世間には苦しみを少しでも無くしたくて、人に同情を買ってもらおうとする人がおりますが、そんなことをしたって苦しみは無くなるものではありません。なぜなら、苦しみは誰が作ったものでも無く、自分が作ったものだからです。
苦しみは、自分のネクラな心が作った自作です。自分が作った苦しみなら、自分で取り除くしかないではありませんか?。人を頼るのはよしましょう!。そんな暇があるなら、ネクラな性格を直す努力をすることです。
いつも明るく朗らかに、どんなことも良く受け取り、決して悪く考えないことです。明るいところには、蝶や蜂が飛び、暗いところには、蚊やゴキブリが寄ってくるのです。さあ、プラス思考で生きましょう。
気持ちの落ち込んだ時、この言葉を思い出して下さい。きっと明るくなれるでしょう。
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この世の中には自殺者がごまんとおります。投身自殺者や、ガス自殺者や、首つり自殺者だけをいっているのではありません。病気で死ぬ人も、戦争で死ぬ人も、交通事故で死ぬ人も、事件や事故で死ぬ人も、自然災害で死ぬ人も、みな自殺者なのです。なぜなら、横死はみな自殺だからです。(自然災害も人災です。)
個人の欲望が個人を追いつめ、個人を殺しているのです。社会の欲望が社会を追いつめ、社会を殺しているのです。病気も、戦争も、交通事故も、事件や事故も、自然災害も、みな人の欲望がもたらした自殺であることに気付かない限り、いつまでたっても地球に平穏な日はやってこないでしょう。
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遠い昔より、自殺は重罪であるといわれてきましたが、なぜ自殺はそれほど罪が重いのでしょうか?。
それは、次のような理由からです。
このように、自殺ほど重い罪は無いのです。
ちなみに、重罪のベスト・スリーは、1に自殺、2に他殺、3に人を陥れる行為です。
-336-
私達はサタンを目の敵にしますが、サタンがいなかったら私達は強くなれたでしょうか?。温室育ちの花は弱々しいものです。私達もサタンのいない温室で育ったら、決して強くなれなかったでしょう。サタンを悪にするのも善にするのも、考え方次第なのです。
たとえば、
「サタンは、私を強くするために意地悪してくれている。有り難いことだ!」、と思えば味方にできるでしょう。
反対に、
「サタンは、私をいじめる嫌な奴だ!」、と思えば敵に回してしまうでしょう。
悪は善の裏返しです。悪口をいう隣人も、嫉妬深い妻も、口答えする子供達も、口うるさい上司も、罵声を浴びせる隣国も、台風も、地震も、みな自分を鍛えてくれる味方です。どんな苦しみも、どんな悲しみも、どんな不幸も、感謝に置き換えられた時、あなたからサタンが去っているでしょう。
サタンは、自分の弱い心に住んでいる自分自身です。でもそこには、天使も住んでいるのです。サタンを住まわすか天使を住まわすかは、考え方 一つだということです。光と闇の関係は、そういったものなのです。
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私達は、外側に自分のためになる何かがあると考えます。だから、外に出て、色々な人と関係を結んでは何かを頂いて帰ります。その頂いた何かが自分を苦しめているとも知らないで・・・。
そうなのです。
外側の物はすべて消えて無くなる幻(非真実)です。でも、殆どの人はそのことを知らず、また、知ろうともせず、日々、外側から苦悩の材料を貰っては苦しんでいます。
でも、いつか必ず気付きます。気付いた人は外側との関係を断ち、内側から喜びを享受するようになります。瞑想を多くする人は、それに気付いた人達です。
雑念を持つな!、無駄口を叩くな!、余計な情報をもらうな!、と覚者が口癖のようにいうのは、外から雑念を持ち込み、自分の世界に苦悩を作ってはならないという意味なのです。
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日々、悲惨な事件や事故が新聞紙上をにぎわしています。なぜ神はサタンの横暴を、こうも許しているのでしょうか?。本当に神がいるなら、こんな横暴を許すはずがないのに・・・と思うのも無理はありません。しかし、決して神を恨んではなりません。
神がサタンの横暴を許しているのは、サタンが成長剤の役割を果たしてくれているからです。もし、サタンの抵抗が無かったら、私達はおそらくここまで強くなれなかったでしょう。
今の強い自分があるのは、一重にサタンのお蔭であると心から思えたら、気持ちもズーッとズーッと楽になるでしょう。
