真理は、限定されません。制限されません。「こうである! ああである!」と言った、確定語が使えないのが真理なのです。それは・・宇宙が・・神が・・本当の私が・・限定されない無限だからです。
私たちは普段、文字や言葉を使って情報のやり取りをしていますが、自分の想いが相手に正しく伝わっているかどうかの保証はありません。なぜなら、自分の想いを100%言葉や文字に乗せられないからです。だから、人間社会では、様々な誤解が生じ、沢山のトラブルが起きるのです。これは、言葉や文字を使っている、今の地球においては、仕方のないことですが、トラブルを避けたかったら、できるだけ相手の想いを良く受け取ることです。(言葉や文字に込められた想いを、良い意味に解釈して受け取ること・・)
人間の一番の欠点は、人の言っていることを、悪く受け取って、妄念を作ることです。妄念を作れば、憎しみや怒りが鬱積します。これは、精神的にも、肉体的にも、良くありません。相手は、自分が思っているほど、悪く思っていないかも知れないのです。いや、もしかしたら、良く思っているかも知れないのです。賢い人は、相手の言うことを、良く受け取ります。その方が、楽しいし、自分の心を汚さないからです。どうか、今のうちに、何でも良く受け取る癖をつけておいてください。向こうへ帰ったら、大いに役立ちます。なぜなら、意識の世界へ帰ったら、テレパシーを使うようになるからです。テレパシーは、自分の想いが、そのまま相手に伝わるので、悪く受け取れば大変なことになってしまうのです。どうか、向こうへ帰って、困らないよう、何でも良く受け取る癖をつけておいてください。
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絶対界(実在界)は、波の無い、まっ平らな世界です。凪の世界です。実に、静です。何の動きもありません。ですから、そこには、何もありません。一方、相対界(現象界)は、波のある(凹凸のある)世界です。実に、騒々しく、忙しい世界です。その世界には、何でもあります。この宇宙は、絶対界と相対界が、互いに助け合いながら進化成長するようになっているのです。静がなければ、動がありません。動が無ければ、静がありません。静と動が互いに刺激し合いながら進化しているのが、宇宙の実態なのです。これは、瞑想についても言えることです。
例えば、瞑想は、想念を集中させて行いますが、その時の身体は、静でなくてはなりません。想念を集中させると、体の感覚が、段々と無くなって行くので、動きが自然と静かになるのです。ですから、瞑想をしている時は、頭の「動」と、体の「静」が同時に行われている状態なのです。
スポーツを考えてみましょう? 技を身につけるには、繰り返し、繰り返しが、必要ですが、それは、体に技を覚えさす、必要があるからです。繰り返し、繰り返し、訓練すると、体が技を覚えてしまうのです。ただし、一旦、体が技を覚えたら、後は、想念を静かにしなくてはなりません。よく、「無心でやれ!」と言いますが、想念が邪魔すると、良い技が出せなくなるからです。
想念を、どう利用するか、それが、瞑想においても、スポーツにおいても、普段の生活においても、大切なことなのです。
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科学的生き方とは、どのような、生き方でしょうか? 実例を、紹介しましょう。
ここに、一生懸命、卵を抱いている親鶏と、ただ、祈っているだけの親鶏がいたとしましょう。どちらの親鶏が卵を孵すことができるでしょうか? 一生懸命、卵を抱いている鶏の方ですね・・・。卵を抱いている親鶏は、実際に行動しているのですから、卵が孵るのは当然ですが、神頼みしている鶏は、何もしていないのですから、卵が孵るわけがないのです。
科学的生き方の実例を、もう一つ、紹介しましょう。
ここに、信号機を頼りに運転しているドライバーと、自分の目で確かめ運転しているドライバーがいたとしましょう。信号機を頼りにしているドライバーは、左右を見ず、青信号だけ見て交差点を通過しました。自分の目を頼りにしているドライバーは、信号機付近で速度を落とし、左右を確かめ通過しました。事故を起す確率が高いのは、どちらのドライバーでしょうか? 前者の方ですね。なぜなら、自分が信号を守っても、相手が信号を守るとは限らないし、信号機に故障が無いとも限らないからです。よく、交差点で事故が起きるのは、信号機を頼り切っているからです。
これは、真理を学んでいる人にも、当てはまることです。瞑想をしている人は、行動していますから、原子核をドンドン増やすことができますが、偶像崇拝者は、行動していませんから、原子核を増やすことができないのです。確かに、他力信仰者は、何もしなくても良いのですから、楽です。でも、神は、そんな怠け者に都合の良い仕組みを創るわけないのです。地球に努力という字があるのは、努力なしに進化成長できない星だからです。
「科学的な生き方とは、実際に行動し、物事を実現させる生き方です。」どうか、科学的な生き方をしてください。それは、行動しなさいと言う意味です。努力しなさいと言う意味です。
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世の人々は、極端な楽しみ(味の濃い楽しみ)を追い求めていますが、そのために、多くの人が苦しんでいます。「吉凶は糾える縄の如し・・禍福は糾える縄の如し!・・」とは、良く言ったもので、「楽あれば、苦あり! 苦あれば、楽あり!」なのです。つまり、良いこと・・悪いこと・・良いこと・・悪いこと・・が、交互にくるのです。これは、「エネルギー均衡の法則」の働きによるものです。宇宙は、この法則によって、エネルギーの均衡が保たれているのです。地球人類も、この法則あればこそ、今日まで、存続してこられたのです。
今、社会では、支払いの決済に約束手形やカードローンなどが使われていますが、これは、エネルギーの先取りになるため、後々、何らかの形で穴埋めしなければならなくなります。「私は、穴埋めさせられていない!」と言う人は、目に見えない形でさせられているか、来生に持ち越されているかのどちらかで、いずれ、必ず、穴埋めさせられます。
エネルギーを出せば、出した分のエネルギーが、必ず、返ってくるのです。それも、出した色と同じ色のエネルギーが返ってくるのです。
例えば、「ありがとう!」という色のエネルギーを出せば、「ありがとう!」という色のエネルギーが返り、「バカ野郎!」という色のエネルギーを出せば、「バカ野郎!」という色のエネルギーが返ってきます。
これは、私の体験から言っても、絶対間違いありません。ですから、穏やかな生活をしたかったら、穏やかな色のエネルギーを出すことです。どうか、「エネルギー均衡の法則」を信じ、正しいエネルギーの使い方をしてください。
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「身・口・意」の「身」とは、行為のこと、「口」とは、言葉のこと、「意」とは、思い(想い)のことです。昔から「身から出た錆び」とか、「口は災いの元」といった戒めの言葉はありますが、「意」を戒める言葉は見当たりません。それは、見えないものが、信じられないからです。でも、一番大切なのは、見えない「意・想い」、すなわち、想念なのです。身を動かすのも、言葉を話すのも、すべて、見えない想いが、やっているのです。想いは、原因です。言葉や行為は、結果です。原因(想い)あっての、結果(言葉や行為)なのです。ですから、一番大切なのは、「意」なのです。でも、人間は、「意」を軽視し、想いたい放題に生きています。だから、人間社会には、沢山の苦しみがあるのです。これは、「想い」の恐ろしさを知らないからです。
