私たちが住んでいる、この表現世界は、自分の願望が、必ず、叶えられる世界です。それは、良し悪しに関係なくです。
すなわち、良いことを願えば、良いことが、悪いことを願えば、悪いことが・・・。ということは、自分が願望しないことは、絶対、叶えられないということです。
なぜなら、原因を作らなければ、結果は、あり得ないからです。
私たちは、映画を見たいと思い、映画館に行きます。 旅行に行きたいと思い、旅行に行きます。 お金持ちになりたいと思い、お金持ちになるのです。
ただ、その願望が、どれだけ強いか、つまり、どれだけ強い原因を作っているかで、実現の程度が違ってくるだけです。
人に騙されるのは、自分の中に、人を騙したい思いがあるからです。
人に憎まれるのは、自分の中に、人を憎む思いがあるからです。
人に殺されるのは、自分の中に、人を殺したい思いがあるからです。
自殺するのは、自分の中に、死にたい思いがあるからです。
すべて、自分の願望の現れです。 でも、痛みや苦しみがくるまで、自分が、そのような願望を持っていることに気づかないのです。
想念は、見えませんから、見えない状態では、想念の働きが分かりません。それでは、想念の学びができないため、私たちは、この表現世界で、自分の思いを実現させ、想念の偉大さや恐ろしさを学んでいるのです。
この表現世界が、学びの道場といわれるのは、願望したことが、実際に実現し、それを肌で感じることによって、自分が、どのような願望を持っていたか、気付くことができるからです。
気付けば、当然、良い願望は、育てようとするでしょうし、悪い願望は、捨てようとするでしょう。 しかし、残念なことに、人類は、その想念の偉大さをまだ知らないのです。 だから、想念を悪く使って、苦しんでいるのです。
今、地球上に悪しきことが、沢山、起きているのは、多くの人たちが、悪しき想念を使っているからです。
このようにいうと、“ 私は、何も悪いことは、想っていません!“ 、という人がおります。
では、その人に、私は、お聞きしたい、あなたは、一日、何を思っていますか?、と・・・。
過去を悔んだり、未来を憂いたり、今を悩んだり、人を憎んだり、恨んだり、嫉妬したり、怒ったり、心配したり、しているのではありませんか。或いは、妄想で自分を傷付けたり、人を傷付けたり、しているのではありませんか。
特に、政治家たちは、敵対政党の人たちや敵対国の人たちと、想念で喧嘩し合っているのです。想念で喧嘩し合っているということは、すでに、争いの原因を作っているわけですから、いずれ、闘争や戦争に発展するのです。
戦争も、病気も、事件も、事故も、自殺も、自然災害も、すべて、人類の想念の作品です。それは、願望したからです。原因を作ったからです。
この表現世界は、願望を写しだす鏡のような世界なのです。願望したことは、いずれ、表現世界の鏡に写し出されるのです。
今、あなたに、悪しきことが起きているなら、自分の悪しき想いが、鏡に写し出された結果だと思ってください。
人類が想念の働きを知り、多くの人が想念を良いことに使うようになったら、地球は、そく、聖なる星になるでしょう。
どうか、想念の偉大さを知ってください。
” 願望は、必ず、実現する! ” ということを知ってください。
弱腰になってはなりません。
良いと思ったことは、何でもやってみましょう。
人生において最悪なのは、何もしないことです。
人生において最良なのは、何かをすることです。
2015年1月1日 更新
普通、表裏一体という言葉は、「表と裏は一体である」という意味で使われていますが、でも、この言葉には、文字で表せない深い意味が込められているのです。
では、どのような深い意味が込められているのでしょうか?
表と裏の境目が無いのが、表裏一体ですが、境目がないということは、分けられないということです。それは、表と裏は、一つだからです。どこからが表で、どこからが裏だといえないのが、表裏一体なのです。
しかし、一体ではあるけれど、表は、実際にあるし、裏も、実際にあるのです。表が裏に変わることもなければ、裏が表に変わることもありません。表は、永遠に、表のまま存在するし、裏は、永遠に、裏のまま存在するのです。
つまり、表は、どこまでも、表であるし、裏は、どこまでも、裏なのです。
その表は、裏がなくては、存在できません。また、裏は、表がなくては、存在できません。どちらが無くても存在できないのが、表裏一体の正体なのです。
つまり、厳然として存在しているのが、表と裏なのです。でも、厳然として存在しているけれど、それは、あくまでも、一つとしてです。
なぜ、このように、クドクドいうのかといいますと、一つのものしか無いということを、心の底で知ってほしいからです。
この宇宙は、絶対宇宙(裏)と相対宇宙(表)によって成り立っていますが、それは、二つで一つなのです。 絶対宇宙も別にあって、相対宇宙も別にあるわけではないのです。 この二つの宇宙は、表裏の関係にあるのです。
絶対宇宙(裏)も、相対宇宙(表)も、厳然と存在しているけれど、それは、一つとして存在しているのです。
一つしか無いから、宇宙は、無限であり、永遠であり、完全なのです。
二つの宇宙があるなら、宇宙は、有限になり、無常になり、不完全になってしまいます。
一つしか無いという意味は、無限であり、永遠であり、完全である、という意味なのです。
だから、宇宙は一つしか無いのです。一つゆえに、宇宙は、永遠に存続できるのです。
例えば、善もあり、悪もあるなら、二つのものがあることになり、それでは、無限でも、永遠でも、完全でも、なくなります。
表もあって、裏もあるなら、二つのものがあることになり、それでは、無限でも、永遠でも、完全でも、なくなります。
それでは、一つしか無いという真理は、崩れ、この宇宙は、消滅しなくてはなりません。
二つのものがあるということは、善もあり、悪もあり、 表もあり、裏もあり、ということになりますから、宇宙は、不完全になってしまうのです。不完全な宇宙は、存在できないのです。
今、現に宇宙が存在していること自体、一つの宇宙しか無いことを証明しており、宇宙の完全性を証明しているのです。
一つしか無い宇宙において、何かが存在しているということは、その何かは、無限であり、永遠であり、完全でなくてはならないのです。その何かは、一つの現れだからです。
だから、何かが存在していること自体が、無限であり、永遠であり、完全である、証になるのです。
ゆえに、今、あなたが、存在していること自体が、無限であり、永遠であり、完全であることになるのです。
一つのものは、無限なのです。
一つのものは、永遠なのです。
一つのものは、完全なのです。
表裏一体の言葉を深く突き詰めれば、そこに、到達するのです。
だから、私は、表裏一体のことを、クドクドと説明するのです。
繰り返します。
表裏一体とは、一つのものしか存在しないという意味です。
ということは、人間は、その一つのものであるということです。
つまり、神であるということです。
なぜなら、今、人間は、現に、存在しているからです。
何せ、一つのものしかないのですから、神しかないのですから、当然です。
だから、現に、存在している、人間は、神なのです。
私が、「人間神の子」と断言するのは、この表裏一体の真理が、ちゃんと証明してくれているからです。
2015年1月15日 更新
死刑制度は、あってはならないことです。人間が、生み出した命なら、人間の手で天に帰してもいいかもしれませんが、命は、天が与えてくれたものですから、天の手で帰すのが道理なのです。
なぜ、「天寿」という言葉があるのでしょうか?
