人は天国に帰ることを憧れますが、天国はあくまでも意識状態であって、どこかに天国という場所があるわけではありません。
天国とは、幸せな意識状態を指す言葉です。その言葉を自分のものにするには、心の底から本当の自分を知らねばなりません。なぜなら、唯一至福に満たされるのは、本当の自分を知った時だからです。
天国に入るのに、地位も、名誉も、お金も、何も要りません。ただ、生命の自覚を持つだけです。生命の自覚が持てれば、幸せは自分の意識の中の出来事であることが解りますので、その心はもうどんなことにも動揺しなくなるのです。その者は、もう天国に入ったのです。
なぜ、生命の自覚が持てれば幸福感に満たされるかといいますと、生命には何でも与えられているからです。生命は満腹なのです。満ち足りているのです。
天国はどこか遠くにあるのではありません。一番身近な自分の心の中にあるのです。
それは、
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自分を幸せにしている者は、宇宙を幸せにしており、他者も幸せにしております。なぜなら、自分は宇宙そのものであり、他者そのものだからです。裏返せば、自分が不幸であれば、宇宙も、他者も、不幸だということです。
宇宙に何か一つでも苦しんでいるものがあれば、自分が苦しくないはずはないのです。その何かは、自分だからです。あなたが苦しんでいる人を見て平気でいられないのは、その苦しんでいる人が自分であることを本能的に知っているからです。
では自分を苦しめず、他者も苦しめず、宇宙も苦しめないためには、どうすれば良いのでしょうか?。それは、苦しみを認めないことです。認めないとは、嫌なものを意識に入れないこと、入れても善きに受け取り、決して心を痛めないことです。そうすれば苦しみは生まれません。自分が苦しまなければ、宇宙も他者も苦しみません。これが自分を苦しめず、宇宙も苦しめず、他者も苦しめないコツです。
自分を苦しめている人は、宇宙を苦しめ他者を苦しめている大罪人です。大罪人呼ばわりされたくなければ、決して自分の心の中に苦しみを作らないことです。
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生きているとは何でしょうか?。ただ息をしていること、ただ気持ちの良いこと、ただ痛いこと、ただ楽しいこと、ただ苦しいこと、それが生きていることなのでしょうか?。
生きているとは、喜びを、感動を、幸せを、心の底で感じている状態をいうのです。よく、生きている証が欲しいと肉体を痛め付ける人がおりますが、肉体は生きてはいないし実際には無いのですから、そんな事をしても生きている証が得られるわけはないのです。生きているのは唯一意識(生命)ですから、意識を喜ばしてこそ、真に生きていることになるのです。
正に生きているとは、感動に、喜びに、幸せに、浸っている意識状態をいうのです。
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なぜ不幸と思うのでしょうか?。なぜ幸せだと思うのでしょうか?。それは、他人と比べるからではないでしょうか?。もし比べる相手がいなければ、自分が幸せか不幸せか分かるはずがありません。どんなに幸せであっても、どんなに不幸せであっても、それが当たり前と思えば、幸せとも不幸せとも思えないからです。相手と比べてはじめて、「ああ私は幸せだ!」と思えるし、「私は不幸だ!」と気付けるのです。だから、比べなければ不幸は生まれないし、幸せもまた生まれないのです。
でもこれは逆も真なりを言ったもので、本当は幸せも不幸も比べて生まれるものではないのです。なぜなら、幸・不幸は当人だけが感じる主観的なものだからです。本当は幸・不幸は公平なのです。億万長者が感じている幸福感と、浮浪者が感じている幸福感をどうして比べることができますか?。比べられませんね。物質的豊かさを比べ、幸・不幸と思っているだけです。比べるところに、幸・不幸が生まれると私が言ったのは、客観的思考の中から生まれた物質界特有の感じ方であって、実際、幸・不幸は比べられないのですから、そのようなことは言えないのです。でも物質界特有の感じ方ができればこそ、私達は人に負けないよう頑張り努力するのですから、幸・不幸を客観的に感じるのは決して悪いことではないのです。
私達がこの相対界に出てくる目的は、比較体験を通して正しい判断力と見識力を身に付け、絶対不動の幸せを手に入れるためなのです。
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天国という場所があるわけではありません。天国は、私達一人ひとりの心の中にあるのです。それは意識状態として・・・、心的状態として・・・、だから天国に入りたければ、自力で天国を持ってくるしかないのです。
