愛の力とは、善き悪きを問わず調和の中心に引き寄せる力のことです。すなわち、「均衡力・均一力・中庸力」です。中心に引き寄せられたものはみな毒消され、本来の素直な性質に戻って行くのです。この拮抗させる愛の力こそ、宇宙生命の性であり、望みなのです。
塊は偏りで、均衡を欠いた状態です。だから愛の力が分散を命じるのです。愛の力はエネルギー均衡の法則そのものですから、偏ったものが安定状態に戻ろうとするのは当然のことなのです。それは常に平安でありたい!、穏やかでありたい!、と願う宇宙生命の望みと合致するものだからです。
愛の居場所は中心点(聖点)にありますから、中心から離れれば苦しみとなり、痛みとなり、不幸となって帰ってくるのは当然で、戦争も、自然災害も、病も、みな中心点に戻ろうとする愛の反動なのです。
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人助けを美学の象徴とする人がおりますが、この考え方は非常に危険です。なぜなら、安易な人助けは人を堕落させる危険性をはらんでいるからです。私は何も、見て見ぬふりをしなさいといっているのではありません。まだ乗り越えられるハードルを、偽善や慈悲魔で奪ってはならないといっているのです。
もし私達に苦しみが無かったら、ここまで成長してこれたでしょうか?。だから私はいうのです。
「穴に落ちている人を上から引っ張り上げるのでは無く、自力で這い上がれるようになるまで下にいて支えてあげなさい!」、と・・・。
慈悲魔は感情の沸騰、偽善は自己顕示欲の沸騰、どちらも人を堕落させます。学びの材料を奪うほど無慈悲なことはありません。ぜひ、神のような峻厳な愛を貫きたいものです。
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この宇宙には、たった一つ、私の宇宙があるだけです。なぜ、私の宇宙しか無いのかといいますと、この宇宙には、唯一の生命、唯一の意識、唯一の霊、しか無いからです。一つのものしか無いなら、私はその一つのものではありませんか?。あなたはその一つのものではありませんか?。万象万物はその一つのものではありませんか?。そして、あなたは私ではありませんか?。万象万物は私ではありませんか?。あなたも万象万物も無いのです。あなたも万象万物も、みな私なのです。
私しかいないなら、自分をいたわる愛しかないのではありませんか?。相手をいたわる愛は、自分の他に何かを認めた処から生まれた偽りの愛で、真実の愛ではありません。唯一の存在が、唯一の存在をいたわるのです。唯一の存在が、唯一の存在を愛するのです。その愛の働きは、自分の意識が永久に幸せであるよう心配りすることです。この高い愛に至るには、すべてのものを自分と認め、自分の如く愛せるようになることです。
自分しかいない処で、自分を愛することの体験はできません。相手を通して愛の技法を学ぶのです。その学びの場が相対界です。地球です。私達は、今、相対的体験を通して愛の技法を学んでいる真っ最中というわけです。すなわち、高い愛に至る戸口に立っているのです。
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一般的にいわれている愛は、夫婦愛とか、親子愛とか、隣人愛とか、人と人との愛のことを指していっているようですが、これらの愛は狭い意味の愛で、真の愛とは程遠いものです。真の愛とは、宇宙愛のことです。宇宙を自分の如く愛する愛のことです。なぜなら、この宇宙に存在するものは、みな自分自身だからです。でも、そのような大きな愛を一挙に育むことは苦しみとなりますので、まずは小さな夫婦愛から育みなさいというわけで、神様は男女の結びつきを出発点とされたのです。
大きな愛を育む順序としては、
このような順序を踏んで、最終的に宇宙を自分の如く愛せるようになるのです。これが、多様な物をお造りになった神様の目的です。
私達は、自分と違う形の物を忌み嫌いますが、どんな物もみな同じ原子から生まれた兄弟姉妹ですから、すべての物を自分の如く愛さねばならないのです。そもそも形造っている原子そのものが、生命と物質の調和した愛の結晶だからです。でも私達は単なる物質の塊だと思い、自分と違った形の物を愛せないのです。
真の愛を育むには、すべての物の中に生命を観なければなりません。すべての物を生命として観ることができれば、人類愛はもとより、宇宙愛も育むことができるでしょう。そうなったら、もう外に出て奉仕活動する必要はありません。
愛を飾り付けた包装紙(美しい言葉や偽善)に包んで与えないで下さい。裸のまま(真心のまま)与えましょう。裸の愛こそ、真の愛です。その愛は、神(生命)そのものの御姿です。
愛を偽らないで下さい!、愛を隠さないで下さい!、愛を弄ばないで下さい!。純真な愛を貫いて下さい!。
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大自然をご覧下さい。蝶は喜々として飛び回り、小鳥は陽気にさえずり、子猫は所はばからずじゃれ合っています。なぜ彼らは、このように無邪気でいられるのでしょうか?。それは、神の愛を心から信じているからではないでしょうか?。人間はどうでしょう?。人間は常に疑惑を抱き、心配と恐怖の中に生きています。これは、神の愛を心から信じていないからです。