天によって、生み出された命だからではないでしょうか。
その意味でも、天寿を全うさせることが、天に対する礼儀なのです。
本来、生も、死も、人が関わってはならないことなのです。時がくれば、誰でも、死ぬのですから、わざわざ、人の手で殺す必要はないからです。
考えて見てください。 死刑執行命令を出す法務大臣の心情を・・・、死刑執行員の心情を・・・。 それは、心穏やかではないはずです。
人為法によって、人が、人を殺すなど、とんでもないことです。 なぜなら、創られた者が、創られた者を、裁く権利はないからです。 また、人為法には、間違いが多いからです。
唯一、人を裁けるのは、自分の中におられる神だけです。 その方が、間違いがないからです。
神がおられるなら、死刑制度が許されていいはずがないのに、地球には、いまだに、死刑制度というものがあります。
では、神は、なぜ、死刑制度を許しているのでしょうか?
それは、今の地球人類には、必要だからです。
神に顔を背けている幼い魂には、死を直視させることが、必要なのです。どんなに、神を信じない者であっても、死を目前にすれば、死に対して疑問を持つようになるでしょう。「死んだら、それで、お終いなのだろうか? 人は、死んだら、どうなるのだろうか? 人生って、一体、何のためにあるのだろうか? 神は、いるのだろうか?」と・・・。
なかには、神に許しを請う者も出てくるかもしれません。苦しい時の神頼みをする者も出てくるかもしれません。
どんな極悪人も、死を目前にすると、神に顔を向けざるを得なくなるのです。
がん患者に対する宣告も、同じです。今の医者は、がん宣告を避けているようですが、それでは、魂の成長のためには、良くないのです。厳しくても、宣告してやるのが、愛だと思います。本人は、ショックかもしれませんが、ガン宣告されることによって、必ず、人生の思索をするようになるはずです。死を直視させることほど、魂を成長させることはありません。
どうでしょう。何も疑問を持たずに死ぬのと、疑問を持って死ぬのとでは、どちらが、魂の成長のためになると思いますか。
本当は、死刑制度などあってはならないことです。でも、今の幼い地球人類には、必要不可欠な制度なのです。ただし、死を直視させなくても、神に顔を向けるようになった暁には、死刑制度は、廃止すべきでしょう。
神を直視するようになった者のお尻を叩く必要がないからです。
今、この世で起きている、どんな出来ごとも、魂を成長させるために必要な試練なのです。今の地球人類には、理解できないかもしれませんが、いつか、きっと、合点のゆく日がくるでしょう。「そうか、そのために必要な試練だったのか!」と・・・。
2015年2月1日 更新
皆さんは、大きなモノもあって、小さなモノもあると、思っていますが、宇宙には、たった一つのモノがあるだけです。
ただし、一つのモノだけでは、一つのモノになれないのです。もう一つのモノと相対させて、はじめて、一つのモノは一つのモノになれるのです。
だから、宇宙は、もう一つのモノ(相対宇宙)を創って、一つのモノの存在を明らかにしているのです。
大だけでは、大はないのです。小だけでは、小はないのです。
大は、小と相対させて、大になり、小は、大と相対させて、小になるのです。
だから、宇宙は、大を持ってきて、小を明らかにし、小を持ってきて、大を明らかにしているのです。
宇宙には、もともと、大小などないのです。あるのは、たった一つのモノだけです。
その一つのモノを、大にしたのは、小を持ってきたからです。小にしたのは、大を持ってきたからです。
要するに、相対させたから、大小が生まれただけで、大小が、別々にあったわけではないのです。大も、小も、一つの同じモノなのです。
これを、神と人間に当てはめてみると、神と人間の関係が、はっきり解ると思います。
宇宙に、もともと、大小がなかったように、もともと、神も、人間も、なかったのです。そこには、たった一つのモノがあっただけです。
そのたった一つのモノを、神と呼んでいるだけです。
しかし、たった一つのモノだけでは、一つのモノの存在は、あり得ないので、宇宙は、もう一つのモノを持ってきたのです。それが、人間です。
ですから、初めから、神があったわけでもなく、初めから、人間があったわけでもないのです。違うモノを相対させたから、神が生まれ、人間が生まれただけです。
神だけでは、神になり得ないのです。人間だけでは、人間になり得ないのです。
神と人間を相対させて、はじめて、神は、神となり、人間は、人間となったのです。
もし、神だけなら、神とは、思わないでしょう。もし、人間だけなら、人間と思わないでしょう。神と人間を相対させて、はじめて、神であった、人間であった、と解るのです。
白板の上に、白墨で絵を書いても分からないように、神の上に、神を描いても分からないのです。
だから、分かるように、宇宙は、人間を持ってきたのです。
大が大であるためには、小を持ってこなくてはならないのです。
小が小であるためには、大を持ってこなくてはならないのです。
その大を神と呼び、その小を人間と呼んでいるだけです。
だからといって、大が、小より、優れているわけではないし、劣っているわけでもないのです。
なぜなら、大がなければ、小はないし、小がなければ、大はないからです。
だから、私は、大と小は、同等の価値があるというのです。
つまり、神と人間は、同等の価値があるというのです。
神が存在しなければ、人間は、存在しないのです。
人間が存在しなければ、神は、存在しないのです。
繰り返します。
宇宙には、もともと、神も、人間も、いなかったのです。たった一つの存在者がいただけです。
小を持ってきたから、大になったように、人間を持ってきたから、神になっただけです。
神だけなら、神はないのです。
甘いものだけなら、甘いものはないのです。
一つのモノだけなら、一つのモノはないのです。
このことを、しっかり、理解して欲しいと思います。
2015年2月15日 更新
「痴呆症は必要悪である」というと、そんな馬鹿な!、と思われるかもしれませんが、これは、本当の話なのです。
神は、完全です。その完全なる神が、意味のない痴呆症を与えるわけがないのです。
痴呆症には、二つの目的があるのです。
・一つは、地球をこれ以上、悪想念で汚染させないためです。
今、地球の周りは、悪想念でいっぱいです。それは、多くの人が、悪想念の垂れ流しをしているからです。これ以上、悪想念の垂れ流しをされたのでは、地球は、持ちません。だから、神は、垂れ流しにストップを掛けるために、痴呆症を用意したのです。
ボケ老人を見てください。何の心配も、何の悩みもない顔をしています。左脳の機能が失われると、悪想念(心配・恐怖・憎しみ・怒りなど)が、持てなくなるのです。 神は、左脳の機能を失わせ、人生の悩みから開放すると同時に、悪想念の垂れ流しを止めようとしているのです。
・もう一つは、真理を知らしめるためです。
私たちは、「本当の自分を知るため」、つまり、「神を知るため」に、生まれてきました。しかし、殆どの人は、この世のことに夢中になり、神を知ろうとしません。知ろうとしないどころか、多くの人が神を否定しています。これでは、この世に生まれた意味がありません。
そこで、どうしても、神に顔を向けない、唯物的な人たちのために、「痴呆症」という病気を用意したのです。
