私の独り言
私は、時々、思うのです。
「あの人の魂が、私の魂でなくて良かったなあ! もし、あの人の魂が、私の魂だったら、こんな悲惨なことはない!」と・・・。
私の魂は、人に奪われることはありません。
誰かと交換することもできません。
勿論、売り買いすることもできません。
私の魂は、永遠に、私独自の魂であり続けるのです。
こんな嬉しいことないのではありませんか?
魂を、ここまで大きくしてくれた、過去生の自分よありがとう!
(2018年11月18日 今週の真言より)
肉体は、一時の存在です。でも、魂は、永遠の存在なのです。
私たちは、永遠に生き続ける魂なのです。
ならば、一時の存在である、肉体を大切にすべきでしょうか? 永遠の存在である、魂を大切にするべきでしょうか? 言わずもがなですね。
そうです!
私たちは、
名前は、どうでも、良いのです。
自分は、そう言う存在である! と言うことを知ってください!
それも、心の底で知ってください!
心の底で知れば、もう、安心です。
何が起きても、動揺することはありません。
1日も早く、そう言う自分になりたいものです。
私たちは、どれほど、永い転生をかけ、魂を大きくしたことでしょう!
それは、それは、言葉で言い尽くせない、苦難の道を歩んできたのです。
そして、やっと、自我を持つところまで、進化して来たのです。
自我を持つようになった、と言うことは、自分の存在を、相手の存在を、宇宙の存在を、認識できるようになった、と言うことです。
「神っているのかな?」と言うことを、意識できるようになった、と言うことです。
これは、凄いことなのです。
自分を認識できると言う意味の深さは、あまりにも深くて、言葉で説明することができませんが、 一言で言えば、自分が自分を存在させている、と言うことです。
「自分!」と、どうして思えるのでしょうか?
「自分の意識」を追いかけて行ってみてください!
どんなに追いかけても、自分の意識を掴むことができないはずです。
なんて意識って、不可思議な存在なのでしょうか?
その不可思議な意識が、あなたなのです。
あなたの意識が無かったら、あなたはいないのです。
あなたの意識が無かったら、相手がいないのです。
あなたの意識が無かったら、宇宙が無いのです。
あなたの意識が無かったら、神はいないのです。
と言うことは、あなたの意識が、全てのものを創っていると言うことです。
2022.04.01
受け取り側が創る宇宙!
この表現宇宙に、元々、宇宙があったわけではないのです。
受け取る者(認識者)が、認識して、初めて、宇宙が生まれたのです。
これが、真理です。
この真理は、経済にも、当てはまるのです。
本来、経済は、需要(受取人)あっての供給なのです。供給あっての需要では無いのです。つまり、需要者側が、供給物と供給量を決めるのです。
今の資本主義経済は、供給者側が、供給物と供給量を決めると言う、逆さまなことをやっているのです。
供給者側が決めれば、予測して物作りするので、どうしても、無駄が生まれてしまうのです。
(奉仕経済では、需要者側が、欲しい物と欲しい量を決めるので、一切、無駄が生まれない。)
受取人(認識者)が、表現宇宙を創っているように、 経済も「受け取り側・需要者側」が、供給物と供給量を決めるべきなのです。
意識は受け取り側が持っている!
表現宇宙が、受け取り側(認識者)の理解力によって進展して行くのは、受け取り側(認識者)にしか意識がないからです。
この宇宙には、たった一つの受取人(主観の主)がいるだけなのです。
つまり、たった一つの意識の持ち主がいるだけなのです。
そのたった一つの意識の持ち主が、認識することによって、宇宙は、創られているのです。
宇宙を見ていると、何か、元々、宇宙があったような、錯覚に陥ってしまいます。
でも、認識者である、私たちが認識して、初めて、宇宙が創られたのです。
私たちが認識しなければ、宇宙は、おろか、何も存在しないのです。
内側(認識者)と外側(被認識物)の関係を考えてみてください。
外側の宇宙は、結果です。 内側の意識は、原因です。
結果が、結果である宇宙を創れるわけがないのです。
原因である内側の意識が、宇宙を創るのです。
この当たり前のことが、科学者は、解かっていないのです。
だから、探査機を飛ばして、砂を持ち帰るようなことをするのです。
外側は、あくまでも、内側が作った幻で、真実ではないのです。
受け取り人(内側)しかいないのですから、当然です。
それは、外側の幻を、本物だと誤解しているからです。
どうか、外側の幻に、惑わされないようにしてください!
※ 五感にかかるものは、幻で、五感にかからないものが、真実です。
なぜなら、見えないモノから、見える物が生まれ、見えないモノに帰るからです。
ならば、どうして、見える物が、本物なのでしょうか?
よく、考えてみてください!
何でも、見えないモノから、見える物が、生まれてくるのです。
私たちは、それを、「誕生と死」で、見ているではありませんか?
赤ちゃんは、見えないモノから、生まれてきたのです。
そして、人間の死は、見えないモノに帰るのです。
このように、はっきりと、見せられているのに、どうして、見える物だけ大切にして、見えないモノを大切にしようとしないのでしょうか?
それは、見えないから?・・・見えなければ、無いのでしょうか?
私たちは、見えないモノを吸って、生きているではありませんか?
2022.04.02
今の世の中には、悪が、はびこっております。
どっから見ても、悪と思えることが、大手を振っています。
世の人々は、その様を見て、「正義は無いのか!?」と言って嘆きます。
でも、その悪は、地球人類全員が作った悪なのです。
だから、地球人類全員が、見せられるのです。
と言うことは、他人事ではない、と言うことです。
でも、その悪は、いつまでも、はびこっているわけにはいきません。
なぜなら、必ず、裁きが与えられるようになっているからです。
人が裁きを与えるのではありません。「原因と結果の法則」が、裁きを与えるのです。
原因と結果の法則の裁きは、完全ですから、逃ることは、絶対できません。
この宇宙に、正義が行き届いているのは、原因と結果の法則が完全だからです。
でも、原因と結果の法則は、目には見えませんので、本当に働いているかどうか疑ってしまいます。
実際に、悪を犯した者が、何のお咎めもなく、一生を終えることもあります。
しかし、原因と結果の法則は、今生だけに働くのではありません。
来生にも、再来生にも、またがって働くのです。
ですから、やり得と言うことは、絶対ないのです。
犯した罪は、必ず、償わされます。
それも、小さい罪は小さい苦しみで、大きい罪は大きい苦しみで・・・ 。
でなければ、宇宙の完全性が、崩れてしまうからです。
「やり得も、やり損も」ありません。
悪い事をしたら悪い事が、良い事をしたら良い事が、必ず、我が身に返って来るのです。
私たちの中には、「自我の心」と「真我の心」があるのです。
真我の心は、「原因と結果の法則」そのものですから、悪を犯せば、必ず、苦しみが来るようになっているのです。
ですから、悪いことをして得をすることは、絶対ないのです。
しかし、肉体を持っている限り、誰でも、罪は犯すのです。
これは、仕方のないことなのです。
ですから、罪を憎んでも、人を憎んではなりません。
そうです! 人を憎んではいけません。
憎めば、自分の宇宙(心)を、汚してしまうからです。
つまり、業を創ってしまうからです。
憎むのではなく、「彼は、悪を通して善を学んでいる、真っ最中なのだ!」と、思ってください。
そう思えば 、自分の宇宙を、汚すことはありません。
私たちは、悪を見ると、どうして、嫌な気分になるのでしょうか?
それは、自分の中に、同じ悪があるからではないでしょうか?
そうです。
私たちは、永い輪廻転生の中において、たくさんの悪を犯してきたのです。
だから、悪を見ると、嫌な気分になるのです。
でも、自分を責めてはなりません。また、悪人を責めてもなりません。
その悪人は、自分の中に、悪のあることを教えてくれた、先生なのですから、・・・。
そう思えば、憎むどころか、感謝できるでしょう。
また、悪人に苦しめられている人を見て、心を痛めてもなりません。
彼らは、今、業を消している、真っ最中なのですから・・・。
学びの友の皆さんは、今、現象を通して、想念のコントロールの学びをさせてもらっているのです。
何を見ても、良く受け取ってください。
良く受け取れば、悪いことなど、一つも無いのですから・・・。
外側の出来事は、全て、学びの友の皆さんの良き教材だと思ってください!
2022.04.03
余計なことを考えないようにしよう!
余計なことを考えないようにしよう! と言う意味は、余計な情報を発信しないようにしよう! と言う意味なのです。(考えれば、思えば、情報を発信したことになる。)
この宇宙は、考えたこと、想ったことが、実現する仕組みになっているのです。
余計なことを考えれば、余計な情報を発信します。
余計な情報を発信すれば、余計な情報が帰ってきますから、ますます、余計なことを考えるようになるのです。
そうなると、平安な心が維持できません。
私たちは、情報を多く、受け取れば、受け取るほど、雑念が膨らむようになっているのです。
余計なことを考えなかったら、余計な情報を発信しませんから、余計な情報が入って来ないのです。
つまり、余計な原因を創らなければ、余計な結果はやってこない、と言うことです。
世の人々は、常に、余計な情報を発信しています。
余計な情報を発信すれば、余計な原因を創るわけですから、余計な結果がやって来るのです。
良い情報を発信するのでしたら、良いでしょうが、殆どが、悪い情報ばかりです。
だから、悪い結果がやってきて、自分が苦しめられるのです。
家族間の諍い・企業間の諍い・国家間の諍いなど、この世のすべての諍いは、余計なことを考える(余計な情報を発信する)から、起きるのです。
できるだけ、余計なことを考えない(余計な情報を発信しない)ことです。
そうすれば、余計な情報が入ってこなくなりますから、心穏やかになれるのです。
みなさんは、何が欲しいのですか?
平安が欲しいのではありませんか?
心穏やかでありたいのではありませんか?
