歩いてみなければ、その道がどんな険しい道か?、どんな素敵な道か?、どこに続いている道なのか?、分かりません。だから、考えるよりまずは歩いてみることです。
たしかに、知らない道を行くのは勇気がいるものです。でも勇気を持って歩めば、道の怖さも、楽しさも、分かるでしょう。その者は、後から来る者のために道標を残してやることができます。
先駆者は大変ですが、面白味もあるのです。さあ、勇気を持って未知の道に挑戦しましょう。
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人生に偶然は一つもありません。必ず筋書きがあり意味があります。それも、あなたの成長に必要な意味のある筋書きです。だから、案ずること無く進めば良いのです。ただし、この筋書きは、一直線にはできておりません。こんな道を歩いて 一体 何になるのだろう?、と思うような意味の分からない道を歩まされることも しばしばあるのです。だから、どうしても疑ってしまうのです。
私達が人生に迷うのは、神の書かれた筋書きが見えないからです。でも見えないからといって、あなたに筋書きが書けますか?。書いたとしても、せいぜい自我を満足させるような筋書きでしょう。しかし、神は、それさえも折込み済みで正しい筋書きを書いてくれているのです。さあ、神が書かれた筋書きを信じて進みましょう。信じて進めば、必ず意味の分かる時がやってきます。あなたは、その時、目を輝かせ神に感謝できるでしょう。
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「火のない所に煙は立たぬ」といわれるように、原因の無いところに結果は生まれません。事の起こりの背後には、必ず原因があるのです。だから、私達は結果を見て、原因を修正することができるのです。この世が相対的に出来ているのは、一方を探って一方を知ることができるからで、これは神のご慈悲の何ものでも無いのです。
人間は頭を叩かれなくては、過ちに気付かないのです。結果が苦しくなければ、原因を追及しようと思わないのです。ですから、この世には、様々な苦しみや悲しみが結果として用意されているのです。でも、これは神の慈悲の表れであって、決して私達をいじめるためではありません。神は私達に気付いてもらいたいのです。悔い改めてもらいたいのです。
たとえば、今日あなたに災難が降ってきたとします。その時、あなたは腹を立てて人のせいにするのか?、それとも、自分の中に原因を探そうとするのか?、もし、前者なら、あなたは再び同じ痛い目に会うでしょう。後者なら、もう、そのような痛い目に会うことは無いでしょう。さあ、あなたはどちらでしょうか?。
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因果関係を確かめる方法はありません。なぜなら、因果の絡みつきは、途方もなく深遠で掴みどころのないものだからです。だから、人間は因果の法則を無視しようとするのでしょうが、それでは、いつまでたっても苦しみから逃れることはできません。人間がどう思おうが、因果の法則に齟齬はないのです。だから、 "信じなさい!"、といったのでは身も蓋もありませんので、私は一つの提案をしたいと思います。それは科学的に因果の法則を検証することです。
科学的検証とは、統計を取ることです。「このような原因に対して、このような結果が生まれる」、という統計を数百年間に渡って取り、因果関係の正しさを立証するのです。百パーセントまでとはいかなくても、私達の理性を納得させるだけの数字は掴めるはずです。もし、立証されたら、理屈をいわず素直に従うことです。それが賢い人間のすることです。
人類はこれまで、このような統計を取ったことも検証したこともありません。やりもしないで因果の法則を無視するなど、万物の霊長のやる所業ではありません。ぜひ、国を挙げて、いや、世界を挙げて取り組んでほしいと思います。もし、立証できたら、法則に逆らう者は一人もいなくなるでしょうから、黙っていても世界は平和になるでしょう。軍備を増強し平和を維持するより、この方がどれほど確実な平和を手にすることができるか・・・、人類は もう そろそろ 大人になって良いころです。
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人生には生老病死という四苦がつきまといます。私達はその四苦を忌み嫌いますが、もし、四苦が無かったら、私達は道を外さず歩くことができるでしょうか?。生きる苦しみも、老いる苦しみも、病む苦しみも、死ぬ苦しみも、道から逸れないために用意された予防灯のようなものです。もし、この予防灯の一つでも欠けたら、私達は恐らく迷子になってしまうでしょう。
