人間が「自由! 自由!」と叫んでいる自由は、ただ肉体を保全するための自由であって、真の自由ではありません。では表現世界における真の自由とは、どのような自由をいうのでしょうか?。そして真の自由を得た者の真の役割とは、どのような役割をいうのでしょうか?。以下、考えて見ることにしましょう。
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多くの政治家は、「民主主義は自由を勝ち得る最良のシステムである!」と豪語します。しかし、今の社会は本当に自由でしょうか?。
あなたは朝早くから夜遅くまで、資本主義の象徴である時間やお金に縛られていませんか?。家を出るのも時間を気にし、電車に乗るのも時間を気にし、タイムカードを押すのも時間を気にし、仕事をするのも時間を気にし、まるで時間の奴隷ではありませんか?。また何をするにもどこに行くにも、お金なしでは動きが取れないのではありませんか?。このように私達は、自由に生きているつもりで、実際は不自由な生き方を強いられているのです。
たとえば、学生も、スポーツ選手も、営業マンも、成績やノルマに縛られています。会社は業績や株価に縛られています。銀行は金利や為替レートに縛られています。政治家は政党や派閥に縛られています。総理大臣は国民の支持率に縛られています。国は経済の成り行きや、国際情勢に縛られています。国際社会は資源や領有権に縛られています。一般人は居住権に縛られ、私有財産に縛られ、規則や条例や法律に縛られています。また生活の髄まで、コマーシャルに縛られています。おまけに、こうあらねばならない!、あああらねばならない!、といった社会慣習や既成概念に縛られています。
最近では、飛行機に乗るにも博覧会々場に入るにも、持ち物検査なしには語れなくなりました。あなたは車に鍵をかけ、家に鍵をかけ、金庫に鍵をかけ、心落ち着かない日々を過ごしておりませんか?。アメリカにおいては、銃を所持していなくては安心して暮らせないのですよ。紛争地域では、武器を所持していてさえ安全の確保はできないのです。日本においても最近では、子供一人で学校へ行けなくなりました。何せ凶悪犯が、学校の中まで侵入するようになったのですからね・・・。こんな社会を自由社会というでしょうか?。万物の霊長である人間が、動物以下の不自由を強いられている現状を、あなたはどう思いますか?。
あなたは間違った社会慣習に身を委ね、自分を殺していませんか?。また欲望に自分を売り渡していませんか?。社会の仕組みがそうだから仕方がないと、自分の良心を腐らせていませんか?。そんな生き方をしていて、どうして真の役割が果たせるでしょうか?。
真の自由とは、次のような自由をいうのです。
一つ、天から与えられた役割を果たす自由。
二つ、良心が喜ぶ自由。
三つ、宇宙の意思に沿う自由です。
ではこの三つの自由を、真の役割に照らして一つずつ見てゆくことにしましょう。
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この世の形ある物には、みな個性があります。それは、個性に基づいた役割を果たすために存在させられているからです。その役割に優劣はありません。だからダイヤモンドと石は同等の価値があります。ミミズと人間は同等の価値があります。河原に転がっている石の代役はダイヤモンドにはできないし、ミミズの代役も人間にはできないからです。個性に基づいた役割があるという意味は、ネジ一本無くても時計は動かない、部品一個無くても自動車は動かない、はめ絵一つ無くても地球絵は完成されないという意味です。だから物の価値も、職業の価値も、能力の価値も、みな対等の価値にみなさなくてはならないのです。差別を付けるから、貧困層と富裕層ができるのです。
すべての生き物は、地球絵におけるジグソーパズルの一つ一つです。どんな小さな虫にも、どんなみすぼらしい花にも、どんな醜い動物にも、その生き物にしかできない尊い役割があるのです。人間においても、子供には子供の役割が、大人には大人の役割が、女には女の役割が、男には男の役割が、ちゃんとあるのです。ですから性転換手術など、もっての外なのです。自然に逆らう行為は、持って生まれた役割を放棄することになるからです。ですから男女同権などありえないし、男尊女卑という考えも許されるものではないのです。
