私は霊という言葉が、余りにも誤解されて使われていることに、いささか腹立たしさを覚えています。
迷える霊などいないのです。狐の霊などいないのです。蛇の霊などいないのです。
巷間でいわれているような霊は、存在していません。なぜなら、霊は姿形が無いからです。霊は無形にして無双なのです。姿形の無い見えない霊を、どうして見るのですか?。
霊能者のいっている霊は霊では無く、エーテル体(幽体)です。エーテルは半物質ですから姿形を取れますが、霊はエネルギーですから姿形が取れないのです。
このように霊は、見えるものではありません。くれぐれも「霊」と「幽」を誤解しないようにして下さい。
-276-
「霊」は見ることも触ることもできないものです。姿形を取らないエネルギー的存在だからです。だから、言葉や文字で説明することはできません。
あえて言葉にするとすれば、霊は、
計り知れない知恵と、力と、光を持った無形無双の生きものです。すべてのものの本源となり本質となっているものです。すなわち、創造主です。宇宙の主です。宇宙の大王です。いい替えれば、性質の違う無数の色光を、一つの白光に押しなべたものが霊といえるかも知れません。
その霊は絶対実在です。そして、
-277-
物質とは、
実在とは、永遠に無くならないものを意味しますから、無くなってしまう物質は本当に有るものでは無いのです。その意味では、私達の肉体は必ず消えて無くなりますので、本当に有るものではありません。一時の存在です。無常なものです。だから、肉に生きる者には、四つの苦しみがあるのです。
しかし、霊に生きる者には、生きる苦しみも、老いる苦しみも、病になる苦しみも、死ぬ苦しみもありません。霊は永遠に健全で、永遠に生き通しだからです。だから、霊に生きる者は、無くなって行く物質を観察することができるのです。
物質は見られる立場のもの、霊は見れる立場のもの、この関係は永遠に変わることはありません。要するに物質は、泡を掴むような、雲を掴むような、空しい存在なのです。だから、この物質の世界のことを、非真実の世界とか、色界とか、浮世とか、現象界とか、幻の世界とかと呼ばれているのです。
-278-
誤解してもらいたく無いのは、物質も幽体も実際に存在しているものでは無いということです。いってみれば、物質も幽体も一時空中に浮遊している蜃気楼のようなものと思えば良いでしょう。
たとえば、空気が冷やされて水になり、水が凍って氷になっているように、霊が波動を下げ幽体となり、幽体が波動を下げ物質(肉体)となっているのです。水も氷も一時の存在のように、物質も幽体も一時の存在なのです。とはいえ、水も氷も空気から生まれたように、物質も幽体も霊から生まれたのですから、三者は本質的には同じものです。ただ、見える状態になったものを、物質とか幽体とか呼んでいるだけです。
だから、霊は怖いものではありません。その霊をおもしろおかしく語り、恐怖させたりしているのが、霊能者といわれる人達なのです。くれぐれも、彼らの言葉に惑わされないようにして下さい。
-279-
お釈迦様は、「色即是空・空即是色」といわれました。つまり、物質は即霊であり、霊は即物質であるといわれたのです。なぜ、物質を「色」と呼び、霊を「空」と呼んだかといいますと、形ある物にはみな色が付いており、形の無い霊は空気のように無色透明で見えないからです。その見えない霊が見える物質となったのですから、霊と物質は本質的には同じものです。だから、お釈迦様は、「色」すなわち物質は即「空」霊であり、「空」すなわち霊は即「色」物質であるといわれたわけです。もし、物質が無色透明なら物の識別や仕分けができず、この世は大混乱していたところでしょう。でも、幸いなことに、物質には色が付いておりますので、私達は物の識別や仕分けが容易にできたわけです。
さて、物質と霊が同じものならば、人間は霊ではありませんか?、霊は人間ではありませんか?。なのに今の坊さん達は、その真実を教えておりません。分からないから教えないのでしょうが、これでは一般人が迷うのも当然です。もし、分かっていたなら、今日のような葬式仏教などには、なっていなかったと思います。勿論、この社会はもっと平和になっていたはずです。
「色即是空・空即是色」の本当の意味を、世の人々に正しく伝えて欲しいものです。
-280-