どんなに信心深くても、心が幸せで無かったら天国に入ることはないのです。天国は、私達の幸せな心の中にあるのです。では、何が幸せな心にしてくれるのでしょうか?。
いいえ、本当の自分を知った心がしてくれるのです。本当の自分を知れば、心は喜びに満たされます。その喜びに満たされた心的状態が天国ですから、自分で天国を持ってくるしかないのです。
ではどうすれば、自分で天国を持ってくることができるのでしょうか?。それは、生命に対する己の理解力です。納得力です。自覚力です。それを可能にするのが瞑想です。
さあ瞑想し、自分の手で天国を持ってきましょう。
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ラジオやテレビの出始めの頃は番組も少なかったので、家族全員が同じ番組を見ていました。食事も家族全員で食卓を囲み、同じ時間に、同じ物を食べていました。またどこか旅行に出掛ける場合も、家族全員で行ったものです。何をするにも家族全員が参加し、共に楽しみ、共に夢を膨らませたものでした。ですからその頃は、家族全員が一つになっている実感があったものです。
今はどうでしょう?。経済的に豊かになったお陰で、家族一人一人が自分の部屋を持てるようになりました。テレビも、一人一台あてがわれるようになりました。旅行も、自分の稼いだお金で勝手に行けるようになりました。確かに見かけは幸せそうに見えますが、本当に幸せになったのでしょうか?。豊かになった今日の方が、家庭崩壊、殺人、強盗、自殺、事故、病気などが多くなっているのではありませんか?。こうして見ると、豊かさと幸せは関係ないように思います。
そうです。幸せは、物やお金が関係しているのではなく、一人一人の心の在り方が関係しているのです。幸せを感じるのは、肉体ではなく心だからです。
私達は物事を逆さまに見ているのです。
同じように幸せも、
心は原因で、幸せは結果です。どうか、”原因(心)あっての結果(幸せ)である!”、という幸せの原理を知って下さい。
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どんなに美しく装っていても、どんなにきらびやかに飾っていても、外側には何一つ幸せの種はありません。なぜなら、外側の物はすべて消えゆく幻だからです。幻を手にして幸せになった人など、未だかって一人もいないのです。
五感に入ってくるものは、みな苦しみの種になるものばかりです。なのに人間は、どうして外側に幸せを求めたがるのでしょうか?。それは幸せの種がどんなものか?、どこにあるのか?、知らないからではないでしょうか?。
幸せの種は、私達の心の中にあるのです。その種は見えないし、触ることもできませんが、間違いなく一人ひとりの心の中に実在するのです。その種は、宇宙に一つしか無い「生命」という掛け替えのない種です。その種は、腐ることも摩耗することも、増えたり減ったりすることも無い、不変にして不動の種、永遠にして無限の種です。その種に水を与え、肥料を与え、大切に育てましょう。そうすれば、きっと芽を吹き、花を咲かせ、実を結ぶことでしょう。
○ 意識がその水です。
○ 良い想いがその肥料です。
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どんな楽しいことも、同じことを繰り返していると必ず飽きがくるものです。この世に飽きのこないものなど、何一つ無いのです。飽きないことを望む人がおりますが、もし飽きなかったら、それは苦しみとなりませんか?。考えても見て下さい。同じ家族同士が、永遠に顔を突き合わせていられるでしょうか?。同じ環境の中に、永遠に閉じこもっていられるでしょうか?。永遠にですよ・・・。多分、「もう沢山だ!、何とかしてくれ!」と叫びたくなるでしょう。
滞りは宇宙の死です。飽きがくるから、新しいものを求めて努力するのです。飽きがくるから、進歩発展しようと努めるのです。もし飽きがこなかったら向上心は涌かないでしょうから、進歩も発展も望めないでしょう。神様が飽きのくる仕組みを作られたのは、宇宙に新鮮さを吹き込み、進歩発展させるためなのです。
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この宇宙に一方通行はありません。押せば 押し返されます。引けば 引き返されます。やれば やり返されます。与えれば 与え返されます。今、私達は、相対的体験を通して、何が善いか悪いか学んでいるのです。
このようにいうと、マゾヒストのように聞こえるかも知れませんが、もし毎日、ご馳走ばかり食べていたら、ご馳走がご馳走で無くなってしまうのではありませんか?。毎日、同じ美人と接していたら、その美人に何の魅力も感じなくなるのではありませんか?。毎日、楽しいことばかりしていたら、楽しいことも楽しくなくなってしまうのではありませんか?。いや、楽は苦の対極にありますから、逆に苦しくなるでしょう。
