唯物論者は、言います。「人生は、肉体有る限りだと」・・・。
もし、そうなら、私たちは、何をしても、無意味です。何を得ても、無意味です。どんなに素晴らしい人生を送っても、無意味です。何せ!、肉体が無くなれば、すべて終わってしまうのですから・・・。そんな、何も残らない人生に、何の意味があると言うのでしょうか?
私たちは、わざわざ、死ぬために生まれてきたのですか? 肉体が死んでも、何かが残るから、生まれてきたのではありませんか? どんなに素晴らしいことをやっても残らないなら、私たちは、何もしないはずです。やったことが、何かの形で残ると思うから、一生懸命やるのです。
そうです。肉体で体験したことは、宇宙のアカシックレコードに永遠に刻まれ残るのです。そして、その刻まれた体験は、幸せの味付け材料となり、後々、私たちのところに帰ってくるのです。
それは、自分が、永遠の存在であることを知っているからです。永遠の存在である魂の自分は、成長したいのです。そのためには、死ぬ世界で、体験しなければ、成長できないので、死ぬと分かっていながら、生まれてくるのです。もし、自分が永遠の存在でなければ、学ぶことも、仕事をすることも、良い家庭を築くことも、馬鹿らしくてやっていられないはずです。私たちは、肉体ではありません。私たちは、永遠の存在である、意識体です。生命体です。魂です。その魂は、死ぬ世界で、様々な体験をすることで、成長できるのです。
※ 「そんなこと、当たり前ですよ!」と、人は、良く言います。なぜ、当たり前だと言えるのでしょうか? それは、当たり前でないことを知っているからです。当たり前でないことを知らなかったら、当たり前が何か、解るはずがありません。だから、私たちは、当たり前の世界から、当たり前でない世界に出てきて、当たり前が何なのか、学んでいるのです。初めから、当たり前を知っていたら、あなたは、当たり前でない世界に出てこなかったはずです。
※ 「死ぬと分かっているのに、どうして、勉強しなければならないのか? 死ぬと分かっているのに、どうして、働かねばならないのか? 死ぬと分かっているのに、どうして、道徳や、倫理や、法律を、守らねばならないのか?」 それは、唯物論者を含め、すべての人が、死なない自分を知っているからです。
本当に有るものって、見える物ですか? 見えないモノですか? 本当に有るモノは、見えないのです。本当に無い物は、見えるのです。本当に無い見える物は、必ず、消えて無くなるからです。でも、見えないモノは、永遠に無くなることはありません。当たり前ですね。見えないモノは、無くなりようがないからです。でも、地球人類は、この当たり前のことが、まだ解っていないのです。
私たちが住んでいる、この表現世界は、現象の世界です。現象の世界ですから、見えるのです。肌で感じられるのです。でも、現象ですから、必ず、消えて無くなるのです。消えて無くなると言うことは、幻の世界であると言うことです。それが、心の半分くらいまで解ったら、もう、争い合うことは無いでしょう。
どうか、見える物と見えないモノの理解力を高めてください。
「他人がいるの? 自分がいるの?」 この疑問は、求道者の誰もが、ぶち当たる疑問です。
あなたは、今、友達を認めています。それは、認めてやれる、あなたが、いるからです。もし、認めてやれる、あなたが、いなかったら、たとえ、友達がいても、友達はいません。当然です。あなたが、認めて、はじめて、友達が存在するからです。と言うことは、友達は、あなたが、創っていると言うことです。
認める者がいなかったら、認められるモノは無いのです。自分がいるから、他人がいるのです。自分がいるから、宇宙が有るのです。自分が、他人を創り、宇宙を創っていると言うことです。この宇宙は、認める側が、主体の宇宙なのです。認める側が、主体者なのです。主観者なのです。認められるものは、客体です。客観者です。他人は、外側の存在です。自分は、内側の存在です。外側は、無いのです。外側は、自分が認めた時だけある世界なのです。
郵便物が配達されても、受取人がいなかったら、配達された郵便物は無いのです。受取人がいて、はじめて、配達されたものが有るのです。もし、地球に認めてやれる人類が、いなかったら、光を注いでいる星々は、存在しないでしょう。もし、あなたが、いなかったら、奥さんも、子供さんも、いないでしょう。あなたが、いなかったら、日本は無いのです。地球は無いのです。宇宙は無いのです。
人間は、何事も偶然に起きると思っていますが、この宇宙に、偶然はありません。すべて、必然です。なぜなら、宇宙には、ちゃんとした、秩序の主がおられるからです。その秩序の主は、すべての存在を、進化成長へと導いているのです。
偶然は、無秩序ですが、必然は、秩序があるのです。秩序とは、意思を持った法則のことです。すべての出来事の背後には、必ず、法則と意思があるのです。当然です。意識主が、そうしようと思って、そうさせているのですから、偶然があるわけがないのです。ですから、自己防衛したって、無駄です。もし、自己防衛できるなら、それは、矛盾です。全能の意識主が、そんな、矛盾なことをするわけがありません。
私たちが、安心して生きられるのは、必然しか無いからです。その必然は、すべて進化成長へと運んでくれているのです。ただ、その流れが、私達の目には、逆に見えることがあるので、なかなか、信じられないだけです。これだけ、神を信じている、私でさえも、まだ、必然の導きを疑るのですから、一般人に、必然を信じなさいと言っても、無理な話なのです。でも、この書を読んでいる皆さんは、信じてください。起きていることは、全て、必然で、それは、すべて良いことであると・・・。
偶然を信じていては、一時たりとも、心は安定しません。私も、努力しますが、どうか、皆さんも、必然を信じるよう、努力して生きてください。
皆さんは、このアングルで、今日まで、人生を歩んできました。他のアングルから写された人生など、一つもありません。これは、どういう意味かと言いますと、あなたは、あなたの人生の主役であると言う意味です。主役ですから、いつ、いかなる時も、あなた抜きの人生は、なかったと言うことです。いつも、あなたが、おりました。いつも、あなたの意識の前で、時間が過ぎ去りました。あなたのいない、一秒は、一日は、一週間は、一月は、一年は、ありませんでした。当然です。あなたの意識の無いところで、時が進むわけがないからです。
どんなドラマにも、主役が必要なのです。主役は、そく、主体者です。主観者です。あなたの周りに置かれている、物も、人も、時代背景も、すべて、あなたが用意した小道具なのです。
宇宙には、二つの見方があるのです。一つは、自己完結型宇宙側から見た場合、もう一つは、原因と結果の法則側から見た場合です。自己完結型宇宙側から見た場合は、ポジティブな見方になり、原因と結果の法則側から見た場合は、ネガティブな見方になります。必然しか無いと言うのは、すべての出来事の背後には、秩序立てている力が有るからです。つまり、自己完結型宇宙側には、意思と言う秩序の力が有り、原因と結果の法則側には、法則と言う秩序の力が有るからです。どちらにしても、魂の成長のために必要な秩序の力です。
あなたが、厭なモノを見せられるのは、自分の中にある厭なものに気づかせるためです。また、ドキッとすることを体験させられるのも、ドキッとしなくなる、不動心を築くためです。人間は、雨が降ったらどうしようとか、飛行機事故に遭ったらどうしようとか、心配しますが、自分の成長にとって必要なら、「自分が・法則が」用意するのですから、心配することはないのです。なぜなら、みな、良いことだからです。
自分で鏡を作り、その鏡に自分の姿を写し、その姿を見て自分の欠点を知り、その欠点を修正して自分を成長させる、正に、この地球は、自己完結型の学習道場なのです。この自己完結型学習道場は、自然の中にも応用されています。例えば、自己完結型農法も、その一つです。
自己完結型農法とは、肥料は自分の身を使い、害虫から身を守るのも自分がし、タネも自分の残りダネを利用すると言った、正に、自力の農法です。今、地球で行われている農法では、農薬や、化学肥料や、改良されたタネなどが使われていますが、これは、外側の力に依存している、他力農法です。自己完結型農法では、雑草が生えても、害虫が付いても、除草剤や農薬は、一切、使いません。また、肥料も、昨年、自分が残した茎や葉や周りの雑草を使います。それでは、雑草にやられたり、虫に食われたりするのではと思うかも知れませんが、雑草の中で競いながら育った種は、強くなるので、一部分は、虫に食われても、全体には、及ばないのです。ひ弱に育てるから、雑草にやられたり、害虫に食われたりする、弱い種になってしまうのです。今の農法は、強い種を弱い種に変えてしまっているのです。それは、楽に、早く、沢山、生産したいからです。楽に、早く、沢山、生産したい経済優先の社会では、無理かも知れませんが、儲ける必要のない社会では、自己完結型農法でも、十分に、やってゆけるのです。
私たちは、今、現に存在しています。これだけは、確かです。と言うことは、私たちは、1であると言うことです。1であると言うことは、私たちは、永遠であり、無限である、と言うことです。自分が、1であると、心の底で解ったら、すべては、自分ですから、そこに、敵対する相手は生まれません。それどころか、すべてのモノが、愛おしくなり、抱きしめたくなります。不安も、恐怖も、一切なくなります。つまり、心は、平安になるのです。
すべてが、1であると言う、真理は、絶対宇宙と相対宇宙(表現宇宙)が、一つであることを意味し、さらに、神意識と人間意識が、一つであることを意味しているのです。だから、今、相対宇宙の中にいながら、絶対宇宙の中におり、今、人間の思いでありながら、神の思いでもあるのです。1は、どこまでも、1なのです。1の中には、1しかないのです。
1しか無いから、境目がないのです。
1しか無いから、差別が無いのです。
1しか無いから、分けられないのです。
1しか無いから、誤魔化しようがないのです。
1しか無いから、平等なのです。
1しか無いから、真しかないのです。
1しか無いから、善しかないのです。
1しか無いから、美しかないのです。
1しか無いから、完全しかないのです。
1しか無いから、死がないのです。
1しか無いから、あなたは、私であり、 私は、あなたなのです。
1しか無いから、人は、神であり、 神は、人なのです。
1しか無いから、幸せしかないのです。
さらに、
1には、限界が無いのです。
1には、初めが無いのです。
1には、終わりが無いのです。
1は、永遠です。
1は、壊しようが無いのです。
1「○」は、完全な美形です。
このように、1は、完全であり、真・善・美、そのものなのです。その完全と真善美によって存在させられている、私たちに、不完全も、偽りも、不善も、醜さも、ありません。私たちは、どこまでも、完全なのです。もし、私たちが、「1である!」と心の底で解ったら、一つの節目を超えたことになり、もう、この世の苦しみに悩まされることはなくなるでしょう。それどころか、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの中に入れるでしょう。
どうか、自分が、1であることを知ってください。
「神は、1でありながら、無限であり、無限でありながら、1である」という、真理は、「1の中に、全体は有り、全体の中に、1は有る」と言う、真理と同じなのです。しかし、「全体の中に、1は有り」と言うことは、理解できても、「1の中に、全体が有る」ということは、なかなか、理解できないでしょう。でも、良く考えてみてください。1の中に、全体がなくては、1は、1であり得ないのです。なぜなら、1は、すべてを含み持った元数だからです。つまり、1しか無いなら、全体は、1であり、また、1しか無いなら、1が全体なのは、当たり前だからです。1しか無い宇宙において、この真理は、絶対崩せないのです。
ゆえに、私は、1です。1は、私です。 全体は、私です。私は、全体です。
このことは、今は、理解できないかも知れませんが、いずれ、解る時がくるでしょう。
人の心の汚れは、まず、病気に現れます。次に、犯罪に現れます。そして、ゴミの多さに現れます。この原因は、物質主義にあるのです。人類が、物に傾けば、病気が多くなり、争い(犯罪・戦争)が多くなり、ゴミが多くなるのです。
私たちは、沢山の物が無くても、生きてゆけるのです。しかし、人間は、心の虚しさを物で満たそうとしますので、どうしても、物質主義に傾いてしまうのです。今の社会を見てください! 国が音頭を取って、国民の欲望を膨らませ、経済成長させようとしているではありませんか。資本主義は、経済成長させなくては、成り立たない仕組みですから、どうしても、そのような政策を取らなくてはならないのです。
資本主義経済は、シロアリ経済です。シロアリは、自分の家が倒壊するまで、トコトン食いつぶします。同じように、資本主義経済も、地球資源を、トコトン食いつぶしてしまうのです。地球環境の保護を訴えながら、経済を成長させなくてはならない矛盾に、みな、気付いているはずです。でも、豊かな生活を望む人の欲望が、矛盾に、目を背けさせているのです。このまま、シロアリ経済を続ければ、地球環境は、持たないでしょう。それどころか、地球は、灰色の星になってしまうでしょう。