神社やお寺の門前に、仁王像や、閻魔像や、金剛力士像などが置かれてありますが、目的は、「想い」の恐ろしさを知らしめるためです。あの恐ろしい表情は、「想いを正しく使いなさい!」という威喝なのです。象徴的な像ですから、像、自体には、何の力もありませんが、あの像を見せつけることで、「身・口・意」を戒めようとしているのです。今や門番のような存在になってしまいましたが、本当は「想い」を戒めるために用意された像だったのです。
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この宇宙に、本質的な悪など、一つもありません。良く受け取れば良くなり、悪く受け取れば悪くなるだけです。それは、受け取る自分に責任があるのであって、相手に責任があるわけではないのです。そう言えるのは、「自分の宇宙の管理者は、自分自身」だからです。
確かに、私たちの目には、悪があるように見えます。でも、その悪は、善を知るための悪ですから、善なのです。何でもそうですが、相対的体験無しには、気づけないのです。
一の中にいては、一は分からないのです。
白の中にいては、白は分からないのです。
善の中にいては、善は分からないのです。
悪を体験して、はじめて、真の善を知るのです。真の善人とは、悪の苦味を体験し、善の尊さを知った人です。赤ちゃんのように、悪の苦味を知らない善人は、真の善人とは言わないのです。嵐を掻い潜って強くなった者が、真の勇者なのです。嵐を嫌って家に閉じこもっている者は、どんなに勇者に見せかけても、真の勇者とは言えないのです。
このように、悪は悪ではないのです。進化成長に必要な悪なのです。このことが、心の底で解ったら、どんな悪を見せられても、心を汚さないでしょう。
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あなたは、今日、蚊に刺されました。あなたは、今日、石に躓きました。これを、人は、偶然だと言います。もし、本当に偶然があるなら、あなたは、今、生きていないでしょう。なぜなら、今、隕石に当たっても、雷に打たれても、不思議ではないからです。私たちが、曲がりなりにも、安心していられるのは、心の何処かで、必然を信じているからです。
どうして、地球に努力という言葉があるのでしょうか? それは・・一生懸命やった分、見返りがある、「必然の世界」だからではありませんか? 何をやっても偶然なら、どうして努力するでしょうか? 必然の世界は、やれば、やった分の見返りがあるのです。これは、背後で、「必然の法則」(原因と結果の法則)が働いているからです。私たちは、今日まで、この法則によって、守られ、成長してきたのです。今後も、守られ、成長して行くでしょう。
さあ、必然を信じ、一生懸命、努力しましょう。努力した分、必ず、見返りがあります。これは、私が保証するのではなく、必然の法則が保証してくれるのですから、絶対間違いありません。
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科学と化学の違いは、本当に有るモノと本当に無いものを研究する違いです。では、本当に有るモノとは、何でしょうか? それは、永遠に無くならないモノです。では、この世の物は、永遠に無くならないのでしょうか? 必ず、無くなりますね。それは、幻だからです。今、科学者たちは、無くなる幻を研究しているのです。それは、真実と現実の見極めができないからです。
「科学とは、永遠に無くならない真実を研究する学問です。」永遠に無くならない真実とは、意識のことです。意識を研究するのですから、自分が入っていなくてはなりません。あなたは、今、意識を持っていますね・・・。私も、今、意識を持っています。と言うことは、あなたも、私も、みな、科学者だと言うことです。神は、研究材料を、一番身近に置いてくれているのです。
「化学とは、消えて無くなる物を研究する学問です。」消えて無くなる物とは、「この世の物」、「幽界の物」、「夢の世界の物」、「幻覚の世界の物」、要するに・・五感に感じる外側の物を研究するのが、「化け学」なのです。外側の物を研究する学問ですから、自分が入っていません。と言うことは、誰のための学問なのでしょうか? このように言うのは、学問は、自分の成長のために、すべきものだからです。なぜなら、自分しかいないからです。
「化学は、この世限りの学問ですが、科学は、永遠の学問なのです。」どうか、永遠の学問を学んでください。それは、何処へ行く必要もありません。お金もかかりません。「自分の意識」を研究したら良いのです。
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形が、形を生むことはありません。なぜなら、形は、実際に無い幻だからです。実際に無い幻が、どうして、形を生むことができるでしょうか? 形は、結果体なのです。結果体が、結果を生むことなど、できるわけがないのです。結果体には、何の力もないからです。もし、形が、形を生むなら、形は、原因者になってしまいます。
「結果体を生むのは、あくまでも、原因者です。原因者だけが、形(結果体)を生むことができるのです。」
形を生むには、実際に有る何かが必要なのです。その実際に有る何かを、私は、意識とか、素材とか、本質とか、エネルギーとか、生命とか、神とか、呼んでいるのです。
形は、影なのです。影を生み出すには、光が必要なのです。光は、実在しますが、影は、実在しないのです。肉体は、形ですから、影なのです。影ですから、肉体には、何の力もないのです。肉体の中で働いている「意識が・本質が・生命が・エネルギーが」肉体を、生かし、動かし、働かせているのです。「形には、何の力もない、それは、結果体だから」と言うことを知ってください。
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私たちは、人間の形をしていますが、形が、肉体を動かすことはありません。見えない何かが、肉体を動かしているのです。その見えない何かを、神と呼んだり、生命と呼んだりしているのです。これは、鉱物や、植物や、動物も、同じなのです。ただし、人類には、鉱物や、植物や、動物に無い、自我を持っています。自我を持っているがゆえに、苦しみも生まれるわけですが、神は、それを承知で、人類に自我を持たせたのです。それは、人類に自分を認めて欲しいからです。
自我を持った人類は、神を認めてやれる唯一の存在です。
自我を持った人類がいなかったら、神は存在できないのです。
認める人類が存在しなかったら、認められる神は存在できないからです。
では、神と人類、どちらが上でしょうか? 上も下もありません。同格です。なぜなら、認めてやれる人類は、認められる神から生まれたからです。親がいなくては、子は産まれないのです。親あっての子です。でも、子がいなくては、親も存在できないのです。なぜなら、認める子がいなくては、認められる親は存在できないからです。だから、親と子は、同格なのです。
自我を嫌う人がおりますが、自我があるから、神を認めてやれるし、宇宙も認めてやれるのです。それよりも、何よりも、自我があるから、自分が認識できるのです。
