私たちが生命の世界から出てきた目的は、「真実を知る!」という、今生、計画してきたことを遂行するためです。あなたは、その計画を、どこまで遂行しましたか? 計画にやり残しがあっては、死んでも死にきれません。肉の死は待ってはくれません。グズグスしている暇など無いのです。さあ、今生、計画してきたことをやり遂げて帰りましょう。
私たちはよく、人の道に恥じない生き方をしなさいとか、人間味を無くしてはならないとか、人間らしく生きなさいとかいいますが、人間が最高の生き物だと思っているから、そのような言い方をするのです。人間は神に至る進化途上の生き物であって、最高点にいるわけではないのです。それどころか、まだ、進化の下方の位置にいるのです。なぜなら、鉱物・植物・動物の次に位置しているのが人間だからです。人間の上には、無限に近い進化の階段があるのです。その下方に位置している人間に生きなさいとは、おかしな話ではありませんか? 私たちは一日も早く人間を卒業し、次のステップを踏まなければならないのです。そのためには、まず、自分が、神(生命)であることを知らねばなりません。
私たちは、神の分身なのです。私たちは、神から生まれた神の子なのです。神の子であるがゆえに、神になれるのです。なぜなら、子は、いずれ親になるからです。蛙の子であるオタマジャクシは、幼い時にはオタマジャクシと呼ばれていますが、いずれ、蛙と呼ばれるようになるのです。神の子である人間も、今は人間と呼ばれていますが、いずれ、神と呼ばれるようになるのです。蛙の子は蛙なのです。神の子は神なのです。人間の子と思うから、人間の生き方しかできないのです。今、私たちは、神でありながら人間と錯覚し、人間として生きているのです。それは、ただ、錯覚しているだけです。錯覚を解けば、そく神なのです。どうか高いレベルで人間を見てください。人間は間違いなく、神の子なのですから・・・。
「人」という字は、左辺の「ノ」と右辺「﹅」が支え合った形をしております。左辺の「ノ」は、肉体人間(物質)を指し、右辺の「﹅」は生命を指しているのです。人間は物質と生命の複合体なのです。つまり、陰と陽の結晶体が人間なのです。そこには、肉の自分と生命の自分の二人の自分がいるのです。自分探しとは、この右辺の生命の自分を探すことなのです。しかし、私たちはこの世の生活に追われ、なかなか、生命の自分を探せないでおります。外側に夢中になっている間は、生命の自分は探せないのです。なぜなら、「生命」の自分は、外側にいるのではなく、心の奥深い密室におられるからです。
私は、密室まで降りて行きました。しかし、密室の前に、扉を遮るように自我の自分が待ち構えていました。その自我の自分は様々な手を使い、生命(真我)の自分に合わせないよう邪魔してくるのです。この、自我と生命との戦いが、ジハードとか、聖戦とか、いわれる戦いなのです。私は、この戦いに、幾度、負けかけたことでしょう。ある時は感情を揺さぶり、ある時は欲望を掻き立て、ある時は病苦を与え、ある時は気力を萎えさせるといった、巧妙な手を使って邪魔してくるのです。でも、私は、歯を食いしばって戦い続けました。その甲斐あって、やがて、自我の勢力が弱まりました。どうやら、生命(真我)の自分が指導権を握ったようです。自我は、今も、時々、姿を見せますが、もう、昔のような力はありません。見破れば、コソコソと逃げてしまう滑稽な存在です。
求道者の最後の戦い、それが、自我と真我との聖戦です。さあ、聖戦に勝ちましょう。
コップの中に淀んだ水があるとします。そのコップの中に清い水を一滴入れたらどうなるでしょうか。清い水一滴だけが固まっているのでしょうか。それとも全体に溶け込んで行くのでしょうか。ある国のサルが芋を洗うようになったら、全世界のサルが芋を洗うようになったのも、個の影響が全体に及んだからです。意識は一つしかないのですから、個の影響が全体に及ぶのは当然なのです。ですから、「私一人良いことをやっても!」といわないでください。あなたが、良い波動を出せば、全体に影響を及ぼさずにはおかないのですから・・・。
これは魂の成長にもいえることで、一人の魂の成長は全体の魂の成長にもつながるのです。つまり、自分の魂の成長は、全人類の魂の成長に、つながるのです。意識が一つしかない宇宙において、影響を及ぼさない意識はないのです。あなたの意識は全体の意識であり、全体の意識はあなたの意識です。だから、あなたが成長すれば、全体が成長するのです。どうか、良い想いを持ってください。それは、自分を清めるだけでなく、全人類を清めることにも、地球を清めることにも、全宇宙を清めることにもなるのですから・・・。
世の中には、人助けを喜びとしている人たちが大勢おります。彼らは、災害が起こると率先して、寄付をしたり、ボランティアをしたりします。また、政府も、災害復旧に力を注ぎます。確かに、寄付をしたり、ボランティアをしたり、災害復旧をすることは、とても大切なことです。でも、それで満足していてはならないのです。なぜなら、結果対処では、根本的解決にならないからです。
なぜ、自然災害が多く起きるのでしょうか? なぜ、病で苦しむ人が後を絶たないのでしょうか? なぜ、地球環境が悪化の一途を辿っているのでしょうか? それは、多くの人が悪的想念を放っているからではないでしょうか。悪的想念を放ちながら、どんなに、結果対処(寄付や災害対策)しても、それは、一時しのぎで終わってしまうのです。川下をどんなに綺麗にしても、川上を綺麗にしなくては、根本的解決にはならないからです。私たちが、すべきことは、川下を綺麗にすることではなく、川上を綺麗にすることです。つまり、良い想いを持ち、良い言葉を使い、善い行いをすることです。そうすれば、原因を取り除くことになりますから、根本的解決になるのです。悟りも同じなのです。
