真実は真実からしか得られない、しかし世の中には仮相を欲するものが何と多いことか・・・、仮相を盲信狂信している人が、あまりにも多すぎるということです。だから、あなた方の信ずるずるべきものは仮相という物質ではなく、真実という生命だと思います。「吾は生命なり! 」であって、吾は物質なりではない。物質という仮相は、生命という実相には勝てなかった、我はこの世の無知と悪と闇に打ち勝った者である。この世の物体というニセモノは、生命というホンモノによって克服されんがためにあるのである。それが克服者キリストであるということ、克服者生命であるということです。生命に勝るキリストはありません。生命に勝る真理は無いということです。
生命は真実で、物質は被造物です。あなたは作られた物体を見るのか、創造主である生命を観るのか、ということです。作られたものが有るということは、必ず作り主がいるということです。形が有るということは、必ず本質が有るということです。しかし皆さんは、形という世界だけ見てしまって、本質である生命を見失ってきた。あなたは人間じゃありません。生命なんです。今まで人間という仮相に目隠しされて、内なる生命を見失ってきた。じゃ、生命を観ている人と人間を見ている人と、どちらが正しく物を見ていますか。あなたは、これからも人間を見るのですか、生命を観るのですか。生命を観ている者はホンモノ志向、人間を見ている人はニセモノ思考なんです。じゃ、人間信者になりたいの、生命信者になりたいの・・・。人間を信仰するの、生命を信仰するの・・・。私を認める者(生命を認める者は)は、事実上生命となるんじゃありませんか。認めなかったら・・・。じゃ、生命があなたを拒んでいるのですか? あなたが生命を拒んでいるのですか? 自我があなたを拒んでいるのですか? 生命があなたを拒んでいるのですか? 生命があなたを拒むはずがない。じゃ、皆さんは生命的存在ですか? 物質的存在ですか? 生命ですね。その生命には姿形があるんですか? じゃ、無形無双の生命が様々な形をしているだけじゃありませんか。どういう形をしていようと、本質においてはことごとく生命なんです。物が有るということは、生命が有るという事なんです。生命が有るということは、物が有るという事なんです。物質と生命とは一体なんです。決して切り離すことはできないんです。だから生命に生きよなんです。生命に生きる者は実際に生きている者、物質に生きている者は、死んでいるんです。これを死せる魂というんです。生命に生きている者は、生き人です。
生命は実相、物質は仮相、あなたは仮相に生きるんですか、実相に生きるんですか。物質は仮相なんですよ。実際には無いんですよ。実際に無いモノに生きてどうするんですか。みなさんは形の側面で目隠してされて、本質の側面を見忘れているのです。その本質のことを天と呼び、形のことを地と呼んでいるんですね。天と地は一体、生命と物質は一体、この関係は永遠に失うことはないんです。
どうか、このことを忘れないようにしてください。
人と神とは一体です。なぜそうなのか? 神というのは本質のことなんですね。その本質によって人間はなれりだからです。形が形を生むことはできないんですね。形の生みの親は本質なんです。だから人間という形は、神という本質によって創られた、神の子なんです。神が全てを創って神が全てに宿ってるんですね。この人間という形は、神のすみかなんです。生ける神の宮、本質の宮なんですよ。じゃ、人間を見よなの?、神を観よなの?・・・。皆さんは人間という側面を見て、神という側面を見ていないんですよ。人間一人一人には、何が存在しているんですか?。神じゃありませんか?。 この世に神を宿さないものは一物もないんです。じゃ、皆さんは人間なんですか?、神なですか? 人間は嘘の自分、神は本当の自分なんです。だから神を観よ!、なんです。内観せよ!、なんです。外を見れば仮相の自分、内を観れば真実の自分、真実の自分を見ないで、仮相の自分を見ないこと・・・。じゃ、人間を見ている人は何を見ているんですか? 仮相を見ているんですよ。実際にないものを見ているんですよ。絶対外側を見ないこと・・・。内側の神を観ること・・・。真我到達とは、神への到達なんですよ。人は神から出てきて、神に帰りますよと・・・。その神は何処におります?・・・皆さんの中にいるんですよ。皆さんは、はじめから神だったんです。初めなき始めより神だっんです。これから神になるんじゃないんです。何かして神になるのでもないんです。何もしなくても、このままで神なんです。皆さんは、はじめから神の中の神だったんです。じゃ、神になる必要はないんじゃありませんか。そのままで神なんですから・・・。じゃ、私は人間ですと言っている人は、嘘を付いているんじゃありませんか?。嘘をついていいんですか?。人間は嘘の自分、神は本当の自分・・真実は宇宙に一つしか無い・・・それは全ては神であるという真実なんですよ。
神はすべてのすべて、有りてあるものなんですよ。これを全き神というんですね・・。いくらあなたが人間だと嘘をついても、あなたが神である事実は変わらないんです。このコップがいくらコップだと嘘をついても、ガラスである事実は変わらない・・・、いくら私は人間だと嘘をついても、神である事実は変わらないんです。だから人間は偽我といって偽りの自分、神は神我といって真実の自分なんです。その神我に帰ることを天に帰るというんですね。だから神意識のことを天というんですよ。その天はどこかにあるんじゃなく、皆なさんの中にあるんですね。皆さんは今の今、神意識なんですよ。自分のことを神だと思っているときは、神意識なんですね。人間だと思っているときは自我意識なんですね。人間だと思った瞬間自我、神だと思った瞬間真我・・・その真我と自我は表裏一体なんですよ。人と神とは表裏一体なんです・諱Aただ人間の側面を見るか、神の側面を見るか、つまり、コップの側面を見るか、ガラスの側面を見るかなんですね。はじめに本質ありきであって、形ありきではないんですね。だから外を見るな、内を観よなんですね。外を観れば人間、内を見れば神なんですね。これが人と神とは一体、天と地は一体、ということなんですね。天とは神のこと、地とは人間のこと、では、地に落ちるとは、自我に落ちることじゃありませんか? 天に上るとは、神に昇ることじゃありませんか? 昇天というのは、意識の高揚です。自我意識を神意識にまで高めることなんですね。神意識の状態は天で、自我意識の状態は地なんです。だから自我意識状態のことを地獄と言ったり、神意識状態のことを天国と言ったりするんですね。だから天国は汝の内にありということになるんですよ。だから人間として生きている人は、地獄の住人と言われるんですね。神として生きている人は、天国の住人と言われるんですね。どうか、皆さんは天国の住人になってください。それは神を思うか、人間を思うかで決まるのですから・・・。
皆さんは、どなたも個人だと思っていますが、個人は、実在するものじゃないんです。
実際にあるのは、無限のみなんです。
個人は、無限の現れとしてはあるけれど、実在するものではないんですよ。
皆さんの本質は、無限なんです。無限が、様々な形を現しているだけ・・・。
無限という本質がなければ、いかなる個人も、存在できないんですよ。
人間という形は、無限大の質量と無限大の霊によって創られているんですね。
じゃ、本質において皆さんは、個人ですか?、無限ですか? 無限なんですね。
知るべきものは、一つの真実です。それは、無限という真実です。
じゃ、皆さんは、無限を知った時、すべてを知ることが、できるんじゃありませんか。
なぜなら、無限は、全ての本質だからですよ。
全てを見通す力とは、全てを無限だと見通す力のことなんですね。
全てに無限を観て、全てに無限を感じなくてはなりません。
この個人は、一秒間も、無限から離れたことはないんですよ。
個人は、無限につながらなくては、不毛なんですね。
初めに無限ありきであって、個人ありきじゃないんです。
個人は、無限によって成れりなんです。
無限が、全ての生みの親なんですよ。
その無限の存在しないところは無いんですね。
無限は至るところに存在してるんですよ。
その無限は、一つしかないんですね。
無限が、いくつも、三つもあるなら、無限でも、完全でもなくなるからですよ。
だから、いくら、皆さんが、個人だといったところで、皆さんが、無限である事実は変わらないんですよ。
じゃ、皆さんは、何かして無限になるんですか?