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私達は言葉の受け取り方一つで、不幸にも幸せにもなれるのです。たとえば、「もう六割も進んだからもうすぐ終わる、」と思えば嬉しくなるでしょう。「まだ六割しか進んでいないからまだ終わらない!、」と思えば苦しくなるでしょう。"もう" と思うか "まだ" と思うかで、気持ちの中に天と地の開きができるのです。
最近、ブログで中傷され自殺する人まで出てきましたが、確かに中傷する方も悪いのですが、受け取る方も悪いのです。どんな中傷も、良く受け取れば傷付くことはないのです。悪く受け取るから傷付くのです。それは、おいしそうな料理に誘われ食べ、腹を壊しているようなものです。食べなければ腹を壊すことは無いのですから、食べないことです。食べないとは、無視すること、相手にしないこと、もし相手にするなら、これは自分を強くしてくれる味方だと思って感謝することです。そうすれば、どんな食べ物も自分の栄養となってくれるはずです。
どんなことにも裏と表があるものですが、そこに善悪のレッテルは貼ってありません。「どう受け取るか」で、善にも悪にもなるだけです。つまりネガティブに受け取れば悪となり、ポジティブに受け取れば善になるだけです。
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今どこかに不幸があっても、一人でも光を放つ人がいれば、不幸は軽減されているのです。なぜなら、光は闇を駆逐する力を持っているからです。だから、私はできるだけ瞑想し、光を放つよう心掛けているのです。
今地球では、闇の想念が強烈に働いています。それは、闇人間の方が圧倒的に多いからです。このままだと地球は、闇に埋もれてしまうかも知れません。では闇に埋もれさせないためには、どうすれば良いでしょうか?。それは、光の戦士を一人でも多く作ることです。今このメッセージを読んでいるあなたは、その資格を持つ一人です。どうか光の戦士の一人になって下さい。
どこかに戦いに行きなさい!、といっているのではありません。戦場はあなたの心の中です。瞑想はその武器です。あなたが神を思う時、あなたの体から強烈な光の弾丸が発射されます。その光の弾丸が、闇を蹴散らしてくれるのです。
さあ、瞑想し光を放ちましょう!。光人間になりましょう!。それは、どんなボランティアよりも貢献できるものなのです。
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私達は自由意志を持っています。思うことは自由なのです。しかし、思うことは自由であっても、一度に二つの思いを持つことはできません。できないがゆえに、災いでもあり幸いでもあるのです。
たとえば、思いがサタンに向いている時は、神の入る隙間がありません。反対に神に向いている時は、サタンの入る隙間が無いのです。ですから、私達が救われるのは、神に思いが向いている時です。
今、多くの人が物に溺れています。彼らの心は、サタンで一杯なのです。そんな人達を救うことは絶対できません。彼らが痛い目にあって、物から心がそれた時が手を差し伸ばすチャンスです。それまでジッと待つしかないのです。
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世の母親は、何かというと子供のことを心配します。
また、テレビでアナウンサーがこういいます。
大きなお世話だ!、と私はいいたいです。
思うことは欲することです。想念は物事を成就させる力を持っているのです。その力を、どうしてネガティブに使うのでしょうか?。あたかも、そうなって欲しいと願っているようなものでは無いでしょうか?。
世の人々は、心配してあげることが良いことだと思っています。また、心配される方もそれを望んでいます。でも、これすべて慈悲魔です。偽善です。甘えです。それも悪い結果をもたらす呪いの思いです。
あなたの何気ない思いの一つ一つ、言葉の一つ一つが、自分に、世の人々に、絶大なる影響を与えていることを知って下さい。
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世の中には、言葉で招いている災いがごまんとあります。たとえば、テレビ・コマーシャルで流される、ガン検査の勧め、生命保険や災害保険の勧め、交通事故防止の宣伝、薬の宣伝、医療に関する宣伝等々・・・、また、事件・事故・自殺・災害・戦争などの報道もその一つです。宣伝する方も聴いている方も、良いイメージを持っていると思いますか?。どちらも心に暗い影を落としているのですよ!・・・。良い情報ばかり発信するなら、マスメディアは世の救世主となれるかも知れませんが、残念ながら圧倒的に悪い情報の方が多いのです。