私たちは、自我を、永遠に持ちながら、宇宙の秘め事を、永遠に探ってゆくのです。それほど、自我は、凄く、偉大な、存在なのです。
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光(エネルギー)は、良し悪しの判断ができる知恵を持っています。それは、光(エネルギー)そのものが、神そのものだからです。これは、私の、次のような体験から言えるのです。
私が、病人に手を当てると、光、自らが、病人の患部(光の少ない場所)を察知して、エネルギーを適量注いでくれるのです。私は、ただ、手を当てているだけです。光は、絶対、悪くしないのです。すべて、良いように運んでくれるのです。それは、光は、「善の知恵」を持っているからです。このように、光は、「意思を持ち」、「知恵を持ち」、「力を持っている」生き物なのです。
「神は光なりき!」です。この宇宙は、その神の光で満々ているのです。ゆえに、宇宙は、完全無欠です。健全健康です。大調和そのものです。少しでも、闇が生まれたら、光が働きだして、そく、闇を解消してくれるのです。だから、宇宙は、今日まで、無事存続してこられたのです。
どうか、光の偉大さを知ってください。光は、神であることを知ってください。その光は、私たちの想念と直結しているのです。だから、想念のコントロールが大切になってくるのです。
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バスで大阪に来る途中、沢山の空き地を見ます。その時、私は、いつも思うのです。どうして、こんなに空き地があるのに、人の世に飢餓があるのだろうかと?・・・私は、北海道で小さな畑を作っていたので良く知っているのですが、どんな荒地に、芋を植えても採れるのです。それも、翌年、タネ芋を植えなくても、残りダネで、いくらでも採れるのです。空き地さえあれば、カボチャだって、トウモロコシだって、サツマイモだって、いくらでも採れるのです。なのに、どうして、地球上には、飢餓があるのでしょうか? 不思議だと思いませんか? それは、「人間が配分を狂わせているからです。」人間は、欲張りなのです。沢山の物が欲しいのです。その欲が、配分を狂わし、飢餓を生んでいるのです。欲をかかず、足ることを知れば、地球上に飢餓で苦しむ人は、一人もいなくなるのです。「それは、指導者が悪いからです!」と、世の人々は言います。でも、指導者だけの責任でしょうか? あなたに、責任は無いのでしょうか? あなたは、足ることを知った生き方をしておりますか?
今、地球上で行われている、資本主義経済は、人の欲望を、くすぐって成り立っている制度ですが、その後押ししているのが、欲を持った一般人なのです。世の人々は、欲を逆手に取って繁栄している資本主義制度が、自分の首を絞めていることに気付いていないのです。資本主義制度は、幼い地球において必要な制度ですから、否定はしませんが、真理を学んでいる皆さんは、もう、ソロソロ、そこから、卒業してください。
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分離分断は、不調和です。多くの苦しみを味合わねばなりません。でも、統合、合体、統一は、調和です。統合へ進めば、平安な世がやってきます。今、地球上に、統合を進める光の天使が降りてきております。私の恩師である、知花敏彦先生も、その光の天使の一人でした。知花先生は、天の光を数多く降ろしてくれました。その光に清められ、やがて、人類が、みな、兄弟姉妹であることを悟るでしょう。その時、理想社会が現実のものとなるのです。科学や、宗教や、政治や、経済が、理想社会にするのではありません。一人ひとりが、「本当の自分に目覚める」ことによって理想社会が訪れるのです。
今、地球が回っていると言っても、誰も疑りません。それは、知識が思想化されたからです。「人間神の子」の教えも思想化されたら、全人類が足並みを揃へて理想社会に突き進むでしょう。さあ、「人間神の子」の思想を広め、バラバラな宗教を一つに統合しましょう。それが出来るのは、学びの友の皆さんたちだけです。今すぐにできなくても、道筋をつけておけば、後から続く人たちがやってくれます。道筋をつけることは、先に出ている者の使命なのです。
私の残した想いや文字や言葉は、一つも漏らさず、アカシックレコードに刻まれます。皆さんが残す想いや言葉や文字も、同じように刻まれます。無駄なことは、一つもありません。さあ、神を想い続けましょう! 想えば、アカシックレコードに刻まれ、後に続く人たちの役に立つのです。
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この宇宙は、必然から生まれたので、どんなことも、必然で起きているのです。それは、必然に起きることが、完全だからです。裏返せば、完全だから、必然に起きるのです。もし、起きていることが、不完全なら、必然は、偶然になってしまい、宇宙は、瞬時に消滅するでしょう。
偶然には、秩序がないのです。必然には、秩序があるのです。秩序があるから、この宇宙は、永続しているのです。もし、無秩序なら、宇宙は無いわけですから、こんなお話さえもできないのです。今、宇宙が存在できているのは、秩序の中にあるからです。つまり、法則の中にあるからです。
必然は、法則を意味するのです。偶然は、無法則を意味するのです。この宇宙に、偶然がないのは、法則によって支配されているからです。その法則の中には、「意図と意味」が込められているのです。どんな意図と意味かと言いますと、すべてのモノを「進化成長」させる意図と意味です。
神様は、私たちを「進化成長」させるために、必然の中に放り込んだのです。ですから、どんな事が起きても、みな、「良いことだ!」と思ってください。起きたことは、みな、進化成長に結びついているのですから・・・。そう思えたら、何が起きても、心は動揺しないでしょう。
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1は、実在です。今は、実在です。私は、実在です。
このことは、
の数式が証明しています。
「1」だけ、「今」だけ、「私」だけが、実在なのです。
これは、動かしがたい真理です。このことを前提に、完全について考えてみましょう。
完全とは、実在のことです。不完全とは、非実在のことです。実在しているモノは、すべて、完全なのです。実在とは、永遠に無くならないという意味ですから、永遠に無くならないモノは、実在そのものであり、完全そのものなのです。非実在とは、無くなるという意味ですから、無くなってしまうモノは、非実在であり、不完全なのです。人間が消えて無くなるのは、非実在であり、不完全だからです。
実在は、完全の証であり、非実在は、不完全の証なのです。もし、実在が不完全なら、神は、不完全な宇宙を創ったことになり、宇宙は、一時足りとも存在できないでしょう。今、宇宙が存在していること自体が、完全である証なのです。と言うことは、実在している、「1」は、「今」は、「私」は、完全であると言うことです。
そうです。「私」は、完全なのです。私の中に不完全な想いがあるのは、「私」を人間と誤解しているからです。人間と誤解し、不完全な想いを持つから、不完全なモノ(迷い・苦しみ・不幸)が生まれるのです。もし、実在の「私」に目覚めたら、不完全な想いは持ちませんから、幸せに生きられるのです。どうか、不完全な人間の「私」に生きるのではなく、完全な「私」に・・実在の「私」に・・生きてください。