初めから、無限、今も、無限、未来永劫、無限なんですね。
勝手に肉体を見て、個人だと嘘をついているだけなんですよ。
個人は、嘘のあなた、無限は、真実のあなた・・・
じゃ、あなたを個人に落としたのは誰ですか。あなたじゃありませんか。
あなたに個人という思いがある限り、無限という天には、帰れないんですよ。
個人を無限に、上げるか、上げないかは、あなたの思い次第なんですね。
だから、汝の救いは、汝自身なんですよ。
あなたが、個人に落としたんですから、自分で上げるしかないんですよ。
だから、天に住むためには、自らが、天を持ってくるしかないんですね。
天という場所が、あるんじゃなく、意識状態が、あるだけなんですよ。
すなわち、無限意識は、天国で、個人意識は、地獄なんですね。
個人も実在して、無限も実在する、わけじゃないんですよ。
実際に存在するのは、無限のみなんです。
じゃ、無限一元、じゃありませんか。
じゃ、無限が、全てを作り、無限が、全てに宿っているなら、全ては、何なの?
無限、じゃありませんか?
もし、この宇宙に一物でも、無限でないものがあるなら、神は、無限では、あり得ないことになる・・
じゃ、神は、なぜ無限なんでしょうか? 全てが、無限だからですよ。
だから、無限は、全ての全て、有りてあるものなんですね。
じゃ、その無限に、区切りや分割がありますか?
無限には、いかなる分離分断もないんですよ。全体が、あるだけなんですね。
じゃ、個人は、無限の現れじゃありませんか。
じゃ、皆さんは、個人ではなく、無限じゃありませんか。
個人は、無限によって創られた、無限のすみかなんですね。
無限は、万象万物の親なんですね。
じゃ、私の中に宿っている無限と、皆さんの中に宿っている無限とは、同一の無限じゃありませんか。
一つの無限の現われですから、すべては、同じ親なんですよ。
じゃ、個人として生きようなの? 無限として生きようなの?・・・
無限として、生きることですね。
なぜなら、個人が、生きた、ためしがないからですよ。
無限のみが、生きているんですね。
形の人間を見るんじゃない! 内なる無限を観なさい! ということなんですね。
無限を観れば、無限の能力が得られるんですよ。
人間、本来、無限能力なんですね。
個人の中に、無限が、潜在しているからですよ。
だから、無限は、潜在意識。個人は、表面意識、自我意識となります。
皆さんは、現れている個人を見て、現している無限を観てないんですね。
現れているものが、あるということは、現しているものが、あるんですよ。
だから、現れている個人は、現象我で、現している無限は、実在我なんですね。
じゃ、皆さんは、人間でも、個人でも、肉体でもない、無限じゃありませんか。
皆さんは、いつまで、人間と嘘をつくんですか。
「吾は無限なり! 」、と言わなくちゃなりませんよ。
個人という、ニセモノは、無限という、ホンモノには、勝てないんですよ。
個人は、無限によって、克服されるべきにしてあるんですね。
じゃ、皆さんは、個人という思いが、無くならない限り、自我は、無くならないんじゃありませんか。
無限は、真実の自分、個人は、非真実の自分なんです。
どうか、個人という嘘をつかないようにしましょう。
" 私は、無限である! "、と真実の自分を語って下さい。
個人もあって、無限もある、という人がおりますけど、個人イコール無限・無限イコール個人なんですね。
一個の独立した個人というのは、この宇宙に、存在してないんですね。
皆さんは、個人と思っていますけども、皆さんの本質は、即、無限ですよ・・・。
その無限というのは、実際にあるんですけれど、個人というのは、実在しないんですね。
個人もあって、無限もある、と嘘をつかないこと・・・。
実際にあるのは、無限のみなんですね。
で、この個人というのは、無限の仮の姿・・・。
個人のように見えますけれど、個人の本質は、即、無限ですよ、ということなんですね。
ということは、全ては、無限であるということです。
で、皆さんは、誰も彼もが、個人と思っていますけど、個人というのは、はじめから存在してません。
あるのは、無限一元なんですね。
なぜなら、個人の本質は、そく無限だからですよ。
はじめに、個人有りき、ではなく、無限有りき、なんですね。
この人間というのは、霊と水の、仮の姿なんですね。
霊も無限大で、水も無限大・・・ここにあるのは、無限大の本質なんですね。
個人的本質というのはないんですよ。
だから、無限真理なんですね。
個人と言うのは、被造物ですよ、ということなんです。
初めに無限有りきなんですね。
無限が、皆さんを作って、無限が、皆さんの中に宿ってるんですよ。
じゃ、なぜ、皆さんは、個人なんですか?
無限は、実相の自分で、個人は、仮想の自分ですよ。
だから、観るべきものは、個人じゃなくて、無限ですよ、ということになるんですね。
じゃ、無限から離れて存在している個人は、いないんじゃありませんか。
この人間という形は、本質から離れて存在できないんですよ。
無限から離れた個人もいなければ、個人から離れた無限もいないんです。
皆さんは、この個人と無限の分離感をもってるんですね。分離できます?
人間という形は、本質という無限から離れては、不毛なんですよ。
その本質のことを、皆さんは、真理と呼んでいるんですね。
じゃ、個人真理ですか、無限真理ですか・・・無限真理ですね。
神は、無限なんですよ。
だから、神は、無限者であり、普遍者なんですね。
はじめに、無限ありき、その無限によって、すべては、成れりなんですね。
じゃ、何あるがゆえに、個人があるんですか・・。個人って実際にあるの?
あるのは、無限のみなんですよ。
いくら皆さんが、個人だと言ったところで、皆さんの本質が無限なのは、変わらないんです。本質は、変わらないんですよ。
人間とは、人間の形をした無限なんですよ。
無限が、万物の造り主、万物の親なんですね。
無限が、すべてのものを造って、無限が、全てのものの中に宿ってるんですね。
じゃ、あなたは、個人なの、無限なの・・・、
じゃ、人間っていうのは、何処にいるの・・・、
じゃ、個人というのは、嘘の自分じゃありませんか。実在するの? 実在しませんね。
無限は、実在します。無限こそ、絶対実在、神こそ、絶対実在なんですよ。
だから、皆さんは、無限なんですよ。
人間の形をした、無限なんですよ。
その無限には、分割はない、分離・分断はないんですね。
全一体の、無限なんですね。
だから、皆さんは、無限なんですよ。人間の形をした無限なんですよ。
形は人間でも、本質においては、無限なんですよ。
じゃ、見るべきものは、無限じゃありませんか。
人間とは、海の上に浮いている、泡のようなもの・・・
この泡は大海の仮の姿、個人は無限の仮の姿・・・
じゃ、皆さんは、何処から出てきたの?
