ムゲンの人生
作:かとう塾 冨岡晋
ムゲンは十七世紀の中頃、中国のある山村に大工の棟梁であった父タオと母ヨウヒの間に男子として生まれました。母のヨウヒが高齢だったため、お産の時、母子とも命に関わるほどの難産でした。そんなわけですから、ムゲンが無事に生まれると父も母も大感激でした。特に父タオは、喉から手がでるほど欲しかった跡取り息子でしたから喜びはひとしおでした。でも赤ちゃんのムゲンは、なぜか父を嫌らっていました。父が側に来ると泣き出すのです。あやそうと思って抱いたら、ますます泣き出すのです。そんな赤ちゃんでしたから、父はムゲンを好きなれません。次第に父と幼いムゲンとの間に、目に見えない隔壁が生まれて行ったのです。でも母は、父の分まで可愛がってくれましたので、ムゲンは明るく元気にスクスクと育って行きました。
当時の大工の棟梁と言えば、村民に一目置かれるほどの立場でしたから、その跡取り息子とあれば周りの人たちもムゲンをチヤホヤもてはやします。また、遅きにして授かった一人っ子でしたから、父も母も腫れ物にでも触るように大事に育てます。ですからムゲンは、自然と甘えっ子に育ったのです。
ところが十歳になった時、そのムゲンに悲劇が訪れたのです。あれほど大好きだった母が、流行病で急死したのです。幼いムゲンにとって母の死は、大ショックでした。死がどう言うことなのか、受け止められないのです。母の死が受け止められないまま、ムゲンに継母がやってきました。その継母は、父の前では可愛がるふりをするのですが、目の届かない所では陰湿に虐めるのです。でもそれを、嫌いな父に言うこともできません。あれほど明るかったムゲンの性格は、次第に内にこもる根暗な性格に変わって行ったのです。
そんなムゲンも十二歳になると、父から家業の大工仕事を教え込まれます。嫌いな父と一日中仕事場で顔を合わせることは大変な苦痛でしたが、大工の棟梁の跡取り息子とあれば仕方がありません。シブシブ言うことを聞いていたムゲンでしたが、十四歳になるとその鬱憤が反抗という形で吹き出したのです。仕事場に来なくなりました。家業の用事もしなくなりました。朝食が終わるとすぐに家を出て、日暮れまで帰ってきません。帰ってきても、黙り込んだまま口を利きません。継母が注意しても、父が注意しても、言うことを聞きません。そんな状態が一年以上続いたのです。
もう神仏に頼るしかないと思ったのか、父は嫌がるムゲンをある宗教団体に連れて行ったのです。この村の山岳地帯には修験者たちが屯する宗教団体があり、そこに父の知り合いの祈祷師がいたのです。祈祷師の前に連れ出されたムゲンは、怖ろしさの余り身をすくませました。祈祷師の鋭い眼光の中に、何かうごめく嫌なものを感じたからです。ムゲンは逃げ帰ろうとしましたが、父はムゲンの手を掴んで離しません。やがて、身のすくむ状態の中で祈祷が始まりました。祈祷が進むに連れムゲンは、自分の魂が吸い取られて行くような、おかしな意識状態になって行くのでした。
祈祷してもらったその日から、ムゲンは人が変わってしまいました。昼も夜も、部屋に閉じこもった切で出てこないのです。ソーッと様子を見ると、昼間はイビキをかいて眠り、夜になると起き出しブツブツとわけの分からないことを言いながら部屋の中を歩き回っているのです。その時のムゲンは、顔も声も別人です。まるで、二重人格者の様相を見せています。継母が注意すると獣のように叫び声をあげ、父が注意すると手当たり次第に物をぶつけます。危機感を抱いた父タオは、更に位の高い祈祷師に祈祷を頼みましたが、いくら祈祷してもらっても良くなりません。もう父も継母も、手の施しようがありませんでした。このような状態が、二十歳まで続いたのです。
二十一歳になると、様子が少し変わってきました。昼間は、父や継母の言うことを聞くようになりました。家業の仕事も少し手伝うようになりました。使用人とも話をするようになりました。でも夜になると、目をギラつかせ外に出かけて行くのです。父がどこに行くのか後をつけて行くと、賭博場で悪友と酒を飲みながら麻雀賭博をしているのです。注意すると暴れだすので、うかつに注意することもできません。かと言って、身体の大きくなったムゲンを力ずくで従わせるわけにも行きません。
身を固めれば落ち着くと思った父タオは、ムゲンが二十五歳になった年の秋、隣村の女性と強引に結婚させました。妻の名はシンイと言いました。妻のシンイは、ムゲンにはもったいないくらい献身的に尽くす妻でしたが、ムゲンは父の押し付けたシンイが気に入りません。ですから、夫婦喧嘩が絶えないのです。でも、一男一女を授かります。しかし子どもが授かっても、ムゲンの夜の非行は変わりません。変わらないどころか、ますます酒と麻雀賭博にのめり込む有様です。しかしそんな自堕落な生活が、いつまでも続くはずがありません。やがて、ムゲンに苦難の人生が訪れたのです。それは、父が頼りにしていた使用人と、ムゲンとの間で起きたトラブルがきっかけでした。