マスメディアが発達したせいで、どれほど世が乱れたことでしょう?。携帯電話やインターネットなどの悪用による情報被害の増大は、それを証明しているのではないでしょうか?。今や地球の周りは悪想念で一杯です。このまま進めば、地球は悪想念で破壊されてしまうでしょう。
情報の取り扱いがいかに大切か、真剣に考える時期に来ているのではないでしょうか?。
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ある女子レスラーがこんな話をしていました。
戦いの終盤に差し掛かった時のこと、"こちらから積極的に攻め込もうか?。でも、反対に返されたらどうしよう?。今、同点である。一点取られたら挽回できない!"そう思った瞬間、相手に攻め込まれ負けてしまったというのです。
こんな話も聞きます。
マラソンで一番苦しい時、落ちてくる選手を一人一人拾ってゆくうちに、いつの間にか先頭に躍り出ていたという話し・・・。先の話は消極が足を引っ張った話し、後の話は希望が力を与えた話です。なぜ、こうなるかといいますと、消極は闇を呼び、希望は光を呼ぶからです。これは日常生活あらゆるところで見られる現象です。
たとえば、
このようにポジティブは光を呼び、ネガティブは闇を呼ぶのです。ならば、ポジティブな思いを持とうではありませんか。思うに一円のお金もかからないのですから・・・。
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宇宙は対になり完全を演出しています。たとえば、陰と陽が対になって完全を演出しています。物質と霊が対になって完全を演出しています。闇と光が対になって完全を演出しています。一方は不完全に見え、一方は完全に見えます。でも、不完全は完全の一部なのです。
私達がこの世に生まれてくるのは、闇を体験して光を発見するためです。光だけでは光を知ることができません。闇と見比べ、引き比べ、相対させ、何が正しく 何が正しくないか知るのです。
あなたは、自分が美人かブスかどうして判断しますか?。足が遅いか速いかどうして判断しますか?。誰かと比べ判断するのではありませんか?。
このように光と闇の関係は、私達の成長を促す格好の舞台作りをしているのです。
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馬券が空中に舞い、最終レースが終わりました。しょぼくれた顔をして帰途につく私に、真我の私が囁きかけます。
「お前は何と馬鹿な奴なんだ!、確率からいっても、勝てるわけないじゃないか!。もう止めろ!。」と・・・。
"そうだ、なんて俺は馬鹿な奴だ、もう競馬は止めよう!"私はそう思い、くしゃくしゃになった予想誌をゴミ箱の中に放り投げます。競馬場の出口に差し掛かったところで、明日の予想誌が目に入ります。
「今日は付きが無かっただけだ、明日は絶対勝てるさ!」とサタン(偽我の私)が囁きかけます。
"そうだ、今日は付きが無かっただけだ。明日はきっと勝てるさ!"私はサタンの誘惑に負け、フラフラと予想誌を買いに行こうとします。
「止めろ!。まだ懲りないのか!。なんてお前は馬鹿なんだ!」と、真我の私が止めにかかります。
「いや、明日は絶対勝てるさ!」
「よせ、止めろ!」
サタンと真我との戦いが心の中で始まります。
ハルマゲドンは、いつかやってくるのではありません。私達の日々の思いそのものがハルマゲドンなのです。つまり、ホンモノの私と、ニセモノの私との戦いです。私達は日々戦いの最中にいるのです。
肉欲に打ち勝つ戦い、金銭欲に打ち勝つ戦い、名誉欲に打ち勝つ戦い、感情に打ち勝つ戦いなど、いかにニセモノの自分に打ち勝つかが、ハルマゲドンの戦いのカギになっているのです。
決してニセモノの自分に負けてはなりません。負けた日は、二十四万円 損したと思って下さい。勝った日は、二十四万円 得したと思って下さい。さあ、今日から思いの収支簿をつけましょう。ぜひ黒字にして下さい。
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本来、この宇宙に病気などというものはありません。神が造られた完全な宇宙に、そんな不完全なものがあるわけがないからです。病気を作っているのは人間です。自分で病気を作り、自分で苦しんでいるのが人間なのです。