心穏やかでありたいなら、外側の情報を、出来るだけシャットアウトすることです。
そして、常に、内側に、意識を持ってゆくことです。
つまり、神を想うことです。
※ 意識の不思議な習性
意識は、実に、不思議な習性を持っています。
どんな習性かと言いますと、動いたモノに意識が向かう、と言う習性です。
例えば、何かが動いたら、意識は、動いたものに移動するのです。
この宇宙が、なぜ、創造されたかと言いますと、神の想念が動いたからです。
神の想念が動いた時点で、意識が、その動いたものに向かって移動したのです。
意識は、エネルギー(素材)そのものですから、動いた想念にエネルギーが移動して、想念通りのモノが創造されたわけです。
この意識の習性(原理)を利用したのが、瞑想です。
瞑想は、想念を動かして行います。
例えば、「吾神なり!」と想念すれば、その想念に向かってエネルギーが移動し、想ったモノ(神)を創造するわけです。
神は創られませんが、エネルギーが、原子核(生命核・魂)を増やすのです。
前述したように、意識は、エネルギー(素材)そのものですから、そのエネルギーが、想念したモノを創るわけです。
(2016年9月25日 今週の真言より)
妄念を抱くとは・・・
「妄念」という字を見てください。
「妄」の字は、上に「亡」と書き、下に「女」と書きますが、下の「女」という字は、物質のことを意味し、この世の物質のことを表しているのです。
上の「亡」は、「死ぬ・消える」ことを意味し、これは、幻のことを意味しています。
「念」と言う字は、「今」の「心」と書き、自分の今の心の想いを意味しています。
通して解釈すれば、妄念とは、自分の今の心に「幻の物質を想い描く」と言う意味になります。
想念は実現の母、と言われるように、物質の妄念を抱けば、波動が落ちるわけですから、苦しい人生になるのは、当たり前なのです。
だから、覚者は、「妄念を抱いてはならない!」と、口うるさく言うのです。
日本の漢字は、実に、真理を的確に表わしていると思います。
注)・・・物質とは、単に、この世の物だけのことを言っているのではなく、表現世界の諸々のことを言っているのです。
つまり、人間社会の諸々のことを言っているのです。
(2016年4月24日 今週の真言より)
2022.04.04
最後の学び
神が、苦しみを与えているのではありません。
私たちが、自分の想念を悪く使って、苦しんでいるだけです。
想念を悪く使うのは、長い転生で付けた悪癖なのです。
これは、私たちが、克服しなければならない、最大の課題です。
では、どうすれば、悪癖を無くすことができるのでしょうか?
それは、神を想うことです。神を想えば、反省さえ、必要ないのです。
宇宙の仕組みは、良く出来ているもので、白板に書いた絵や字は、放っておいたら、自然と消えてゆくようになっているのです。
悪想念で、業の上乗せをしない限り・・・。
悪想念で、業の上乗せするから、苦しみが無くならないのです。
宇宙の仕組みは、「悪想念を使って、苦しみを創ったなら、良い想念を使って、苦しみを消しなさい!」と言う、単純な仕組みなのです。
この仕組みを利用したら、私たちは、苦しみから逃れられるのです。
それどころか、人類に、地球に、宇宙に、貢献できるのです。
お金もかかりません。何処に行く必要もありません。
ただ、神を想い続けたら良いだけです。
とは言っても、私たちは、どうしても、チラッチラッと、悪いことを思ってしまいます。これが、厄介なのです。
でも、悪いことを思いそうになったら、 神を想ってください!
神を想えば、「業を創らない、自分の欠点は無くなる、原子核も増える」、正に、良いこと尽くめです。
さあ、神を想い続けましょう。
吾神なり!
吾神なり!
吾神なり!
※ 人類は、未だに、想念の偉大さを知らないで、生きているのです。
だから、想念を悪く使って、自ら苦しんでいるのです。
想念は、何でも生み出し、何でも実現させ、何でも成就させるのです。
もう、そろそろ、気付いて良い頃ではありませんか?
学びの友の皆さんの最終的な学びは、想念のコントロールです。
(2016年12月25日 今週の真言より)
想いの力ほど、偉大なものはありません。
悪いものでも、良く受け取れば、良いものになるのです。
反対に、良いものでも、悪く受け取れば、悪いものになるのです。
なぜなら、この宇宙に、本質的な悪は、無いからです。
ですから、受け取り方次第なのです。
誰も、あなたの人生を苦しくしていません。
あなたの受け取り方が悪くて、苦しくしているだけです。
それは、あなたしかいないからです。受け取り側しかないからです。主観の主しかないからです。
これは、間違いない、真理なのです。
明るく、明るく、朗らかに・・
何事も良く受け取り・・
神を想い、光を想い・・
日々、生きましょう!
2022.04.05
何事も思いが先に立つ
想念は実現の母です。これは、何度言っても、言い過ぎることはありません。
思えば、必ず、実現します。それも、強く思えば強く、弱く思えば弱く・・・。
世の中には、成功者と言われる人たちがおりますが、彼らは、欲念が強いから、物や、お金や、地位や、権力を、引き寄せることができたのです。
これも、想念の力によるものです。
でも、人格者と世の成功者とは、関係ないのです。
真の人格者とは、生命核(魂)を大きくした人のことです。
ですから、正しくは、「命格者」と呼ぶべきでしょう。
この世は、波動が粗いため、思っても、すぐに実現しないので、思いが、言葉や行為に結びついていると思えません。
でも、意識界(幽界)は、波動が精妙なため、思ったら、すぐ実現するのです。
だから、幽界では、悪いことが、思えないのです。
しかし、波動の粗い、この世でも、何度も思えば、実現します。
実際に、病気・事件・事故・テロ・戦争・自然災害などは、人類の思いの産物ではありませんか?
だから、イエス様は、「汝姦淫するなかれ!」と、思いを戒められたのです。
「私は、何度も思ったが、実現しなかった!」と言う人がおりますが、それは、未だ、結果が現れてないだけで、いずれ、必ず、実現するのです。(来生以降、何らかの形で)
「私は、思いと裏腹な言葉が話せます」と言う人がおりますが、そんな芸当は、絶対できません。
例え、裏腹な思いを持っても、話す瞬間に、正常な思いを持ち、正常な言葉を語っているのです。
また、「私は、言葉は汚いが、心は綺麗だ」と言う人もおりますが、そんなことも、絶対ありません。
悪い想いを持っているから、悪い言葉が出てくるのです。
例え、褒め言葉を語ったとしても、腹の底に悪意を持っていれば、おべんちゃらに聞こえるため、褒められた相手が、嫌な気分になるのです。
この世には、思いの伴わない反射運動と言う行為があります。
思わなくても、体が勝手に動く行為です。
何度も、何度も、身体に覚えさすと、条件反射的に身体が動くのです。
これは、肉体細胞自体に意識があるため、起きる現象です。
アスリートは、この条件反射を、運動にうまく利用しているわけです。
しかし、身体に何度も覚えさす段階で、思いが関わっていますので、やはり、思いがやっていることになるのです。
このように、すべて思いが先立っての話なのです。
※ 身口意
「身口意」と言う言葉があります。
この身口意の「身」とは行為のこと、「口」とは言葉のこと、「意」とは想いのことです。
「身」も、「言葉」も、五感で捉えられます。
でも、「意」は、五感で捉えられません。
だから、どうしても、「意」を軽視してしまうのです。
でも、この三つのうちで一番大切なのは、「意」なのです。
なぜなら、身を動かすのも、言葉を話すのも、想いがやっているからです。
原因(想い)あっての結果(言葉や行為)です。
「想い」は、原因次元なのです。「言葉や行為」は、結果次元なのです。
結果は、原因なしに生まれないのです。
でも、人間は、「意」を軽視し、平気で、悪い想いを持ってしまいます。
それは、想念の恐ろしさを、知らないからです。
私が、「想念が全てですよ!」と、口うるさく言うのは、「意」だけが、真実だからです。
言葉も、行為も、現象で、真実では無いのです。
何が大切か、もう一度、考えてみてください。
(2016年10月23日 今週の真言より)
2022.04.06
想念を正しく使って欲しい!
「想念は実現の母である!」と言うことを、もう一度、噛みしめて欲しいと思います。
何度も言うように、想念は、何でも実現させるのです。
良い事に使えば、良い事が・・悪い事に使えば、悪いことが・・、
その想念を、私たちは、持っているのですから、想念を正しく使ったら、私たちに、苦しみは無いのです。
しかし、人類は、その想念を正しく使っていないのです。
想念を正しく使ったら、今、起きている、戦争も、事件も、事故も、病気も、災害も、一切、無くなってしまうのです。
もう、防災費も、軍事費も、保険をかける必要も、医療費を払う必要も、規則も、法律も、警察も、検事も、弁護士も、裁判官も、刑務所も、何も要らなくなるのです。
しかし、地球人類は、想念の偉大さを知らないために、想念を悪く使って、苦しみを招いているのです。
「ならば、教えればいいじゃないか!」と、言うかも知れませんが、こればかりは、教えて解決できる問題ではないのです。
なぜなら、受け皿が備わっていないからです。
つまり、そこまで、魂が熟成していないからです。
だから、私は、受け皿の備わった人たちに、言っているのです。
この金言を見ている人たちは、その受け皿の備わった人たちです。
どうか、想念の偉大さを再認識してください。
そして、あなただけでも良いですから、想念を正しく使ってください。
そうすれば、平和を訴えるデモをしなくても、人類に、地球に、宇宙に、貢献出来るのです。
学びの友の皆さんは、神を想うことです。瞑想をすることです。
注・・・
近年、台風・豪雨など、水の被害が多くなっていますが、なぜ、多くなっているのでしょうか?
「物質」の象徴的存在として「水」があります。
と言うことは、台風や豪雨などの水の被害は、物質への偏りに対する、警告ではないでしょうか?
また、地震や、火山や、山火事、なども多くなっていますが、これも、物質文明に対する、警告ではないでしょうか?
(2016年6月26日 今週の真言より)
資本主義経済は、拡大し続けなければ、やってゆけない仕組みですから、欲望を刺激し、ドンドンと消費を拡大していかなければなりません。
しかし、そのような事が、いつまでも、続けられるものでしょうか?
第一、地球環境が持ちません。
台風や、豪雨や、地震、などの自然災害や、鳥インフルエンザや、豚コレラや、コロナウイルス、などの蔓延は、資本主義経済に待ったをかけているのです。
人間は、気づいておりませんが、自然界は、意識を持っているのです。意思を持っているのです。知恵を持っているのです。
その自然界が、人類の生き様に待ったをかけているのです。
物質文明の発達は、地球環境を悪化させると同時に、人心の荒廃も生むのです。
なぜ、物質文明が発達すれば、人の心が荒むかと言いますと、波動を落としてしまうからです。
波動が落ちれば、争いごとが多くなるのです。戦争が、その典型的な例です。
物が貧し過ぎて起きる戦争もありますが、物が豊かになり過ぎて(人の心が荒んで)起こる戦争もあるのです。
自然界(地球)には、意識と意思があるのです。
その意識と意思は、人類の生き様を、常に監視しているのです。
そして、あまりにも、物質文明に偏り過ぎると、色々な形で待ったをかけてくるのです。
今、地球には、色々な惨事が起きておりますが、それは、自然界からの警告なのです。
もう、そろそろ、人類は、そのことに、気付いていいのではないでしょうか!?
2022.04.07
人は、本来、誰でも幸せに生きられるように創られている!
人は、本来、誰でも幸せに生きられるように創られているのです。
「あるモノ」さえ、正しく使っていたら・・・。
「あるモノ」とは、想念のことです。
神は、私たちに、「想念」と言う、素晴らしい宝物を与えてくださいました。
この想念を正しく使えば、誰もが、幸せに生きられるのです。
でも、今の地球人類は、そのことを、知らないのです。
「無知は最大の罪」と言われるのは、知らなければ、どんなに、素晴らしいものでも、使えないからです。
想念は、人間であれば、誰でも持っています。しかも、自由に使えます。
何処に行く必要もありません。誰にも邪魔されません。
国の違い・人種の違い・大人子供・男女・貧富の差、一切、関係ありません。
ただ、どう使うかだけです。
「想念を正しく使いましょう!」
「想念を正しく使いましょう!」
「想念を正しく使いましょう!」
これは、何度言っても、言い過ぎることはありません。
なぜなら、私たちは、何かと言うと、すぐに、悪いことを想ってしまうからです。
さあ、良い想念を持ちましょう!
