どの時代の社会にも、その社会にしかできない役割を持っているものです。ですから、今日の矛盾に満ちた社会にも、ちゃんとした目的があり役割があるのです。
地球には最終段階に入った魂、生まれたばかりの魂、その中間に位置する魂など、様々な魂が混在しております。それら遍歴の違う魂は、同じ舞台の上で出会い、同じ舞台の上でドラマを演じ合うことにより、少しずつ成長してゆくよう計られています。たとえば熟した魂は、丸みの帯びた石です。幼い魂は、鋭い角のある石です。中間の魂は、少し角の取れた石です。鋭い角を持った石同士が直接ぶつかり合ったのでは大変ですから、丸みの帯びた石が中に入って油の役割を果たします。また少し角のある石は、その両者の間に入って滑り止めとなり、ほど良い摩擦を生みだす役割を果たします。こうして適度な摩擦の中で角が取れ、円みを帯び、少しずつ石が磨かれてゆくのです。今の社会は、その舞台を提供する格好の役割を果たしているのです。
たしかに今の社会は、弱肉強食まがいの厳しい社会に見えます。しかし隠れたところで、互いに助け合い補い合う社会になっているのです。つまり、自分が生きるために必死にやっていることが、結果的に人助けになっているわけです。支える者と支えられる者が適切な時期に出会い、設定された課題をこなすには、今の社会は恰好のシステムなのです。これは、縁と欲と情が絡み合いながら学びの材料を提供し合う、相対社会ならではの妙技といって良いでしょう。だからこの社会は、そのままにして使命を果しているわけです。
とはいっても、いつまでもそのような社会であってはなりません。そうです。今の社会に終止符を打たねばならない時期が、刻々と近づいているのです。すなわち、今まで他人を競い相手としていた相対的試練の社会から、自分を競い相手とする絶対的試練の社会へ変わってゆく時期が近づいているのです。
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幼い社会は分けることを好みます。でも分ければ分けるほど、勘定が合わなくなってゆきます。分ければ分けるほど、複雑化してゆきます。分ければ分けるほど、意見の対立が激しくなり、争い事が多くなってゆきます。でも大人の社会は、一つになることを好みます。そうなれば社会は簡素化され、意見がまとまりやすくなり、秩序が保たれやすくなります。
理想社会を築くに当たり一番注意しなければならない点は、できるだけ簡素簡潔を心がけることです。そのためには、人間の本性を知り、正しい真理を身に付けなければなりません。
第一章で述べたように、人間の本性は「生命」です。私もあなたも万象万物も、一つの生命の現われです。人間一人ひとりは全体であり、全体は一人ひとりなのです。この宇宙には、分けるものなど一つも無いのです。この「全体は一人、一人は全体」という真理を納得して受け入れることが、理想社会を実現する前提条件なのです。
もし人類が、この前提条件を納得して受け入れることができたら、今日のような弱肉強食の社会から、共存共栄の社会へ転換してゆくことでしょう。人生の目的がお金や物を得ることから、本当の自分を知ることに変わるわけですから、社会もそれに沿った姿に変わって行くのは当然だからです。
では人類が本当の自分に目覚めた時、人間社会はどのように変わって行くのか見てゆくことにしましょう。
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《貨幣は人的なものである》
経済とは「配分の哲学である」といわれるように、経済を語る時にこの配分問題を避けて通るわけにはゆきません。今日この配分は、市場経済(資本主義経済)によって行われておりますが、その中枢を担っているのが貨幣制度なのです。
「金が敵の世の中」といわれるように、人生劇場で演じられるドラマの殆どは金にまつわる悲劇であり、それは時代を問わず繰り返されてきました。にもかかわらず人間は、一向に貨幣を手放そうとしません。どうも人間は、貨幣というものがこの自然界にもともとあり、どうしても使わなければならないような錯覚に陥っているようですが、これは人が社会生活を営む中で必要に迫られ造られた、純に人的なものなのです。ですから無くせるものなら、一日も早く無くすべきなのです。もし貨幣が無くなり一切の損得勘定ができなくなったら、欲望は沈静化し、人本来持っているところの真心が蘇ってくることでしょう。ではどうしたら、この社会から貨幣を無くすことができるのでしょうか?。私はその方法を、次の論拠を持って示したいと思います。
《貨幣の要らない論拠》
経済の源をたどってゆくと、まず自然の恵みである資源や土地①を取り上げなくてはなりません。次に、それを製品化する労働力②が必要です。また、生産技術③も忘れてはなりません。さらに、資本④も無くてはなりません。最後に、流通や販売にかかわる商行為⑤が必要です。この五つの要素が支えあって、今の経済は成り立っているはずです。でも良く考えてみると、この五つの要素はいずれも労働力の問題であることに気付きます。
たとえば、①の資源や土地を、実際に使えるようにするには労働力が必要です。③の生産技術も労働力(知恵や工夫も含む)の問題です。⑤の流通や販売にかかわる商行為も労働力の問題です。④の資本についても、労働力を集める力のことですから、これも労働力の問題です。ということは、①から⑤のいずれの要素も、みな労働力の問題ということになります。
「経済を支えている大黒柱は労働力である!」、という論拠をまず示しました。
では、もしこの労働力を自然の贈り物と同じようにタダで確保できたら、すべての物、すべてのサービスもタダにできるのでは無いでしょうか?。
現代の経済学は次のようにいっています。「労働力という商品の価値は、労働力の再生産に必要な生活材(サービスも含む)を生み出す価値に等しいと・・・。すなわち、労働力という価値が生活材の価値を規定し、また生活材の価値が労働力の価値を規定し返す」のだと・・・。もしそうなら、生活材をタダにしたら、労働力もタダになるのではないでしょうか?。いや先に労働力をタダにすれば、連れて生活材もタダになるのではないでしょうか?。私達は賃金は下げられないと思っていますが、発想を変え賃金を下げて見ることにしましょう。
