想念ほど、頼もしいモノはありません。また、想念ほど、恐ろしいモノはありません。なぜなら、想念は、良いことも、悪いことも、何でも実現させるからです。想念は、諸刃の剣のようなモノなのです。私たちは、これまで、その想念で「人生」と「命生」を築いてきたのです。そして、これからも築いてゆくのです。
この節では、その想念について学ぶことにしましょう。
私たちは、すでに救われているのです。なぜなら・・想念を持っているからです。想念は、何でも実現させるのです。それだけに、想念の正しい使い方が求められるのです。
想念を正しく使えば・・
肉体環境が整います。
家庭環境が整います。
経済環境が整います。
環境が整えば、瞑想しやすくなりますので、原子核(魂)を大きくすることができます。人生の目的は、原子核を大きくし、自覚の境界線を超えることですから、想念を持たされた時点で、私たちは、人生の目的を果たしたも同然なのです。ただし、問題点があります。それは、想念を良く使えない難しさがあることです。私たちは、五感を持っているため、どうしても、想念を悪用してしまうのです。
想念は、「諸刃の剣」のようなもの、或いは、「矛と盾」のようなものなのです。良く使えば、身を守ることができますが、悪く使えば、身を傷つけてしまうのです。今、人類は、苦しんでおりますが、それは、想念を悪用しているからです。
想念を「矛」と「盾」として正しく使いましょう。正しく使えば、強い味方になってくれます。反対に、悪く使えば、強力な敵にしてしまいます。どうか、想念を味方にしてください。
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前述したように、想念は、使い方次第で、敵にも味方にもなるのです。でも、それは、自分がするのです。私たちの中には、二人の自分がいるのです。一人は、自我の自分です。もう一人は、真我(神我)の自分です。自我の自分は、お金や、物や、地位や、権力の誘惑に弱いので、この世のことに想念を使いたがるのです。真我の自分は、それを嗜めるのですが、自我の自分は、耳を貸しません。これを、私は、サタンの誘惑に負けたと言っています。サタンの誘惑に負けると、真理に顔を向ける時間が少なくなります。それが高じると、私の動画を見るのが恐ろしくなり、ついには、真理から離れて行くのです。一旦、サタンに取り憑かれたら、元に戻すのが大変です。痛い目に遭うまで、元に戻らない求道者もおります。そのまま一生を終える求道者もおります。
このサタンの誘惑に勝つためには、「強い勇気がいります。」「強い心がいります。」強い心を作るためには、原子核を増やすことです。そのためには、社会体験と瞑想をすることです。手短には、コマ目に体を動かすことです。コマ目に体を動かせば、目に見えて心が強くなります。サタンは、体を動かすことを嫌うのです。どうか、コマ目に体を動かしてください。サタンは、逃げてゆくでしょう。
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よく、苦しみを人のせいにする人がいますが、人から与えられた苦しみなど、一つもありません。自分が悪い想いを持つから、苦しいことが起きたのです。原因は、自分の想いです。結果(影)が先に起きることは無いのです。もし、起きるなら、先に結果があることになり、この宇宙の秩序は、無茶苦茶になってしまいます。
「出発」と言う言葉はあっても、「発出」と言う言葉はないのです。「出入」りと言う言葉はあっても、「入出」と言う言葉はないのです。先に「出」すから「入」るのです。出さなければ、入ってこられないのです。「凹」が生まれたから「凸」が入ってきたのです。それも、同質の凹凸が出入りするのです。「エネルギー均衡の法則」は、出した「凹」と同じ質の「凸」が入ってくるようになっているのです。つまり、悪しき想念(凹)を出せば、悪しきモノ(凸)が入り、良き想念(凹)を出せば、良きモノ(凸)が入ってくるのです。これは、エネルギー均衡の法則が働いている宇宙において当然のことなのです。
苦しみを人のせいにしないでください。自分の苦しみは、自分の想念が生み出した結果であることを知ってください。
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カルマを「悪!」と決めつける人がおりますが、カルマには、悪いカルマと良いカルマがあるのです。「良い想い」を持てば、良いカルマが作られます。「悪い想い」を持てば、悪いカルマが作られます。カルマとは、「想い癖」のことなのです。ですから、良いカルマを作りたかったら、いつも、良いことを想うことです。しかし、人間は、どうしても、ネガティブな想いを持ちがちです。これは、過去世において、沢山、苦しい目に遭ってきたからです。