議論に夢中になっている人たちや現象を追いかけている人たちは、川下でゴミを拾い集めているようなものですから、悟ることはできないのです。原因(意識)を変えず、結果(議論・現象)を拾い集め、どうして悟れるでしょうか。結果は、もう、終わったものなのです。終わったものを拾い集めて何になるのでしょうか。私たちは、まだ、終わっていないものを拾うべきです。終わっていないものとは、まだ、現れていないもの、すなわち、真実(意識・生命)のことです。私たちは、真実を拾うべきです。真実を拾ってこそ、悟ることができるのです。その拾う作業が、社会体験であり、瞑想であり、思索なのです。
人間は、病み、痛み、苦しみますが、なぜ、神は、そのようなおぞましいものを人間に与えたのでしょうか。いいえ、神は、そんなものを与えていません。人間の無知が、自ら苦しみを作っているだけです。でも、それは必要だからです。では、なぜ必要なのか、考えてみましょう。
このように、痛みや苦しみは、神に顔を向けさせるきっかけになり、それが、本当の自分を発見することにつながるのです。
この世になぜ、「努力」という字があるのでしょうか。それは、努力して身に付けねばならないことが山ほどあるからです。努力という字の意味を、漢字からひも解いてみましょう。
エネルギーの高いものは、高いところに位置しています。エネルギーの低いものは、低いところに位置しています。これは、白い雲が高い位置に、黒い雲が低い位置に浮いていることでも分かるでしょう。雲さんたちは、どうしたら高い位置に昇ることができるか、今、学んでいる真っ最中というわけです。これは、位置エネルギーの高さを示しており、私たちに大切な示唆を与えているのです。つまり、位置エネルギーの高い者はそれだけ努力して高いところに上った結果であり、低い者は怠けて努力しなかった結果であるという暗黙の示唆です。その怠け者の代表が、地を這う蛇です。だから、蛇には天敵が多いのです。地を這う生き物に天敵が多いのは、まだ、沢山努力する必要があるからです。人間も地を這う生き物ですが、それは、まだ、沢山努力する必要があるからです。努力は、魂を高い所に引き上げてくれるのです。努力すれば するほど エネルギーが高まり、高い位置に昇れるようになっているのが、この宇宙の仕組みなのです。だから、私は、努力が大切だというわけです。
今の自分に嫌気がさしている あなた!、自分の人生が無意味に思える あなた!、前が真っ暗で何も見えない あなた!、に進言したい、ぜひ、私の勧めることを実践してみてくださいと・・・きっと、自分を変えることができるでしょう。では、何をどう実践すればいいのでしょうか。
あなたは、今、本当に精いっぱい生きているでしょうか。何かから逃げていないでしょうか。努力しているでしょうか。向上心を持って生きているでしょうか。もし、何かから逃げているなら、逃げないでください。これが、自分を変える基本的生き方です。なぜなら、私たちの生命核(魂)は、精いっぱい生きれば生きるほど増える仕組みになっているからです。普段の生活でさえ生命核は増えるのですから、精いっぱい生きて増えないわけがないのです。思ったら行動を起こすことです。肉体を動かすことです。行動を起せば、間違いなく原子核は増えます。
“ 私は真理を実践しているのに何も変わらない!” という求道者がおりますが、それは、頭でっかちになり、実際に行動を起こしていないからです。つまり、知識に溺れ、実際に行動を起こしていないからです。座って何もしないで自分が変わるわけがないのです。原因あっての結果です。原因を変えず、結果が変わるわけがないのです。求道者なら、行動を起こしてください。まずは、社会体験をすることです。そして、思索をすることです。更に、瞑想をすることです。そうすれば、間違いなく変わります。例え、外面は変わらなくても、内面は間違いなく変わります。私のいうことを信じ、ぜひ、挑戦してみてください。
私たちの本性は神ですから、本来、私たちの心には、シミ一つ付いていないのです。しかし、残念なことに、殆どの人が心に汚れを付けております。でも、それは、汚れが付着しただけで、心そのものが汚れたわけではないのです。汚れを落とせば、そく、神の心に戻すことができるのです。良く、水が汚れたといいますが、いまだかって、水が汚れたことは一度もありません。水にゴミが付着しているだけです。ゴミを取り除ければ、そく、綺麗な水に戻るのです。心の汚れも同じなのです。では、どうすれば、心の汚れを落とすことができるのでしょうか? それは、反省(懺悔)をすることです。反省(懺悔)は、心の汚れを落とす一番の方法なのです。(反省の仕方は、人類の夜明2「自分を変える瞑想」の中に書いてありますので参考にしてください。)
反省で、一番大切なことは、反省後、「二度と過ちを犯さない!」と堅く良心に誓うことです。あとは、心に汚れを付けないよう、日々、注意して生きれば、神の心と自分の心が同調し、神の光が入ってくるようになります。この現象は、第一次の変性変容が起きたことを意味し、自分が変わった証です。このように、反省によっても自分を変えることができるのです。
この宇宙で、一番波動の低いのは、物質です。次に低いのは、幽質です。一番高いのは、霊質です。物質文明が栄えると病気が増えるのは、物質人間が多くなり、地球の波動を落してしまうからです。今地球の波動は最低にまで落ち込んでいますが、これを上げることができるのは、唯一、波動を落としている人間です。波動を落としたのも人間ならば、上げるのも人間なのです。波動を上げる一番の方法は、瞑想ですが、瞑想は、なかなか難しく、一般人には不向きです。そこで、私は、次のようなことを提唱したいと思います。