労働力の価値100であったものを、50に、さらに30に・・・、このように下げられたら、生活材の価値も50に30に下げられるのではないでしょうか?。1000円であった物価が500円・300円になれば、賃金が半分になっても、三分の一になっても、生活できるはずだからです。
といっても労働力の価値を0にしない限り、貨幣はどこまでもついて回りますので、この考えをもう一歩前進させ、労働力の価値を0にまで下げて見ることにしましょう。さあ、どうなるでしょうか?。
労働力の価値を0にするということは、無報酬で働くということになります。もしそれが可能なら、当然、物の価値も0になるはずです。物の価値も0、労働力の価値も0なら、そこに貨幣は必要でしょうか?。
考えても見て下さい。貨幣が必要なのは、価値差を埋めるためではありませんか?。もし労働力がタダなら、価値は一切存在しなくなるわけですから、価値差を埋める貨幣は必要なくなるはずです。同じ重さなら重さを量る秤がいらないように、同じ価値なら価値を測る貨幣は必要ないということです。
では本当に貨幣は必要ないのか?、貨幣の職能とも照らし、更に検証して見ることにしましょう。
貨幣には、次のような職能があります。
1、交換価値を持つ。
2、価値の尺度を示す。
3、支払いの手段である。
4、価値の貯蔵をする。
5、利潤を得る手段に利用される。
6、あらゆる権利の決済手段あるいは交換手段として利用される。
1から3までの職能は、価値差を埋めるために利用されているものですから、すべてのものがタダになり無価値になれば、これらの職能は不要になるはずです。つまり、すべてのもの(労働力も含む)が等価値になれば、比較衡量する必要がないわけですから、貨幣を介在させる必要は無いということです。4と5は、欲と得を満足させるこの社会特有の職能ですから、仕組みさえ変えれば無くても何ら問題ないはずです。最後の6の職能も、後に出てくる配分哲学が理解されれば不要なものです。
このように考えると、貨幣は人間のご都合主義で使われている、単なる価値の橋渡し役にしか過ぎ無いことが分かります。渡す価値が無くなれば、橋渡し役は不要になるわけですから、貨幣など必要無くなるのです。
以上、貨幣のいらない論拠を示しました。
私達が生きて行くために必要なのは、唯一労働力です。労働力さえあれば、何が無くても人間は生きてゆくことができるのです。その労働力は、今の社会においては物と同じように商品扱いされていますので、どうしても売買の対象になってしまいます。売買の対象になれば、そこから生まれた物も売買の対象になるため、どうしても貨幣が必要になるのです。しかし、労働力がタダで提供されるようになれば、すべては売買の対象外に置かれますので、貨幣は必要なくなるのです。つまり、お金のかかった労働力から生まれた品物にはお金は必要ですが、タダの労働力から生まれた品物にはお金は必要ないということです。
人間がタダ働きする発想は、今の社会では非常識かも知れませんが、本当の人間を知った社会なら、違和感なく受け入れられるでしょう。すなわち、「私はあなた、あなたは私、一人は全体、全体は一人」という真理が定着すれば、労働力は社会全体のものになるので、そこから生まれた品物はすべて無価値になり、もう価値差を埋める貨幣は必要なくなるということです。あなた私がある社会のみ、お金が必要なのです。
肉体を自分だと思えば、どうしても肉体保全に躍起にならざるを得ないので、物を多く得たい!、お金を沢山稼ぎたい!、と欲を持つのも仕方がないでしょう。しかし、自分の本性が生命だと知れば、肉体保全は二の次になるので、物やお金集めに躍起になることは無くなるのです。
貨幣を使っている社会はまだ幼い社会です。ですから貨幣を使っているかいないかで、その社会の熟成度を測ることができるのです。
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人間は何の疑いもなく自然物を私物化していますが、本当に私物化できる物がこの世にあるでしょうか?。地球上に存在する物は、人間がこの世で生きている間 一時 使わせてもらっているだけで、決して私物化すべきものではないはずです。人間は必ず死にます。ならば、生きている間だけ借用できれば良いのではないでしょうか?。
「この世に私物は存在しないと同時に、使ってならない物も何一つ存在しない!。」
これが物質世界の本来のしきたりです。ただこの世は物質の世界ですから、時間と空間が重なると「ぶつかり合う」という不都合が生じますので、ぶつかり合わないよう便宜上、Aは誰の物、Bは誰の物、と一時区別しているに過ぎないのです。
本来、物は必要とする生き物のものなのです。人間に限定すれば、必要とする人のものなのです。本当に必要なら、今、誰かの手の中にあっても必要とする人のものなのです。ですから物のやり取りは、必要度合いに応じて決めるべきです。
たとえば、今ある場所でどうしてもペンシルが必要になったとしましょう。隣にペンシルを持った人がいたら、その人から借用するのは当然です。今の社会では使用後ペンシルを返すのが常識ですが、あなた私のない社会では、必要なら持ち帰っても許されるのです。そのペンシルは、その後も必要な人の手を渡り歩くことで、多くの仕事を果たしてくれるでしょう。一人に使われるより 多くの人に使われる方が、どれほどペンシルも嬉しいことでしょうか。ペンシルを貸した人も、必要なら人から借りれば良いのですから、何の問題もないはずです。
では、食べ物などの消耗品は私物化しているではないか?、といわれるかも知れませんが、食べ物は食べたらそれでお終いでしょうか?。食べた物は食べた人のエネルギーとなって、人のために、社会のために、自然のために、形を変え働き続けているのですよ。エネルギーは、エネルギー不滅の法則に基づいて、決して無くなることはないのです。捨て水が無いように、捨てエネルギーも無いのです。どのように姿を変えようと、何に使われようと、誰に使われようと、エネルギーは必要な役割を延々と果たしているのです。
