そびえ立つ山の裾野に、無数の道が走っています。果たしてどの道を選んだら、最も早く頂上にたどり着けるのか?。みな溜息を漏らしながら、手探り状態で歩み始めます。あの道を行っては迷い、この道を行っては迷い、時には袋小路に迷い込み、時には堂々巡りをし、よろけ、ふらつき、転び、もう止めようと何度 思ったことか?・・・。それでも何とか今日まで歩んできた私達・・・。そして、ついに本物の道に巡り会えた私達・・・。さあ、道は一本につながりました。もう迷いはありません。あとは頂上を目指し、力強く登るだけです。故郷はもう目の前です。
どのような魂も、いつか必ず目覚めるようになっております。そこに特別早いとか、遅いとか、いったことはありません。同時期に出発した魂は、みな同時期に目的地に着くようになっているのが神の公平さだからです。
楽あれば苦あり苦あれば楽ありで、楽して悟る者もいなければ苦しんで悟る者もいません。私達は浮き沈みを繰り返しながら、いつか父の家にたどり着くようになっているのです。
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環境の用意は、神の公平さを如実に表しています。たとえば、真剣に求める者の行く手には小石一つ落ちていないけれど、遊び心で求める者の行く手には岩や石が置かれているように・・・。これは誰が置くのでもなく、生半可だから、叱咤激励の意味を込めて自分が置くのです。
環境の用意は、いく前世も前から始まっています。それは一瞬一瞬の時の中において、一日一日の生活の中において、一生一生の人生の中において、だから、今、与えられた環境の中で、精いっぱい生きなければならないのです。
環境は嗜め、叱咤激励し、後押ししてくれます。自分の意志で進めない厳しい道も、環境は後押ししてくれます。厭だ!、助けてくれ!、と泣き叫んでも容赦はしません。環境は峻厳な愛そのものなのです。
だから、今の環境に感謝しましょう。
○ 両親に、
○ 兄弟姉妹に、
○ 隣人、友人、同僚、上司、先生など、周りの人達に、
○ あらゆる生き物に、
○ 社会に、国に、地球に、感謝しましょう!。
憎まれ口をいう人も、罵声を浴びせる人も、いやがらせをする人も、嫌な鉱物も植物も動物も、みな自分を成長させてくれる環境です。さあ、感謝しましょう!。あなたの周りに存在するすべてのものは、みなあなたを成長させてくれる頼もしい環境なのですから・・・。
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学びの中でも、介護ほど魂を成長させる学びはありません。これは介護する方も、介護される方もです。特に障害児を持つ親は、一生かかわりあって生きてゆかねばならないわけですから、大変な成長が期待できるのです。とはいっても介護は、心身ともに疲れる大変な作業です。経済的にいっても、家庭を破壊しかねない難事です。
たしかに介護する人から見ると、被介護者は厄介者です。わがままはいうし、憎まれ口はいうし、甘えるし、真夜中に起こされるし、だから声を荒げたり、邪険な態度で接したくなるのも無理はないのです。でもそんな気持になった時、このように考えて下さい。
「被介護者は、自分の為に厭な役を引き受けてくれている犠牲者なのだと・・・。」
そうなのです。被介護者は、いやな役を引き受けてくれている勇気ある犠牲者なのです。誰も、下の世話をしてもらう厄介者などなりたくないのです。でも被介護者は、あなたの為にいやな役を買って出てくれたのです。だから介護しているのではなく、介護させてもらっているのです。なのにいやいや介護しては、被介護者に対して失礼です。
これは私の体験からいえることですが、介護をいやいやしている時は、被介護者は憎まれ口をいったり、我がままをいったりして介護人を困らせるのです。私もはじめいやいやしていましたので、母は私に良く憎まれ口をいったものです。でも、私の為にいやな役を引き受けてくれていると知り、感謝の気持ちで接するようになってからは、母の態度が変わったのです。
魂同士は、介護の意味を良く知っているのです。もし長期間 介護で悩まされている人は、まだ学び足りない何かがあるから介護を卒業させてもらえないのだと思って下さい。そして、何が学び足りないのかじっくり考えてみて下さい。特に障害児を持つ親は、夫婦にどんな過ちがあってこのような子が生まれたのか、良く良く反省しなければなりません。もし過ちに気付き生き方を正したら、子の願いを適えたことになりますので、子供に変化が起きるでしょう。
一方、被介護者の立場から見ると、介護人は大切な手助け人です。介護人がいなくては何もできません。なのに憎まれ口をいって介護人を悩ませては、自分が困るだけです。たしかに、病気になると我がままもいいたくなるし、愚痴の一つもいいたくなるのも分からないではありません。でも、そこに学びの材料があるのです。被介護者は身の不自由さを、次のように考えて下さい。
○ 私は不自由な身体を通して、今、健康の尊さや自由の有り難さを学んでいるのだと・・・。
○ 忍耐力や我慢強さを学んでいるのだと・・・。
○ 介護人の大変さや、人の絆の大切さや、愛の素晴しさを学んでいるのだと・・・。
もしそのように考えることができたら、苦しみは半減するでしょう。さらに、このような身体になったのは、なる原因を自分が作ったからで、決して偶然になったのではないと考え反省の思いを起こせば、さらに状況は好転するでしょう。
この宇宙に一方通行は無いのです。介護する方もされる方も、意味あってそのような立場になったのです。それが理解できれば、介護の仕方もされ方も違ってきます。嫌なことが嫌でなくなるし、嫌であっても嫌さが半減するのです。また、いつ逆の立場になるか分からないのですから、嫌とはいっていられないでしょう。
私達は転生において立場を変えながら、体験し、学び、成長してゆくのです。私はこの事を知ってから、介護することが楽しくなりました。でも私の学びが終わったのか、母の学びが終わったのか、しばらくして母はこの世を去りました。
このように互いに学び終わり、もう学ぶ必要が無くなったら、自然と状況が変わるのです。だから介護する方もされる方も、一日も早く課題を克服するよう努力することです。介護の意味が理解できれば、介護する方もされる方も、感謝の気持をもって接することができるでしょう。
介護人は被介護者に、
○ 私の為に嫌な役を引き受けてくれてありがとう!