それは、“ありがとう! はい! 行ってきます! 行ってらっしゃい! お帰りなさい! お休みなさい! おはようございます! いただきます! ごちそうさま!” といった言葉を、意識して使うことです。日常生活で使っている、ごく当たり前の言葉ですが、ただ、儀礼的に使っているだけで、意識して使っている人は殆どいません。意識してという意味は、「心から」という意味です。
心を込めて使った言葉には、その人の心音が感じられます。この心から語ることを本音で語るといい、神の媒体としての大切な役割の一つなのです。本音とは、神の御心が奏でる響きのことで、言霊(ことだま)のことです。言葉は、心がこもってこそ生きてくるのです。心を込めて語った言葉は、間違いなく波動を高めます。ぜひ、心を込めて良い言葉を語るようにしてください。そのような人が一人でも多くなれば、地球の波動は間違いなく上がります。小さなことかもしれませんが、難しいことをやるより、できることから始めた方が確かだと思い勧めるわけです。ちなみに、波動の良い言葉は、「あ・い・う・え・お」のあ行の清音の言葉です。「愛! ありがとう! うれしい! 安心! 平安!」などの言葉は、その清音の代表でしょう。反対に、波動の悪い言葉は、「ば・び・ぶ・べ・ぼ」のば行の濁音の言葉です。「バカ、グズ、ドジ、ブス、ダメ」などの言葉は濁音の代表かも知れません。言葉も使うなら、できるだけ波動を高める「あ行」の言葉を使うようにしましょう。
「汝の信仰汝を救う!」とは、「汝の理解力が汝を救う!」という意味なのです。なぜ、理解力が高ければ汝を救うのかといいますと、理解力の高い人は法を犯す愚かなことはしないからです。壁に頭をぶつければ怪我をします。これは、「ぶつけた」原因に対して「怪我」という結果が帰ってきたからです。この法則を知りながら、わざわざ壁に頭をぶつけに行く人はいません。でも、理解力の乏しい人は、自らぶつけに行くのです。それは、法の存在を知らないからです。知っても、認めないからです。認めても、信じないからです。世の中には、このような人たちが沢山いるのです。世間の人たちは、苦しんでいる人を見て可愛そうだといいますが、これは、自業自得なのです。人間は、この身で痛みや苦しみを体験しなければ、法の存在を認めようとしないし、信じようとしないのです。だから、私は、可愛そうだと思う代わりに、“一日も早く理解力を高め、法の存在を認めてください! 信じてください! 実踐してください!” と祈るのです。
世間には、“一向に環境が変わらない!” と愚痴をこぼす人がおりますが、それは努力が足りないからではありませんか。例えば、一生懸命 努力して成績を上げれば、会社での地位も給料も上がるでしょう。そうなれば、アパート暮しからマンション暮らしに変えられるかもしれません。もっと努力すれば、一軒家が持てるかもしれません。それどころか重役に抜擢され、大邸宅が持てるかもしれません。心の環境を変えるのも同じなのです。
努力して、疑問を追及すれば、理解力が高まります。理解力が高まれば、気付きが起き、気付けば、自覚が高まり変性変容が起きます。これは、努力という原因に対して、変性変容という結果が起きたためです。怠けていて、どうして環境が変わりましょうか。怠けているということは、歩いていないということですから、景色(環境)が変わるわけがないのです。私が他力を否定するのは、自分の足で歩かなければ前に進まないからです。進まなければ、周囲の景色(環境)が変わるわけがないのです。
自分の足で歩くという意味は、
何事も努力なしには得られません。これは、当たり前のことです。もし、努力も向上心も不要なら、この世にそのような言葉は無かったはずです。あるのは、まだ、人類に必要だからです。
世の人々は、ポックリ死ぬことを願っております。苦しまず、一瞬のうちに死ねれば、こんな幸せな死に方はないからです。でも、ポックリ死ぬことは、本当に良いことなのでしょうか? 世間では、ガン宣告することを避けています。特に末期ガン患者に対しては、その傾向が強いようです。今の医学では、ガンは死を意味するので、宣告された途端、絶望し、生きる気力を失ってしまうからでしょうが、でも、刻々と死が近づいているというのに、何の準備も、何の学びも、させず過ごさせることが、本当に本人のためになっているのでしょうか。ガンで死ぬ人は、死ぬまで相当の時間が与えられます。ガン宣告はショックかもしれませんが、宣告されることで、本人は、きっと、人生の思索を始めるはずです。ガン患者は最後の学びをしようとしているのです。
この思索は、魂を大きく飛躍させます。自殺や横死が犬死だといわれるのは、ポックリ死んでは、何の学びもできないからです。その意味では、死刑執行まで時間が与えられている死刑囚は、少なからず学んで帰っているはずです。死刑囚とガン患者を一緒にするのは不謹慎かもしれませんが、思索の時間が与えられている点では同じだと思います。だから、私は、死ぬまで時間の与えられるガンに「ありがとう!」と、いいたいのです。(死ぬまで時間の与えられている他の病気も同じです。)
本当にその人を愛するなら、苦しみを避けて通してはなりません。非情な言い方ですが、これは愛するがゆえと思ってください。とはいっても、青い果実を強引にもぎ取るようなことはしないでください。つまり、ガンを宣告するにしても、魂の成熟度がどれほどか? 本人の心情がどのような状態か? さらに、良くよく機会を伺い、適切な判断を持ってやることです。もし、魂が幼すぎて宣告が耐えられないようなら、避けるべきでしょう。
苦しんでいるのは、当人だけではありません。肉親も一緒になって苦しんでいるのです。その苦しみを苦しみで終わらせないためにも、病気から学んでください。人間は近視眼的なモノの見方しかできませんので、事の真意が把握できないでおりますが、神の意図は苦しみの中にこそ息づいているのです。どうか、苦しみの奥に隠されている真意をくみ取ってください。そうすれば、苦しみや悲しみの意味が納得して受け入れられるでしょう。本当は、苦しまず死を迎える方がいいに決まっています。でも、幼い魂の多い今の地球では、死の苦しみは必要なのです。その意味において死は、地球人類の魂の成長につれ、静かに、穏やかに、ポックリと、やってくるようになるでしょう。