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命のやり取りができないのは、宇宙に、命は一つしか無いからです。一つしか無い命は、やり取りができないのです。一つは、分けられないからです。一つという意味は、無限という意味ですから、どんなに分けても、無限なのです。例え、分けられたとしても、「同じモノを分けた」のですから意味がないのです。
命が分けられないのは、命は、一つであり、無限だからです。分けられるのは、あくまでも、有限である物質だけです。でも、その物質さえも、いつか、無限のサヤに帰るのです。なぜなら、物質の本質も、一なる無限から生まれたからです。一で創られている宇宙に、分けられるものなど、一つも無いのです。私の命も、あなたの命も、万象万物の命も、同じ一つの命だから分けようがないのです。分けようと、どんなに頑張っても、それは、無駄骨です。ですから、分けようなどと思わないことです。どうせ、分けても、「自分」なのですから・・・。
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進化における変容は、私たちの意識(記憶)に上らないよう操作されています。だから、私たちは、新鮮な気持ちで、この世に生まれ、一から出直すことができるのです。
私たちは、気の遠くなるような年月、進化の旅を歩んできました。その間、どれほど、変化の節目を通ってきたことでしょう。あなたは、その通った節目の記憶がありますか? 無いのではありませんか? それは、記憶に残らないよう操作されているからです。これからも、進化の節目を何度も通るでしょうが、どんな節目の変化も、記憶に残ることはありません。記憶に残れば、進化の邪魔になるからです。
私たちが、すべきことは、過去のことや未来のことを詮索することではありません。今の一時を使って、原子核を増やすことです。今の一時だけが、実在であり、今の一時だけが、創造できるからです。
どうしても、節目の記憶を蘇えさせたいなら、ドンドン原子核を増やし、未明の節目を超えてください。未明の節目を超えたら、過去生の記憶も、変化の記憶も、変容の記憶も、すべて蘇ってくるでしょう。
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「自尊心を傷付けられた!」と怒る人がおりますが、「自分」を人間だと思うから怒るのです。自尊心など無いのですよ! なぜなら、人間など、いないからです。いない人間の自尊心など、傷つけられようが、踏み付けられようが、どうでも良いではありませんか? この宇宙には、「神」しかいないのです。だから、「神尊心」しか無いのです。どうか、「自尊心」を「神尊心」に置き換えてください。そうすれば、例え、神尊心が傷つけられたとしても、神には、怒りが無いのですから、怒ることは無いはずです。
どうか、無い「自尊心」など捨ててください。無いものに拘ることほど、愚かなことはないのですから・・。
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地球社会には、おかしなことが、沢山あります。ここで、その、ほんの一部を紹介しましょう。
こういう事も考えてみてください。
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「私は、こんな厭なものを見せられた!」と言って怒る人がおりますが、「あなたの中にないものは、絶対、見せられないのです。」なぜなら、自分の中に無い波動は、同調しないからです。出した電波に同調して、デレビ画像が映るように、私たちが、見せられている画像も、すべて、自分が出した波動に同調して見せられるのです。特に、必要な画像は、何度も見せられます。その時、なぜ、何度も見せられるのか、疑問に思ってください。疑問が解けたら、原子核が増えます。
どんな出来事も、すべて、進化成長に結びついている必然だと思ってください。その必然で起きていることは、何気なく見せられている中にもあるのです。それは、何気なく見せられていることの中に、進化成長に必要な題材があるからです。
人から嫌なことを言われたり、厭なことをされたりするのは、あなたの中に、そのような欠点があるからです。だから、その欠点に気づかせるために、嫌なことを言う人や厭なことをする人を自分が連れてきたのです。ですから、誰かが自分に見せているのではなく、自分が自分に見せているのです。自分が連れてきたのですから、その人を、憎んだり、恨んだり、してはなりません。それどころか、その人に感謝してください。
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波動の高い世界では、「原因と結果の法則」の働きが早くなります。その証に、幽界のような波動の高い世界では、思ったことが、すぐに、現象化されます。私たちが住んでいる表現世界でも、こう言うことがあります。
子供のころは、何か悪いことをしたら、すぐに、悪いことが返ってきました。これは、子供たちの波動が精妙だからです。だから、ケンカ早やかったけれど、仲直りも早かったはずです。段々と大人になり波動が落ちてくると、悪いことをしても、すぐに、返ってこなくなります。だから、大人は、悪いことを重ねるのです。でも、魂が成熟し、皆さんのように波動が高くなってくると、すぐに、返ってくるようになるのです。波動の高い皆さんなら、心当たりがあるはずです。
ところで、最近、悪事の暴露されるスピードが、早まっていると感じませんか? 一昔前までは、悪い事をしても、捕まるまで時間がかかりましたが、最近では、すぐに、捕まるようになっています。人類の波動が落ちているのに、どうして、このようなことが起きるのでしょうか? それは、「地球の波動が上がっている」からです。今、地球は、ドンドン、波動を上げています。それは、地球が、ある進化の節目に差し掛かっているからです。
近年、自然災害がスピード化しているのは、地球の波動が、一昔前より、上がっているからです。学びの皆さんだけでも、そのことを知っておいてください。
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魂が成長し、波動が高まってくると、「原因と結果の法則」の働きが、早まってきます。これは、成長の証ですから、良いことですが、今の幼い地球人類には、困るのです。なぜなら、学べることも、学べなくなるからです。こう言うことです。
例えば、波動の高い星で、幼い魂が悪いことをしたとしましょう。波動が高いので、彼は、すぐに、痛い目に遭います。彼は、考えるはずです。「自分が悪いことをしたから、悪いことが返ってきたのではないか」と・・・。その子は、痛い目に遭いたくないから、すぐに、悪いことをしなくなります。これは、良いことだと思うかも知れませんが、魂の成長から見たら悪いことなのです。
地球のような波動の鈍重な星では、悪いことをしても、悪いことが返ってくるまで、相当の時間がかかります。時間がかかって返ってくるため、なぜ、痛い目に遭ったのか? これでは分かりません。ですから、また、同じ悪いことをして、同じ痛い目に遭うのです。でも、何度も、同じ痛い目に遭えば、どんな幼い魂でも気付きます。「そうか、この痛い目にあったのは、こう言う悪いことをしたからだ」と・・・。気付いた幼い魂は、悪いことをしなくなります。