○ 介護させてもらってありがとう!
と感謝しましょう。
被介護者は介護人に、
○ 介護されることを通して学ばせてもらってありがとう!
○ 介護してくれてありがとう!
と感謝しましょう。
介護は厳しいがゆえに、共に魂を大きく成長させることができるのです。だから介護は、「求道者の登竜門」といわれるのです。
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この世には本者の指導者より、偽者の指導者の方が圧倒的に多いのです。だから、偽者の指導者に食い物にされてしまう人達が後を絶たないわけです。
本者の指導者に巡り会える人が、どの位いると思いますか?。恐らく、0.00001%いるかいないかでしょう。神の公平性からいって、本者の指導者に巡り会えるチャンスはみな平等に与えられているはずですが、見分ける目を持たないがゆえに、自らチャンスの芽をつぶしているのです。
ではどうすれば、本者か偽者か見分けられるのでしょうか?。
○ 本者は、飾りません。
○ 本者は、現象(神秘)を見せびらかしません。
○ 本者は、団体(会社や会や宗教など)を作りません。
○ 本者は、自力を説きます。
○ 本者は、いかなる偶像崇拝もさせません。
○ 本者は、お金を求めません。
○ 本者は、学びの友を平等に扱います。
○ 本者は、エネルギーを込めて語ることができます。
○ 本者は、「来る者拒まず、去る者追わず」の姿勢を貫いています。
(本者は数にこだわらず質を重んじる。だから信者の数を重視する宗教は、みな偽物と思って良い。)
○ 本者は、権威を振りかざすようなことはしません。
○ 本者は、人を集める宣伝をしません。
よく、真理を金儲けの道具にしている人や団体がありますが、本当にそんな良い方法があるなら、私なら惜しみなくただで公開します。良いことは世に広め、多くの人に幸せになってもらうことが神の願いだからです。真理を金儲けの道具にするなど、もっての外です。
これは特許制度についてもいえることで、本当に世のため人のためになる発見や発明ならば、広く世に公開し全人類の幸せのために使うべきです。利益を一企業や個人に独占させるなど、天に対する反逆です。なぜなら、素晴らしい発見や発明は人の脳から生まれるものではなく、天啓として天から授かるものだからです。
世の中には、子羊の皮をかぶったオオカミが沢山おりますから、よくよく注意しなければなりません。その点、知花先生の教えに出会った皆さんは幸せ者です。これは千載一遇のチャンスです。ぜひ、そのチャンスを逃さないようにして下さい。私達は、今、それほど有り難い道を歩んでいるのです。この幸せに感謝しましょう。
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どうしたことか?。昨日あれほど自覚が強かったのに、今日の自覚の何と乏しいことか?。自分の意識の中のどこを探しても、昨日のような強い自覚は見当たらないのです。自覚とは、このように移ろいやすいものなのだろうか・・・?。でも落胆してはなりません。一年前の自分と比べれば、間違いなく成長しているのですから・・・。良いではありませんか。一歩進んで半歩下がり、一歩進んで半歩下がり、進んでも・・・、真理はどこにも逃げて行かないのですから・・・。
さあ!、「千里の道も一歩から」の心意気を忘れず、亀のように着実に歩みましょう。怠けず怠らずに歩めば、必ず目的地に到着できるのですから・・・。
求道は競い合うゲームではありません。ですから、いたずらに人と競い合っても、張り合っても、ならないのです。
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あなたは生命なのに、今日まで人間だと思い違いをしてきましたね。その誤った思い癖が分厚い壁となって、内なるあなたを長いこと閉じ込めてきたのです。誤った思い癖を打ち砕くのは、容易なことではありません。だから根気よく、叩いて、叩いて、叩き続けるしかないのです。さあ、今日も叩こう!。
○ 一つ叩けば一歩前進!
○ 二つ叩けば二歩前進!
○ 三つ叩けば三歩前進!
○ 百回叩けば百歩前進!