私たちは、気の遠くなる年月、人間として生きてきたために、神でありながら神と思えなくなってしまいました。オオカミに育てられた、人間の子が、オオカミだと信じ込んでしまったように・・・。この思い癖を取るには、神に対する、深い理解力と 気づきと 瞑想が 必要です。どうか、理解力を持って「吾神なり!」の瞑想をしてください。人間の思い癖を取るには、何度も 何度も「神」を瞑想するしかないのです。根気良く想い続けていれば、必ず、思い癖は取れます。くどいようですが、「私は神である!」と、無意識に思えるようになるまで 想い続けてください。騙されたと思って 想い続けてください。例え、今生、何の変化が起きなくても、決して無駄になることはありません。それは、原因と結果の法則が、裏支えしてくれているからです。原因を作れば、必ず、結果に結びつきます。これは、宇宙の法則ですから、間違いありません。自分探しの旅は、今までも続いていたし、今も続いているし、今後も続きます。やれば、必ず、成果が上がります。「神を想い続けること、瞑想すること、」、これが、自分探しの旅の秘訣であることを知ってください。
お釈迦様は、生まれて すぐ 三歩 あゆむと、天と地を指さしながら、”天上天下唯我独存(尊)” と、唱えたといわれます。でも、これは、お釈迦様を神秘化するために作り上げた偽りの話です。お釈迦様は、私たちと何ら変わらない手順を踏んで生まれた普通の人間です。どうでしょう。生まれたばかりの赤ちゃんが歩くと思いますか? 話すと思いますか? 天上天下唯我独尊の字も意味も、誤謬化して伝えられています。「天上天下唯我独尊」という字が使われていますが、本当は、「天上天下唯我独(存)」が正しいのです。その意味も、「この宇宙で自分が最も尊い者」と伝えられていますが、本当は、「この宇宙には、自分(私)しか存在しない!」というのが正しい解釈なのです。事実、お釈迦様は、説法の中で、“この宇宙には、私しか存在しません!” と、はっきり、いっておられます。この「私しか!」という意味は、仏しか(神しか)存在しない、という意味です。その私が、仏(神)の化身ですから、お釈迦様が、“私しか存在しない!” と、いった理由も分かろうというものです。(仏と神は同じ)
よく、本音で語りなさいといいますが、この本音とは、何かといいますと、本心(神の心)から発せられた音のことです。この本音は、神音とか聖音とか呼ばれ、波動の高い精妙な音なのです。この宇宙には、清く精妙な波動の高い、この聖音のみが存在するのです。でも、その聖音は、あまりにも精妙なため、通常、音として捕えることはできません。音にするためには、媒体が必要になるわけですが、その役割を担っているのが人間なのです。人間の声帯は、まさに、神の思いを響かす聖なる場所です。だから、その場所を、「のど仏」とか「聖帯(声帯)」とかいわれているのです。しかし、残念なことに、今の地球人類の「のど仏」からは、歪んだ音が多く発せられております。歪んだ音とは、偽心で語る言葉のことです。だから、今、地球人類は、役割を果たしていないのです。今の地球において、聖音を降ろす役割を担っているのは、聖人たちだけです。
ちなみに、聖人という字には、次のような意味があります。「聖」という字は、「耳」と「口」と「王」(王とは天のこと)と書きますが、これは、天の言葉を正しく「耳」で聞き、正しく「口」に出して話す人のことを指しているのです。天の言葉は、波動が精妙なため、正しく受け取るには大きな耳が必要です。また、口が歪んでいては、正しく伝えることができませんので、まっすぐな口が必要です。だから、聖人の耳たぶは大きく、口は、まっすぐな口をしているのです。政治家に口の歪んだ人が多いのは、偽りの言葉を多く語っているからです。
この聖音は、二千五百年前には、お釈迦様を通して、二千年前には、イエス様を通して降ろされました。では、今は、聖音は降ろされていないのでしょうか? いいえ、この地球上に聖音の閉ざされた時代は、一度もありません。いつの時代にも、どんな場所にも、どんな人種にも、聖音は、平等に届けられています。天は、えこひいきするようなことはしないのです。ただ、降ろされた聖音を、どのような解釈力を持って受け取るかが、重要なのです。
聖音を正しく受け取るには、次のような注意が必要です。
以上の四点を守れば、歪みのない聖音を受け取ることができるでしょう。先程、地球上に聖音の閉ざされた時代は無いといいましたが、理由は、聖者が、この世を去る時には、必ず、後継者にバトンタッチして帰るからです。
外側のモノは、外側にいる人は、貰えます。でも、内側のモノは、外側にいる人は、貰えないのです。貰うためには、外側の扉を開けて内側に入らねばならないのです。これは、当たり前の話であって、何も、特別な話ではありません。しかし、人間はどうしてか、外側にいて、内側のモノを貰おうとしているのです。これでは、いつまでたっても、内側のモノを貰うことは、できないでしょう。しかし、そのことに一人も気づいていないのです。
外側のモノとは、物質のことです。内側のものとは、真理のことです。外側のモノは、誰からでも貰えますが、内側のモノは、当人しか貰えないのです。なぜなら、内側のモノは、一人ひとりの心の中にあるからです。だから、欲しかったら、自らが外側の扉を開け、内側に入らねばならないのです。それは、人に頼んで、できることではないのです。