この悪癖を直す一番の方法は、「神を想う」ことです。私たちは、同時に、二つのことが想えないのです。つまり、神を想っている時は、悪いことが想えないし、悪いことを想っている時は、神が思えないのです。この想念の仕組を利用することです。どうか、神を想ってください。そうすれば、悪い想いが持てなくなります。
幼い魂は、想念を悪く使って、苦しみを作っています。賢い魂は、想念を良く使って、幸せになっています。これは、誰の責任でもありません。想念を使った人の責任です。どうか、神を想ってください。神を想っている時は、原子核を増やし、悪いカルマを作らないという、二重の益が得られるのですから・・・。
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「思ったら何でも作られる!」この意味の深さを知ってください。どうして、事故災難に遭うのでしょうか? どうして、病気になるのでしょうか? 誰かが、何かが、与えたのでしょうか? いいえ、すべて自分の想いが与えたのです。私たちの想念は、想った通りのモノを作るのです。そんな偉大な想念を持っているのに、人類は、まだ、そのことに気づいていないのです。
「想念は創造の力」なのです。想念を良く使えば、良い人生が作られます。悪く使えば、悪い人生が作られます。これまで、あなたの人生には、苦しいことや楽しいことなど、沢山、あったと思いますが、みな、あなたの想念が作ったのです。人に作られた、苦しみなどありません。人に作られた、人生などありません。学校に入ったのも自分の想念です。会社に入ったのも自分の想念です。自動車を手に入れたのも自分の想念です。結婚したのも自分の想念です。すべて想念が作った、想念の作品なのです。あなたは、モノ作りの天才なのです。その才能を悪用しないでください。苦しい人生にしたくなかったら、どうか、想念を良く使ってください。それは、自分の自由意思でできるのですから・・・。
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世の人々は、「これをください! あれをください!」と、神様にオネダリしますが、私たちは、すでに、神様から想念と言う偉大な宝物が与えられているのですよ! それ以上、何がいると言うのですか?
想念は、何でも生み出す「打出の小槌」のようなものです。ですから、良く使えば、幸せになれるはずなのです。しかし、残念なことに、その小槌を悪いことに使っている人が多いのです。
私たちは、今日まで、自分の想念で人生を作ってきたのです。これからも、自分の想念で人生を作ってゆくのです。いいえ、「人生」だけではありません。「命生」も自分の想念によって創ってゆくのです。
「他人が、誰かが、作るのではありません。」
「偶然が、作るのでもありません。」
「一瞬一瞬の自分の想念が、創るのです。」
このように「人生も、命生も」、今の自分の一瞬一瞬の想念が作っているのです。想念が作った、一瞬一瞬の人生の点が、命生の糸に引き継がれて線になり、魂が成長してゆくのです。すべて、「想念」が、やっていることなのです。
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急に体調が悪くなった人は、ネガティブな波動に、やられています。つまり、サタンに、やられているのです。その時は、真理を求める気持ちも弱くなっているはずです。しかし、その事に、なかなか、気づかないのです。どうか、気付いてください。気付いたら、「サタンよ、見破ったぞ! サタンよ、退け! サタンよ、出てゆけ! 出てゆけ! 出てゆけ!」と、何度も心の中で叫んでください。もし、どこかに痛みがあったら、「想わない! 想わない! 想わない!」と、思ってください。痛みが和らぐはずです。
想いが実現させることは疑いのないことですが、地球は、波動が粗いため、実現するまでに相当の時間がかかるのです。でも、身近にある肉体は、時間のズレが少ないため、そく、実現するのです。例えば、ビックリすれば、心臓がドキッとします。心配すれば、胃が痛みます。金切り音を聞けば、肌がザワーっとします。このように、悪い想いも、良い想いも、すぐに、肉体上に現れるのです。だから、「想わない! 想わない! 想わない!」と、思ったら、そく、痛みが和らぐのです。
病気は、想念の学びに必要な教材なのです。想念の使い方が、いかに大切か!、「病気や事故を通して」学んでください!