このように、鈍重な地球では、悪い子から良い子になるまで、沢山の体験時間が与えられるため、原子核を増やすことができるのです。幼い魂が成長するには、沢山、体験し、沢山、痛い目に遭う必要があるのです。すぐに、痛い目が返ってきたのでは、体験が少ないため、あまり、原子核を増やすことができないのです。
「因果のスピードアップ化は、魂の成長の証」です。幼い時期は、学ぶ課題が多いため、 沢山、体験が必要ですが、成長すれば、課題が減るので、体験が少なくて良くなるのです。魂が、成長すれば、するほど、スピードアップした方が早く学べるので、都合が良くなると言うわけです。
渋柿を焼酎で熟成させたのでは、本当の旨味が出せないのです。じっくり時間を掛けて熟成させてこそ、本当の旨味が出せるのです。魂の成長も同じなのです。付け焼き刃では、ダメだと言うことです。
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この表現宇宙は、魔法の白板に例えることができます。その白板に書かれた絵や文字は、不思議なことに、消さなくても、自然と消えてゆくのです。書かれた絵や文字とは、業のことです。罪のことです。どんな苦しい業を作っても、罪を作っても、自然と消えてゆくようにできているのが、魔法の白板なのです。これが、私たちが希望を持って生きられる根拠です。ただし、注意しなければならないことが一つあります。それは、魔法の白板に、同じ苦しい絵や文字を書かないことです。つまり、「業の上塗りをしない」ことです。
世の人々は、一生懸命、業を消そうとしていますが、消そうとしても、消せるものではありません。返って、業の上塗りをしてしまうだけです。消そうと思う必要はないのです。悪いと気付いて反省したら、後は、魔法の白板に任せることです。
私たちが、やるべきことは、社会体験と瞑想です。業に囚われていては、社会体験も瞑想も集中してできません。どうか、業を消すのは、魔法の白板に任せ、あなたは、社会体験と瞑想に打ち込んでください。
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この宇宙には、ホンモノとニセモノがあります。ホンモノは、実際にあるモノですが、ニセモノは、一時、存在する見せかけで、お金・物・財産・名誉・地位・権力などが、そうです。これらのモノは、すべて、この世限りのニセモノです。消えて無くなるモノは、みな、ニセモノなのです。そのニセモノを追い求めるから、人間は、苦しむのです。
どうして、ニセモノを追い求めると苦しむかと言いますと、私たちの本性は、永遠不滅のホンモノだからです。永遠不滅のホンモノが、消えて無くなるニセモノを追い求め、苦しくないはずがないのです。
では、実際にあるモノとは、何でしょう? それは、永遠に無くならない、「神」です。「意識」です。「魂」です。「命」です。「光」です。名前は違っても、皆、同じホンモノです。ホンモノを想えば、光が入ってきます。気持ちが良くなります。心が楽しくなります。どうか、ホンモノを求めてください。ホンモノを求めるようになったら、あなたの心は、安らかになるでしょう。
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この宇宙で、最も確かなことは、本質と形は、絶対、切り離せないという事実です。本質が有るということは、必ず、形が有るということです。形が有るということは、必ず、本質が有るということです。今、私たちは、人間の形をしていますが、その形の中には、必ず、本質が同居しているのです。私たちは、本質の子なのです。「人間神の子!」と言われるのは、私たちを形作っている、「本質が、神」だからです。神は、すべての本質なのです。神なしに、人間があり得ないのは、本質なしに、形はあり得ないからです。
私たちは、形が生きて形が働いていると思っていますが、本質が生きて、本質が働いているのです。つまり、本質が、ものを考え、本質が、言葉を話し、本質が、行っているのです。その本質は、「無限なる存在!」、「永遠なる存在!」、「完全なる存在!」、「自由なる存在!」ですから、本質に生きれば、苦しみは無いのです。
さあ! 私は、「無限なる! 永遠なる! 完全なる! 自由なる! 本質である!」と思って生きてください。そう思って生きれば、あなたは、安心して生きられます。どうか、本質を意識し、本質に生きてください。できるだけ肉体を意識しないで生きてください。
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世の中には、「自分のやったことを認めてくれない!」と腹を立てる人がいますが、その人は、自分と他人を別けて考えるから腹が立つのです。人は、自分なのです。自分は、人なのです。人と自分は、一つなのです。自分の他には、誰もいないのです。ならば、自分が認めれば、それで良いのではありませんか?
「神、自らが、自らを認めている」のです。「人が、神を認めて、神を存在させている」という言い方は、客観的見方しかできない人に対してする説明です。主観的見方ができるようになった人には、人と神とを分けて説明する必要はないのです。
この宇宙には、私しか存在しないのです。自分しか存在しないのです。主観者しか存在しないのです。自分が自分を認め、自分を存在させているのです。このような説き方は、自覚に入るためには必要なのです。ですから、今後、何度も説かれるでしょうが、皆さんの理解力が、増せば、増した分、納得度も増すでしょう。
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仏教語では、「無・空」の意味を、心を「無・空」にすると言う意味で使われております。でも、「無・空」の意味は、そのようなものではありません。
私たちの周りには、様々な情報が飛び交っています。その情報は、その人の発信した想念に同調して入ってきます。例えば、憎しみの想念を放てば、憎しみの情報が入ってきて、その人を苦しくします。楽しい想念を放てば、楽しい情報が入ってきて、その人を楽しくします。どのような想念を放つかで、心が苦しくなるか、楽しくなるか、決まるのです。
例えば、
このように、情報が入ってきても、対処の仕方一つで、心を波立たせないようにできるのです。どんな情報が入ってきても、心を波立たせなくなった人を、不動心の持ち主と言うのです。不動心の持ち主は、外側の情報は、すべてが幻だと知っていますから、心を揺れ動かすようなことはしないのです。
世の人々は、偶然に、情報が入ってくると思っていますが、偶然に、情報が入ることは、絶対ありません。情報を出したから、情報が入ってきたのです。これは、「結果を見て原因を発見する」実に合理的な学びの方法です。苦しい情報を受け取った人は、苦しい情報から学ぶ必要があったから、自分が苦しい情報を出して、苦しい情報を受け取ったのです。学ばねばならないことが多くある人ほど、多く情報を発信し、多く情報を受け取るのです。多く情報を受け取れば、多くの体験ができるからです。でも、皆さんのように、熟成した魂は、できるだけ、不要な情報は、出さないこと・・受け取らないこと・・です。たとえ、情報が入ってきても、良く受け取り、心を波立たせないことです。「見ても、心に留めない!」、「聞いても、心に留めない!」、「語っても、心に留めない!」三猿の戒めを守ってください。
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この宇宙では、行き過ぎると反動がやってくる仕組みになっています。この反動の働きを、「中庸の法則」とか、「エネルギー均衡の法則」とか、言われているわけですが、私たちは、この法則によって、真ん中の道を歩まされるよう仕組まれているのです。