何が、ゴミを多くさせているのか? 何が、人を物に縛り付けているのか? 政治家も、科学者も、教育者も、勿論、一般人も、分かっていません。でも、学びの友の皆さんは、分かっているはずです。せめて、分かっている、私たちだけでも、気を付けて生きたいものです。
今、あなたが、見ているもの、感じているもの、それは、本当に有るモノですか? 無いものですか? 本当に無いのです。本当に無いと言うことは、夢を見ているようなものなのです。そうです。私たちは、今、夢を見ている真っ最中なのです。私たちは、永遠に、夢から醒めることはないのです。なぜなら、私たちは、永遠に、夢の中に留まっていなければ、存在できないからです。
今、私たちは、夢を見ているわけですが、その夢から目覚めたと思っても、それも、夢なのです。また、その夢から目覚めたと思っても、それも、また、夢なのです。例え、自覚の境界線を超え、神人になったとしても、神人になった夢を見ているのです。なぜ、夢から醒めることができないのか? それは、表現宇宙から永遠に出られないからです。夢を見続けている、私たちがいるから、表現宇宙は、存在できるのです。もし、私たちが、本当に、夢から醒めたら、その瞬間に、神人も、表現宇宙も、消えてしまうのです。
本源におられる神は、夢を見ないのです。夢を見ないがゆえに、そこには、何も無いのです。そんな、何も無い宇宙では、何の意味もないので、神は、自分の意識を放射して、夢を作ったのです。意識が夢を見ている時だけ、何かが有るのです。何かがある状態は、夢の状態なのです。
神は、自分の意識を放射し、夢を見られる人間という生き物を、お作りになりました。だから、人間だけが、夢を見られる特殊な能力を持っているのです。私たちは、始めから、夢を見ていたし、今も、見ているし、永遠に、夢を見続けるのです。その夢は、節目を超えた神人でも、永遠に、見続けるのです。それも、進化し、少しずつ、夢から覚めるにしたがって、苦しい夢から、楽しい夢を見るようになるのです。神が、このような、宇宙を創られたのは、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの夢を、永遠に見せるためだったのです。
夢は、大勢で見るものではありません。一人で見るものです。それは、私たちが、主観宇宙の主だからです。ですから、自分だけ見る、一種類の夢しか無いのです。主観宇宙の中から、永遠に、出られないのは、永遠に、夢から醒めることがないからです。
※ 宇宙を、頭(知識)で知ろうとしている人は、未だ、魂の幼い段階の人です。心(実感)で知ろうとしている人は、相当、魂の熟した人です。
あなたは、本当の「自分」を観た事がありますか? “私は、毎日、自分を見ています”、と、あなたは、言うかもしれませんが、その自分(肉体の自分)は、ニセモノの自分であって、実在している自分ではないのです。なぜなら、肉体の自分は、必ず、消えて無くなる自分だからです。
あなたは、自分って言いますけど、「自分」って言葉ですね。言葉が自分を表しているわけではないのです。言葉の中身が、自分を表しているのです。私たちは、言葉に惑わされ、肉体の自分を、本当の自分だと誤解しているのです。
この宇宙の真実は、観えないモノの中にあるのです。
なぜなら、
観えないモノが、生きているからです。
観えないモノが、実在しているからです。
本当に生きているモノは、観えないのです。
実在しているモノは、観えないのです。
反対に、
生きていないモノ(肉体)は、見えるのです。
実在していないモノは、見えるのです。
もう一つ、知って欲しいのは、
生きていると言う意味は、意識を持っていると言う意味です。
実在していると言う意味は、意識を持っていると言う意味です。
では、そのことを踏まえ、本当の自分を考えてみましょう。
本当の自分は、観えないのです。
本当に生きているモノは、観えないからです。
実在しているモノは、観えないからです。
意識は、観えないからです。
では、観えないモノは、有限でしょうか? 無限でしょうか? 観えないモノは、至るところにあるわけですから、観えないモノは、無限です。と言うことは、本当の自分は、無限であると言うことになります。
もう、本当の自分が解かったと思いますが、更に、念を押して言いますと、
神は、観えません。
生命も、観えません。
エネルギーも、観えません。
本当の自分も、観えません。
それは、
生きているモノだからです。
実在しているモノだからです。
意識そのモノだからです。
すべてのモノの本質は、観えない意識なのです。その意識を、本当の自分は、持っていますから、本当の自分は、「観えないモノである」と言うわけです。その観えないモノは、無限ですから、本当の自分は、無限であると言うわけです。
このように、本当の自分は、観えませんが、観えなくては、自分の存在がないので、見えるモノの中に入って、自分を表現しているのです。
石を自分の体として、
花を自分の体として、
鳥を自分の体として、
人間を自分の体として、
星を自分の体として、
宇宙を自分の体として、・・・・。
ですから、どんな体を持とうとも、本当の自分は、変わらないのです。
さあ、本当の自分が、何なのか? 再確認してください。
この自覚を、深めてください。
※ 観えないモノが、本当にあるモノである。観えないモノが、実在するモノである、という意味の深さを知ってください。その理解力の深さが、自覚を高めるのです。
この宇宙で、最上の波動は、神です。神を想えば、なぜ、幸せになれるのか? それは、最上の波動の中に入れるからです。 その波動に接触できるのは、私たちの想念だけです。想念は、宇宙一の宝物なのです。想念は、何でも創造する力を持っているからです。 私たちの人生は、すべて、想念が作ってきました。入学も、就職も、結婚も、みな、自分の想念によって成就させたのです。その想念を使って、神を想えば、幸せになれるのは、当たり前なのです。何せ、これまで人生を作ってきた実績が証明しているのですからね・・・。
想念は、原因です。成ったのは、結果です。「原因と結果の法則」は、科学的法則ですから、想念したことが、成就するのは、当然なのです。今、あなたが、苦しいのは、苦しいことに想念を使ってきたからです。誰も、あなたを、不幸にしていないのです。あなたの想念が、あなたを、不幸にしてきたのです。もし、想念を良く使っていたら、今、あなたは、幸せになっているはずです。どうか、そのことに気付いてください。
と言っても、この世の良いことを思っても、この世の良いことしかやってきません。それでは、神を求めている人は、満足できないでしょう。神を求めている人は、神を想ってください。原因と結果の法則が、間違いなく、神に近づけてくれます。つまり、神を想えば、神と似たような性質になるので、欠点が無くなります。当然、業は、消えます。何よりも、原子核が増えます。私たちは、こんな凄い想念を持っているのですから、利用しなくては、もったいないのです。
私は、今、もの凄いことを言っているのですよ! 宇宙のどんな宝物を得たよりも、凄いことを言っているのですよ! ぜひ、神の自覚を得るために、想念を使ってください。神の自覚が得られたら、幸せの中に入れるのですから・・・。
※ なぜ、神の自覚が得られたら、幸せになれるのかと言いますと、神意識、そのものが、幸せ、そのものだからです。意識、そのものは、幸せなのです。その同じ意識を、私たちは、持っているのですから、本来、私たちも、幸せ、そのもののはずなのです。ただ、私たちは、その意識を悪想念に変えているため、幸せになれないだけです。それは、自分の事を、人間だと思っているからです。自分が、神だと思えれば、神意識は幸せですから、幸せの中に入れるのです。
真我意識(絶対宇宙)が、すべての大本ですが、真我意識だけでは、真我意識の存在がないので、真我意識は、自分を認めてくれる、自我意識(相対宇宙)を創り、その意識を通して、自分を認めてもらおうとしているのです。悲しいけれど、どんな偉大な能力を持っている真我意識でも、自分を認めてくれる自我意識が無くては、自分の存在が無いのです。また、自我意識も、真我意識が無くては、自分の存在が無いわけですから、厭でも、真我意識を認めてやらなくてはならないのです。
「真我は、自我を創って自分を認めてもらい、自我は、真我に創られて真我を認めることによって、自分を存在させている」と言う、不思議な関係にあるのが、真我と自我の間柄なのです。言い換えれば、互いに足りない部分を補完し合いながら存在しているのが、真我意識(絶対宇宙)と自我意識(相対宇宙)の関係なのです。これは、他人事ではなく、神と私たち(人間)の関係のことを言っているのです。
相手は、誰が創ったのでしょうか? 自分ではありませんか。自分がいなかったら、相手はいないのですよ! また、自分がいても、相手がいなかったら、自分はいないのですよ! 認めてくれる相手が無かったら、認められるモノは無いのです。つまり、認めてくれる人間がいなかったら、認められる神は無いのです。また、神がいなかったら、当然、人間も存在しないのですから、神と人間は、相身互いの関係にあるのです。ならば、どうして、人間は、小さな存在なのでしょうか? 人間が、神を存在させているのですよ! 人間がいなくては、神はいないのですよ! だから、私は、「神と人間は、同じ価値がある」と言うのです。
皆さん、自分を小さな存在にしないでください。「私は神である!」と、堂々と思ってください。
※ 真我(神)と自我(人間)が同じなのは、この宇宙に、一つの意識しかないからです。 「神が人間を生み、人間が神を認めることによって、二つの自分が存在できる」、この痛し痒しの滑稽さを解ってあげてください。
この宇宙に、問題視すべき拘り事など、何一つ無いのです。私たちに、苦しみが生まれるのは、拘るからです。拘るということは、不自由になると言うことです。限定されると言うことです。これでは、自由な魂が苦しむのも無理ありません。私たちの魂は、自由奔放な存在です。何でも想えるのです。何でも創れるのです。何でも出来るのです。何処へでも行けるのです。そんな、自由な魂に、問題視すべき拘り事など、あるわけがないのです。
今、多くの人が、お金・地位・権力・人種・性別・あるいは、勝敗や損得などの拘りを持つ事によって苦しんでいます。でも、その拘り事は、人間社会が生み出した特有のモノで、絶対視すべき拘り事ではないのです。特に、風習や慣習や俗習などの社会常識は、うまく立ち回れば、回避できる拘り事です。
この世の社会常識って何ですか? 風習って何ですか? 慣習って何ですか? 俗習って何ですか? 絶対従わなくてはならない決まり事ですか? 人の目さえ気にしなければ、どうでも良い拘り事ではありませんか? これは、真理を知らないからです。つまり、自分の本性を知らないからです。真理を知らないと、社会常識に従わなくてはならない錯覚に陥ってしまうのです。だから、私は、真理を知って欲しいと願うのです。どうか、この世の拘り事を捨ててください。人間が拘っている事などは、つまらない事なのですから・・・。
私たちが、従わねばならない拘り事は、宇宙の法則です。これだけは、拘ってください。
※ この世の社会常識に囚われると、柔軟な発想ができなくなります。これは、悟りの障害になります。良くよく注意したいものです。
あなたは、どうして、否定語を使うのですか? この宇宙に、否定すべき事が、一つだってありますか? 「肯定語を使おう!」と、私が言うのは、神が創られた完全な宇宙に、否定すべきことは、何も無いからです。どんな事も良いことなのです。どんな事も有り難いことなのです。それは、神が完全だからです。その完全なる神が創られた宇宙を否定すれば、あなたは、自分を否定することになるのです。なぜなら、あなたは、神によって創造された神の子だからです。ですから、決して、否定語を使ってはなりません。
このように言うと、「でも、悪があるこの世界で否定語を使わなくては、会話になりませんよ。実際、今、あなたは、”決して、否定語を使ってはなりません!”と言う否定語を使ったではありませんか?」と、反論するかも知れません。確かに、私は、否定語を使いました。でも、この場合の否定語は、悪を否定し、善を肯定するための否定語ですから、肯定語になるのです。
確かに、この世界には、沢山の悪があるように見えます。例えば、私たちは、ライオンが子鹿を襲う醜い姿を見せられます。また、病気や、事件や、事故や、災害などで、苦しむ人を見せられます。でも、その悪は、本当に悪でしょうか? いつも言うことですが、悪は、善の裏返しなのです。悪は、善たらしめるための悪ですから、それは、悪ではなく、善なのです。どんな悪も成長のために必要な悪ですから、みな、善なのです。悪がなかったら、私たちに、成長は無いのです。
否定語は、波動が低く、肯定語は、波動が高いのです。ですから、否定語を使えば、運命が悪くなり、肯定語を使えば、運命が良くなるのです。どうか、肯定語を多く使ってください。
※ 人の運命は、光の強さによって決まります。光が強ければ、良い運命が、弱ければ、悪い運命が・・・。その光の強弱は、想念が握っているのです。ポジティブな想念を持てば、光は強くなります。ネガティブな想念を持てば、光は弱くなります。だから、私は、肯定語を使いなさいと言うのです。肯定語は、光を呼び、否定語は、闇を呼ぶと言うことです。