ムゲンにアゴでこき使われてきたウップンもあったのでしょう。使用人はもう一人の仲間と示し合わせ、家を出て行ってしまったのです。父のショックは大変なものでした。そのせいで父は心臓病になり、あっという間に死んでしまったのです。悪いことは重なるもので、半年もしないうちに継母まで死んでしまったのです。
使用人もいなくなった。父もいなくなった。こうなると、ムゲンの未熟な腕で大工家業が続けられるわけがありません。家業は倒産、すぐに収入が閉ざされてしまいました。ムゲンは仕方なく、父の残した家を売りました。でもそんな窮地に陥っても、ムゲンの自堕落な生活は止まりません。深酒は深酒を呼び、ついには手が震えるほどのアル中になってしまったのです。我慢していたシンイでしたが、自分だけでなく子供にまで手を上げるようになると我慢も限界です。シンイは、幼い二人の子供を連れて家を出て行ってしまったのです。こうなると、ますますムゲンは荒れ狂います。少しあった蓄えも使い果たし、ついには路上生活に身を落してしまったのです。もうムゲンは、野垂れ死に寸前まで来ていたのでした。
そんなある日、路上で酔いつぶれていたムゲンの目の前に、大きな荷を背負った一匹のアリが現れました。そのアリは、一生懸命巣の中に荷を運んでいるのです。それを見ていたムゲンは、何とも懐かしくなりました。父の仕事を一生懸命手伝っていた母と荷を運んでいるアリが、重なって見えたからです。でも酔い気に誘われ、ムゲンはそのまま眠ってしまいました。
ムゲンは、不思議な夢を見ました。それは人間の顔をしたアリが、大きな荷を背負って一生懸命働いている夢でした。そこに一人の老人が現れると、こう言ったのです。
「ご覧! アリでさえ家族を養うために一生懸命働いている。お前はどうかね? 親のすねをかじって好き放題に生きてきたのじゃないかね。アリに恥ずかしいとは思わないかね? お前は何のために生まれてきたのかね? 酒を飲むためかね? 麻雀賭博をやるためかね? 野垂れ死にするためかね? 」
厳しい老人の言葉でした。
その時ムゲンは、“バチが当たった!”と思いました。そこでムゲンは、目を覚ましました。それは、二重の夢から覚めたような爽やかな目覚めでした。なぜか頭がスッキリしているのです。
“どうして、あれほど父を嫌ったのだろうか? どうして、献身的に尽くしてくれた妻を嫌ったのだろうか? なぜ、あれほど酒と麻雀賭博に狂ったのだろうか? それよりも、今までどうしてこんな考えが持てなかったのだろうか? ”
ムゲンは不思議でたまりませんでした。
“ このままでは自分はダメになってしまう! よし立ち直ろう! ”
そう決意するとムゲンは起き上がりました。起き上がった目の前に、一人の修行僧が立っていました。その修行僧は、ニコヤカにこう言ったのです。
「どうやら憑きものが去ったようだね。」
「憑きものが? 」
「そうです。あなたは長い間、憑きものに支配されてきたのです。それが、今日取れたのです。よかったですね。でも気を付けねば、また憑かれますよ!」
修行僧は優しくそう注意してくれました。
その時ムゲンの口から、「どうか私を弟子にしてください! 私は立ち直りたいのです。」と言う言葉が出てきたのです。誰が言わせているのだろうか?と思いながらも、ムゲンは必死になって頼み込みました。
「本当に立ち直りたいなら、私の後に付いてきなさい! 付いてこられたら私の弟子にしてあげよう!」修行僧はそう言うと、スタスタと歩きはじめました。付いて行こうとしましたが、酒毒に侵されたムゲンの体は言うことを利きません。でも、必死になって修行僧に付いて行ったのでした。
修行僧は、三日三晩歩き続けました。途中、何度諦めようと思ったことでしょう? でも、なぜか決心は揺るぎませんでした。やがて、ある山寺に着きました。修行僧はムゲンにこう言いました。
「よく付いてきたね。よろしい、お前さんを私の弟子にしよう。今日からこの山寺で修行しなさい! 」
修行僧は、この山寺の住職だったのです。彼の名はチエンと言いました。この山寺には四人の僧がおり、ムゲンは五番目の弟子になったのです。