無限から出て、無限に帰るんですよ。
その無限のことを、又は、天と呼んでるんですね。
で、個人のことを、地と呼んでるんですね。
天地一体とは、個人と無限は、一体という意味なんですね。
無限と個人の間には、境目がないんですよ。
ここからが、個人で、ここからが、無限、という境目はないんです。
つまり、天と地の境目はないんです。
じゃ、独立した個人ってあるんですか?
じゃ、皆さんは、個人なの、無限なの・・・
形を見て、個人と思ってるだけなんですよ。
皆さんは、嘘をついてるんですね。
個人という嘘を・・・、人間という嘘を・・・。
無限は本当の自分、個人は嘘の自分なんですよ。
じゃ、皆さんは、何と思うべき・・・個人と思うべき、無限と思うべき・・・。
無限と思うべきですね。
じゃ、無限は、真我で、個人は、被造物じゃありませんか。
個人はニセモノ、無限はホンモノ、じゃありませんか。
じゃ、個人を見るの、無限を観るの・・・ホンモノの無限を観るべきですね。
それが、視野の拡大、意識の拡大なんですよ。
正しく見るとは、無限を観ることなんですね。
それが、正見という意味なんです。
皆さん、一人り、ひとりの本質は、無限なんです。
だから、無限を観ること、それが、正見ということなんですから・・・。
だから、人間とか、個人とか、肉体とか、嘘をつかないこと・・。
どうか、正しく思ってください。正しく見てください。正しく語ってください。
個人と嘘をつけば、自分を小さくしてしまうんですよ。
ぜひ、無限大の自分を観るようにしてください。
皆さんは、人間もあって神もあるといいますが、神のみが独存してるんですね。
神は絶対実在といって、神の外に実在するものはないんですね。
で・・この人間とは何かといいますと、人間の形をした神なんですね。
人間は、神から一秒間も離れて存在できないんですね。
また神も、人間から一秒間も離れて存在できないんですね。
これが神と人との一体感、一体感とは、同じものという意味なんですね。
人もいて神もいる、と嘘をつかないこと・・・。
人間即神、神即人間、それが神一元という意味なんですね。
しかし皆さんは、人間と神とは別ものと思ってるんですね。
人間と神とは、同じものなんですよ。人間と神とは、別々に存在できないんです。
なぜかといいますと、人間の本質そのものが神だからですよ。
神は全ての本質なんですね。
形が形を作るんじゃない、形の生みの親は本質がなんですよ。
人間とは、人間の形をした本質、つまり神なんですね。
皆さんは本質を観ないで、形を見て人間といってるんですね。
形は人間でも、本質においては皆さんは神なんです。
形あるものは、神という本質を宿さないでは不毛なんですよ。
本質が全ての形体を作って、本質が全ての形体の中に宿っているわけですから、全き本質になるわけですよ。すなわち、全き神になるわけですよ。
じゃ・・神が全ての物を創り神が全ての物の中に宿っているなら、なぜ皆さんは人間なんですか? 神の化身じゃありませんか? 人間とは、人間の形をした神なんですよ。
形は人間でも、本質においては神なんですね。
神という本質を観るか、人間という形を見るか、なんですよ。
形の世界は仮相の世界、本質の世界は実相の世界、だから本質を観よ! なんですね。
じゃ・・本質においては、皆さんは神じゃありませんか?
この人間という形は、修行して神になるんじゃないんですよ。
初めから神、生まれながらにして神、今このままにして神なんですね。
皆さんは、神と人間の分離感を持ってるんですね。
人間という形は、神という本質から離れたら即死なんですよ。
一秒間も存在できないんですね。
全ての形体は本質の中に存在し、本質は全ての形体の中に存在している、だから人は神の中におり、神は人の中にいるんですね。
じゃ・・皆さんは、なぜ人間なんですか? 神は本物の自分、人間は偽物の自分なんですよ。
だから人間のことを偽我といい、神のことを真我というんですね。
皆さんは、悟ったら人間となるんですか? 神となるんですか? 人間は嘘の自分、神は真実の自分・・自分のことを人間だといってる人は、自分で自分を偽ってるんですよ。
神なる我と人間なる我と、どちらが本当の我ですか? 人間を見よなの? 神を観よなの・・?
じゃ・・人間を見ている人は、盲じゃありませんか? あなたがいくら人間だと嘘をつこうが、あなたが神である事実は変わらないんですよ。
皆さんは、実相という神を観ないで、仮相という人間を見てるんですね。
つまり、内を観ないで外を見てるんですね。
外の人間に目隠しされて、内なる神を見失ってるんですよ。
神こそ絶対実在なんです・・・。
じゃ・・全てが神である理由を述べましょう。
神が全てを創って神が全てに宿っているなら、全ては神じゃありませんか? 形こそ異なりますが、本質においては一なる神じゃありませんか。
一なる神が全てを創って、一なる神が全てに宿ってるんですよ。
じゃ・・神の外に何があるというの? 神の外に何かがあると想うそのことが、迷妄じゃありませんか。
実際にあるのは神なんですよ。
だから神こそ絶対実在なんですね。
神のみが独尊しているんですね。
神の他になにもないんですね。
もし、この宇宙に神を宿してないものが一物でもるなら、神は無限でも完全でも無くなってしまいます。全てが神なるがゆえに、全ては無限なんですね・・・。
じゃ・・あなたは、無限じゃありませんか。
あなたは個人なの、無限なの・・? 神が無限であるということは、あなたは無限であということなんですよ。
じゃ・・無限と個人は離れて存在できるの・・・? 無限が全てを創って、無限が全ての中に宿ってるんですよ。個人は無限の仮の姿なんですよ。
もう、今日から個人と嘘をつかないこと・・・人間と嘘つかないこと・・・。
嘘をつくから、あたは苦しまねばならないんですよ。
さあ堂々と「無限だ! 神だ! 」と、宣言しましょう。
霊のことを陽性といって、霊は光なんですね。
で・・、物質は陰性といって、影なんですね。
物質という陰と霊という陽は、絶対不可分なんですね。
すなわち光と影は絶対不可分、それが陰陽の法則なんですよ。
物はすべて光と影のバランスで存在していますよ、ということなんですね。
光だけでも物は存在できないし、影だけでも物は存在できないんです。
皆さんは、肉体を見ている時は、陰の自分を見ているわけですよ。
物質は陰の世界、霊は陽の世界、陽光であって陰光というのはないんですね。
霊とは光のことなんですね。物質とは影のことなんですね。
だから物質を追いかけている人は、影を追いかけているんですよ。
物質が陽性であるわけがないんです。物質はことごとく陰性なんですよ。
すなわち、陰とはマイナス、陽とはプラスなんですね。
だから、陽を自分だと観ている人はプラス思考の人、物質を自分だと見ている人はマイナス思考の人なんですね。