自分で病気を作っているという意味は、自分で陰と陽のバランスを崩し、エネルギーを低下させているという意味です。鉱物や植物や動物は、自然の法則に逆らわず、陽(生命・エネルギー)に生きていますから、陰陽のバランスが取れ健全ですが、人間は、陰(物質・肉体)に偏った生き方をしていますから、どうしても病気になりやすいのです。なぜ、物質に偏ると病気になりやすいかといいますと、物質はエネルギーが低いからです。物質文明が栄えると病気が栄えるのはそのためです。
病気になりたくなかったら、エネルギーを高めて下さい。エネルギーを高める一番簡単な方法は、
「吾生命なり!、吾神なり!」或いは「嬉しい!、楽しい!、有り難い!」と想うことです。生命の想い、神の想い、明るい想い、建設的な想い、前向きな想い、希望溢れる想いは、間違い無くエネルギーを高めてくれます。病人は何もすることが無いのですから、いくらでも思うことができるはずです。
病気は自分のネガティブな思いが作ったのです。自分が作ったのですから、自分で治すしか無いのです。医者や薬が病気を治したことなど、未だかって一度もないのです。病気を治すのは、自分の中にある自己治癒力です。自己治癒力を回復させれば、薬も医者も要らないのです。といっても、今、痛みや苦しみに喘いでいる人に、明るい思いを持ちなさいといっても持てないでしょうから、一時、痛みや苦しみを取る治療は必要でしょう。医者や薬が必要なのはそのためです。
明るい思いが持てるくらい体が楽になったら、私の勧める方法を試してみて下さい。騙されたと思ってやってみて下さい。ただ、一日や二日やっても効果はありません。治るまでやり続けることです。
暗い思いはサタンの思いです。明るい思いは天使の思いです。さあ、天使の思いでサタンの思いを打ち消して下さい。決して、暗い思い、不安な思い、絶望的な思い、に負けないことです。
繰り返します。
「嬉しい!、楽しい!、有り難い!」と想い続けて下さい。明るく元気になる想いなら、どんな想いでも構いません。ドンドン明るい想いを打ち込んで下さい。明るい想いは光を呼びエネルギーを高めますので、間違いなくあなたを助けます。もし「嬉しい!、楽しい!、有り難い!」の想いに、「吾生命なり!、吾神なり!」の想いがプラス出来たら最高です。
一番大切なことは続けること、強気、やる気、根気です。「継続は力なり!」です。ぜひやってみて下さい。
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世の中には、何につけ反対する人がいますが、その人はその場の波動を極端に落としております。反対、否定、批判、これ すべてサタンの武器です。もし、声高に反対したり批判したりする人がいたら、あなたはその場から立ち退いて下さい。わざわざそこにいて、低い波動に犯されることはありません。もし、どうしてもいなければならない場合は、希望の言葉を投げかけその場の波動を高めてやって下さい。そうすれば場の雰囲気も変わり、正しい意見の交換ができるようになるでしょう。
世の人々は、余りにも言葉を無頓着に使いすぎます。"言葉は神なりき!"といって、言葉は神のものなのです。神しか言葉は使えないのです。なぜ「喉仏」というと思いますか?。仏(神)の思いを音声に変える所が喉仏だからです。それほど喉仏は、神聖な場所なのです。火葬場で喉仏を大切に扱うのは、そのためです。しかし、人間は、言葉がどこからきているか知りません。だから、簡単にサタンの餌食になるのです。
神は決して否定的な言葉は使いません。神は肯定的な言葉、明るい言葉、希望溢れる言葉を使います。否定的な言葉、気の沈むような言葉、絶望的な言葉、やる気をなくすような言葉、怒りを強めるような言葉を使う人は、サタンにやられていると思って間違いありません。その人の口から出てくる言葉は、支離滅裂で論理が整然としていないはずです。現代社会でサタンにやられていない人は殆どいないでしょうが、意識して注意していれば逃れることができるのです。
次のような想いになった時は、自我が活発化しサタンが騒いでいると思って間違い無いでしょう。
否定的な言葉を話す人は闇を呼ぶサタンです。肯定的な言葉を話す人は光を呼ぶ天使です。ぜひ、光を呼ぶ天使になって下さい。
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よく、神の声を聴いたとか、神からの啓示をうけたとかいう人がおりますが、神の声は聴こえるものではありません。内側から自分の思いとなって、フツフツと涌き上がってくるのが神の声(真我の声)です。外側から聴こえてくるのは、すべて低級な迷った幽界人の仕業です。
たしかに、声なき声としてはっきりと聴こえます。私も以前、何度もこの声に惑わされたことがありました。たとえば、こんなことがありました。