私達は極右と極左を体験し、中庸の有り難さや素晴らしさを知るのです。このことが分かってくると、どちらにも偏らない中道・中庸を歩むようになります。私が、”苦しいことも不幸せなこともあって良い!”といったのは、中庸を発見するためであり、”苦しいことや不幸せなこと”そのものが良いといったのではありません。
神は愛なりです。愛こそ、中庸こそ、真の幸せの原点であることを知って下さい!。
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”人生は苦しみの連続である!”といわれますが、その思いは、今生、 "いや!" というほど苦しみを味わった者ほど強いようです。だから、このまま眠りに就き、二度と目覚めなければ、どれほど幸せかと思いたくなるし、永遠に意識の途絶えることを夢見たりもするのです。でも私達の意識は、永遠に無くなることはありません。どんなに無くなりたいと願っても、決して無くなることはないのです。なぜなら、私達そのものが宇宙そのものだからです。もし私達の意識が無くなるなら、宇宙も無くなってしまうことになり、すべて「無」の中に葬り去られてしまうことになります。そんなことは絶対あり得ないわけですから、宇宙も、私達も、決して無くなることはないのです。もう諦めましょう。自分の意識が無くならない事実を認めましょう。それよりも絶対無くならない自分の意識を、どのような状態に置けば幸せか?、そのことだけを考えましょう。
そうです。永遠の意識(命)を持つ者の究極の望みは、「いかに自分の意識を幸せの中に留め置くことができるか?、それも永遠の時の中に絶対飽きない状態で・・・。」なのです。
では、その幸福感とは、どのような意識状態なのでしょうか?。
○ とろけるような幸福感・・・?
○ とろけるような喜び・・・?
○ 満ち足りた喜び・・・、満足感・・・?
○ 喜びを喜びとも思わせない静かな喜び・・・?
○ とろけるような気持ちの良さ・・・?
○ 永遠にそこから出たくない平安と安らぎ・・・?
○ どんな言葉を持ってきても表現できない究極の幸福感・・・?
そうです。この幸福感は伝えようが無いのです。一人ひとりが、自分で味わうしかないのです。いずれにしても、この幸福感を掴まんがために、今、私達は奮闘しているのです。
-216-
表現宇宙で展開する事象(物語)は、弾け飛ぶ泡粒のようなもので、真実なるものは一つとてありません。どんな美しい景色も、どんな素敵な美人も、どんな素晴らしい文明も、みな蜃気楼のように消え去ってしまう幻です。唯一真実なるものは、自分の意識(思い)だけです。このことを踏まえた上で、幸せを得る方法を考えてみましょう。
自分の意識(思い)は、自分でどうにでもできる自由なものです。その自由な思いをどう使うかは、自分の意思次第なのです。自由な思いを良く使えば、幸せになれます。悪く使えば不幸せになります。これは誰がするのでもなく、自分の自由な思いがするのです。ならば、自分の自由な思いを良く使おうではありませんか?。すなわち、怒りや、憎しみや、恐怖や、心配などの想いを持たず、愛や、慈しみや、平安や、希望の想いで満たすことです。
私達の本性は生命そのものですから、本来、私達の思いの中には善い想いしかないのです。善い想いしかないのに、どうして悪を住まわせるようになったのでしょうか?。それは人間と思う迷いが自我を生み、その自我が悪を住まわせるようになったのです。
でも、
そのどちらを選ぶかは、本人に任せられています。前者を選べば、その時は楽しくても後で苦しみがやってきます。後者を選べば、永遠の平安の中に住むことができます。どちらを選ぶべきかは、もうお判りのことと思います。
自分の心に一時も悪しき想いを住まわせないこと、それが幸せを得るコツです。自分の思いは自分でどうにでもできるのですから、不幸になったからといって人のせいにしないで下さい。幸せになるも不幸せになるも、すべて自己責任です。自由な思いを持っているのは誰でも無い、自分自身だからです。
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人間は、一人で生きることはできません。それは、鉱物も、植物も、動物も、みな同じです。なぜ一人で生きられないかといいますと、この世は相対的にできているからです。相手があって、はじめて自分があるのです。相手が生きているから、自分も生きられるのです。また私達の心は、もともと一つの心から出てきたものですから、一つの心に帰りたい本能的欲求が、他の物を求めさせるのです。
なぜ人間社会に、天皇や、国王や、総理大臣や、大統領などが必要かといいますと、拠りどころが無くては人心がバラバラになってしまうからです。もともと一つの心は、拠りどころとなる核がなくては秩序が維持できないのです。原子に核が必要なように、真珠貝に核が必要なように、人間社会にも拠りどころとなる求心核が必要なのです。要するに、相対の中で絶対の自分を発見するためには、沢山の相手を認めながら一つに結集する体験が必要なのです。