役所内で使われているペンシルは、どこの窓口で誰が使っても良いはずです。社会で使われているペンシルは、社会のどこで誰が使っても良いはずです。地球の中で使われているペンシルは、地球のどこで誰が使っても良いはずです。本当に必要な物は、必ず手に入るようになっているのが自然の仕組みです。それも必要性が高ければ高いほど、手軽に入るようになっているのです。どうしてもペンシルが必要だから、近くにペンシルを持った人がいたのです。どうしても食べ物が必要だから、そこに餌が現れたのです。どうしても必要だから、身近に穀物が、野菜が、果物が、魚が取れたのです。自然はそのようにできているのです。
良くできているといえば、必要とする物ほど沢山存在し、また手軽に入手できるという不思議さです。自然は必要度合いを見透かすように、段階的制約をつけているのです。たとえば空気は、一番必要とするので何の制約もありません。水だって、空気に次いで手軽に手に入ります。サンマやイワシなどの魚も、つい最近までは手軽に手に入りました。穀物も、野菜も、果物も、魚も、庶民向きな物ほど手に入りやすく、また栄養価も高いのです。このように自然は必要性を見透かすように、生きるに必要な物ほど身近に沢山置き、必要で無い物ほど遠くに少なく置いてくれているのです。これは、物は誰のものでも無く、すべての生き物の物なのですよ!、という自然の配剤の賜と私は思っています。ですから、需要と供給のバランスが崩れること自体おかしな話なのです。自然は、当たり前を当たり前の如く演出しているだけです。その当たり前を崩しているのが、人間の欲望なのです。水の取り合いなどは、その典型的例といって良いでしょう。
「あなたの物、私の物」と区別する世界には、常に競い合いや、奪い合いや、争い合いがつきものです。しかし区別のない世界には、競い合いも、争い合いも、奪い合いも無いのです。あるのは許しの心のみです。ですからその社会では、「あなたからお先にどうぞ!、いいえ、あなたからどうぞ!」といった市場風景が、日常茶飯事見られるのです。
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本来この世に価値など存在しません。なぜなら、この世の価値を生み出しているのは、人の無知と欲だからです。この世に不必要な物は何一つ無いわけですから、価値の生まれる道理が無いのです。もしあるとすれば、対等の価値のみでしょう。対等の価値しか無いなら、価値は存在しないことになりませんか?。
価値を戒めた話に、ジャックと豆の木の童話があります。ジャックは純粋な天の心を持っていましたので、物の交換を損得ではしませんでした。でも地の心を持つお母さんにしてみれば、牛一頭と豆五粒との交換は大変な損でした。お母さんはジャックを叱ります。でもその豆が、後にジャックに幸せをもたらしたのです。
私達は物に価値があると思っていますが、物そのものに価値があるのでは無く、労働力(労働力には知恵も含まれる)が物に価値を与えているのです。いい換えれば、心が物に価値を与えているのです。なぜなら、労働は心がするものだからです。どんなに資源が豊富でも、労働力(心)が乏しければ宝の持ち腐れといわれるのも、物に価値を与えているのは労働力(心)だからです。
「労働力こそ、価値を生み出す打出の小槌なのです。」
物質は有限ですが、労働力(心)は無限です。無限は価値を消滅させますので、無限の労働力から価値は生まれようがないのです。
なぜ人間は争い合うのでしょうか?。なぜ人間社会は不自由なのでしょうか?。それは価値に囚われるからではないでしょうか?。そうです。不自由も、争いも、価値に囚われるから生まれるのです。もし人間が、物の価値にも、職業の価値にも、能力の価値にも、量的価値にも囚われ無くなったら、自由で争いの無い社会に生まれ変わることでしょう。
自由は当たり前です。不自由は当たり前ではありません。私達は価値という不自由なものを追いかけるがゆえに、当たり前を当たり前でなくしているのです。
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「ではこの世から価値を無くすには、どうすれば良いのでしょうか?。」
「労働力を無価値にすることです。」
そのためには、労働力を自由開放しなければなりません。自由な労働力が手に入れば、そこに価値が生まれるわけがないからです。
「では労働力を自由解放するには、どうすれば良いのでしょうか?。」
「労働力をタダにすれば良いのです。」
労働力がタダになれば、すべての物は対等の価値に収まります。(すべての物が同価値になれば、価値評価ができなくなる)対等の価値に収まれば、価値が消滅するのは当然です。
「ではどうすれば、労働力をタダにすることができるのでしょうか?。」
「労働力をお金や権力で縛るのでは無く、人々の自由意志で社会的財産にすることです。」
すなわち、労働奉仕をしてもらうのです。人々の労働力を無報酬で提供し合い、その労働力に何の制限も制約もつけず、ただただ社会のために使ってもらうのです。そこには誰彼の労働力があるのではなく、社会全体としての一つの労働力があるだけです。このようにいうと、それでは社会主義や共産主義と何も変わらないでは無いかといわれそうですが、たしかに物やお金を得ることが人生の目的ならそうでしょう。でも人生の目的は、「本当の自分を知るためにあるのです。」経済は、その目的を達成する手段に過ぎないのです。手段と目的を取り違えるから、おかしな社会になるのです。
○ 社会主義・共産主義社会・・権力が人を労働に駆り立てる。
○ 資本主義社会・・金力が人を動かし労働力を生む。
○ 奉仕社会・・人生の目的が人を動かし労働力を生む。
労働力がタダになれば、物の価値が存在しなくなるばかりか、職業の価値も、能力の価値も、量的価値も、一切存在しなくなるでしょう。そうなると、物の配分に何の哲学もいらなくなります。「自由収得制度」が採用されるのは当然の成り行きです。