なぜ、霊しか知り得ないかといいますと、この宇宙には霊しかないからです。霊しかないのに、どうして霊以外のものを知り得ましょうか?。また、知る必要があるでしょうか?。私達が知り得るのは、本当に有るものだけです。本当に有るものとは、実態のあるもの、分析可能なもの、すなわち、実在する霊です。
たとえば、
私達が知り得るのは、本当に存在するものだけです。つまり、実態のある霊のみです。生命のみです。名前は幻ですから、永久に知ることはできないのです。
-281-
本来、この宇宙には、物質というものは無いのです。神の光が人の想念に当たり、幻の影として出来たのが物質といわれるものだからです。だから、有るように見えるけれど、実際には無いのです。人間の誤った観念が、そのような幻の物質を作り上げてしまったのです。
物質の本性は光ですから、物質を光として見ている神には、自由自在な物の創造ができるのです。もし、人間が神と同じ目を持つことができたら、物質を柔らかくしたり、延ばしたり、縮めたり、軽くしたり、消したり、自由にできるでしょう。しかし、物質を物質として見ている限り、自由な創造ができないばかりか、自然の法則によって窮地に追い込まれることになるのです。
すなわち、
これは、人間が物質観念を持っているから起きる現象です。もし、物質観念から霊的観念に転換できたら、これらの不都合はみな余所ごとになってしまうでしょう。
-282-
あなたがどんなに否定しても、あなたが霊であることに違いは無いのです。なぜなら、あなたが「私」と思えること自体、霊である証だからです。
この宇宙には、たった一つの霊的意識しかないのです。これは絶対真理ですから、誰も覆すことはできません。ならば、今、あなたが「私」と思えること自体、たった一つしか無い霊である証となりませんか?。何せ、思えるのは唯一霊しかないのですからね・・・。
自分が霊であることを認めましょう。認めれば即あなたは正真正銘の霊になれるのです。なれるのではなく戻れるのです。蘇れるのです。それはただ認めるだけで良いのです。
-283-
宇宙霊を言葉や文字で表現することはできませんが、あえて文字にするとすれば、
加えていえば、凹凸の無い、均衡、均等、平等、平坦、平衡、永遠の安らぎを維持しようとする意思そのものが宇宙霊といえるでしょう。
偏るとなぜ苦しみとなるのか?。凹凸が生まれるとなぜ苦しみとなるのか?。それは、愛(バランス)そのものが宇宙霊だからです。霊を思うと安らぐのは、すべての良きものを統合した愛の塊だからです。対して物質を思うと不安になるのは、すべての悪しきものを統合した不調和の塊だからです。単体に分離すればするほど不安定化し、一体に統合されればされるほど安定化するのが宇宙の性ですから、分離された物質に偏ればどうしても苦しみが生まれるのです。これは愛から遠のいた結果です。
「一人暮らしが空しいのは、愛が紡げないからです。」
一本しか無い糸は紡げないのです。すべての生き物が群棲の中で安定していられるのは、愛を紡ぎ合っているからです。
孤独と偏りは不安定の印、統合と中庸は安定の印、私達はいずれすべてのものと合体し、愛の中に消化されて行かねばならないのです。すなわち、悟って総合色である白光の中へ帰って行かねばならないのです。
-284-
確実なことは、物質と霊は絶対切り離せ無いという事実です。物質のあるところに必ず霊があり、霊のあるところに必ず物質があるのです。
今、私達は、
「物質を見ていると同時に霊を見ており、霊を見ていると同時に物質を見ているのです。」
どこか遠くに霊界があるのでは無く、今ここが霊界なのです。霊が無かったら物質界は有り得ないし、物質が無かったら霊界はあり得ないからです。ただ見える側面を見るか、見えない側面を見るかだけの話です。
たしかに、霊は見ることも触ることもできません。でも、物質を通してなら見ることができるのです。それは、物質を理解することによってです。
霊眼の開かれた人とは、物質を霊として見られる理解力を持った人のことです。物質に対する理解力が深まれば、物質を通して霊が見られるようになるのです。霊は光ですから、光として見られるようになるのです。
今ここが霊界だといったら、宗教家達は怒るでしょうね。とくに霊能者といわれる人達は、カンカンになって怒るでしょうね。何せ今まで言ってきたことが覆されるのですから・・。怒るのは、この宇宙の仕組みを知らないからです。言葉に囚われているからです。