どうして、全能の神が、幼い子供たちに難しいことをさせるでしょうか? 神は、簡素・簡潔・単純・簡単なことが好きなのです。その良い例が、一番必要なモノほど、私たちの身近に沢山置き、しかも、簡単に手に入るようにしてくれている点です。例えば、一番必要な空気は、回りに沢山あり、いつでも吸えます。水だって、慈雨によって簡単に手に入ります。食べ物にしても、芋や、カボチャや、サンマや、イワシなど、庶民的なモノほど、手軽に沢山取れます。そんな、神が、私たちに難しいことをさせるわけがないのです。そう考えると、瞑想も、簡単にできるようにしてくれているはずです。
そうです。瞑想は、ただ、自分の想念を使って、神を想い続けることです。自分の想念は、自由意志で使えます。誰にも邪魔されません。どこに行く必要もありません。また、何の技術もいりません。勿論、お金もかかりません。やる気になったら、いつでも、できます。
瞑想を難しく説いている人は、瞑想を知らない人です。どうか、瞑想を難しく考えないでください。
※ 瞑想は、「私は、神であった!」と、心の底で思えるようになることです。この心の底で思えた意識状態を「自覚した!」と言うのです。ただし、どのような意識状態なのかは、人に教えることはできません。自覚は、味わった(体験した)当人しか、解らないのです。だから、途中で諦めてしまう人が多いわけです、でも、諦めず瞑想を続けていれば、必ず、自覚できる時がきます。それは、原因と結果の法則が実現させてくれるからです。
いつも言うことですが、「私は、神であった!」と、知識的に知っただけでは、駄目なのです。心の底で思えなくては、自分が変わらないのです。
私たちは、永遠の昔から、神だったのです。これから、神になるのではないのです。すでに、神なのです。ただ、記憶を失い、神だと思えなくなっているだけです。記憶を蘇らせるためには、瞑想するしかないのです。瞑想し、一定量の原子核が増えれば、自動的に「私は、神であった!」と心の底で思えるようになるのです。その心の底で思えた意識状態を、「自覚の境界線を超えた」と言うのです。
瞑想は、観念的なものではありません。現実的なものであり、実際的なものであり、真実的なものです。瞑想を、お遊びでやっている人は、瞑想する資格はありません。どうか、真剣にやってください。「人生で、一番大切なことは、瞑想である!」と言う、自覚を持って、瞑想に挑んでください。
「虚」とは、見えるモノ(物質)を意味し、「実」とは、見えないモノ(意識)を意味します。「虚」の世界は、客観的見方をした時に現れる、非真実で、「実」の世界は、主観的観方をした時に現れる、真実です。客観的見方をすると、外側に、沢山のモノが存在することになりますので、客観的見方をしている人は、外側のモノが自分に害を与える錯覚に陥るでしょう。今、地球人類は、その錯覚に陥り、戦争までしているわけです。でも、虚は、実際に無いモノですから、本来、「虚」が、「虚」に、害を与えることなどできないのです。つまり、「虚の他人」が、「虚の自分(肉体)」に、害を与えることなどできないのです。錯覚した、実(思い)が、虚を動かし、虚を害しているだけです。
本来、この宇宙には、一つの「実」しかありません。つまり、一つの真実しかありません。それは、宇宙に、意識は、一つしかないからです。一つの意識しか無いから、すべてが、自分になるのです。他人がいないので、敵対することも、害し合うことも、ありません。
「虚」は、光に映し出された影です。「実」は、映し出している光です。影は、光なしに、生まれないし、影なしに、光の存在はありません。だから、光と影は、同等の価値があるのです。でも、実際に有るのは、光の方です。つまり、実(光)は、永遠に存在する真実です。虚(影)は、映されている時だけある、非真実(幻)です。でも、虚の体験無しに、実が解らないので、私たちは、虚の世界に出てきて、実を解ろうとしているのです。それほど、虚と実は、切っても、切れない関係にあるのです。だから、物質を軽んじてもならないし、意識を軽んじてもならないのです。
※ あなたの残りの人生で、真理を求めること以外、何かやるべきことがありますか? ないはずです。それは、何がホンモノで、何がニセモノか、解ったからです。解っていない人は、真理から離れていって良いのです。でも、解った人なら、どうか、真理を求め続けてください。もし、解っていて、真理から目を背けるなら、あなたは、心穏やかに生きられないはずです。そんな、心穏やかでない人生を、あなたは、送りたいのですか?
神は、一番必要なモノを、身近に置いてくれています。私のホームページも、その一つです。さあ、私のホームページから、必要なものを受け取ってください。それは、お金もかからないし、何処へ行く必要もないのですから・・・。
神とは、いかなる存在でしょうか? 神って、一体、何なのでしょうか? 神って、何処にいるのでしょうか? 神って? 神って? 神って?・・・・さあ、神の正体に迫ってみましょう。
今まで、神を見た者はいません。神は、見えないのです。触れないのです。聞くことができないのです。味わうことができないのです。嗅ぐこともできないのです。神は、私たちの五感に、かからない存在だからです。ですから、神の側に行くことは、永遠にできません。永遠に掴みようのない存在、永遠に知りようのない存在が、神なのです。
あえて言うなら、神とは、意識です。意志です。意思です。理念です。知恵です。命です。光です。力(エネルギー)です。愛です。バランス(中庸)です。絶対善なる存在です。永遠不滅なる存在です。完全無欠なる存在です。無限無窮なる存在です。ゆえに、無限の発展性と、無限の可能性と、無限の創造性を、秘めています。その神は、すべての創造物を、創り、動かし、働かせ、生かしているのです。すべての創造物の背後におられるのが、神なのです。その神のことを、私たちは、生命とか、霊とか、呼んでいるわけですが、どんな言葉を使っても、表しようのないのが、神なのです。では、その表しようのない神を、どうすれば、知ることができるのでしょうか? それは「1」を知ることです。
神は、この宇宙に、一様しかおられません。一様しかおられないがゆえに、すべては、神なのです。「私は、神である! あなたは、神である! すべてのモノは、神である!」と言えるのは、神が、「私に」、「あなたに」、「すべてのモノに」、なったからです。それは、神は、「1」だからです。「一様」だからです。と言うことは、「自分」を知れば、神を知ることができると言うことです。覚者が「神を知るには、その子を知れば良い!」と言うのは、「自分」は、「その子」だからです。つまり、神の分身だからです。
あなたは、「自分! 自分!」と、よく言いますが、「自分」とは、「神」が「自」らを分けたのです。自分は、神なのです。だから、自分を知れば、神を知ることができるのです。神を知る、こんな、簡単な方法があったのです。でも、人間は、誰も、「自分」を、神だと思っていません。それどころか、神を、畏れ多い存在にして、遠くに離しています。神は、手よりも、足よりも、近くにおられるのです。「おい!」と言ったら、「はい!」と、すぐに、応えてくれるのが、神なのです。
神の言葉が違うからと言って、神の取り合いをしてはなりません。言葉が、神を表しているのではないのです。神の中身が、神を表しているのです。ゼウスも、アラーも、キリストも、ブッタも、同じ、神です。だから、宗教戦争などしてはならないのです。
※ 神が、1(一様)なら、どんなモノも、神であるはずです。あなたの魂も、神です。あなたの肉体も、神です。神は、完全ですから、あなたの魂も、完全です。あなたの肉体も、完全です。ですから、あなたの魂が、迷うこともないし、病気になることもありません。
あなたが、憎んでいる人も、嫌いな人も、厭なモノも、みな、神です。だから、決して、嫌ってはなりません。嫌えば、神を嫌うことになるからです。どうか、自分を愛してください。人を愛してください。すべてのモノを愛してください。できるなら、自分を神だと、心の底で思えるようになってください。心の底で思えるようになったら、もう、あなたの所に、病気や、事故災難が、やってくることはないでしょう。
「サタン! サタン!」と、サタンを恐れる人がおりますが、実際に、サタンがいるのではありません。サタンとは、弱いあなたの心のことです。
具体的には、
「どうなってもいい!」と言う、投げやりな心です。
「私なんか死んだ方がいい!」と言う、ステバチな心です。
「嫌だ! 厭だ!」と、逃げ回る心です。
「面倒くさい!」と、煩わしがる心です。
これ、すべて、あなたの弱い心が作った、サタンです。そんな心になると、体調不良になるので、ますます、弱気になってしまいます。それに漬け込んでくるのが、周りの悪的波動(サタン)です。サタンに漬けこまれると、本当の自分を見失ってしまいます。
肉欲に負けてはなりません。感情に負けてはなりません。外側の人の誘いに負けてはなりません。 外側の現象(幻)に負けてはなりません。肉体なんて、実際には無いのですよ! この形の世界なんて、実際には無いのですよ! なのに、無いものに惑わされ、自分を見失うなど、愚かです。
神は、どうして、私たちに、理性と知性を与えたと思いますか? 欲望と感情を、知性と理性で、制御するためではありませんか。それが使えないようでは、私たちは、動物に成り下がってしまうのですよ。今の人類を見てください。殆どの人が、欲望と感情に翻弄された生き方をしています。と言うことは、今の人類は、動物とあまり変わらないと言うことです。真理を学んでいる皆さんだけでも、万物の霊長として、欲望と感情に翻弄されない生き方をしてください。
※ 本当の私たちは、有るものです。なぜなら、私たちは、神の意識によって創られた、心だからです。心は、永遠に存在するのです。私たちは、肉体では無いのです。物質ではないのです。本当に有る心です。どうか、心を強くしましょう。心を強くすれば、どんな誘惑にも勝てます。
心を強くすれば、
心を強くする方法は、三つです。
この三つをやれば、間違いなく、心は強くなります。なぜなら、原子核が増え、光(エネルギー)が、強くなるからです。光(エネルギー)が、強くなれば、心も強くなるのです。闇や、弱みや、悩みや、病は、光の無い状態ですから、光が強くなれば、そんなモノは、退散するしか無いのです。どうか、原子核を増やし、弱気な心を蹴散らしてください。
赤ちゃんが、楽しく這い回っています。
子どもたちが、公園の砂場で、遊具で、遊んでいます。
少年少女が、スポーツを楽しんでいます。
人間は、若い時、よく、体を動かします。自然界の生き物も、同じように動いています。
セミさんたちが、うるさく鳴いています。
カエルさんたちが、うるさく鳴いています。
鳥さんたちが、うるさく囀っています。
アリさんたちが、せわしく動いています。
雀さんたちも、鳩さんたちも、何もかもが、せわしく、動いています。
それも、短命な生き物ほど、時間を惜しまず、動いています。彼らは、人間のように、乗り物は使っていません。自分の体を使って、動いています。彼らは、どうして、そのように、健気に動くのでしょうか? それは、命のある間に、できるだけ原子核を増やしたいからです。私たち大人も、見習いたいものです。
この表現宇宙で、動いていないものは、一つもありません。星雲も、恒星も、惑星も、衛星も、小惑星も、彗星も、流れ星も、みな、動いています。地球の中においても、空気・水・土・原子など、動いています。物質を、絶対零度に凍結しても、動きを止めることはありません。それは、原子核を増やしたいからです。「神は、動くことによって、原子核が増えるよう、仕組まれたのです。それを、自然界は、私たちに、教えてくれているのです。どうか、動くことを嫌わないでください。体の動かせない人は、想念を動かしてください。つまり、瞑想と思索をしてください。動けば、動くほど、原子核が増えるのですから・・・。
この宇宙に存在するモノは、あなたの意識が認めなければ存在しません。今、あなたが認識している、地球も、自然も、人も、あなたが意識しなくなった途端に消えてしまうのです。なぜ、意識しなくなった途端に消えてしまうかと言えば、あなたの意識が、そのモノを創っていたからです。あなたが意識している時はあるけれど、意識しなくなった途端に無くなってしまうと言うことは、そのモノは、本当に有ったのでしょうか? 無かったのでしょうか? 有ったとしたら、意識していた時だけ、有ったのでしょうか?、意識していない時も、有ったのでしょうか? 意識していない時も有ったとしたら、それを、誰が証明してくれるのでしょうか? 証明できないのではありませんか? と言うことは、あなたの意識の中の現象にしか過ぎないと言うことです。
外側に、何かがあり、その何かが、勝手に自分の意識の中に入ってきたように見えますが、外側の何かが、自分の意識の中に勝手に入ってくることは絶対ありません。もし、あるなら、結果(幻)が、原因者(真実)の中に勝手に入ってきた事になり、この宇宙は、逆さまになってしまいます。認識する前に何かが無い理由は、原因に先んじて、結果が有るわけがないからです。認識した何かは、意識した時に生まれた結果なのです。結果が結果を生むことも、結果が原因を生むこともないのです。原因が先にあり、後に結果が生まれたのです。確かに、私たちの目には、結果が先にあったように見えるかも知れません。でも、その結果は、原因者の認識によって創られた結果なのです。あなたは、「私は、そんなモノを作った覚えはない!」と言うかもしれませんが、あなたが認識しなかったら、そのモノは無いのですから、間違いなく、あなたが作ったのです。では、そのモノは、本当に有ったのでしょうか? 無かったのでしょうか?