多く叩けば叩くほど、多く前進できます。
「吾生命なり!」「吾神なり!」の想いの繰り返し、それがあなたを高みに引き上げてくれるのです。どうか、繰り返す大切さを知ってください。
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どんな不幸も、どんな幸せも、どんな失敗も、どんな成功も、どんな苦しみも、どんな楽しみも、どんな悲しみも、どんな喜びも、みな悟りの糧となっております。日々の体験一つ一つが、自分の背丈を大きくしてくれているのです。今は分からないかも知れませんが、いつか必ず "そうだったのか!"、と合点のゆく日がやってくるでしょう。だから無駄な人生など無い!、といわれるのです。
○ 一歳で閉じる人生も、百歳で閉じる人生も、みな悟りに必要だったのです。
○ 病で散る人生も、戦場で散る人生も、みな悟りに必要だったのです。
○ 事故で死ぬ人生も、災害で死ぬ人生も、みな悟りに必要だったのです。
○ 痛い!、苦しい!、悲しい!、と泣き叫ぶ体験すべてが、悟りに必要だったのです。
去る人に、逝く人に、"良く頑張りましたね!"と、労いの言葉をかけてあげましょう。
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私達は「悟り」を余所ごとのように考えています。身近でそんな話が出ても、そんなことがあるのか?、そんなことができるのか?、とまるでお伽噺か何かのような感覚で聞いています。ましてや、自分が悟るなどとんでもない!、と考えています。しかし、悟りは余所ごとではありません。あなたの人生の最重要課題なのです。何を放っておいてもやらねばならない、人生の一大事業なのです。どうでしょう?、
知らないのではありませんか?。
ではなぜ知ろうとしないのでしょうか?。
自分を知ることはそんなに特別なことですか?。
当たり前のことではありませんか?。
その当たり前のことを、なぜしようとしないのでしょうか?。
今からでも遅くないのですから、始めようではありませんか。本当の自分を知るのに、早い遅いはないのですから・・・。
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悟りの難しさを考えれば、人を誘うことも、人を引っ張って行くこともできません。自分一人で静かに昇って行くしかないのです。でも、それで良いのです。なぜなら、自分の理解した世界を人に与えることなどできないからです。
悟りの山登りは、一人ひとりの自由意志を待つしかありません。一人ひとりが納得し、その気になって自分の足で登るしかないのです。たとえ代理で登ってくれても、山頂からの絶景は登った人にしか分からないからです。「真理の受け売りはできない!」とは、そういうことなのです。
悟りはあくまでも自力です。食べた本人しか悟りの味は分からないからです。
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● 最も救いようのない人は、
「自分のことを人間だと思い、人間だと信じ、人間として生きている物質人間のことで、唯物論者全員がこの部類に入ります。彼らは、地位や、名誉や、財産や、お金を信仰していますので、手の施しようがないのです。だから彼らは、一歩間違えれば大罪を犯すのです。」
● 次に救いようのない人は、
「自分のことを人間だと思い、人間だと信じ、人間として生きているのですが、何か不幸に出会うと、"罰が当たったのではないか?" と疑念を持つ人です。こういう人達は神を信じなくても、何か目に見えない力に恐れを抱いていますので、罪は犯しても大罪を犯すことはないでしょう。彼らは不幸と幸せの波間を行き来しながら、少しずつ成長してゆくでしょう。」
● 次に救いようのない人は、
「自分のことを人間だと思い、人間だと信じ、人間として生きているのですが、何か不幸に出会うと、"神罰が当たったのではないか?" と神に畏怖の念を抱く人です。こういう人達は、神棚や仏壇に手を合わせます。一般的にいわれている善人とはこの部類の人達で、ここまできた人はもう悪の深みにはまることはありません。彼らの目に神殿が見えてくるのも、そう遠くは無いでしょう。」
● 次に救いようのない人は、
「自分のことを知的に神だと知り、神だと信じようとしているのですが、まだ神としての生き方のできない人です。つまり頭で知っても、心の底から神だと思えない人です。ここまで信仰の深まった人は、人の手本となれます。このような人は周りの人に良い影響を与えても、決して悪い影響を与えることはありません。ただ、時々ネガティブな生き方をしますので、病や災難から逃れられず苦しんでおります。でもここまできた人は、神殿の門前まできていますので、神の光に包まれる日も近いでしょう。」
人には自由意志がありますので、力づくで神の世界に連れて行くわけにはゆきません。たとえ力づくで連れて行っても、心まで連れて行くわけにはゆかないからです。ですから、その気になるまで辛抱強く待つしかないのです。
私達は、同時に二つの信仰を持つことはできないのです。つまり闇も信仰し、同時に光も信仰することはできないのです。だから闇に目を向けている人は、どうすることもできないのです。救いようがないとは、そういった意味なのです。しかし彼らも、いつか必ず光に目を向ける時がやってきます。その時が手を差し伸ばすチャンスです。それまで、温かく見守ってやりましょう。
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本来、悟るのに良い時代、悪い時代などないのです。いつの時代も、どんな時代も、良い時代なのです。悟れるか悟れないかは、本人のやる気次第だからです。真剣に求めれば、いつでも、誰でも、悟れるようになっているのが、宇宙の法則であり、神の愛の深さだからです。悟りの条件を考えてみましょう。
○ 環境を整えることです。
○ 知ることです。
○ 理解することです。
○ 気付くことです。
○ 集中力です。
○ 根気と、やる気と、努力です。
この六点は、どんな時代にあっても欠かせない悟りの条件です。