痴呆症という病気は、前述したように、左脳の機能が失われる病気です。左脳の機能が失われると、自我が弱まるため、これまで、頑なに、真理を否定していた人が、素直に、耳を傾けるようになるのです。頭のおかしい人に、真理の話をしても、無駄ではないか?、と思われるかもしれませんが、その反対なのです。
左脳は、物質的なものを重んじる脳です。右脳は、精神的なものを重んじる脳です。左脳の働きが、鈍くなってくると、今まで抑えられていた、右脳の働きが、活発化してくるため、真理の受け入れる土壌が整うのです。
痴呆症になると、徘徊したり、物を集めたり、物を隠したりする、おかしな行動を取るようになりますが、これは、神を求める右脳の働きによるのです。彼らは、神探しを、何かをすることで、紛らわせているのです。紛らわせているわけですから、そんな人に、真理の食べ物を与えれば、むさぼるように食いつくのです。頭がおかしいと思わず、真理を植え付ける絶好のチャンスだと思って、真理の話をしてあげてください。
自我は、聴いていなくても、魂は、しっかりと、聴いているのですから・・・。
このように、痴呆症は、真理に顔を向けさせるための、神の計らいなのです。もし、この計らいがなければ、魂の進化は、相当遅れるでしょう。
どうか、わけの分からない人だと思わず、真理の話をしてあげてください。うつろな瞳の向こうで、魂は、しっかり、聴いているのですから・・・。
2015年3月1日 更新
よく、世の悪を見て、嘆いたり、怒ったり、嫌ったり、する人がおりますが、その人は、自分の中に悪があるから、世の悪が見えて仕方がないのです。自分の中に悪がなければ、世の悪は見えないのです。その証に、赤ちゃんは、泥棒を見ても、笑っているでしょう。それは、赤ちゃんの中に悪がないからです。
私たちは、悪を見せられることで、自分の中にある悪に、気付かされるのです。その意味では、世の悪は、反面教師の役割を果たしているといえるでしょう。
この宇宙は、「真・善・美」によって、整然と運ばれています。整然と運ばれているがゆえに、宇宙は、延々と存続してこられたのです。もし、この法則がなかったら、とっくに、宇宙は、消滅していたことでしょう。
「真・善・美」とは、法則のことです。法則ゆえに、「真・善・美」から離れれば、痛みや、苦しみが、やってくるのです。
私たちが、偽りや、不善や、醜いものを見せられると、嫌な気分になるのは、「真・善・美」から離れれば、痛みや、苦しみが、やってくることを、本能的に知っているからです。
では、どうしたら、悪を見ずにすむのでしょうか?
それは、悪の本質を心の底で知ることです。
この宇宙に、本質的な悪などありません。完全なる神が、悪を創るわけがないからです。 悪は、悪ではなく、善なのです。 悪の本質を知れば、悪は、善に変わってしまうのです。
覚者は、悪の本質を知っているため、悪を見なくなるのです。 悪というのは、善の裏返しなのです。
神の目を持ったら、悪を見なくなるといわれるのは、どんな悪も、善たらしめる悪として、見られるからです。善たらしめる悪は、善なのです。このことを心の底で知れば、悪は、見えなくなるのです。
ですから、悪の体験がないから、悪が見えない、赤ちゃんと、悪の本質を知って、悪が見えない、覚者とは、根本的に違うのです。
世の人々は、苦しみを、悪と見ます。でも、それは、成長のために必要な悪ですから、善なのです。苦しみがなかったら、自分の中にある悪に、気づかないので、成長できないのです。私が、苦しんでいる人を見て、平気でいられるのは、苦しみの背後に、成長があることを知っているからです。このようにいうと、苦しんでいる人は、怒るかもしれませんが、それは、苦しみの本質を知らないからです。
苦しみの中に、成長の種があるのです。苦しみは、人を大きく成長させてくれるのです。また、苦しみは、業(原因)を解消している姿でもあるわけですから、これは、良いことなのです。
私が、殺すより、殺される方が良いというのは、殺されること(結果)で、業(原因)の解消がなされるからです。もし、私が、戦場に、兵士として駆り出されたら、空鉄砲を持って、一番先に殺されに行きます。殺す方より、殺される方が、罪作りをしないですむからです。考えても見てください。罪の上塗りをするのと、罪を解消するのと、どちらが賢い生き方だと思いますか・・・。
世の中には、一生懸命、「業」を無くそうとする人がおりますが、「業」は、罪の上塗りさえしなければ、原因と結果の法則が、自動的に消してくれるのですから、無くす必要がないのです。すべきことは、今の今、良い原因を作ることです。
良い原因を作るとは、「身・口・意」の実践です。
すなわち、良い想いを持ち、良い言葉を口にし、良い行いをすることです。
良い想いの筆頭は、神を想う瞑想です。さらに、ポジティブな想いを持つことです。
悪(苦しみ)は、善たらしめるための悪ですから、嫌わないでください。そのような見方ができれば、人を責めず、世を責めず、運命を責めず、神を責めず、また、自分を責めないですみます。
どうか、世の悪(苦しみ)を嘆かないでください。また、自分の中にある悪を嘆かないでください。
嘆く時間があるなら、身・口・意の実践をすることです。瞑想をすることです。
2015年3月15日 更新
※ 「どうしたら、悪を見ずにすむのでしょうか?」
この質問は、
と同じ質問なのです。
本質は、善であり、完全であり、ガラスであり、元数であり、エネルギーであり、光であり、絶対であり、神でありますから、心の底で本質を知れば、悪も、不完全も、コップも、分数も、物質も、闇も、相対も、人間も、見えなくなるのは、当然なのです。
悪が見えなくなるということは、一しか見えなくなるということですから、一である神の自覚に結びつくのです。
私たちは、今の今にしか生きられないようにできております。人生で足跡を残せるのは、今の今のみなのです。その今を、みなさんは、どのように生きているでしょうか?。殆どの人が、過去を悔い、未来を憂い、今の生事や雑事に生きているのではないでしょうか?。これでは、大切な今を逸してしまいます。
とはいっても、肉体を持っている限り、この世のことを否定するわけにはゆきません。でも、この世のことに生きるにしても、せめて、次のような生き方をして欲しいのです。
このように生きれば、間違いなく、魂を大きくすることができます。ぜひ、意識してやってください。勿論、今の今を神に生きられたら、これ以上、素晴らしい生き方はありませんが・・・。
2015年4月1日 更新
この宇宙には、一つのモノしか有りません。一つのモノしか無いということは、見えるモノも、見えないモノも、その一つのモノであるということです。
見えるモノも有って、見えないモノも有るなら、二つのモノが有ることになり、一つのモノしか無いという真理は、崩れてしまいます。
見えるモノも、見えないモノも、同じ一つのモノなのです。
見えるモノは、見えないモノであり、見えないモノは、見えるモノなのです。見えていても、見えていなくても、それは、同じ一つのモノ・・・ただ、五官で、感じられるか、感じられないかだけの話です。
しかし、実際に有るのは見えないモノです。
なぜなら、見えるモノは、必ず、消えて無くなるからです。ということは、消えて無くなるモノは、幻であるということです。
そもそも、この表現宇宙そのものが、消えて無くなる幻ですから、幻の中に存在するモノが、常在することは、不可能なのです。