物質は何にもできないんですよ。
生きているのは、霊だから、光だからですよ。
霊のみが生き、光のみが生きているんです。
霊光であって、物光というのはないんです。
それが光と影の世界なんですね。
その光のことを天と呼んでいるし、影のことを地と呼んでいるんですね。
天地一体とは、光と影は一体ということなんですよ。
影である肉体は、一秒間も霊という光から離れては存在できないんですね。
光がなくては即死ですよ。
なぜなら、光のみが生きているからです。影は生きたことがないんですね。
この影という肉体は、霊という光の操り人形なんですよ。
光と影は絶対不可分、天と地は絶対不可分なんですね。
つまり、光と影は一体という意味なんですね。
じゃ・・皆さんは、肉体を自分だと言うんですか、光を自分だと言うんですか。
我は光なりであって、影なりではないんですよ。
霊に満たされているとは、光に満たされている、つまり、霊体とは、光体という意味なんですね。
すなわち、霊界とは光明世界のこと・・・。
それは、全世界を照らす光、すべての国民の光、天照大御神なんですね。
これは、永遠に消えない聖なる光なんですよ。
霊光燦然と輝くんですね。
だから、この肉体が霊に満たされるということは、光に満たされるということで、
その時、皆さんの肉体から光が放出されるわけですよ。
で・・、この霊という光を肉体が受け入れた時、肉体は光るものとなるんですね。
物質という闇を愛するか、霊という光を愛するかは、皆さんの一つの選択だと思います。皆さんは、永遠に消えない聖なる光を得るべきなんですね。
影は消えゆくものですから、そんなものを選択していては幸せになれないんですね。
物的冨は影の冨ですから、それを光の世界に持ち帰ることはできないんですよ。
じゃ・・、影の冨を沢山持っている人は、幸いですか、災いですか。
この世の冨で満ち足りし者は災いですよ。
皆さんが、得るべきものは、消える影ではなく、永遠に消えない聖なる光ではありませんか。
それは久遠なる光、無限なる光なんですよ。
その光は、宇宙に一つしか無いんですね。
唯一不二の光と言って、たった一つの光が万象万物を生かしているんです。
それが霊太陽なんですね。
霊太陽というのは、太陽神なんですね。
その霊太陽の光は、善人にも悪人にも平等に注がれているんですね。
だから、誰彼の霊太陽というのはないんですよ。
全ての生き物の霊太陽なんですね。
神は光なりきなんですね。
じゃ・・光が宿っているということは、神が宿っているということじゃありませんか。
だから、「吾神なり!」なんですよ。
「吾神なり」と「吾光なり」とは、同じなんですね。
どうか、光を瞑想して下さい。
その時皆さんは、神を瞑想していることになるんです。
肉体もあって大愛もあるという人がおりますが、実際にあるのは大愛のみなんですね。
この宇宙には、実相である愛のみが実存してるんですね。
肉体もあって大愛もあるわけじゃないんです。
では、なぜそうなのか、これから説明したいと思います。
まず、はじめに水があるんですね。
この肉体は、水によって作られるんです。
だから肉体のことを、水子と呼んでるんですね。
でも、生きてないんです。
これに霊が宿って、はじめて生きるものになるんです。
この肉体は、水と霊の結晶なんですね。
つまり、愛の結晶なんですよ。
霊と水、これが皆さんの本質なんですね。
皆さんは、人間の形をした本質なんです。
愛イコール肉体、肉体イコール愛なんですね。
じゃ、皆さんの本質は何ですか? 大愛ですね。
しかし、皆さんは、肉体もあって大愛もあると思ってるんですね。
皆さんは、形である肉体を見て本質である愛を観ていないんです。
形が形を生むことはないんです。
形の生みの親は、愛という本質なんですね。
大愛は万物の造り主、万物の親なんですよ。
大愛がなくては、何も存在しないんです。
大愛は実在するけれど、人間は実在しないんですね。
実際にあるのは大愛のみ・・・つまり神のみ、本質のみなんですね。
だから人間のことを偽我といい、大愛のことを真我というんですね。
本当のあなたは人間じゃなく、大愛そのものですよ、ということなんですね。
しかし、皆さんは、自分のことを人間だと思ってるんですね。
人間だと盲信してるんですよ。狂信してるんですよ。
誰が皆さんを創ったの・・・大愛ですよ。
大愛が皆さんを創り、大愛がみなさなんの中に宿ってるんですよ。
じゃ、どうして皆さんは人間なの・・?、人間って実際にあるの・・?
人間の形をした愛はあるけど、人間の形をした人間なんていないんです。
本質がなくては形はあり得ないんです。
はじめに本質ありきであって、形ありきじゃないんですよ。
あなた達は、人間の形をした愛、人間の形をした神なんです。
本質は真理で、形は被造物なんです。
形は仮相、本質は実相・・・、その形と本質は絶対切り離せないんです。
人間という形は、愛から離れては存在できないんです。
何あるがゆえに人間あるんですか?、愛あるがゆえですよ。
人間一人ひとりは、大愛によって創られた大愛の住処なんですよ。
だから、生ける大愛の宮なんですね。
大愛がすべてを創って、大愛がすべてに宿っているなら、すべては何ですか・・・?、大愛ですね。
その愛は、無限大なんですよ。
なぜなら、水も無限大であれば、霊も無限大だからですよ。
だから皆さんも無限になんですね。
無限大の愛、無限大の皆さんになんです。
皆さんは、無限大の愛そのものなんです。
で・・この大愛のことを真我というんですね。
人間のことを偽我というんですね。
じゃ、人間を見よなの?、大愛を観よなの?
大愛を観よですよ。
人間と大愛は表裏一体、ただ、どの側面を見るかなんですね。
形の側面を見れば人間、本質の側面を観れば大愛なんです。
だから人間を見ている時は外観で、大愛を観ている時は内観なんですね。
じゃ、皆さんは人間なのか、大愛なのか・・・。
「吾は愛なり!」なんですね。
その大愛は、宇宙に一つしか無いんです。
たった一つの大愛が、様々な形をしているだけ・・・。
だから、すべては愛の化身なんですね。
これがコップの形をしたガラスであるように、人間は人間の形をした愛なんですね。
形があるということは、本質があるということ・・・。
本質があるということは、形があるということ・・・。形と本質の境目はないんです。
だから、人間という形と愛という本質の境目はないんです。
本質と形は二つで一つなんです。人間と愛とは二つで一つなんです。
絶対切り離しては存在できないんです。
その大愛のことを、または、天と呼んでるんですね。
形のことを、地と呼んでるんですね。
天地は一体とは、本質と形は一体という意味なんですね。
だから人間と愛とは、一体という意味なんですね。
じゃ、皆さんは、形から出てきたの、本質から出てきたの・・?