労働奉仕と自由収得制度を旗印とする社会を、私は奉仕社会と命名したいと思います。このような社会を現実のものとするには、いかに労働力を社会的財産にできるかにかかっています。損得を一切考えず、労働力をタダで提供する人が多くなれば、理想社会は当然の如く訪れるでしょう。
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今日の社会において物の生産は、消費者の欲望を企業側がくすぐる形で行われていますが、本来、物の生産は、消費者側の要望に応えて行われるべきなのです。本当に「この物が」必要だから、「この物を」生産するのです。本当に「これだけ」必要だから、「これだけ」生産するのです。売るため儲けるために生産するのではなく、生活を賄うため、潤すために生産するのですから当然です。
このように生産は、消費者のニーズに応えて行うのが正しい姿なのです。そのためには、地域で賄う生活物資はできるだけ地域で生産し、地域人が使うべきです。地場生産・地産地消がそれです。地域人の必要な分だけ作るのですから、そこに無駄が生まれるわけがありません。だから今日のように、畑や、工場や、市場で廃棄処分するようなことも無くなるのです。
今日の社会においては儲けが先行しますので、どうしても無理な生産手法を取らざるを得ません。化学肥料や農薬が使われるのはそのためです。しかし儲ける必要のない社会では、無理な生産手法を取る必要がないので、クリーンな実りを手にすることができるのです。それも、豊富な労働力を持った奉仕社会ならできる話です。
人間は物を多く持つことに幸せを感じていますが、持てば持つほど厄介を背負うのが物なのです。あなたは引っ越しの際、物が多くて困ったことはありませんか?。物は、必要な物だけ、必要な量だけ、あれば良いのです。できるだけ身軽な方が良いのです。
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本来、配分は、必要度合いに応じて、等しく分け与えられるべきです。しかし今日の資本主義社会においては、強い者が豊かになり 弱い者が貧しくなるといった偏りを見せております。物や金を得ることが人生の目的なら、弱肉強食社会も止むを得ないかも知れません。でも人生の目的は、何度もいうように、「本当の自分を知るため」にあるのです。ならば、食べるために苦労する社会であっては、いけないのではないでしょうか?。
奉仕社会における配分は、一人ひとりの良心がするのです。必要度合いを決めるのも、一人ひとりの良心です。どれほど必要としているかは、誰よりも本人が知っているからです。この良心に基づく「自由収得制度」こそ、奉仕社会の誇りとするところです。もうそこに弱者も強者もありません。
このようにいうと、怠けて働かない人も、一生懸命働く人も、自由収得できるのでは不平等ではないか?、といった疑問がわくかも知れません。でもそれは、愚問というものです。なぜなら、子供の頃より真理を学んでいる者が、怠け心を起こすわけが無いからです。この社会では、人の仕事を譲ってもらう人はいても、怠けたくて人に仕事を押し付ける人など一人もいないのです。
では欲張りな人は、物を沢山持ち帰るのではないか?、との疑問が生まれるかも知れません。確かに、貨幣社会なら物を売って一儲けできるので、物を沢山持ち帰る人もいるかも知れません。でも、貨幣の無い社会ではそれができないので、余分な物を持ち帰る人などいないのです。いつでも自由に収得できる社会で、どうして煩わしい思いまでして余分な物を持ち帰ろうとするでしょうか?。だからこの社会では、欲張る人も、競い合う人も、奪い合う人も、盗人も、いないのです。
幼い社会では、人と人との競い合いを通して成長します。でも大人の社会では、自分を競い相手とし成長するのです。
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[自由に目覚めた馬達は、何者にも邪魔されない自由な放牧地を望みました。その結果、囲いも柵も無い自由な放牧地を得たわけですが、あまりにも放逸な自由を得たがために自由のぶつかり合いが生じ、多くの問題が持ち上がってきました。仕方なく、対処療法的に原野に柵を巡らせ自由の衝突を避けようとしたのですが、次から次へと問題が持ち上がってきたために、柵はそこら中に張り巡らされるようになり、今や柵の中で縮こまって生きなければならないほどになったのです。少々不自由でも、大きな囲いの放牧地を望んだなら、これほど不自由な生き方をしなくて済んだでしょうに・・・。]
今日の社会は、法律や規則や罰則で縛られた息苦しい社会です。これでは真の自由社会とはいえません。真の自由社会が欲しければ、大きな囲いの放牧地を求めるべきです。大きな囲いとは良心のことを指しており、良心に生きれば法律や規則や罰則など、何の柵もいらないのです。
あなたは、良心の囁きを聞いたことがありませんか?。
「そんなことをしたら後悔するぞ!」
「安心して眠れないぞ!」
「止めろ!」
良心の囁きは、生命の囁きなのです。本当の自分の囁きなのです。良心に恥じない生き方をする人が多くなれば、社会に裁く人も裁かれる人もいなくなるでしょう。もともと人が人を裁くこと自体、おかしな話なのです。なぜなら、裁きは父と子の問題であり、子と子の問題では無いからです。「因果応報、作用と反作用」、これが父が子に持たせた裁きのムチです。このムチは父(生命)が子(人間)に持たせた裁きの道具ですから、父が子に課した裁きともいえますが、父と子はもともと同じですから、子自らが自らを裁く形になるのです。つまり、本当の自分が本当の自分を裁く形になるのです。
この宇宙には、本当の自分しかいないのです。自分を分けるから、本当の自分がニセモノの自分を裁かなければならなくなるのです。もっとも、本当の自分に目覚めた者が罪を犯すはずは無いでしょうが・・・。
良心が囲いの社会になれば、何一つ人を縛る縄はいらなくなりますから、法律も規則も罰則もいらなくなるのです。もし縛る縄があるとすれば、
[ 作用あれば反作用あり!]
