目的なしに山の中を歩くのは苦痛なものです。ボールを追いかけ歩くから、一日中 歩いても疲れないのです。引退したアスリートが亡霊のようになってしまう、定年退職した人が急に老け込んでしまう、といったことが起きるのも、生きる目的を失ったからです。人間は目的を持たず生きることなどできないのです。だから多彩な趣味を持ったり、旅行をしたり、買い物に興じたりして自分をごまかしているのです。でも、どんなにごまかしても心は満足しません。当然です。なぜならそれらの目的は、すべて失う目的だからです。永遠の生命が失うものを追いかけ、満足するはずがありません。私達は永遠の生命ですから、永遠のものを追いかけなくては満足できないのです。
-75-
人間の本性を探ることは、実に意味深いものがあります。なぜなら、それによって生き方が全く違ってくるからです。私は人間を二つの視点から思索してみました。
一つは、
「人間は肉の塊であり、意識や思考はその肉から生まれるものである。したがって、生きている間は個々それぞれの肉が、それぞれの責任において快適に過ごせるよう努力すれば良く、それが人に迷惑をかけず対立しないものであれば、何をしても許されるものである。よって倫理も道徳も宗教も必要とせず、ただ肉体の維持がスムーズにゆくよう心掛ければ良い!。」といった唯物観に立った考え方です。
二つ目は、
「人間は意識(心)そのものであり、肉体はその意識の乗り物であり表現媒体であるから、肉体を大切にする以前に、まずは心の安寧を図らねばならない。また法則によって支配されている宇宙においては、法に逆らえば苦しみや悲しみを生み出すことになるから、我々は法を理解し、尊び、遵守して幸せの道を歩くべきである!。」といった唯心観に立った考え方です。
唯物観に立てば、物やお金を多く持つことが幸せの基準になりますから、競い合いや奪い合いなどの闘争社会が生まれるのは当然でしょう。さらに唯物主義者は、人生を肉体ある限りと思っていますので、どうしても刹那的・短絡的な生き方をしがちです。他人の迷惑も顧みず、おもしろおかしく生きる人達が後を絶たないのはそのためです。
唯心観に立てば、心は永遠不滅のものですから、失うことも、奪われることも、死におびえることもありません。ただ一心に秩序と平安を保とうとするでしょう。要するに人々は、物より心を重視した穏やかな世の中を志向するようになるのです。
どちらが平和な社会を生み出すかは、もうお分かりのことと思います。しかし多くの人達は、唯物観に立った生き方をしています。人生の目的が不明確だから、そのような生き方をするのです。入口を間違えれば、おかしな出口に出るのは当たり前です。いかに正しい目的を持つことが大切か、このことからも分かろうというものです。
-76-
何度もいいますように、人生の目的は「本当の自分を知ること」です。子孫繁栄のためでも、良い家庭を築くためでも、地位や名誉を勝ち取るためでも、大金持ちになるためでもありません。それらの目的は、あくまでも肉体を維持する伏線的目的であって、真の目的では無いのです。といっても私は、この世の生活を否定しているわけではありません。 "この世の生活に目がくらまされ、人生の目的を見失ってはなりませんよ!"、といっているのです。
これはどんな道を極める場合にもあてはまることですが、挑戦するには事前に様々な準備と計画が必要です。たとえばスポーツや芸術を極めるには、まず基礎体力や精神力を養う必要があるでしょう。また、強い意志力や感性やイマジネーションも磨かねばならないでしょう。さらに、肉体を維持する経済的環境も整えねばならないでしょう。また、鍛錬する道場(環境)も探さねばならないでしょう。そして、一番肝心な指導者も見付けねばならないでしょう。これらの準備が整って、はじめて難問に挑戦できるのです。本当の自分を知るにも、同じような準備と計画が必要なのです。
幸い荒野といわれるこの厳しい社会は、悟りに必要な道具を磨く格好の舞台になっています。私がこの世のどんな体験も否定しないのは、この社会で体験した伏線的目的が、後に本線的目的を達成する足場作りになっているからです。つまり目的を達成するためには、この伏線的目的で、もまれ、叩かれ、強くなる必要があるのです。
どれも悟りに必要なものばかりです。それを養う場が、荒野といわれるこの社会です。では伏線的目的と本線的目的は、どのように違うのでしょうか?。
例えていえば、急峻な氷壁に挑むための装備や心構えなどの準備が伏線的目的だとすると、実際に氷壁にピッケルを打ち込んでよじ登る行為が本線的目的といえるでしょう。具体的には、生命の実態を知り、さらに理解力を深め、生命の自覚を高めて行くこと・・・、そして、一瞬一瞬、一刻一刻、一日一日、欠かさず生命を意識し、生命を自分として生きることです。(ピッケルとは瞑想のことで、本当の自分を知るために欠かせない道具です。)
このようにいうと、とても出来そうにない!、とたじろぎそうになるかも知れませんが、心配いりません。そこまで行くと、ちゃんとした指導者にも巡り会え、また悟りやすい環境も用意されるものです。遠くから見ると大変そうに見えますが、近づいて見ると案外そうでもないのです。
人生の目的をあまり深刻に考えないで下さい。どんな体験も、それなりに目的に適っているのですから、案ずることなく 今 与えられた環境で精いっぱい生きたらいいのです。