どうか、内側に入って、真理を受け取ってください。それは、あなた、だけにしかできない自力です。他力信仰が無意味なのは、自力でしか、内側の扉は開けられないからです。宗教は他力です。科学は自力です。だから、私は、科学的な生き方をしなさい!、というのです。
世の人々は、有名人になることを憧れているようですが、私は、 “無名でありなさい!” と、いいたいのです。理由はこうです。
有名という字は、「名」が「有」ると書きますが、名が有るということは、限定されているということです。今でさえ、人間という名に限定され、個人という名に限定され、誰の誰べえという名に限定されているのに、これ以上、名前に限定されて、どうするのでしょうか。私たちの本性は、自由無碍なる生命ですから、本来、名前も自由でなくてはならないのです。自由とは、制限が無いということです。無碍とは、障害がないということです。つまり、無限であるということです。その無限を目指さなければならない生命が、どうして、不自由な名に囚われるのでしょうか。有名で、あればあるほど、動きがとれなくなってしまうのですよ! その証に、有名人は、いつも自分を殺して生きております。顔形を気にし、着る物を気にし、言葉づかいを気にし、行いを気にし、常に人目を気にして、自分を殺しています。
白色の中には、無限の色が包含されておりますが、その白色から、赤色だけを取り出してみてください。赤色だけの小さな存在になってしまいます。無名の中から、有名を取り出してみてください。有限の小さな存在になってしまいます。私は、そんな小さな存在になりたくありません。だから、私は、「無名」で、ありたいと願うのです。どんなに有名になっても、この世限りのものであって、永遠に名が残るわけではないのです。しかし、宇宙の中で「無名」になったら、宇宙は永遠ですから、永遠に名が残るのです。名に囚われて、大きな自分を小さな自分にしないでください。できたら、今、持っている誰の誰べえという名前さえ忘れてください。世の中には、「空海」だとか「天海」だとか、偉そうな名前を付けている人がおりますが、彼らは、真理の中身で人を引きつけられないから、名前で権威を保とうとしているのです。私の恩師である、知花敏彦先生は、生まれもらった名前を一生通して使われました。ナザレのイエスも、ゴータマ・シッダールタ(お釈迦様)も、生まれもらった名前で一生通されたのです。キリストだとか、ブッタなどの偉名は、後の人たちが付けた異名です。
この宇宙は、たった一様の神によって創られたのですから、創られたものは、みな、神であるはずです。すべてのものが、神ならば、神という名が一つあればいいのではありませんか。人間が、神から遠ざかってしまったのは、人間の名だけでなく、個人の名まで付けてしまったからです。個人名は、有限を意味するため小さな存在にしてしまうのです。でも、「無名」は、無限を意味するため、大きな存在にしてくれるのです。私が、「かとう はかる」という名を重視しないのは、すでに、神という名を持っているからです。私たちは、神の子ですから、本当は、神(生命)という名を一つ持てばいいのです。だから、仏教では、人間から神に改めるという意味で、戒名(正しくは改名)しなさいというわけです。いずれ、私たちは、みな、神という一つ名を持つようになるのです。ちなみに、「無名」とは、一つ名という意味です。すなわち、たった一つしかない「神の名」のことを、「無名」というのです。
見えないものを信じられる人は、意識の高い人です。反対に信じられない人は、意識の低い人です。この宇宙の真実は、見えないモノの中に隠されていますから、見えないものを信じられる人は精神性が高いのです。では、宇宙の「真実」とは何でしょうか?
真実の「実」とは、結実したもの、形に現れたもの、つまり、表現世界のことを意味します。「真」とは、「真空」といって見えない空を意味します。「空」は、エネルギー、あるいは、命のことですから、通して解釈すれば、見えない「モノ」と見える「物」が一体となった表現宇宙が「真実」という意味になります。精神性の高い人は、そのことが理解できるため、見えないものが信じられるのです。エネルギーは見えません。命も見えません。でも、その見えないエネルギー(命)が、この宇宙を差配しているのです。だから、常に、エネルギーの高低が問題になってくるのです。精神性の高い人は、エネルギーが高いため、知恵が豊かです。判断力が鋭いです。悪を嫌います。謙虚です。素直です。純粋です。向上心が旺盛です。我慢強いです。エネルギーの持つ性質上、そのようになるのです。これは、転生輪廻において培った、徳といっていいかもしれません。精神性の高い人は、エネルギーを高めるために日夜瞑想しています。嫌なことにも怯みません。常に疑問を持っています。どうか精神性の高い人になってください。真実の扉を開く権利は、精神性の高い人に与えられていることを知ってください。
私たちは、いったい、何を追い求めるべきでしょうか? 消えて無くなる、お金や物や地位や名声でしょうか? それとも、永遠に無くならない真理でしょうか? 永遠に無くならない真理ですね。理由は、私たちそのものが、永遠不滅の真理(神・生命)だからです。宇宙は、実に正直に、私たちの要求に応えてくれます。真実を求めれば、真実が・・・幻を求めれば、幻が・・・。だから、聖書では、「真実を求めなさい! さすれば、必ず、与えられるであろう。」と謳われているのです。また、聖書では、「子供がパンを欲しがるのに石が与えられましょうか、石を欲しがるのにパンが与えられましょうか」とも謳われています。私は求めたが与えられなかったという人は、求め方が少なかったか、間違った求め方をしていたかの、どちらかです。「想念は実現の母」ですから、真剣に求めて与えられないはずがないのです。