私たちは、どうして、幸せな気分になるのでしょうか?
幸せの気分になる要素は、一体、何なのでしょうか?
まだ、あるかもしれませんが、このような要素が、幸福感を生み出しているのではないでしょうか? それは、これらの要素が、心に光を呼び込むからです。私たちの心は、光に満たされれば、幸福を感じるようにできているのです。その意味では、幸せの要素は、そのまま光の要素でもあるわけです。その光は、神、ご自身ですから、神そのものが、幸せの要素でもあるわけです。だから、私たちは、神を想っている時、幸福感に満たされるのです。
光ほど、大切なものはありません。光が多ければ、幸せが・・少なければ、不幸が・・これは、宇宙の決まりごとなのです。人生万事、光の量で決まるのです。光は、明るい人のところに寄ってきます。闇は、暗い人のところに寄ってきます。どうか、明るい人になってください。それは、想念次第なのです。
※ 五官で感じるモノは、みな、現象であり、幻です。なぜなら、必ず、消えて無くなるからです。意識で感じるモノは、永遠に無くなりません。それは、真実だからです。ですから、目で見る光は、消えて無くなる幻の光です。意識で観る光は、永遠に無くならない真実の光です。
太陽の光は、現象の光です。幽界の太陽の光も、現象の光です。オーラの光も、現象の光です。月の光も、星の光も、オーロラの光も、雷光も、虹の光も、電球の光も、現象の光です。また、まぶたの裏側で見えるギラギラした光も、ピカッとした光も、リング状の光も、現象の光です。だから、光が見えたからと言って、喜ばないでください。私たちの目で見える光は、粗い波動の光だから目で見えるのです。
確かに、どんな光も、真実(神)から来ていることは間違いありません。でも、その光は、表現宇宙に降りてくると、粗い光に変わってしまうのです。真実(神)の光は、そんな粗いものではないのです。何とも言えない、穏やかな光です。心を溶かすような、心地よい光です。朝日が部屋に差し込んできたような、爽やかな光です。それは、内的光です。自分自身が光るのです。ですから、真実の光に触れたら、気持ちの良い状態になるのです。真実の光は、幸福の要素をすべて持っているため、真実の光に触れたら、幸福感に満たされるのです。真実の光は、神の意識ですから、神そのもであり、幸福そのものなのです。
その真実の光は、心(意識)の目でしか、観えません。観せてくれるのは、理解力です。理解力が増し、自覚が高まれば、自分の心(意識)の中に、真実の光が観えてくるのです。その真実の光は、永遠に無くなりません。本モノは、決して無くならないのです。ニセモノは、無くなるのです。このように、光には、現象の光と真実の光の二種類の光があるのです。どうか、正しい光の見極めをしてください。
※ 瞑想をしていて、光や、ビジョンが、見えたと言う人がおりますが、これは、決して、悪いことではないのです。たとえ、現象の光やビジョンであっても、ホンモノの光を観るコツを掴むことにつながるからです。ただし、囚われてはなりません。多くの人が現象から抜け出せないのは、見えるモノに囚われてしまうからです。何でも体験することは良いことですが、目的を見失うようなことだけはしないでください。
この宇宙は、きっちりとした、分業制が敷かれています。覚者が単独行動しているのは、分業制の表れの一つです。覚者、一人ひとりは、自分の使命に徹しているのです。意識の世界においても、分業制は守られています。つまり、真我意識は、肉体(宇宙)を健康・健全へ引っ張る役割に徹し、自我意識は、原子核(魂)を大きくする役割に徹しているのです。この分業制が守られている限り、私たちは、一生、健康でいられるのです。しかし、残念なことに、地球人類は、分業制を守っていないのです。殆どの人が、心配・恐怖・イライラ・怒り・憎しみ・恨み・とりこし苦労など、様々な悪想念を肉体に介入させているのです。これでは、生命力は健全な働きをしてくれません。肉体のことは、生命に任せたら良いのです。
あなたの身体の中で働いている生命力は、中途半端な力ではないのです。宇宙をも創造するくらいの偉大な力を秘めているのです。その生命力に委ねれば、肉体は、活き活きと働くのです。もう、健康食品もいりません。健康診断を受けに行く必要もありません。さあ、役割分担を守りましょう。
※ あなたの想念は、何でも作るのです。良いことも、悪いことも・・・。ならば、その想念を、良いことに使ったらどうですか? 悪いことに使っている人は、自分で自分の首を絞めているようなものです。どうか、想念を良いことに使ってください。
自分の思いに疑問を持ちながら生きている人がおりますが、あなたの思い通りに生きたら良いのです。なぜなら、人間は、今の自分の原子核の量に、相応した生き方しかできないからです。つまり、今の原子核の量に、相応した思いしか持てないし、話せないし、行動できないからです。あなたは、そうして、今日まで、自分の人生を作ってきたのです。確かに、苦しいことや悲しいことがあったかも知れません。でも、その苦しみや悲しみが、あなたを成長させてくれたのですから、あなたの生き方は正しかったのです。ですから、これからも、あなたの思い通りに生きてください。ただし、今の自分に満足していてはなりません。自分の思い通りに生きながらも、次の二つのことだけは、やってください。一つは、今、やるべきことを、真心を込めてやること、もう一つは、瞑想をすることです。この二つをやっていれば、原子核が増えますので、自分の思い通りの生き方が高度になります。
神の創られた世界は、うまく出来ているもので、自我の思いで、どのような道を選び、どのような生き方をしても、みな、良かったのです。皆さんは、そうして、今日まで、成長してきたわけですから、今、苦しいからと言って、失敗の人生だと思わないでください。この宇宙に、失敗など無いのです。どんな生き様も成功です。なぜなら、必然しか無いからです。
※ そう思ったのも、必然、そう話したのも、必然、その行為も、必然です。その生き方しかできないからです。しかし、それで、成長して来られたのですから、それは、良かったのです。宇宙が、完全なのは、必然のすべてが進化成長に結びついているからです。
人間社会では、何か事が起きると、起こした人を探し出して罰します。それは、二度と起こされては困るからですが、これは、社会の秩序を保つためには、必要なことです。でも、人を罰することなど、天に任せておいたら良いのです。なぜなら、事を起こした人は、原因と結果の法則によって裁かれるからです。大切なのは、人を罰することではなく、起きた事から学ぶことです。
誰かが悪いことをしなければ、事は起こりません。事が起きなければ、何も体験はできません。それでは、個人も、社会も、成長できないのです。一般人は、事の起こりに気を取られ、学ぶことを忘れています。大切なのは、起きた事から学び、成長することです。だから、私は、事の起こりなど、どうでも良いと言うのです。
繰り返します。
大切なのは、体験し、学ぶことです。学べば、必ず、成長します。と言うことは、事を起こしてくれた人は、有り難い人だと言うことです。ですから、一般人は、仕方ないにしても、皆さんは、事を起こした人を責めないことです。事を起こしてくれたお陰で成長できたのですから、有り難いと思うことです。
※ もし、事を起こした人を責めるなら、宇宙を創造した神を責めなくてはなりません。神は、厳しい表現世界を創ったのですから・・・。
学びの友の中に、過去の人生を悔やんでいる人がいるようですが、あなたは、今日まで、出来ることを精一杯やって生きて来たのです。それは、その時、そう思った事を実行したまでです。それは、必然で良かったのです。確かに、苦しいことがあったかも知れません。でも、そのお陰で真理に出会えたのですから、今日までの人生は、大成功だったのです。
過去の人生を振り返り、自分を責めても、何の益にもなりません。大切なのは、今を、どう生きるかです。どうか、今を、真理に生きてください。今、真理に生きたら、過去の黒石は、すべて白石に変わるのですから・・・。
過去を振り返ることは大切ですが、いつまでも囚われていてはなりません。過去は糧にして、今に生きましょう! 今に生きるとは、神を想うことです。
※ “ 私は、真理を実践しているのに、苦しみが無くならない!”と言う人がおりますが、それは、いまだに、悪想念を使っているからです。苦しみは、業の消えている姿ですから、悪想念の上塗りさえしなければ、苦しみは無くなってゆくのです。でも、苦しいことが来ると、どうしても、また、苦しい想念を使ってしまいます。それが、いつまでも、苦しみの無くならない理由です。
悪想念を持たないためには、外側の現象に負けない、強い心を育てる必要があります。難しいかも知れませんが、どうか、強い心を育ててください。
強い心を育てる方法は、
1. 嫌なことに挑戦することです。(できるだけ、体を動かすようにする。)
2. 瞑想をすることです。
私たちは、神の分身ですから、もともと、自己開発能力が備わっているのです。それは、想念を持っているからです。でも、幼い時期には、そのことを知りませんので、想念を自己開発に使おうとしません。だから、地球人の殆どが、小さな能力に甘んじて生きているのです。皆さんは、そうであってはなりません。ぜひ、想念を使って自己開発してください。自己開発の仕組みは、次のようになっています。
時間の中で生きている、私たちは、時々刻々と原子核を増やしています。原子核が、ある一定量に達すると、正しい指導者に出会うようになっていますから、そこで、原子核を増やす方法を学びます。学んで、原子核が増えれば、宇宙の仕組みが理解できるようになります。
まず、①宇宙の法則が解ります。
次に、②想念の使い方が解ります。
そして、③瞑想の方法が解ります。
①、②、③を実践すれば、潜在していた能力が目を覚まします。その能力を生活の中で試すと、”なるほど、自分は、このようなことが出来るのだ!”と言うことを知ります。自分の能力を拡大してゆけば、いずれ、私たちは、様々な生き物を創造できるようになるでしょう。星を創造できるようになるでしょう。銀河を創造できるようになるでしょう。このように、原子核を増やし、自分の能力を試しながら成長してゆくのが、自己開発の仕組みなのです。
地球人類は、自己開発できる偉大な想念を持ちながら使っていないのです。学びの友の皆さんは、自分の想念の偉大さを知ったわけですから、ぜひ、自己開発に使って、能力を拡大してください。
※ 自分の能力の可能性を追求しているのは、私たちのような、瞑想している者だけです。瞑想は、自己開発の最良の道具なのです。
あなたは、自分を無くすことができますか? 絶対できないはずです。なぜなら、自分が無ければ、何も始まらないし、何もあり得ないからです。つまり、過去も無いし、今も無いし、未来も無いのです。親も、子も、兄弟も、友達も、無いのです。鉱物も、植物も、動物も、何も無いのです。勿論、地球も、宇宙も、ありません。自分と言う認識者がいなければ、認識される相手も、認識される宇宙も、あり得ないのです。それは、自分が認識し、「相手を」、「宇宙を」創っているからです。「私は、相手を創った覚えなどない! 宇宙を創った覚えなどない!」と言っても、自分が認識して、相手を創り、自分が認識して、宇宙を創っているわけですから、絶対、否定できないのです。こう言えるのは、宇宙に、たった1つのモノしか無いからです。そのたった1つのモノが自分ですから、創った覚えがなくても、間違いなく、自分が創ったのです。他に誰かがいるなら、誰かに頼んで、創ってもらうことも可能でしょうが、自分しかいないのですから、自分が創るしかないのです。
あなたは、今、自分がいる事実を否定できますか? 絶対、否定できないですね。ということは、自分は、たった1つのモノであるという証拠なのです。ゆえに、自分を無くすことは、絶対できないのです。
※ 自分とは、神が「自」らを「分」けたと書きます。この自分は、絶対、無くなりません。もし、無くなるなら、神が無くなるからです。神は、永遠不滅の存在ですから、神は、絶対、無くならないのです。と言うことは、自分も、絶対、無くならないと言うことです。
日本には、何々道と言う、極めるべき道が、沢山ありますが、この何々道と言う道は、想念を一つのこと(道)に集中すると言う意味で、瞑想のことを言っているのです。私たちが、日々、やっている社会体験も、想念を集中しなくてはできません。買い物をするときには、買い物に想念を集中してやっています。仕事をするときには、仕事に想念を集中してやっています。遊びに行くときには、遊びに想念を集中してやっています。その意味では、社会体験も、社会道と言う一つの道になるのです。
