魂の進化を左右するのは、文明でも社会システムでもありません。人生劇場における体験です。その証に、このように文明が進んでいるにもかかわらず、未だに動物以下の生き方をしている人達が沢山いるではありませんか?。これだけでも、文明と魂の進化が無関係であることが分かります。だからどんな時代の下に生まれようと、どんな文明の下に生まれようと、落胆することもなければ悲観することもないのです。大切なのは、
「人生劇において、どれほど本当の自分を知ったか?。」
「どれほど宇宙の仕組みを知ったか?。」
それだけです。もし本当の自分を知る人が多くなれば、地上の習わしや仕組みに振り回されることがなくなり、当たり前のことを当たり前のようにできる社会が、当たり前のようにやってくるでしょう。
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私達は何かというと、利害得失によってすべてを測ろうとします。私はこれをすることによって損をするのか?、得をするのか?。あの人は私に利害のどちらをもたらすのか?。
おべんちゃら、おべっか、へつらい、夏冬の贈答、何々のお返し、これみな損得勘定から生まれた偽善行為です。醜い賭け引きのうちに行われる商取引も、計算のうちに行われる人と人との付き合いも、みなその考えの域を出ておりません。一体 人間は、どこに真心を置き忘れてしまったのでしょうか?。これは個人に限らず、企業間においても、国家間においても、当然の如くその考えの下に行われています。だから、いつも不信と疑惑を抱え対峙し合わなければならないのです。その疑惑と不信を取り除く道具として軍備は必要となり、さらに対決色は深められます。このような感情を持ち合い、人の世に信じられる社会がやってくるわけがありません。もし、何事も損得勘定抜きで行われたら、そこにはすがすがしさや、晴れやかさや、爽快さだけを持ち合うことができるでしょう。
私達が何よりも大切にすべきは、正しい動機と純粋さではないでしょうか?。
どこまでも幼子のような純粋さを貫く姿勢、当たり前のことを当たり前のようにやる姿勢が大切です。
例えば、ここに五人の人がいて、五個の食べ物があったとすれば、一人一人に等しく分け与えるのは当たり前です。数が足りないなら、緊急を要する人から与えるのは当たり前です。
利害や損得に縛られ、慣習に縛られ、権力におもねるなど、しがらみに自由を奪われ、やりたいことをやらないのは不自然です。もともと自由な私達が、思うがままに生きるのは当然です。私のやりたいことをやるのに、誰に遠慮がいりましょうか?、ということです。なぜなら、私のやりたいことは、皆のやりたいことだからです。ですから、決して他人とぶつかり合うことはないのです。
例えば、今日どこかでどうしてもこの物が必要だったら、その物がちゃんと用意されるのです。村や国においても、どうしても必要なら、その村に、その国に、ちゃんと用意されるのです。このようなことも起きるでしょう。
仕事上において、フトあれはこうすれば良いのではないか?、と閃いたとしましょう。思った時が最良の時ですから、さっそく職場に駆け参じます。すると同僚が同じ考えを持って、すでに駆け参じているのです。そこで、"あなたもそう思ったのですか!"といって笑い合うというわけです。
食べたいと思った時が、食事の時間なのです。電話をかけたいと思った時が、かけ時なのです。仕事をしたいと思った時が、労働時間なのです。休みたいと思った時が、休憩時間なのです。思ったその時が、行動に移す時なのです。ですから、時計は不要です。
この話は、あくまでも本当の自分に目覚めた暁の話ですが、素直さを持ち合わせれば、今の社会でも決して非常識な話ではないはずです。つまりここで述べたことは、幼子が取る行動そのままを社会に反映した姿なのです。しがらみさえ取り除けば、誰でも納得できるものばかりだと思います。ただ今の私達は、社会の様々なしがらみ(慣習・規則・体制)に縛られ、自分の意思を素直に表せていないだけです。
人間の本性を知り生命への回帰がなされれば、自然法則下での常識はすべて反故にされるわけですから、「ねばならない!」といった制約は無くなるのです。これも人類の成長と共に訪れる、当たり前な変化の一つです。ですから無理に変えるのではなく、自然と変わるのです。いや、自然と変わって行くのです。