たしかに宇宙の仕組みにおいて、男は「光」で、女は「影」となっています。男は「能動的」な働きをし、女は「受動的」な働きをしています。でも、光は影なしに意味をなさないし、影は光なしに存在できないのです。能動は受動なしに意味をなさないし、受動は能動なしに存在できないのです。このように、男と女は相身互いの関係にあるわけですから、どちらが優れ どちらが劣る というものでは無いのです。そこには優劣の問題があるのでは無く、役割の問題があるだけです。
あなたの代わりは誰もできないし、私の代わりも誰もできないのです。いや、どんな物も代役は利かないのです。どんな小さな物にも、どんな弱い物にも、その物にしかできない尊い役割があるわけですから、虫一匹・花一輪むやみに殺したり摘み取ったりしてはならないのです。能力の有る無しなどは、役割の重さから見れば小さな問題にしか過ぎません。だから、決して能力にこだわってはならないのです。といっても私は、怠け者になりなさいといっているのではありません。与えられた能力を精いっぱい発揮して生きることが、役割だといっているのです。
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天から与えられた役割が、特別にあるわけではありません。そこにいて一生懸命生きることが役割なのです。生きていること自体が役割なのです。この世に存在させられているどんな物にも役割があるという意味は、その場所で個性を発揮しながら、自分のできることを精いっぱい行い生きることが役割だという意味です。
もし細胞の一つが全体と切り離されたら、細胞の一つは勿論、全体の細胞も無事ではいられないでしょう。一つ一つの細胞の役割は小さいかも知れませんが、その小さな働きがなければ全体の働きは無いのです。だから、小さいからといって軽んじてはならないのです。
地球はバランスの樹です。鉱物も、植物も、動物も、人間も、すべてバランスの樹の一員です。もしむやみに摘み取れば、この地球というバランスの樹はたちまち崩れ去ってしまうでしょう。その意味では、どんな物も対等です。どんな人も対等です。だから私は、どんな物にも、どんな人にも、差別を付けてはならないというのです。
一つ目の「天から与えられた役割を果たす自由」とは、どんなしがらみや制約にも左右されず、天から与えられた役割を忠実に果たす自由行使のことです。それは自然体です。身構える必要はありません。一人ひとりが与えられた環境の中で、与えられた能力を精いっぱい使って生きることです。
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資本主義経済は悪そのものです。勿論、今の地球においては過渡的に必要な仕組みですから、全面的に否定するつもりはありませんが、本来は悪なのです。なぜなら、その仕組みそのものが悪を生み出しているからです。どうでしょうか?。あなたは会社のために、仕方なく良心に恥じる行為をやっていませんか?。
"そんなことはしていない!"といえる人が、果たして何人いるでしょうか?。次のようなことも不自然です。
今の世の中には、汗も流さず、ただお金を動かすだけで巨万の富を得ている人達が沢山おります。お金はエネルギーですから、出した分(働いた分)入るのが自然なのです。なのに汗も流さず巨万の富を得るなど、エネルギー均衡の法則に照らしても不自然です。彼らはこの行為を、不自然と思わず堂々とやっています。
一旦、資本主義というベルトコンベアーに乗せられてしまうと、何が正しく何が正しくないか分からなくなってしまうのです。不正融資、不正雇用、不正販売、不正投資、積載違反、建築違反、手抜き工事など、世の違反といわれる違反のすべては、この仕組みが生み出しているのです。殆どの人が悪いと思いながらも、会社のため、家族のため、生きるためと、嫌々ながらやっているのです。仕組みが良識を狂わせ、良心まで腐らせているのです。このように考えると、いかに資本主義が悪を生み出しているかが、恐ろしくなります。人の欲望を逆手に取って繁栄する社会など、本来あってはならないことなのです。