この宇宙は、見えないモノがベースになっているのです。見えないモノの中に、見えるモノが浮いているのです。
それは、海の上に氷が浮いているようなものです。氷が融ければ、海に帰るように、見えるモノが融ければ、見えないモノに帰るのです。
それは、見えないモノから生まれた、見えるモノだからです。見えないモノから生まれた、見えるモノは、いつか、必ず、見えないモノに帰るのが定めなのです。
海が、神なのです。 見えないモノが、神なのです。 宇宙が、神なのです。
私たちは、「その海から」、「その見えないモノから」、「その宇宙から」、生まれたのですから、私たちは、間違いなく、神なのです。
だから、私は、堂々と、「私は神である!」と、大宣言するわけです。
私たちが、求めるべきものは、見えるモノではありません。永遠不滅の見えないモノ、すなわち、真実です。
どんなに過去世のことを知ったって、幽界人に会ったって、物質化できたって、UFOに乗ったって、それは、みな、現象ですから、夢を見ているようなものなのです。
私たちは、一日も早く、見えるモノから、抜け出さねばならないのですよ!。
なのに、現象に囚われていては、本末転倒になりかねません。
どうか、真実に、目を向けてください。真実を、探し当ててください。
見えるモノに、時間を使うほど、愚かなことはないのですから・・・。
現象に、時間を使っている人は、死んでいる人です。
神の自覚を得ることに、時間を使っている人は、生きている人です。
そのことを、私は、声を大にしていいたいと思います。
2015年4月15日 更新
殆どの人が、想念を軽んじて使っています。それが、どれほど、自分たちを苦しめているかも知らないで・・・。
この宇宙は、神の完全な想念で創られていますので、本来、この宇宙に、苦しいことが起こるわけがないのです。人間が想念を悪用するから、苦しいことが、起こっているだけです。
次に掲げる悪しきことは、すべて、人類の悪想念が原因で起きているのです。
このように、人類の悪的想念が、個人に、自然に、地球に、悪い影響を与えているのです。
想念は、創造の力です。想念は、何でも作れるし、何でも破壊できるのです。想念ほど、頼もしく、また、恐ろしいものはないのです。
この世の悲劇という悲劇は、すべて、人類の想念が生み出しているのです。だから、正しい想念の管理が問われるのです。
もし、想念を正しく使ったら、上記に書いた、すべての災いは、雲散霧消してしまうでしょう。
想念を正しく使うとは、建設的な思い、積極的な思い、前向きな思い、希望溢れる思い、すなわち、ポジティブな思いを持つことです。
ポジティブな思いの一番は、神の想いです。神を思っている時には、悪いことは、思えません。悪いことを、思わなければ、病気にもならないし、事件や事故にも遭わないのです。これは、原因と結果の法則によるものですから、間違いないのです。
今日から、どんな悪しき話題も、良い話題に変えてしまいましょう。どんな悪い話題も、良く受け取れば、良い話題に変えられるのです。これは、考え方ひとつなのです。
一例として、家族の誰かが、怪我をしたとしましょう。「これは、業が消えている姿だから、良いことなんだよ! あるいは、この怪我のお陰で、注意する事を覚えたのだから、これは、良いことなんだよ!」と、ポジティブに捉えれば、どんな悪しき話題も、良い話題に、変えられるのです。
私たちは、自由意思によって、何でも思えるのです。その自由な思いを、どうぞ、良いことに使ってください。良いことに使えば、幸せになれるのですから・・・。
2015年5月1日 更新
「思い立った時が最良の時である!」というのは、真理であり、とても大切な生き方の一つです。
今、思い立ったのは、必要だから、思い立ったのですから、これは、必然なのです。ですから、すぐに、実行に移せば、良い結果が得られるのです。
思い立ったことを、後回しにすれば、思いを引きずって生きなければなりませんから、今、やっていることも、うまくゆかないのです。
「心残りは良くない!」といわれるのは、心残りなことを抱えていては、目の前のことに集中できないからです。特に、嫌なことを、後回しにすれば、するほど、気になって、目の前のことに集中できなくなります。
思い立った時に、やってしまえば、区切りがつくため、心に、しこりを残さないのです。
さらに、今、やれば、原子核が増えるため、一歩、高い環境に変わるのです。 一歩、高い環境に変われば、一歩、高い体験ができるため、原子核が倍に増えるのです。
後回しにすれば、今の環境の体験しか出来ないため、同じ量しか原子核が増えないのです。
これは、数学の自乗と同じなのです。
億劫がる想いは、サタン(自我・肉我)の思いなのです。
逃げ腰の想いは、サタンの思いなのです。
腰軽な想いは、天使(真我・神我)の思いなのです。
積極的な想いは、天使の思いなのです。
誤解しないで欲しいのは、出来ないことを、今しなさい、と言っているのではありません。今、その場で、今、出来ることをしなさいといっているのです。
思いを残しながら、集中した瞑想などできません。
晴れやかな気分になって、瞑想してください。
腰軽な癖をつければ、気持ちの強い、意志の強い、自分になれます。
どんなことにも負けない、どんなことにも挫けない、強い自分になれます。
ぜひ、腰軽な人になってください。
2015年5月15日 更新
外側の世界を変えようなど、傲慢というものです。なぜなら、外側の世界は、結果次元だからです。結果をいじくりまわしても、絶対、変えることはできないのです。
では、どうすれば良いか、それは、原因を変えることです。つまり、自分の宇宙を変えることです。
外側の世界は、内側の宇宙の反映です。原因宇宙の反映が、結果の世界なのです。
一人一人が、自分の宇宙を変えることで、その反映である外側の世界は、変わるのです。
外側の世界は、川下なのです。内側の宇宙は、川上なのです。川上を綺麗にすれば、黙っていても、川下は、綺麗になるのです。どうか、原因を良くしてください。
あなたが、どんなに、外側の世界を良くしようと、もがいても、自分の宇宙が良くならない限り、外側の世界を良くすることはできないのですから・・・。
今、地球人類は、皆で自分の心を見ているようなものなのです。つまり、自分の心の写し絵を見ているようなものなのです。
自分の宇宙が、ゴチャゴチャだから、地球も、ゴチャゴチャなのです。あなたの宇宙のゴチャゴチャを変えれば、ゴチャゴチャな地球も変わるのです。だから、相手を変えたければ、自分を変えればいいと、私は、いうのです。
よく、人の欠点を指摘する人がおりますが、相手の欠点が気になるのは、自分の中に同じ欠点があるからです。
でも、そのことに、気付かない内は、どうしても、人を責めるのです。人を責めれば、相手からも、責められますから、そこで、はじめて、自分の中に同じ欠点があることを気づくのです。ということは、相手は、自分の欠点を気付かせてくれた恩人だということです。
いつもいうように、この世に偶然というものはないのです。あなたの前に、嫌な人が現れたのは、意味合って現れたのです。その嫌な人は、嫌な人でなく、あなたの中にある嫌な部分を気付かせるために現れた、恩人なのです。その人との出会は、自分の欠点を発見する、絶好の機会なのです。嫌な人を嫌な人で終わらせては、自分に成長はありません。
