神を否定する人がおりますが、その人は自分を否定していることに気付いていないのです。なぜなら、自分を生み出した創作者の存在を否定しているからです。
何かが存在している背後には、必ずそれを存在させている何かがあるのです。たとえば、そこに建物があるからには、それを建てようと思った建築主が必ずいるのです。文学書が文字の偶然の集まりで無いように、この世のどんな物も、それを組み立てた創作者が必ずいるのです。その創作者を、私達は神と呼んでいるのです。
生物学者は、自然発生説や突然変異説を振りかざして神を否定しますが、これほど幼稚な考えはありません。原因者なしに結果はあり得ないのです。ものの起こりの背後には、必ず起こしている何者かがいるのです。
この宇宙には、様々な形を取って自分を表現している神がいるのです。すなわち、すべての物は神の分身、神そのものなのです。ゆえに人間は神です。人間と神が同じなるがゆえに、人間は創造の思いを持つのです。
唯物論者は神を否定することによって、唯物論そのものが否定されていることを知らないのです。なぜなら、唯物論を生み出している力そのものを否定しているからです。「ものを思う!、ものを考える!」、その力そのものが神の創造物であることを知らないのです。
神は間違いなく存在します。これは、今あなたが存在しているくらい確かなことなのです。
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神の中には神しか無いのです。なぜなら、この宇宙そのものが神の御神体だからです。私達は、今、宇宙の中にいます。ということは、神の体の中にいるということです。神しか無い宇宙で、神の外におれるものなど有るわけが無いのです。ゆえに、私は神です。あなたは神です。万象万物は神です。
神は一様です。一つの中に、二つも三つもあるわけは無いのです。神の中には神しか無いとは、そういうことなのです。
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神は光なりきですから、本来、神の中に闇などあるわけが無いのです。無い闇を作っているのは人間の心です。
悩みは闇です。病は闇です。不幸は闇です。みな人間の迷い心が生み出した幻の闇です。幻の闇なるがゆえに、光を思い、光に生きれば、悩みも、病も、不幸も、消えて無くなるのです。
人の迷いの心の中にのみ、闇があり、消極があり、不完全があるのです。
そうです。
消極は人の迷いが生み出したもの!、闇は人の迷いが生み出したもの!、不完全は人の迷いが生み出したもの!、目覚めたら、そんなものはどこにも無いのです。だから、何も恐れることはありません。幻がホンモノにたてつくことなどできないからです。どんなに幻が抵抗しても、所詮ホンモノには勝てないのです。
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この宇宙に神の外、何も無いならば、神が何かを創造しようと思った場合、神、自らが創造物になるしか無いでしょう。自分しかいない宇宙で、誰かに頼んで創造物になってもらうことなどできないからです。ならば、創造物の中には、必ず創造主である神が宿っていることになり、それは取りも直さず人間の中に神が宿っていることを意味します。
そうです。人間は神であります。人間など、どこにもいないのです。人間がいないなら、人間意識があるわけがありません。では、今、私と思っている意識は、神意識ではありませんか?。神しかいないのですから、そうなりませんか?。
意識は一つしか無いのです。一つしかないなら、意識を持っている私は、神ではありませんか?。
「意識は神の代名詞です。」
神は意識であり、意識は神なのです。だから、意識あるものは、すべて神であります。私が神なのは、意識を持っているからです。あなたが神なのは、意識を持っているからです。
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本当に有るもののみが、もの思えるのです。もの思えるのは、絶対実在である神の証なのです。ならば、もの思える私は、本当に有るものではありませんか?。すなわち、絶対実在の神ではありませんか?。
「吾思えるがゆえに吾神なり!」といえるのは、思えるのは神しかないからです。
有るもののみが永遠に保存し、有るもののみが永遠に記憶するのです。だから、神であるこの宇宙は、永遠の保存庫であり、永遠の記憶庫(アカシックレコード)なのであります。
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なぜ、神はすべてを知っているのでしょうか?。それは、神はすべての全てだからです。あなたが何か考えごとをしているとき、あなたの中におられる神が考えごとをしているのです。その神は私の中にも居るわけですから、あなたの考えは私の考えとなり、一なる神の考えとなるのです。
神は至る処におるのです。神のいない処は無いのです。一柱の神がすべてのものの中にいるわけですから、あなたの考えは神の考えとなり、私の考えは神の考えとなるのです。その私の、あなたの、考えていることを神が知らないわけは無いのです。
だから、己を知ったとき神を知ったことになり、神を知ったとき己を知ったことになるのです。己を知ったとき、すべてのものを知ることができるのは、すべてのものは神そのものであり己そのものだからです。ゆえに神には嘘が付けないし、己にも嘘が付けないのであります。
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神はこういいます。
また、神はこうもいいます。
そうです。
目覚めた者は、一なる世界から多なる世界を見つつ、多なる世界が一なるもので創られていることを見ております。したがって、彼らは、何を見ても一なるものしか見えないのです。つまり、一つ目になっているのであります。
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「万象万物は初めから神であった!」というのは、神が万象万物に化身しても神には何ら変化はなく、依然として神そのものであり続けるからです。神は素材そのものですから、素材が万象万物に化身しても、その素材自身は依然として神そのものであるはずです。だから、万象万物は、初めから神だといえるのです。
どんなに古くても途中で生まれたものは子孫と呼ばれ、すべて消えゆく存在です。それは、生まれたものは必ず消える定めにあるからです。だから、途中で生まれた人間は、神にはなれないのです。もともと人間は神だから、神になれるのです。初めから神だから、神になれるのです。
ホンモノである神は、創れるものではありません。ニセモノ(幻)だけが造れるのです。だから、造られた人間はニセモノ(幻)です。でも、その人間の中に創れない神が宿っているのです。つまり、ニセモノの人間の中に、ホンモノである神が生きて働いているのです。だから、人間は、初めから神だったのです。
人間が人間を生んだのなら、それは人間かも知れません。でも、神が人間を生んだのですから、人間は神であるはずです。原因が神であれば、結果も神で無くては理屈に合わないからです。だから、私達は堂々と、"私は神である!"と宣言すれば良いのです。
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人間の迷いの目が、霊と物質とを分け、天と地を分け、神と人間を分け、一を二に分けてしまったのです。もし、すべてのものを一つとして見られるなら、人間と神の境目は無くなるでしょう。境目が無いなら、どこからどこまでが人間で、どこからどこまでが神だといえなくなります。ならば、すべて人間といっても良いし、すべて神だといっても良いことになります。
この宇宙には神しかいないのです。見える物 見えないもの、形のある物 形のないもの、すべて神です。だから、私も神です。あなたも神です。ただ、どうしてもそう思えない、認められない、納得できない難しさがあるのです。では、どうしたら納得させることができるのでしょうか?。
それは、瞑想によって頑なに拒む自我の壁を打ち砕くしか無いのです。いくら頭で納得しても、心の底から納得できなければ駄目なのです。どのような理屈を並べても、どのような神秘を見せても、自分の心が納得できなくては神と思えないのです。だから、一にも、二にも、瞑想するしかないのです。
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