"今日ガス会社の人が来るから雪かきをしておきなさい!"、という声が聴こえてきたのです。本当に来るのか?、と疑いながらも、いわれた通り雪かきしておくと、本当にその日ガス会社の人が来たのです。
邪悪な幽界人のいうことは良く当たるのです。だから神の声だと勘違いしてしまうわけですが、神は普遍的・宇宙的なことを啓示するのであって、個人的なことを啓示することは絶対ありません。
また神は、"こうしなさい! ああしなさい!"、といった命令口調で語ることもありません。"人を殺せ!" とか "ここから飛び降りろ!"といった命令口調の声は、みな迷った幽界人の仕業ですから、決して騙されないで下さい。邪悪な幽界人は、邪悪な想いに同調してくるのですから、原因は自分にあるのです。
明るい想いを持って下さい。あるいは神に思いを向けて下さい。そうすれば、決して邪悪な波動に惑わされることは無いでしょう。
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この世には、光の文学と闇の文学があります。因果律に基づいて書かれた小説を光文学といい、因果律を無視して書かれた小説を闇文学といいます。闇文学を書いている作家はサタンの支配を受けていますので、文脈は重く暗く、内容も矛盾に満ちており、肉体的にも不健康です。自殺に追いやられた作家の殆どは、サタンの支配を受け心を乱した結果です。このような作家の書いた小説は、読んだ人の心を暗いものにします。決して有名人だからといって、傾倒しないで下さい。
反対に、光の指導霊に導かれている作家の文脈は明るく爽やかで、内容も理路整然としており、また肉体的にも健康です。したがってそのような作家の書いた作品は、読者の心を爽やかにします。
小説も読むなら、光文学を読むようにしましょう。後味の悪くなるような闇文学は、毒になっても薬になることはありませんから、決して読まないことです。
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本来、サタンなどどこにもおりません。サタンは自分の想いが作った自分自身です。つまり、サタンは自分の妄念の中にのみいるのです。
心配、恐怖、イライラ、憎しみ、恨み、怒り、嫉妬、ねたみ、肉欲、物欲、権勢欲、これすべて自分の想いが作ったサタンです。私達は外側から災いを受けていると思っていますが、自分の悪的な想いが外側の悪的な波動と同調し、災いを呼び込んでいるのです。だから悪しき波動を出せば悪いことが起り、良き波動を出せば良いことが起るわけです。だから、想念のコントロールが大切になるのです。
自分を害していたのは自分の妄念であったと知ったら、もう外側のものに怯えることは無いでしょう。恐れるべきは自分の妄念です。さあ、良き想念波動を出しましょう。そのためには、生命・神・光を想いましょう。
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サタンは、光や、聖水や、ニンニクなどを嫌うといわれますが、これには一理あるのです。
太陽は霊太陽と直結しているため、太陽からは強烈な光エネルギーが放出されています。聖水(清水・涌き水)も酸素を多く含んだエネルギーの強い水です。臭いのきついニンニクなども、ものすごくエネルギーが強いのです。エネルギーは光ですから、光を苦手とするサタンは、エネルギーの強いものには弱いのです。
良く夜型の人とか昼型の人がいるといわれますが、昼型の人に健康的な人が多いのは、太陽から強烈なエネルギーを頂いているからです。反対に夜型の人に不健康な人が多いのは、頂くエネルギーの量が少ないからです。
もう一つ、物欲の強い人もあまり健全とはいえません。なぜなら、物質は波動が低いからです。水商売に争いが付きものなのは、水は物質の象徴的存在で波動が低いからです。エネルギーの高い所は光り輝いていますので災いは寄って来づらいですが、エネルギーの低い所は薄暗いので災いが寄ってきやすいのです。これは波動の同調による科学的現象で、祟りでも何でもありません。百鬼夜行といわれるように、夜半から夜明けにかけて事故や事件が多発するのはそのためです。
この地球の周りには様々な波動が飛び交っていて、私達に良くも悪くも影響を与えております。私にも暗い時代があり、よく悪い波動の影響を受けたものです。その当時の私は、夜の繁華街や映画館など暗い所を好んだのです。案の定、寄ってきたのは災いばかりでした。反対に、明るい所を好むようになってからは、寄ってきたのは幸いばかりでした。
「幸せでありたかったら、できるだけ太陽の下で健康な生き方をして下さい!。」