この宇宙は、完全です。完全宇宙に、偶然は無いのです。人と人との出会いは、すべて、意味合ってなされているのです。その意味を自分の成長に結びつけることです。
人の欠点を見せられるには、見せられる理由が、ちゃんとあるのです。それは、人の欠点を見て、自分の中にある同じ欠点に気付きなさい、という理由です。気付いて、直せば、もう、その欠点は見せられなくなります。
私も、相手の欠点を見せられることがありますが、私は、あまり、気にならないのです。気にならないのは、私にとって、あまり、重要でないからです。
つまり、この世界が、幻だと知れば、この世のことに、拘ることがなくなるため、あまり、この世のことを重要視しなくなるのです。重要視したり、拘ったりするのは、まだ、この世のことが、本当にあると思っているからです。
たしかに、私も、人に、こうして欲しいと願うことはあります。でも、その願いは、希望であり、ぜひ、そうして欲しいという、強いものではないのです。なぜなら、そうしてもらっても、そうしてもらわなくても、どちらでも良いことだからです。
この世は、幻ですから、「ねばならない!」ということは、一つもないのです。そんな幻のことに、目くじらを立てるほど、愚かなことは、ありませんから、私は、拘らないのです。
そのような考えに立てば、人の欠点が見えなくなるのです。たとえ、見えても、気にならなくなるのです。気になるのは、まだ、自分の中に同じ欠点(課題)があるからです。
あなたに、その欠点が無くなれば、相手に、その欠点を見なくなります。ぜひ、人の振り見て、我が振り直してください。人の欠点を捕まえていては、自分の宇宙を汚してしまいます。これは、自分の宇宙にとって、大損です。
外側の世界(相手)を変えようとする暇があるなら、どうか、自分の欠点を直してください。そうすれば、あえて、外側の世界(相手)を変える必要はなくなります。
2015年6月1日 更新
※ みなさんは、とても大事なことを、やっているつもりですが、この世の事は、みな、お遊びなのですよ!。
そんな、お遊び事に、目くじらを立て、悩み、苦しむなど、愚かです。
よく、考えてみてください。この世の何を成しても、残しても、みな、消えてしまう幻なのですよ!
この世は、本当の自分を知るためにあるのです。
この世のどんな事も、自分を知るための方便(手段)です。
その方便に、目くじらを立て、争っているのが、人類なのです。
そんな、方便のために自分の宇宙を汚すくらいなら、そんな、方便は、捨てたら良いのです。方便は、目的ではないのですから、無くなったって、失ったって、痛くも痒くもないのですから・・・。
この世に、真に問題になる問題など、一つもないのです。肉体が無くなったって、地球が無くなったって、それは、みな、幻なのですから・・・。
でも、心は、永遠に無くなりません。永遠に無くならない心を問題にしましょう。
どうか、感情的にならないでください。
そして、方便が大切か?、目的が大切か?、良く考えてみてください・・・。
遊びましょう!。
この世の事は、みな、幻なのですから・・・。
悩み苦しむ価値の無い世界なのですから・・・。
本気にならないでください。
お遊びだと思ってください。
何が無くなろうと、何が起ころうと、どうせ、消えてしまう幻なのですから・・・。
そう思えれば、気楽に生きられます。
もう、目くじらを立てる必要はなくなります。
想念には、偉大な力が秘められています。その想念を有効に使わない手はありません。
では、その想念の有効な使い方を教えましょう。
【1】
自分の心が、不安や、心配や、苦しみに、襲われた時、次のように想ってください。
「私の心が」、平安とやすらぎに満たされますように・・・
「私の心が」、光に満たされますように・・・
【2】
愛する人に、親しい人に、すべての人たちに、次のように愛念を送ってください。
「誰々さんの心が」、平安とやすらぎに満たされますように・・・
「誰々さんの心が」、光で満たされますように・・・
「すべての人たちの心が」、平安とやすらぎに満たされますように・・・
「すべての人たちの心が」、光で満たされますように・・・
【3】
地球に、宇宙に、次のように愛念を送ってください。
「地球が」、光で満たされますように・・・
「宇宙が」、光で満たされますように・・・
想念は実現の母ですから、目には見えなくても、間違いなく、思いは届きます。
どうか、想念を大いに活用してください。
2015年6月15日 更新
エネルギー均衡の法則に支えられている宇宙に、一方通行のアドバイスはありません。アドバイスした人も、アドバイスされた人も、共に学んでいるのです。
こういうことです。
アドバイスしたということは、エネルギーを出したということです。出したエネルギーは、エネルギー均衡の法則に基づいて、必ず、相手から帰ってくるのです。それも、被アドバイス者の思いのこもった、エネルギーが帰ってくるのです。
ですから、意識して受け取れば、被アドバイス者の心情が分かるのです。
オ~イと叫んだ山彦は、向こうの山に、ぶつかって、オ~イと帰ってきます。でも、そのオ~イは、ただのオ~イではないのです。何かを学んで帰ってきた、オ~イなのです。
私が、このようにいうのは、私が、アドバイスしている時、必ず、被アドバイス者から、何かを学んでいるからです。私は、アドバイスしながら、相手の心情(エネルギー)を探り、その心情の動きから、アドバイスするヒントを得ているのです。
だから、私は、快くアドバイスするし、アドバイスされることも嫌わないのです。
エネルギーは、一つです。そのエネルギーは、自分と相手との間を行き来しながら、思いの交換をしているのです。
私が、おしゃべりを否定しないのは、おしゃべりから、何かを学べるからです。ただし、何も受け取らない、おしゃべりは、単なる雑談になってしまいますので、注意が必要です。
言葉のやりとりは、エネルギーのやり取りなのです。出した言葉の中には、必ず、思いのエネルギーが込められているのです。言葉を交わしながら、互いに、相手の思いを汲み取れば、自分も学べるし、相手も学べるのです。
だから、言葉のやりとりは、すべて、アドバイスだというのです。
今日から、話し相手から、何かを学んでください。もしかしたら、相手の欠点から、自分の欠点が、見付けられるかもしれません。あるいは、相手の心の微妙な動きを通して、今まで気付かなかった、自分の良い点が、発見できるかもしれません。
神は、完全です。意味のないことは、成されないのです。意味あって、その人と、お話することになったのですから、そのチャンスを無駄にしないことです。
2015年7月1日 更新
私の本を読んだ人は、自分が神であることは、知識では知ったと思います。
でも、どこまで、神の確信がいっているのかは、疑問です。
単に、頭で知っただけでは、絵に書いたボタモチなのです。
つまり、自分に何の変化が起きなくては、何の意味もないのです。
世間には、「奇跡を見せてくれたら、神を信じる」という人がおりますが、こういう人は、真の信仰者にはなれません。
例えば、物質化現象を見せられ、「この宇宙には、不思議な事がある、やはり、神はいるのか?」と、思ったとしましょう。 その人が、奇術師に、同じ物質化現象を見せられたら、「何だ!、あれは、奇術だったのか!、やはり、神などいないのだ!」と、途端に信仰心が崩れてしまうのです。