人間が作った法は裏切りますが、宇宙(神・生命)が作った法は絶対裏切りません。真の求道者が、どんな困難にも怯まず真理を求め続けるのは、宇宙法則の完全性を信じているからです。さあ、宇宙法則を信じましょう! 宇宙法則を守りましょう! 宇宙法則を実践しましょう! 宇宙法則は、きっと、あなたの要求に応えてくれるでしょう。
即身成仏とは、ミイラになることではありません。肉体を持ったまま生命の自覚を持つことを、即身成仏というのです。生命の自覚を持った人は、肉を持ちながら生命なのです。地にいながら天にもいるのです。すなわち、成仏しているのです。「死んだらみな仏になるのですよ!」というお坊さんがおりますが、人間だと思って死んだ人が、どうして生命だと思えるようになるでしょうか。人間だと思っている人は、死んでも人間だと思っていますので、向こうへ帰っても人間のままでおります。つまり、彼らは、人間意識を持ったまま幽界に留まっているのです。ですから、幽界は、迷った人たちで一杯なのです。慣性の法則は、幽界でも働いていますので、肉体に執着を持っている幽界人は、再び、肉を持って生まれてきます。つまり、輪廻転生するのです。生命の自覚を持った人は、肉体を脱いだら、直接、霊界(生命の世界)へ帰りますので、もう、肉を持って生まれることはありません。
よく、滝行や、断食行や、山野を駆け巡るなどの荒業をして悟ろうとする人がおりますが、肉体をいじめて悟った人など、いまだかって一人もいません。肉体をいじめて悟れるなら、スポーツ選手は、みな、悟っていなくてはなりません。悟りは、あくまでも意識状態です。心の中のできごとです。だから、肉体業は、しないことです。
世の中には、霊が見えるとか、声なき声が聴こえるとか、いう人がおりますが、真理を追究する者にとって、これほど障害になることはありません。なぜなら、真実から目が逸らされてしまうからです。不思議なことができるから、何かが見えるから、何かが聴こえるから、意識が高いのではありません。そういう人は、幽界の低い階層に結びついていますので、返って意識の低い人なのです。私たちが求めるべきものは、真理です。本当の自分です。それは、何かが見えたり聴こえたりするところには無いのです。真理は、無形無双の光一元の世界にあるのですから、決して、現象の世界(闇の世界)に興味を抱いてはなりません。
真の求道者は、真理のみを追い求めます。彼らは、謙虚です。素直です。向上心が旺盛です。忍耐強いです。諦めません。自尊心で真理を閉ざす愚かなことはしません。特別なことのできる人は、自尊心が強いため、人のいうことに耳を貸そうとしません。ですから、そのような人は、今生、真理を掴むことは、絶対できないのです。さあ、真理のみを追い求めましょう。そこには、何の奇跡も、何の現象も、必要ないのですから・・・。
学びの友の中に、このようなことをいう人がおりました。
“ お風呂に入って、くつろいでいたとき、突然、自分が神だと気付いた、だから、私は神になる努力はしなくていいのです。何せ、私は、このままにして神なのですから・・・” そういって、彼女は、以後、瞑想しなくなったのです。確かに、人間は神ですから、神になる努力は必要ありません。でも、彼女は、本当に心の底から自分を神だと思っているのでしょうか? 神と気付くことと、神の自覚は別なのですよ?
人間は、もともと神です。生まれながらにして神です。このままにして神です。だから、仏典にも、聖典にも、努力して神になるとは、一言も書かれていないのです。何と書かれているかといいますと、「人間は生まれながらにして神仏である!」と書かれているのです。だからといって、今まで、散々、人間として生きてきた者が、急に、神と思えるようになるでしょうか? もし、努力せず、神と思えるようになるなら、どうして、聖者たちは、瞑想するのでしょうか? 神と思えることが難しいから、瞑想しているのではありませんか?
どうでしょう。地金が金だからといって、金にまつわり付いているドロを取らないで金の輝きが出せますか? 今まで、アヒルと誤解し、地を這いずり回っていたカモが、目覚めたからといって、急に、空を飛べるようになれますか? 今まで、人間と誤解し生きていた者が、神だと知っただけで、急に、神だと思えるようになれますか? 金を輝かせるにも、空を飛べるようになるにも、神と思えるようになるにも、それなりの努力が必要なのです。
彼女は、気付きと自覚を誤解して受け取っているのです。もともと、神だから、神になる努力はいらないけれど、神と思えるようになる努力はいるのです。この点を誤解するから、“瞑想など必要ない!” などといい出すのです。もし、彼女が本当に神だと思えているなら、変性変容が起きているはずです。変性変容が起きないのは、単に、神だと気付いただけで、実際には神の自覚がないからです。どうでしょう。本当に、草木が成熟しているなら、花を咲かせ、実を付けているのではありませんか? 花も実も付けないのは、そこまで、草木が成熟していないからではありませんか? つまり、神の自覚がないから、変性変容が起きないのです。では、なぜ、そのことに気付かないのでしょうか? それは、増長しているからです。自分を優秀な魂だと自負している者は、どうしても、この落とし穴に陥りやすいのです。だから、彼女は、いまだに、自我人間として生きております。どんなに偉大な魂でも、神の自覚がなければ、自我人間と何も変わらないのです。どうか、尊大な心を捨ててください。謙虚になってください。この表現世界に「努力」という言葉があるのは、まだ、「努力」する必要があるからです。どうか、「神に気付くこと」と、「神の自覚を得ること」を、混同しないでください。