-77-
人生の目的が本当の自分を知るためにあるなら、今日のような弱肉強食まがいの経済は、必要ないのではありませんか?。寒さをしのげる衣服と、大の字になって寝られる部屋と、そこそこの食べ物があればいいのですからね・・・。大邸宅や高級車やぜいたく品を欲しがるから、沢山のお金が必要になるのです。
お金や財産を沢山持っても、死ねばみな置いて行かねばならないのですよ。その置いて行かねばならない物の取り合いをしているのが、人間ではないでしょうか?。命をかけるだけの価値があると思いますか?。私達が奪い合っているものは永遠のものですか?、みな失うものばかりではありませんか?。生きる目的が不明確だから、そのような生き方をするのです。
真の目的を知ったら目線が揃ってきます。足並みが揃ってきます。目的地を知った者が、バラバラな行動を取るわけがないからです。だからどんな目的にせよ、目的を見い出した人の目は輝いているのです。
どうでしょう、現代人の目は輝いていますか?。食べるという切実な目的のあった終戦直後の方が、輝いている人が多かったのではないでしょうか?。今、輝きが見られないのは、物が豊かになり何に目的を見出したらいいか分からなくなったからです。今、目を輝かしているのは、スポーツマンか、芸術家か、ガムシャラに金儲けに走っている人達くらいなものです。それ以外の人達は、可もなく不可もなくといった、のらりくらりとした生き方をしています。今、目を輝かせている人達も、真の目的ではないわけですから、いずれ亡霊のようになってしまうでしょう。
人間は今、完全に行き先を見失っています。満たされぬ心を、買い物や、趣味や、旅行や、ゲームなどでごまかして生きています。それもこれも、人生の目的が不明確だからです。さあ、人生の目的をはっきりと掴みましょう。そうすれば、悔いのない人生を送ることができるのですから・・・。
-78-
それにしても人生とは不思議なもので、良くも悪くも最終的には一つの道に通じているのです。どんなに後ろ向きに走っているつもりでも、気がついてみると前向きに走らされているのが人生なのです。人生は一直線には出来ていないのです。一体こんな回りくねった道に何の意味があるのだろう?、と思うような道を歩まされることもしばしばあるのです。でもどんな曲がりくねった道も、みな目的地につながっているのです。
たとえていえば、人生とは宇宙のベルト・コンベアーの上に乗っているようなものです。その宇宙のベルト・コンベアーは、真の目的地に向かって一直線に動いています。どんなことが起ころうが、この動きは変わらないし止まらないのです。その上に乗せられているのが私達ですから、どんなに逆らっても逆らい切れるものではないのです。
たとえば(A)という人は、ベルト・コンベアーの動きに沿って前向きに歩いているとします。(B)という人は、ベルト・コンベアーの動きに逆らって後ろ向きに歩いているとします。当然、二人の距離は開いて行くでしょう。でもどんなに(B)が逆らっても、いつか必ず(A)の位置まで戻されるのです。戻される分余計な動きをしなければならないわけで、その余計な動きが苦しみや悲しみなのです。その苦しみや悲しみは、逆らえば逆らうほどきつくなるのは当然で、今、塗炭の苦しみに喘いでいる人は、それだけ逆らって生きてきたという証なのです。
真の目的を発見するためには、どうしても苦しみが必要なのです。人間は苦しい体験を通さなければ明かりに気付かないからです。その意味では、学ぶ苦しみも、働く苦しみも、お金を儲ける苦しみも、地位や名誉を得る苦しみも、また家庭的な悩みも、肉体的な悩みも、本線に入るための伏線的目的として、みな必要な体験と考えたらいいでしょう。だから私は、どんな体験も否定しないのです。
-79-
人間は目的意識を強く持った時、とんでもない力を発揮するものです。たとえば、スポーツ選手が一心に目的に向かって挑む時、大記録を打ち立てたり、絶対絶命のピンチを切り抜けたりします。ところが一旦、目的が失われると、ガタガタと崩れてしまいます。
真の求道者はこういいます。
「もし本当に真理を我がものにできるなら、火の中であろうと、水の中であろうと、地の果てであろうと、また身が裂けようと、手足をもぎ取られようと、ひるむものでは無い!」と・・・。ニセモノの目的を目指す人でさえ途轍もない力を発揮するのですから、ホンモノの目的を目指す求道者にとっては、この世の苦痛など何とも思わないでしょう。
今、小中学で学級崩壊や登校拒否が起きているのは、子供達に正しい目的が示されていないからです。ただ勉強しろ!とお尻を叩かれたのでは、子供達が横を向くのも当たり前です。子供達は真実を知りたがっているのです。特に最近の子供達は意識が高いので、その欲求が強いのです。
近年、日本では、年に三万人を超す自殺者を出しておりますが、この中には人生の目的を見失い、命を絶った者も少なくないのです。特に若者の中に多いのです。もし彼らの前に真の目的が示されれば、目をランランと輝かせ希望を持って生きることでしょう。おそらく自殺する者など、一人もいなくなるでしょう。
さあ、真の目的を掲げましょう。真の目的に向かって進む人達の目には、一点の曇りも見えません。見えるのは希望の光のみです。
-80-