例えば、食べな過ぎても、食べ過ぎても良くありません。運動しなくても、運動し過ぎても良くありません。眠らなくても、眠り過ぎでも良くありません。物質に偏り過ぎでも、精神に偏り過ぎでも良くありません。神は、無駄なことをさせないわけですから、すること自体は、悪いことではないのですが、行き過ぎれば、何でも悪になるのです。
シーソーは、端に、寄れば、寄るほど、揺れが大きくなります。真ん中に、寄れば、寄るほど、揺れは、穏やかになります。同じように、私たちの生活も、偏れば、偏るほど、苦しくなるのです。どうか、「今、自分は、中庸の生活をしているのか?」見極めながら生きてください。
この中庸は、原子核の量によって、人それぞれ違いますから、人のマネをしないでください。人には、人の中庸が、あなたには、あなたの中庸があるのです。その中庸を見極めるのも、学びの一つです。私は、今、正しい中庸の道を歩んでいるのか? 常に、自分に問いかけながら生きてください。
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世の人々は、一回限りの人生だと思っていますので、「後は野となれ山となれ!」と言った無責任な生き方をします。でも、人生は、一回限りではないのです。もし、一回限りの人生なら、どうして、不自由な体で生まれてくる人と、健全な体で生まれてくる人がいるのでしょうか? どうして、貧乏な家に生まれてくる人と、裕福な家に生まれてくる人がいるのでしょうか? 一卵性双生児が、同じ環境で育ちながら、どうして、性格や気質が違うのでしょうか? 一回限りの人生で、しかも、「一斉のドン!」で人生が始まるなら、こんなことはあり得ないはずです。これは、人生に続きがあると考えねば解けない謎です。
よく考えてみてください。不自由な体で生まれてきた結果があったと言うことは、そうなるべき原因を過去で作っていたからではありませんか? つまり、過去世で、悪い原因を作っていたから、今世、苦しい結果がやって来たのです。これは、「原因と結果の法則」から考えても、当然のことなのです。しかし、科学者も、政治家も、教育者も、一般人も、偶然のせいにして、真実から目を逸しているのです。その方が、責任逃れできて、楽だからでしょうが、それでは、成長できないのです。
人生は、一回限りではないのです。過去にも人生があったし、未来にも人生はあるのです。人は、輪廻転生を繰り返しながら、進化して行くのです。
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この宇宙に、偶然は、絶対ありません。もし、あるなら、この宇宙は、とうに存在していないでしょう。必然の宇宙だから、今、宇宙は、存在できているのです。「偶然」と言う字は、「愚」かな「然」と書きますが、「愚」とは、「おろか」という意味、「然」とは、「状態」という意味ですから、通して解釈すれば、「愚かな状態」という意味になります。神が創られた宇宙に、「愚」かな状態(然)があるはずがないのです。
偶然とは・・「無茶苦茶」と言う意味です。「無法則」と言う意味です。「秩序が無い」と言う意味です。あなたは、今、どうして、生きていられるのですか? 心臓が秩序を保って動き、秩序を保って息をしているからではありませんか?
誰も、この必然性を考えないのです。そして、何か都合の悪いことが起きたら、偶然で起きた! 不可抗力で起きた! と言うのです。 もう、そんな愚かなことを言わないでください。あなたが、今、存在している事自体が、偶然の無い証なのですから・・・。
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もし、地球環境を良くする方法を教える科学者と、地球環境を悪くしない方法を教える科学者がいたとすれば、どちらが、真の科学者でしょうか? また、どんな病気でも治せる医者と、病気にならない方法を教える医者がいたとすれば、どちらが、名医でしょうか? 前者の方は、成果が目に見えるので商売になり、後者の方は、成果が目に見えないので商売になりません。だから、今の社会では、前者の方に人気があり、後者の方に人気がないのです。でも、真に、人のためになっているのは、後者の方ではありませんか? なぜなら、前者の方は、悪根を断つことができませんが、後者の方は、悪根を断つことができるからです。でも、今の人間社会では、それを認めようとしないのです。これが、地球において、真の科学者や真の名医が育たない理由です。
「どんなに、雑草を刈っても、根を断たなくては、また、生えてくるのです。」、「どんなに、川下のゴミを拾っても、川上のゴミを無くさない限り、川は綺麗にならないのです。」 どうか、原因の大切さを知ってください。結果は、あくまでも、発見の手がかりです。
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人間は、「自由!」「自由!」と口癖のように自由を希ますが、なぜ、それほど、自由を欲しがるのでしょうか? それは、本当の自分が、自由な意識だからです。私たちは、意識そのものなのです。意識は、どこにでも飛ばせるし、どうにでも縮められるし、どうにでも拡大できるし、どうにでも表現できるのです。そのことを、本能的に知っているため、人間は、自由を欲するのです。しかし、幼い地球人類は、今、野放図な自由行使をして、様々なトラブルを起こしています。
この表現宇宙には、自由を行使するに当たって、守らなければならないルールがあるのです。それは、「陰と陽の法則」と「原因と結果の法則」です。つまり、「偏り過ぎてはならない!」、「やり過ぎてはならない!」、「悪を犯せば悪が返ってくる!」と言うルールです。偏り過ぎれば、苦しみがやってきます。やり過ぎては、苦しみがやってきます。悪いことを想い、悪い言葉を吐き、悪い行いをすれば、痛い、苦しいがやってきます。この二つのルールが無かったら、幼い人間は、好き放題に、自由を行使し、宇宙を破壊してしまうでしょう。それでは、宇宙の秩序が保たれないので、神は、人間に、制約の付いた自由を与えたのです。今の人類は、成約の付いた自由の中で生きているのです。でも、人類は、いつまでも、幼いままではありません。いずれ、正しい自由の行使ができるようになるでしょう。その時、今、以上に、自由が拡大するのです。
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体験は宝です。体験ほど大切なことはありません。ですから、体験を恐れたり嫌ったりしてはなりません。体験は、自分の身を守る知恵を授けてくれます。体験は、「人を強く」、「大きく」、「賢く」します。ですから、次のようなことは、できるだけ避けてください。
過度なバリアフリーや過度な人助けは、いざという時、身を守れない弱い人間にしてしまいます。ですから、バリアフリーは、そこそこに、人助けも、そこそこにしてください。
人間社会に病気があるのは、学ぶためです。病気を恐れてはなりません。病気から学んでください。病気から生還した人が強くなるのは、病気から何かを学んだからです。