良い想念を持てば、私たちに苦しみは、無いのです。
良い想念の一番は、神の想いです。
「吾神なり!」
「吾神なり!」
「吾神なり!」
これ以上の良い想念はありません。
※ 地球人類は、みな、自殺している
今日、日本国内だけでも、3万人近い自殺者を出していますが、本当は、死に人全員が、自殺しているのです。
なぜなら、想念を悪用し、死を招いているからです。
病気の死も、事件や事故の死も、自然災害の死も、戦争の死も、みな、悪想念によって招いているのです。
だから、地球人類は、みな、自殺している、と言うのです。
(2016年12月11日 今週の真言より)
私たちは、産まれる時、何も持って来ませんでした。裸一貫で産まれてきたのです。
でも、神様は、大変な宝物を持たせてくれました。
それは、想念です。
この想念を上手に使えば、私たちは、一生、幸せに暮らせるのです。
しかし、悲しいことに、その想念が、なかなか、上手に使えないのです。
どうしても、悪いことに使ってしまうのです。でも、それで、良いのです。
なぜなら、悪想念を使って、痛い目に遭って、正しい想念の使い方を覚えるからです。
このような想念を持たせてくれた神様を、意地悪だと思わないでください。
我が子を愛するがゆえに、持たせてくれた想念なのですから・・・ 。
私たちは、裸で産まれてきました。
ですから、帰る時も、裸で帰らなければならないのです。
なのに、多くの人は、この世の物を持って帰ろうとします。だから、苦しむのです。
何も持って帰れないからと言って、ガッカリしないでください。
私たちは、この世の物は、持って帰れませんが、大変な宝物を、持って帰れるのですから・・・。
それは、大きくなった魂です。
2022.04.08
現実と真実の違い!
この宇宙には、ホンモノらしき顔をしているニセモノと、ニセモノらしき顔をしているホンモノが存在します。
つまり、見えるニセモノと、見えないホンモノが、存在するのです。
では、本当に実在するのは、見えるモノでしょうか? 見えないモノでしょうか?
この宇宙は、対になっております。二つで一つなのです。
二つで一つですが、どちらかがホンモノで、どちらかがニセモノなのです。
ニセモノは、実際に無い、現実です。
ホンモノは、実際に有る、真実です。
ニセモノの現実は、見えるのです。
ホンモノの真実は、見えないのです。
つまり、「見える・聞こえる・触れる・味わえる・臭えるモノ」は、すべて、幻なのです。
なぜなら、肉体に付属する五感そのものが、幻だからです。
幻の五感で、幻を見聞きしても、それは、幻にしか過ぎないのです。
もし、五感にかかるモノが、永遠に無くならないなら、私は、五感にかかるモノを、追い求めなさい、と言います。
でも、五感にかかるモノは、一時、存在しているだけで、いつか、必ず、無くなってしまうのです。
無くなるモノを追いかけ、心が満足するはずがありません。
真実(真理)とは、何でしょうか?
現実(非真理)とは、何でしょうか?
真実とは、永遠に無くならないモノ、
現実とは、必ず、無くなってしまうモノです。
一兆年存在しようと、無くなるモノは、真実ではないのです。
宇宙の無限時間での一兆億年など、一瞬です。
ましてや、私たちの住んでいる地球は、どんなに長く存在しても、数百億年程度です。
その地球における文明も、せいぜい、数万年維持できれば良い方です。
また、今の地球人類の寿命は、どんなに維持できても、百数十年程度です。
その百数十年程度の命を守ろうとして、競い、闘い、奪い、戦争までしているのが、地球人類なのです。
それは、真実と現実の見分けができていないからです。
この表現宇宙は、幻です。
地球も、幻です。
幽界も、幻です。
夢も、幻です。
幻覚も、幻です。
詐欺師の言葉も、幻です。
柳を幽霊と見間違ったのも、幻です。
蜃気楼も、幻です。
UFOも、幻です。
物質化現象も、幻です。
この世の現象は、すべて、幻なのです。
幻の世界で起きていることは、すべて、幻なのです。
私たちは、生まれて死ぬまで、いや、死んだ後も、幻の中で生きて行くのです。
そして、また、幻の中に生まれ、幻の中で生き、幻の世界に帰って行くのです。
あなたは、こんな幻の輪廻を、いつまでも、繰り返したいのですか?
幻の中で味わう幸せは、一時です。必ず、色褪せ、失ってしまいます。
あなたは、そんな、一時の幸せで、満足できますか?
永遠の私たちは、永遠の幸せを掴まなくては、満足できないのです。
では、永遠の幸せを掴むためには、どうすれば、良いのでしょうか?
それは、真実を知れば、得られるのです。
どうか、真実を知ってください。
そうすれば、幻の輪廻から抜け出し、「永遠に尽きない! 永遠に色褪せない!」幸せを掴むことができるのですから・・・。
私たちの意識そのものが、永遠に無くならない「真実」なのです。
ただ、その自覚がないだけです。
どうか、真実と現実を見分ける目を持ってください。
※ 二兎追うものは一兎も得ず・・、虻蜂取らず・・、
この二つの諺を持ち出すまでもなく、二つのものを追いかけていては、一つも得ることはできません。
ですから、まずは、形の世界(幻の世界)の様子を知りましょう。
その後、見えない世界(真実の世界)の様子を知れば良いのです。
(2019年7月28日 今週の真言より)
価値は誰が創る?
ここに、ある「モノ」が、あったとしましょう。
その「モノ」に、価値を与えるのは、誰でしょうか?
それは、受取人ではないでしょうか。
どんなに有り難い「モノ」であっても、受取人が、有り難いと思わなかったら、その「モノ」に、価値は生まれないのです。
どんなに良い品物を作っても、買い手(受取人)がいなかったら、価値は生まれないのです。
よく、畑で、野菜を腐らせる、農家がありますが、あれは、受取人(買い手)がいないからです。
これは、真実(真理)も、同じなのです。
ただし、真実の場合は、受取人がいても、真実が何か理解できなかったら、価値は生まれないのです。
だから、私たちは、原子核を大きくして、理解力を高めなくてはならないのです。
それまでは、目の前に真実があっても、無価値なのです。
今、人類の目の前に、厳然として、真実が存在していますが、理解力がないため、宙に浮いている状態なのです。
このように、モノの価値も、真実の価値も、理解して受け取って、はじめて、生まれるのです。
※ 認めなければ、価値は生まれないのです。
例えば、1億円持っていても、持っていると認めなければ、その1億円は使えないので、価値は生まれないのです。
どんなに有り難い真実(真理)も、理解力が乏しかったら、その真実は、無価値になってしまうのです。
真実に、価値が生まれるのは、受取人が、真実を理解し、受け取った時です。
(2019年2月24日 今週の真言より)
神のメロディー「真実」
2022.04.09
1を知れば10を知る!?
1を知れば10を知ると言われますが、そんな半端なものではありません。
1を知れば、無限数を知ることができるのです。
なぜなら、無限数は、1が分かれたものだからです。
この宇宙には、1から分かれた無限数の原子番号・・つまり、無限の分数があるのです。
無限の分数は、元数1から分かれたものですから、分数の一つを知ったら、元数1を知ることができるのです。
今、この地球では、百十数個の元素が発見されていますが、宇宙には、無限に近い数の元素が存在するのです。
その一つ一つの元素は、元数1から出てきた仲間ですから、一つの元素を知れば、元数1の正体が解るのです。
鉱物・植物・動物・人間は、その元素の組み合わせによって作られたわけですから、鉱物を知っても、植物を知っても、動物を知っても、人間を知っても、元数1の正体が解るのです。
今、科学者は、素粒子に様々な名前をつけておりますが、どんな名前をつけても出処は1ですから、みな、同じ元数1なのです。
どうか、名前に惑わされないでください。
どんなモノも、元数1から出てきた同じ1の子なのですから・・・。
ただし、元数1の全てが解るわけではありません。元数1の一部分が解るだけです。
繰り返します。
この宇宙に、元数1でないものは無いのです。
どうか、全ての兄弟姉妹を愛してください。
あなたと同じ、1の子なのですから・・・。
すなわち、自分なのですから・・・。
(2017年4月9日 今週の真言より)
※ 1が、二つも三つもあっては、無限でなくなります。
一つしか無いから、無限なのです。
無限が、二つも三つもあっては、無限でなくなります。
一つしか無いから、無限なのです。
だから、1は無限であり、無限は1なのです。
つまり、どんな数も、1であり、無限なのです。
これが、私が、1であり、無限である根拠です。
この宇宙に軽んじて良いモノなど一つも無い!
この宇宙には、たった一つのモノしか有りません。
たった一つのモノしか無い、と言うことは、すべては、一つのモノの現れですから、砂一粒も、虫一匹も、宇宙だと言うことです。
ですから、砂一粒、無くなっても、 虫一匹、無くなっても、その時点で、宇宙は、無くなってしまうのです。
二つのモノが有るなら、一つのものが無くなっても、もう一つのものが有るわけですから、一つは残ります。
でも、一つのモノしか無いわけですから、その一つのものが無くなったら、全てが無くなるのは、当然なのです。
その一つのモノを、神と呼んでいるのです。
神と言う名が嫌いなら、「原子」と呼んでも良いのです。
なぜなら、「一つのモノ」が原子になっているからです。
もし、あなたが、砂一粒を軽んじるなら、宇宙を、神を、軽んじることになるのです。
つまり、自分を軽んじることになるのです。
自分は、一つのモノの現れだからです。
私が、「すべてのモノを愛しなさい!」と言うのは、すべてのモノは、自分だからです。だから、自愛しか無いのです。
あなたが嫌う、あの人も、この人も、あの菌も、この虫も、この汚物も、みな、自分です。どうか、自分を嫌わないでください。
※ あなたが、どんなに、神ではなく、人間だと言い張っても、
あなたの肉体は、細胞の集まりであり、
その細胞は、分子の集まりであり、
その分子は、原子からできており、
その原子は、神の意識によって創られたものですから、
あなたは、間違いなく、神なのです。
もう、いい加減に、人間と言い張るのを止めてください。
(2017年12月10日 今週の真言より)
2022.04.10
単純な学び!
あなたが、「何だ!、ただ、神を想い続けていればいいだけじゃない!」と、心の底で解ったら、もう、今生の学びは、終わったようなものです。
実に、単純な学びです。神は、私たちに、こんな単純な学びをさせているのです。
何万転生もしてきた理由は、この単純な学びを、修業するためだったのです。
では、どうして、神を想い続けていたらいいのでしょうか?
それは、神を想い続けていたら、悪い事が想えないからです。
悪い事を想わなかったら、悪いことを引き寄せません。過去の悪業も消えていきます。
それだけではありません。 自分の欠点もなくなります。
何よりも、自覚の境界線に近づくことができます。
どうして、そのようなことが、できるのかと言いますと、あなたの想念は、神の想念と同じ力を持っているからです。
このことが解ったら、唖然としてしまいます。
正に、目からウロコが落ちる思いです。
あなたの人生を創っているのは、何でしょうか?