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学びの友の皆さんが、まだ、病気や事故、災難を恐れるのは、完全に、神が信じられないからです。つまり、完全に、原因と結果の法則が信じられないからです。「法則を守っていたら、悪いことは、絶対起きない!」と、心の半分ぐらいでも思えたら、もう、恐れることはなくなります。覚者の心が穏やかなのは、法則を心の底で信じているからです。つまり、神を心から信じているからです。法則が信じられたら、悪い想念を出さなくなりますから、原因と結果の法則によって、悪しきことは、起きなくなるのです。
誰もが、自分の欠点を修正するため、計画を立てて生まれてきたのです。特に、皆さんのような熟した魂は、綿密な計画を立てて生まれてきます。その計画が完遂されるまで死ぬことはありませんので、今、病気になっているからと言って心配しないでください。ただし、怠けて学ばなかったら、計画変更も、ありますから注意してください。
計画を完遂するためには、常に、良い想念を持ちましょう!(瞑想しましょう!) 常に、良い想念を持つようになったら、あなたに、病気・事故・災難など、一切、寄ってきません。悪い原因を作らないのですから、当然です。
良い想念の一番は、神を想うことです。常に、神を想ってください。何も考えないで、ただ、神だけを想ってください。そうすれば、あなたの人生計画が完遂されること疑いありません。
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世の中には、過去世の業を無くそうと、霊能者のところに足を運んでいる人がおりますが、どうして、過去世の業を無くす必要があるのでしょうか? 過去生の記憶があるなら仕方ありませんが、記憶が無いのですから責任を持つ必要はないのです。過去生で作った業は、過去生の人の責任です。あなたは、今生、作った業だけ責任持ってください。
過去世の業は、痛みや苦しみで消えて行っているのですから、放っておいたら良いのです。あなたが、すべきことは、新たな業を作らないようにすることです。そのためには、悪いことを想わないよう努力することです。私が「神を想いなさい!」と口を酸っぱくして言うのは、神を想っている時は、悪いことが想えないからです。悪いことを想わなければ、新たな業を作らないばかりか、原子核まで増やせるのです。つまり、過去世の業を消し・・新たな業を作らない・・なお、原子核を増やせる・・と言う一挙三得の果実を得ることができるのです。
繰り返し言います。
過去生の業は、放っておいてください。今、あなたが、やるべきことは、「神を想う瞑想」をすることです。それで万事解決するのです。
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私たちは、常に、ネガティブな想いで、自分の心を汚しています。これほど、罪深いことはありません。なぜなら、神の心を汚しているからです。「自分の心と神の心は同じなのです。」そうは言っても、次から次へと悪いことを想ってしまいます。ですから、自分の心を汚さないわけにはゆきません。
では、自分の心を汚さない良い方法はないものでしょうか? 一つだけあります。それは、「想念で想念を牛耳る方法」です。そのためには、「二つで一つ」という宇宙の仕組みを、深く知る必要があります。
手には、表と裏がありますが、表だけの手もなければ、裏だけの手もありません。表と裏が揃って、手があるのです。この宇宙は、何でも二つで出来ているのです。陰と陽が結合して、宇宙が生まれたのです。人と神とが結合して、神人が生まれたのです。二つで一つなのです。一方通行は、無いのです。想念も、そのように出来ているのです。
例えば、良くない想念を持ったとしましょう。でも、良くない想念の反対側には、良い想念が、必ず、控えているのです。だから、悪い想いを持ったら、すぐに、こう思ってください。
「私は、今、悪い想いを持ったが、今、良い想いも持ったのだと・・・。」
悪いことが起きた時も、同じように思ってください。
「今、悪いことが起きたが、反対側に、良いことも起きていると・・・。」
このように、ポジティブな想念で、ネガティブな想念を打ち消したら、自分の心を汚さないですむのです。
「想念で、想念を牛耳るとは、良い想念で、悪い想念を変えてしまうと言う意味です。」
このコツを覚えたら、あなたの心に、一切、汚れが付かなくなります。
どうか、やってみてください。何の技術も要りません。何処へ行く必要もありません。お金もかかりません。ただ、自分の心の中でやれば良いだけです。これは、私の体験から言えることですから、間違いありません。
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皆さんに、お願いしたいのは、「想念の偉大さを知って欲しい!」と言うお願いです。想念ほど、恐ろしく、頼もしく、また、素晴らしいモノはないのです。神は、その想念を、私たちに持たせてくれたのです。
神は、おっしゃっておられます。
「想念を使えば、成せないことは、何も無いのですよ!」
「幸せは、想念次第ですよ!」と・・・。
私も同じことを言います。
「どうか想念の偉大さを知ってください!」
このことは、今後、何度も言いますが、何度 言っても、言い過ぎると言うことはありません。どうか、想念の偉大さを、心の奥底に刻み込んでください。
念を押します。
難しいことはありません。ただ、神を想い続けるだけで良いのです。マントラを思い続けるだけで良いのです。
繰り返します。
「私の願い・・・それは、想念を良く使って欲しいと言うお願いです。」
一番良い想いは、神を想うことです。
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私の恩師である、知花先生は、いつも、こう言っておられました。「想った通りのモノで・・それ以上でも以下でもないですよ!」と・・・。人間だと想ったら、迷いとなり、神だと想ったら、悟りとなるのです。悟りと迷いは、表裏一体なのです。それは、想いによって目覚められるからです。想いは、目覚めの力なのです。
何かを得ることが、大切なのではありません。「何を想うか」が、大切なのです。
すべて、自分の想いの作品です。
さあ! 私は・・
と、想ってください。想った通り、モノが生まれます。
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「運命は、決められている!」と言う人がおります。
「運命は、決められていない!」と言う人がおります。
果たして運命って、決められているのでしょうか? 決められていないのでしょうか?