天使とは、「天」の「使い」という意味です。天とは、神のことですから、天使とは、神の使いということです。私たちは、肉体と生命の結晶ですから、誰でも天使の資格を持っているのです。ただ、生命の自覚が持てないから、天使でありながら、天使の生き方ができないだけです。この宇宙に天使でないものなど一物も無いのです。どんなものも、神の意識核によって創られた神の分身ですから、みな、天使なのです。神は、自分を表現するために、この表現世界に自らを分化し遣わしたのです。神の使いこそ、天の使い、すなわち、天使たちなのです。だから、鉱物も、植物も、動物も、天使たちです。ならば、人間が天使なのは当り前ではないでしょうか。天使でありながら、人間として生きている私たち、何と哀れなことでしょう。私たちの中には、間違いなく天使の種が宿っているのです。その種に、水を与え、光を与え、大切に育てましょう。そうすれば、必ず、芽を出し、花を咲かせ、実を着けるでしょう。さあ、自分が天使であることに目覚めましょう。
「人」は、肉体と生命の結晶なのです。どちらが欠けても、「人」の存在はないのです。ということは、この表現世界に送られた時、すでに、半分天使の資格を持っていたということです。その半分の資格を持つ人間は、やがて、完全なる天使になるのです。どうか、天使としての自覚を持ってください。天使として生きてください。あなたは間違いなく、天から遣わされた天使なのですから・・・。
この地球には、アラーとか、ヤハウエとか、仏陀とか、ゼウスなど、様々な神の呼び名がありますが、この宇宙には、たった一様の神しかおられません。呼び名は違っても、みな同じ神なのです。ただ、その時代に、その地域で、どう呼ばれていたか、それだけのことです。神は、一様です。その一様の神が、私たちなのです。ですから、イエス様は、私は血や肉に非ず、「吾神なり!」 と、はっきり宣言しておられたのです。お釈迦様も、私は人間に非ず、「吾仏なり!」と、宣言しておられたのです。しかも、彼らは、「あなたたちも神なのですよ! 」と、はっきりいっておられたのです。「私だけが神だ!」とは、いっていません。ということは、今、人間だといっている私たちは、嘘をついていることになりませんか? そうです。私たちは、神なのに、今、人間だと嘘をついているのです。これは、神に対する冒涜です。神は、一様です。一様の神が、鉱物・植物・動物・人間の中に宿って生きて働いているのです。どうか、人間と嘘をつかないでください。大人が嘘をつけば、子供たちも嘘をつきます。どうか、子供たちに、“ 私たちは、神ですよ!” と、本当のことを告げてください。そろそろ、地球も、そのような時代に入っても良い頃です。どうか、堂々と神を語れる世の中にしてください。きっと、神は喜んでくれると思います。
目明き人には、第一段階の目明き人と、第二段階の目明き人がおります。第一段階の目明き人とは、五感で物を体験し理解できた人、つまり、今の人間のことをいいます。私たちは、普段、目で物を見て見えていると思っていますが、これでは、本当に見えているとはいえないのです。その物が理解できて、はじめて、見えている状態になるのです。理解できないものは(納得できないものは)、ただ、網膜に写っているだけで、実際に見えている状態になっていないのです。だから、赤ちゃんは、なめたり、しゃぶったり、触ったり、匂いを嗅いだり、叩いたりして、物を理解しようとしているのです。今、私たちが納得して見ている物も、実際、この身で体験し、理解した物ばかりです。ですから、一度も、見たことのない物は、見ていても、実際に見ている状態になっていないのです。このように、第一段階の目明き人とは、五感で物を理解し、納得できた人間のことをいうのです。
第二段階の目明き人とは、物の本質を理解し、納得できた人のことをいいます。物の本質が心底で理解できるようになると、見えないものが観えるようになってくるのです。お釈迦様が、いっていた「正見」とは、物を色や形で見るのではなく、物の本質を観なさいということだったのです。そのためには、物の本質を見る、理解眼(心眼・本質眼)を開かねばなりません。覚者たちは、この理解眼が開かれているのです。このように、第二段階の目明き人とは、物の本質を理解力で観れる覚者たちのことをいうのです。
今、地球上では、痛ましい出来事が多々起きていますが、これは、人類が第二段階の目明き人になるための試練です。つまり、今、人類は、様々な、痛みや苦しみを通して理解力を身につけ、目明き人になろうとしている真っ最中というわけです。痛みや苦しみは、大いなる疑問を持たせることができます。中でも、病気は、その筆頭です。病気は、人類を成長させるための事案なのです。その事案を解決するには、物の本質を追求する必要があるのです。
なぜ、物の本質を追求することが大切かといいますと、形は時と共に消え去る幻ですが、本質は永遠に無くならない真実だからです。外形の幻を見ている状態は「見る」なのです。内面の真実を見ている状態は「観る」なのです。病気を根絶するためには、「見る」から「観る」に方向転換しなければならないのです。地球に真の平和を持ってくるのも、「見る」から「観る」に方向転換しなくてはなりません。本質を心底で理解できるようになると、自分を本質として観られ、本質として生きられるようになるため、何事にも執着を抱かなくなるのです。その者は、第二段階の目明き人になったのです。つまり、真の目明き人になったのです。その者は、もう、病気になりません。もう、争い事は起こしません。
今日の教育の一番の問題点は、原因(本質)を教えないで、結果(形・物)ばかり教えている点です。そんな結果をいくら教えても、たいして意味のあることでは無いのです。なぜなら、消えて無くなる幻の教えだからです。教えるべきことは、永遠に無くならない、原因・真実・すなわち、真理です。真理を教えなくては、真の教育とは、いえないのです。真の目明き人に育てる教育こそ、真の教育なのです。このことに早く気づいて欲しいと思います。