苦しい体験を苦しいままにしていては、無駄な苦しみで終わってしまいます。どうか、苦しい体験から学んでください。「犬も歩けば棒に当たる!」と言う諺の意味は、棒に当たって転べば、起き上がる時に、必ず、何かを学んで起き上がると言う意味です。歩かなければ、転びません。転ばなければ、何も体験できないので、成長できないのです。歩くことは、体験することなのです。体験は、人を、強く、大きく、賢くするのです。
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何事も、一生懸命、やりましょう! 一生懸命、やっている時は、天につながっているので、良い仕事ができます。体も疲れません。人間関係も良くなります。事故災難にも遭いません。病気にもなりません。イヤイヤ、やっている時は、天とつながらないので、良い仕事ができません。体も疲れます。人間関係もうまくゆきません。事故災難に遭ったり、病気になったりします。
人間は、神の手足となって働く、神の分身ですから、本当は、神のために、体を使わなくてはならないのです。しかし、今の地球人類は、自我の自分のために、体を使っています。それでは、良い表現ができないのです。どうか、神のために、頭も、体も、使ってください。そのためには、儲けを考えない職人馬鹿になってください。職人馬鹿は、納得するものが出来上がるまで作り続けます。この一心不乱に物作りする姿が、天の心を打つのです。
「一生懸命」の意味は、「命のために一生を捧げる」、或いは、「天のために一生を生きる」と言う意味です。「命」は、「神」ですから、神のために、一生を生きるのは当然です。私が「一生懸命」と言う言葉が好きなのは、一生懸命、やれば、神と一つになれるからです。一生懸命は、神の願いです。どうか、何事も、一生懸命、やってください。
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地球人類は、実に好戦的です。それは、まだ、動物的な名残があるからです。自分が肉体だと思えば、身を守るために、どうしても、好戦的になるのです。自分が、意識であり、神であり、生命であると思えば、身を守る必要がなくなるので、好戦的にならないのです。好戦的な人は、人に勝ちたいのです。でも、厳しい社会で、そう簡単に人に勝つことはできません。だから、うっぷんを晴らすために、代理戦争をするのです。つまり、ひいきのチーム(自分の代理人)を作って相手と戦い、勝って鬱憤を晴らそうとするのです。ひいきのチームは、自分の身代わり戦士ですから、勝てば自分の喜びになるわけです。確かに、勝った時は気持ちが良いでしょうが、負けた時はどうでしょう? 悔しさで、夜も眠れなくなるのではありませんか?
ひいきのチームを作ると言うことは、偏りを作ることですから、陰陽の法則によって、必ず、苦しみがくるのです。応援もするなら、平等な応援の仕方をしましょう! そうすれば、苦しみはやってきません。
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今、人類は、様々な苦しみに喘いでいます。でも、その苦しみは、決して悪いことではないのです。なぜなら、本当の自分を知るために必要な苦しみだからです。今の幼い人類は、苦しまなければ、真理に顔を向けようとしないのです。真理に顔を向けなければ、神の道に乗ることができないのです。神の道に乗るためには、どうしても、苦しい体験が必要なのです。でも、その苦しみは、神が与えたわけではありません。「因果の法則」によって、自ら与えた苦しみです。自分が自分に苦しみを与え、進化成長しようとしているのです。
私たちの中に、二人の自分がいるのです。一人は、生徒の自分です。もう一人は、教師の自分です。その教師は、常に、生徒を成長させたいと願っているのです。それは、自分を愛しているからです。ですから「自愛」です。自愛は厳しいのです。それは、自分しかいないからです。
世の人々は、「他愛無いことを言って!」と言っていますが、これは、「つまらないことを言って!」と言う意味ではなく、「他愛は無いのですよ!」と言う意味なのです。
どうか、自分に厳しくなってください。厳しいからと言って文句を言ってはならないと言うことです。「自愛」は、厳しい愛を容認する愛なのです。どうか、厳しい愛を成長の糧にしてください。
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一生懸命の意味は、「命に一生を捧げましょう!」と言う意味です。命は、神です。命は、意識です。命は、本当の自分です。ですから、私たちは、命に生きるべきなのです。でも、今の私たちは、肉体に生き、命に生きていないのです。それは、肉体が自分だと思っているからです。肉体が自分だと思えば、肉体のために一生を生きるのは当然です。でも、それでは、人生目的が果たせないのです。
人生の目的は、本当の自分を心の底で知ることです。そのためには、命に生きなくてはなりません。命に生きるとは、「命」を想うと言う意味です。つまり、瞑想すると言う意味です。瞑想している時は、命に生きているのです。その人は、光り輝いています。それは、天につながっているからです。
「命」に、人生を捧げる人は、生き人です。「肉体」に、人生を捧げる人は、死に人です。なぜなら、命は、実在するけれど、肉体は、実在しないからです。無い物に生きることほど、無駄なことはありません。どうか、本当に有るモノに生きてください。それも、「一生懸命」に生きてください。この場合の「一生懸命」は、「頑張って!」、「真剣に!」、「真心を込めて!」、「熱心に!」と言う意味です。
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過去生で悪事を働いた人や、怠けて働かなかった人は、必ず、今生、しっぺ返しが来ます。今、苦しい環境にある人や、 今、強制労働させられている人は、過去生の罪の償いをしているのです。可愛い顔をしているから、善人だと思わないでください。過去生で、どれほど悪事を働いたか分からないのですから・・・。「因果は巡る」のです。「目には目を歯には歯を」です。悪い種を撒いたら、必ず、悪いモノを刈り取らねばならないのです。
人の不幸を見て心を痛めないでください。彼らは、今、罪の刈り取りをしている最中なのですから・・・。今のあなたの苦しみも、罪の刈り取りをしている状態なのです。刈り取りが終わった暁には、あなたは、大きく成長するのです。今、苦しんでいる人は、「今、成長している真っ最中だ!」と、良く受け取ってください。苦しみを悪く受け取るから、黒石のままなのです。良く受け取れば、黒石は、白石に変わるのです。
どうか、黒石を打たないで、白石を打ってください。
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天の恵みに感謝できる人は、幸せになります。感謝できない人は、不幸になります。それは、感謝の思いは、光を呼び、無感謝の思いは、闇を呼ぶからです。
「ありがとう!」の感謝の思いは、波動が高いのです。
「不平不満」の思いは、波動が低いのです。
高い波動は、神に届くので、天から光が降りてくるのです。どうか、人にも、自然にも、何にでも、「ありがとう!」と言える人になってください。実際に、私たちは、人から、様々な恩義を受けていますし、天からも(陽の光・空気・水)、様々な恩恵を受けているのです。ですから、感謝するのは当然のことなのです。でも、今の人類は、その恩恵を当然と思って感謝を忘れているのです。それでは、天の恵みが頂けなくなるのです。その証拠に、近年、自然界がおかしくなっています。人間関係も、ギクシャクしております。これは、人のおごりが感謝の心を忘れさせたからです。