皆さんは、本質という愛から出てきたんですよ。
そして、本質という愛に帰るんですね。
この愛になるのに、いかなる修行もいらない、いかなる努力もいらない、
皆さんは、はじめから大愛、今も大愛、未来永劫大愛なのに、勝手に人間と嘘をついてるだけ・・・。
人間は嘘の自分、大愛は本当の自分なんです。
じゃ、皆さんは、人間ですか? 愛ですか? 愛ですね。
じゃ、見るべきものは、人間なのか、愛なのか、ということなんですね。
じゃ、愛眼を開くべき、肉眼を開くべき・・・、
絶対、自分のことを人間だと見てはならないんですよ。
肉体を自分だと見ている人はニセモノ思考で、愛だと観ている人はホンモノ思考なんですね。
自分のことを人間だといっている人は、自分で自分に嘘をついているんですね。
嘘をついて幸せになれますか? どうか本当の自分を観てください。
大愛の自分を観てください。その時、あなたは愛の人と呼ばれるでしょう。
肉体もあって大愛もあるという人がおりますが、実際にあるのは大愛のみなんですね。
この宇宙には、実相である愛のみが実存してるんですね。
肉体もあって大愛もあるわけじゃないんです。
ではなぜそうなのか、これから説明したいと思います。
まず、はじめに水があるんですね。
この肉体は、水によって作られてるんです。
だから肉体のことを、水子と呼んでるんですね。
でも、肉体は生きてないんです。
肉体に霊が宿って、はじめて生きるものになるんです。
この肉体は、水と霊の結晶なんですね。
つまり、愛の結晶なんですよ。
愛イコール肉体・・肉体イコール愛なんです。
じゃ、皆さんの本質は何ですか?・・大愛ですね。
しかし皆さんは、肉体もあって大愛もあると思ってるんですよ。
皆さんは、形である肉体を見て本質である愛を観ていないんです。
形の生みの親は、愛という本質なんですね。
大愛は万物の造り主、万物の親なんですよ。
大愛がなくては、何も存在しないんです。
大愛は実在するけれど、人間は実在しないんですね。
実際にあるのは大愛のみ・・・つまり神のみ、本質のみなんですね。
だから人間のことを偽我といい、大愛のことを真我というんですね。
本当のあなたは人間じゃなく、大愛そのものですよ。
しかし皆さんは、自分のことを人間だと思ってるんですね。
人間だと盲信してるんですね。狂信してるんですよ。
誰が皆さんを創ったの?・・・大愛ですよ。
大愛が皆さんを創り、大愛が皆さんの中に宿ってるんですよ。
じゃ、どうして皆さんは人間なの?・・
人間って実際にあるの?・・
人間の形をした愛はあるけど、人間の形をした人間なんていないんですよ。
愛という本質がなくては、人間という形はあり得ないんです。
はじめに本質ありきであって、形ありきじゃないんですよ。
あなた達は、人間の形をした愛、人間の形をした神なんです。
本質は真理で、形は被造物なんですね。
形は仮相、本質は実相なんですね。
その形と本質は、絶対切り離せないんです。
人間という形は、愛から離れては存在できないんです。
何あるがゆえに人間があるんですか?
愛あるがゆえですよ。
人間一人ひとりは、大愛によって創られた大愛の住処なんですよ。
だから、生ける大愛の宮なんですね。
大愛がすべてを創って、大愛がすべてに宿っているなら、すべては何ですか?
大愛ですね。
その愛は、無限大なんですよ。
なぜなら、水も無限大であれば、愛も無限大だからですよ。
だから皆さんも無限なんですね。
無限大の愛、無限大の皆さんなんです。
皆さんは、無限大の愛そのものなんですよ。
で・・この大愛のことを真我というんですね。
人間のことを偽我というんですね。
じゃ・・・、人間を見よなの?・・大愛を観よなの?・・大愛を観よですよ。
人間と大愛は表裏一体・・ただ、どの側面を見るかなんですね。
形の側面を見れば人間、本質の側面を観れば大愛なんです。
だから人間を見ている時は外観で、大愛を観ている時は内観なんですね。
じゃ・・皆さんは人間なのか?・・大愛なの?・・。
「吾は愛なり! 」なんですね。
その大愛は、宇宙に一つしか無いんです。
たった一つの大愛が、様々な形をしているだけ・・・だから、すべては愛の化身なんですね。
コップは、コップの形をしたガラスであるように、人間は、人間の形をした愛なんですね。
形があるということは、本質があるということ・・・本質があるということは、形があるということ・・・。
形と本質の境目はないんです。
だから、人間と本質の境目はないんです。
本質と人間は、二つで一つなんですよ。
人間と愛とは、二つで一つなんですよ。
絶対切り離しては存在できないんですよ。
その大愛のことを、または天と呼んでるんですね。
形のことを、地と呼んでるんですね。
天地一体とは、本質と形は一体という意味なんですね。
だから、人間と愛とは一体なんです。
じゃ皆さんは、形から出てきたの?・・本質から出てきたの・・?
皆さんは、本質という愛から出てきたんですよ。
そして、本質という愛に帰るんですよ。
この愛になるのに、いかなる修行もいらないし、いかなる努力もいらないんですよ。
皆さんは、はじめから大愛であったし、今も大愛であるし、未来永劫大愛なんですね。
なのに皆さんは、勝手に人間と嘘をついてるんですよ。
人間は嘘の自分なんです。
大愛は本当の自分なんです。
じゃ、見るべきものは人間なのか?・・愛なのか?・・開くべきものは愛眼なのか?・・・肉眼なのか?・・・ということなんですね。
絶対自分のことを人間だと見てはならないんですね。
自分のことを人間だといっている人は、自分で自分に嘘をついているんですね。
嘘をついて幸せになれますか?
どうか本当の自分を観てください。大愛の自分を観てください。
その時あなたは愛の人と呼ばれるでしょう。
仮相という物質は、見ることもさわることもできますけれども、霊というのは、見ることも触ることもできないと。この霊というものには、姿、形がないんですね。
無形無双の大霊と言いまして、姿、形がないんですよ。だから、見ることも、触ることもできないもの。物質は見ることも触ることもできるんですね。
しかし、この霊というものがなかったら、物質というものは、存在できないんですね。
例えを申し上げますと、この気体というものがなくては、液体とか個体というものは存在できないんです。液体も、個体も、気体の仮の姿なんですね。
で、初めに物体があるんじゃないんですよ。初めに霊があるんですね。見えないものがあるんですよ。霊というのは、見えないもの。物質というのは、見える物。見える物には、姿、形がありますけれども見えないものには、姿、形がないんですね。無形にして、無双であると。
で、皆さん方は、見える物をみてしまって、その見える物の実質が、見えない霊である事実を見失ってるんですね。だから、我は、物質なりではないんです。我は霊なり。じゃ個体はなんで出来上がってます? 個体の親は誰かというと大霊なんですよ。大霊がすべての物体を作って、大霊がすべての物体に宿っているんです。
その見えない霊は宇宙に・・・・・。見えないものが二つあるはずがないんですね。一つの見えないものが様々な見える物を現わしてるんですよ。だから、見える物に一つだってホンモノはないんですよ。ことごとく、ニセモノであると。これを物質思考と呼んでるんですね。
物体はニセモノ。霊体はホンモノなんです。じゃ我は、物質なり?我は霊なり?・・
あ?みなさんは・・・
物的存在ですか? 霊的存在ですか?
物質眼を開くべき? 霊眼を開くべき?
皆さんは、誰も彼もが、自分を物質だと思っているんですよ。物質は仮相なんですよ。霊は実相なんですね・・じゃ・・・
はじめに物質有りき? はじめに大霊有りき?
物質は何によってなれり?
物体が物体を生むのじゃないんですね・・絶対にこの見えないものがなくては、見える世界っていうのは、存在できない。ということは、見える物は、全て見えないものの仮の姿なんですよ。だから、みなさん方は実相という霊を見るのであって、仮相という物質世界を見てはならないんですね・・じゃ・・
この世の物質の世界を実相世界と言うの? 仮相世界と言うの?
物質の世界は仮相の世界。霊界は実相世界。じゃ我は霊なり。
我は物質なりというのは我は仮相なりということなんですね。その仮相という物体を自分だと信じている人が大半なんです。それを盲信家、狂信家と言うんですね。
じゃ、物的信仰か霊的信仰か、どちらがホンモノですか? 我は? 霊なりですね!!