「決められているようで、決められていない! 決められていないようで、決められている! 」と、答えるしかないでしょう。
このような言い方をするのは、宇宙は、無限だからです。無限宇宙に、「こうだ! ああだ!」と、決められたものなどないのです。もし、決められたものが有るなら、無限宇宙の中に、有限宇宙が有る、奇妙な宇宙になってしまいます。そんな奇妙な宇宙はありませんから、運命は、決められていないと言えるのです。でも、神の計画は、すべての魂を自覚の境界線を超えさせることにあるわけですから、運命は、決められていると言って良いのです。このように考えてください。
山の頂上(自覚の境界線)に通じる道は、沢山あるのです。どの道を選び、どのように歩むかは、自由です。自我人間は考えます。「どの道を選んだら、楽に、早く登れるだろうか?」と・・・。でも、自我人間には、分かりませんから、手探り状態で道を進むしかありません。と言うことは、運命は、決まっていないことになります。でも、右往左往しながらでも、いつか、必ず、頂上(自覚の境界線を超える)に着くのですから、運命は、決まっているとも言えるのです。
運命とは、「命」を「運」ぶと書きますが、その「命を運ぶ」のは、自分の想念です。あなたが、「どう想うかなのです。」、「何を想うかなのです。」すべて、あなたの想いが実現させるのです。ですから、運命鑑定も、おみくじも、必要ありません。神は、「難しいことをしなさい!」と言っていません。「想念を正しく使いなさい!」と言っているだけです。想念を正しく使えば、間違いなく、「命」は、ゆくべき所に、「運」ばれてゆくのです。
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「何でも有りの宇宙であることは確かです。」それは、想念によって、何でも生み出すことができるからです。だからと言って、無秩序な「何でも有り」ではないのです。法則内における「何でも有り」なのです。でなかったら、自由な意思を持つ人類は、想念を使って、宇宙に好き勝手な絵を描き「真・善・美」を乱してしまうからです。
この宇宙には、しっかりとした「真・善・美」の秩序があるのです。その秩序の中心から離れれば、必ず、苦しみがやってきます。ですから、「真・善・美」の秩序の中における「何でも有り」で、無秩序な「何でも有り」ではないのです。
確かに、私たちの目には、「偽と不善と醜」が実在しているように見えます。でも、その「偽と不善と醜」は、人類の迷いが生み出したもので、実際に有るものではないのです。もし、実際に有るなら、この宇宙は、真っ暗闇になってしまいます。幸いなことに、人類の迷いの想念が生み出した幻ですから、迷いが消えれば、「偽と不善と醜」は、無くなってしまうのです。
今、地球人類は、悪想念を使って様々な苦しみを作っていますが、これは、二つの実証実験をしているようなものなのです。
一つは「原因と結果の法則の実証実験」、もう一つは「何でも有りの実証実験」です。
「原因と結果の法則」の実証実験とは・・・、
戦争も、事件も、事故も、災難も、病気も、すべて人類の悪想念(原因)が生み出した結果であるという実験です。人類は、自らの想念で苦しい原因を作り、苦しい結果を我が身で体験しているのです。
「何でも有り」の実証実験とは・・・、
今人類は、想念でビルを築き、想念で車を作り、想念で人工衛星を飛ばしていますが、これは、想念の偉大な力を目に見える形にした実証実験なのです。目に見えない実証実験としては、個人的には、自分の想念で人生を作っています。世界的には、人類の集合想念で地球環境を汚しています。このように、人類の想念で、良いことも、悪いことも、作っているのです。もし、人類が、正しい想念を使うようになったら、この地球に理想世界を創ることも夢ではないでしょう。それどころか、太陽系に、銀河系に、理想の宇宙を創ることも夢ではないでしょう。だから、想念を持つ人類が存在する限り、何でも有りの宇宙になるのです。
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イエス様やお釈迦様や知花先生は、クドイほど「神を想いなさい! 仏を想いなさい!」と言われました。それは、言うだけの理由があるからです。では、どんな理由があるのでしょうか? それは、「神・仏を想えば」、三つの功徳があるからです。