物質の世界は(幽界を含む)幻です。そんな世界をいくら知っても、何の意味も無いのです。私達が知るべき世界は真実の世界です。すなわち、無形無双の見えない霊界・神界・天界です。どうか霊の誤解を解いて下さい。
-285-
私達は長いこと、物質と霊は別モノだと勘違いしてきました。しかし、物質と霊は同じものであって、決して別モノでは無いのです。人類の誤った観念が、物質と霊を別モノにしてしまっただけです。物質はそのままにして霊です。霊はそのままにして物質です。外を見れば物質、内を見れば霊(光・エネルギー)です。物質と霊は、二つで一つなのです。物質の顔と霊の顔を持つ二重面相がその実態です。
物質は粒子であり霊は波動です。この二つは切っても切れない一対の関係にある、と最先端の量子力学者はいっております。釈迦は二千五百年前にそのことを、「色即是空・空即是色」と説いていました。
自由自在の霊を、固く、小さく、重く、不自由にしたのは人類の誤った観念です。この観念を正しいものに置き換えれたら、物質は柔らかくも、軽くも、引き伸ばすことも、曲げることも、消すことも、自由自在にできるのです。間違った観念が、物質を不自由なものにしてしまったのです。
この誤った観念から抜け出すには、
「真理は汝を自由ならしめん!」
といわれる悟りが必要です。悟ればそく物質から解放され、自由の身になれるのです。そうなれば、私達に苦しみはありません。世界は平和になります。
-286-
自然の法則は確かにあります。でも、それがすべてでないことを知るべきです。宇宙には宇宙の法則というものが別にあって、私達はその支配下にも置かれているのです。なぜなら私達は、肉と霊の二つの側面を持つ二重生命だからです。肉体は自然法則に縛られますが、霊はそれを超越しております。肉に生きれば否応なしに自然法則に縛られますが、霊に生きれば自由自在の生き方ができるのです。だから「霊に生きよ!」といわれるのです。
自然の法則を超越した者は物質を霊として扱い、それを大いに活用できるでしょう。また、その者は、天と地を自由に行き来できるでしょう。
繰り返します。
物質と霊は同じものであって、決して別モノではありません。私達の誤った観念が別モノにしただけです。この宇宙には、根本的に違うものなど何一つ無いのです。根が一つだから、すべてが融合し合えるのです。
だから、様々なものがあると思ってはなりません。覚者が指一本立てて宇宙を示すのは、そのことをいっているのです。
-287-
「物質即霊・霊即物質」とは、
物質はそのままにして霊ですよ!、霊はそのままにして物質ですよ!、という意味です。
「物質と霊は絶対不可分」とは、
物質と霊は同じものだから切り離せないのですよ!、という意味です。
「霊肉一体」とは、
肉体と霊は一体ですよ!、という意味です。
「霊と物質に境目はない!」とは、
霊はそのままにして物質ですよ!、物質はそのままにして霊ですよ!、だからそこに境目はないのですよ!、という意味です。
一つのものをどうして分けられましょうか?。一つのものをどうして別モノにできるでしょうか?。
物質と霊を一つとして見られた途端、細胞が震えてきます。内的光が見えてきます。その者は、自分が霊だと本当に思えるようになるのです。これは実に不思議な体験です。
さあ、物質と霊が同じものであるという理解力を養いましょう。そうすれば、霊として生きられるようになるのです。
-288-
霊は、どんなに姿を変えても霊は霊です。霊が別モノになることは絶対無いのです。霊は、不変・不動・永遠・不滅なのです。たとえ物質という色を付けていても、霊の本性は何ら変わらないのです。
良く汚れた水といいますが、水は未だかって汚れたことは無いのです。水が汚れているのでは無く、水にゴミが付着しているだけです。水はどんなに濁っても純粋無垢の水です。役者が、面を変え、カツラを変え、衣装を変えても別人になることが無いように、霊がどんなに姿を変えても霊そのものに何ら変わりはないのです。
-289-
過去を懐かしみ、未来を憂いるのは、霊性の進化を遅らせる結果を招きます。なぜなら、懐かしがるのはこの世に未練がある証であり、憂いるのは再び生まれる準備をしている証だからです。そのような想念を持っていては、必ず生まれてこなければならないでしょう。