昔は静かでした。人の行き来もあまりなく、目や耳から入ってくる情報も少なく、外から入ってくる雑音は、今と比べると問題ではありませんでした。ゆえに、物静かに考える時間が多く取れました。これだけ考えると、悟りに良い時代だったといえるかも知れませんが、反対に本者の指導者に出会えるチャンスが少なかったと思われます。
今は、テレビ・ラジオ・携帯電話・インターネットなど情報の媒体が発達しているため、真剣に探せば本者の指導者に出会えるチャンスは多くあります。また交通機関が発達しているため、会いに行くのも容易にできます。さらに、CDやDVDなどの文明の利器が、後押ししてくれる利点もあります。その一方、情報の媒体が雑音を送り込み、心静かに考える時間を与えてくれない欠点もあります。
このように、今も昔も一長一短があるわけですが、何よりも大切なのは本人のやる気です。やる気さえあれば、どんな障害も問題ではありません。
悟りを時代のせいにしないで下さい。それを口にする人は、戦いから逃げている臆病者といわれても仕方がありません。悟りの環境作りは自分がするのです。それは一生一生の人生において、日々の人生において、一瞬一瞬の人生において・・・。だから、今の生き様が大切になってくるのです。
-23-
人生の唯一の目的は、
○ 自分を知ることです。
○ 悟ることです。
悟りは難しいといわれますが、短期間で悟ろうと焦るから難しく感じるのです。私達は永遠の生命ですから、永遠の時をかけるつもりでやったら良いのです。何百万年かかろうが、何千万年かかろうが、あなたを叱る人は誰もいないのですから・・・。 といっても、歩かなかったら着くことはありません。悟りに必要なのは、歩き続けることです。一歩一歩、歩を進めることが大切なのです。歩を進めるとは、
○ 神を意識することです。
○ 生命を意識することです。
○ 本当の自分を意識することです。
怠らず歩んでいれば、必ずゴールテープを切ることができます。
一歩一歩の積み重ねが、あなたを悟りに近付けることを私は保証します。
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真の幸せを得たいなら、人か、神(生命)か、どちらかを選ばねばなりません。肉の快楽も貪り、心の喜びも得たいなど、虫が良すぎるというものです。「二兎追う者は一兎も得ず」の諺のように、人にも生き、神にも生きることなどできないのです。
真の信仰に生きられないのは、人間を捨て切れないからです。涙して訴えてくる人の多くは、人間を捨て切れずに苦しんでいる人達です。
「すべてを捨てて着いてきなさい!」と釈迦がいわれたように、真の幸せを得たいなら、一時の快楽を追い求めないことです。人に生きるのでは無く、神に生きることです。
それには、
○ 強い決意が必要です。
○ 勇気が要ります。
○ 自分を律する強い意志が要ります。
○ 続ける根気と努力が要ります。
偉大なことを成し遂げるには、何かを捨てねばなりません。両手に物を持っていては、梯子は上れないからです。
一時の快楽を選ぶか、永遠の幸せを選ぶかは、あなたの決意次第だということです。
-25-
真の求道者は幸せです。なぜなら、人生の駒を目に見える形で進めているからです。それは求道という形で・・・、瞑想という形で・・・、しかし多くの人は、目に見えない駒の進め方をしています。ただ肉体を維持するために・・・、家族を養うために・・・、この世的な幸せを手に入れるために・・・。たしかに、それも伏線的な駒の進め方ではありますが、真の目的で無いために、目に見える駒の進め方になっていないのです。
目に見える駒を進めている人と、目に見えない駒を進めている人の人生の差は、実に大きいのです。できるなら、目に見える駒の進め方をしたいものです。真剣に求めている人は、優先順位を間違えませんから、常に目に見える形で駒を進めています。生半可に求めている人は、この世のことを優先してしまうので、どうしても目に見えない駒の進め方をしてしまいます。
どうか、優先順位を間違えないようにして下さい。
-26-
なぜ悟りに苦しみが伴うのでしょうか?。いいえ、本当は喜びのうちに悟れるようになっているのです。ただ私達は怠けて歩こうとしないから、いっぺんに走らなければならなくなり苦しむのです。
家の大掃除も、一年間まとめてやるから大変なのです。夏休みの宿題も、いっぺんにまとめてやるから大変なのです。日々少しずつやっていたら、そんなに苦労する事はないのです。悟りだって同じです。一瞬一瞬を、一日一日を、一生一生を、大切に歩んでいれば、そう苦労せずゴールテープを切ることができるのです。いや返って励みになるでしょう。なぜなら、目に見える形でゴールテープに近づいて行けるからです。
宇宙の仕組みは、決して苦しむようには作られていません。怠けるから苦しむのです。
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知花先生の教えを請け最初に思った事は、"これだけ強烈なエネルギーを頂いているのだから、学びの友の中に相当進んでいる人がいるはずだ。ぜひ、その人からも教えを請けたいものだ!" と思った事でした。例えその人が子供であろうと、女性であろうと、老人であろうと、学び浅い人であろうと、少しでも自分を成長させてくれるなら、謙虚に耳を傾ける方が得だと思ったからです。だから当時、そのような人がいないか真剣に探したものです。でも世の多くの求道者は、自尊心を守ろうとするあまり、人の話に耳を貸そうとしません。これでは、真偽を見分ける目が育たないばかりか、せっかくの学びのチャンスを逸してしまいます。外見では、どれだけ進んでいる人か見分けることはできませんが、波動でなら感じられるものです。その波動を感じる敏感さを養うのも学びの一つですし、見分ける目を養うのも学びの一つです。
今、指導者の立場にあろうと、学びの先輩であろうと、自分を成長させてくれる人を見つけたら、謙虚に教えを請うのが真の求道者だと思います。そのチャンスを自尊心で潰しては、悔やんでも悔やみきれません。自尊心を守ることが大切か?、悟りに近づくことが大切か?、真剣に真理を求めている人なら間違わないはずです。