私たちの想念は、同時に二つのことが思えないように出来ているのです。だから、私たちは、立ち直ることができるのです。もし、同時に二つのことが思えるなら、永遠に悪業を消すことができないでしょう。良いことを想っていたら、悪いことが想えない想念だから、私たちは、立ち直ることが出来るのです。
表現宇宙の白板に書かれた絵や文字は、刻々と消えてゆくのです。ですから、消す必要はないのです。でも、私たちは、苦しいので、また、同じ絵や文字を書いてしまうのです。これでは、いつまでたっても、苦しみは消えないのです。どうか、同時に二つのことを想えない想念を、上手に利用してください。それは、神を想えば良いだけです。どうか、この仕組を有効に利用してください。
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想わなかったら、何も生まれないのです。想念は、創造の力なのです。利口な人は、その想念を良いことに使って幸せになっています。愚かな人は、悪いことに使って不幸せになっています。
「この宇宙に、幸せな人と不幸せな人がいるのは、単に、想念を正しく使っているか、正しく使っていないかだけなのです。」
私たちは、幸せを誤解して受け取っているのです。幸せは、外側のモノ(お金・物・地位・名誉・権力)で得られるものではないのです。なぜなら、外側のモノは消えて無くなる幻だからです。消えて無くなるモノを得ても、それは、幻ですから幸せになれるはずがないのです。永遠に無くならない想念(意識)だけが、幸せをくれるのです。「自我を持たされた時点で救われていますよ!」と、私が言うのは、何でも創れる想念を持たされているからです。どうか、想念の働きを良く知り、想念を正しく使える人になってください。
幸せな人とは、想念を上手に使えるようになった人のことなのです。
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「想ったら、必ず、創られます。」なぜなら、私たちの思いそのものが、「創造の原理であり、創造の力」だからです。私たちは、想ったモノを、何でも作ってしまうのです。私たちの想いそのものが、モノを作っている本質(素材)そのものだからです。思っている当人が本質ですから、想えば、そく、そのモノになってしまうのです。ですから、想念は、恐ろしくもあり、素晴らしくもあるのです。
私たちの想念は、何でも作るわけですが、作られたモノは、いつか、必ず、消えてしまいます。なぜ、消えてしまうかと言えば、作られたモノは、本当に無いからです。では、作ったモノが本当に無いなら、創った想念も、本当に無いのではないかと思うかも知れませんが、創った想念は、本当に有るのです。このように考えてください。
作られたモノは、影です。創った想念は、光です。影は、本当に無いけれど、光は、本当に有るのです。作られたモノは無いけれど、創った本質は有るのです。
「本当に有るものから、本当に有るものは、絶対、生まれない」のです。
「本当に有るもの(想念)から、本当に無いモノが、生まれる」のです。
私たちの想念は、もともと有ったものですから、想念は創れません。本当に無いモノだけが作れるのです。また、本当に有るものは、無くすこともできないのです。本当に有るものは、創れないし、無くせないのです。本当に無いものは、作れるし、無くせるのです。また、本当に有るものは、途中で生まれもしなければ、途中で消えもしない永遠性の存在なのです。本当に無いモノは、途中で生まれるし、途中で消える有限性の存在なのです。
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ネガティブな想いを持てば、苦しい人生がやってきます。
ポジティブな想いを持てば、楽しい人生がやってきます。
病気や、事故災難などの不幸は、すべて、ネガティブな想いが呼び寄せたものです。想念ほど、恐ろしく、また、頼もしいものはないのです。神は、その想念を、すべての人類に平等に与えました。ですから、本当は、私たちは、幸せになれるはずなのです。しかし、今、地球人類は、「想念を・・思いたい放題」の使い方をして苦しんでいます。我が身に及ぼす想念の影響を少しも考えず、乱用しているのです。想ったことは、必ず、実現するのです。それも、寸分も狂わず実現するのです。この地球は、波動が粗いので、想ったことが、すぐに、目に見える形で現れることはありませんが、想ったことは、宇宙空間に青写真として残り、いつか、必ず、現実の世界に降りてきて、実現させるのです。これが、想念の働きの凄さなのです。