お金でしょうか?、物でしょうか?、地位や権力でしょうか?
いいえ、あなたの想念です。
あなたの想念が、すべてを創っているのです。
それほど、私たちの想念は、すごい力を持っている、と言うことです。
ですから、使い方を誤ったら、大変な目に遭うのです。
学びの最終章に、想念のコントロールが組み込まれているのは、そのためです。
どうか、想念を正しく使ってください!
難しいことはありません。ただ、神を想い続けたらいいだけです。
神を想い続ければ、原子核が増えます。
原子核が増えれば、理解力が高まります。
理解力が高まれば、自覚の境界線に近づくことができるのです。
このように、神を想い続ければ、求道の目的に近づくことができるのです。
だから、知花敏彦先生は、「求道者の最後の学びは、想念のコントロールですよ!」 と言われたのです。
どうか、想念の学びの重要さを知ってください。
難しく考える必要はありません。ただ、神を想い続けるだけです。(あなたのマントラを想い続ける。)
さあ!、「素直に!、単純に!」、神を想い続けてください。
今、人類は、争い合っています。
それは、自分の事を「人間だ!」と思っているからです。
自分が人間だと思えば、物が欲しい! お金が欲しい! 地位や名誉や権力が欲しい! と、欲を持つようになるのです。
そのような人が多くなれば、争いごとも多く起きるのです。
私たちは、人間ではありません。肉体ではありません。意識です。魂です。 神の子です。
でも、そのことを知るには、苦しい 人生体験が必要なのです。
だから、神は、私たちを、地球と言う荒野に放り込んだのです。
でも、これは、私たちを愛するがゆえの、神の計らいなのです。
人間は、苦しい体験無しには、自分の本性に目覚めないのです。
苦しいから、疑問を持つようになるのです。
苦しいから、真理を求めるようになるのです。
苦しいから、神に顔を向けるようになるのです。
今、人類は、苦しみの中から目覚めようとしているのです。
神のメロディ 「神の目配り」
2022.04.11
真実は隠れて見えない!
真実(本当にあるもの)は、隠れて見えないのです。
なぜなら、真実は、力だからです。
そうです! 力は、見えないのです。
真実は、その見えない力なのです。
見えるものは、見えない力によって、生かされ、 動かされ、働かされているのです。
見えるものの背後に、必ず、見えない力が、一対になって存在しているのです。
力が見えないのは、当然と思うかも知れませんが、その当然の中に、真理が隠されているのです。
解かっていただけるでしょうか?
現象(この世)と非現象(力)は、一対になって存在しているのです。
現象は見えます。非現象(力)は見えません。
見える現象の背後には、必ず、見えない非現象(力)が存在しているのです。
非現象(力)が無かったら、現象は、一瞬たりとも存在できないのです。
では、 その非現象(力)は、何でしょうか? それが、解からないのです。
どんなに探っても、非現象(力)の正体が解からないのです。
解からないから、神と呼ぶしかないのです。
神とは、解からないモノの総称なのです。
と言うことは、人間は、神である、と言うことです。
なぜなら、人間の中に、非現象(力)が存在し、働いているからです。
見えない力の別名を、「命」とも言います。
全ての見えるものは、この見えない命によって、生かされているのです。
と言うことは、石も命です。花も命です。木も命です。菌も命です。虫も命です。犬も、猫も、馬も、命です。人間も命です。全てのものは、命の化身なのです。
でも、その命は、隠れて見えないのです。黒子のような存在が、命なのです。
ですから、どんなに探っても、知ることができません。
でも、命の化身を探れば、薄々、命の正体を知ることができます。
と言うことは、自分を探れば、命の正体を、薄々、知ることができると言うことです。
そのためには、自分を探る、瞑想が必要なのです。
どうか、瞑想を続けてください!
私は、毎日、金言を書いて、毎日、金言を見て、毎日、金言を読んでおります。
私は、誰かのために、金言を書いているのではありません。
自分のために、金言を書いているのです。
そのことによって、私は、どれほど、自覚を深めていることでしょう!
このような言い方をするのは、私は、主観の主だからです。
勿論、皆さんも、同じ主観の主です。
ですから、皆さんも、私と同じことをすれば、自覚を深めることができるのです。
金言を、見て読むだけではいけません。書いてください。
そうすれば、天からエネルギーが降りてきて、より、自覚を深めることが出来るでしょう。(書くのが面倒なら、スマートフォンやパソコンに打つだけでも結構です。)
真理は、繰り返すことが大切です。
真理が難しいと言われるのは、繰り返すことが難しいからです。
どうか、繰り返し、繰り返し、見て、読んで、書いて、ください!
間違いなく、自覚を深めることができるでしょう!
原因を創れば、必ず、結果がついてきます。
「原因と結果の法則」を信じ、続けてください!
「いのちの歌」
2022.04.12
失敗は無い!
真理を学んでいるのに、何の成果もない! と思っているなら、大きな間違いです。
あなたは、間違いなく、成長しているのです。
なぜなら、今、あなたが、この真理を学んでいること自体が、成長している証だからです。
あなたは、永い転生において、どれほど苦難の人生を歩んで来たことでしょう!
それは、それは、大変な苦難の人生を歩んできたのですよ!
そして、ついに、この真理に出会えたのです。
もし、この真理が、マガイモノなら、あなたのこれまでの人生は、失敗の人生になってしまうのです。
あなたは、この真理に導いてくれた守護霊を、信じないのですか?
この真理を選んだ自分の眼力を、信じないのですか?
自分の守護霊を信じないで、自分の眼力を信じないで、何を信じると言うのですか?
この真理が、間違いないのは、次の数式が示してくれているのです。
この数式は、神に失敗はないと言う数式です。
神が創られた宇宙に失敗は無いと言う、この数式は、あなたに失敗が無いことを保証してくれているのです。
たとえ、失敗のように見えても、それは、成功のための失敗ですから、成功なのです。
さあ、自分を導いてくれた守護霊を信じましょう!
この真理を選んだ自分の眼力を信じましょう!
そして、自覚の境界線を超えましょう!
※ 真理を求めることの難しさ!
私は、新しく来た学びの友に、良く、こう言います。
「勉強会に来なくてもいいから、原子核を増やす二つの方法を実践してください!」と・・・。
勉強会に来て、私の話を聴いている時は、波動が高いので、やる気になりますが、波動が落ちると、やる気を削がれてしまうのです。
何せ、外にも内にも、真理を阻むサタンがいるのですからね・・・。
私たちの中には、二人の自分がいるのです。
一人は、自我の自分、つまり、サタンの自分です。
もう一人は、真我の自分、つまり、神なる自分です。
本当は、真我の自分しかいないのですが、周りの悪的波動にやられると、サタンが頭をもたげ邪魔をしてくるのです。
それも、光が、強くなれば、なるほど、闇も、強くなるため、より、サタンが活発化してくるのです。
知花先生は、良く、こうおっしゃっておられました。
「サタンにやられなかったら、悟るのは案外と楽なんですよ!」と・・・。
どうか、サタンと仲良くやりながら成長してください !
(2016年9月11日 今週の真言より)
2022.04.13
自分を信じる
この道を疑る、と言うことは、この道を選んだ、自分の眼力を疑る、と言うことです。
自分を信じないで、一体、あなたは、何を信じると言うのですか?
巧妙なサタンの手口に気付いてください!
あなたの思いのように見せかける、サタンの思いに気付いてください!
(2015年5月10日 今週の真言より)
信じることの大切さ!
この宇宙は、理解力によって進展してゆくようにできています。
だから、理解力の乏しい者は、今以上の高い宇宙は、望めないのです。
では、その者は、今の宇宙に、甘んじなければならないのでしょうか ?
いいえ、そんなことはありません。
神は、どんな者にも、進化の術を与えています。
では、その術とは?・・・、
なぜ、信じることが、それほど大切かと言いますと、信じなければ、実践しようと思わないからです。
実践しなければ、原子核が増えないわけですから、自分が変わらないのです。
変わらなければ、真理を追求する気持ちが涌きませんから、今のレベル止まりになってしまうのです。
実践すれば、原子核が増えます。
原子核が増えれば、理解力が高まります。
理解力が高まれば、そのレベルの宇宙が、眼前に展開してきます。
そうなれば、真理を疑ることがなくなりますから、ますます、実践しようと言う気持ちになるのです。
だから、私は、「信じることが大切である」と言うのです。
ただし、信じる前に、その真理の真偽を、トコトン吟味してください。
吟味して、吟味して、確信が得られたら、以後、一切、疑わないことです。
そして、何よりも、信じた自分を信じることです。
(2015年7月5日 今週の真言より)
人間は、誰でも、何かを信じて生きています。何も信じない人は、一人もおりません。
一般人は、お金や、物や、地位や、権力を信じています。
彼らは、それで、自分の心を安定させようとしているのです。
でも、どんなに、お金や、物や、地位や、権力を得ても、心は、安定しません。
なぜ、安定しないかと言いますと、この世のものは、必ず、消えて無くなってしまうからです。
それが解かった魂は、この世のものから、離れて行きます。
学びの友の皆さんは、そう言う魂です。
学びの友の皆さんは、神を信じているはずです。
神は、法則そのものですから、法則を信じ、法則に生きれば、法則が自分を守ってくれるので、心が安定するのです。
2022.04.14
霊とは神のことである!
「霊」とは、巷間で言われている、「祟の霊」とか、「迷いの霊」とか、「動物霊」とか、そんな、霊(幽界の霊)ではありません。
「霊」とは・・
「霊」を、誤解しないでください!
人間の中には、その「霊」が、宿っているわけですから、私たちは、いずれ、霊に帰らなければならないのです。
人間は、霊から出てきた霊の化身です。
人間だけではありません。この表現世界に存在する全ての物は、霊の化身なのです。
ですから、どんな物も、内側に霊性を秘めているのです。
特に、人間は、その代表格です。
ですから、霊性の自分に気付いたら、偉大な能力が出てくるのです。
でも、今の地球人類の殆んどが、そのことに気づいていないのです。
世の中には、沢山の物を集めている人たちがおります。
また、部屋に、鉱物を置いたり、植物を置いたり、猫や犬を飼っている人たちがおります。
これは、一見、良いことのように思いますが、鉱物や、植物や、動物時代を思い出させてしまうので、本当は、良くないのです。
部屋の飾り物として置くなら良いでしょうが、観賞用として、或いは、ペットとして置くのは、できるだけ控えるべきです。(物質は、波動が低いので、周りに置いていては、波動を下げられてしまう。)
私たちは、霊性の進化を遂げるために生まれてきたのです。
「霊性の進化」とは、神の子である人間が、元の「神の霊」に帰る進化のことです。
この宇宙には、霊しか存在しないのです。
ですから、霊から出てきたモノは、霊に帰らなければならないのです。
これは、定めです。
どんなに嫌だと駄々をこねても、これだけは、避けられないのです。
あなたは、いつまでも、波動の低い物質でいたいのですか?