過去も、未来も、幻です。そんなものはこの宇宙に無いのです。真実なるものは、今の今、想念の中にある「神・霊・生命」のみです。
無いものに想念を使ってはなりません。使うべきは、本当に有る、「神・霊・生命」であります。
「吾は神なり!」
「吾は霊なり!」
「吾は生命なり!」
この想念のみが霊性を進化させるのです。
-290-
将棋に「成金」という言葉がありますが、成り金は歩駒が金駒に身分を上げた状態です。霊が物質に成った状態はこの反対で、金駒が歩駒に身分を落とした状態です。しかし、身分を落しても、金の自覚を失わなければ金の働きはできるのです。ただ残念なことに私達は、歩駒に慣れ親しんでいる内に金の自覚を失い、金でありながら歩の働きしかできない情けない自分に成り下がってしまったのです。でも、どんなに自覚を失っても、私達の本性は金(霊)そのものですから、依然として金(霊)の能力は持ち続けているのです。
霊が物質に化身しても霊は霊であり、物質に成り下がったからといって霊の能力を失うものではないのです。どう化身しても霊は霊ですから、霊として見ること、霊として感じること、霊として生きることです。
この宇宙には霊しか無いのですから、何を見ても霊だと思えば正解なのです。その理解力を持つか持たないかで、光る者となるかならないか決まるのです。
-291-
物質と霊が絶対不可分なら、物質は霊であり、霊は物質ではありませんか?。物質が霊なら、あなたは、今、霊を見ているのではありませんか?。ただ、霊だと思っていないだけ・・・、霊を見ているのに物質だと勘違いしているだけ・・・。
この宇宙には、霊しか無いのです。ならば見える物見えないもの、すべて霊ではありませんか?。ただ、形に付けられた名前に惑わされ、霊を物質だと思い違いしているだけではありませんか?。
あなたは、今、何を見ていると思っているのですか?。物質ですか?。霊ですか?。今あなたは霊を見ているのですよ!。見ているのに、見ていないと思っているだけです。霊だと思えば、それは霊なのです。ただ、それだけのことなのです。
-292-
この宇宙に霊しか存在しないならば、私達は霊ではありませんか?。山も、海も、川も、虫も、花も、犬も、何もかも霊ではありませんか?。ということは、ここは霊界だということです。
見えない霊が見える物質となっているだけです。見える物は、見えない霊によって生み出されているのです。なのに私達は、見える物に夢中になり、見えない霊を無視しています。物質の側面だけを見て、霊の側面を見ていないのです。だから、私達は自然の法則に蹂躙され、様々な苦しみに喘がなければならないのです。
見える物質は、あくまでも見えない霊の表現媒体です。どんなに霊が偉大でも、見えなくては何の意味もないので、霊は見える物質に化身し、自分をアピールしているのです。だから、物質世界こそが霊界なのです。見えるこの世界こそが霊界なのです。ただ、見える側面を見るか?、見えない側面を見るか?、それだけのことなのです。
-293-
物質が霊で無かったら、物質は物質でいられないのです。物質と霊が同じものだから、物質は物質でいられるのです。宇宙には、霊から離れたものなど一つも無いのです。それは、波頭と大海に例えることができるでしょう。
私達は大海に浮き沈みする、一つの波頭のようなものです。私達はその浮き沈みする波頭を見て、「私だ!、」「あなただ!、」といっているだけです。でも、一つ一つの波頭は、大海の一部であり全体であるはずです。個我であると同時に大我であるはずです。一つ一つの波頭は小さくて何もできませんが、大海につながれば全体を揺るがす大きな力となれます。一滴の海水は何もできませんが、大海と融合すれば大きな力となれるのと同じです。
波頭として外側にいれば、雨風にもてあそばれ様々な苦しみに喘がねばなりません。同じように私達も物質世界にいれば、自然の法則にもてあそばれ様々な苦しみに喘がねばならないのです。でも、霊として、大海として、内側に帰れば安泰です。だから私達は、霊に、大海に、帰るべきです。大海に帰れば平安でいられるのですから・・・。
-294-
物質を否定する人は、正しくものを見ていない人です。正しくものを見る人は、物質を霊として観ますので、物質を否定しないのです。否定する代わりに、すべてのものを霊として観るのです。
