「この地球には多くの国があり、そこにさまざまな民族や人種が共存しています。それらの人々は、肌の色も、目の色も、生活様式も、風習も、習慣も、考え方も違っておりますが、きれいな花を見れば美しいと感じ、ひたむきに取り組む姿を見れば心打たれ、素晴らしい音楽や物語に接すると感動します。このように肌の色が違おうが、人種が違おうが、心に感じることはみな同じなのです。この心の同感性は善悪についてもいえることで、人を傷つけたり殺したり騙したりすることは悪であり、人を助けたりいたわったり親切にすることは善であると、誰に教わらなくても知っているのです。それではその同じ心を持つ人間が、なぜ罪を犯したり争ったりするのでしょうか?。それは、利害や損得に心が奪われるせいではないでしょうか?。つまり自分の利益を守るため、あるいは、国益を守るために、罪を犯したり争ったりするのです。もし利害や損得の生れない奉仕社会が作られれば、おそらく今日に見る争い事はすべて無くなってしまうでしょう。もうそこでは、人を裁いたり、利権を調停したり、商権を裁定したり、国家の財政を規律する必要も無くなり、憲法や法律の中身も大きく変わってくることでしょう。ただどんなに利害の発生しない社会になっても、この物質世界では時間と空間が重なるとぶつかり合うという不都合が生じますから、それを回避するルールはなくてはなりますまい。また利害や損得にからむ争いは起きなくても、違った形の争いが起きないとはいえませんから、正義と秩序を守るルールは用意されるべきでしょう。要するに、衝突を避ける信号は必要だということです。そのルールは、"宇宙法を”よりどころとすべきでしょう。
この宇宙には法則が存在します。その法の精神は、一口にいって大自然を生かす愛そのものです。すべての生き物は、この法の下に生かされ、この法の下に進化するよう図られているのです。当然人間も、この法を無視して生きることはできません。逆らったら確実に報いを受けるからです。といってもこの法則は、目や肌で実感できるものではないし、逆らってもすぐに現象化されるものではないので、非常に対処のしかたが難しいのです。とはいえ、もろもろの不幸は法に逆らった結果ですから、そこに法の存在を感じなければならないでしょう。つまり「因果応報」、これが私たちが最終的に感ずる法の姿なのです。したがって人類を統治する人類法・世界法・地球法といった人類普遍の根本法は、この宇宙法をよりどころとしなければなりません。
国連憲章や国際法が制定された当時、これらの法は強制力を持たない形式法として軽んじられましたが、今日これらの法は主権国家の憲法を凌ぐほどの力を持つようになりました。奉仕世界における人類法(世界法)も、それ以上の力を持つ統括法として国家憲法の上に置かれ、睨みをきかす存在とならなければならないでしょう。その意味でも人類法は、地球上における最も権威ある法として、また人類普遍の憲法として、世界政府樹立と同時に制定布告されるべきでしょう。当然、各国が制定する国法や都市国家が制定する地方法も、この人類法の精神を継承したものとし、その優先順位も、人類法(世界法)-国法(基本法)―都市国家法(地方法)―法律ー局令ー条例等々、とすべきでしょう。そこでは世界政府(地球政府)が最上位の権能体となり国々を見守ることになるわけですが、統治の作用は(個人に及ぶ支配力)原則として各国の都市国家におかれるべきであり、国民もここで民主主義の大原則である選挙権を行使し、自分たちが選出した代議員の決めた法に納得してしたがう、というのが正しい姿でしょう。つまり間接民主制であれ直接民主制であれ、主権者である国民の意志が政治に生かされ、その結果として国民が国家に従うということであれば、誰も文句をつけることはできないからです。今日これは代議制という形で行われていますが、奉仕世界においてもしばらくはこの形が引き継がれるべきでしょう。
法には目的法と手段法があります。目的法は、衝突や争いを回避するルールを定めた、いわゆる信号のようなものです。たいして手段法は、目的を成就させる方法論を定めたものです。今日、交通事故を防ぐ目的法として交通規則がありますが、別に交通ルールを守らせる手段法として罰則が用意されています。しかし本来法は、諌めの道具になってはならないのです。ところが今日の法は、罰を全面に出し諌めることを主目的としています。たとえば刑罰を科す、罰金を収めさせる、といったふうにです。要するに今日の法は、諌めの道具として使われ、犯罪をなくす道具にはなっていないのです。
それを端的に表しているのが刑法です。刑法では人を殺してはいけません!、盗みをしてはいけません!、とは書いていません。
「暴行又ハ脅迫ヲ以テ他人ノ財物ヲ強取シタル者ハ強盗ノ罪ト為シ五年以上ノ有期懲役二処ス」
これは罪を犯すことを前提としており、罰を科すことによって犯罪をなくそうという、一種の威嚇法(おどし)なのです。これでは犯罪がなくなるわけがありません。犯罪も争いも人の心がつくり出すのですから、いかに刑法で威嚇しようと人の心の中に罪の種がある限り、いつか芽を吹き犯罪へと発展していくのです。犯罪をなくしたいなら、罪の種をなくす方法を明確に示すことです。
人類法では人を罰する決まりはありません。また国を罰する条項も用意されておりません。あるのは、どうしたら犯罪をなくせるか、争いをなくせるか、その解決方法だけです。つまり、目的を達成する手段としての仕法書(方法を書いたもの)があるだけです。
権力下の不自由さや法規制による締めつけは、自由の妨げがあると同時に責任回避も伴うもので、その代表的手本がソビエト型共産主義社会でしょう。その世界においては、言論や行動の自由の妨げがあったが同時に責任も回避でき、無責任極まる労働意欲の減退が何もかも落ちぶれさせたのです。人を規則や力で縛るのは、一見統制が取れるように見えますが、実際は自主性を奪い無責任や怠慢を助長させるものです。
奉仕世界は法規制による締めつけがない代わりに、自由の代償として大きな責任がのしかかってきます。この方が一人ひとりに責任感を植えつけ、連帯意識を高めるには有効な手段でしょう。この責任は己の良心に対する責任ですから、法律や規則など及びもつかない足枷となるでしょう。しかもこの責任は、人それぞれ良心の痛みによって違ってくるだけに、特に意味深いものとなるでしょう。」
たしかに、自由には責任が伴うものだ。会社でも、自由きままな会社ほど社員一人ひとりの責任は重く、上に何人もの責任者がいて監視されている会社では、失敗してもその責任は二分三分され案外と軽くなるものだ。しかし自分の良心が監視人となると、鉄の鎖で縛られた以上の不自由が強いられるのではないだろうか?。またこの良心の痛みは、人それぞれによって違ってくるだけに、たしかに意味深いものとなるだろう。
「とはいえ、全く法規則がないわけではありません。ただ奉仕世界の法規則は、先程もいったように、あくまでも衝突を避ける交通ルール的なもの、あるいは衝突を避ける仕法書的なものとして身近に用意される法です。これを生活法と呼び、地方法の中に組み込まれています。国民はこの生活法を念頭に行動するわけですが、常識を弁えた人なら何の苦もなく守れるものばかりです。今日のように、経済的利害が人や国に影響を及ぼすのとは違い、この世界では人と人との信頼関係が影響を及ぼしていくのですから、約束事は何よりも守られなくてはならないのです。もし約束事が守れず、人と人との間に国と国との間にギクシャクしたものが生まれれば、すぐに世界は混乱してしまうでしょう。奉仕世界の弱点はそこにあるので、何よりも心の教育が大切になってくるのです。