神の愛は完璧です。完全へ向かって流れる意志そのものです。人間がどんなことを思おうが、どんな事をしようが、その結果どんな事が起ろうが、すべて神の愛が消化し、完全へと運んでくれるのです。だから私達は神の愛を信じ、与えられた課題を一歩一歩こなして行ったら良いのです。
何が起こっても、神の懐の中の出来事です。だから何が起こっても、みな有り難いことです。すべて善し!、すべて善し!、すべて善し!、です。
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本当の自分を追究する内に、私は神の愛の峻厳さを心から受け止められるようになりました。それ以来、私は、どんな不幸を見ても心を痛めなくなったのです。いやむしろ、喜べるようになったのです。このようなことをいうと変人呼ばわりされそうですが、決しておかしなことではないのです。
自分をいじめ抜くアスリートと、甘やかすアスリートのどちらが、良い成績を残すと思いますか?。波乱万丈の人生を送った人と、平々凡々の人生を送った人のどちらが、魂的に成長すると思いますか?。いわずもがなですね・・・。だから私は、人の不幸を目の当たりにする度に、"ああ、この人はまた一歩成長できるのだなあ!、良かったなあ!、"と独りでに頬が緩んでくるのです。
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幼いうちは相手を傷付けても、あまり良心を痛めないものです。自他の隔たりが大きく、相手が遠くに見えるからです。でも大人になり、自他の隔たりが小さくなるにしたがい、相手が身近に感じられるようになります。これは魂が成長した証です。大人になれば誰でもそのようになるのですから、罪を犯したからといって人を責めてはなりません。責めるのではなく、"彼は幼いがゆえに、自分が何をしているのか分からないのだ!"、と思って許すことです。
自分も昨日までそうだったのです。いや、今だってそうかもしれません。でも、それを許してくれている人がいるのです。ただ、それに気付いていないだけです。
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自分を愛している人とは、本当の自分に意識を向けている人のことです。自分を愛していない人とは、本当の自分を忘れている人のことです。瞑想している人は、本当の自分に意識を向けている人ですから、自分をこよなく愛している人です。反対に外側に意識を向けている人は、本当の自分を忘れている人ですから、自分を愛していない可哀相な人です。
我が子を愛している親は、常に子供のことを思っています。我が子を愛していない親は、子供のことを忘れています。これと同じように、自分を愛している人は、決して本当の自分を忘れません。常に自分を見詰め、自分を意識しています。その人は自分を愛していると同時に、すべてのものを愛していることになるのです。なぜなら、すべては自分だからです。
愛とは、意識することです。思うことです。意識しないところに、愛の育たないことを知って下さい。
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今あなたに苦しみが与えられているなら、必要だから与えられた神様からの贈り物だと考えて下さい。今のあなたには、その苦しみが必要なのです。それは後で振り返れば、納得のいくものばかりです。今のあなたの目には非情に写っているかも知れませんが、いつか必ずその意味の深さに感謝できる時がくるでしょう。ですから、今、苦しいからといって恨み事をいってはなりません。
神の愛を信じている者は、決して恨み事をいいません。神の愛を信じられない者だけが、恨み事をいうのです。
神とは、あなたの良心のことです。本当のあなたのことです。そのあなたが課したあなたのお荷物なら、あなたが担がねばなりません。決して人を頼ってはなりません。心配いりません。きっと、うまくゆきます。神の愛を信じましょう。
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反省して罪が許されるなら、世の中に罪人は一人もいないことになります。罪は、「二度と過ちを起こさないと!」堅く心に誓った時、許されるのです。許すのは誰でもありません。自分自身です。なぜなら、罪を作ったのは自分自身だからです。自分が作った罪は、作った自分だけ許すことができるのです。
良く、「神様、私の罪をお許しください!」と祈る人がおりますが、神様が作った罪なら神様にお願いしなくてはなりませんが、罪を作ったのは自分ですから、自分しか許すことができないのです。
罪にさいなまれノイローゼになる人は、罪の所在が分からないからです。罪は自分の中にあるのですから、自分が許せば、罪は消えて無くなるのです。いつまでも罪悪感を持っていては、一生、罪から解放されることはありません。罪を認め、「二度と過ちを犯さない!」と心に誓った時、罪の清算は終わったのですから、自分を許せば良いのです。それが、自分が作った罪は自分だけが許せる、という意味なのです。