四苦は灯台の明りのようなものです。神は夜道をさ迷わないよう、私達に四つの明りを用意してくれているのです。今は明りの意味が分からないかも知れませんが、いつか、その意味の有り難さに感謝できる時が来るでしょう。
私はその感謝した一人です。この年になって、明かりの意味を知ると同時に、神の愛の深さも知ったのです。その有り難さは、言葉でいい表すことはできません。ただただ、神に頭を垂れるだけです。
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世間には、人の世話をし、法事があれば積極的に手伝いし、町内会の役員も率先してする、いわゆる善人といわれる人達が沢山おります。でも、どんなに良いことをしても、自分が人間だと思っている限り、決して天国に入ることはできないのです。なぜなら、人間と思っている限り、人間以上の波動が出せないからです。この宇宙は科学的に出来ているので、何よりも法則が優先するのです。だから、どんなに神の名を呼んでも、どんなに讃美歌を歌っても、どんなにお経を唱えても、法則の働きを曲げるわけにはゆかないのです。
天国は精妙な波動の世界ですから、鈍重な波動を持っている限り天国に入ることができないのです。天国に入りたければ、人間の波動を神の波動まで(生命の波動まで)上げるしかないのです。人の称賛が天国に入れるのでも、信心深さが天国に入れるのでも、人の徳が天国に入れるのでもありません。意識の高さが、波動の高さが、天国に入れるのです。
この世で何を成さなくても、意識を高めれば間違いなく法則は天国に連れて行ってくれます。法則は絶対嘘をつきません。だから、瞑想して下さい!、と私はいうのです。
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"主よ!、主よ!"と神の名を口にしながら殺し合っている者がおります。
"ジハードだ!、聖戦だ!"と叫びロケット弾を打ち合っている者がおります。
"神は偉大なり!"と呼びながら自爆テロを起こしている者がおります。
そんな姿を見て、神様がお喜びになると思いますか?。あなたのお父さんやお母さんが、我が子の喧嘩し合っている姿を見て喜ぶと思いますか?。悲しんでいるのではありませんか?。お父さんやお母さんが仲良くすることを願っているように、神様も仲良くすることを願っているのです。
旧約聖書にも謳われているではありませんか。
「目には目を歯には歯を」と・・・。”やられたらやり返しなさい!”、といっているのではありません。”自分が受けた同じ苦しみを、人に与えてはならない!”、といっているのです。
イエス様だっていっているではありませんか?、
「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい!」と・・・。"どんなことをされても許しなさい!、決して報復してはなりませんよ!"、とイエス様は、いっているのです。
暴力で物事が解決したことなど、ただの一度もありません。闘争はどこまでも闘争です。「相手を痛めつけることは己を痛めつけることである!」、という因果の法則を思い出して下さい。
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どの宗教も、ただ信じなさいというだけで、人を変えようとしません。人を変えない宗教は、本物とはいえないのです。難しい文言を暗記させたり、唱和させたりする教えで、どうして人を変えられましょうか?。増上慢を作るだけです。
お釈迦様もイエス様も、子供にも分かる易しい説き方をしたのですよ。それを今のような難しい学問宗教にしたのは、自分達の地位を守ろうとする坊さん達や牧師さん達ではありませんか?。だから、私は、そのような難しい経典で固めた宗教を否定するのです。
宗教大学を出た人は悟った人なのですか?。難しい経典を学んだ人は悟った人なのですか?。宗教は学問では無いのです。知識では無いのです。お釈迦様もイエス様も、どこの学校も出ていないし、誰にも教わっていないです。
また、儀式で固めた宗教も、正しい宗教とはいえません。今の宗教家の殆どは、儀式と祭事の上に胡座をかいて生活している職業人です。職業化している宗教で、どうして人を救え(変え)ましょうか?。
人を救いたいなら、まず自分が救われていなければなりません。自分が救われてもいないのに、人を救おうなど傲慢というものです。
自分を救った者のみが、人を変え、人を救うことができるのです。だから、まずは自分からです。
