もし、あなたが不完全や悪を信じているなら、神は「私はあなたを知りません!」、といわれるでしょう。なぜなら、神は不完全も悪も造らなかったからであります。
不完全や悪は、不完全や悪を知っている者のみにあるのであって、知らない者には無いのです。その証拠に、悪を知らない赤ちゃんは、泥棒を見ても笑っているでしょう。これは、自分を汚さずして相手を汚すことはできないという、戒めの込められた教訓なのです。自分が汚れているから、相手が汚れて見えるのです。自分が清ければ、汚れなど見えるわけが無いのです。赤子のようになりなさいとは、
という意味なのです。
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神は不必要なものを、何一つお造りになりませんでした。また、不完全なものも、何一つお造りになりませんでした。
どちらも、あなたにとっては災難です。でも、神様が不必要なものをお造りになっていないなら、それは必要だから起きた災難だと思わなくてはなりません。事実、あなたは、その災難から沢山のことを学んだのですから・・・。
すべて必然です。もし、その体験が不必要なものなら、神は完全でなくなります。
"私は駄目な人間だから死んだ方がましだ!"、といって自殺する人がおりますが、神は駄目な人間など一人もお造りになっていません。もし、その人が不必要なら、神はその人を誕生させなかったはずです。もし、蚊やスリが不必要なら、神は蚊やスリをお造りにならなかったはずです。
神は、なぜ、ヨボヨボになってまで人を生かしていると思いますか?。まだ、その人が、必要だからではありませんか?。必要のない人を、神は生かしておくはずがないのです。
もし、人の誕生が偶然なら、神は完全でなくなります。もし、人の死が偶然なら、神は完全でなくなります。もし、事件や事故や災害が偶然なら、神は完全でなくなります。どんな出来事も、必要だから起きているのです。
このように考えて下さい。もし、今あなたの身の周りに何か問題が起こっているなら、それは必要だから与えられた神からのメッセージだと思って下さい。そのメッセージに応えれば、問題は起きなくなります。それは、もう克服し終わり、学ぶ必要が無くなったからです。
"どうしていつまでも苦しみから抜け出せないのだ!"と嘆く人がおりますが、それは、まだメッセージに応えていないからです。まだ課題を克服していないから苦しみが与えられるのです。
誤解しては困りますのでいい添えますが、神が苦しみを与えることはありません。神なる自分が自分に苦しみを与えているのです。
「どのような出来事にも必ず意味がある!」と思って生きる者の成長は、竹林のごとしです。
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「神は完全であるといいながら、なぜこの世に沢山の不完全があるのでしょうか?」、と人は神に問いかけます。
[えっ!、どこに不完全があるのですか?]、神は問い返します。
「病や、飢餓や、戦争など、沢山の不幸があるじゃないですか?」、と人は詰め寄ります。
[あなたがいっている不幸は、決して不幸では無いのですよ!]、と神は静かにいいます。
「なぜ、苦しみや悲しみが不幸では無いのですか?」、人は語調を強めて迫ります。
[幸せは幸せの中に無いのですよ!、完全は完全の中に無いのですよ!、光の中に光は無いのですよ!、このように考えて下さい。
光しか知らない者は、光の中にいても光の中にいると思えないのです。幸せの中に浸り切りの者は、幸せの中にいても幸せだと思えないのです。幸せだと思えない、幸せだと思わない、こんな不幸なことがあるでしょうか?。砂糖の味しか知らない者が、"甘いものが欲しい!"、と駄々をこねているようなものです。これは悲しいことです。不完全は、完全たらしめるスパイスのようなものです。そのスパイスを不完全というでしょうか?。]
「でも、やはり苦しみや悲しみは体験したくありません。」人は首をうなだれいいます。
[苦しみや悲しみを知らない者は、どんなに幸せでも幸せだと感じないものです。よろしいですか?。辛味を知って甘味を知るのですよ!、苦しみを知って喜びを知るのですよ!。悪を知って善を知るのですよ!。だから、悪は悪ではないし、不完全は不完全ではないのです。]
「では、苦しみや悲しみは必要悪だといわれるのですか?。」
[そうです。苦しみや悲しみがどのようなもので、なぜ必要か知らない者には、不完全は不完全に見えるし、嫌なものは嫌なものに見えるのです。でも、苦しみや悲しみの正体を知った者は、不完全も、嫌なものも、必要不可欠なものとして受け入れられるようになるのです。
