私には、二つの私があります。一つは白光の《私》、もう一つは、白光から放射された無数の光線の末端に作られた影の(私)です。光源は一つしかありませんので、白光の《私》も一つしかありません。しかし光線は無数ですから、影の(私)は無限に存在することになります。光源は永遠に無くなりませんが、影は必ず消えて無くなります。だから影の(私)は幻の私です。つまり、白光の私は永遠なる《私》なのに対して、影の私は無常なる(私)なのです。
(私)は《私》から生まれたわけですが、なぜ(わたし)と呼ぶようになったのでしょうか?。(本当は【あたし】と発音する)
この私(あたし)は、神が宇宙の創生時最初に発せられた言葉で、自分のこと、つまり神のことを指しているのです。
○ 私(あたし)の・・あ
○ アイアムの・・・あ
○ アオームの・・・あ
○ アミーの・・・・あ
○ アミダの・・・・あ
○ アルファーの・・あ
○ アーメンの・・・あ
などと、神を示す言葉にこの【あ】の響きに近い発声音が使われているのはそのためです。
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自分の外に何も無いと知った者は、何の苦しみも、何の憂いも、何の恐怖もありません。なぜなら、自分が自分を害することなどあり得ないからです。私達が不安や恐怖に怯えるのは、自分の外に何かがあり、その何かが自分に危害を加えると思うからです。
自分の外に何かがあると思っている者は、外側から幻を拾ってきてはそれを妄念によって組み立て、自ら苦しみや悲しみ(病気や事故など)を作っています。当人はその苦しみが、外側から来たものだと勘違いしているのです。本当の自分を知った者は、自分の意識が世界を作ることを知っておりますので、わざわざ外から雑念を持ち込むようなことはしません。ですから彼らは、常に自分の中に平安な世界を持っています。
この宇宙には、自分しかいないのです。自分しかいないなら、誰と、何と、敵対するというのでしょうか?。一つの中に、敵対したり対立したりする材料などがあるわけはないのです。敵対心を持つのは、自分の外に何かがあると思うからです。
自分しか無いと知った者は、決して不調和な思いは持ちません。持たなければ不調和なものが現れるわけがありませんから、その者はもう安泰なのです。
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もし外側にどんな世界があったとしても、私には関係ありません。なぜなら、私は外側の幻の世界で生きることなどできないからです。唯一私が生きられるのは、内なる真実の世界です。
その真実の世界は、私が作ったオリジナルな世界です。私オンリーの世界です。私の思い一つでどうにでもなる、融通無碍なる世界です。その世界に嫌なものを入れなければ、嫌なものは一つもありません。だから私の世界は、常に楽しく、常に平安で、常に幸せです。私の世界に、不幸という文字は無いのです。
たとえ嫌なものが入って来ても、
一切 受け取らないことです。一切 受け付けないことです。一切 認めないことです。
たとえ五感を通して入って来ても、
勿論、楽しいものなら入れましょう!。幸せをくれるものなら入れましょう!。しかし、嫌なものは 一切 入れないことです。
また、わざわざ外に出て、嫌なものを拾ってくる必要もありません。外に出て嫌なものと戯れるから、災いを受けるのです。外は幻の世界です。実在しない世界です。
ですから、
○ 外側のものを見ないことです。
○ 外側のものを聞かないことです。
○ 外側のものを拾わないことです。
私の世界に留まっていたら、いつも安泰でいられるのですから・・・。
ただし、こういえるのは、本当の自分に目覚めた者だけです。外側に何かを認めている限り、このようなことは絶対いえません。
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私は、
私の中にすべてのものがあります。だから、外側に求めるものは何もありません。
私は宇宙一の幸せ者です。
あなたもそうなりたかったら、私の下においでなさい。
誰の許しも要りません。
あなたの意思次第です。
あなたの思い次第です。
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私の認めないものは「無い!」のです。なぜなら、私の認めるところに私(本質・光)がおり、影が作られるからです。私の認めないところに光は無いわけですから、影の出来ようが無いのです。私が認められるのは、そこに私がいるからです。本質そのものが私ですから、認めた瞬間に本質である私がそのものになるのです。そこに光があるということは、そこに本質である私が存在し影を作っているということです。