重い不自由な物質でいたいのですか?
「生・老・病・死」のある、苦しい物質でいたいのですか?
一日も早く、人間を卒業しましょう!
そして、自由で精妙な霊に戻りましょう!
波動の粗い物質世界で生きていると、どうしても、波動が下げられてしまいます。
これは、仕方のないことですが、少しでも波動を高めるために、次のようなことを、行ってみたら、どうでしょうか?
私たちの意識は、たくさんの物質を見ると、意識の乱反射が起こり、自分の波動を下げてしまいます。
これは、精神的にも、肉体的にも、良くありません。
ですから、できるだけ、物質を目の届かない所に、整理整頓して隠して置くことです。
整理整頓して隠すと言う意味は、 外側に置かれている物を、戸棚の中に整理して納めると言う意味です。
戸棚から、いちいち出すのは、面倒かと思うかも知れませんが、面倒なことが原子核を増やすのですから、一挙両得なのです。
これは、簡単にできることですから、ぜひ、やってみてください!
意識の乱射が少なくなれば、自分の波動が上がりますので、瞑想もしやすくなると思います。どうか、試してみてください!
乱視、斜視の人は、波動の粗い物を多く見ているのです。(特に、足元に、たくさんの物を散らかして置く人は、乱視になりやすいのです。)
2022.04.15
全て必然で良いこと!
自分が選んだ道を悔やみ、自分を責める人がおりますが、自分を責めてはなりません。
なぜなら、その道は、選ぶべきにして選んだ、必然の道だからです。
必然の道と言うことは、良い道だと言うことです。
事実、あなたは、その道を歩むことによって、成長してきたではありませんか?
その証拠に、あなたは、今、真理を学んでいるではありませんか?
悪い必然など無いのです。必然は、みな、良いことなのです。
必然を、そのように受け取れば、どんなことが起きても、悔やむことはないでしょう!
いや!、希望を持って生きられるでしょう!
なぜ、必然は、良いことか?
それは、必ず、進化成長に連れて行ってくれるからです。
どうして、そう言えるのかと言いますと、必然は、完全から生まれてくるからです。
もし、必然が悪いことで終わるなら、神は、不完全な宇宙を創ったことになり、神は、不完全になってしまいます。
そんな不完全な神は、おられないのですから、必然は、全て良いことだと思ってください!
ただ、それを、信じるか、信じないかです。
信じれば、成ります。 信じなければ、成りません。
それは、想念が、そうさせるからです。
私が、「何事も良く受け取りなさい!」と、口を酸っぱくして言うのは、この宇宙は、必然によって成り立っているからです。
しかし、その必然を、私たちは、悪く受け取ることによって、崩してしまうのです。
もし、良く受け取って、必然の道を閉ざさなかったら、私たちは、大手を振って進化の大道を行けるのです。
あなたが、やるべきことは、必然を信じ、今の環境の中で、自分ができることを、精いっぱい、やることです。
そのように生きていれば、必然が、「間違いなく」、あなたを進化成長に連れて行ってくれるでしょう!
「間違いなく」と言うのは、この宇宙には、退化が無いからです。
神が完全であることを考えれば、当然と言えば、当然の話しでしょう。
石に躓いたことも、必然です。
蚊に刺されたことも、必然です。
交通事故に遭ったのも、必然です。
詐欺師に騙されたことも、必然です。
嫁さんと結婚したのも、必然です。離婚したのも、必然です。
子供を亡くしたのも、必然です。
どんなことも、必然です。
どんなに悪く見えていることも、必然です。
どんなに良く見えていることも、必然です。
必然以外ないのですから、くよくよ考える必要はありません。
起きるべきにして、起きた必然なんだな! と思ってください。
「容姿も醜く、体も小さく、不器用で、頭の悪い人間も」 必然の産物で、良いことです。
なぜなら、その肉体は、魂を成長させるために、自分が選んだ、必然の環境だからです。
私たちは、失敗の中から学び、苦しみの中から強くなり、悪い環境の中から美しい花を咲かせて行くのです。
そう思えば、どんな人間にも、どんな物にも、どんな環境にも、また、どんな自分にも、感謝できるでしょう!
2022.04.16
霊性の進化
私たちは、気の遠くなる年月、進化の旅を続けてきました。
そして、やっと、自我を持つ、人間へと成長してきました。
この進化の旅は、霊性の進化の旅だったのです。
霊性の進化とは、鈍重な波動から、精妙な波動へ、自分を昇華させることですが、そのためには、これまで付けてきた、鉱物臭さ、植物臭さ、動物臭さ、人間臭さを取り去らねばなりません。
取り去るためには、できるだけ、物質的なモノから離れる必要があるのです。
波動の低いモノに意識を傾けていては、霊性を高める妨げになるからです。
具体的には・・
更に、霊性を高めるには、次の二つのことをしなければなりません。
一つは、社会体験です。もう一つは、瞑想です。
社会体験とは、肉体を維持するために、必要なことをすることです。
瞑想は、神を想い続けることです。
この二つをやっていれば、間違いなく、霊性が高められます。
私たちの本性は、霊そのものなのです。
その霊は・・
呼び名は、どうでも良いのです!
この宇宙に、霊、以外、存在しないのです。
※ 進化の節目の一つは、自我を持つ、人間になることです。
私たちは、そこを、超えました。
次の大きな節目は、神の自覚を持つ、神人になることです。
そのためには、人間臭さから、一日も早く、抜け出さねばなりません。
夕時になると、家々の窓から明かりが漏れてきます。
また、夕餉の匂いが食欲を誘ってきます。誰もが、ホッとする一時です。
でも、それを、懐かしがっていてはいけないのです。
この世は、一夜泊まるホテルのようなモノですから、そこに、長居は禁物なのです。
どうか、これまで付けてきた、鉱物臭さ、植物臭さ、動物臭さ、人間臭さを取ってください。
(2017年8月6日 今週の真言より)
2022.04.17
自我の思い通りに生きたら良い!
世の中には、お金や、物や、地位や、権力などを追い求めている人と、精神的なモノを追い求めている人の、二通りの人がおります。
なぜ、そのような人がいるかと言いますと、物質の世界が本当に有ると信じている人が、物質的なモノを追い求めるのも、当然ですし、
また、意識の世界が本当に有ると信じている人が、精神的なモノを追い求めるのも、当然だからです。
つまり、信じられるモノを追い求めるのも当然、信じられないモノを追い求めないのも当然だからです。
確信の持てないモノを、「追い求めなさい!」と言う方がおかしいのです。
一般人も、真理を求めている人も、自分の原子核量通りに生きているのです。
それは、必然の生き方しかできないからです。
必然の生き方しかできないのは、原子核量通りの思いしか持てないからです。
思えないことを、やれるわけがないのです。
だから、自我の思い通りに、生きたら良いのです。
例え、その思いによって、痛い目に遭ったとしても、その痛い目が、魂を成長させてくれるのですから、それは、良いことなのです。
完全な神が、無駄なことを思わせるわけがないし、やらせるわけもないのです。
全て意味あって、思わせ、全て意味あって、やらせているのです。
どうか、そのことを信じ、原子核量通りの生き方をしてください。
ただし、次の二つのことだけは、やってください。
この二つをやっていれば、必ず、原子核が増えます。
増えた分、自我の思いが、真我の思いに近づきますから、良い思いが持てるようになり、良い行いができるようになります。
そうすれば、真理の求めやすい環境が整います。
これが、神が考えられた最良の進化方法なのです。
※ 「外側の何も変わらなくても、自分の意識が変われば良い!」
この言葉の中には、深い意味が込められているのです。
どれほど、深い意味が込められているかは、原子核が大きくなり、理解力が増せば、自分から教わるでしょう。
その時、あなたは、驚愕するはずです。
※ 真理を学び続けている人は、真理に確信が得られたからです。
途中で学びを止めてしまった人は、真理に確信が得られなかったからです。
私が、「神キチガイ!」と言われるまでに、神を求めるのは、そこまで、真理に確信が得られたからです。
確信が深められたら、誰だって、神キチガイになるのです。
これは、当たり前のことであって、何も不思議なことではないのです。
いずれ、地球人類の誰もが、神キチガイになる時代が来るでしょう。
(2017年6月18日 今週の真言より)
2022.04.18
必然の法則について!
必然とは、当然と言う意味です。なるべきにしてなると言う意味です。
この宇宙は、必然によって運ばれているのです。
なぜ、必然によって運ばれているかと言いますと、原因あっての結果だからです。
結果があったと言うことは、結果を生み出した原因があったと言うことです。
原因のない結果はあり得ないのです。
原因と結果は、一つなのです。切り離せないのです。
必然しかない理由は、原因と結果は、切り離せないからです。
もう一つ、知って欲しいのは、
必然とは、秩序ある状態を言います。
偶然とは、無秩序の状態を言います。
秩序が保たれるのは、法則があるからです。必然は、法則なのです。
「何もしないのに返ってくる、何もしないのに起きる、何もしないのに現れるのが、偶然であり、無秩序の状態であり、法則の無い状態です。
何かしたことが返ってくる、何かしたことが起きる、何かしたことが現れるのが、必然であり、秩序のある状態であり、法則のある状態です。」
あなたが、
何もかも、必然の産物なのです。
ですから、法則も、必然の産物なのです。
これまで、宇宙が永続してこられたのは、必然の法則の下に、秩序正しく運営されてきたからです。
もし、必然の法則がなかったら、この宇宙は、とっくに、消滅していたことでしょう。
すべて、「法則が・必然が」宇宙を支えてきたのです。
あなたが・・
すべて、神の思し召しによって運ばれてきた必然です。
なぜ、必然が、神の思し召しかと言いますと、どんな苦しいことも、どんな悲しいことも、どんな厭なことも、みな、進化成長へ、つながっているからです。
神は、私たちを成長させたいのです。
そのためには、今、やるべきことを、真心を込めてやることです。
そうすれば、間違いなく、あなたは、最終目標である、自覚の境界線を超えられるでしょう。
これが、必然の宇宙における、進化の歩みなのです。
(2017年5月21日 今週の真言より)
2022.04.19
必然として良く受け取る!
この宇宙に、悪いことなど、一つもありません。
なぜなら、どんなに悪いように見えていることも、すべて進化成長に結びついている良いことだからです。
意味のないことは、起きないのです。不必要なことは、起きないのです。
進化成長に結びつかないことは、起きないのです。
起きていること自体が、必然であり、良いことだからです。
この宇宙は、すべて必然によって運ばれているのです。
その必然は、進化成長に必要な必然ですから、何が起きても良いことなのです。
ですから、今、自分に起きている苦しみも、悪と受け取らず、成長のための必然と、良く受け取ってください。
「あのことがあったから、今の自分が有るのだ!、本当に良かったな!」と、思える自分になってください。
苦しい事が起きても・・
この宇宙に、悪いことなど、一つも無いのですから・・・そう思えたら、心穏やかになるでしょう。
※ 幸福だけ欲しいと、だだをこねている人は、「下り道だけ欲しい!」と、だだをこねているようなものです。
幸福だけ欲しいと、だだをこねている人は、「相手なんか認めない!」と、だだをこねているようなものです。
そのような人は、自分をやめてください!
