盲目の人生を歩む人とは、肉体を自分として生涯を終わる人のこと、つまり、外側の影だけ見て、内在する光を見ないで終わる人のことをいいます。
人間は、神 が天下って化身したもの、人間即神、神即人間であります。神が表現するには、神自らが天下って表現物(人間)になるしか無いのです。なぜなら、この宇宙には神の外には何も無いからです。
外側を見たら無能の人間に見えますが、内側を見たら全能の神なのです。
人が神だからこそ、思い、考え、工夫し、様々な物を創造することができるのです。
神ならばこそ記憶し、神ならばこそ筆を執り、神ならばこそ物語れるのです。神が神を思い、神が神に奉仕し、神が神を愛するのです。
神は、
神は、
神は、
神は、
神は永遠にして不滅です。その神は、私の中にも、あなたの中にも、万象万物の中にも宿っているがゆえに、すべては神の分身なのであります。
その神は、恐れ多い存在でも無ければ、神秘的存在でもありません。神は偉大な下僕であり、ありふれたお方です。
神は、
神は、
神は、
神は、
神は、
神は、
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「神はどこにおわすのか?・・・。」
人は永きに渡って神を探し続けてきましたが、未だかって神を探し当てた人は一人もおりません。当然です。神である自分が、神を探すのですから、探せるはずがなかったのです。
聖者はいいます。
「人間は自分が神だと気付くまで、永遠に外に神を探し続けるであろう」と・・・。
またこうもいいます。
「あなた方と私との違いはたった一つ、私は自分のことを神だと思っているが、あなた方は自分が神でありながら、神でないと思っているだけである」と・・・。
自分とは、神が「自」らを「分」けたのです。だから、人間はもともと神だったのです。いや、今も神なのです。神はどこか遠くにおわすのでは無く、一番身近な私達の中におわしたのです。
どんな良いことをしようと、どんな宗教をしようと、自分が神だと気付くまでは天に入ることはできません。どうか神を知って下さい。本当の自分を知って下さい。知った者のみが天に入れるのです。
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これまで神を探し当てた人は、ほんの一握りの人達にしか過ぎませんでした。なぜでしょう?。それは、神が余りにも身近にあり過ぎたからです。
神は初め無き初めより私達と共にあったのです。なのに私達は、外に神を探し続けてきました。神の中にいて神を探すのですから、探せるわけがなかったのです。この大宇宙が神であり、その大宇宙の中に私達はおり、私達の中に大宇宙があるのですから、私達は初めから神の中の神だったのです。
私達がすべきことは、自分が神であることを認めることです。宗教に入らなくても、お経を読まなくても、仏壇や神棚に手を会わせなくても、自分が神であることを認めれば即神なのです。もし、そこに難しさがあるとすれば、神を認めない自我の思いがあるだけです。
その思いを捨て、「吾神なり!」と宣言しましょう。自分に納得させましょう。自分に認めさせましょう。
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神はどこにおわすや?・・・。
ゆえに、
神を遠くに探してはなりません。神は至る所におわすのです。それは、
何をいじめても、神をいじめたのです。何を痛めつけても、神を痛めつけたのです。だから、どんなものもいじめてはならないし、痛めつけてもならないのです。
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もし、神を見たいなら、神に思いを向けて下さい。思いを向けるとは、神を意識することです。切望することです。欲することです。欲すれば与えられるのが宇宙の法則ですから、神はきっと姿を現してくれるでしょう。
瞑想が有効なのは、思いが神を呼ぶからです。それも、思いが強ければ強いほど早く神を呼ぶことができます。だから常に私は、強い気持ちを持って神を呼んでいるのです。「吾神なり!」と・・・。
もし、瞑想に不信感が生まれたら、"私の思いは神の思いだから成就しないはずがない!"と強く自分にいい聴かせ励ますことです。たとえ 今生 成就しなくても、無駄になることは絶対ありません。
一回思えば一円貯金したと思って続けて下さい。塵も積もれば山となることを信じ続けて下さい。
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神が見えるようになってくると、もう神に逆らうことができなくなります。神が見えるといっても、神は姿形がありませんので目で見えるわけではありません。見えるという意味は、神が作られた宇宙法則の働きが、完全性が、絶対性が、素晴しさが、凄さが、見えるという意味です。その法則の完全性は、目を見張るばかりです。
そこに情の入る隙間はありません。神は峻厳な愛そのもの、科学法則そのものですから、法を犯せば「因果の法則」によって裁かれるのです。
すなわち、
神が見えるという意味は、愛の法則の働きとその完全性が、宇宙の法則の働きとその完全性が、因果の法則の働きとその完全性が、見えるという意味です。だから、神が見えるようになった人は、法に逆らう愚かなことはしなくなるのです。
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神は人間(人形)をお創りになり、その中に宿られました。しかし、あまりにも長いこと人間の中に宿っていたために神の自覚が薄れ、人間だと錯覚するようになってしまったのです。でも、どんなに錯覚しようと、
自我の思い(人間の思い)があるといわれますが、本来、自我の思いなど無いのです。なぜなら、人間は(人形は)思うことができないからです。神が人間と錯覚することによって、神我の思いが自我の思いに変わっただけです。悪くいえば、神の思いを人間が乗っ取ってしまったのです。つまり、人間が指導権を握ってしまったのです。だから、知花先生は、人間は盗みの罪と嘘の罪を犯しているといっているのです。
でも、長いこと同じ環境の中で生きていると、そこの色に染まってしまうのは仕方のないことです。神とて同じです。長いこと人間として生きていれば、人間色に染まってしまうのも無理はないのです。当然、思考も、言葉も、行為も、人間臭くなるでしょう。知恵も、力も、人間以上のものが出せなくなるでしょう。一億円持っていても、持っている自覚がなければ使えないように、神の自覚がなければ神の能力は使えないのです。
どうか誤解を解いて下さい。錯覚から目覚めて下さい。本当の自分が神であることを思い出して下さい。そうすれば偉大な能力が使えるようになり、一切の苦しみから解放されるのですから・・・。
人が人を生むなら、それは人でしょう。でも神が人を生むのですから、人は神であるはずです。
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