不動心を極めるために行われている、花道も、茶道も、剣道も、柔道も、想念を集中してやらねばできませんので、結局、瞑想の技術を磨いていることになるのです。
このように、社会体験も、道を極める何々道も、すべて、瞑想の技術を磨いていることになるのです。
(家族体験も道の一つですから、家庭道になるでしょう。)
※ 瞑想とは・・
一点から出てきた、意識核を、一点に帰す(集める)作業です。
一点から出てきた、光を、一点に帰す(集める)作業です。
一点から出てきた、命を、一点に帰す(集める)作業です。
それは、
宗教が、するのではありません。
キリストが、するのでもありません。
釈迦が、するのでもありません。
外側の誰かが、何かが、するのではありません。
自分の想念がするのです。
それは、自力です。自分しかいないからです。ですから、この宇宙に、他力で何かを得ることは、絶対ないのです。
今、あなたは、自分の存在を感じていますね。どうして、感じられるのですか? それは、今、あなたが、存在しているからではありませんか? 今、あなたが、存在していなければ、今、あなたは、自分を感じていないはずです。このことから言っても、今、あなたが、存在している事実は、否定しようがないのです。と言うことは、あなたは、永遠の昔にも存在していたし、永遠の未来にも存在すると言うことです。なぜなら、今、あなたがいるのは、過去に、あなたがいたからであり、また、未来に、あなたがいるのも、今、あなたがいるからです。今、あなたが存在していること自体が、永遠の過去にも存在していたし、永遠の未来にも存在する証しになっているのです。それは、今のあなたの存在が、原因点となっているからです。
今、あなたが存在しているのは、結果です。今、結果が有ると言うことは、過去に原因が有ったからです。その過去の原因は、その前の原因の結果です。その結果は、その前の前の原因の結果です。このように、この原因と結果の輪廻は、永遠に続くのです。では、最初の原因は、いつ、どこから、生まれたのでしょうか? この宇宙は、無限であり、永遠ですから、最初がありません。ですから、原因があるわけがありません。と言うことは、あなたは、原因無き原因者であると言うことです。
未来も、同じです。今、あなたが存在している結果は、すでに、未来のあなたの存在の原因を作り、未来のあなたの存在の結果を生み出しています。その未来のあなたの存在の結果は、更に、その未来の未来のあなたの存在の原因を作っています。このように、あなたが、今、存在していることが、未来永劫、あなたを存在させることになるのです。
もし、あなたがいなければ、宇宙の存在も、神の存在も、認めてやれませんから、宇宙も、神も、存在できません。認める者が存在しなかったら、認められる者が存在しないのは、当然だからです。審判員のいない試合は、成立しないのです。あなたは、審判員のような存在なのです。だから、神が存在していた時には、すでに、あなたは存在していたし、あなたが存在していた時には、すでに、神も存在していたのです。と言うことは、あなたと神とは、同格だと言うことです。同格どころか、あなたは、神そのものなのです。
※ 「誰の宇宙でも無い、自分の宇宙である!」と言うのは、自分の宇宙、以外、ないからです。だから、誰の成長を願う必要もなければ、誰の幸せを願う必要もない! ただ、自分の成長のみ、考え、生きたら良いのです。自分が成長すれば、自分の宇宙に登場する、すべての者が成長するからです。それは、自分しかいないからです。自分の宇宙に登場する役者さんは、自分が用意した自分なのです。
物理の法則の中に「作用と反作用の法則」があります。これは、「作用すれば、必ず、反作用が起こる」と言う法則です。つまり、「原因を作れば、必ず、結果が生まれる」と言う「因果の法則(宇宙の法則)」と同じ法則です。ただし、「作用と反作用の法則」は、物質世界にだけ働く法則ですが、「因果の法則」は、物質世界にも、意識世界にも、働く法則なのです。物質世界で働く「作用と反作用の法則」は、人の目に見えても、意識世界で働く「因果の法則」は、人の目に見えませんから、実際に、「因果の法則」が働いているかどうかは、人には分かりません。だから、科学者は、「因果の法則」の存在を認めようとしないのです。でも、「因果の法則」は、目に見えなくても、間違いなく、働いているのです。その良い証拠が、この世に沢山の苦しみがあることです。「作用と反作用の法則」で言えば、今の苦しい状態は、反作用を受けている状態で、それは、その前に、苦しくなる作用があった証です。「因果の法則」で言えば、今の苦しい状態は、結果(反作用)を受けている状態で、それは、その前に、苦しくなる原因(作用)があった証です。
このように、今、苦しい状態があることが、「因果の法則」が働いている証なのです。もし、「因果の法則」が働いていなかったら、今、苦しい状態があるわけがありません。原因なしに結果だけがあるわけがないからです。どうしても、「因果の法則」の信じられない人は、次のことを良く考えてみてください。
利口な人なら分かるはずです。
この「因果の法則」は、「必然性の法則やエネルギー均衡の法則」を支えている根本法則なのです。
何を学ぶのか? なぜ、学ばねばならないのか? 復習を兼ね、学びの再確認をしたいと思います。
1、学びの目的
まず、人生の目的を知ることです。私たちは、真理を学ぶために生まれてきたのです。
では、真理の何を学ぶのか?・・ それは、「自分が神である」ことを学ぶのです。
何のために学ぶのか?・・ それは、「自分は神であった!」と自覚するためです。
2、学びの手順
学びの目的は、神の自覚を得るためですが、それには、神の色々な側面を知らねばなりません。その知識は、私の本と勉強会の動画から得てください。ここまでが、学びの初歩の段階です。
知識を得たら、実践に入ってください。実践することは、2つあります。
1つは、社会体験ですが、これは、すでにやっておりますから、あえて言うことはありません。
もう1つは、瞑想ですが、真理が、言葉や文字で教えられないように、瞑想も、言葉や文字で教えることができません。ですから、自分で自分なりの瞑想を開拓してください。
瞑想そのものは、何も難しいことはありません。ただ、マントラを想えば良いだけです。そのマントラですが、できるだけ神の深みを持った、マントラを選んでください。マントラについては、本にも書いていますし、動画でも語っておりますので、そこから知識を得てください。
学びの手順を確認しましょう。
3、瞑想の注意点
以上、学びの再確認をしました。
学びで必要なのは、続けることです。続ければ、必ず、結果は得られます。これは、因果の法則が保証してくれるので間違いありません。
※ 私が、嬉しいのは、何でも思える、何でも出来る、何でも生み出せる、想念を持っていることです。もう一つ、嬉しいのは、「やれば、やった分なる!」と言う、原因と結果の法則が働いてくれることです。この「想念」と「原因と結果の法則」がある限り、あなたの望みは、必ず、叶えられます。ただし、やり続けなければ、叶えられません。これだけは言っておきます。
皆さんは、一般人と違い、見えないモノが、真実で、見える物は、幻であることを知っています。さらに、皆さんは、見える物は、見えないモノから生まれ、見えないモノに戻り、再び、見える物に生まれる、輪廻転生のことを知っています。しかし、科学者も、一般人も、そのことを認めません。だから、科学者も、一般人も、人間は、死んだら、お終いだと思っているわけです。
見える物が、いずれ、見えなくなることは、科学者も、一般人も、知っています。ならば、見えないモノから、見える物が生まれることを、認めなくてはならないはずです。もし、見える物から、見える物が生まれるなら、見える物は、永遠でなくてはならないからです。でも、見える物は、必ず、見えなくなるのです。と言うことは、見えないモノから、見える物が生まれることに、疑問の挟む余地はないはずです。このように言うのは、この宇宙には、見える物と見えないモノの二つのモノしかないからです。ならば、見える物が生まれるには、見えないモノが、見える物になるか、見える物が、見える物になるしかないはずです。でも、前述したように、見える物から、見える物が生まれることは、あり得ないわけですから、見えないモノから、見える物が生まれるしかないのです。と言うことは、見えないモノも、見える物から生まれるしかないはずです。「見えないモノも、見える物から生まれるしかない」と言うのは、おかしいと思うかもしれませんが、見えない世界から見れば、見える物が、見えなくなる変化は、見える物から、見えないモノが生まれたように見えるのです。それは、見える物も、見えないモノも、同じ、一つのモノだからです。一つのモノが、見える物になったり、見えないモノになったりしているだけです。その一つのモノを、私は、意識と言ったり、エネルギーと言ったり、神と言ったりしているだけです。
※ 想った通りのものが帰ってくる。こんな、単純で、確かな法則はありません。「良いことを想ったら、良いことが帰ってくる。悪いことを想ったら、悪いことが帰ってくる。この世のことを想ったら、この世のことが帰ってくる。神を想ったら、神の原子核が帰ってくる。」単純に、それだけのことなのです。
私、私、私、私・・・・と、自分の意識を追いかけて行ってみてください。どこまで追いかけても、自分の意識は、掴めないはずです。それは、自分の意識の源が分からないからです。自分の意識の源が分からないと言うことは、初まりも、終わりも、無いと言うことになります。初まりも、終わりも、無いから、生まれた体験も、死んだ体験も、無いのです。
そうです。私たちは、今まで、死んだこともなければ、生まれたこともないのです。永遠に、生き通しだったのです。だから、死後のイメージも、生前のイメージも、持てないのです。
ある学びの友が、このようなことを言っていました。“もし、自分の意識の源が発見できたら、こんな怖ろしいことはないですね!”と・・・もし、自分の意識の源が発見できたら、死ぬ自分を発見したことになりますから、こんな怖ろしいことはありません。だから、神は、どんなに「私、私、私、私・・・」と追いかけて行っても、掴めない意識を、私たちに、与えたのです。
あなたは、永遠に死にません。だから、安心して生きたら良いのです。
※ 原子核を増やす方法は、1に、社会体験、2に、瞑想だと言ってきました。1も、2も、想念を動かしやっているわけですが、例え、体を動かさなくても、想念を動かせば、原子核は増えるのです。私が、「体を動かせば、原子核が増えるから、大いに体を動かしてください!」と言ってきたのは、その説明の方が分かりやすいからです。もし、体を動かすことでしか、原子核が増えないなら、体の不自由な人は、原子核を増やせないことになります。神は、そのような不平等な仕組みを作るわけがないのです。
体を動かさなくても、想念さえ動かしたら、原子核は、間違いなく、増えるのです。体を動かすことに囚われ過ぎている人がいるようですので、ご注意申し上げます。
でも、やはり、体は、できるだけ、動かしてください。重い体を動かすには、やろうと言う、強い気持ちが必要で、その強い気持ち(決意・決心)が、原子核を増やすのです。運動は、家の中でも、家の周りでも、どこでもできます。どこへ行く必要も、お金をかける必要も、ありません。神は、「簡単に、手短に」、原子核が増えるようにしてくれているのです。
今、あなたの環境で起きている、どんな問題も、すべて、瞑想で解決できます。なぜなら、瞑想し、原子核が増えれば、理解力が増し、判断力が増し、先見の明ができ、知恵が増すからです。知恵が増せば、どんな難解な問題も、解決の道が開かれるのです。それだけではありません。病気・事件・事故・災難などの苦しみからも逃れられるし、過去の業も拭うことができるのです。
私たちは、苦労して、自分の欠点を直そうとしますが、直す必要は無いのです。瞑想し、原子核を増やせば良いのです。原子核が増えれば、神の性格に近付いてゆくわけですから、欠点などは、いつの間にか、無くなってしまうのです。 どうか、瞑想してください。どんな問題も、解決します。瞑想で、解決できない問題など、無いことを知ってください。神が完全なのは、瞑想によって、すべて、解決できるようにしてくれているからです。そのことを信じ、瞑想を続けてください。
※ 瞑想は、神が人類に与えてくれた最大の贈り物です。瞑想できることに感謝しましょう!