だから、物質観念を捨てなければなりませんね。ニセモノ物体を見てホンモノである霊を見失っていると。
じゃ、物質眼を開くべき、霊眼を開くべき?
または、この霊のことを天と呼んでいます。物質のことを地と呼んでるんです。天地一体というのは、霊という天と物質という地は一体であると。じゃ物質の中に何が宿っているかと…霊が宿っている。
この個体という物体は、気体から一秒間も離れては存在できない。だから、見える物が見えないものから離れて存在することは、できないんですね。だから存在の本源は霊ですよと。我は霊なりであって、物質なりじゃないんですね。
で、物質というものは、嘘。
霊というのは?・・・それを霊的事実と言われているもの。
じゃ霊は実相で、物質は?・・・仮相。
霊界を実相世界と言います。物質は、霊の仮の姿としてあるのであると。その見えない霊は宇宙に一つしかない。唯一不二の大霊といって、たった一つの見えないものが様々な見える物を現わしているだけ。だからみなさんの見ている物体は何一つホンモノではないと。それをニセモノ思考。物質思考は、ニセモノ思考となっています。
霊的思考、霊はホンモノ。物質はニセモノ。なにが、ホンモノで何がニセモノかと・・霊というものは、永遠なんですけど、物質というものは、一時的なもの。この物質に永遠の物質というのは、ないんです。なんで? 物質は、消極なんですね。
だから、消極的なものの見方っていうのは、物質的な物の見方ってっことなんですね。それはニセモノですよ・・・と。このニセモノ物体を私と嘘をつく人がなんと多いことかということであります。だから、物体のことを偽我と言います。大霊のことを・・・真我と言います。
じゃ大霊と物体と戦ったら、どっちが勝ちます? 真実は勝ちますよ・・と、いくらあなたが、私は物体だといっても物体の本質は即大霊なんですよ。だからみなさん方は、物質観念を捨てなければなりませんね。
じゃ、真我到達とは? 我、大霊なり!!ですね。
だから、みなさんは、ニセモノで目隠しされてます。
物質眼を開くんじゃなくて、霊眼を開かねばなりません。
じゃ、大霊は真理で、物質は、被造物じゃありませんか?
物質は作り主なの? 作られたものなの?
作られたものですね!
何によって?
大霊によって!
だから大霊は万物の作り主、万物の親。大霊が万象万物を作って大霊が万象万物に宿っているなら、万象万物はなんでしょうか? 大霊ですね!!
では、様々な霊がいるんでしょうか? 霊は宇宙にひとつ。
唯一不二の大霊といって、あなたの霊、私の霊というのは、いないんですよ。
全体としての大霊があるだけ。
霊という世界には、善悪はない、ということです。完全しかない。
だからみなさん方は大霊においては完全であると。
ただ、不完全なものの見方をしているだけであると。
じゃ見るべきものは
物体なんだろうか? 霊体なんだろうか? 見るべきものは霊体。
初めに物質有りき? 初めに霊有りき? 霊有りき。
物質は何によってなれり? じゃ物質は大霊の仮の姿じゃありませんか?
じゃ我は物質なりというのは、我は仮相なりということなんですね。
その物体というものは、実在するものではない。だから、物質の世界を非実在界と。
霊界は? 霊こそ絶対実在。なぜ実在なのかというと、見えない霊というものが、なくなるということは、絶対にありえない。
これを不滅の大霊と。霊不滅の法則。これは久遠の法則なんです。
で、物質に久遠の法則というものはない。
物質は消極ですから、無常なんですよ。一時的な物。
霊的なものは、永遠なるモノ。
だから、
霊は、久遠我で。
物質は、無常我となりますと。
すなわち
物質は、消極。
霊は積極となりますと。
みなさん、正しくモノを見ていますか?
物質を見ようなの?
霊を見ようなの?
霊眼を開くことを、真眼を開くと。天眼を開くということになるんです。
だから、大霊に勝る真理は、ない。
じゃ一個一個の物体は、大霊によって作られた生ける大霊の・・・住処。
物体が生きた試しはない。生きているのは、大霊のみなんですよ。
いくつの大霊? じゃあなたの霊、私の霊って、いるんでしょうか?
ん?
誰彼の霊っていうのは、いないんですよ。唯一不二の大霊ですから。
だから、どういう形をしていようとも、ことごとく大霊であると。
だから、山の霊、海の霊、動物霊、人間霊、分割されて存在してるのじゃない。
たった一つの大霊が、海にも山にも人間にも、全てに宿っているってことだけなんです。
その霊ってモノには、分割された霊というのは、無い。
普遍的大霊があるだけであると。
じゃ…
霊がここにいる、あそこにおると言えるんでしょうか?
霊はあなたの中にだけ、いるんでしょうか?
霊は内にも外にもまします、ということです。すなわち、霊は遍在し給う、ということですよ。
あなたは人間でもない。
肉体でもない。
個人でもない。
何そのもの?
生きてるのは人間ではありませんよ。
大霊の他に生きているものはない。
大霊が全てを作って大霊が全てに宿っているんですよ。
だから、
肉体っていう人間は、大霊によって作られた、
大霊の住処。
生ける大霊の宮である。
宗教でも、どこでも、天という言葉は、頻繁に使われている言葉なんだけれども、天が何であるか、ということを知っている人は、いないんです。
知らないで、しゃべることをオウム返しと言われているんですね。
言葉の意味や文字の意味が全くわかっていない。で、天が何なのかってことがわからなかったら、書いたことにならないし、読んだことにならないと。
書いて書かず、読んで読まずなんですね。
この地っていうのも、同じことなんですよ。天地一体とよく言われてますけれども、
なぜ、天と地は一体なのかと。
で、天に帰ったって言葉も使います。天がどこにあるのか、天が何なのかが、わからないでは、天に帰ることは、不可能なんですね。
ある名言には、天は汝のうちにあり、とも言われているんですね。なんで、自分の中に天があるのか・・と
非常に疑問ですよね。
疑問ですけれども、実在するわけです。で、その意味が全くわかってない。
だから、宗教の指導者たちで、天がどこにあって天が何であるかってこと知っている宗教の指導者は、一人もいないんですね。
天というのは、空想や妄想の産物ではないんです。妄想の産物ではない。
この天と地は絶対不可分と言いまして。天は即地であるし、地は即天であるということなんです。
天というのがあって、地というのが、二つモノが存在しているんじゃないんですね。
実際にあるのは、天のみなんです。天のみ。
天は実際にあるけれども、地というものは、実在するものではない。
これはよく皆さん方が、霊界もあって物質界もあると嘘をつく癖があるんですね。
霊界は即、物質界。物質界は即、霊界。これを霊肉一体と言います・・・。
ですから、物質界は、霊界から離れて存在しているものではない。
例えばです。この個体(氷)というものは、気体(水蒸気)からできているわけです。気体(水蒸気)のバイブレーション下げると液体(水)になります。で、液体のバイブレーション下げると個体(氷)になるんですね。
その個体(氷)っていう物体は、気体(水蒸気)の仮の姿であるということです。
このことを釈迦は、色というものは、空の仮の姿であると。
・・・ということは、物質は大霊の仮の姿ということになるんですね。だから、霊から離れた物体はないし、物体から離れた霊もない。と・・・いうことなんですね。で、見えない霊のことを天と言いますし、見えるものを地と読んでいるだけなんですよ。
地は即、天であるし。天は即、地であると。その大気が個体を作って、大気が個体の中におりますので、天は汝の内なりと。天というのは、見えないものってことなんです。地というのは、見える物ってことなんですね。で、見える世界を物質界と呼んでいるし、見えない世界を霊界と呼んでる。じゃ初めに見える物があったのか、見えないモノがあったのか?