真の自由は、良心に生きることで得られるのです。そこに、何一つ規則や法律の関与はありません。人間は、良心に生きることが苦しいと思っていますが、欲を持つから苦しいのです。あるがまま、与えられたまま、無欲で生きれば苦しいわけが無いのです。苦しいどころか、これほどさわやかな自由はないのですよ!。
二つ目の「良心が喜ぶ自由」とは、社会の仕組や慣習や既成概念に縛られない、真に良心が喜ぶ自由行使のことなのです。
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たしかに自由は何よりも大切です。自由は正しい未来を切り開く土壌となっているからです。だからといって、何をしても良いというものではないのです。人間が作った規則や法律は、一日たてば変わってしまう恣意的な法です。それを盾に、自分のやっていることは正しい!、と思うこと自体 良識が疑われるのです。私達が守らねばならない法は、永遠に変わらぬ宇宙の法です。そして私達が行使すべき自由は、宇宙の大きな意思に沿う自由です。すなわち、地球絵を完成させる自由、いや宇宙絵を完成させる自由です。好き勝手に自由を行使し、違う場所に違うパズルを嵌めたのでは、地球絵も宇宙絵も滅茶苦茶になってしまいます。
宇宙意思が目指す流れの方向は、すでに決められているのです。今、私達は、宇宙号という名の列車に乗っているのです。その中においては、何をしても自由です。でも、列車の外に飛び出す自由は与えられていないのです。もし放漫な自由を欲し外に飛び出そうものなら、大怪我をすること間違いないでしょう。事実、流れに逆らって生きているために、今、人間は苦しんでいるではありませんか?。所詮人間は、宇宙の意思に逆らって生きることなどできないのです。
流れの方向は決められているといいましたが、大きな流れが決められているという意味で、一人ひとりの人生は本人の自由意志で選べるのです。列車の外には飛び出せないけれど、列車の中では何をしても許されるのです。先頭車両に乗っても、真ん中の車両に乗っても、最後尾の車両に乗っても、また右側の席に座っても、左側の席に座っても良いのです。そこで何を飲み、何を食べ、誰と結婚し、どんな家庭を持っても良いのです。ただ、宇宙の大きな意思の外に出られないだけです。
列車の行く先は、生命という名の駅です。私達の乗っている列車は、悟りに向かって走っているのです。どんなに嫌だと駄々をこねても、列車の外に飛び出すわけにゆかないのが私達なのです。
「法に生きる者は法に守られ、法に逆らう者は法に退けられる」
「愛に生きる者は愛に守られ、愛に逆らう者は愛に退けられる」
これが宇宙の習わしです。
三っ目の「宇宙の意思に沿う自由」とは、宇宙法則に逆らわず生きる自由行使のことなのです。
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本来、生命としての私達は自由です。その自由な生命が、なぜ不自由な世界へ出てこなければならなかったのでしょうか?。
不自由の知らない者は、真に自由な生き方はできません。不自由を知らない者は、自由の有り難みが分からないからです。だから生命は自由の有り難さを学ぶために、わざわざ不自由な世界へ出てきたのです。私たちの肉体は、その乗り物です。実にもろく、弱く、汚く、重く、不自由です。でも、その肉体に乗って不自由を体験することで、自由の有り難みを知るのです。
野放図な自由は悪です。自由の尊さを学ぶ不自由は善です。自由奔放な生命は、不自由な肉体の中に入ることでこの事を学びます。今、人間は、この世の様々な矛盾やしがらみなどの体験を通して、真の自由を発見しようとしているのです。
やがて人類は、次のことを学び知るでしょう。
○ 人間を不自由にするもの、・・・それは無知という鎖錠である。
無知が暴走を生み、暴走が鎖錠(法律)を生み出し、その鎖錠が人間を不自由にする。
○ 人間を自由にするもの、・・・それは知恵という鍵である。
不自由が疑問を生み、疑問が知恵をもたらし、その知恵が人間を自由にする。
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