正しくものを見なさいとは、実際に有るものを観なさいということです。霊は見えませんが、現に実在しています。その見えない霊が、見える物となった状態を物質と呼んでいるだけで、見える物になっても霊は霊であり、見えないものになっても霊は霊であるはずです。ただ、見える側面を見るか、見えない側面を見るかだけの話です。
不思議なもので、見える物質の側面を認めると、物質は力を得て様々な災いをもたらすようになります。私達の想念が物質に力を与えてしまうのです。だから、物質の奴隷にならないためにも、決して物質を認めてはならないのです。
宇宙に否定するものなど、何一つありません。なぜなら、宇宙にはたった一つの霊しか無いからです。一つしか無い霊を否定すれば宇宙を否定することになり、これは明らかに矛盾です。否定できるのは、二つ以上ある宇宙です。でも、そんな宇宙はどこにも無いのですから、否定論など無用なのであります。
-295-
宇宙は霊の海です。霊の外に何も無いのです。見える物 見えないもの すべて霊です。もし、あなたが霊で無かったら、あなたは今この宇宙におりません。霊だからこそ、今この宇宙におれるのです。
もし、あなたが霊を見たければ、鏡に自分を写して見れば良いのです。いやそれよりも、周りの物を見て霊だと思えば良いのです。霊だと思えば、すべて霊なのです。私達は形に名前を付け、花だ、虫だ、猫だ、人間だといっていますが、霊しか無いのですから、どんな物を見ても霊だと思えば良いのです。形に付けられた名前に惑わされ、霊を霊で無くしているだけです。
「私は霊である!」と思いましょう。「私は霊である!」と大宣言しましょう。思えば即そうなるのです。いや、なるのでは無く、もともと霊、生まれながらにして霊、そのままにして霊ですから、なるもならないもないのです。自分がそう認めれば霊なのです。霊になるのに、何の修行も何の努力も要らないのです。努力が要るとすれば、霊と思えるようになる努力だけです。瞑想がそれです。
心から霊と思えるようになったら、その人は変わります。その人は、人類を変える人です。地球を変える人です。宇宙を変える人です。
-296-
「迷える霊」という人がおりますが、霊は迷うことはありません。なぜなら、霊は全能の神であり、生命であり、エネルギーであるからです。迷っているのは人間です。人間として死んだ者は、慣性の法則によって死んだ後も同じ人間の思いを持って生きるのです。
また、霊をお墓に祀っているという人がおりますが、霊は無限ですから小さなお墓に祀れるわけがありません。お墓に祀っているのは、カルシュームです。カルシュームを祀って、一体、何になるのでしょうか?。
ここでこのような話を持ち出したのは、霊を正しく理解してほしいためです。霊は怖いものでも、祟るものでも、悪さをするものでもありません。悪さをしているのは、自分のことを人間だと思い違いしている、幽体を纏った人間です。霊は形のないエネルギーですから、人の目に見えるものではないのです。霊能者の見ているのは、幽体です。エーテル体です。
くれぐれも、宗教家や霊能者のいうことに惑わされないようにして下さい。
-297-
私が悲しいのは、霊が誤解されて受け取られている点です。霊は人間に憑くものでも、祟るものでも、怖いものでもありません。
ですから姿形がありません。
私達は霊によって生かされているのです。いや、霊そのものが私達なのです。なぜなら、息の源、脈の源、言葉の源、思いの源が、霊だからです。今、私達が生きていられるのは、霊があるからです。今、自分と思えるのは、霊があるからです。言葉は霊の表現道具であり、肉体はその活動媒体です。
どうか霊の誤解を解いて下さい。
-298-
大霊(1)の中に私(1)がおり、私(1)の中に大霊(1)がいるという意味は、大霊(1)そのものが私(1)だから、大霊(1)の中に私(1)がいられるのです。また、私(1)が大霊(1)だから、私(1)の中に大霊(1)がいられるのです。だから、私(1)の中に私(1)がいることができるし、私(1)の中に私(1)がいることができるのです。つまり、大霊(1)の中に大霊(1)がいることができるし、大霊(1)の中に大霊(1)がいることができるのです。
私と私は一つのものですから、私の外に出ることはできないのです。大霊は一つのものですから、大霊の外に出ることはできないのです。私の外は無いのです。大霊の外は無いのです。すなわち、すべてのものが私だから、常に私は私の中にいるのです。すべてのものが大霊だから、常に大霊は大霊の中にいるのです。その意味が理解できたら、外に何かを求めようとはしなくなるでしょう。