空天と言いまして、空は天なんです。色のことを地と読んでいるだけなんです。天地一体とは、色と空は一体だよ…と。これを不二と言われているもの。色心不二といいまして、見えるものは、一秒間も、見えないモノから離れることはできない
見えないモノは、見えるものから離れては存在できないんですよ
一体として存在しているってことです。すなわちこの個体という物体は、気体から一秒間も離れることはできないんですね。で、個体の中には、何が宿っているのでしょうか?
大気が宿っている。空が宿っている。
すなわち大霊が宿っていると、これが、霊肉一体天地一体と。だから、物質界もあってね霊界もあってね・・と嘘をつかないこと。物質界イコール霊界であると。霊界イコール物質界であると。天は即、地であるし、地は即、天であると。ただ、皆さん方は、この物体を我として生きている時は、どこに生きているんでしょうか? 地に生きているってことですね。大霊に生きているってことは天に生きているってことなんですよ。この物体っていう肉体は、大霊の仮の姿。だから、この物質の世界は、実相世界とは言わない。仮相と言われているもの。だからこの世の物体に一物も、ホンモノはない。
なんで?
物体はホンモノなの? ニセモノなの? 物体はニセモノ。
大霊はホンモノ。
大霊思考は、ホンモノ思考で、物体思考は、ニセモノ思考ということなんですね。
すなわち物体は偽我で大霊は真我となっていますと。
我は霊なりであって、物質なりではない。物質は大霊の仮の姿であるからと。
だから、この一個一個の物体個体は、すべて大霊の仮の姿としてあると。だから、地というものは、天の仮の姿。で、この個体は、個体から出てくるのじゃない。個体が個体を作ることはできないんです。個体の親は、即大気なんですね。すなわち、物質の生みの親は、即、大霊なんですね。
で、大霊は真理で、物質は被造物。作られたもの。
作られたものが、あるってことは、作り主がおると。
だから、皆さん方は物質的存在ではなく。霊的存在。
初めに物体ありき、大霊ありき? この一個の物体は、一個一個の物体は、唯一なり。
大霊によって成れりって意味なんですね。大霊が全ての物体の生みの親であると。
その大霊は宇宙に一つしかない。
見えない霊が二つあるはずがない。
だから、大霊は一にして多身だよ。多形だよと。
ということは、どういう形をした物体であろうと、本質においては、即、大霊ではないでしょうか?
みなさんはなぜ人間なんでしょうか? 人間とは、人間の形をした大霊であるということですよ。いくら、あなた方が、私は人間だって嘘をついたって、あなたの本質は、即、大霊であるという事実は変わらない。何か特別なことをして大霊になるんじゃない。
なんで? 人間一人一人は何によって成れり? 大霊によって成れり。大霊が万象万物を作って、大霊が万象万物に宿っていなければならない。だから大霊はすべてに宿り給う。
天地一体っていうのは?
この天というのは…神なんですね。神なる我。
自我というのは、人間なる我なんですよ。この人間という自我は、神という真我から離れては存在できないんですよ。
で、人と神との分離感。天と地の分離感。これを捨てねばなりません。
天地一体というのは、真我と自我は?
神意識のことを天といいます。自我意識のことを地というんですね。自我で生きる者は地に生きるもの。真我で生きる者は天に生きるもの。
生きているのは真我のみなんですよ。人もいて、神もいるのじゃないんです。いるのは、神のみなんですね。で、人と神とは絶対不可分。この人間というものは、一秒間も神から離れては存在できないんです。なぜ? 人間そのものが、神そのものであるからなんです。
初めに神有りきであって、人間有りきじゃないんですよ。この人間という悪魔に目隠しされて、神というホンモノを見失っているだけなんです。
だから、鬼は外。福は内と。
内を見れば神。外を見れば人間なんですね。皆さん方は、人間という仮相で目隠しされてその本質である神を見失っているということなんです。で、人間の本質は、即神なんですね。何故かと言うと、人間の本質は霊と水なんです。この霊と水がなかったとすると、人間は、存在できないんですね。これは、本質的なもの。その本質においては、即神なんですね。人間の本質は、神なんですよ。その神のことをまたは、天と言っているんですよ。その形の世界は、地と呼んでるんですね。本質と形、形はまさか天とは言いません。なんというの? 地と言うんです。天地一体というのは、本質と形は一体。この人間という形は、本質という神から一秒間も離れることはできない。だから、天から離れた地もないし、地から離れた天もないんです。初めから一体なんです。形と本質は異なる訳にはいかない。コップとガラスは同じもの。人と神とは同じもの。ただどの側面を見るか。本質という神を見るか、形という人間を見るか、皆さんは、形の自分と本質の自分が有りますけれども、どちらが、自分ですか?
みなさんは、形の自分を見てしまって本質の自分を見失っているんですよ。
コップの側面だけを見て、ガラスの側面を見てないってことなんですよ。そのコップという形は、ガラスという本質から離れては存在できない。形があるっていうことは、必ず、本質があるということなんです。神はすべての本質なんです。それは、無限なる本質なんですね。
無限なんですよ。
神がすべてを創って神がすべてに宿っているっていうことは、
これが、神はすべてに宿り給うということなんですよ。本質を宿していない形があるはずがないということなんですよ。だから、見るべきものは、形ではなく、本質である。形を見れば人間なんですけども、本質を見れば? 即神です。じゃ内なる本質は、内なる神。内なる天となるわけです。皆さんは、形から出てきたの?天から出てきた・・・。本質から遣わされたるモノ。
本質が万象万物を作って、本質が・・だから、神はすべてに宿り給う。その本質という神が万象万物を創って、その本質という神が万象万物に宿っている…じゃ神はどこにおります。じゃ初めに人間有りき、神有りき?
じゃ人間という形は本質という神の化身じゃありませんか? 皆さんは人の子なんですか? すべては神の子なんですよ。人が人を産むことは出来ないんです。形が形を作ることは出来ないんですね。唯一、形の創ることができるのは、唯一の本質なんです。その本質は宇宙に一つしかないんですね。
だから、神はひと様ということになるんですよ。唯一なる本質がすべてを作って唯一なる本質が・・
神が全てを創って神が全てに宿っているなら、全ては何なの? 何故、みなさんは人間なの? 人間を見ているときは、仮相を見ているとき、人間は即、仮相ですよと。
人間は何の自分? 仮相の自分なんですよ。神は? これは実相感。だから神を見ているときは、ホンモノを見ているとき、人間を見ているときは? 人間志向は、ニセモノ思考なんですよ。神を見ているときは?
じゃホンモノを見るべき?
今まで人間という仮相で目隠しされて、神というホンモノを見失ってきたんですね。盲目のモノは人間を見るし、目明きのモノは?
真眼を開く。じゃ見るべきものは、神なのか? 人間なのか?