[ 原因あれば結果あり!]
[ 自分が撒いた種は自分が刈り取らねばならない!]
[ 目には目を歯には歯を!]
すなわち、"法に背けば法に裁かれる!"という宇宙の法の縄だけです。この法を多くの人が認めるようになれば、労働奉仕制度や自由収得制度を導入する論拠ともなるので、理想社会の実現も夢でなくなるでしょう。
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必要なら働く、必要なら勉強する、必要なら遊ぶ、必要なら食べる、必要なら寝る、これが真の自由を得た人の生き方です。本来、何時から何時までこうしなければならない!、といった決まりはないのです。必要な時にやり、必要な時に終れば良いのです。必要に応じてやるのが、自然の仕組みだからです。だから、時間を見て暮らす習慣は無くすべきです。考えて見て下さい、時間に縛られない生活がどんなに気楽か・・・。
今の社会では、"時間だから明日にしましょう!"といって仕事を置きます。もう少しやれば終わるのに、途中で止めてしまうのです。今やれることは今やるべきです。それでは規律が取れないといわれるかも知れませんが、自然界においては「何時から何時までとか、いつからいつまでとか、こう使わねばならない、ああ使わねばならない!」といった制約は無いのです。いつ働いても良いし、いつ終わっても良いし、上手に使えたらどう使っても良いのです。思いに従って素直に生きることが大切です。それが定着すれば直感が人を導くようになりますから、みんなの思いが一致するようになります。そうなれば、仕事の効率は時間の比ではありません。私達は時間に使われるのでは無く、時間を使うべきです。見た目(五感)で判断するのではなく、直感で判断すべきです。直観に動かされるようになれば、今日の非常識も非常識でなくなるでしょう。
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今の社会で、自分のしたい勉強や仕事をしている人達が、どれほどいるでしょうか?。殆どの人は、食べるため、家族を養うため、いやいや勉強や仕事をしているのではありませんか?。あなたは、本当に楽しんで勉強や仕事をしておりますか?。一体、自分の意思は、どうなってしまったのでしょうか?。これもみな競争社会で生き抜くためでしょうが、こういう人達は強制労働や強制勉強させられているのと同じなのです。
必要最低限度の糧を得るのに、どうして悩み苦しむ必要があるのでしょうか?。それは欲を持つからです。しがらみに囚われるからです。自然の仕組みはうまくできているもので、怠け心を持たない者が本当に必要なら、そう苦労せず糧が得られるようになっているのです。
空飛ぶ鳥は蔵を持ちません。動物達も日々与えられた物で満足しています。欲を起こし、物を沢山集めているのは人間だけです。一人ひとりが必要最低限度の糧を目標に働くなら、そこに過酷な労働が生まれるわけが無いのです。
奉仕労働力が社会的財産となれば、有り余る労働力と有り余る労働時間が確保されるので、自分の好きな学びや仕事を楽しんでやれるようになるでしょう。そんな社会に受験戦争も就職戦争もありません。学びたいから学ぶのです。働きたいから働くのです。強制されることなど一切無くなります。自分の意思を素直に表せる社会こそ、成熟した大人の社会です。
-168-
人と人との出会いは、すべて縁絡みです。必要あって出会い、必要あって別れるのです。すべて縁です。必然です。損得絡みや感情絡みが結ぶ縁は、正しい縁とはいえません。自然な形で出会うのです。自然な形で体験するのです。自然な形で学ぶのです。それが自然の仕組であり自然な姿です。
今日の結婚は真の目的を意識せず、ただ本能と感情に任せ結ばれています。だから悲しい結末を迎える人が多いのです。自然に委ねれば、出会いも結婚も、すべて縁が演出してくれます。勿論、子供を授かるも授からないもすべて縁です。すべて学びのカリキュラムに組み込まれているのです。
自然に委ねるという意味は、波動に委ねるという意味です。この宇宙は同レベルの波動は共鳴する仕組になっていますので、波動に合った出会いや出来事が起こるのです。個人においても、団体においても、社会においても、国においても同じです。
不思議なもので、良心に生きている人が何かをしようと思った場合、してならない時には必ず邪魔が入るものです。それも一度や二度ではありません。これは、"やってはなりませんよ!"、という警告です。やって良いことは、初めからスンナリ行くものです。何事もごり押しはいけません。
最近、少子化や尊厳死問題などが取り沙汰されていますが、生も死も人間が介入すべき問題ではないのです。生まれるべきにして生まれ、死ぬべきにして死ぬのですから、成り行きに任せたら良いのです。だから精子や卵子を弄ぶようなことや、人を死刑にするようなことは、やってはならないのです。
自然体で臨むことで、地球の人口は正しく調整されます。それが当り前の姿だからです。
-169-
今の社会は、古い習慣に縛られ過ぎです。人との付き合いはこうあるべきである、こう振舞うべきである、こういう習わしに従うべきである、こういう行事をするべきである。今や、神事・仏事・記念行事 真っ盛りの世の中です。一体、何が大切なのでしょうか?。過去を思い出し、懐かしがったり涙にくれたりすることが大切なのでしょうか?。迷信に振り回され、神事や仏事に明け暮れることが大切なのでしょうか?。それとも、未来志向で生きることが大切なのでしょうか?。良くこういうことを口にする人がおります。