幸せとは、神のことなのです。だから、幸せな人は、神です。不幸せな人は、神ではありません。でも、その本性は、神です。人間が苦しんでいる状態は、神から遠い状態なのです。人間社会に、不幸せがあると言うことは、全く、神と違う方向へ行っていると言うことです。
神は、この宇宙に、幸せ以外、何も、お創りになっていないのです。なぜなら、神意識そのものが、幸せの素材だからです。大宇宙は、その素材で満たされているのです。だから、この宇宙に、幸せしかないことになり、神しかないことになるのです。なのに、人間社会には、なぜか、苦しいことが、沢山あります。それは、自分が、神の素材で創られた、神だと思っていないからです。
皆さんは、何が欲しいのですか? 幸せ以外、ないのではありませんか? 今、全人類が、幸せが欲しくて生きているのです。今、人類がやっていること全てが、幸せを得るための方弁なのです。お金も、物も、幸せを得るための方弁です。地位も、名誉も、権力も、幸せを得るための方弁です。良い家庭を持つのも、幸せを得るための方弁です。山に登るのも、海に潜るのも、スポーツをするのも、絵を描くのも、音楽をやるのも、すべて、幸せを得るための方弁です。でも、そのことを知らない人間は、一生懸命、汗水流して、方弁のために生きているのです。方弁に、走れば、走るほど、幸せから遠のくと言うのに・・・です。
※ この世の物は、すべて、非実在です。でも、幸せは、実在なのです。たとえば、夢の中で味わっている幸せも、物を通して味わっている幸せも、どんな形で味わっている幸せも、実在なのです。それは、幸せそのものが実在だからです。つまり、味わっている意識そのものが、幸せの大元の神意識だからです。
すべての生き物が、幸せを求めて生きているのです。それは、幸せだけが、確かなモノだからです。だから、私の説いている真理も、確かなモノなのです。
この宇宙に、偶然が有ると思いますか? もし、偶然が有るなら、今、宇宙は存在していないでしょう。と言うことは、今、あなたも、存在していないと言うことです。今、あなたが存在していること自体が、偶然の無い証なのです。それは、あなた、そのものが必然の産物だからです。
どうか、安心してください。この宇宙に、必然しかないことが分かったら、もう、心が揺れることはありません。また、起きていること全てが、有り難く受け取れるでしょう。あなたの前で起きている、良いことも、悪いことも、必然であり、それは、すべて進化成長に結びついている、有り難いことだからです。
私が、一番嬉しいのは、この宇宙が、すべて必然によって運ばれている点です。必然によって運ばれていると言うことは、なるべきにしてなっていると言う意味ですから、起きていることは、すべて良いことなのです。
必然とは、秩序があると言う意味です。法則があると言う意味です。整然としていると言う意味です。ですから、そこに、悪いことの起こりようがないのです。ですから、必然の世界は、善そのもの、正義そのもの、整然そのもの、良いことだらけです。
反対に、偶然とは、無秩序であると言う意味です。法則が無いと言う意味です。無茶苦茶であると言う意味です。そんな、無茶苦茶な宇宙の中で、どうして、安心して生きられるでしょうか? 私たちが、曲がりなりにも、安心して生きられるのは、偶然の無いことを本能的に知っているからです。
必然しか無いと思っている人は、心穏やかになります。偶然が有ると思っている人は、不安だらけです。人生を苦しくしているのは、何事も、偶然に起きると思い、不安・心配・恐怖の中で生きているからです。心穏やかに生きられるようになるためには、起きていること、すべてが必然であり、それは、すべて良いことであると、どれほど信じられるかです。
必然が良いことである理由は、必然の背後に完全な法則が働いているからです。完全な法則の下では、悪いことは、起こりようがないのです。法則の下で、悪いことが起きるなら、宇宙は、そく、消滅してしまうからです。神は、魂を進化成長させるために、表現宇宙を創造されたわけですから、あなたの周りで起きている、どんなことも、良いことなのは当たり前なのです。ですから、どんなに悪いように見えていることも、良いことだと思い、決して、ネガティブにならないことです。
どうか、必然を信じてください。あなたの人生を、暗いモノにするか、明るいモノにするかは、いかに、必然を信じられるかで、決まるのですから・・・。
※ 必然が良いことなのは、私たちの先輩である、お釈迦様や、イエス様や、知花先生が、自分の思い通りに生きて、自覚の境界線を超えられたこと、そして、今も自分の思い通りに生きて、進化の途を歩まれていることが証明しています。そんな、確かな証拠があるのですから、あなたも、自分の思い通りに生きたら、間違いなく、自覚の境界線が超えられるのです。
人から何か嫌なことを言われた途端に、”カーッ!”となる人がおりますが、誰が、”カーッ!”とさせたのでしょうか? 言った人でしょうか? 聞いた自分でしょうか? 聞いた自分が、”カーッ!”とさせたのです。”カーッ!”としたら、自分の心が汚され、身体まで毒されるわけですから、こんな大損なことはありません。でも、殆どの人が、大損なことをしているのです。
自分の宇宙(心)の管理者は、自分自身です。嫌なものを、自分の宇宙(心)に、入れるか、入れないかは、管理者である自分の自由意志で出来るのです。自分が入れなければ、自分の宇宙(心)に、嫌なことは、入ってこられないのです。だから、すべて自己責任です。
日々の生活を、良くするも、悪くするも、 人生を、良くするも、悪くするも、想念が握っているのです。それは、どんな想念を持つかで決まるのです。では、どんな想いを持てば良いのでしょうか?
それは・・・
楽しい思いです。
明るい思いです。
感謝の思いです。
ありがとうの思いです。
一番、良い思いは、神を想うことです。神を想っている時は、日々の生活を良くし、人生を良くしています。物質のこと(この世のこと)を、想っている時は、日々の生活を悪くし、人生を悪くしています。無常のモノを、無いモノを、幻のモノを、想う(瞑想する)から、そうなるのです。
目をつぶって、やることだけが、瞑想ではありません。普段、思っていることすべてが、瞑想なのです。私たちは、今日まで、 何気なく思っていたことで、人生を作ってきたのです。それは、瞑想して、人生を作ってきたと言う意味です。そのことを知らない人間は、思いたい放題のことをしては、事故、災難、病気、などを招いて、苦しい人生を送っているのです。
思いを軽んじることほど、大罪なことはありません。なぜなら、悪い思いが、悪い思いを呼び込み、争い事を生み出してしまうからです。争いごとのすべてが、思いが原因で起きていることを知ってくだい。こんな重要なことに、人類は、まだ、気付いていないのです。
どうか、良い想念を持つよう、心掛けてください。それは、自分だけでなく、人類のためにも、地球のためにも、なるのですから・・・。
※ 皆さんのような、熟した魂は、繊細な心を持っていますので、どうしても、先読みしがちです。先読みは、余計なことを考えるわけですから、これは、良いことではありません。
先読みしないことです。つまり、こうなるのではないか? ああなるのではないか? と、まだ、なっていないことを先読みしないことです。また、人がこう思っているのではないか、ああ思っているのではないかと、余計な妄念を抱かないことです。
今、あなたがやるべきことは、肉体を維持するために必要なことを、真心を込めてやることです。そして、余った時間を、瞑想に使うことです。
「人類の夜明3・・真実はひとつ」の書は、真理の書としては、最高傑作品です。ただし、単に、言葉や文字として受け取るなら、それは、知識ですから、心までは届きません。でも、波動として受け取るなら、心の深いところまで届きます。
神は、夢の中でさえ、真理を学べるようにしてくれているわけですから、「人類の夜明3」の書を単なる知識の書で終わらせるはずがありません。そうです。「人類の夜明3」の書の中には、天の想いが篭っているのです。ですから、声に出して読めば、響きの中から、文字に書けば、形の中から、神の想いの波動を汲み取ることができるのです。
私が、皆さんに、ぜひ、お願いしたいのは、「人類の夜明3」の書を、手書きして欲しいと言う願いです。難しいことはありません。ただ、「人類の夜明3」の書の中から、あなたの好きな言葉を選んで、手書きすれば良いだけです。大切なのは、手書きすることです。多く手書きすればするほど、天との通路が太くなりますので、天の想いが降りやすくなります。できたら、毎日、書いてください。その手書きした真理をまとめれば、自分の座右のバイブルになります。
私のホームページは、真理の宝庫ですから、どこからでも、真理の言葉を探し出すことができますが、特にお勧めしたいのは、「人類の夜明3・・451ページ(神の独り言)」です。本をお持ちでない方は、当ホームページの「神の独り言」をご覧ください。
学びの友の皆さんは、選ばれた天使です。天の光を地に降ろす使命があるのです。それは、瞑想と、真理の言葉を手書きすることで果たすことができるのです。これは、凄いことなのです。
手書きの言葉の一例・・・
私は神!
神を・・
遠くに探しに行ってはなりません
神は・・
私の手よりも、足よりも、近くにおられるからです
また、神を・・
外に探しに行ってもなりません
神は・・
私の中におられるからです
また、神を・・
神秘化してもなりません
神は・・
何処にでもいる、ありふれたお方だからです
神は・・私です
私は・・神です
私は光!
私は光!・・私は光!・・私は光!・・
私は、光から生まれた、光の子です。
私は・・眩しいまでに、光り輝いています。
光!・・
光!・・
光!・・光!・・光!・光!・光!・光!・・・・・
私は・・幸せいっぱいです。
笑いの心!
ありがとう! ありがたい! の 感謝の心
うれしい! 楽しい! の 喜びの心
成せばなるぞ! の 希望の心
やってやるぞ! の 闘志の心
すごいなあ! 素晴らしいなあ! の 感動の心
前進! まい進! の ひるまぬ心
わはは! あはは! の 笑いの心
神様ありがとう!
どんな辛いことも、全て、善いことです!
どんな苦しいことも、全て、ありがたいことです!
それが・・
進化成長に運んでくれる、神の愛です
もう、ありがたくて! ありがたくて! 仕方がないのです
神の愛が、あまりにも、深く、高く、大き過ぎて・・
“ありがとう!” の言葉しか出てこないのです
神様、ありがとう!
本当の自分よ、ありがとう!
瞑想ほど、大切なことはありません。瞑想は、何でも成就させる力を持っているからです。その事を踏まえ、瞑想の特典を考えてみることにしましょう。
自分の本性が自覚できるようになる。
求道の目的は、「自分は、神であった! 生命であった! 光であった! 意識であった!」と、心の底で思えるようになることです。その境地には、瞑想し、原子核が増えれば、自動的になるのです。
業が解消される。業を作らない。
なぜ、業を消し、業を作らないかと言いますと、瞑想している時には、悪いことが考えられないからです。不思議なことに、瞑想し、原子核が増えれば、段々と、悪いこと(余計なこと)が、考えられなくなるのです。悪いことを考えなければ、業が作られないわけですから、原因と結果の法則によって、穏やかな人生になるのです。
病気にもならず、事故災難にも遭わない。
病気になるのも、事故災難に遭うのも、光が少ないからです。瞑想し、原子核が増えれば、光が強くなるので、病気にもならないし、事故災難にも遭わなくなるのです。
自分だけでなく、肉親や、親しい人たちや、死んだ人たちの、進化に貢献できる。
瞑想し、光を放てば、肉親や、親しい人や、幽界に帰った人たちの、進化にも、貢献できます。ある段階まで成長した幽界人は、死んで向こうへ帰っても、真理を求め続けているのです。そのような魂は、真理を学んでいる人たちの動向を、常に見ているのです。もし、皆さんが、真剣に瞑想している姿を見せつければ、彼らは、きっと、見習って、瞑想するでしょう。例え、迷っている幽界人であっても、瞑想して、光っている姿を見せつければ、何かを考えさせることができるでしょう。このように、瞑想は、自分だけでなく、周りの人たちにも、幽界人たちにも、影響を与えることができる、大変意義あることなのです。
人類を、地球を、宇宙を、浄化することができる。
瞑想している時は、光を放っています。その光は、人類をも、自然をも、地球をも、宇宙をも、浄化してくれるのです。
※ 瞑想すれば、人生が好転するのは、この世のことを思わなくなったからです。「想念は、実現の母」と言われるように、思ったことは、何でも実現するのが、想念の力です。その力を、今まで、皆さんは、この世の苦しいことに使ってきたのです。だから、苦しいことがやってきたのです。人生を良くしたかったら、想念を、良いことに使うことです。良いことの一番が、神を想うことなのです。どうか、やってみてください。やってダメでも、もともとではありませんか? やらないで、嘘だと言わないでください。
※ 瞑想すれば、罪滅ぼしになります。瞑想するまでに進化したのは、過去生で犯した罪が、学ばせてくれたからです。罪を悔やんで、自分を責める時間があるなら、瞑想してください。その時、あなたは、罪滅ぼしをしているのですから・・・。