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アスリートの夢は金メダルを取ることでしょうが、それを実現できるのはほんの一握りの人達だけで、殆どのアスリートは無念の涙を呑みます。でも落胆してはなりません。競い合いでは負けても、一生懸命やったことに対するごほうびは、すでに「心の成長」という形でもらっているのですから・・・。結果より過程が大切だといわれるのは、そういった理由があるからです。ということは、あなたがこれまで流した汗と涙は、一滴たりとも無駄になっていなかったということです。
なぜこの世は、相対的にできていると思いますか?。それは競い合いを通して、強い精神力を築き上げるためではありませんか?。
「忍耐力」
「集中力」
「向上心」
これみな悟りに必要な道具ばかりです。私達は相対的な体験を通して、今、悟りの道具を磨いているのです。その事を知れば、どんな厳しい鍛錬も挫けずにやれるでしょう。
心の成長は、一ミリ一ミリ、一歩一歩です。そのためには、目標を設定することが大切です。設定した目標に一歩でも近付けたら、メダルを与えてやって下さい。メダルを与える基準などありません。あなたが "良くやった!" と思えたら、それが基準です。
競う相手は自分自身です。ぜひ、自分に負けない自分を確立して下さい。
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私達は、今の自分の理解力ですべてを推し量ろうとします。でもこの宇宙には、理解すべきことが無限に存在するのです。
宇宙は実に深淵です。極めれば極めるほど、奥に更なる極めるべきことが見えてきます。高みに登れば登るほど、景観の素晴らしさが増してくるのと似ています。"景色が悪い!" と不平不満を漏らす求道者がおりますが、匠の技の素晴らしさは、自分が近付いて はじめて知るのです。素晴らしい景色を見たければ、一生懸命に頂上を目指して登ることです。登ってから文句をいって下さい。きっと景観の素晴らしさに満足するはずです。
-30-
"奇跡を見せてくれたら神を信じる!" という人は、真の信仰者ではありません。何かを見せろというのは、神を試すことになるからです。こういう者に奇跡を見せても、決して信仰を深めることはないでしょう。なぜなら、信仰は奇跡によって培われるものではなく、理解力によって培われるものだからです。
"我が家に帰りたい!、故郷に帰りたい!、父の御胸に帰りたい!"と一心不乱に求める者は真の信仰者です。
"病を治したい!、金持ちになりたい!、幸せになりたい!、神秘力を身につけたい!"と願う御利益信仰者は真の信仰者ではありません。
心から本源に帰りたいと願う者は良く瞑想しますが、御利益信仰者は現象を追いかけるばかりで余り瞑想しません。また知識を追いかける者も、論争に夢中になるだけで余り瞑想しません。
でも、彼らを馬鹿にしてはなりません。なぜなら、動機は違っても、同じ山に登っていることに違いは無いからです。小川が大河につながっているように、真理を求める脇道も大道につながっているのです。
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どんな宗教も、"道徳心を持ちなさい!、倫理観を養いなさい!、人として正しい生き方をしなさい!"と教えます。でも、ただ口先でいって出来るものでしょうか?。出来ないから宗教に頼ってくるのですよ!?。
真の宗教は、人を変えるものでなくてはなりません。それができるのが、瞑想です。私が瞑想を重視するのは、人を変えることのできる唯一の方法だからです。倫理も道徳も人としての生き方も、瞑想によって生命の自覚が深まれば自然とできるようになるのですから、あえて口にする必要は無いのです。
口先で人を変えられるなら、こんな楽なことはありません。変えられないから、今のような狂った社会になっているのです。さあ、口先だけの宗教を捨て、実際に人を変えることのできる科学的瞑想を実践しましょう。
-32-
子供がオモチャをせがむのは、オモチャが何なのか知っているからです。つまり、楽しく遊べる道具だと知っているからです。私達が平安や安らぎを求めるのも、平安がどのようなもので、安らぎがどのようなものか知っているからです。真の平安や安らぎは天にあるのですから、私達は天を知っていたことになります。以前、天にいてその味を知っているから、今、地にいてそれを欲しがるのです。知らない者が求めることはありません。知っているから求めるのです。これは、私達が天の住人であったことの証であります。
-33-
信仰心の持たない人など、この世に一人もおりません。どんな人も、何らかの信仰心を持って生きています。それは、神仏に対する信仰かも知れません。自然に対する信仰かも知れません。地位や名誉や財産に対する信仰かも知れませんが、全く信仰心の持たない人など一人もいないのです。
人間は何かに心を委ねていなければ、生きてゆけないのです。"神など信じない!"と、うそぶく唯物論者ほど肉体に対する信仰心は旺盛です。だから人生の終焉を迎えた時、人一倍肉体に執着を持つのです。
この世の無常なる物を信じていては、心穏やかに生きられません。なぜなら、私達の本性は永遠不滅の生命だからです。永遠なる私達が無常なる物を追いかけ、どうして心穏やかになれましょうか?。私達は永遠なるものを掴んで、初めて心穏やかになれるのです。
-34-
現実逃避者は、真理を追究している者の中にも結構見られます。彼らは求道を隠れ蓑にし、家庭から、社会から、逃避している偽求道者たちです。人だよりに生きている、意志の弱い、勇気のない、人たちです。だから私は時々、学びの場を「駆け込み寺」に譬えることがあるのです。
自分が不滅の生命であると自覚した者は、何が起ころうと心を乱すことはありません。ですからトラブルことも無ければ、人に迷惑をかけることもありません。しかし現実逃避者は、チョットしたことで心を乱しますので、すぐにトラブルを起こしたり、間違いを犯したりします。
現実逃避者と悟り人との違いは、現実逃避者は外の世界があると見て外から逃げているのに対し、悟り人は外の世界は無いと見て外との関係を絶っているのですから、まるで中身が違うのです。さらにいえば、現実逃避者は自分を肉体に閉じ込めた人、悟り人は自分を無限に解放した人です。この違いは、天と地の差があるでしょう。