現象で築かれた信仰心は、現象で簡単に崩されるのです。現象で築かれた信仰心は、付け焼き刃なのです。だから、私は、現象を嫌うのです。
真の信仰心の持ち主とは、何も見せられても、見せられなくても、揺らがない信仰心を持った人のことです。
渋柿を、焼酎で熟成させたのでは、本当の旨味は、出せないのです。時間を掛け、じっくりと、熟させた柿が、本当の旨味を出すのです。信仰心も、同じなのです。
2015年7月15日 更新
※ 世の奇術者は、意識せず、サタンの手先になっています。どんなに、サイババさんが、ホンモノの物質化現象を見せても、彼らがいる限り、単なる奇術で終わってしまうのです。それが、サタンの付け目なのです。
つまり、真実から大衆の目を逸らすことが、サタンの目的なのです。
サタンが、一番恐れるのは、大衆の眼前で、真実が披露されることです。大衆が神を信じるようになったら、自分達の居場所がなくなってしまうからです。だから、彼らは、必死になって、物質化現象を、ニセモノに見せかけるのです。
この地球では、異質のモノが、一つに溶け合う、合体する、融合することを、同化するといっているようですが、これは、誤りです。
なぜなら、この宇宙に、異質のモノは、あり得ないからです。同じモノ同士だから、同化できるのです。異質のモノは、同化できないのです。
人間は、もともと、生命だから、生命と同化することができるのです。
つまり、人間は、もともと、神だから、神と同化することができるのです。
この宇宙に、異質のモノは、一つもありません。みな、一つの神から出てきた、兄弟姉妹です。形は違っても、その本質は、みな、神なのです。みな、神なるがゆえに、愛し合うことができ、許し合うことができるのです。
私が、大も小も無いというのは、一つしか無いモノは、比べることができないからです。二つのモノがあるならば、比べられるので、大小がありますが、一つのモノしか無いから、比べることができないのです。
意識を、一点に集中してみてください。どんなに、集中しても、一点の中に収まりきれないはずです。
意識を、無限大に拡大してみてください。どんなに、拡大しても、拡大しきれないはずです。
それは、一つのモノしかないからです。
すなわち、一つの意識しか無いから、一点の中に収まりきれないし、無限大に拡大しきれないのです。一つのモノしか無い宇宙は、無限なのです。
無限は、一つである証であり、一つは、無限である証なのです。
だから、唯一の意識を持つ、あなたは、一つであり、無限なのです。
一なるモノは、無限なるモノは、神しかおられませんので、あなたは、神そのものであり、神は、あなた、そのものなのです。
一つのモノが、一つに同化するのです。神が、神に同化するのです。人間が、神に同化するのではありません。一つの神が、一つの神に同化するのです。
このことが、心の底で理解できたら、あなたは、神と同化できるでしょう。
なぜなら、あなたは、もともと、神そのものだからです。
2015年8月1日 更新
私たちは、先に、何かがあるから、認識できると思っていますが、一つの意識しか無い宇宙において、認識に先立って、何かが存在することは、あり得ないのです。
つまり、原因なしに、先に、結果が存在することはないということです。
意識を持っている認識者は、すべての本質であり、原因者です。原因者あっての形です。
今、形が認識できるのは、原因者(認識者)である本質が、形の中に宿って、その形を生み出しているからです。
形の中に、認識者がいなければ、つまり、本質がなければ、認識される形は、生まれないわけですから、当然です。
だから、先に認識者がおり、その認識者が認識することで、形が生み出されるわけです。
認識される形は、認識されて、はじめて、存在できるのですから、認識に先立って、形が存在するわけがないということです。
認識者(原因者)である、皆さんが、いなければ、何も無いというのは、原因者がいなければ、結果である形はあり得ないからです。
認識がすべてを創っている宇宙において、認識されないものは、どんなに、目の前にあっても、無いのです。
例えば、私が、友達に「おおい!」と手を上げても、友達の視線が美人に釘付けになっていたら、その友達にとって、私は、存在していないのです。
でも、今、見ている山が、どうしても、自分が作ったとは思えない、山が先にあって、それを、自分が認識しているとしか思えない。
それは、自分が作った記憶が無いからです。記憶が無いのは、創造主と自分とを別けてしまっているからです。私たちが、創造主の元に帰れば、つまり、創造主と一体になれば、創造したことを思い出すのです。
皆さんが、山を作った覚えがないというのは、まだ、創造主と自分との関係が、理解できていないからです。
でも、理解できなくても、創造主と皆さんが、一つなのは、間違いないのです。
皆さんは、海水の一滴なのです。その一滴が、大海に帰れば、大海そのものになるのです。大海そのものになったら、大海のすべての創造過程が分かるのです。
私たち、分身(海水一滴)は、いつか、必ず、本源である創造主の元に帰るのです。本源である創造主の元に帰ったら、この宇宙のすべての創造過程が分かるのです。
これを、理解するには、原子核を多く集めるしか無いのです。
さあ、社会体験を通して、瞑想を通して、思索を通して、原子核を多く集めましょう。
2015年8月15日 更新
本来、この宇宙には、絶対も、相対も、無いのです。大も、小も、無いのです。有るのは、本当に有るモノだけです。この宇宙で、本当に存在するのは、本当に有るモノだけ・・・。
絶対宇宙は、相対宇宙が有るから有るのです。相対宇宙は、絶対宇宙が有るから有るのです。つまり、絶対宇宙は、相対宇宙が有る時に有り、相対宇宙は、絶対宇宙が有る時に有るのです。
大は、小が有る時に有り、小は、大が有る時に有るのです。
絶対も相対も、大も小も、一つだけでは、有りようがないのです。二つが一つに融合された時、本当の有るモノが生まれるのです。
すなわち、絶対宇宙にも、相対宇宙にも、偏らない、中庸宇宙に留まる意味を知った時、本当に有るモノが生まれるのです。いや、生まれるのではなく、もともと、それしか無かったのです。それだけが有ったのです。
私たちが、相対宇宙で、様々なことを学ぶのは、中庸宇宙に留まる意味を知るためです。
私たちは、すでに、絶対宇宙のことは、知り尽くしているのです。だから、相対宇宙を知り尽くすことで、中庸宇宙に留まる意味を知るのです。
留まる意味を知るとは、中庸宇宙に留まることで、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの中に入ることができる、という意味です。
本来、この宇宙には、神も、人間も、無かったのです。本当に有るモノだけが、永遠の昔より、有ったのです。
でも、それでは、宇宙の存在の意味がないので、宇宙は、人間を創り、その認識を通して、宇宙の永遠性と無限性と完全性と全能性を誇っているのです。
私たちは、神でも、人間でもない、永遠の昔より有った、「本当に有るモノ」だったのです。
2015年9月1日 更新
※「神も、人間も、無かったのです。本当に有るモノだけが、永遠の昔より、有ったのです。」 このようにいうと、神をマントラにしている皆さんは、戸惑うと思いますので、次のように言葉を変えてください。「神も、人間も、無かったのです。中庸の神だけが、永遠の昔より、有ったのです。」