愛し合うとは、何を愛し合うのでしょうか? 人を? 何かを? いいえ、愛し合うとは、自分を愛し合うことなのです。それも、外側の自分と内側の自分が愛し合うことなのです。自分の中には、二人の自分がいるのです。一人は、真我の自分です。もう一人は、自我の自分です。真我の自分が、自我の自分を愛し、自我の自分が、真我の自分を愛するのが、愛し合いなのです。私たちは、二人の自分を愛し合いながら成長してゆくのです。
外側の世界は、幻の世界です。内側の世界は、真実の世界です。ですから、他愛は、無いのです。あるのは、自愛のみです。自愛しかできないのは、他人がいないからです。世間では、「他愛ない!」と言う言葉を 、”つまらない!” 、とか、 ”しようもない!” 、と言う意味で使っていますが、他人がいないのですから、他愛ないのは、当たり前です。自分しかいない世界に、他愛があるわけがありません。だから、自愛で良いのです。
では、真我の自分が、自我の自分を愛し、自我の自分が、真我の自分を愛する、愛し合いは、どのような、愛し方なのでしょうか? それは、いつも、想い合うことです。いつも、意識し合うことです。つまり、真我は、いつも、自我を想い(意識し)、自我は、いつも、真我を想う(意識する)ことが、愛し合うことなのです。この愛し合いは、瞑想を意味し、自覚の境界線を超えても、永遠に続けられるべきものなのです。
神は、完全です。その完全な神が、意味なく、何かを起こすはずがありません。起きたことは、みな、意味のある、必然なのです。その必然は、すべて良いことなのです。それは、そのことしか起きようがなくて、起きているからです。完全な神が、そのことしか起きようがなくて、起こしているのですから、それが、必然で、良いことなのは、当然ではありませんか? 神が不完全なら、偶然に、悪いことが起きても仕方ありません。でも、神は、完全ですから、良い必然しか起きようがないのです。何かが起きたのは、必要あって起きた必然で、そのことが起きることによって、進化成長できるからです。ある学びの友が、こんなことを言っていました。「偶然で起きた悪いことは、嫌なことですが、必然で起きた悪いことは、良いことですね!」と・・・ 。必然しかないのですから、起きたことが、良いことなのは当然です。
起きたことは、結果です。結果が生まれて、はじめて、起きたことの意味が分かるのです。結果が生まれなかったら、起きたことが、良かったか、悪かったか、分かるはずがありません。それでは、学べないのです。
どんな悪しきことも、良いことだと言えるのは、どんな悪しきことも、進化成長させてくれるからです。この宇宙には、良い水しか無いのです。川から水を汲んでも、井戸から水をくんでも、海から水を汲んでも、みな、良い水なのです。その人には、不利益な水に見えても、その不利益な水は、利益の水につながっているのですから、不利益な水など無いのです。それは、一つの神の水しか無いからです。これが、何が起きても、必然で、良いことだと言う意味です。
神が、どうして、悪と思えることを、人類に許しているのでしょうか? それは、自我の思いが、必然で、その思いで起きた悪いことが、すべて良いことだからです。銃を作るのも必然、銃で脅すのも必然、銃で傷つくのも必然、銃で殺されるのも必然です。神は、こんな理不尽なことまで、許しているのです。それは、幼い魂を成長させるために、必要なプロセスだからです。だから、私は、核爆弾を作ることも、使用することも、肯定はしないけれど、否定もしないのです。今、地球上にある悪と思われる、物・人・環境は、正しい道に乗せるために必要な諸悪であり、みな、必然が用意した良いことなのです。この宇宙は、善と悪・光と闇が、互いに支え合いながら、進化成長するようにできているのです。悪はないのです。闇は無いのです。すべて善であり、すべて光なのです。
※ あなたに起きた、どんな出来事も、すべて、良き必然だと思ってください。例えば、事故に遭った・・ 蚊に刺された・・ 足をくじいた・・ 人に騙された・・ 試験に落ちた・・ 確かに、現象面だけ見たら、良いとは思えません。でも「風が吹けば桶屋が儲かる」の譬えのように、すべて、自分を成長させる、良いことにつながっているのです。確かに、苦しいでしょう! 辛いでしょう! 煩わしいでしょう! 腹立たしいでしょう! でも、その厳しいことを乗り越えれば、大きく原子核を増やすことができるのです。
苦しいことを回避しようとする自己防衛は、進化成長を妨げる矛盾です。どうか、苦しいことから逃げないでください。果敢に挑戦し乗り越えてください。
自分の欠点も、自分が克服しなければならない課題も、自分の存在さえも、結果が教えてくれます。私は、いつも、言います。
「相手(結果体)が、どうしているのですか? それは、自分(原因者)が、いるからではありませんか? 自分(原因者)が、いなければ、相手(結果体)は、いないのですよ! なぜなら、自分がいるから、相手関係が生まれるのであって、自分がいなければ、相手関係が生まれるわけがないからです。と言うことは、相手は、自分が連れてきた自分であると言うこと、つまり、自分が創った自分であると言うことです。そう断言できるのは、相手(結果体)の中に、素材である、自分(原因者)が、いるからです。」と・・・。
このように、自分(原因者)が、相手(結果体)を創り、相手(結果体)が、自分(原因者)を創っているのです。自分(原因者)の存在さえも、相手(結果)が、教えてくれると言うのは、見える相手(結果体)が、見えない自分(原因者)を教えてくれるからです。ですから、見える結果体が存在しなかったら、私たちは、永久に、自分(原因者)の存在が分からないのです。これは、自分(原因者)と相手(結果体)が、一つだからです。同じだからです。
しかし、一般人は、原因者と結果体との関係を認めようとしません。だから、彼らは、過ちが見付けられないので、余り成長できないのです。でも、学びの友の皆さんは、認めていますから、過ちを正して、成長できるのです。皆さんにとって、結果体は、本当に、ありがたい存在なのです。
「結果が見えて、肌で感じられること(痛いこと・苦しいこと・悲しいこと)は、素晴らしいことですね!」と、ある学びの友が言っていましたが、正に、そのとおりです。もし、結果が見えなかったら、私たちは、過ちを正そうとしませんから、永久に成長できないでしょう。と言うより、自分の存在さえも分からないのですから、宇宙の迷い子です。見えて、肌で感じられる肉体(結果体)があるから、私たちは、自分(原因者)の存在を知ることができるのです。
では、原因者とは、何でしょうか? それは、私たちの意識です。肉体は、結果体なのです。もし、結果体(肉体)が、見えず、肌で感じられなかったら、私たちは、自分(意識)の存在を、永久に知ることはできないはずです。だから、私は、自分(意識)の存在を教えてくれる結果(肉体)は、ありがたい! 自分の過ちを教えてくれる結果(起きたこと)は、ありがたい!と言うのです。
科学者も、誰もが、先に、物(表現宇宙)があって、それを、私たちは、見ていると思っています。でも、それでは、原因と結果が逆さまになってしまい、宇宙は存在できません。あくまでも、先に原因があって、後に結果が生まれるのです。原因なしに、結果が生まれるわけがないのです。私たちの意識が原因ですから、私たちの意識(原因)が、物(結果・表現宇宙)を創り、私たちの意識が、その物(結果・表現宇宙)を見て感じているのです。だから、私たちの意識が、宇宙を創っていることになるのです。でも、その意識の存在は、見える結果体がなくては、分からないのです。例え、私たちの意識があっても、見える結果体がなくては、証明してくれるものが無いわけですから、私たちの意識は、無きに等しいのです。結果体が証明してくれるから、私たちの意識の存在が可能なのです。と言うことは、結果と原因は、対等だと言うことです。同格だと言うことです。
原因と結果の関係は、表裏の関係にあるのです。裏(原因)が、なければ、表(結果)は、無いし、表(結果)が、なければ、裏(原因)も、無いのです。両方あって、「ソノモノ」が存在できるのです。だから、結果体は、原因者そのものであり、原因者は、結果体そのものであると言えるのです。でも、実際にあるのは、あくまでも、原因者の方です。これだけは、絶対に譲れません。譲ったら、両方が消えてしまうからです。どうか、結果が、過ちを教えてくれる、結果が、自分(原因者)の存在を教えてくれる、「原因と結果の法則」に感謝しましょう。
神は、永遠に知ることができません。その永遠に知ることのできない神が、今、私の中にいるのです。だから、私も、永遠に知ることができないのです。でも、それで良いのです。もし、知ることができたら、それは、神でなくなるし、私でもなくなるからです。
神は、無限なのです。そんな、神を、どうして、知ることができましょうか? もし、知れたら、それは、有限の神になってしまいます。有限ということは、終りがあると言う意味ですから、それでは、神でなくなってしまいます。
神には、終わりが無いのです。終わりが無いから、始まりもないのです。終わりも、始まりも、無い存在を、どうして、知ることができましょうか? 始まりがあり、終わりがあれば、引っ掛かりがあるので、爪でメクルことができますが、引っ掛かりがないので、爪でメクルことができないのです。神は、まっ平らなのです。 “何だ! 神って、永遠に知ることができないのか!?” と、ガッカリしないでください。神は、知ることができます。永遠に、神を知ることができないと知ったことが、神を知ったことになるからです。そのことを、今、あなたは、知ったのです。と言うことは、あなたは、今、神を知ったと言うことです。
永遠に知ることができないのが、神の証なのです。
永遠に知ることができないのが、私の証なのです。
この宇宙で、最も確かなことは
神のみが語れるという事実です
ならば・・
言葉を語れる、あなたは、
神ではありませんか?
あなたは、先ほど
友たちと語り合いましたね
本当に、友たちと語り合ったのでしょうか?
いいえ、
あなたは、神と語り合ったのです
神である、あなたが・・
神である、友たちと語り合ったのです
なのに、あなたは・・・
人が語っていると誤解しています
これは、神に対して失礼です
あなたは、先ほど・・
自分のことを人間だといいましたね!
これも、神に対する冒涜です
これでは、神様から・・
「あなたは、嘘をついていますよ!」
といわれても仕方ありません
どうか、
言葉を盗まないでください
どうか、
嘘をつかないでください
あなたは、間違いなく、神なのですから・・・
※「身・口・意」は、三位一体です。口(言葉)は、三位一体の真ん中に位置します。ですから、口(言葉)は、神人に当てはまります。
(神 = 神人 = 人)・・三位一体
神は・・意です。
神人は・・言葉です。
人は・・行為です。
言葉(神人)は、神の意と人間の行為が合わさった状態なのです。
※ 自覚の味を知らない者が、真理を語る資格はありません。また、自覚の味を知らない者が、瞑想を教えることもできません。
※「 真理(宇宙)を知った!」と言う人は、何も知らない人です。「真理(宇宙)は、知れない!」と言う人は、何かを知った人です。その人は、謙虚になります。それは、謙虚にならざるを得ない真理の深みを知ったからです。
私たちは、意識を持っています。その意識は、前後のつながりを持っているアナログ的な意識です。アナログ的意識だから、自分が何なのか分かるのです。もし、デジタル的(ぶつ切りの)意識だったら、前後のつながりがないので、自分の存在も、妻子の存在も、表現宇宙の存在も、分かりません。それでは、表現宇宙に、何も物語が生まれないのです。意識がアナログ的であると言うことが、自分の存在と宇宙の存在を確かなものにし、究極の幸せを生み出してくれているのです。
安心してください。自分の意識は、絶対無くなりません。こんな幸せなことがありましょうか? いや、こんな苦しいことがありましょうか? と言うべきでしょうか? なぜなら、意識があるから、苦しむからです。でも、意識がなかったら、苦しみも体験できないけれど、幸せも体験できないのです。
あなたは、幸せが欲しくないのですか? 「苦しまないで済むなら、幸せなどいらない! 意識などいらない!」と言うのですか? でも、どんなに、いらないと言ったところで、自分の意識は、絶対なくならないのです。それは、意識がアナログ的だからです。
永遠の意識を持つことが、苦しいと思えば、苦しいのです。永遠の意識を持つことが、楽しいと思えば、楽しいのです。それは、意識の使い方次第なのです。どうせ、無くせない意識なら、楽しいことに意識を使ったら、どうでしょうか?
学びの最終目標が、意識(想念)のコントロールであると言われるのは、使い方次第で、幸せな宇宙にも、不幸せな宇宙にも、できるからです。
※ 意識は、絶対実在です。意識がなかったら、何も生まれないのですから、意識が絶対実在であることは、間違いありません。では、意識って、何でしょうか? 意識は、何処から来るのでしょうか? 意識の源は、何んでしょうか? 意識を生み出しているのは、何でしょうか? どうして、意識が有るのでしょうか?
意識を意識している意識、その意識を意識している意識、そのまた意識を意識している意識、どんなに、意識を探って行っても、意識の源は分かりません。一体、意識の正体は、何なのでしょうか?