世の中には、もうすぐアセンションがあって地球が変わる(その時、自分が変わる)と思っている人がおりますが、自力で自分を変えられない現実逃避者だけがそのようなことを望むのです。あなたは、前に体験したアセンションのことを覚えていますか?。覚えていないのではありませんか?。ということは、今と何も変わらないということです。
自分を変えられるのは自分自身です。決して他力に頼らないようにして下さい。
-35-
子供は実に素直です。ですから子供に菓子袋を与えると、すぐに袋を破って中身を取り出そうとします。大人はどうでしょうか?。まずは袋のなぞ解きをします。そして、できるだけ袋を破らず中身を取り出そうとします。さて、どちらが素直な取り出し方でしょうか?。
悟道も同じです。中身が大切なのであって、袋が大切なのではありません。決して美しく装った外形に惑わされないで下さい。
外形とは、
美しく飾られた言葉や文字のこと
姿形のこと
装いのこと
形式や儀式のこと
派手な現象のこと
権威や名声のこと
中身とは、
本当の自分のこと
生命のこと
真理のことです。
-36-
仏像やマンダラを拝んでいる人達だけが、偶像崇拝者ではありません。肉体を自分だと信じている人達は、みな偶像崇拝者なのです。なぜなら、肉体は愚かな像だからです。木を切り刻んで作った仏像も、宇宙の塵(原子)で作った肉体も、何ら変らぬ偶像です。ですから、物質に目を眩まされている人達は、みな偶像崇拝者なのです。物質をどんなに崇拝しても、そこからは何も得られません。物質(肉体)は、必ず消えて無くなる幻だからです。造られた物を崇めるのではなく、造り主である生命を崇めましょう。
"汝の見るもの受け継がん!"と言われるように、生命を観れば(意識すれば)本もの(生命)が与えられ、物質(偶像)を見れば(意識すれば)偽物(物質)が与えられます。宇宙の法則は、意識したものに忠実に働いてくれるのです。それを決めるのは私達の思いです。あなたは、どちらが欲しいのですか?・・・。
-37-
求道の旅は、一直線にはできておりません。脇道にそれたり、堂々巡りをしたり、右に寄れたり、左に寄れたりしながら、ゴールテープを切るのです。赤ちゃんが幼児に、幼児が少年に、少年が青年に成長してゆくように、魂も少しずつ成長を遂げて行くのです。
この世に悪人はおりません。自分が何をしているのか分からない、幼人がいるだけです。幼いから人を憎むのです。幼いから人に迷惑をかけるのです。幼いから危険なことをするのです。これは幼さゆえの罪ですから、責めるわけにはゆきません。
大人になれば、犯した罪が我が身に返ってくることを知りますので、罪は犯さなくなります。さらに成長すれば、すべてのものが自分であることを知りますので、どんなものも自分の如く愛するようになるでしょう。この世に幼人はいても悪人はいないとは、そういう意味なのです。
-38-
誰かに認められて、悟り人になるのではありません。どこかに認定人か裁定人がいて、"この者はここまで進んだから悟りの認定証を与えよう!"、というものではないのです。あくまでも自分自身が心の底から、
「神であった!」
「生命であった!」
「宇宙そのものであった!」
と自覚できて、はじめて悟ったといえるのです。だから認定人は自分自身です。ただし、自覚の深さに際限はありませんから、悟りの認め印を押すことはできないでしょう。その境地がどの程度のものかは、自分でも分からないし、誰にも分からないからです。だから、"悟った!"といってはならないのです。
悟りは夢物語ではありません。真実なるものと結びついた、永遠に失わない喜びの境地です。ですから、逃げて行くことはありません。悟りはあくまでも、意識状態であることを知って下さい。
-39-
世の中には博識者といわれる人達や、クイズを得意とする人達がごまんとおります。そういった人達は理屈っぽく、あまり人のいうことを聴こうとしません。ですから昔から、「知識人は悟れない!」といわれてきたのです。
どうでしょう?、知識でスキーが滑れるようになりますか?、自転車に乗れるようになりますか?、泳げるようになりますか?。どんなに頭で知っても、実際に体験しなければ滑れるようにも、乗れるようにも、泳げるようにもならないのではありませんか?。
悟りも同じです。頭に沢山の知識が詰まっていては、知恵の入る隙間がありません。悟りたければ、頭の中を空っぽにすることです。余分な知識を捨てることです。そして、幼子のように素直に瞑想することです。瞑想が、実際に滑ること、乗ること、泳ぐことなのです。
-40-
知花先生の下に、多くの求道者が集まってきます。彼らは、"素晴らしい真理だ!"といって涙を流します。しかしそれもつかの間で、多くの者は先生の言葉につまずき離れて行きます。言葉につまずくとは、理解できなかったということです。理解できなければ、話を聴いてもおもしろくないのです。これが離れてゆく理由です。
理解できなくても、根気良く聴くことが大切です。何度も何度も聴いている内に、先生から頂いた波動によって意識の高揚が起こり、次第に理解できるようになります。意識の高まりは理解力の高まりを呼びますので、色々な気付きが起きるようになるのです。さらに師授してゆくと波動の同調が起こり、これまで味わったことのない気持ちの良さを体験します。また先生から頂いたエネルギーによって、体調も良くなります。ここまで来た人は、もう離れることはありません。でも、ここまで来る前に離れてゆく人が多いのです。
「招かれし者は多いが、選ばれし者は少ない!」とは、真理を聴いた者は多いけれど、理解のできた者は少ないという意味です。それほど真理を理解するのは容易ではないのです。
-41-
本当の自分を知る厳しさは、口ではいえません。多くの人は、本道に入る前に躓きます。
まず、
人間は実在しない!
肉体は実在しない!
物質は実在しない!
、というところで躓きます。
次に
物質界は実在しない!
幽界は実在しない!
、というところで躓きます。
さらに、
病は存在しない!
老は存在しない!
死は存在しない!
、というところで躓きます
それを乗り越えても、
自覚できなければ知ったことにはならない!
、というところで大きく躓きます。
そして、
この宇宙には私(あなた)しか実在しない!