良く考えてみてください。何かを成すのは、外側のモノ(人・お金・物)でしょうか? 内側の想いでしょうか? 内側の想いが成しているのです。だから、人生は、「どう想うか? どう受け取るか?」次第だと言うのです。これを理解するのは容易なことではありませんが、間違いのないことなのです。
感謝の「感」の字は、上に「成」、下に「心」と書きます。この字の意味は、「心」が「成」させると言う意味です。何でも自分の心(想い)が成させるのです。この意味の深さを知ってください。
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今日、あなたは、人に殴られたとしましょう。でも、許してあげてください。この世で罪を犯さない者など、一人もいないのですから・・・。「私は、一度も、罪を犯したことがない!」、と言う人ほど罪を多く犯しているものです。確かに、目に見える所では、罪は犯していないかも知れません。でも、目に見えない所、つまり、心の中では犯しているのです。だから、イエスは言われたのです。「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい!」と・・・。
私も含め、どんな人も罪を犯しているものです。でも、幼い時には、そのことに気づかないので、神は、気づかせるために、厭なことをされたりしたりする相対的体験をさせているのです。確かに、叩かれたら、叩き返したくなる気持ちは分かります。でも、「原因と結果の法則」が罰してくれるのですから、あなたが相手を罰する必要は無いのです。もし、あなたが罰したとすれば、いつか、また、あなたは、誰かに罰されることになります。こんな、大損なことはありません。今、あなたが、すべきことは、相手を憎むのでは無く、「許」すことです。そうすれば、あなたの心が通じ、相手は、自分の過ちに気づいてくれるでしょう。あなたも、過去生において、人を叩いたこともあったのです。今生は、反対の立場になっているだけです。
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ノアの箱舟とは、「人類の夜明」の本のことです。この方舟に乗れば、人類は、救われるのです。なぜなら、方舟の中に、人類を救う方法が書かれてあるからです。この方舟に乗る以外、助かる道はありません。もうすぐ、資本主義は崩壊します。その時、人類は、何を頼りに生きれば良いのでしょうか・・? ノアの方舟は、それを教えているのです。
地球環境は、今、とても危険な方向に進んでいます。局地的豪雨の多発・・台風やハリケーンの規模の拡大・・雷や地震の多発などを見ただけでも分かります。このまま進めば、人類が住めない星になってしまいます。そうならないよう、自然は、人類に、様々な警告を発しているのですが、なかなか、気づいてくれないのです。それどころか、ますます、経済を拡大させようとしているのです。経済が拡大すれば、地球環境が悪化するのは目に見えているのに、政治家も、科学者も、本腰を入れて、地球環境を良くしようとしないのです。一体、どれほど、痛い目に遭わなくては、人類は、目覚めないのでしょうか? 「自然は、今後、ますます、厳しい警告を発してくるでしょう。」
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石垣島に旅行した人から、こんな話を聞きました。上から見た海は透き通って見えるのですが、そこに生息しているサンゴ礁の大半が白化していると言うのです。地元の人からその話を聴いたその人は、「そこまできたか!」と愕然としたと言います。サンゴ礁は、地球の汚染度を示すセンサーのような働きをしているのです。大陸に住む人たちは、自然環境に鈍感かも知れませんが、島国に住む人たちは、敏感なのです。ですから、石垣島の人たちは、サンゴ礁の白化を危険信号として受け取っているのです。
これは、人類の生き様に対する警告なのです。地球は・・自然は・・泣いているのです。どうか、地球を・・自然を・・泣かせないでください。せめて、真理を学んでいる私たちだけでも、地球のために良いことをしましょう。その良いことの一番が、瞑想をすることなのです。瞑想ほど、地球の浄化に役立つことはありません。どうか、瞑想し、少しでも地球を浄化してください。
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なぜ、資本主義が発達すると、建物が、上へ上へと、伸びてゆくのでしょうか? それは、「儲けなければならない! 経済成長させなければならない!」と言う、資本主義経済が、一極集中の都市を生み出しているからです。人口が都市に集まれば、土地が狭くなりますから、当然、建物は、上へ上へと、伸びてゆくでしょう。
個人においても、都会では、生活費が嵩みますから、沢山、お金を稼がねばなりません。そうなれば、過酷な労働が強いられますので、健康を害する人も多くなります。近年、ますます、病人が増えていますが、これも資本主義経済の弊害の一つなのです。資本主義経済は、他にも、様々な弊害をもたらしています。
良い学校に入るため、良い会社に入るため、幼い時から学歴社会に放り込まれます。ライバル企業に勝つために、ライバル同僚に勝つために、過酷な労働が強いられます。ノルマ達成にも、悩まされます。これでは、一時たりとも、心が休まりません。ですから、精神病患者が、ますます、増えているのです。
このように、資本主義経済は、人の心を蝕むだけでなく、様々な弊害を生み出しているのです。このまま進めば、間違いなく、物質文明は崩壊する(バベルの塔は倒壊する)でしょう! なぜなら、資本主義経済は、必要以上、資源を食いつぶして成長する仕組みだからです。果たして、そのような横暴が、いつまで、許されるでしょうか? 物質文明の崩壊は、時間の問題なのです。それは・・人類がボール遊びに夢中になっている時、突然、訪れるでしょう!
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「かとう塾」は、私一代限りの塾です。誰かに引き継がせるつもりはありません。また、引き継がせることもできません。なぜなら、その人の器量(波動)で塾を持ち、その人の器量(波動)で塾生を呼ぶからです。私は、自分の器量(波動)で塾を持ち、自分の器量(波動)で塾生を呼んだのです。もし、塾を持ちたいなら、自分の器量(波動)で塾を持ち、自分の器量(波動)で塾生を集めてください。
知花先生に、引き継ぐ弟子がいなかったように、私にも、引き継ぐ弟子はおりません。いるのは、学びの友の皆さんたちだけです。
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私が地球人類に残しておきたいこと!
それは・・
「想い」が、すべてであると言う、「想念の偉大さ」のことです。このことをアカシックレコードに刻み、地球人類に残しておきたいと思います。
地球の「平和」は・・
人類一人ひとりの「幸せ」は・・
良い「想念」を使えば叶います!
叶います!
・・今、アカシックレコードに、再度、刻みました・・
(すでに、アカシックレコードに、沢山、刻んであります。)
アカシックレコードに刻んでおけば、後々、成長した人たちが、引き出して使ってくれるでしょう。
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