火の扱い方を知らない者は、火は脅威です。しかし、知った者は、火は脅威ではなく、むしろ無くてはならないものになるのです。不完全の必要性を知った者は、不完全はもはや不完全では無く、無くてはならないものになるのです。私達がこの相対界に出てくる理由は、相対的体験を通して不完全や悪の正体を知るためなのです。]
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あなたが神で無かったら、あなたは今いないのですよ!。なぜなら、神はすべての全て在りて有るものだからです。神がいるということは、あなたがいるということです。あなたがいるということは、神がいるということです。
もし「これが神だ!、あれが神だ!」と限定してしまえば、もう、それは神ではありません。なぜなら、今もいったように、神はすべての全てだからです。ゆえに、私もあなたも神です。砂一粒も、虫一匹も、山も、海も、地球も、大宇宙も、神です。ということは、砂一粒は私であり、あなたではありませんか?。虫一匹は私であり、あなたではありませんか?。山も、海も、地球も、大宇宙も、私であり、あなたではありませんか?。
だから、決してツバを吐いたり、鉄砲を撃ったり、罵声を浴びせたりしてはならないのです。もし、そのようなことをすれば、神を、私を、あなたを、汚し、殺し、いたぶることになるからです。
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宇宙には、たった一つの真実があるのみです。それは、すべてが神であるという真実です。ならば、
私達は今から神になるのではないのです。私達は初めから神だったし、今も神だし、未来永劫に神なのです。神になるもならないもないのです。私達はこのままにして、そのままにして、あるがままにして、神なのです。あなたが、どんなに違うといい張っても、この既成事実は絶対曲げられないのです。だから、神になる努力は必要ないのです。必要なのは、神と思えるようになることだけです。
私は神です。あなたは神です。万象万物すべてが神です。すべてが神だと知ったら、誰を蔑み、誰を罵倒し、誰を憎めるでしょうか?。
そう思えれば、何を見てもみな愛おしく思えるでしょう。
汝自身を知れ!、さすれば神と対面できるであろう。なぜなら、汝自身が神だからである。
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自覚とは、「自らに目覚める」という意味ですが、その中身を理解するのは容易なことではありません。自分が神(生命)だと実感する、味わう、成り切る、そのものになるといっても、その意識状態は自覚した人にしか分からないからです。
自分が神だと自覚できた時には、
いい方を替えれば、
しかし、このいい方にしても、隔靴掻痒のごとく真意を伝えているとはいえません。でも、そのような状態になったら、考え方も、感じ方も、観じ方も、生き方も、全く変わってしまうのです。心の面だけ変わるのでは無く、肉体面も変わり(変性変容が起きる)、人生そのものが大きく変わってしまうのです。要するに、すべてのものが自分だと思えるようになりますので、他人を、すべての物を、自分の如く愛せるようになるのです。これは驚くべき変化です。
理想の世を実現するには神の自覚なしにあり得ないといわれるのも、人間と思っている限り人間以上の生き方ができないからです。
できないはずです。それが肉体を自分として生きる人間の正直な姿です。誰も責めることはできません。でも、神の自覚ができたら、必要な場合にはそれができるのです。(イエス様が良い見本です。)
このように神の自覚ができれば、神(生命)本来の姿に戻って行くのです。
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この宇宙には、たった一つの真実があるだけです。それは、「全てが神である」という真実です。
ならば、
もし、そうで無いなら、すべてが神であるという真実は崩れ、宇宙は消滅しなくてはなりません。しかし、今、現に宇宙が存在しているということは、あなたも、私も、万象万物も、みな神だという証になるのです。この真実を、誰が崩せましょうか?。
このようにいっても、まだ、あなたは疑るのですか?。もし、あなたが神で無かったら、一体あなたは何なの?、と私は訊きたい!。あなたが神だから、思い、考え、語り、慈しみ、愛することができるのですよ!。さあ、「私は神である!」と、堂々と宣言しましょう。