自分をやりたいなら、相手を認めてやることです。
なぜなら、相手は、自分が創った相手だからです。
一つでは、一つはないのです。二つあるから、一つがあるのです。
自分があるから、相手があるのです。相手がいらない(不幸せなどいらない)と、だだをこねている人は、自分がいらないと言っているようなものです。
過保護に育てられたら、いざと言う時に、身を守れないのです。
楽したい思いが湧いてきたら、サタンにやられていると思ってください。
(2017年7月30日 今週の真言より)
2022.04.20
実際に有るモノだけが、実際に有る!
実際に有るモノだけが、実際に有るのです。
この言葉を、心の底で噛みしめて欲しいと思います。
では、実際に有るモノとは、何でしょうか?
それは、永遠に無くならない本質のことです。
その本質のことを、生命とも、神とも、意識とも、エネルギーとも、呼んでいるのです。
その本質が、形を生み出しているのです。
でも、形は、実際に有るものではありません。
なぜなら、消えて無くなってしまうからです。
見えるモノ、触れるモノは、みな、幻なのです。
見えない、触れない、永遠に無くならない本質が、実際に有るモノなのです。
と言うことは、消えて無くなってしまう人間は、幻と言うことになるでしょう。
そうです・・人間は、幻なのです。
実際に有るものは、本質です。
その本質が、想い、考え、言葉を話し、行動しているのです。
と言うことは、今、考え、言葉を話し、行動しているのは、実際に有る本質と言うことになるでしょう。
人の形はしていますが、その実体は、本質なのです。
だから、あなたは、間違いなく、生命であり、神であり、意識であり、エネルギーなのです。
誰もが、形に惑わされて、本当の自分を見失っているのです。
さあ、目覚めましょう! あなたは、本当に有る本質なのですから・・・。
(2016年5月15日 今週の真言より)
本当にあるモノは、見えないのです。本当に無いものは、見えるのです。
私たちは、気の遠くなる 年月、見える世界で生きてきたために、本当に無いものを、有ると錯覚させられてしまったのです。
このことが解かったら、この世の物に、執着することがなくなるでしょう!
もう、物の取り合いも、島の取り合いも、国の取り合いも、しなくなるでしょうから、地球は、平和になるでしょう。
真理を知ることが、いかに、大切か? と言うことです。
この宇宙に、本質は、一つしかないのです。
その一つの本質が、様々な形を現わしているのです。
と言うことは、様々な形は、みな、兄妹姉妹と言うことになるでしょう!
そうです!
この表現世界に存在する、どんな物も、同じ兄妹姉妹なのです。
だから、どんな物とも、仲良くしなければならないのです。
しかし、人間は、分離観念を持っているため、敵対します。
だから、人間は、蜂が飛んでくると、悲鳴をあげて逃げるのです。
悲鳴を上げて逃げるのは、 恐ろしいから(分離観念を持っているから)です。
その想いは、蜂に通じるのです。
だから、蜂に襲われるのです。(蜂も恐ろしいから。)
人間が武器を持ち合うのは、信頼し合えないからです。
全ての存在物が、一つの本質で出来ていると、心から思えたら、信頼し合えるようになりますので、武器を持たなくなるでしょう。蜂も襲ってこないでしょう。
信頼関係が大切なのです。
その信頼関係は、一つの本質で創られている兄妹姉妹だと思えたら、自然と生まれてくるのです。
人類は、みな、兄妹姉妹です。
オリンピックの輪は、そのことを示す、象徴的なマークです。
そう言えるのは、全人類が一つの本質で出来ているからです。
しかし、人間は、形や色が違うからと言って、差別感を持ってしまいます。
それが、争いの因なのです。
形を見ないでください! 中を見てください! 中を見たら、みな、同じ一つの本質です。
中を見るコツとしては、相手のハート付近に、光をイメージすることです。
コツが掴めるに従い、相手が愛おしく思えてくるでしょう!
2022.04.21
真心を込めてやる!
何事も、真心を込めてやれば、必ず、相手に伝わります。
なぜなら、あなたの心は、全ての人の心と、つながっているからです。
形を見れば、別々ですが、本源においては、一つなのです。
ですから、真心を込めてやれば、どんな相手にも伝わるのです。
この宇宙には、
と言うことは、あなたの意識は、その一つしかない、寛大な意識そのものである、と言うことです。
ですから、想ったことは、一瞬に、宇宙に伝播するのです。
いくらやってあげても、相手に伝わらないと言う人は、真心を尽くしてやっていないからです。
「いいえ、私は真心を尽くしてやっています!」と、言うかも知れません。
でも、どんなに形上、一生懸命やっていても、動機が不純であれば、相手に伝わらないのです。これは、真理も、同じなのです。
不純な動機で、しかも、生半可な気持ちで、真理を求めても、神に通じないのです。
私の恩師である、知花先生は、「心を尽くし、魂を尽くし、精神を尽くし、神を求めなさい!」と、おっしゃっておられました。
その通りです!
神は、純なお方ですから、真心を持って真理を求めなくては、神に伝わらないのです。
どうか、何事も、真心を込めてやってください。必ず、相手に、神に、伝わります。
※ これだけは、言っておきます!
「真剣に真理を求めている人の前に、神は、絶対、石や岩は置きません!」
生半可だから、叱咤激励の意味を込めて障害物を置くのです。
どうでしょう!
神が、真剣に真理を求めている我が子の前に、障害物を置くと思いますか?
そんな意地悪なことを、神がするわけがありません。
どうか、真剣に真理を求めてください!
必ず、真理を自分のものにすることができるでしょう!
(2016年9月18日 今週の真言より)
私が、これまで述べた、金言、あるいは、本から、皆さんの好きな真理の言葉を抜き取って、自分用のバイブルを作ってください。
注意して欲しいのは、書く時、真心を込めて書くことです。(意味を理解して)
これは、自分の原子核を増やすと同時に、周りの人達や、地球のためにもなるので、是非、やってください!
学びの友の皆さんは、神の媒体として降ろされた、光の天使なのです。
ですから、皆さんには、神の光を受けて放射する、使命があるのです。
勿論、瞑想することが、一番ですが、書くことによっても、光を降ろすことができるのです。
一日一枚でも良いですから、書いてください!
1年間、365枚、たまったら、綴じて、自分用のバイブルにしてください。
これ以上の宝物はありません。
2022.04.22
欲望の進化?!
欲望にも、進化があるのです。
魂の幼い時期には、この世の物を求める欲望が旺盛です。
つまり、物欲や、金欲や、情欲などの欲望を多く持つのです。
そして、それを得ます。初めは、それで、満足します。
しかし、魂が熟成してくると、この世の物を、どんなに得ても、満足しなくなります。
また、この世の物を多く持つことによって、痛い目にも遭います。
そう言う体験を、何度もするうちに、疑問を持つようになります。
そして、気付きます。
「この世の物を、どんなに得ても、心が満足しないと言うことを・・・」
その者は、真理を求めるようになります。
学びの友の皆さんは、そこまで成長した魂です。
物欲・金欲・情欲
↓
地位・名誉欲
↓
権勢欲(人間欲)
そして、
↓
求道欲(真理を求める欲)へ・・
それが、欲望の進化です。
真理を求めるようになった人には、欲望と言う言葉は、相応しくありません。
「欲望」を「希望」と言う言葉に変えてください。
神の世界は、希望あふれる世界だからです。
私たちが、進化成長して行く旅は、必然の旅なのです。
なぜなら、 神は、私たちを進化成長させるように創られたからです。
ですから、この宇宙に、進化はあっても、退化はないのです。
神は、完全です。その神がなされることに、悪いことは、一つもありません。
ゆえに、必然は、全て、良いことなのです。
どんな必然も、全て、進化成長に結びついているからです。
今日、起きたどんなことも、 全て、進化成長に結びついていると思ってください。
例え、それが、悲惨な戦争であったとしても・・自然災害であったとしても・・事故であったとしても・・病気であったとしても・・です。
その時は、分からないでしょうが、後で振り返ったら、自分の成長に必要な必然だったことが分かるでしょう!
戦争・病気・事件事故・自然災害、今の世の中を見ると、どこにも希望の光は見出せません。正に、絶望の世の中です。
でも、短絡的な見方をしてはいけません。
絶望の背後には、必ず、希望の光が控えているのです。
人類は、「正反→正反→正反→」を体験して、成長して行くのです。
苦しい体験なしには、成長できないからです 。
神は、完全です。完全な神が、絶望を絶望のままにして置くはずがないのです。
苦しみの背後には、必ず、成長があるのです。
どうか、神を信じてください!
この宇宙の仕組みを、信じてください!
2022.04.23
因果の法則から逃れる事は、絶対できない!
一人ひとりが、受ける結果は、一人ひとりが、創る原因と、寸分も違いません。
投げたボールは、必ず、投げ返されるのです。
良いボールを投げれば、良いボールが、悪いボールを投げれば、悪いボールが・・・、
それも、強ければ、強いように、弱ければ、弱いように・・・。
この因果の法則から逃れる事は、絶対できないのです。
だから、私は、「法則を、知って欲しい!、信じて欲しい!、守って欲しい!」と言うのです。
ボールを投げるなら、良いボールを強く投げてください。
(2015年8月2日 今週の真言より)
平和は内側のモノが創る!
平和は、外側に作るのではありません。内側に創るのです。
なぜなら、内側の想念(原因)が、外側の世界(結果)を創るからです。
内と外は、一つです。原因と結果は、一つです。
良い結果が欲しかったら、良い原因を創ることです。
それは、想念を持っている当人にしかできないのです。
想念は、原因です。世の平和は、結果です。
世の平和は、外側の結果次元のモノです。想念は、内側の原因次元のモノです。
外側のモノは、内側のモノが創るのですから、内側の想念を良くすれば、何もしなくても、平和は訪れるのです。
それを知らないから、人間は、外側のモノで平和を作ろうとするのです。
結果で、結果を良くすることは、絶対できません。
原因である想念が、結果を良くすることができるのです。
つまり、想念が、平和を創ることができるのです。
どうか、内側の想念が、平和を創ることを知ってください。
(2015年8月16日 今週の真言より)
2022.04.24
法則の外には出られない!
孫悟空が、お釈迦様の手の平から出ようと試みましたが、どんなことをしても出られなかったと言う話は、法則の外には、絶対、出られないと言う比喩的な話です。
なぜ、法則の外に出られないかと言いますと、外に出ようとすれば、五感の警報装置が働き、塗炭の苦しみが与えられるからです。
この宇宙は、原因と結果の法則で固められているのです。
その牙城は、いかなる者も、崩すことができないのです。
もし、崩そうとすれば、痛い目に遭うのが落ちだからです。
宇宙が、今日まで、整然と運行してこられたのは、因果の法則によって、秩序立てられてきたからです。
もし、この法則がなかったら、一秒として、宇宙は、存在できなかったでしょう。
法則に逆らうなど、アリが戦車に立ち向かうようなものです。
どうか、法則を守りましょう。
法則を守れば、穏やかに生きられるのですから・・・。
(2015年10月4日 今週の真言より)
結果を生み出せる者だけが原因者になれる!