私が宇宙を創造したのです。私が宇宙の創造主なのです。私の意識しないところに宇宙は無いのです。私の認めないところには何も存在しないのです。
だから私は創造主なのです。
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今、私が感じている世界は、私の意識が生み出したオリジナルな世界です。私が作ったオリジナルな世界だから、私が認めなければそんな世界は無いのです。今、私が世界を感じているのは、私が認めているからです。
その私は今、このボディーを自分だと感じています。だから今の私は、小さな世界の主なのです。もし宇宙を自分だと自覚できたら、宇宙の主になれるでしょう。すなわち、人間を私と思えば人間となり、宇宙を私と思えば宇宙になるというわけです。
私は意識している通りのもので、それ以上のものでも以下のものでもありません。ならば、無限の世界を意識しようではありませんか?。無限の宇宙を意識しようではありませんか?。思うに一円のお金もかからないのですから・・・。
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先に物が存在するから認識できるのでは無く、先に認識者が存在するから物が存在できるのです。もし物が先に存在するなら、原因の無いところから結果が生まれたことになり、天地が逆様になってしまいます。
認識されるものと、認識するものは同じものなのです。認識者が認識することで、認識されるものが生まれるのです。つまり、今、私が見ている物の中に私が居るからその物が存在できるのです。見ている物の中に本質である私が居なければ、その物はあり得ないわけですから、私が認識できるわけがないのです。私がその物の中に居て形造っているから、私は認識できるのです。今、私が認識しているということは、今、私がその物の中に居るということです。
「私はそんなものを作った覚えがない!」という人は、自我で物事を考えているからです。原因者がいなければ、結果が生まれるわけは無いのです。親あっての子です。子が先に生まれることは無いのです。認識者が先にいて、認識されるものが後で生まれるのです。作った覚えがないという人は、作り主と自分とを分けて考えているからです。宇宙にあなたしかいないのですから、あなたが作ったのです。あなたという本質が、あなたという創造主が、その物を作ったのです。
「私は本質そのものであり、創造物そのものであり、認識者そのものであり、創造主そのものです。」
ゆえに、
○ 本質は私そのものであり、創造物そのものであり、認識者そのものであり、創造主そのものです。
○ 創造物は本質そのものであり、私そのものであり、認識者そのものであり、創造主そのものです。
○ 認識者は創造物そのものであり、本質そのものであり、私そのものであり、創造主そのものです。
○ 創造主は認識者そのものであり、本質そのものであり、私そのものであり、創造物そのものです。
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「私が存在しなければ何も存在しない!」これは真理です。私が存在し認識するから、すべてのものは存在できるのです。認めている私がいるから、認められるものがあるのです。私が認めているものの中に私がいなければ、認められるものはあり得ないということです。なぜなら、宇宙に認識者は私しかいないからです。その認識者である私は、素材そのものですから、そこに物があるということは、私という素材がその物の中に居ることになります。私という素材がその物の中に居るから、その物が存在でき、また私はその物を認識できるのです。
反復します。
認められているものと、認めているものは同じものです。認めている私と、認められている私は同じ私です。私がそのものを認めているから、そのものは存在できるのであって、私が認めなければそのものはあり得ないのです。