人間を見た瞬間ニセモノ思考。
神を見た瞬間ホンモノ志向。
ではみなさんは、人間から出てきたの? 神からでてきたの?
神から生まれしモノは、神であるということなんですよ。親が神でその子が人間ということは、有り得ない。親が神であるならば、その子も?神である。じゃ親は神でその子が人間・・誰が、そんな嘘をつかせた? あんた自身じゃないですか? 人間は嘘の自分なんですよ。
神は・・神は、真実。それを真我というんですよ。人間のことを偽我。嘘つきということなんですよ。自分のことを人間だといっている人は? 人間と言っている人は嘘つきなんです。人間を偽我といって、嘘の自分なんですよ。神は真我と言って、誠の自分なんです。真実の自分なんですね。
本来のあなたは、人間でもなく。肉体でもなく。何そのもの?
何故?この肉体は、神によって創られた、生ける神の宮なり。
神、我が中にまします。だから、神は全てに宿り給うなんですよ。
この神を宿していなて形態なんてないわけですよ。
で、生きているのは人間じゃなくて神のみ。じゃどこに、人間がいるの?
人もいてね、神もいるんですよ。
コップもあってね。ガラスもあるんですよ・・・というのは、
嘘つきですよ。
二枚舌ですよ。
コップ=ガラス。ガラス=コップ。
人間=神。 神=人間。
この光と影の関係を陰陽の法則といいますけれども、何故、陰陽の法則なのか、よく理解してもらいたいと思いますね。皆さんには、影の自分というのと、光の自分というのがあるわけです。すなわち物的自分っていうのと、霊的自分っていうのがあるんですね。
しかし、実際にあるのは、霊的自分であって、影の自分じゃないんです。で、みなさん方は、影の自分を見てしまって、光の自分を完全に見失っているんですね。だから、我は物質なりと言ったとき、我は影なりという意味なんですよ。物質性というのは、物性といってこれは、陰性なんですね。なぜそうなのかということを、これから説明してみたいと思います。この肉体というのは、何でできるかと言うと、いつものパターンですけれども、水なんですね。この水のことを水様質量といいまして、これ、質量なんですよ。質量。じゃその肉体っていうのは、陰なのか、陽なのかってことになりますね。これは、物質性ですから、物性ですから、陰性になるんですよ。陰の自分。陰性ですね。すなわちマイナスなんですよってことなんですよ。で、物質は、マイナス極なんですよ。これ生きてないんですね。だから、未だかつて、肉体が生きたことはないんですよ。肉体は、初めから生きてないんです。生きてない。生きてるはずがないんですね。で、しかし、皆さん方、この肉体をほとんどが自分と見てるわけですよ。この肉体のことを偽我というんですよ。肉体が自分じゃないんですね。で、生きているのは、何なのか、っていうと、霊が生きているんですよ。霊が。この霊ってものは、何かって言うと、光なんですよ。霊光と言いまして。霊というのを光に置き換えてください。光がこの肉体を生かしているわけですね。光のことを皆さん方、何と言うかというと・・・陽と言うんですよ。陽性といいまして、これは、即、光なんですね。すなわち、プラスなんですよ。
霊はプラス極。物質は? マイナス極。だから、物質を見ているときは、マイナス極を見ているわけですよ。それをマイナス思考と言っているんですね。物質思考はマイナス思考。霊的思考は、プラス思考なんですね。肉体は生きているものじゃなくて、生かされているんですよ。光によって。その光は宇宙にいくつあるかと・・・これは大霊と言いまして、宇宙霊と言いまして、たった一つの光なんですよ。霊光燦然と輝くと。で、生きているのは、この光のみが生きている。影も生きて、光も生きていると、言わないように、気を付けていた方がいいと思います。だから、肉体という影は光の操り人形ということになるわけですよ。で霊が宿っているってことは、光が宿っているってことなんですよ。我は霊なりというのは、我は光なりっていうことなんすよ。霊に満たされるってことは、光に満たされるってことなんですよ。光と影のバランスですから、陰陽の法則ですから。
その光のことを地と言うんでしょうか? 天と言うんでしょうか? 天と言うんですね。
影のことを地と言うんですよ。天地一体っていうのは、光と影は、一体。この物質の世界を光の世界とは言わないんです。影の世界と。鉱物・植物・動物・人間ことごとく、影なんですよ。影の世界から光を見出すことはできないんです。影ですから。で、その影自らは、無なんですよ。影は無知、無力なんですよ。光は全知、全能。その光のことを神と呼んでいるんですよ。神。光と神とは、同じことなんですよ。神が宿っている、光が宿っている、光一元、神一元と言いまして、たった一つの光がですね・・・この光は善人にも、悪人にも、平等に宿っているんですよ。光を宿さない影なんてないんですよ。光が無くては影という世界は存在できないんです。生きているのは、光のみなんですよ。神のみが生きている。光のみが生きている。大霊のみが生きていると。だから肉体っていうのは、光の住処なんです。霊の住処。生ける大霊の宮なり。生ける神の宮なり。光の宮なり。ということなんですよ。だから我は霊なりというならば、言っている言葉の意味をよく理解していなければならない。我は霊なりというのは、我は光なりと言う意味なんですね。霊化された肉体っていうのは、光化された肉体。これをイルミネーション、イニシエーションを受けた、光を受けた、それが、精霊が下った、聖なる光が下ったと、その光は、智慧にして、力なり、全知全能なんです。影は無知無力なんですよ。だから、無知無力の影を我というのか? 全知全能の光が我なのか? みなさんには、光の自分というのと、影の自分というのがありますが、どちらが、自分ですか? 皆さんは、霊に属するもの? 光に属するもの? それを内なる光と呼んでるわけですよ。外なる光じゃないんですね。その光は内にも外にも、全宇宙に遍満しているんですよ。で、私の光、あなたの光というのは、ないんです。全体としての、光。全一の光なんですよ。それが唯一不二の光。唯一不二の神。唯一不二の霊と言われているもの。だから、光の他に生きているものがあると、嘘をつかないこと。だから、この世の鉱物・植物・動物・人間というのは、未だかつて生きたことがないんですよ。生きているんじゃなくて、生かされているんです。光によって。
神のみが生きているってことは、光のみが生きているってことなんですね。で、神が宿っているってことは、光が宿ってるってことです。すなわち、これ、光の住処なんですよ。光の住処。この陰っていうものは、光の働く場であり、働く道具、すなわち光の表現体となるわけですよ。表現体。光が光を通して表現するわけにいきませんので。その一なる光が全てのものを通して、ご自身を表現しているわけですね。だから、肉体というのは、表現体ですよと。光は表現者ですよと。で、光が無くてはこの世っていう物質世界、影の世界は、存在できないんですね。じゃ、物質っていうのは、プラスなの? マイナスなの?
物質思考は、マイナス思考なんですよ。影を見ているんですよ。物質を見ているときは。霊を見ているときは、光を見ているわけですね。だから、霊っていう光を見ているときは、光明思念。影を見ているときは、闇思念。すなわち、影の世界は闇の王国。霊は光の王国。その光のことを天と言いますし。影のことを地と言います。天地一体というのは、光と影は一体という意味なんですよ。だから、影を我として生きている者は、地に生きる者。光を我として生きる者は、天に生きる者。その内なる光を内なる天と言うわけですよ。