" 戦争を形骸化してはならない!、災害を忘れてはならない!、だから毎年 記念行事を続けるべきだ " と・・・。私にいわせれば、まったく反対です。どんなに悔やんでも、終わったことは元には戻らないのです。いつまでも悔やんでいるのではなく、教訓を受け取ったらスパーッと忘れ、明日に目を向けるべきです。前向きな社会に、神事も、仏事も、記念式典なども不要です。そんな時間があるのだったら、今やるべきことに目を向けるべきです。すなわち、正しく思い、正しく語り、正しく生き、人生最大の目標である「自分を知ること」に時間を充てるべきです。
-170-
宇宙は極微から極大に至るまで相似に整えられ、それが連綿と関係することで全体の調和が保たれています。ですから極微が整えば、極大も整えられるのです。
人間は国が村々を統治すると考えますが、本来、村々が国を統治するのです。身体が細胞を作っているのでは無く、細胞が身体を作っているからです。細胞が無くては身体があり得ないように、国の基盤となる村がなければ、国体はあり得ないのです。その細胞(村)が健康であれば、体(国)も当然健康でしょう。一村一村が健康であれば、黙っていても国は健康になるのですから、あえて国の健康を考える必要は無いのです。人間はこの自然の仕組みを見習うべきです。
体の最小単位を細胞としますと、村は国体における最小単位です。相似形という意味においては、村には国家としてのすべての機能が備わっていなくてはなりません。またそれらの村々は、特色ある村で無くてはなりません。体に例えると、心臓の役割をする村、肺の役割をする村、胃の役割をする村など、その場所でやらねばならない村の役割がそれぞれあるわけです。その特色ある村々が、縦横の関係を親密に保ちながら、理想の国体を形成するのです。
例えばここに、カラクリ人形があったとします。そのカラクリ人形は、沢山の小さな歯車が組み合わさって動くよう出来ております。もし歯車の一つでも欠けたら、人形は動かなくなってしまうでしょう。また歯車が自分勝手な動きをしたら、自分を破壊するばかりでなく、人形そのものも破壊してしまうでしょう。一村一村は、この歯車のようなものです。自主独立はしていますが、全体の中で働かなければ、全体を殺すと同時に自分も殺してしまうのです。
近年グローバル化を賛美する傾向にありますが、人類は本当の意味のグローバル化を知っておりません。真のグローバル化とは、本質のグローバル化のことをいうのです。人間の本質を知り、気持ちを一つにするグローバル化です。すなわち、人類はみな同じ生命であり、同胞であり、兄弟姉妹であるという意志の統一です。見える形の部分を一つにするのではなく、見えない意識・思い・心の部分を一つにすることが、真のグローバル化なのです。人形が正常に動くためには、歯車一つ一つの意志の統一が欠かせないように、地球人類が正常に動くにも、一人ひとりの意志の統一は欠かせないのです。
そのグローバル化も勘違いしてはなりません。歯車一つひとつに役割があるように、個人一人ひとりに、人種人種に、民族民族に、それぞれ役割があるのです。役割といっても、特別な役割があるわけではありません。その場所にいて、自分達がやれることを精いっぱいやって生きることが役割なのです。なのに誤解し、ものの考え方も、価値観も、習慣も、宗教も、違う人種を一緒くたにしてグローバル化を進めるから、民族紛争や宗教紛争や地域紛争が起きるのです。
人間一人ひとりは、分子の一つひとつです。一村一村は、細胞の一つひとつです。国々は、諸器官の一つひとつです。その集まりが地球であり宇宙ですから、私達一人ひとりが健康になれば、村々が、国々が、地球が、宇宙が、健康になるのは当然なのです。
この宇宙には、分離したものや独立したものは何一つありません。全一体の中における分離や独立はあっても、全体から切り離された分離や独立は無いのです。あくまでも、一単位一単位がその場所で与えられた役割を果たし、それが連綿とつながり全体を完遂させる働きがあるだけです。
-171-
この世の知識を振りかざし、論争し合うなどは愚かな話です。国会議員が日曜討論で口角沫を飛ばし合っている図を良く見ますが、この世の知識の実を食べながら、どうして卓越した発想が生まれるでしょうか?。どんな博識を持った者も、人間の自覚を持って語る限り高が知れています。なぜなら、彼らは実在しない物を前提に語っているからです。(無が有を生むことは無い、有が有を生む) でも、生命の自覚を持った者の語る言葉は違います。それは、本当に有るものを前提に語っているからです。つまり、実在する生命の見識(無限の知恵)に支えられ語っているからです。そのような人が論争するわけがありません。静かに人の話を聞き、必要に応じて必要なことを語るだけです。それが人の心を動かすのです。論争は争いの始まり、しいては戦争へと発展します。論争はできるだけ避けるべきです。
「知る者は語らず、語るものは知らず」の格言を脳裏に留めて置きたいものです。
-172-
神は偉大な下僕であるといわれるように、神は空気の中で、水の中で、土の中で、微生物の中で、私達の体の中で、黙々と働き続けてくれており、決して偉ぶることはありません。神は人間に、「上に立つ者はこうでなくてはならない!」、という手本を示してくれているのではないでしょうか?。
生命の自覚のできた人(意識の高い人)は、決して偉ぶることはありません。率先して人の嫌がる仕事を引き受け、人の手本になろうとします。勿論、論争などしません。生命の心は一つですから、論争しなくても分かり合うことができるのです。ただ、行動で示すだけです。彼らには生命心のみがあり、私心が無いからです。だから安心して任せられるのです。未来社会の指導者は、そのような意識の高い人でなくてはなりません。