意識が意識して意識を生み出している。意識の生みの親は、意識なのです。意識が原因者であると言う意味です。でも、意識された意識は、結果です。その意識が意識した意識も、結果です。その結果は、原因者が生み出しているはずですが、その原因者である意識も、結果です。と言うことは、依然として、意識の正体は、解らないのです。
どんなに探っても、解らないのが意識なのです。解らない意識を、探るほど、愚かなことはありません。でも、意識とは、そう言うモノである、と言うことだけは、知っておいてください。
何事も、「拘ってはならない!」と言われるのは、この世は、腰掛けの世界だからです。腰掛けの世界に、 ”こう、あるべきだ! ああ、あるべきた!” と言った、拘り事などあるわけがないのです。折り紙の「騙し船」のように、こちらを掴んでいたつもりが、いつの間にか、別な所を掴まされているのが、腰掛けの世界なのです。
良いではありませんか? どんなに器量が悪くても、どんなに頭が悪くても、どんな学校を出ていても、どんな仕事に就いていても、どんな小さな家に住んでいても、すべて魂を大きくするための方便なのですから・・・。どんなに、お金や、地位や、名誉や、権力を持っていても、どんな素晴らしい家族を持っていても、死ねば、みな、置いて帰らねばならないのですよ。そんなモノのために、拘って、悩み、苦しむなど、愚かです。
賢い人は、持って帰れるモノのために生きます。持って帰れるモノとは、唯一、原子核(魂)です。
※ 勝敗に拘って、成績を落としているアスリートがおりますが、拘れば、光を閉ざすので、成績が悪くなるのです。競技を楽しんでください。楽しめば、光が入ってくるので、成績が良くなります。求道の旅も、同じです。「ねばならない!」と言った、拘りを持って、真理を求めると苦しくなります。どうか、楽しみながら、真理を求めてください。
真我意識は、真我意識だけでは、存在できません。もう一つの意識があって、はじめて、真我意識が、存在できるのです。もう一つの意識とは、自我意識のことです。真我意識と自我意識は、同じ一つの意識ではありますが、別けなければ、客観的見方ができないため、真我意識を別けたのです。別けて初めて、真我意識が存在できるようになったのです。自我意識が存在しなかったら、たとえ、真我意識が存在していたとしても、存在していないのと同じなのです。なぜなら、認める意識がなければ、認められる意識は、存在できないからです。このように、自我意識と真我意識は、相身互いの関係にあるのです。どちらが存在しなくても、どちらも存在できないと言うことです。これは、次のような例えで示せるでしょう。
「雑巾」には、表と裏がありますが、この段階では、雑巾は、存在していないのです。表だけの雑巾もなければ、裏だけの雑巾も無いという意味です。「雑巾」は、表と裏があって、はじめて、「雑巾」として存在できるのです。意識も同じように、表の意識(自我意識)と、裏の意識(真我意識)があって、はじめて、本当の私(神人の意識)が、存在できるのです。「雑巾」とは、「神人の意識」のことです。すなわち、本当に有る意識のことです。
「神は、絶対有るモノ・・人間は、無いモノ・・神人は、本当の有るモノです。」
※ あなたは、今まで、一度も、自分の意識から離れたことがないのです。と言うことは、あなたは、今日まで、自分の意識に監視されてきたと言うことです。だから、あなたは、自分を偽ると苦しくなるのです。自分の意識から離れたことがないのは、自分の意識は、二つであり、一つだからです。
神の心は、真心です。神は、その真心を使って、この表現宇宙を創造されました。その神と同じ心を持っているのが、私たちですから、真心を使ってやれば、成し得ないことは(不可能なことは)、無いのです。私は、やっているけれど、何も変わらないと言う人は、真心の込め方が、足りないからです。つまり、真剣さが、足りないからです。真剣さの中には、動機も含まれていますから、不順な動機でやっていないかも、顧みてください。これは、家庭生活においても、社会生活においても、真理を求めることにおいても、言えることです。特に、真理を求めることにおいては、真剣さと動機が大切です。あなたは、真剣に、しかも、純粋な動機で、真理を求めていますか? 片手間で、この世のご利益が欲しくて、真理を求めていませんか?
神は、あなたの中に、おられるのですから、どれほど、真剣にやっているかは、ご存知なのです。どうか、神が納得するような、真剣さと動機を持ってやってください。そうすれば、必ず、あなたは、変わります。あなたの周りの環境も良くなります。勿論、健康にもなります。そうすれば、真理も求めやすくなります。もう、あなたの前に、何の障害物も置かれないでしょう。
※「ただ、やりたいからやる!」と言うのが、極上の動機です。でも、それでは、目的が見えないので、力が入らないでしょうから、原子核が有る大きさに達するまでは、「世のため、人のためにやる! 原子核を増やすためにやる!」と言う動機でやってください。
悪を知らない、赤ちゃんは、確かに、善人かも知れません。でも、それでは、真の善人とは言えないのです。なぜなら、体験のない善人だからです。真の善人とは、悪の苦味を体験して、善の尊さを知った人です。同じように、この世の苦味を知らない無垢な神では、神人にはなれないのです。この世の苦味を知った人間が、神に目覚めた時、神人になれるのです。ですから、どうしても、人間として生まれ、この世の苦味(悪)を体験する必要があるのです。
私たちは、間違いなく、神です。でも、体験途中の神なのです。体験を深めれば、心の底で、神(本当の自分)を知るので、神人になれるのです。
※ 神を説明する言葉は、この宇宙には、ありません。でも、近い言葉ならあります。それは、意識です。生命です。光です。魂です。本質です。一です。○です。しかし、それでも、依然として説明し切れていません。でも、それで、良いのです。説明し切れたら、神は、有限の存在になってしまうからです。
世界を変えたいと言って、デモをする人がおりますが、そんな人騒がせなことをしなくても、自分の意識を変えれば、世界は変わるのです。こう言うことです。
私たちが、日々、見て感じている世界は、理解力の高さによって、見ているモノが違ってくる世界です。ですから、同じ世界を見ているようで、人それぞれ見ているモノが違っているのです。原子核が大きくなり、理解力が高まれば、自分の意識に変化が起きてきます。そうすると、今までの、見方が変わり、感じ方が変わり、受け取り方が変わり、納得の仕方が変わってくるのです。例えば、今まで、憎んでいた相手や厳しく思えた環境が、なぜか、憎めなくなり、なぜか、厳しく思えなくなるのです。それどころか、反対に、愛おしい相手に見え、穏やかな環境に見えるのです。それが、自分の意識を変えれば、世界が変わると言う意味なのです。それで、良いのではありませんか? 自分の心が穏やかになることが、大切なのですから・・・。
「人を変えたい! 環境を変えたい!」と、悩まないでください。原子核を大きくしたら、自分が変わるのですから・・・。
※
※ 宇宙の法則から言って、内側(魂・原子核)が変われば、外側(人・環境)が変わるのは、当然です。しかし、今の地球は、波動が粗いので、変わるには、時間がかかります。でも、根気よく、内側を変えてゆけば、必ず、外側は変わります。
内側を変える方法は、社会体験と瞑想です。この2つのことをやれば、原子核が大きくなるので、自分の意識が変わります。自分の意識が変われば、外側の環境も変わってくるのです。
この世には、イモ人間だとか! イモ野郎だとか! イモ侍だとか! イモ姉ちゃんだとか! 芋を、あざ笑う言葉がありますが、「イモを、あざ笑う者は、イモに泣く」のです。
こんな話があります。
ある国に、コメの栽培を奨励する殿様と、イモの栽培を奨励する殿様がおりました。コメの栽培を奨励する殿様は、イモの栽培を奨励する殿様を「バカな殿様だ!」と、あざ笑っていました。ある年、その地域に、干ばつが襲いました。稲は、干ばつに弱いので、米作りを奨励していた国では、ほとんど、コメが取れませんでした。ですから、その国では、多くの餓死者を出しました。一方、イモは、干ばつに強いので、イモの栽培を奨励していた国では、一人の餓死者も出ませんでした。
「イモ」は、どんな荒れ地でも採れる、ありふれたものです。「想念」も、誰でも持っている、ありふれたものです。でも、そのありふれた想念が、人生を良くも悪くもするのです。想念を軽んじて使っている者は、必ず、痛い目に遭います。それが、「想念(イモ)を、あざ笑う者は、想念(イモ)に泣く」と言う意味です。
私は、イモが大好きです。イモさえあれば、他に何もいりません。つまり、想念さえあれば、他に何もいりません。人生は、想念次第なのです。想念さえあれば、人生は、いかようにもなるのです。
皆さんは、想念の凄さ、想念の偉大さが、まだ解っていません。この表現世界で、最も大切なモノは、家族でも、仕事でも、地位でも、権力でも、お金でも、宝石でも、ありません。想念です。どうか、想念を重んじてください。
※ 外側のモノに頼らないでください。内側の想念に頼ってください。神仏や、親や、友達や、先生や、薬や、医者や、お金や、権力に頼っても、それは、外側頼り(他力)ですから、成就しませんが、想念は、内側頼り(自力)ですから、間違いなく、成就するのです。
自分が存在している証は、今、自分と「思」える意識を持っていることです。今、自分と「思」える意識を持っていることが、自分の存在を証明しているのです。では、その自分と思える意識は、何処から来たのでしょうか? それが、謎なのです。どんなに探っても、解らないのが、自分の意識なのです。でも、解らなくて良いのです。解ったら、自分が消えてしまうからです。
求道者の目的は、解かりようのない「意識」の謎を、永遠に探って行くことです。解かりようのない「意識」の謎を探って行くことに、どんな意味があるのかと思われるでしょうが、探って行けば、「意識」の謎の一部分が解かり、解った分、新鮮な幸せが得られるからです。
私たちが、欲しているのは、永遠に尽きない、永遠に色あせない、新鮮味のある幸せです。その幸せは、意識の謎(宇宙の謎)が解ったら、解った分、得られるようになっているのです。だから、私たちは、解かりようのない意識の謎(宇宙の謎)を、永遠に探って行く必要があるのです。
※ 自分の意識を無くすことは、絶対できません。どんなに無くしたいと思っても、無くすことができないのが、自分の意識なのです。なぜなら、今、 自分と思えているからです。
自分の意識の永遠性は、今、 自分の意識が存在していることが、証明しているのです。
※「自分の意識が無かったら、どんなに幸せか?」と、思うかも知れませんが、自分の意識が無かったら、その「幸せ」さえ、味わうことができないのですから、そんな思いを持つこと自体、無意味なのです。
※ 「真剣に・純粋に」、真理を求めている者を、神は、決して、悪いようにはしません。
マラソンで、2時間1分台の新記録を出した選手が、優勝後のインタビューの中で、こんなことを言っていました。「マインドが記録を作った!」と・・・真理を、どれほど、知っていたかは分かりませんが、走ったのは、肉体ではなく、心だと、彼は言いたかったのでしょう。
今の地球人類は、身体が、何かをやっていると思っています。でも、すべて、心(想念)が、やっているのです。心(想念)が、なかったら、指一本、動かすことができないのです。心(想念)が、ご主人様で、身体は、下僕なのです。下僕ですから、身体は、心(想念)に、絶対服従です。心が嬉しければ、身体は嬉しい表現をするのです。心が苦しければ、身体は苦しい表現をするのです。この表現世界は、心(想念)の絵の展示場のようなものなのです。心が美しければ、美しい絵が展示され、心が醜ければ、醜い絵が展示されるのです。今、社会に醜い絵が展示されているのは、人類の心が醜いからです。
地球で、真理の火の手が上がるのは、スポーツ界からです。スポーツは「原因と結果の法則」が、いち早く現れるので、一般人にも分かりやすいのです。
※ もし、スポーツ界で、心が重視されるようになったら、驚くような記録が続出するでしょう。もう、競うこと自体、無意味になるでしょう。
※ この世の何が信じられなくても、自分の想念だけは、信じてください。
なぜなら、自分の想念だけが、実在だからです。
※ この世に、恐ろしいものが有るとすれば、自分の想念です。
この世に、素敵なものが有るとすれば、それも、自分の想念です。
※ たかが、想念、されど、想念です。
想念を、軽んじている者は、想念で、泣かされるでしょう。
瞑想している、皆さんの悩みは、雑念が湧くことだと思います。そこで、雑念を少なくする、三つの方法を、お勧めしたいと思います。
1. 瞑想をする前に、体を動かすこと。
若い人は、エアロビックスのような、少しキツイ運動を・・・老人は、それなりの運動を・・・できたら、三分から五分くらい・・・。身体を動かした後は、呼吸を整え、瞑想に入ってください。
2. 思いの壁を作ること。
瞑想に入る前に、「私は、神(自分のマントラ)以外、何も想わない!」と、強く思ってください。強く、思えば、思うほど、思いの壁ができ、雑念が湧きづらくなります。
3. 目を開けて瞑想すること。
一番良いのは、マントラを書いた紙を、壁に貼り付け、それを、ジッと見続けながら、マントラを想うことです。雑念が少なくなったら、目をつぶって、瞑想に入ってください。それも、重ねる瞑想を・・・。
人それぞれ意識状態が違いますので、全員に有効かどうか分かりませんが、雑念が湧いて困っている人は、ぜひ、試してみてください。
※ あなたが、瞑想している時は、アナタは実在しています。なぜなら、真実を創っているからです。あなたが、この世のことを想っている時は、アナタは実在していません。なぜなら、幻を作っているからです。でも、神は、幻の中でも、原子核を増やせるようにしてくれていますので、アナタは実在しているのです。
どちらにしても、何かを想い、何かを語り、何かをしている、アナタは、凄い存在なのです。
※ 瞑想は、神様から与えられた、仕事だと想ってください。そう思えば、使命感に燃えて、瞑想できると思います。