近年よく使われている言葉の一つに、[繁栄]という言葉があります。この言葉の意味を辞典で調べてみると、[栄えること]あるいは[繁盛すること]と書かれてあります。この言葉は、ひと昔前までは、[商売繁盛]とか[我が家の繁栄]といった狭い意味で使われていましたが、最近では経済発展のシンボル語として、あるいは生活の豊かさを示す言葉として、広く使われるようになりました。
ではこの二文字は、それだけの意味しか持たないのでしょうか?。たしかに、ひと昔前から比べると衣・食・住などは格段の差で豊かになりましたし、便利さや快適さも比べようのないくらい良くなりました。これだけみると、素晴らしい世の中になったと喜べるのでしょうが、果たして本当に心の底から喜んでよいのでしょうか?。私はこの[繁栄]の文字の奥に、言いようのない含蓄を覚えるのです。それは物質的豊かさだけでなく、精神的豊かさを併せ持った調和の取れた姿が、世の繁栄の姿ではないかと思うからです。
今の世の中を見渡してみて下さい! 人々は本当に満たされているでしょうか? 毎日のように、殺人、強盗、自殺、事故など、痛ましい事件や事故が新聞紙上をにぎわしています。すべてが整い何の不満もなさそうな人達が、どこか落ち着かず、なぜか安心できないでいる。経済大国といわれる日本にしてこの有様ですから、世界に目をやると[繁栄]という文字がどこに行ってしまったのか戸惑うほどです。
ふり返ってみれば、人類数千年の歴史は、闘争と破壊の繰り返しであったといっても過言ではないでしょう。かよわい民衆が一部の権力者によって虐げられ、戦争の犠牲者はいつも底辺であえぐ貧民でした。この間にも偉人賢人と言われる人達が輩出され、哲学の中に究極の生存原理を模索し、思想主義の中に恒久平和を見出そうとしてきました。しかし残念ながら、未だに真の世界平和は実現されておりません。でも、その中にあって民主主義熟成の下に資本主義が発達していったのは、一つの希望の光だったかもしれません。
つまり資本主義は、
『人類の不幸は物が十分に行き渡らないため起こるのであるから、生産技術と労働意欲の向上を図って物を大量に生産して自由市場に委ねれば、経済は必然的に活性化し貧困は解消されるだろう』との期待を持たせてくれていたのです。しかし、どうでしょうか? 貧困は解消されましたでしょうか? 人々は本当に豊かになりましたでしょうか? いいえ反対に、多くの歪みが噴出しているのではありませんか。環境汚染・民族紛争・南北対立・経済摩擦・人心の荒廃など様々な歪みが現れているのは、資本主義経済という底なし沼に足を取られているせいなのです。つまり資本主義経済という仕組みは、停滞や後退の許されないブレーキ無しの車ですから、ただ坂道を転がり落ちるしかないのです。
では人類は、この底なし沼からどうしたら抜け出すことができるのでしょうか?。私はその解決策を長年考えあぐねてきましたが、ある日、ある人物との不思議な出会いによって一挙に解決の道が開かれたのです。その人物が提唱した世界は、正に理想世界を彷彿とさせるものでした。『理想世界』という言葉は、宗教書などから何度も目にしてきた言葉でしたが、その具体性となると全く明らかにされておらず、ただ、
『理想世界はきっと訪れる』
『必ず仏国土はやってくる』
『まもなく千年王国が築き上げられる』
との繰りごとが述べられているにしか過ぎませんでした。ところがその人物は、政治・経済はもとより教育・科学・文化に至るまで、およそ今日の世界では予想だにしない理想原理を提唱してくれたばかりでなく、そうならざるを得ない必然性までも語ってくれたのです。聞き始めは疑心暗鬼な気分でしたが、話を聞いてゆくうちに、”人類を救えるのはこれしか無い!”という確信に至ったのです。
この本は、皆さんの人生観・人間観・世界観を根本から変えてしまうでしょう。夢幻の話だと言うかもしれません、空想家のたわごとだと言うかもしれませんが、誰が何をいおうとこの世界に突入しなければ人類に明るい未来はないのです。みなさんもページを進めるにしたがい、これこそが人類が求めるべき真の世界だと確信を持つようになるでしょう。私は皆様と共に、『人類の夜明』を一日も早く見たいと切望するものです。
1995年7月
かとう はかる