ではどのようにして、意識の高い指導者を見分けることができるのでしょうか?。それは波動です。意識の高い人の言葉からは精妙な波動が出ているので、その波動に触れると気持ちが良くなったり、眠気を催したり、何もしゃべりたく無い状態が起こったりします。言葉にザラザラしたものが無いので、スーッと心の中に入ってくるのです。これは慣れれば誰でも感じられるようになります。波動は決して嘘を付きませんので、これに勝る見分け方はありません。
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現状の地球においてエネルギーの確保は、緊急課題となっています。紛争の殆どがエネルギー問題から起きていることを考えても、その重大さが分かります。でも本源的なものを知れば、エネルギーの獲得はそう難しい問題ではないのです。私達は物質にだけエネルギーがあると思っていますが、エネルギーは見える所にも見えない所にも無尽蔵にあるのです。ただ、そのエネルギーをどう使えるようにするかだけが問題なのです。つまり知恵と労働力が、エネルギー問題を解く鍵なのです。
人類が真実を知り、宇宙の知恵に結び付けば、海からも、土からも、空気中からも、エネルギーはいくらでも入手できるようになるでしょう。もう、石油や原子力に頼らなくても良くなります。そのためには、人類は大人にならなくてはなりません。なぜなら、「子供に危険物を与えてはならない!」という宇宙の決まり事があるからです。子供はいたずらをしたがります。危険な遊びもしたがります。そんなやんちゃ坊主に、危険なエネルギーが与えられるわけがありません。人類が分別のわきまえられる大人になったら、大方のエネルギーは解放されるでしょう。
空気を奪い合う人はいません。それは沢山あり、手軽に入手でき、誰彼のレッテルが貼ってないからです。エネルギーも同じこと、・・・いつでもどこからでも手軽に入手できるようになれば、奪い合ったり争い合ったりすることがなくなるので、みな仲良く暮らせるようになるでしょう。それを可能にするのが、知恵であり労働力(心)です。物が、お金が、権力が、豊かにするのではありません。知恵と労働力(心)が豊かにするのです。一日も早く知恵と労働力を、空気のように使えるようにしたいものです。
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人の悪想念がいかに地球環境にダメージを与えているか、これは考えただけでも空恐ろしくなります。悪想念は地球環境を汚し、さらに人の心まで汚します。これを野放しにしていては、地球に明るい未来はありません。今、地球人類は、悪想念の出し放題をしています。特に携帯電話花盛りの今日においては、その影響は計り知れないものがあります。殺人事件や事故や自殺は、この悪想念が引き金となって起きているものばかりです。物質的な地球汚染も深刻ですが、想念による地球汚染はそれ以上に深刻なのです。
悪想念を出さないようにするには情報量を少なくし、できるだけ不必要な情報を受信・発信しないようにすることです。私達は外側の情報より、内側の情報を大切にすべきです。
なぜ知恵者は無口なのでしょうか?。この世の出来事が、みな幻だということを知っているからではありませんか?。幻を知って、一体 何になるのでしょう?。ただ興奮と悪意を助長させるだけです。ですから真実を知った社会では、必要最小限度の情報しか受信・発信しないようになるのです。
おもしろいもので、克服すべき課題の多い人ほど情報のやり取りをしたがります。その心理状態は、さみしさです。満ち足りなさです。人生に対する疑問です。それを埋めんがために、外側に情報を求めたがるのです。その意味からいえば、地球人類には、まだ克服すべき課題が沢山あるということなのでしょう?。
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今、私達が身に付けている知識は、無常の知識です。いわゆる存在しない知識です。なぜなら、この世の物はすべて幻だからです。そんな知識を一生懸命覚えさせ、試験をして競わせているのが今日の教育です。確かに、この世で肉体を持って生きている限り、この世の知識はある程度必要でしょう。でもその知識を得んがために、気が狂うほど勉強しなければならないのでしょうか?。
もう一つ、この世の知識に執着してならないのは、この世の知識はこの世限りのもので、あの世まで持ち越せるものではないからです。どんなにこの世の知識を身に付けても、次生また一から学ばねばならないのですよ。そんな知識を身に付けるために命を削って勉強するなど愚かです。
私達が知るべきものは、実際にあるものです。すなわち、永遠に無くならない真理です。永遠に無くならない私達(生命)は、永遠に無くならない真理を学んでこそ、この世に生まれ出た意味があるのです。
このように教育の本文は、実際にあるもの、すなわち、真理を教えることなのです。その教育内容は、大きく分けて三つあります。
一つは、
自然の法則や宇宙の法則を教えることです。
二つは、
正しい想念の使い方を教えることです。
そして三っ目は、
本当の自分を知らしめ、自覚させることです。
この世の知識は、この三つを成就させる手段として、必要最小限度教えれば良いのです。しかし真理は、じっくり時間をかけて教えねば身に付きませんから、一生続けられるべきです。それが真の意味の生涯学習です。だからこの世界では、大人になっても、子供と一緒に同じ教室で学んでいるのです。
人生の目的が見定められた社会では、真実を教えることに教育の重点が置かれるでしょう。