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真の宗教は、宇宙の仕組み(法則)を深く理解させるものでなくてはなりません。また、真の宗教は、本当の自分が何なのか自覚させるものでなくてはなりません。だから、信仰の深さとは、理解力の深さや自覚の深さのことをいうのです。お経を読んだり、手を合わせたり、儀式をしたり、そんなことをしても何の意味もありません。宗教は、一人ひとりの意識の問題なのです。
さらに、真の宗教は、他力による大乗仏教では無く、自力による小乗仏教でなくてはなりません。自分は何もしなくても、同じ船に乗っていたら(同じ宗教に入っていたら)彼岸に連れて行ってくれる、というような甘いものでは無いのです。あくまでも自分の足で歩き、彼岸に到達すべきものです。
不思議なもので、宗教に入り同じ仲間になると、なんとなく安心感を生むものです。"みんなで渡れば怖くない"、といった集団心理が働くからでしょうが、その仲間意識が異教徒を排斥するようになるのです。これが宗教戦争の始まりです。ナショナリズムが恐ろしいのは、同じような心理状態が働くからです。だから、ホンモノの覚者は、決して「会や宗教団体」を作らないのです。
会や宗教に入らなくては悟れないということは、絶対ありません。なぜなら、悟りは自分の心(意識状態)の中の出来事だからです。真実は外側にあるのでは無く、自分の心の中にあることを知って下さい。
広い意味では、一人の悟りは全体の進化を押し上げることになるので、小乗仏教は大乗仏教でもある。
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「生長の家」という宗教団体がありますが、そこの経典を読んで病が癒された人がおります。なぜ、そのようなことが起きるかといいますと、もともと私達は何ものにも冒されない生命だからです。その経典に書かれてある文言は、一時的に生命の自覚を高める働きをしたのです。経典が病を癒したのでは無く、経典を読み生命の自覚を持った自分が、病気を退散させたのです。
このように生命の確信が深まれば、肉体的な変化が起きてくるのです。ただし、この確信も揺らげば人間に戻ってしまいますので病気は再発します。一時、そのような意識状態になっただけで、魂が目覚めたわけではありませんから、一時的な現象で終わってしまうのです。
心の底から生命の自覚のできた者は、もう、病気になることはありません。経典の文言で一時、そのような境地になるのでは無く、自力で、そのような境地になれるように意識を高めて下さい。その境地に導いてくれるのが瞑想です。その境地に至った人は、もう外側からの援助は一切必要なくなるでしょう。
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魂の大小は、学びの後先に関係ありません。なぜなら、求道は永遠に続けられているものだからです。当然、性別、年齢、職業、頭の良し悪し、人種、国籍、なども関係ありません。しかし、多くの人は、学びを錯覚して捕らえています。
坊さんや牧師さんの中には、
このように信仰は、いつの間にか自尊心を満足させる変形した姿に変わってしまったのです。
信仰の深さを示すのは、あくまでも理解力と自覚の深さです。いかに宇宙の仕組みを知り得たか?、本当の自分を知り得たか?、それも、心の底で知り得たか?、それに尽きるのです。
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人間には、花子だとか、太郎だとか、次郎だとか、名前がつけられていますが、これは形を区別するために付けられた、単なる固有名詞にしか過ぎません。形の違う物には、その形にしかできない使命があるため、同じ名前で呼び合っては役割が果たせないので、神は人間に固有の名詞を付けさせたのです。でも、これが大きな落とし穴になっているのです。つまり、人間は名前に惑わされ、あたかも名前が実在するかのような錯覚に陥ってしまったのです。本当は生命なのに、花子だとか太郎だとか呼び合う内に、本当にその人物が実在しているかのような、錯覚に陥ってしまったわけです。
コップとは、コップの形をしたガラスという本質です。人間とは、人間の形をした生命という本質です。どちらも、実際にあるのは本質であって、名前ではありません。コップもビンも水差しも、同じ本質であるガラスから生まれたように、花子も太郎も次郎も、同じ本質である生命から生まれたのです。
ガラスがコップに移行しただけです。生命が人間に移行しただけです。どちらも、横滑りしただけで、そこにあるのは名前では無く、生命という本質です。だから、私は、人間は実在しないというのです。
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