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社会が複雑化すればするほど混迷の度が深まるのは歴史が証明しており、それは今日の社会を見ても疑う余地はありません。その教訓から、人類が目指す未来社会は日時計で無くてはなりません。機械時計は 一見 頑丈そうに見えますが、一旦 故障すると手に負えません。あちらの部品を取り替え、こちらの部品を取り替え、しまいには何が何だか分からなくなり、お手上げ状態になってしまいます。しかし、日時計なら故障が無いから安心です。
日時計とは、真心や良心が幅を利かす簡素簡潔な社会のことです。機械時計とは、規則や罰則が支配する複雑怪奇な社会のことです。奉仕社会では、守ったり、儲けたり、大きくしたりする必要がないので、機械時計など不要なのです。それは一人ひとりの良心が認め、許し、納得することですべてが自由になり、平等になり、保障されるからです。大人になった社会では、隠すことも、守ることも、装うこともしないのです。有りのままを、思いのままを、素直に表現するのです。そうすれば、単純でありながら深い味が出せます。
例えば、あなたに三色の色鉛筆を与え、スミレの花を描きなさいといったらどうするでしょう?。多分、三色の色鉛筆を巧みに組み合わせ、スミレの花に似た色を出そうと工夫するでしょう。二十四色の色鉛筆を与えたらどうするでしょう?。恐らく、スミレの花に似た色鉛筆を一本選び出し、単純に描こうとするでしょう。この例え話には、相反した命題が隠されているように見えますが、実はどちらも素直な心の表現を望んでいる問いかけなのです。だからどちらが良く、どちらが悪いというものではないのです。「素直な心を表現しなさい!、それが自然で良いのですよ!」といっているのです。その人の心の状態、その人の意識のあり様に添った、一番良い方法を選ぶことを望んでいるわけです。
大自然は多様に富みながら単純です。何一つ奇怪なものはありません。単純でありながら進歩性に富み、かつ繊細で大胆です。これは、両極端をバランス良く調える知恵の中に生きているからです。私心を捨て素直に対処すれば、良い方向へ進むよう自然はできているのです。注意点は二つ、一つは方向性を間違わないこと、もう一つは動機の純粋さを保つことです。それは正しい目的意識を持つことで可能になります。間違いのない未来を開拓するには、この二点に気をつけることです。あとはなるがまま、有るがままに進めば、決して今日のような複雑怪奇な社会にならないでしょう。
さて、人間の本性を知った社会がどのように変わるか見てきましたが、これは私の見解では無く、なるべくしてなる自然の姿なのです。社会は変えるのでは無く、自然と変わってゆくものなのです。本源的なものが確立されれば、すべてが当り前の如く整って行くのです。もし人類が真の目的を掲げて邁進するなら、行くべき処に行き着き、収まる処に収まるでしょう。当たり前の如く行き着き、当たり前の如く収まるでしょう。その旗印に向かって邁進する姿を見た子供達は、きっと目を輝かせ喝采を送ることでしょう。その理想が、天の意に沿うものならなおさらです。
私がこれまで繰り返し訴え続けてきた、「本当の自分を知ることが」天の本意なのです。それが実現されれば、社会は一変します。もう、戦争も、飢餓も、事件も、事故も、災害も、環境汚染も、経済戦争もなくなり、平等な生活の下に、みな仲良く暮らすことができるようになるでしょう。このような社会の実現は夢だと思いますか?。今の争い多い社会が夢なのです。
もしあなたが社会を作るとしたら、どのような社会を作りたいと思いますか?。あなたが望む社会を、一度 机上で作って見て下さい。作らないまでも、こんな社会だったら良いのになあ!、と思ったことをメモしておいて下さい。後々きっと役立つと思います。
もし将来、理想の社会が作られるとしたら、あなたの思ったとおりの社会が実現するでしょう。なぜなら、本源的なものを知れば、誰でも同じ考えを持ち、同じ行動を取るようになるからです。私達の出所は同じ生命ですから、同じ考えを持ち、同じ行動を取るようになるのは当たり前なのです。
今日の良くない夢の社会が実現したように、理想社会の夢も必ず実現します。想念は実現の母です。みなが強くそう思えば、必ずなります。それが宇宙の望みだからです。
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