ 今、お客さんと話しているのは生命である。
○ 今、仕事をしているのは生命である。
○ 今、ボールを蹴っているのは生命である。
何をやっていても、生命がやっていると思って下さい。半分でもそう思えたら、何割も力が増し、何割も知恵が増し、何割も愛が増します。もし心の底から思えたら、もうあなたに不可能なことは無いでしょう。
さあ、二十四時間の内せめて四時間でもいいから、生命を意識して生きましょう。意識すること、それが瞑想です。四時間 瞑想すれば、寝ている八時間と合わせると、十二時間この世の雑事から離れられるわけですから、それだけ迷う時間が少なくなるのです。
" 私は瞑想が苦手なんです! "という人は、実生活の中でやって下さい。つまり、何を見ても、何を聞いても、何をやっていても、生命が見ている、生命が聞いている、生命がやっている、と思いながら生きることです。その時その人は、瞑想したことになるのです。瞑想とは、生命を意識することなのです。目をつぶってやることだけが、瞑想でないことを知って下さい。
私達を含め、どんな物も生命の現れです。この宇宙に生命でない物は、一つも無いのです。だから、何を見ても生命と思って生きることです。
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人生の目的は「本当の自分を知るためである!」といっても、肉体を持っている限り、社会を無視して生きるわけにはいきません。家族との触れ合いも、近所付き合いも、友達付き合いも、職場での付き合いも、しなくてはなりません。その中で波動を落さず生きるのは至難の業です。といって現実逃避するわけにもいきませんから、これは何んとしても解決しなければならない問題です。では現実逃避せず、どうしたら波動を落とさず生きられるでしょうか?。それは、嫌なことに挑戦することです。
この社会で生きていれば、煩わしいこと、嫌なこと、したくないことなどに直面するものですが、その時、逃げるのではなく、果敢に挑戦することです。そうすれば、あなたの生命核(魂)は間違いなく増えます。なぜ増えるかといいますと、生命核は、嫌なことに挑戦すればするほど増える仕組みになっているからです。(嫌なことに挑むとき強い決意が要るが、その決意が生命核を増やす。)生命核が増えれば 当然 波動が上がりますから、現実社会で波動を落とさず生きられるのです。
神の愛が完全であるといわれるのは、どんな苦しみの中にも、どんな悲しみの中にも、どんな逆境の中にも、果実が得られるよう配慮されているからです。それも厳しければ厳しいほど、多くの果実が得られるよう配慮されているのです。その決意が、配慮なのです。
生命に生きる生き方とは、何においても自分を高める(魂を大きくする)生き方をすることである。すなわち、どんな嫌なことに出会っても逃げない生き方をすることである。神は越えられないハードルは置かないからである。
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