、というところで完全に躓きます。
このように、本当の自分を発見するまで躓きは続くのです。躓かなくなった時、あなたは選ばれし者となったのです。
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生命へ帰る道は、どれほど遠いのでしょうか?。
私達は、
○ どれほど闇を体験しなければ、光を見ることができないのでしょうか?。
○ どれほど嵐を体験しなければ、穏やかな日を迎えることができないのでしょうか?。
○ どれほど転生を経なければ、我が家にたどり着くことができないのでしょうか?。
○ どれほど苦渋の人生を歩まなければ、生命(神)の自覚を得ることができないのでしょうか?。
この疑問はどこまでも私の脳裏から離れません。どうしたら苦しまず、楽に、早く、我が家にたどり着けるのか?、私はその方法を今後も探し続けたいと思います。
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一番、陥りやすいのは、焦るあまり知的に悟ろうとすることです。知識を組み立て悟ろうとしても、それは無駄骨というものです。なぜなら、悟りは知識を超越しているからです。大切なのは焦らないこと、難しく考えないこと、単純に、素直に、ただ一心に本当の自分を見詰めること、意識すること、それは理屈抜きです。ただただ生命に意識を集中し、天の岩戸をぶち割ることです。
○ 自我で叩くハンマーは、小ハンマー。
○ 心の底から(魂の底から)叩くハンマーは、中ハンマー。
○ 自覚して叩くハンマーは、大ハンマー。
大ハンマーで叩けたら最高ですが、それが適わぬなら、せめて中ハンマーで叩きたいものです。それも 五分間 雑念無しにやれたら最高です。
ハンマーは外にはありません。また誰も与えてはくれません。ハンマーは自分の意志力です。強い思いです。思いはエネルギーですから、強い思いを持てば強く叩けるのです。
あくまでも強気です。自力です。やる気です。根気です。
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信仰浅き者とは、教義や経典をただ盲目的に信じる者をいいます。また外形(儀式・現象)だけを見て信じる者も、信仰浅き者のする所業です。信仰深き者は、決して盲目的な信じ方はしません。まず疑い、そして深く知り、さらに理解し納得して、はじめて信じるのです。その信じ方も体験を通して信じるのであって、人から聴いたものを鵜呑みして信じるのではありません。つまり、自分の心から涌き出てきた思いを吟味し、体感し、自覚し、実際に味わって信じるのです。
目や耳や肌で感じた物に、真実なるものは一つもありません。五官で感じるものは、みな偽物なのです。真実は内側にのみあるのですから、外側から来たものはみな偽物と思ったら良いでしょう。
真理の導き手は、いつも自分の中におります。だから信仰深き者は、外に導き手(本や宗教)を求めないのです。
「未だかって真理の導き手が人手に渡ったことが無い!」
といわれるのは、一人一人の中に導き手がおられるからです。生命がおられるからです。神がおられるからです。
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師と仰いでいた者が亡くなると、あたかも求道の旅が終わったかのような振る舞いをする人がおりますが、求道の旅はそんな軽薄なものではありません。求道の旅は永遠に続けられるものです。それも自分の心の中で永遠に・・・。
師がいなくなることはありません。常にあなたと共におります。会いたかったらいつでも会えます。ですから、何も寂しがることはありません。
○ もしイエス様に会いたかったら、イエス様を呼んで下さい。
○ もしお釈迦様に会いたかったら、お釈迦様を呼んで下さい。
○ もし知花先生に会いたかったら、先生の名を呼んで下さい。
肉体を持つ持たないにかかわらず、あなたの中にはこれまで悟られたすべての聖者がおられるのですから・・・。
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私達は 一体 何を追い求めるべきでしょうか?。消えて無くなるお金や物でしょうか?、それとも永遠に無くならない生命でしょうか?。永遠に無くならない生命ですね。その理由は、私達そのものが永遠不滅の生命だからです。
宇宙は実に正直に私達の要求に応えてくれます。偽物を求めれば偽物が、真実を求めれば真実が・・・。だから聖書では、真実を「求めなさい!、叩きなさい!、探しなさい!、さすれば必ず与えられるであろう!」、と謳われているのです。
また聖書では、「子供がパンを欲しがるのに石が与えられましょうか?、石を欲しがるのにパンが与えられましょうか?」、とも謳われています。”私は求めたが与えられなかった!”という人は、求め方が少なかったか、間違った求め方をしていたからです。「想念は実現の母」ですから、真剣に求めて与えられないはずは無いのです。
人間が作った法は裏切りますが、宇宙(神・生命)が作った法は絶対裏切りません。真の求道者がどんな困難にも怯まず法を求め続けるのは、宇宙の法の完全性を信じているからです。さあ宇宙の法を信じ、求め続けましょう!、探し続けましょう!、叩き続けましょう!。宇宙の法則は、きっとあなたの要求に応えてくれるでしょう。
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人生に迷いは付きものですが、もし迷いに迷った時は、
"一体、自分は何のために生まれてきたのか?"