この宇宙で確かなことは、結果を生み出せる者のみが、「原因なき原因者」になれると言う真実です。
結果を生み出せない者が、どうして、「原因なき原因者」になれるでしょうか?
結果を生み出せないのは、原因者としての能力が無いからです。
神は、結果を生み出せる偉大な能力を持った存在者ですが、私たちも、結果を生み出せる偉大な存在者なのです。
それは、神と同じ偉大な想念力を持っているからです。
偉大な想念力を持っている、私たちは、原因なき原因者と呼ばれるに相応しい存在者なのです。
ただし、今の私たちは、原子核の量が少ないため、小さな結果しか生み出せないのです。
でも、原子核の量が多くなった暁には、大きな結果を生み出せる、神に近い存在者、すなわち、「神人」になれるのです。
(2015年12月6日 今週の真言より)
神がそのモノになった!
神が、モノを創る場合、神が、そのモノになるしかないのです。
つまり、原因者である、神、自らが、結果体である、そのモノになるしかないのです。
なぜなら、この宇宙に、神の他は、何も無いからです。
結果と原因のどちらが先か? と言う論争が無意味なのは、結果体と原因者は、同じモノだからです。
結果体と原因者が、同じモノだと深く思えたら、どちらが先でも良くなるのです。
私は、よく、意識がモノを生み出していると言いますが、原因者である、神と、結果である、モノが、同じ神ならば、モノが意識を生み出していると言っても、何も不思議ではないでしょう。
なぜなら、原因者(神)だけでは、原因なき原因者になる資格が無いからです。
結果の生み出せない原因者など、無価値です。
結果を生み出してこそ、原因者としての価値が生まれてくるのです。
だから、私は、結果体と原因者は、同等の価値があると言うのです。
ならば、結果体(人間)が、原因者(神)を生み出している、と言っても言い過ぎではないでしょう。
「結果をいじって、原因を変える」(逆も真なり)の現代医療も、頷けると言うものです。
結果体が、結果体を生み出せない無能さは、分かっていますが、結果体がなくては、原因者の存在も無意味なのですから、やはり、結果体と原因者は、同等の価値があるのです。
(2015年12月13日 今週の真言より)
2022.04.25
原因は見えずとも結果は見える
原因は、見えずとも、結果は、必ず、見えます。
形として、現象として、痛みとして・・・苦しみとして・・・悲しみとして・・・。喜びとして・・・幸せとして・・・。
だから、私たちは、結果を見て、襟を正す(原因を正す)ことができるのです。
これが、神の法の素晴らしいところです。
でも、痛みや、苦しみは、業の消えてゆく姿ですから、放っておけばいいのです。
掴んで離さないから、いつまでも、苦しみが無くならないのです。
「ああ、今、業が消えている! 消えている! 苦しみよ、ありがとう!」と、感謝の思いで包み込んでください。
そうすれば、どんな苦しみも、我慢できます。
大切なのは、苦しいからと言って、業の上塗りをしないことです。
(2015年12月20日 今週の真言より)
心の醜さが鏡に写し出されている!
よく、自分の苦しみを、人のせいにする人がいますが、人から与えられた苦しみなど、一つもありません。
自分は、原因者(光)です。人は、結果体(影)です。
結果体(影)が、原因者(光)に、影響を与えることなど出来るわけがないのです。
もし、与えられるなら、先に結果体が有ることになり、この宇宙の秩序は、無茶苦茶になってしまいます。
「出すから入るのです!」、エネルギー均衡の法則が働いている宇宙において、これは、当然のことなのです。
何でもそうですが、出さなければ、入って来ないのです。
凹が生まれるから、凸が入って来るのです。
想念を出さなければ、凹が生まれないのですから、凸が入って来るわけがないのです。
しかも、このエネルギー均衡の法則は、出した凹と同じ質の凸が入って来るようになっているのです。
つまり、悪しき想念(凹)を出せば、悪しきモノ(凸)が入り、
良き想念(凹)を出せば、良きモノ(凸)が入って来るのです。
苦しみは、あくまでも、自分の想念が生み出した結果なのです。
このことは、病気に置き換えてみたら、分かりやすいと思います。
病気になった結果があったと言うことは、その結果を作った原因が自分の中にあったと言うことです。
つまり、悪しき想念(凹)を出していたから、悪しき病気(凸)が返って来たのです。
この表現世界は、見えない原因を見える結果にして写し出す鏡なのです。
見えない原因とは、心(想念)であり、見える結果とは、この場合、病気です。
肉体は、鏡なのです。
人の心の醜さが、肉体の鏡に、病気と言う形で写し出されているのです。
神は、見えない心(想念)の状態を、見える病気と言う形で現し、心の醜さに気づいてもらおうとしているのです。
これは、神の慈悲と言っていいでしょう。
これは、ゴミについても言えることなのです。
今、地球環境は、悪化の一途をたどっていますが、これは、人類の醜い心が、地球環境の悪化と言う形で現れているのです。
醜い心の社会からは、病気も、ゴミも、沢山、生まれるのです。
病気の多さと、ゴミの多さは、その星の進化のバロメーターになっているのです。
人類は、いつか、そのことに気付き、心を正してゆくでしょうが、そうなれば、病気も、ゴミも、減ってゆくでしょう。
これが、自ら苦しみを与え、その苦しみから過ちを発見し、自分を成長させてゆく、自己完結型宇宙の仕組みなのです。
(2016年5月1日 今週の真言より)
エネルギー均衡の法則が、魂を成長させてくれる
この宇宙は、エネルギー均衡の法則によって支配されています。
ですから、均衡が崩れれば、必ず、穴埋めさせられるのです。
例えば・・
この宇宙に、一方通行は無いのです。
エネルギーは、出した分、必ず、返ってくるようになっているのです。
それも、同質のエネルギーが、強ければ、強いように、弱ければ、弱いように・・・ 。
これは、原因と結果の法則によって、間違いなく、行われるのです。
良いことをすれば、良いことが、悪いことをすれば、悪いことが返ってくるのは、因果の法則の間違い無いところですが、それだけで終わらないのが、この法則の凄いところなのです。
つまり、行ったことには、必ず、悪いリスクと、良いリスクが、付いてくるのです。
例えば・・
大掃除をすれば、家は、綺麗になりますが、その代わり、着ているものが汚れたり、腹が空いたり、疲れたりするリスクが返ってきます。
遊園地帰りの親子が、電車の中で、コックリ、コックリする風景を良く見ますが、あれも、楽しみの後にやってくるリスクの一つです。
何かをすれば、必ず、リスクを背負うのが現象の世界なのです。
目に見えないリスクもありますが、それは、分散されて目に見えないか、先延ばしされているかで、いつか、必ず、お返しがあるのです。
それも、正反・正反・正反・と言う形で返ってくるのです。
大掃除をすれば、家は、綺麗になりますから、これは、良いことです。
でも、肉体は、疲れますから、これは、悪いことです。
でも、筋肉が強くなりますから、これは、良いことです。
でも、腹が空きますから、これは、悪いことです。
でも、原子核が増えますから、これは、良いことです。
「良いことが悪いことにつながり、悪いことが良いことにつながり、また、良いことが悪いことにつながり、悪いことが良いことにつながる」、この「正反・正反」のエネルギー均衡の法則が、魂を成長させてくれるのです。
ですから、悪いことは、一つもないと言うことです。
神が、一番に望んでいることは、魂の成長です。
苦楽を交互に体験しながら成長するのは、進化のプロセスなのです。
神は、エネルギー均衡の法則を通して、私たちの魂を成長させようとしているのです。
※ 何でもそうですが、馴れてしまうと、そのモノの良さが分からなくなります。
だから、増長してしまうわけですが、真理も、同じなのです。
私のホームページを見た人は、初めは感動します。
でも、馴れてしまうと、その感動を忘れてしまうのです。
中には、反発心を持つ人さえ出て来ます。
どうか、初心に帰ってください!
(2016年8月14日 今週の真言より)
2022.04.26
望ましい日常生活
私たちは、霊性の進化を遂げてゆかねばならない高貴な霊の子です。
その高貴な霊の子が、グルメに夢中になり、快楽に溺れ、物欲に明け暮れていて、良いでしょうか?
一般人は、仕方ないとしても、真理を学んでいる皆さんは、一日も早く、そのような生き方から、卒業しなければなりません。
では、霊の子として、どのような日常生活が望ましいか、考えてみることにしましょう。
人生の目的を見失わないこと!
私たちは、本当の自分を知るために生まれてきました。
この大目的を見失っては、何のために生まれてきたのか分かりません。
私たちは、「私は神の子である!」と、心の底で思えるようになるために生まれてきたのです。
今の今を大切に生きること!
「私は神の子である!」と、心の底で思えるようになるためには、瞑想は、欠かせません。
そのためには、今の今を大切に生きなければなりません。
今の今を大切に生きるとは、今、神を想うこと、今、生命を想うこと、つまり、今、マントラを想うことです。
日常生活の中においても、出来るだけ、神を想いながら生きることです。
「原因と結果の法則」と「陰陽の法則」を守ること!
原因と結果の法則と陰陽の法則を守るのは、求道者として当然の義務です。
真理を学んでいる者なら、その事を胸に秘めて生きなければなりません。
正しい想念を持って生きること!
想念は、実現の母であり、自覚の境界線を超える鍵です。
あなたの成長は、想念次第なのです。
どうか、想念を良いことに使ってください。
良いことの一番は、神を想うことです。
感情に流されないで生きること!
家族との生活は、感情を克服する学びの一環です。
つまり、情に流されない、情に溺れない、中庸の情を学ぶことです。
家族を通して愛を学ぶこと!
厳しからず、甘からずの愛を、家族を通して学び、その愛を拡大してゆくことです。
余計なことを考えないで生きること!
嫌なことから逃げないこと!
嫌なことから逃げないことです。
嫌なことを、追いかけなさい、と言っているのではありません。
やって来たら、逃げないでやりなさい、と言っているのです。
人事を尽くして天命を待つ生き方をすること!
人事を尽くすことです。
人事を尽くしたら、くよくよ、考えたり、心配したりしないで、天に委ねることです。
神は、最善を尽くした者を、悪いようにするわけないのですから・・・。
中庸の生き方をすること!
この世は、すぐに旅立たねばならない腰掛けの世界です。
そんな腰掛けの世界で、命をかけてやることなど、一つもないのです。
五十歩百歩の生き方をすることです。
つまり、中庸の生き方をすることです。
何事も真心を込めて(一生懸命)やること!
とは言っても、やる時には、真心を込めてやることです。
真心を込めてやっている人の姿は、輝いています。
その姿を、周りの者に見せることです。
特に、家族の者に見せることです。
腰軽になること!