(私も、大霊も、1に置き換えたら解りやすいと思います。)
-299-
この宇宙には、完全なものしか実存できません。なぜなら、実存していることが完全の証しだからです。実存は完全の証しであり、完全は実存の証しなのです。だから、私達は、実存するもののみを考え、実存するもののみに生きなければならないのです。
実存するものは、永遠に無くならない完全なるものです。実存しないものは、いつか消えて無くなる不完全なるものです。だから、無常なるものを追い求めていては、完全な生き方はできないのです。永遠に無くならないものを求めてこそ、完全な生き方ができるのです。
では、永遠に無くならないものとは何でしょうか?。完全なものとは何でしょうか?。それは、霊的なものです。霊は永遠不滅、完全無欠、永遠に常在するものです。それに対して、お金や、物や、地位や、名誉などは、みな消えて無くなる無常なものです。その無常なる物を追い求めてきたがゆえに、私達は苦しんできたのです。すべての不幸は、実在しないもの、不完全なものを追い求めてきた結果です。
霊こそ実存するもの、完全なるもの、私達が探し求めるべき永遠の宝物です。無常なるものを見ず、実際に有るものに目を向けましょう。
永遠なる霊を、完全なる霊を求めましょう。
-300-
物質と霊は二つで一つです。霊と物質は一対になって完全な働きができるのです。もし霊と物質を分離してしまったら、どちらも存在意義を失ってしまうでしょう。といっても、実際に存在しているのは霊の方です。
見える物と見えない霊は同じものです。でも私達は、どうしても見える物に惑わされ、見えない霊を無視しがちです。もし、あなたが見える物を物質として見ているなら、あなたは霊と物質を分けて見ていることになり、正しくものを見ていません。見える物を霊として見ているなら、物質と霊を一つとして見ていることになり、正しくものを見ていることになります。もともと無い物質を、どうして分けて見るのでしょうか?。霊しかいないのに、どうして分けられましょうか?、ということです。そう思うのは、物質もあり霊もあると思っているからです。見える物に心が奪われ、見えない霊を見失っているからです。
もう一度、見直しましょう。
物質は霊です。霊は物質です。この物質と霊は、二つで一つです。でも、実在しているのは霊のみです。お釈迦様のいっている、「色即是空・空即是色」の意味を再確認して下さい。
-301-
宇宙には、一つの霊があるだけです。一つしかないなら、何を見ても、何を感じても、霊だと思わなくてはならないでしょう。霊がすべてのものに化身しているのですから、すべて霊で無くてはならないのです。
物質など初めから無いのです。ただ、霊が形を取っているだけ・・・その形に物質と名前を付けただけ・・・だから、どこにも物質など無いのです。
この宇宙には、唯一霊しか存在しないのです。その霊が形を取ったら、どうして物質になるのでしょうか?。霊が形を取っても、それは霊ではないでしょうか?。一つのものが形を取ったら、なぜ二つのものになってしまうのでしょうか?。
霊が形を取っているだけです。だから、すべて霊と呼べば良いのです。さあ、自分だけの秘密として、「吾は霊なり!」と思いましょう。
-302-
物質が物質を生むことはありません。また、物質が霊を生むこともありません。物質が物質を生まない理由は、「無」は「無」を生まないからです。「影」は「影」を生まないからです。物質は影ですから、実際には「無」いのです。
また物質が霊を生まない理由は、「無]が「有」を生まないからです。「影」が「光」を生まないからです。幻(影)である物質が、どうして本物(光)を生むでしょうか?。「無」は「何も」生まないのです。「有」が「無」を生み、「有」が「有」を生むのです。(厳密にいえば、「有は」有りて有るものだから、「有」を生むことはない)
本当に有る霊が、物質を生むのです。なのに人間は、あたかも物質が物質を生むものだと誤解しております。特に物理学者は、何も無い真空宇宙から生命が生まれることは無いといい切ります。もし、それが真実なら、宇宙に生命の誕生は無かったでしょう。