魂の熟成した人の特筆すべき点は、第一に意志が強いこと、第二に想念力が強いことです。その意志や想念力の強さは、魂の熟成度の高さを示しており、それだけ、多くの転生を重ねてきた証なのです。でも、それは、単に魂の歴史が短かったか長かったかの違いで、自慢することではありません。魂の成熟した人の第三の特徴は、不思議なことに興味を持つことです。自然や宇宙に興味を持ちます。超常現象などに興味を持ちます。人の死に対して興味を持ちます。特に、人生の不可思議さに対して疑問を持ちます。第四の特徴は、どんな困難に出会ってもくじけないことです。例え、躓いても、すぐに、起き上がります。決して諦めません。また、常に高みを目指して努力します。今の今を大切に生きます。機転が利き、判断力が優れています。いざという時、持っている以上の力を出します。第五の特徴は、ポジティブな生き方をすることです。何でも良く受け取ります。だから、明るいのです。魂が成熟すると、エネルギーが強くなるのです。エネルギーが強くなると、意識は、地より天の方に向かうので明るくなるのです。ということは、エネルギーの強い人は、それだけ、神に近い人ということになるでしょう。そうです。魂の成熟した人は、神に近い人、天に近い人なのです。その人は、神と近しくしていたから、エネルギーが強くなったのです。どうか、神と近しくしてください。近しくするコツは、常に神を想うことです。神と会話をすることです。すなわち、瞑想をすることです。その者は、驚くようなエネルギー人間になるでしょう。
この世の中には、中絶される堕胎児がおります。産道を通るだけの体験をする死産児がおります。産まれて数年で死ぬ幼子がおります。なぜ、彼らは、そのような薄命をもってまで生まれてくるのでしょうか。それは、少しでも魂を成長させたいからです。すぐ死ぬと分かりながら生まれてくるのに、どれほどの決心が必要だったと思いますか。それはそれは、断崖絶壁から飛び降りるくらいの決心が必要だったはずです。この決意・決心が、魂を大きく成長させるのです。赤ちゃんが泣き声をあげ生まれてくるのは、この世の厳しさを体験するのが嫌だからだといいます。また、赤ちゃんがニコッと笑うのは、魂を大きくできる嬉しさからだといいます。どちらにしても、この世に肉体を持つということは大変なことなのです。
なぜ、幽界では魂の成長は少ないかといいますと、痛い、苦しい、寒い、暑い、などを感じる肉体が無いからです。幽界人は、生温い湯に入っているようなものなのです。生温い湯に入るのに、決心はいりませんから、あまり原子核が増えないのです。この世においても、甘やかされて育った御曹司は、すぐに弱音を吐いたり逃げ腰になったりします。これでは魂を成長させることはできません。私たちの魂は、強く決心すればするほど、嫌なことに挑戦すればするほど、増える仕組みになっているのです。これは、善悪に関係なくです。だから、私は、嫌なことから逃げてはなりませんよ! 果敢に挑戦してくださいよ! というのです。もし、臆病風を吹かし家に閉じこもっている人がいたら、どうか外に出て嫌なことに挑戦してください。間違いなく魂を成長させることができるでしょう。
このメッセージは、真剣に真理を求める人たちに届くようプログラムされてあります。ここまで読み進んできた、あなたは、その中の一人です。そのことを踏まえた上でお願いしたいのは、ぜひ、あなたのお子さんに、神の子の教育をしていただきたいというお願いです。こんなことをいうと世間の人たちは、“そんな非常識な事!” と怒るかもしれませんが、あなたなら分かっていただけると思います。といっても、特別な教育をお願いしているわけではありません。日常生活の中で普通にできる教育です。
例えば、
このように、声をかけるだけの教育です。ただ、その場合、その子を神の子として認め、神の子として接するよう心掛けねばなりません。ですから、悪いことをしても、怒ってはなりません。叱ってください。勿論、体罰はいけません。体罰を加えないでも分かる魂だからです。それより良いところを引き出す、ほめる教育をしてください。この教育は、今、妊娠中のお母さんにもぜひお願いしたいと思います。やり方は、まず、お腹に手を当て、“お母さんのいうことをよく聞いてくださいね!” といってから、
と、やさしく声をかけてやることです。他にも、童話を語ってあげても良いでしょう。童謡を唄ってあげても良いでしょう。心穏やかになる音楽を聴かせてあげても良いでしょう。要するに、子供が喜ぶようなことなら、何でも結構ですから、やってあげてください。そのように接すれば、知らず知らずのうちに、“ ああ、自分は神の子なのだ!” という意識が芽生えてくると思います。どうでしょう。神の子の教育は悪いことでしょうか? 良い子には育っても、決して悪い子には育たないと思います。幼い頃に受けた教育というものは、大人になっても決して忘れないものです。ぜひ、あなたのお子さんに神の子の教育をしてください。これは選ばれた者の義務だと思ってやってください。これから地球は、聖なる星に向かって突き進んでゆきます。その牽引車となるのが、あなたのお子さんです。どうか立派な牽引車に育つよう、神の子の教育をしてやってください。
これまで、私は、" あなたたちは生命(神)の子ですよ! ”といってきました。でも、そのことを心底で理解できた人は殆どいないと思います。それは、頭で知っただけで、実際には体感していないからです。宇宙の景色の素晴らしさは、実際に体感した者にしか解らないのです。私のいうことを疑い、宇宙にそんな景色があるはずがないといわれる人は、登ってからいってください。登ってもいないのに疑るのは、宇宙に対して失礼です。ぜひ、山に登ってください。そして、山頂から、宇宙の絶景を眺望してください。私のいっていたことが、本当であったことが分かっていただけるでしょう。