と自分に問いかけてみることです。
きっと迷いを吹き消すことができるでしょう。
私達は、本当の自分を発見するために生まれてきました。でも多くの人はこの世の華やかさに惑わされ、探求精神を骨抜きにされております。無理もありません。自分の中にも外にも、沢山のサタン達がいるのですからね・・・。でも、決して自分を見失ってはなりません。もし探求精神に迷いが生じたときには、次のように自分に問いかけてみて下さい。
「私は何のために生まれてきたのか?。」
「人生の目的は何だったのか?。」と・・・。
この問いかけは、サタンの誘惑からきっとあなたを救ってくれるでしょう。
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即身成仏とは、ミイラになることではありません。肉体を持ったまま、生命の自覚を持つことをいうのです。その人は、肉を持ちながら生命なのです。地にいながら天にもいるのです。すなわち成仏しているのです。
"死んだらみな仏になるのですよ!"というお坊さんがおりますが、人間だと思って死んだ人が、どうして生命だと思えるようになるでしょうか?。人間だと思っている人は、死んでも人間だと思っていますので、成仏することはできないのです。彼らは人間意識を持ったまま幽界に留まっています。ですから幽界は、迷った人で一杯なのです。
生命だと思っている人は、肉体を脱いだら直接霊界(生命の世界)へ帰りますので、もう肉を持って生まれることはありません。しかし肉体を自分だと思っている人は、肉体に執着していますので、再び肉を持って生まれてくるのです。すなわち、輪廻転生するのです。
良く滝行や、断食行や、山野を駆け巡るなどの荒業をして悟ろうとする人がおりますが、肉体をいじめて悟った人など、未だかって一人もいないのです。肉体をいじめて悟れるなら、スポーツ選手はみな悟っていなくてはなりません。悟りはあくまでも意識状態です。だから肉体業はしないことです。
仏典に書かれていることも、聖典に書かれていることも、鵜呑みにしてはなりません。なぜなら、時の権力者によって書き替えられている部分が多いからです。確実なのは、自分の心に問うことです。
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よく霊が見えるとか、声なき声が聴こえるとか、不思議なことができるなど、現象に囚われている人がおりますが、真理を追究する者にとって、これほど障害になることはありません。なぜなら、真実から目が逸らされてしまうからです。
不思議なことができるから、何かが見えるから、聴こえるから、意識が高いのではありません。そういう人は幽界の低い階層に結びついていますので、返って意識の低い人なのです。
私達が求めるべきものは真実です。本当の自分です。それは、何かが見えたり、聴こえたりするところには無いのです。真実は無形無双の世界、光一元の世界にあるのですから、決して現象の世界(闇の世界)に興味を抱いてはなりません。
真の求道者は、真実のみを追い求めます。謙虚です。素直です。向上心が旺盛です。忍耐強いです。諦めません。自尊心で真実を閉ざす愚かなことはしません。特別なことのできる人は自尊心が強くなるため、人のいうことに耳を貸さなくなります。ですから彼らは、今生、真実を掴むことは絶対ないのです。
さあ、真実のみを追い求めましょう。そこには何の奇跡も、何の現象も必要ないのですから・・・。
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瞑想は生命核(魂)を成長させる最も有効な方法ですが、決意(決心)が生命核(魂)を成長させることは、あまり知られておりません。これは大変な見過ごしであり、人生における大損です。
私達の想いと行いを良く観察してみて下さい。意識するしないにかかわらず、行動する前には必ず決意が伴っているはずです。たとえば手や足を動かす場合も、勝手に手や足が動いているのではなく、意識して動かしているはずです。もっとも、反射運動のような無意識に近い運動もありますが、これは浅い意識レベルで行われている(エネルギー的に低い)決意の伴わない運動ですから、魂の成長にはあまり貢献していないのです。しかし、深い意識レベルで行われる運動には必ず決意が伴っていますから、魂の成長に大きく貢献しているのです。
やろうと強く決意する想念は、エネルギーを集めるのです。エネルギーが集まることは、意識核が集まること、原子核が増えること、すなわち魂が成長することなのです。それも、嫌なことであればあるほど強い決意が必要になりますから、それだけ魂が成長するのです。
たとえば、冬の朝が寒ければ寝床から出るのに強い決意が必要でしょう。人の嫌がる仕事を引き受けるにも、強い決意が必要でしょう。人にお金を恵むにも、なけなしのお金を恵むには強い決意が必要でしょう。私たちは嫌なことを避けたがりますが、これは魂の成長にとって大変な損なのです。このことについて、私の体験談を紹介しましょう。
それはそれはとても嫌な集会があり、そこで謝らなければならない立場になったことがありました。そのとき、手足が震えるほどの強い勇気と強い決意が要りました。でも、やり終えた後の達成感、あのすがすがしさ、あの充実感は、嫌なことを補って余りあるものでした。私はその時、何となく自分が大きくなった感じがしてうれしくなったものです。
もうひとつ、私が人生の一大転換を図った時のことです。それこそ、断崖絶壁から飛び降りるくらいの勇気と決心が要りました。でも、それをやり終えた後の私は、すっかり人が変わってしまったのです。何事にも動じなくなったのです。これは原子核が大きく増えたために起こった変化だと、今でも私は思っています。このように私の体験からいっても、嫌なことに挑戦すればするほど自分を大きく成長させることができるのです。だから私はいうのです。人から嫌なことを押し付けられたら、宝物をタダでもらったようなものだから、喜んで引き受けなさいと・・・。でも多くの人は、嫌なことを人に譲ったり先送りしたりしています。どんなに先送りしても、課題を克服しない限りまた同じ課題が与えられるのですから、先にやってしまった方が気が楽です。では、なぜ人は嫌なことを避けたがるのでしょうか?。
私達の肉体には五感が備わっていますが、この五感は心地よいもの、快適なもの、怠惰なものに傾きやすく、苦しいこと、きついこと、厳しいことは避けたがるのです。サタンの誘惑とは、この五感(肉欲)の誘惑のことをいっているわけですが、多くの人はこの五感の誘惑に負け、楽な方へ 楽な方へ 身を置いています。特に、快適・便利・快楽、を追い求める今日の文明は、多くの人達を堕落へ運んでおります。
たしかに、嫌なことはしたくないものです。でも、それでは強い魂を育てることはできないのです。どうか強い決意をもって自我(サタン)の誘惑を退けて下さい。これが聖戦とかジハードとかいわれる戦いで、私達はこの戦いに勝ってこそ、この世に生まれた甲斐があるのです。
インドのマザーテレサは 生涯 人の為に身を捧げましたが、それは自分の為でもあったのです。私達も人の嫌がることを率先してすれば、それは自分の為にもなるのです。もし人から嫌なことを押し付けられたら、自分を大きくできるチャンスだと考え、喜んで引き受けて下さい。
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