どうか、引き続き、神という言葉をマントラに使ってください。以前よりも、深みの帯びたマントラになるでしょう。
陰陽の法則は、宇宙の根本法則です。しかし、類は類を呼ぶ法則は、表現世界のみ必要な自然の法則で、絶対世界には、不要な法則です。 なぜなら、絶対界には、二つのものが無いからです。
一つしかない世界に、異質のものはあり得ないわけですから、類が類を呼ぶ法則が不要なのは、当然でしょう。
では、類が類を呼ぶ法則のある表現世界で、同性愛は、許されて良いのでしょうか? いいえ、許されません。なぜなら、類は類を呼ぶ法則の背後には、陰陽の根本法則が働いているからです。
光と影は、絶対、切り離せないのです。 物質とエネルギーは、絶対、切り離せないのです。 つまり、男と女は、絶対、切り離してはいけないのです。切り離せば、危険物になるからです。
例えば、酸素は、水素と結びついて、水という安定した状態になっています。アルカリは、酸と結びついて、中性という安定した状態になっています。
陰と陰・陽と陽が、結びついていては、光が生まれないのです。つまり、新しい命が(子供が)誕生しないのです。
陰と陽が、バランス良く結びつくことによって、光が生まれ、新しい命が誕生するのです。離れていては、与えられた役割が果たせないのです。
陰と陰・陽と陽が、結びつくのは、偏りなのです。偏りは、不調和です。大変危険なのです。
類が類を呼ぶ法則は、表現世界の波動の秩序を保つ上では必要ですが、根本的秩序を保つ上では必要ないのです。その意味では、類が類を呼ぶ法則は、あくまでも、陰陽の法則の後に付いてくる、付属的な法則と考えるべきでしょう。
同性愛が許されないのは、このような理由からです。
でも、神は、同性愛も、許しています。なぜ、許しているかといえば、同性愛に偏ることで、痛い目に遭い、真の愛が何かを知るようになるからです。幼い子には、体験が必要なのです。宇宙の理を心の底で知るには、許されないことも、体験する必要がある、ということです。
2015年9月15日 更新
サタンとは、自我のことです。弱い自分のことです。その自我に、やられているかどうか見破るには、自我の特徴を知る必要があります。特徴を知り、見破ることができれば、自我は、コソコソと退散してゆくしかありません。
では、自我は、どのような特徴を持っているのか、考えてみることにしましょう。
書き切れないので、このくらいにしておきますが、自我は、全てにおいて、偏った性質を持っているのです。だから、躁と鬱が交互にやってくるような特徴を見せるのです。
このような、性質が、自分の中にないか、一度、確かめてください。
自我の一番苦手なことは、身体を動かすことです。
私が運動を勧めるのは、自我の一番の弱みを突くためなのです。その弱みを突くことができたならば、他の弱みも、総崩れになってしまうでしょう。
なぜ、彼らは、身体を動かすことが、苦手かといいますと、動かすと原子核が増えるからです。
ですから、サタンの弱みを突きたかったら、運動を始めて下さい。はじめは、軽い運動から、徐々に、強い運動に、最後は、フルマラソンをやるくらいまで、挑戦してみてください。
運動をして、汗をかいた後の、あの、爽やかさ、清々しさ、みなさんも、体験があると思います。汗をかくと、なぜ、爽やかになるかといいますと、老廃物が、汗と共に体外に出るからです。余分な脂肪も燃やします。身体から老廃物が出ると、波動が高くなるので、身体が軽くなるのです。
さらに、運動が良いのは、手足の筋肉が、多く酸素を取り込むため、体内エネルギーが、高くなるからです。酸素は、宇宙エネルギーの一種ですから、酸素を多く取り込めば、エネルギーが高まるのです。エネルギーが高まるということは、光が多くなるということですから、光に弱いサタンは、退散するしかないのです。
運動選手に、心身共に健康な人が多いのは、エネルギーを多く取り入れ、サタンを入れる隙間を与えないからです。
このように、身体を多く動かせば、精神的にも、肉体的にも、健康な人になるのです。今、サタンで苦しんでいる人は、まず、身体を動かすことから始めて下さい。運動が生活の一部になれば、サタンと無縁な人になるでしょう。
最後に、真理の探求をお勧めします。サタンに、やられやすい人は、私の本を読んでください。光のメロディー集を見てください。勉強会の動画を見てください。特に、勉強会の動画は、効果があります。
自我は、本当の自分を知られることが恐ろしいのです。だから、真理の話を聴きに行こうとすると邪魔をするのです。瞑想したくなくなるのも、サタンの仕業です。
サタンは、弱い自分を、様々な方法で誘惑し、真理を求めさせないようにするのです。
繰り返します。
サタンとは、自我のことです。弱い自分のことです。
サタンにやられるのは、自分が弱いからです。
どうか、弱い自分に負けない、強い精神力の持ち主になって下さい。
2015年10月1日 更新
特注・・サタンにやられ、気分が落ち込んだ時には、汗をかくぐらい体を動かしてください。間違いなく、気分が明るくなります。
私は、これまで、この世のことは、五十歩百歩やれば良いと思っていました。ですから、あまり自分の車の洗車をしなかったのです。そのためか、私の車に鳥が糞をしてゆくのです。それも、ますます、ひどくなるのです。
皆さんは、汚いゴミ入れと綺麗なゴミ入れの、どちらに、ゴミを捨てますか。汚いゴミ入れの方ですね。鳥も同じように、汚いものの方に糞をするのです。
私は、この体験から、自然界に審美の目(五十歩百歩のルール)が、あることに気付かされたのです。
では、自然界は、私たちに、どのような、審美の目を持ちなさいといっているのか、今の地球の現状から、探ってみることにしましょう。
今、地球では、空気が汚れ、水が汚れ、土が汚れ、人の心まで汚れています。自然界の審美の目から見たら、これは、明らかに、五十歩百歩のルール違反です。だから、自然災害が増え、戦争やテロなどの争いごとが増え、事件や事故が増え、自殺が増え、病気が増えているのです。
では、自然が望んでいる、審美の目とは、どのような、目なのでしょうか?。
それは、中庸の目です。足ることを知る目です。偏り過ぎない目です。
私たちは、
腹いっぱい食べられたら、それ以上、食べ物はいりません。
寒さをしのげたら、それ以上、着る物はいりません。
大の字になって寝られたら、それ以上、空間はいりません。
これが、自然界が望む、審美の目なのです。
人生の目的は、何んでしょうか?・・・
お金やモノを多く持つことですか?・・・
地位や名誉を得ることですか?・・・
そうではないはずです。
人生の目的は、本当の自分を知ることです。
本当の自分を知るために、沢山のお金やモノはいりません。勿論、地位や名誉も、不要です。
私たちは、お金や、物や、地位や、権力があれば、幸せになると思っていますが、返って、多く持てば、持つほど、不幸せになるだけです。
本当の自分を知るためには、心の穏やかさが必要なのです。
自然界の審美の目は、私たちに、そのことを教えてくれているのです。
2015年10月15日 更新
近年、糖尿病や歯槽膿漏にかかる、猫や犬が多くなっていますが、本来、完全な生命が宿っている、鉱物や、植物や、動物に、そんな病気があるわけがないのです。
ペット病は、人間の悪想念の移入によって起きている、想念病です。