さあ、「二度と過ちは犯さない!」と堅く心に誓いましょう。その時、あなたは許されたのです。
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あなたが許さない限り、あなたが許されることはありません。なぜなら、「許さない!」という罪をあなたは犯しているからです。自分が罪を犯しながら、自分が許されるわけがないのです。
逆も真なりで、人を裁けばあなたも裁かれます。なぜなら、あなたは人を裁くという罪を犯しているからです。人を裁けばあなたも裁かれ、人を許せばあなたも許されるのです。
この宇宙に他人はおりません。あなただけがいるのです。人を許せば、人は自分ですから自分が許されるのは当然です。人を裁けば人は自分ですから、自分が裁かれるのは当然です。だから人を許して、初めて自分も許されるのです。それは自分が自分を許したのです。
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愛はエネルギーです。エネルギーであるがゆえに、高い愛の持ち主から、低い愛の持ち主へ流れて行くのです。だから、わざわざ愛を与えに行く必要はありません。高い愛さえ持っていれば、黙っていても愛の貢はなされるのです。
またエネルギーには循環の法則が働いていますので、与えた愛は必ず自分の所に帰ってきます。ですから愛されたいと思ったら、まず自分の方から愛を与えることです。愛を与えれば必ず愛は返ってきます。これは私が保証するのでは無く、愛の法則が保証するのですから、これほど確かなことはありません。
なぜ愛が吸引力かといいますと、高い愛が低い愛を引き付けるからです。一見エネルギーの逆流に見えますが、吸引と放射は同時に働いていますので、低い愛が高い愛に引き付けられるのは当然のことなのです。
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暗い所にハエや蚊が発生するように、愛の無い暗い所にも病や苦しみが生まれます。でも愛はバランスですから、愛の無い状態がいつまでも続くことはありません。愛の救護員が直ちに駆けつけ、愛の不在は解消されるでしょう。愛の救護員とは、痛みであり、苦しみです。この愛の救護員の働きがあればこそ、私達は反省し、過ちに気付き、正しい生き方をするようになるのです。
愛の救護員を感謝して受け入れられるようになった人は、正しい愛を学んだ人ですから、もう痛みや苦しみに悩まされることはないでしょう。愛の救護員に不平不満をいっている人は、まだ正しい愛を学んでいない人ですから、気付くまで不幸を人のせいにして怒りを食べ続けるでしょう。
愛の救護員は外にいるのではありません。自分の中にいるのです。自分が自分を叱咤激励し、自分が自分を立ち直らせるのです。このことが分かれば、厳しい愛(病や不幸)も感謝して受け入れられるようになるでしょう。
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自分を愛せない者が、どうして他者を愛することができましょうか?。また他者を愛せない者が、どうして自分を愛することができましょうか?。
自分を愛している状態は、自分が喜んでいる状態ですから、人を愛し、許し、思いやり、優しくしている時は、自分を愛していることになるのです。反対に自分を愛していない状態は、自分が苦しんでいる状態ですから、人を憎んだり、恨んだり、嫉妬したり、怒っている時は、自分を愛していないことになるのです。
どうでしょう?。自分を憎まずして人を憎むことができますか?。自分を怒らずして人を怒ることができますか?。憎しみも怒りもみな自分の中から出てくるのですから、自分を汚してからしか人を汚せないのですよ。ならば人を愛するにも、自分を愛してからしか人を愛せないのではありませんか?。
人を憎んでいる人は、まず自分を憎み、その憎しみを人にぶつけているのです。人を怒っている人は、まず自分を怒り、その怒りを人にぶつけているのです。人を愛している人は、まず自分を愛し、その愛を人に与えているのです。憎しみも怒りも愛も、みな自分の中から出てくるのですから、自分が影響を受けないわけにはいかないのです。だから人を呪えば自分も呪われるのです。
自分は人であり、人は自分です。宇宙には自分しかいないのです。さあ、人を愛して下さい!。その人は自分ですから、人を愛すれば自分が愛されることになるのです。
人を汚すには、自分を汚さなくてはできない!。人を清めるには、自分を清めなくてはできない!。人を憎むには、自分を憎まなくてはできない!。人を愛するには、自分を愛さなくてはできない!。
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天の光を地に降ろすには、地に影となる媒体が必要です。鉱物・植物・動物・人間は、その媒体の一つ一つになっているわけですが、意識して光を降ろせるのは人間だけです。しかも人間は、凸レンズのように光を集め、強烈な束にして放射することができます。といっても、不調和な意識を持っていては媒体にはなれません。媒体になるためには、愛そのものになっていなければならないのです。