どうか、この宇宙の理を信じて下さい。
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神の愛は、なぜ、完全なのでしょうか?。それは、どんな苦しみの中にも、どんな悲しみの中にも、神の愛が宿り完全を表現しているからです。もし、苦しみや悲しみが無駄で終わるならば、神は完全で無くなってしまい、宇宙は消滅してしまわなくてはなりません。そんな無能な神がおられるわけがありません。私が胸を張って「神の愛は完全なり!」といえるのは、神のなされることに一つも無駄はないからです。
それが神の愛の証であり、私達が希望を持って生きられる根拠です。
どうか神の愛の完全性を信じて下さい。今の苦しみや悲しみが、いつかきっと幸せとなって返ってくることを信じて下さい。
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学びの友の中に、このようなことをいう人がおりました。
" 私がお風呂に入ってくつろいでいた時、突然「自分は神であった!」と気付いた。だから、私は、神になる何の努力もしなくて良いのです。何せ、私は、このままにして神なのですから・・・。"
彼女はこういって、以後、瞑想をしなくなったのです。
たしかに、人間は神だから、神になる努力は必要ありません。でも、彼女は、本当に心の底から自分を神だと思っているのでしょうか?。自分が神であったと気付くことと、神の自覚は別なのですよ?。
人間はもともと神です。生まれながらにして神です。このままにして神です。だから、仏典にも聖典にも、努力して神になるとは一言も書かれておりません。
「人間は生まれながらにして神仏である!」
と書かれているのです。
でも、そうだからといって、今まで散々人間として生きてきた者が、急に神と「思える」ようになるでしょうか?。もし、努力無しに神と思えるようになるなら、どうして、聖者達は瞑想するのでしょうか?。神と思えることが難しいから、瞑想しているのではありませんか?。
どうでしょう。地金が金だからといって、金にまとわり付いているドロを取らないで、金の輝きが出せますか?。今までアヒルだと思って地を這いずり回っていたカモが、目覚めたからといって急に空を飛べるようになれますか?。今まで人間として生きていた者が、神だと知っただけで、急に神だと思えるようになれますか?。金を輝かせるにも、空を飛べるようになるにも、神と思えるようになるにも、それなりの努力が必要なのです。
彼女は「気付きと自覚を」誤解して受け取っています。もともと神だから神になる努力は要らないけれど、神と思えるようになる努力は必要なのです。この点誤解するから、"瞑想など必要無い!"、などといい出すのです。もし、彼女が本当に神だと思えているなら、変性変容が起きているはずです。変性変容が起きないのは、単に神だと気付いただけで、実際には神の自覚が出来ていないからです。
どうでしょう。本当に木が成長しているなら、花を咲かせ実を付けているのではありませんか?。花も実も付けないのは、そこまで木が成長していないからではありませんか?。つまり、神の自覚ができていないから、変性変容が起きないのです。では、なぜ、その事に気付かないのでしょうか?。それは、増長しているからです。自分を優秀な魂だと自負している者は、どうしてもこの落とし穴に陥りやすいのです。だから、彼女は、未だに自我人間として生きております。どんなに偉大な魂でも、神の自覚ができていなければ、そこらへんの自我人間と何も変わらないのですよ。どうか尊大な心を捨てて下さい。謙虚になって下さい。
この表現世界に「努力」という言葉があるのは、「努力」する必要があるからです。
どうか、「神に気付くこと」と、「神と思えるようになること」、を誤解しないで下さい。
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「吾神なり!」
「吾神なり!」
「吾神なり!」
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この言葉の中に私の思いを込めました。私が実感した神の薫りを、どうぞあなたも味わって下さい。
「吾神なり!」「吾神なり!」「吾神なり!」と、何度も何度もいい続け、思い続けて下さい。
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