体を動かせば、動かすほど、原子核は、大きくなります。
つまらないことでも、良いですから、体を動かすことです。
腰軽は、サタンに勝つ一番の方法なのです。
繰り返すことを嫌がらないこと!
真理と言うものは、一度や二度で、身につくものではありません。
何度も、何度も、繰り返すことで身につくのです。
繰り返すことを嫌ってはなりません。面倒かも知れませんが、手間を掛けることです。手間を掛ければ、かけるほど、成長するのです。
この世の物を愛玩しないこと!
私たちは、鉱物、植物、動物と進化を遂げ、やっと、自我を持つ人間まで成長してきたのです。
それだけ、苦しい進化の過程を踏んできた、と言うことです。
なのに、鉱物や、植物や、動物などの愛玩物を身近に置いていては、進化の妨げになります。
物質は、波動が低いのです。
ですから、出来るだけ、周りに余計な物を置かないことです。
その他、日常生活で守らねばならないこと!
以上、望ましい日常生活を、ピックアップしてみました。
どうか、参考にしてください。
注)ここに書かれているからと言って、自分の気持ちを偽ってまで、やってはなりません。
自分の思い通りの生き方をしてください。
自分の思い通りの生き方をして、ここまで、成長してこられたのですから・・・。
魂の成長に任せて、自然体で生きてください! ・・・・。
(2016年11月20日 今週の真言より)
2022.04.27
物質から霊性へ!
私たちは、波動の高い天におりました。
そこでは、波動の高いものは体験できても、波動の低いものは体験できません。
それでは、真の幸せが味わえないので、私たちは、波動の低い体験をするために、わざわざ、記憶を失い、地上界に降りてきたのです。
記憶を失った状態は、自我の無い状態です。
これでは、何も認められないので、地上界に降りてきた意味がありません。
ですから、自我を持つために、鉱物から植物へ、植物から動物へ、動物から人類へと、進化のプロセスを踏んだのです。
私たちの中に、鉱物・植物・動物の習性が残っているのは、そのような進化のプロセスを踏んできたからです。
特に、動物時代の習性は、色濃く残っています。
未熟な魂が、物欲や性欲に溺れるのは、動物時代の習性が強く残っているからです。
これを、私は、第1段階の動物人間の習性と言っています。
その魂も、人間社会で揉まれるうちに、第2段階の人間的習性を身に付けるようになります。
つまり、物欲・金欲・地位や名誉欲・権勢欲・自己顕示欲などの人間的欲望を持つのです。
今の地球人類の多くは、動物の習性と人間の習性を併せ持った、動物人間の状態なのです。
でも、この状態は、決して、悪いことではありません。
私たちの目的は、あくまでも、霊性の進化を遂げるためですから、波動の低い人間体験を数多くすることは、必要なのです。
ですから、V字の左側の時代は、人間的欲望に溺れて、様々な苦しみを体験するのです。
苦しい体験をするうちに、人間的欲望の虚しさを知ります。
知った魂は、V字の右側に入ってきます。
V字の右側に入ってきた魂は、霊性の進化を遂げる方向へ、自然と舵を切るようになります。
つまり、人間的欲望から、自然と離れるようになるのです。
学びの友の皆さんが、あまり欲望を持たなくなったのは、それだけ、霊性の進化を遂げたからです。
この世の欲望を、強く持つか、持たないかは、霊性の進化のバロメーターだと思ってください。
霊性の進化を目指している者に、地位や、名誉や、権力などは、不要です。
お金も、物も、必要最低限あれば良いのです。
※ 物質の世界は、汚いです。醜いです。鈍重です。不自由です。
霊の世界は、綺麗です。美しいです。精妙です。自由です。
私たちは、物質人間ではないのです。霊です。
もう、そろそろ、霊の自分に戻りましょう。
※ 私たちは、すでに、肉体と言う動物を飼っているのです。
その上、まだ、他の動物を飼うつもりですか?
私たちは、一日も早く、動物から卒業し、霊性の進化を遂げねばならないのです。
※ 鉱物や、植物や、動物たちは、何も悪いことをしていないのに、人間に虐待され、苦しんでいます。
何も原因を創っていないのに、彼らは、どうして、痛い目や、苦しい目に、遭うのでしょうか?
原因と結果の法則は、彼らには、働かないのでしょうか?
※ 今の地球人類は、動物と同じ営みをしています。
食べて出す・・セックスする・・眠る・・すべて、動物的習性です。
私たちは、一日も早く、霊性の進化を遂げ、動物的習性から抜け出さねばならないのです。
(2019年7月21日 今週の真言より)
2022.04.28
真理の奥深さ!!
覚者は言います。「真理を、知れば、知るほど、真理は遠のく」と・・・。
そうなのです!
この宇宙は、探っても、探っても、届かないほど、奥が深いのです。
それは、宇宙は、無限だからです。
無限を完全に知ることが、どうして、出来るでしょうか?
あなたは、「これ以上無い意識体験をした!」と言うかも知れません。
でも、それは、一部分の体験です。
なぜなら、 前述したように、宇宙は、無限だからです。
私が、「永遠に悟ることができない!」と言うのは、宇宙は、神は、本当の自分は、無限だからです。
探っても、探っても、掴めないのが、宇宙なのです。神なのです。本当の自分なのです。
ですから、「私は悟った!」と言ってはならないのです。
永遠に悟れない真理なのですから・・・。
真理の奥深さを知った者は・・
でも、真理の奥深さを知らない者は・・
この宇宙の深淵さは、計り知れないのです。
知っても、知っても、また、その先に、知るべき真理が控えているのです。
だから、焦ることはありません。
一歩、一歩、着実に、前進しましょう!
注意・・ 学び始めの頃は、誰もが、「明日にでも、自覚の境界線が超えられる!」と、思うものです。
でも、学びが深まれば、簡単でないことが分かってきます。
それは、学べば、学ぶほど、真理の奥深さが観えてくるからです。
だからと言って、諦めないでください。
なぜなら、風呂桶に、どれくらい、お湯が溜まっているかは、誰にも分からないからです。
明日、風呂桶から、お湯が溢れるかも知れないのです。
明日、百本目の刀が得られるかも知れないのです。
これだけは、誰にも分からないのです。
だから、希望を持って、真理を学び続けましょう!
(2017年4月16日 今週の真言より)
拘りを捨てよう!
「人間の一番不可思議なところは、拘りを持つことである」と、ある覚者は、言っています。
では、なぜ、拘るのでしょうか?
それは、心が満たされていないからです。
心が満たされていないと、心の空白を何かで埋めようとするのです。
でも、その何かが解らないのです。
だから、じれったいのです。歯がゆいのです。もどかしいのです。
その鬱憤を、拘りで晴らそうとするのです。
自分の本性を知った者は、拘りを持つことが、少なくなります。
それは、心の空白が埋まったからです。
ですから、覚者は、一切、拘りを持たないのです。
どうか、拘りを捨ててください!
この世に拘わる事など、一つも無いのですから・・・。
2022.04.29
真理の目から見た人助け
世の中には、ボランティアー をやったり、寄付をしたりして、人助けしている人たちがおります。見た目は、実に、美しいです。
でも、どうでしょうか?
心の底から、「人助けしたい!」と思ってやっている人が、どれほどいるでしょうか?
そこに、何らかの成算が入っていないでしょうか?
例えば、
人に良く見られたいとか・・、
犯した罪の償いのためとか・・、
生きがいのため(心の空白を埋めたいため)とか・・、
自分の名を知らしめたいとか・・、
自己満足のためとか・・・。
これを、私は、批判するつもりはありませんが、でも、「安易な人助けは、人をダメにする !」と言うことだけは、知って欲しいと思います。
では、なぜ、安易な人助けは、人をダメにするのか、真理の目から考えてみましょう。
人助けする場合、その人の成長のためになっているかどうか? よく、考えてせねばなりません。
確かに、切羽詰まっている場合は、助けてやらねばならないでしょう。
でも、どこまで助けてあげるべきか? の見極めが大切なのです。
なぜ、苦しいことが、起きたのでしょうか?
自分が原因を創っていたからではありませんか?
事件や、事故や、自然災害の苦しみも、病気の苦しみも、貧困による苦しみも、みな、自分が原因を創っていたから起きたのです。
なのに、安易に苦しみを取っては、 原因を追求しないで(反省しないで)、終わってしまうのではありませんか? それでは、その人は成長しません。
では、マザーテレサのやった人助けは、悪かったのでしょうか?
どんなに、動機が純粋でも、人の成長を考えず、人助けしたなら、良いとは言えないでしょう。
ただし、こう言うことは言えます。
例えば、不純な動機で、人助けしたとしても、それは、助けた人の原子核の量においてした、必然ですから、それは、良いことなのです。
また、助けられた人も、助けられるべきにして助けられた、必然ですから、それも、良いことなのです。
必然には、人を成長させる材料が含まれているからです。
※ 世の中には、助けられる人と、助けられない人がいますが、どうして、そのような不平等なことが起こるのでしょうか?
それは、「原因と結果の法則」が、働いているからです。
助けてくれる人に出会ったのも、必然です。
助けられる環境にいたのも、必然です。
助けられる時代に生まれたのも、必然です。
助けてくれる人に出会えなかったのも、必然です。
助けられない環境にいたのも、必然です。
助けられない時代に生まれたのも、必然です。
これは、助けられた人も、助けられなかった人も、今世、あるいは、過去世における、「原因と結果の法則」の働きによって起こった、必然ですから、決して、不平等ではないのです。
必然は、みな、良いことなのです。
必然によって運ばれている宇宙に、悪いことなど無いのです。
ただし、真理を知った人は、原因と結果の法則を無視した人助けは、できるだけ、避けるべきでしょう。
動機が大切なのは、過ちを犯さないためです。
人助けするなら、相手の成長を考え、やり過ぎない配慮のもとに、やりたいものです。
※ 安易な人助けは、人をダメにすると言う話は、安易に病苦を取っては、成長の妨げになると言う話と同じです。
簡単に、病気を治したのでは、その人から、成長材料を奪ってしまうからです。
また、これは、人にお節介を焼くことも同じです。
世の人々は、良かれと思って、お節介を焼くのでしょうが、お節介を焼くことで、人から成長材料を奪っていることが多いのです。
お節介焼きの心理状態は、自分がお節介を焼いて欲しいからです。
これは、人に教えたがる人の心理状態とも似ています。
自分の中に教えて欲しい思いがあるから、人に教えようとするのです。
これは、人を頼る癖をつけてしまい、良いこととは言えません。
何ごとも、努力して、厳しさを体験して、成長してゆかねばなりません。
その意味では、厳しいことをさせてやることが「愛」です。努力させてやることが「愛」です。いらぬ手助けは、人を堕落させます。
例え、どんなに、動機が良くても、やり過ぎは、良くないのです。
ですから、人助けをするにも、中庸を見極めてやることが大切なのです。
その中庸の見極めも、魂の熟成度によって違ってくるわけですから、助け方も、みな、違ってくる、と言うことです。
(2017年3月19日 今週の真言より)
2022.04.30