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私達は、自分の外に何かがあると思っています。だから、家族や友達の無い人は寂しがるのです。しかし私達は、一つの中にいるのであって、沢山の何かと共にいるのではないのです。たしかに、形を見ると沢山の何かがあります。でも、その中身はたった一つしか無い私なのです。その私を生命と呼べば、沢山ある何かは生命そのものです。生命が、私が、様々な形を現しているだけです。孤独だと思っている私は、生命であり、一つであり、全体なのです。外側に現れているものを見て、沢山のものがあると錯覚し、そこから離れて一人になっているから孤独を感じるのです。沢山の人達がいると思えば、その沢山の人達から離れていれば、孤独に感じるのは当たり前です。でも、その沢山の人達が自分だと思えば、どうして孤独を感じるでしょうか?。
何もかもが私です。何もかもが私の化身です。すべては私なのです。私を分けるから、物と私が別だと思うのであって、すべての物が私だと思えば、すべて私なのですから、孤独感が生まれるわけはないのです。
考えても見て下さい。周りに沢山のものがあると思っている人が、自分一人になったら、孤独に感じるのは当たり前ではありませんか?。でも自分しかいないと思っているなら、自分一人になってもそれは当たり前ですから、孤独に感じるわけはないのです。
あなたが付けている洋服も、靴下も、家の中に置かれているタンスも、テーブルも、テレビも、みな私です。その沢山の私に囲まれている私は、幸せ一杯ではありませんか?。どうか私に声をかけてやって下さい。きっと私は喜ぶでしょう。またそう思えれば、家族がいなくても、友達がいなくても、寂しくないはずです。
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この宇宙には、唯一自分の世界しかありません。世界を作っているのは、自分の意識だからです。自分の心だからです。その心を汚したら平安は崩れ、自分の世界に不幸が蔓延します。反対に心が清らかであれば悩みは無く、自分の世界に幸せが蔓延します。
外側に本物は一物とてありません。だから、外側から何も受け取ってはなりません。入ってきても拒否することです。無視することです。そうすれば、自分の世界は常に清らかでいられます。
心がけるべきことは、自分の心を汚さないことです。傷つけないことです。それは誰がやるのでもありません。自分の意識がするのです。自分の思いがするのです。自分の世界を守るのは、自分の意識しかいない!、自分の思いしかない!、ということを知って下さい。
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何度もいいますように、意識は自分の意識しかありません。それは主観的意識です。一なる意識です。主観とは、自分を起点として考える世界観です。だから自分が主役なのです。
この宇宙には沢山の「幻」が漂っておりますが、幻ですから実在するものではありません。でもその幻は縁の力を利用して、強引に自分の意識の中に入ってこようとします。それは、自分が作った縁だからです。でも、どんなに自分が作った縁であろうと、自分が拒否すれば入ってくることはできないのです。拒否するとは、認めないことです。認めないものは無いのです。自分の意識に入れないものは無いのです。たとえ強引に入ってきても、自分が認めなければ何の影響も受けないのです。
私達が苦しむのは、自分の意識の中に幻を入れるからです。実際に無い幻を有ると錯覚し、自分の屋敷の中に入れるから、屋敷の中が汚されてしまうのです。幻はあくまでも幻ですから、食べないことです。食べなければ腹を壊すことはないのです。
世界を作っているのは自分の意識ですから、嫌なものは自分の意識に入れないことです。入れなければ、嫌なものの影響は受けないのです。自分の世界をどんな世界にするかは、ひとえに自分の意識次第だということです。だからいうのです。
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あなたは、今、意識を持っていますね。ということは、あなたは宇宙を持っていることになります。なぜなら、この宇宙に意識は一つしか無いからです。一つの意識しか無いならば、一つの宇宙しか無いことになり、それはあなた自身であるということになります。個々の肉体を見れば、私があり、あなたがあり、他人があると思ってしまいますが、一なる意識を自分として見るなら、そこには一つの世界、一つの宇宙があるだけです。
この宇宙には、唯一自分しかいないのです。自分しかいないなら、自分の世界しか、自分の宇宙しか、無いのは当然ではありませんか?。
よろしいですか?。
○ 宇宙が有るから自分が有るのではなく、自分が有るから宇宙が有るのですよ!。
○ 宇宙が自分を創ったのではなく、自分が宇宙を創ったのですよ!。自分が宇宙の主なのですよ!。