私たちが、生まれてくるのは、想念の学びをするためです。私たちは、今日まで、何万転生も、想念の学びをしてきたのです。これからも、学んでゆかねばならない課題なのです。どうか、肝に銘じてください。「いつか、必ず、克服しなければならない重要課題であることを・・・」
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「想念は実現の母」と言われるように、想念は、何でも成し得る偉大な力を秘めています。それは、あなたが、自分の想念で人生を作ってきたことが証明しています。そんな確かな証拠があると言うのに、どうして、想念の力を疑るのですか? 見えないから・・・肌で感じられないから・・・見えずとも、肌で感じなくても、間違いなく、自分の想念で自分の人生を作ってきたのです。
あの苦しいことも、そうでした。あの楽しいことも、そうでした。でも、あなたは、そうは思っていなかった。「誰かが、何かが、自分の人生を作ったと思っていた。でも、今日、その過ちを知ったのです。」さあ、今日からは、想念を正しく使いましょう。決して悪いことを想ってはなりません。思うなら、良いことを想いましょう。一番良い思いは、神を想うこと(自分のマントラを想うこと)です。神の想いは、良き思いの最たるものです。
想念の偉大さを知った、あなたに、もう、怖いものはありません。怖いものがあるとすれば、「想い」を持っている、あなた自身です。
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光と闇と、幸せと不幸の関係は、実に、単純です。明るい(光)想念を持てば、幸せになり、暗い(闇)想念を持てば、不幸せになるだけです。それは、光は、「真・善・美」そのもの、闇は、「偽・不善・醜」そのものだからです。つまり、光は良いこと尽くめ、闇は悪いこと尽くめなのです。
この宇宙に、闇や不幸せなど無いのです。光の無い状態を「闇と呼び、不幸と呼んでいる」だけです。その証しに、明かりを持ってきたら、闇は、即座に退散します。幸せを持ってきたら、即座に、不幸せは、退散するのです。
「幸せのない状態が、不幸せなのです。」
完全な神が創られた宇宙に、闇や不幸が有るわけがありません。闇や不幸せを創っているのは、あくまでも、迷った人の悪想念です。悪いことを想うから、闇がきて、不幸せになるだけです。
人生は、想念次第なのです。
「どう想うか?」
「何を想うか?」
「どれだけ多く想うか?」
「どれだけ強く想うか?」だけです。
幸せになりたかったら、明るい想念を、「多く」、「強く」持ってください。
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スポーツ競技で、良くこう言うことが起こります。選手の気持ちが、明るくなれば、良い展開になり、暗くなれば、悪い展開になると言ったことが・・・。これは、想いが、光を、呼んだり、退けたりし、その光の量が試合を支配するからです。例えば、ボール競技においては、選手の気持ちが明るくなれば、自分たちの都合の良い方へボールが転がりますし、選手の気持ちが暗くなれば、自分たちの都合の悪い方へボールが転がります。人生も同じです。暗い想いを持てば、悪いことが起こり、明るい想いを持てば、良いことが起きるのです。これは、光が人生を支配するからです。
光は・・
意識を持ち
意志を持ち
知恵を持ち
意図を持ち
計画性を持っているのです。
それは、光そのものが、神だからです。神は、光そのものなのです。神は、明るい想いが好きなのです。だから、明るい想いを持つ人には、福がやってくるのです。
どうか、良い人生にしたかったら、明るい想いを持ってください。それは、誰の力も借りる必要はありません。何処へ行く必要もありません。お金もかかりません。ただ、自分の想いを明るくすれば良いだけです。
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