ムゲンは、早速その日から修行に入りました。まずムゲンにとっての最初の修行は、体を動かすことからでした。早朝四時に起きると、薄暗い廊下の雑巾がけします。日が昇ると、寺廻の掃除をします。それが終わると、山道を四・五キロ歩きます。それが苦にならなくなると、山野を駆け巡る修行に入りました。この修行の意図は、ムゲンにも分かりました。走って汗を出すことで、体内から酒毒を追い出そうと言うわけです。修行はとても厳しいものでしたが、“ 酒毒を消すためには、この厳しさが必要なのだ! ”、とムゲンは自分に言い聞かせ、歯を食いしばって頑張りました。
チエン和尚は言いました。
「サタン(肉体・自我)は、体を動かすことが大の苦手なのです。サタンは、怠けることが好きなのです。ですからサタンに勝つためには、できるだけ体を動かすことです。そのためには、強い勇気がいるでしょう。苦しいかも知れませんが、サタンが出て行くまで頑張って体を動かしてください。それも、できるだけコマ目に体を動かすことです。サタンが出て行ったらやる気が増します。体が元気になります。そうなると、もうサタンにやられなくなります。あなたは今までサタンにやられ、正しい思考が持てなかったのです。」
チエン和尚の話し方は温和でしたが、人をグイグイと引き込むエネルギーが感じられました。ムゲンはチエン和尚のエネルギーを頂き、一生懸命走り、一生懸命仕事をし、コマ目に体を動かしました。ムゲンには、なぜか今歩んでいる道が正しいと思えるのです。と言うよりも、今までの半生がこの道に入るために必要だった半生のように思えるのです。
この山寺に来てから一年が過ぎました。努力の甲斐あって、ムゲンの身体からすっかり酒毒が抜けました。もう、酒を飲みたいなどと思いません。むしろ、酒のことを考えると胸が悪くなるのです。もうムゲンは、昔のムゲンではありませんでした。
ある日ムゲンは、悔やみ多かった自分の半生をチエン和尚に話しました。
「世の中に過ちを犯さない者は一人もいない。誰でも少なからず過ちを犯しているものだ。だから自分を責めてはいけない。大切なのは、悪かったことを反省し二度と過ちを犯さないことじゃ!」
ムゲンは反省しました。父に歯向かったこと、妻に辛く当たったこと、子供たちにした仕打ちなど・・・サタンにやられていたとしても、それは自分の悪想念が引き寄せたもので、自分の責任であることは間違いありません。反省しながらムゲンは、どれほど大泣きしたことでしょう。でも反省が進むに連れムゲンの心は、次第に穏やかになって行くのでした。これは、心に付着していた汚れが取れ、光が入ってきたからです。
この山寺での修行は、まったく風変わりでした。午前中はチエン和尚のお話を聴き、その後念仏業を行います。念仏業と言っても、心の中で仏を想う瞑想です。午後は寺の畑仕事をし、残りの時間は村に出向いて村人たちのお世話をするのです。例えば、村人たちの畑仕事を手伝ったり、薪割りや洗濯などの手助けをしたり、時には村の道路や橋の補修などをするのです。要するに奉仕労働をするわけです。勿論、村人が死んだら葬儀もします。その見返りとして、村人から生活に必要な物を頂くのです。
チエン和尚は言います。
「荒行して体を痛めつけても、悟れるものではありません。社会の人たちと親しく接し、真心を込めた社会体験をすることで魂が大きくなるのです。」
また、こうも言います。
「瞑想は、無空になることではありません。仏(神)の意味を良く知った上で仏(神)を想うことです。自分が仏(神)である、と心の底で思えるようになることが大切なのです」と・・・
山寺に来てから七年の歳月が流れました。ムゲンは四十半ばになっていました。今はチエン和尚を支える副住職の立場になっていました。確かに、この山寺で修行したお蔭で立ち直ることができました。
“でも、自分だけ幸せで良いのだろうか? 家を出て行った妻や子供たちは、どうしているのだろうか? ”
この七年間そのことを考えない日は、一日もありませんでした。
そんなある日、隣の村から家の補修依頼がありました。曲がりなりにも大工の仕事をしていたムゲンが派遣されました。歩いて丸一日かかる村でしたが、荷車を押して歩く足がなぜか軽く動くのです。やがて依頼主の家に着きました。
家に声を掛けると、家の中から四人の家族が出てきました。一人は中年の男性、一人は少年、一人は少女、もう一人は中年の女性でした。中年の女性は、目が不自由そうでした。ムゲンはその女性を見て、ハッと目を疑いました。風体は変わっていましたが、明らかにその女性は家を出て行った妻シンイだったのです。二人の子どもには、幼い時の面影があります。自分の子どもであることは間違いありません。四人はムゲンの前で、仲睦まじそうに冗談を言い合っています。それを見ていたムゲンは、嫉妬半分嬉しさ半分の何とも複雑な気持ちになりました。