いかに、人間の想念が偉大か、このことからも、分かろうというものです。
想念にして、そうですから、言葉による影響は、さらに、大きいでしょう。
よく、テレビで、「花粉が飛びますので、気をつけてください!」とか、「風邪が流行っていますので、気をつけてください!」とか、言いますが、あれほど、社会に悪害をもたらしている言葉はありません。
その語っている者が、社会的地位が、高ければ、高いほど、社会に与える影響は、大きいのです。
例えば、医者は、この社会で高い地位を占めていますが、もし、その医者が、ネガティブな言葉で、患者に接するとしたら、患者の命を縮めるほどのダメージを与えてしまうのです。よく、"あと、何ヶ月しか生きられません!" などと、死の宣告をする医者がいますが、寿命を握っているのは、医者ではありません。肉体の中に宿っている、生命力です。
人の言葉に惑わされ、自分の心(宇宙)を汚してはなりません。自分の心(宇宙)の管理者は、自分自身です。その自分を信じてください。
自分を信じるとは、自分の想念を信じるという意味です。
想念を正しく使えば、絶対悪いことは起きません。人の言葉に惑わされ、悪想念を持つから、病・事故・事件などの災厄が起きるのです。すべて、自己責任です。
人が、幸不幸を決めるのではありません。人が、人生を決めるのではありません。医者が、寿命を決めるのではありません。すべて、その人の想念が、決めるのです。
どうか、自分の想念力を信じてください。
想念は実現の母です。
良いことを思えば、良いことが・・・悪いことを思えば、悪いことが・・・。
ぜひ、想念を正しく使ってください。
2015年11月1日 更新
大自然を、ご覧なさい! 見事に調和が取れています。それは、全ての自然物の中に生命が生きて働いているからです。その証に、自然界に、病気というものはありません。不調和な人間界にだけ、病気があるのです。
生命は、宇宙をも創造する偉大な力を持っているのです。その偉大な生命が、私たちの肉体の中で生きて働いているのですから、本来、病気になど、なるわけがないのです。
しかし、残念なことに、人間は、心配、恐怖、怒り、憎しみ、恨み、など、様々なネガティブな想いを持ちます。そのネガティブな想いが、肉体細胞の生命力を弱め、病気にしているのです。
さあ、「私の肉体は、生命力に満たされて、光り輝いている!」と思ってください。
「生命力を信じなさい!」
「生命力に任せなさい!」
「生命力に委ねなさい!」
自分で生きようとしないことです。自分で生きようとすれば、どうしても、力んでしまいます。それでは、生命力が働いてくれません。
肉体のことは、生命力に任せましょう。生命力に委ねましょう。所詮、あなたが、生きることなど、できないのですから・・。
そうなのです。肉体のことは、肉体を管理している、生命に、任せてしまえば、良いのです。こんな、気楽な、生き方はありません。
任せる、という意味は、
気を使うのは、「病気にならないだろうか?」と、心配しているからです。それでは、病気を掴んでいるようなものですから、かえって、病気になるのです。
肉体のことを、色々考えるのは、自分で生きようとしているからです。そんな、生き方をしている限り、生命力は働いてくれません。生命は、こう言うでしょう。「そんなに、私が信じられないなら、自分で勝手に生きてください!」と・・・生命は、気を悪くしてしまうかもしれませんよ!・・・。
今日まで、無事に生きてこられたのは、生命が、肉体を、維持・管理・運営していたからです。あなたが、生きていたわけではないのです。
さあ、今日、ただ今から、肉体のことを考えないようにしましょう。肉体のことは、生命に任せましょう。その代わり、良い想念を持つようにしましょう。
良い想念の一番は、神です。神の想いは、思いの中でも最高級品です。
ぜひ、神を思うようにしましょう。
2015年11月15日 更新
どんなに、人を口で諭しても、諭されるものではありません。
また、自分も、人から諭されるものではありません。
体験のみが、人を諭してくれるのです。
その体験内容は、糾える縄のように、すべて裏返しです。
例えば、
“ 私は、そんなことをした覚えはない!”と、言われるかもしれませんが、それは、過去世の記憶が無いからです。
エネルギー均衡の法則で、支配されている宇宙に、一方通行というものはないのです。エネルギーを出したから、必ず、エネルギーが帰ってくるのです。それも、同じ強さの同質のエネルギーが帰ってくるのです。
ですから、今、自分を苦しめている人は、過去世の自分を見ていると、思ったらいいでしょう。
神が考えられた進化の歩みは、すべて、相対的体験を通して、行われるようになっています。光は、光だけでは、進化できないのです。幸せは、幸せだけでは、進化できないのです。闇を体験して、苦しい体験をして、進化するのです。
ですから、今、苦しいからといって、自暴自棄になってはなりません。進化のために、必要な苦しみだと、良く受け取ってください。
一本の縄では、強いワラジは、できないのです。二本の縄を、交互に編むことによって、強いワラジが、できるのです。
つまり、裏返しの体験を交互にすることによって、中庸の強い自分に成長するのです。
私たちが、男と女を、交互に体験するのも、中庸の自分に成長するためです。
だから、私たちは、過去世において、男と女の体験を交互にしてきたのです。今、女性の方は、前生、男だったと、思ったら良いでしょう。今、男性の方は、前生、女だったと、思ったら良いでしょう。これは、90パーセント以上の確率で、間違いありません。
ただし、何らかの理由で、学びきれない場合は、同性を、二度、三度、体験することもあります。
世の中には、性同一障害という心の病がありますが、その人は、同性を続けて、二度、三度、体験することによって、形は、男(女)でありながら、女(男)のような心を持つようになるのです。これは、慣性の法則が働くためで、何も不思議なことではありません。
同性愛も、同じです。同性が、二度、三度、続くことで、同性を愛する異常な心が生まれるのです。
このような、心の病が増えているのは、物質文明が末期に近づいている証なのです。
なぜなら、物質文明は、同性愛と同じ偏りから生まれているからです。
人類は、一日も早く、そのことに、気づかねばならないでしょう。
2015年12月1日 更新
過去、どう生きたかが大切なのではなく、今、どう生きるかが大切なのです。
今、どう生きるかとは、今を真実に生きるという意味です。
今を真実に生きれば、過去の失敗は、失敗で無くなるのです。いや、失敗どころか、成功になるのです。
なぜなら、今、真実に生きられるようになったのは、過去の失敗から学んだからです。
反対に、今の今を真実に生きていない人は、過去、どんなに成功だと思っていても、失敗になるのです。
なぜなら、今、真実に生きられないのは、過去で学んでいなかったからです。学びのない過去は、失敗なのです。
でも、その失敗も、失敗ではないのです。失敗から、必ず、学ぶからです。
だから、「失敗は、成功のもと」と言われるのです。
完全は、成功からは生まれないのです。失敗から生まれるのです。
神が創られた完全宇宙に、失敗などあるわけがないのです。
何事も、ポジティブに考えてください。
きっと、やる気が、湧いてくるでしょう。
2015年12月15日 更新