「宇宙そく我、我そく宇宙」といわれるのは、自分が消えれば宇宙が消え、宇宙が消えれば自分が消えるからです。宇宙を創っているのは自分の意識ですから、自分の意識が消えれば宇宙が消え、宇宙が消えれば自分の意識が消えるのは当然でしょう。自分そのものが宇宙そのものであり、宇宙そのものが自分そのものだからです。
さあ、思いを内側に向けましょう。その者は宇宙を意識できます。本当の自分と対面できます。その者は、宇宙そく我!、我そく宇宙!、と大宣言することでしょう。
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私がいるから相手関係が生まれるのであって、私がいなかったら何の関係も生まれようが無いのです。(私がいなかったら何もあり得ないのだが・・・)
私の存在が、すべての相手関係を作っているのです。なぜなら、相手は私の意識が作っているからです。相手は、私が作った私なのです。ですから私は私と関係し合い、様々なドラマを演じ合っているのです。ドラマに出てくる相手役は私であり、そのドラマの主人公も私です。相手は無限に存在しますから、一人無限役、それが私なのです。
内側には私しかいませんが、外側には無限の私が存在するのです。
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一が分化すれば粗雑になり、時空が必要になり、マクロ宇宙が生まれます。分化したものが一つに統合されれば、精妙なるものになり、時空が不要になり、一なるミクロ宇宙に帰ります。
一なるミクロ宇宙の中にすべての良きものが存在し、それは脈を打ち、呼吸をし、生きています。一なるミクロ宇宙は、何でも吸収し、何でも吐き出すヒョウタンのようなもので、そこが私達の故郷です。そこには唯一私がいるだけです。
私はミクロ宇宙の主です。ミクロ宇宙から生まれたマクロ宇宙も私です。ミクロがマクロを生み、その両宇宙に住み生きて働いているのが、唯我独尊の私なのです。ですからこの宇宙には、唯一私の世界しかありません。唯一私の宇宙しかありません。私は世界の主です。宇宙の王です。絶対者です。
私しかいないのですから、他人のことをとやかく詮索する必要もなければ、心配する必要も、気を使う必要もありません。ただ、自分の幸せだけ考えたら良いのです。自分が幸せであれば、私の宇宙は幸せだからです。一見、利己的に見えますが、唯我独尊の宇宙において、私が幸せであるということは、すべてが幸せであるということになり、これは利他的になるのです。だから、自分の幸せだけ考えれば良いのです。
その幸せはどこかにあるのでも、誰かが作るのでも、誰かから与えられるものでもありません。私の心が作り、私の心が与えるのです。私の心次第です。
心 次第とは、
影を作り、悪を作り、不完全を作っているのは、自分の心だからです。
繰り返します。
この宇宙には、私しかいないのです。私の世界しか、私の宇宙しか無いのです。その私が幸せなら、私の世界は、私の宇宙は幸せです。これが天上天下唯我独尊(存)の私の冥利というものです。
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この宇宙には、たった一つのものしかありません。ということは、今、現に存在しているすべての物は、そのたった一つのものではありませんか?。ならば、私も、あなたも、万象万物も、そのたった一つのものではありませんか?。そのたった一つのものを、私達は神と呼んだり、生命と呼んだりしているのです。ならば、私は、あなたは、万象万物は、神ではありませんか?。生命ではありませんか?。
私達は形を見て、鉱物だ!、植物だ!、動物だ!、人間だ!、といっていますが、それらの物はたった一つのものによって創造されたのです。もし、それらの物がたった一つのものでないならば、たった一つしかないという真理は崩れ、宇宙は消滅してしまわねばなりません。しかし、現に宇宙は存在しているわけですから、それらの物がたった一つのものであるという証しになるのです。
だから私は、堂々と宣言するのです。
「この宇宙にたった一つのものしか無いなら、私はそのたった一つのものであると・・・。この宇宙には私しかいないのであると・・・。」
だから私も、あなたも、万象万物も、みな私なのです。私しかいないとは、そういうことなのです。
宇宙があって私があるのではない!、私があって宇宙があるのである。
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