幸せという天国は、
「多を通して一つを知った心の中にしか無いからです。」
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この宇宙の面白いところは、本当に無いものが見え、本当に有るものが見えない点です。本当に無いものとは物質のこと、本当に有るものとは生命のことで、私達はその両方のものを見る目を持たされています。もし、見えない生命を見ているなら心眼を使っていることになり、その者は本当にあるものを見ていることになります。もし、見える物質を見ているなら肉眼を使っていることになり、その者は本当に無いものを見ていることになります。本当に無いものを見て、どうして幸せになれるでしょうか?。
私達は本当に有るものを有ると思えるようになって、はじめて天国に入ることができるのです。そのためには、本当に有るものを「有る」と思える理解力が必要です。なぜなら、理解力が見えないものを見えるようにするからです。
どんなに沢山の物を持っても、私達は幸せにはなれません。永遠の生命が、朽ち果てる物質を掴んで幸せになれるわけがないからです。私達が心から幸せに浸れるのは、自分の本性が永遠の生命であると心底で思えた時です。
すなわち、
「本当の自分を心底で理解できた時、はじめて天国に入ることができるのです。」
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これまで述べてきましたように、良いことをしたから天国に入れるのでも、宗教をやっていたから天国に入れるのでもありません。その人の理解力が天国の扉を開くのです。つまり自分が心の底から、「生命である!」と思えるようになって、はじめて天国に入れるのです。だからどんな極悪人も改心し、自分が生命であると思えるようになれば、天国に入ることができるのです。だから私は、天国に入るチャンスを人の手で奪う死刑などあってはならないというのです。
よく、世間には、"あの人は人のために尽くしているから、間違いなく天国に帰れますよ!"という人がおりますが、天国に入るのに、善人悪人、頭の良し悪し、お金や財産、地位や名誉、宗教など、一切、関係ありません。
天国に入るための条件は、
○ 自分は生命である!
○ 自分は宇宙である!
○ 自分は神である!
と思えるようになることだけです。
思えるようになるとは、そのものになることです。頭で知っただけでは何の変化も起きません。変化が起きるのは、心の底でそう思えた時です。
愛だ!、調和だ!、分かち合いだ!、と美しい言葉を並べても、どんなに素晴らしい讃美歌を歌っても、本当の自分が自覚できなくては天国に入ることはできないのです。宗教家のいっている天国など、どこにもありません。だから宗教家で天国に帰った人は、未だかって一人もいないのです。
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世の中には、酒に溺れ苦しんでいる人がおります。麻薬の虜になり苦しんでいる人がおります。パチンコ・競馬、競輪など、ギャンブルから足を洗えず苦しんでいる人がおります。情欲や性欲に溺れ、正気を失っている人がおります。ブランド品を買いあさり、満たされぬ心を慰めている人がおります。
人はなぜこのような過ちを犯すのか、その心理状態を追求してゆくと面白いことが分かってきます。
私達は意識するしないにかかわらず、常に幸せを求めているのです。でも、どうしたら真の幸せが得られるかが分からない!、そこで一番簡単に得られると思われる、食欲・性欲・物欲の三欲に走るのです。
地位や名誉や権勢欲に走るのも、突き詰めればみな真の幸せを得たいがためです。しかし三欲を満たしても、地位や名誉や権勢欲を満たしても、真の幸せは得られません。当然です。真の幸せはこの物質の世界には(五官の中には)無いからです。
覚者には、なぜ欲が無いのかといいますと、真の幸せに直接触れる技術を身につけているからです。でも私達はその方法を知りませんので、五官を刺激しては、かりそめの幸せに浸っているのです。
麻薬に溺れるのも、性欲に溺れるのも、グルメに狂うのも、自己顕示欲に狂うのも、みな真の幸せが欲しいためです。この社会では、お金がそれを得る手段となっていますので、お金が敵と呼ばれる拝金主義へ傾いてしまうのです。
真の幸せを得るためには、本当の自分を知ることです。本当の自分を知れば、真の幸せに直接触れることができますので、もう麻薬や、酒や、性欲などの代替え品はいらなくなるのです。
真の幸せを得たい人は、どうか本当の自分を知って下さい。
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