見えない神の偉大さは、見える物を通して立証できます。ご覧なさい!、
どれをとっても称賛に値します。
でも、最も誇れるのは、人が神の自覚を得て、地上に「真・善・美」を具現した時でしょう。私達はその時、神の偉大さに敬服することになるのです。この地上に「真・善・美」が輝けば輝くほど、私達は神に頭を垂れることになるのです。
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神は自ら放った光の糸を巧みに織り成し、この宇宙に様々な織物をお造りになりました。神は正に、偉大な織物職人です。私達はその技を受け継ぎ、地上に光の世界を具現させねばなりません。そのためには、すべてのものを光として認め、光として受け入れねばなりません。
「すべてのものを光(神)として認めたとき、すべてのものは 事実上 光るもの(神)となる」という覚者の言葉がありますが、光の織物を織るには、影の糸を光の糸として認めねば使えないのです。なぜなら、光の糸には姿形が無いからです。姿形のない光の糸は、姿形のある影の糸を光として認めねば使えないのです。
認めなければ、いつまでも影の糸のままです。認めなければ、いつまでも物質のままです。認めなければ、いつまでも人間のままです。それでは光の世界は創造できません。
さあ、認めましょう。
光の糸とは、神の想いです。創造物の本質です。神そのものです。
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なぜ、人間に言葉があるかといえば、言葉を持たない神の代弁代行者として必要だったからです。もし、人間に言葉が無かったら、神は自分の思いを永久に呑み込んだままでいなくてはなりません。
そうなれば宇宙は、「無」「無」「無」・・・のままです。
それでは何のドラマも生まれません。ドラマを生むためには、理念を具象化する言葉が必要なのです。
言葉は創造の力です。その力に基づいて宇宙の創造が行われているのです。
「初めに言葉ありき、その言葉によって宇宙は成れり!」であります。
人間の言葉は紛れもない神の言葉です。私も、あなたも、神から遣わされた神の代弁代行者です。大いに言葉を使い、行動を起こし、神の代弁代行役を果たしましょう。
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人間は神の代弁代行者です。しかし、自分が神の代弁代行者であるとはっきり自覚するまで、神と同じ能力が使えないのです。なぜなら、人間は欲望を抱きます。怒ります。嫉妬します。嘘を付きます。もし、人間に神と同じ力を与えたら、恐らく宇宙を破壊してしまうでしょう。だから、神は、自覚に相応した力しか使えないよう、段階的制約を設けたのです。
神と同じ能力が欲しかったら、宇宙の仕組みを知ることです。本当の自分を知ることです。本当の自分を知れば、何が危険で何が安全か、どうすれば幸せになり、どうすれば不幸になるかが分ります。その時、神は、安心して段階的制約を解除してくれるでしょう。
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私達はとうに救われているのです。にもかかわらず、苦しみに呻いています。なぜでしょう?。それは、自分を人間だと思っているからです。
神であるにもかかわらず、人間と錯覚している私達・・・、すでに救われているにもかかわらず、救われていないと錯覚している私達・・・、何と悲しいことでしょう?。億万の富を持たされながら、ゴミ箱をあさって生活している浮浪者のようなものです。
私達は同時に、二つの信仰を持つことはできないのです。
すなわち、
光にも生き、闇にも生きることはできないのです。神にも生き、人間にも生きることはできないのです。どちらか一つを選ばねばならないのです。
しかし、多くの人間は、闇を信じ闇に生きています。人間を信じ人間に生きています。闇に生きるから、苦しむのです。人間に生きるから、苦しむのです。光に、神に、生きれば苦しむことは無いのです。こう思いましょう。
神を想い、神に生きましょう!。光を想い、光に生きましょう!。時間あるごとに神を、光を、瞑想しましょう。そうすれば、もうあなたの人生は約束されたも同然です。
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宇宙は対になって表現宇宙を演出しています。たとえば、陰と陽が対になって完全を演出しています。女と男が対になって完全を演出しています。人と神とが対になって完全を演出しています。一方は不完全で一方は完全です。しかし、不完全と完全とが支え合い、絶対完全を生み出しているのです。だから、不完全は完全なのです。
だから悪は善そのものです。
だから闇は光そのものです。
だから物質は霊そのものです。
だから元素はエネルギーそのものです。
だから私は本質そのものです。
「だから私は神そのものです!。」
この宇宙のすべてのものは、相反するものが対となり完全を演出しているのです。だから片方だけを見てはならないのです。両方を見て両方を感じて下さい。そのように見れたら、感じられたら、不完全な物や悪なるものに脅かされることは無いでしょう。
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喧嘩(戦争)に勝っても、得することは絶対ありません。人の目には勝ち負けがあるように見えても、神の目には勝ち負けは無いからです。「喧嘩両成敗!」これが宇宙のしきたりです。
平等を旨とする宇宙に、一方は結果が良く、一方は結果が悪い、ということは絶対ありません。そこには、平等な原因に基づいた平等な結果があるだけです。人間の目にその平等性が見えないから、勝った負けたといっているだけです。
よく"我が国は神国だ!"とか、"我々は選民だ!"とかいう人達がおりますが、我が子をえこひいきする神がいると思いますか?。どんな人も、どんな国も、みな神の子であり神の国なのですよ!。もし、えこひいきがあるとすれば、神の意に則した生き方をしているか、していないかの違いだと思います。
神は我が子を平等に愛しております。決して、えこひいきすることはありません。だから、我が国は神国だといってはならないし、我々は選民だといってもならないのです。
ただし、人間の親がそうであるように、神も出来そこないの子には目配りをするものです。でも、その目配りは、人の愛と違って、峻厳なる愛を持って応える目配りです。つまり、叱咤激励の意味を込めてふるう愛のムチによる目配り(因果応報による目配り)です。決していじめるためではありません。
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