電気を光にするのに電球が必要なように、天の恵みを光にするにも、電球のような媒体が必要なのです。
愛の自覚を持った人は、光の媒体になれます。さあ、愛の自覚を持って下さい。その者は光人間になれます。光人間になりなさいとは、愛深い人間になりなさいという意味です。
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ある人はこういいます。完全な福祉国家ができたら、みな幸せに暮らせるだろうにと・・・。でも私は、その意見に反対です。なぜなら、今の人間の心の状態でそんな世の中ができたら、弱々しい魂ばかり育ててしまうからです。
なぜ神は愛しい我が子を、荒野といわれるこの厳しい世界に送られたのでしょうか?。強い子に育って欲しいためではありませんか?。なのに、一から十までオンブにダッコの福祉国家で、どうして強い子が育ちましょうか?。
今、多くの人達が、愛の履き違いをしています。何でも助けてやることが、愛だと思っているのです。一例ですが、最近の幼稚園では園児を傷つけないために、取っ手にカバーを付けたり、段差をなくすなどのバリヤフリー対策を取っております。でもそんな温室の中で、どうして強い花が育つでしょうか?。
危険を恐れ何も体験させないでは、いざという時どうして身を守ることができるでしょうか?。近年、子供の事故が増えているのは、過保護すぎるからです。愛と甘やかしとは違うのです。本当に子供を愛するなら、厳しい体験をさせることを恐れないことです。
介護にしてもそうです。まだ本人がやれるのに他人がやっては、やる気を無くすばかりか、自分でやれることもやれなくなってしまいます。また一旦そのような癖がつくと、頼っていた人がやってくれなかったら、その人を恨むようになります。これでは百害あって一利なしです。今の介護は余りにも過保護過ぎて、本人から努力と向上心を奪っているのです。手を差し伸べるにしても、相手を見て、状況を見て、甘やかさない程度で止めるべきです。過保護は魂にとって大敵です。厳しい愛こそ、本当の愛であることを知って下さい。
その点、荒野といわれる今の社会は、魂を磨くには最適な環境です。努力すれば報われる実力主義社会(弱肉強食社会、アメリカンドリーム社会)は、今の地球人類にとって必要不可欠なシステムです。神が矛盾多い今の社会を容認しているのは、神の思惑を立派に果たしているからです。すなわち今の社会は、魂を成長させる最高の舞台になっているのです。
私が理想世界を望んでいるのは、ドロに身を浸しても汚されない心を築き上げた暁の話です。身を浸せば心まで汚してしまう今の人類の状態では、理想世界の住人になる資格はありません。その意味では、今の社会は発展途上の魂にとって不可欠なシステムといって良いでしょう。ただし、今の社会は、余りにも行き過ぎています。富が偏り過ぎ、魂を成長させるどころか堕落させているのです。何でもそうですが、ホドホドでなくてはなりません。
愛と甘えは紙一重です。私達はその境界線を、慎重に見極めなくてはならないでしょう。
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近年、ますます宝くじの当選金額が高額になっておりますが、これは国民の不幸を後押しする最も悪い制度の一つです。「国民に夢を持ってもらうため」と言っておりますが、愛の法則を知らないからそんなことを平気で言うのです。宝くじに当たって幸せになった人など、未だかって一人もいないのですよ。"私は幸せになりました!"という人は、人生の続きを見ていないからです。
この宇宙は、楽して得するようにはできていないのです。また、苦しんで損するようにもできていないのです。なぜなら、この宇宙は、「愛の法則」によって支えられているからです。愛の法則は偏りを嫌うのです。もし、愛の法則に逆らい楽ばかり望んだとすれば、その反動として必ず苦しみがやってくるでしょう。
たとえば、
"私は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな苦しい目に合わねばならないのだ!"、と嘆いている人は、前世のツケを、今、払わされているのです。
因果法則に裏支えされている愛の法則は、決して偏りを許さないのです。この愛の法則は絶対的法則ですから、誰も逃れることはできません。だから楽して儲けようなど、よこしまな考えは持たないことです。"今良かったら良い!"という人は、どうぞ愛の法則を犯して下さい。来生、きっと地獄のような苦しみが待っているでしょう。
楽あれば苦ありは真理なのです。でも、この真理は、体験してこそ身に付くのです。すなわち、楽して苦しみを体験し、苦しんで楽を体験する、これを繰り返すうちに、どちらにも偏らない正しい生き方をするようになるのです。
本当の愛は、甘やかすことではありません。楽させることではありません。どうか外に出て働いて下さい。それも額に汗して働いて下さい。愛の法則は、きっとあなたの生命核(魂)を大きくしてくれるでしょう。
真の愛は、魂を成長させるものでなくてはならない!。魂を堕落させる愛は、単なる甘やかしである。
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