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完全な宇宙に悪が生まれるわけがありません。もし生まれるなら、宇宙は完全でなくなってしまいます。もともと宇宙は完全だから、善のみが存在するのです。
この世に悪があるように見えるのは、人間が人間の使い方を誤っているからです。たとえば、火を暖房に使えば善になりますが、放火に使えば悪になります。包丁を料理に使えば善になりますが、人殺しに使えば悪になります。大腸菌はお腹の中にいれば善になりますが、口に入れれば悪になります。どんな良薬も使い方を誤れば毒になるように、使い方を誤れば何でも悪になってしまうのです。この世に悪人がいるように見えるのも、人間が人間の使い方を誤っているからです。
人間を人間として使えば、物を欲しがり、金を欲しがり、権力を欲しがりますので、そこに争い事が起きるのは当然です。でも人間を生命として使えば、平安を欲しがりますので、争い事が起きるわけがないのです。
人間をどう見るか?。
人間として見るか?、生命として見るか?、
人間をどう使うか?。
人間として使うか?、生命として使うか?、
で、悪になるか善になるか決まるだけです。
人間を正しく使えば、みな善人ばかりなのです。
この宇宙に本質的な悪は無い!。ただ使い方いかんによって悪になるだけである。
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闇(影)は実際にあるものではありません。ただ光の無い所を、闇(影)といっているだけです。闇は光の不在なのです。物質(肉体)をどんなに分析しても、何も発見できないのは、物質(肉体)は影だからです。病気が実在しない理由も、肉体は影にしか過ぎないからです。あくまでも病気は、光のない状態なのです。影がどうして影を作れましょうか?・・・、肉体がどうして病気を作れましょうか?・・・ということです。
光を閉ざし病気を作っているのは、人の妄念です。影が実在するという迷いの思いが、光を閉ざし病気を作っているのです。
不完全が実在しない理由も同じです。不完全は不完全を信ずる人にのみある迷妄で、実在するものでは無いのです。真理を知らぬ人の迷いの思いが、不完全を生み出しているのです。「罪を憎んで人を憎まず!」という諺がありますが、その罪は人の無知がもたらした影だから、本来、憎む対象にはならないのです。憎むべきは、真理を知らぬことです。だから、「真理を知らぬことが最大の罪である!」といわれるのです。
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私は光と闇と心の関係を研究していくうちに、三つのおもしろい発見をしました。
なぜ、心は光を好み闇を嫌うのかといいますと、光は心に安らぎと平安と幸福感を与え、闇は恐怖感と絶望感と不幸感を与えるからです。光はエネルギーそのものですから、エネルギーの性質上、光に満たされれば心は喜びを感じるのです。これは、次のような実験で確かめることができます。
テレビ・ドラマを次の二つに分類して見ます。一つは、人を陥れたり、殺したり、傷つけたり、恐怖を与えたりする闇的(悪的)ドラマ、もう一つは、人を助けたり、励ましたり、希望や勇気を与えたりする光的(善的)ドラマです。前者のドラマを見た後の心は苦しくなり、後者のドラマを見た後の心は嬉しくなりました。これは人間なら誰でも感じる当たり前の心理状態で、何の不思議もありません。でも、なぜ悪的ドラマを見ると苦しくなり、善的ドラマを見ると嬉しくなるのでしょうか?。
それは、悪的ドラマは心に闇を注ぎ込み、善的ドラマは心に光を注ぎ込むからです。
皆さんも体験したことがあると思いますが、何かの事故で身動きが取れなくなった時、心は苦しみませんでしたか?。また、しがらみに縛られ、やりたいのにやれなかった時、心は苦しみませんでしたか?。自由とは光の有る状態なのです。不自由とは光の無い状態なのです。だから心は光の有る自由を好み、光の無い不自由を嫌うのです。
この宇宙は、本当に有るものだけ(真実だけ)が実在し、本当に無いもの(非真実)は実在しないのです。心はそのことを本能的に知っているため、本当に有るものを好み、本当に無いものを嫌うのです。
来ないと分かりきっている電車を待つことほど、苦しいことはありません。同じように、無いと分かりきっている闇に心を向けることほど、苦しいことはありません。さあ、本当に有るものに心を向けましょう。
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