真空宇宙は何も「無」いのではありません。それどころか、真空宇宙は生命で充ち溢れているのです。宇宙は生命の海なのです。エネルギーの海なのです。霊の海なのです。生命の海であるがゆえに、そこから様々な生き物が生まれてくるのです。
-303-
この世が浮世と呼ばれる理由は、宇宙空間にポカリと地球が浮いているからです。私達の目には、暗がりの空間に青く輝く地球が浮いているように見えますが、本当は空間の方が輝いていて、地球の方が薄暗いのです。なぜなら、宇宙空間は波動の高い霊の海で、地球は波動の低い物質の塊だからです。波動の高い霊は輝いて見え、波動の低い地球は暗くみえるのです。しかし暗くても、地球が霊であることに変わりはありません。ただ波動が高いか低いかだけで、本質的には同じものだからです。
人間の肉体も同じです。今の私達の肉体は波動が低いので暗くみえますが、本質的には霊ですから、霊眼の開かれた人の目には、地球も私達の肉体も輝いて見えるのです。
この世を浮世と呼んだ先人は、悟っていたのかも知れませんね?。
-304-
見えないものが本物で、見える物は偽物だといいましたが、なぜ見えない状態の時は本物で、見える状態になったら偽物になるのでしょうか?。見えないものが見える物になっただけなのに、なぜ偽物と決めつけるのでしょうか?。見える物の実体が見えないものなら、見える物になっても本物ではありませんか?。
本当は見える物も本物なのです。それを霊として見るならばであります。しかし、人間はその目を失い、本物を偽物にしてしまったわけです。人間の誤った概念が霊の波動を下げ、不自由な物質にしてしまったというわけです。
霊と物質は一つのものです。絶対不可分です。絶対不可分という意味は、霊と物質は同じものだから分けられないという意味です。一つのものをどうして分けられましょうか?。ただ形を取っているか、取っていないかだけの違いではありませんか?。もし霊と物質が別モノというなら、空気と氷は別モノといわねばなりません。コップとガラスは別モノといわねばなりません。そんなおかしな話しはないのですから、霊と物質は同じものなのです。
その霊は宇宙に一つしかありませんので、すべての物は霊から生まれた子供達ということになります。どんなに形が違っていても、みな兄弟姉妹です。だから、私も、あなたも、万象万物も、みな兄弟姉妹です。
さあ、物質と霊を区分けするのを止めましょう。同じものとして見ましょう。
-305-
霊は見えませんから、そのままでは永久に日陰の身のままです。それでは存在の意味が無いので、霊は自分の身代わりとして物質を作ったのです。
物質は霊の顔なのです。アピールの道具なのです。
微生物も、鳥も、花も、海も、山も、人間も、地球も、霊の一側面です。ですから、一側面を見て、全体を判断してはならないのです。
盲人の一人が象のしっぽを触り、象とはムチのようなものであるといいました。もう一人の盲人は象の耳を触り、象とはウチワのようなものであるといいました。もう一人の盲人は象の足を触り、象とはドラム缶のようなものであるといいました。みな、一部分を見て全体を見ていないために犯した過ちです。私達もこの盲人達と同じように、霊の一部分を見て過ちを犯しているのです。
正しく霊を見るためには、物質と霊を切り離さないことです。一つのものとして見ることです。物質そく霊、霊そく物質として見ることです。
-306-
素直に見ることはとても大切です。たとえば、ここにリンゴがあったとします。リンゴがあるということは、リンゴを存在させている何かが背後にあるはずです。何も無い所から、ポカリとリンゴが生まれるはずが無いからです。卵が先か鶏が先かの論議が堂々巡りになるのは、「初めに種有りき!」が、前提条件になっているからです。
種は必要無いのです。宇宙そのものが種だからです。宇宙は霊的素材(種)で満々ているのです。見えない霊的素材が、すべての物の生みの親なのです。
子供たちに「物質は何から生まれてくるのですか?」と問いかけて見て下さい。多分、「見えないものから生まれてくる」というでしょう。大人だけが屁理屈をいうのです。
-307-
「吾大霊なり!」
「吾大霊なり!」
「吾大霊なり!」
・
・
・
この言葉の中に、私の思いを込めました。私が自覚した味を、どうぞあなたも味わって下さい。そして、
「吾大霊なり!」「吾大霊なり!」「吾大霊なり!」
と何度も何度も思い続けて下さい。
-308-