“ 父親だと名乗りたい! でも、名乗ってはいけない。いや、名乗る資格などないのだ!・・・”
ムゲンはそう自分に言い聞かせると、名乗りたい気持ちを呑み込みました。大きな声で話してはシンイに気づかれると思ったムゲンは、小声で修理ケ所を聞くとさっそく仕事に取り掛かりました。仕事をしながらムゲンは思いました。
“ どうしてシンイは目が見えなくなったのだろうか? 二人の子を育てるために苦労したせいではないか? ”
そう思うとムゲンは、済まない気持ちでいっぱいになるのでした。ムゲンはテキパキと仕事を終わらせると、零れそうになる涙を押さえ足早に家を出ました。ムゲンは寺に帰る途中、妻と子供たちの幸せな顔を思い出しながら、
“ 子供たちも妻も、あんなに幸せにしているのだ! 二度とあの家には近づかないようにしよう! ”と誓うのでした。後で村人に聞いた話ですが、やはりシンイは二人の子供を育てるために無理をして目が見えなくなったそうです。でも優しいご主人に出会い、幸せに暮らすようになったと言います。ムゲンは心の中で、今のご主人に感謝するのでした。
ムゲンはその後、罪を償うために残りの人生を近隣の村人のために捧げました。そして、六十七歳でこの世を去ったのでした。
ムゲンは今生厳しい人生体験をしましたが、その厳しい人生体験が真理に顔を向けさせたのですから、決して悪い人生ではなかったのです。いやむしろ、良い人生だったのです。その証に、もう一段高い幽界に帰ることができたのですから・・・。
お終い
この物語から学ぶこと・・・かとう はかる
◯今地球の周りには、迷って死んだ人の悪い想念波動が一杯漂っています。その悪い想念波動が、この世の人たちに憑いて恐ろしい行動に駆り立てているのです。これを憑依現象と言います。最近多い理由なき殺人も、テロも、自殺も、精神病も、みな憑依現象です。これは誰の責任でもありません。悪い想念波動を出している人たちの責任です。
お寺や神社を、神聖な場所のように考えてはなりません。なぜなら、お参りに来る人たちの欲望や迷って死んだ人たちの悪しき想念波動が漂っているからです。そんな所にわざわざ出向いて、悪い波動を持ち帰るなど愚かです。ムゲンが憑依されたのも、悪い波動の漂う所に出向いて祈祷してもらったからです。世の中には、このような事例が沢山あるのです。
◯波動の高さに同調して起きるのが憑依現象ですから、憑依現象にも良い憑依現象と悪い憑依現象があるのです。例えば、真に世のため人のためになりたいと思って、仕事 (画家や彫刻家や作詞作曲家など)をしている人たちには、高い霊(守護霊・指導霊)が憑いて指導するので良い憑依現象です。人を殺したいとか、人を騙したいと思っている人は、低い霊が憑いて指導するので悪い憑依現象です。低い波動(悪い想念)を出していれば低級霊が同調するので悪い人生が開け、高い波動(良い想念)を出していれば高級霊が同調するので良い人生が開けるのです。
◯体をコマ目に動かせば、間違いなく原子核が増えます。増えた分、心が強くなります。ムゲンは幼い時甘やかされて育てられましたが、根は強い心を持っていたのです。だから、厳しい修行に耐えられたのです。
◯この世は、「天使とて地獄に落ちる!」と言われるほど厳しい世界です。そんな厳しい世界に肉体を持って出てきたのですから、サタンにやられるのも無理はないのです。でも、そのサタンに打ち勝てば魂を大きくすることができるのですから、サタンに憑かれることは決して悪いことではないのです。ムゲンが一段高い幽界に帰ることができたのも、サタンに打ち勝ったからです、
◯ムゲンが目覚めたのは、“バチが当たったと!”と思ったからです。“バチが当たった!”と思うのは、神仏の存在を認めているからです。と言うことは、神に顔を向けたと言うことです。神に顔を向けるようになると、守護霊が導きやすくなるので目覚めることができるのです。
◯生まれながらに相性の悪い人がおりますが、ムゲンと父との関係もそうでした。これは過去生で互いに敵対していたからです。ムゲンの父は、過去生でムゲンを苦しめていたのです。だからムゲンは、父が好きになれなかったのです。
◯「ムゲンの学び」の物語で真理子(真理子の前生の名はムゲンでした)が大酒飲みの夫に苦しめられましたが、それはムゲンが過去生で大酒を飲み、妻シンイを苦しめていたからです。苦しめれば苦しめられるのです。つまり、同じことをやり返されるのです。裏と表を体験して成長するのが、輪廻転生における学びなのです。