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科学は宇宙の掟や仕組みを解き明かし、現実の世界に形として具現させる学問です。これまでの科学は、外側で何かをやることだと思われてきました。現に実験のすべてが、外側のルートを使って行われてきました。しかし外側は結果次元ですから、そこから本源的なものを見付け出すことはできないのです。本源的なものを見付けるには、原因点である私達の心の中に潜るしかないのです。なぜなら宇宙のサンプルは、私達の心の中にあるからです。私達の心の中に、宇宙のひな型がそっくりそのままあるわけですから、実験者を外した科学など有り得ないのです。
物質が物質を変化させるのは、自然科学における約束事であり、それは粗雑な波動同士においてのみ可能です。しかし精妙な波動の世界になると、人の意識の介入なしにはできないのです。イエスは水をぶどう酒に変えたり、空中からパンや魚を取り出したりしました。今も聖者の間では、日常茶飯事行われていることです。これは、内側に意識を潜らせなければできない技なのです。
このように真の科学は、実験室で試験管と睨めっこするようなものではなく、己の意識深く潜り込んで実感し、体験し、現実の世界に具現させる技術をいうのです。それは体験そのもの、実践そのものです。自らが実践し、体験し、それを外側に具現してゆく、そこにはすべて自分(実験者自ら)が入っています。
宇宙に人工衛星を打ち上げる必要も、地下に大きな加速器を建設する必要もありません。自分を開発することで、あらゆる謎解きが可能になるのです。自分を開発する道具は、いうまでもなく瞑想です。瞑想によって意識を高めれば波動が高まるので、そのレベルに比例した情報がドンドン入ってくるようになります。しかもその情報には実感が伴っているので、自分がそのものになれるのです。本当の自分を知れば、そのコツも、方法も分かります。
未来の科学はこのように、自己開発を最前線とし、そこで得た知恵を外側に具現してゆく、二段構えの科学になるでしょう。
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幼いうちは、どうしても華やかなものに目が行きがちですので、物質文明が栄えるのも止むおえぬことかも知れません。しかし大人になってくると、感性や本性が騒ぎ出しますので、科学や、哲学や、宗教など、精神的なものを求めたくなってくるのです。人類は今物質文明に酔いしれていますが、やがてその儚さに気付き、精神文明に大きく舵を切るようになるでしょう。
精神文明とは、宇宙の仕組みを詳らかにして真の喜びを発見し、その喜びに少しでも近づこうとする文明です。つまり天の利を地に降ろし、天の幸せに劣らぬ幸せを地に開花させる文明です。
私達は幸せを勘違いして捕らえています。幸せは肉体が感じるのでしょうか?、心が感じるのでしょうか?。心ですね。ならば心に平安をもたらす文明こそ、真の文明ではないでしょうか?。確かに便利さや快適さをもたらす物質文明は、心を喜ばす条件の一つではあります。でもいかに良い条件が整っても、心に悩みがあっては真の幸せを掴むことはできないのです。物質文明は幸せを獲得する一手段ではありますが、目的では無いのです。それに対して精神文明(真の自分を知る文明)は、幸せを得る目的そのものなのです。なぜなら、真の人間を知らずして精神文明はあり得ないし、真の幸せもあり得ないからです。
人の幸せは、心の持ち方次第です。もし物質文明が幸せをもたらすなら、私達はとっくに幸せになっていなくてはなりません。しかし物質文明が進んだ今日、かえって心の不安が高まっているではありませんか?。後進国の人達が物質文明に取り込まれるに従い、精神的苦しみが増大しているのはその良い証です。心の病が多くなっているということは、その文明が誤った方向へ進んでいる証なのです。勿論、物質文明にも意味はあります。でもその意味を知った暁は、一日も早く物質文明から卒業しなければならないのです。キンピカ、キラキラ、天にも届く高層ビルが建ち並び、その間を縫うように高速道路が走るといった文明は、今日限りであることを知って下さい。
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病は気からといって、エネルギー(気)不足が原因です。そのエネルギーを低下させているのは誰でも無い、自分のネガティブな思いです。(不安、恐怖、心配、イライラなど、ネガティブな思いが病気の主な原因となっている)でも今の医学はそのことを知らず、ただ物理的治療を施して一時的に症状を取っているだけです。だから、再発する可能性が高いのです。
傷を治しているのは薬でしょうか?。風邪を治しているのは薬でしょうか?。みな自己治癒力ではありませんか?。もし薬が治しているなら、すべての患者に一様の結果が出なくてはなりませんが、そうはなっていません。それは患者の意識がみな違うからです。同じガン治療を施しても、治る人と治らない人が出てくるのも、患者の意識がみな違うからです。このことからいっても、病気は心的原因によって引き起こされてるといえるのです。だから安心感を与える逆治療法(物理療法)が、有効な手段となっているのです。インドのサイババ師はそのことを熟知しているので、最新の医療機器や技術を持って治すことを容認しているのです。
どんなに口で諭しても、思い癖は急に変えられるものではありません。また苦しんでいる者が、人の話を聞くはずもありません。まずは苦しみを取ってやる、そうすれば心穏やかに人の話も聞けるでしょう。話を受け入れネガティブな生き方をしなくなったら、病は癒えてゆくでしょうから、それは心身を癒したことになり、真に人を救ったことになるのです。この逆治療法のことを、今の医者は知りません。医学が病気を治していると勘違いしているのです。
幼い社会にのみ病気はあるのです。病気が人を成長させる手段になっているからです。しかし本当の自分を知った者が多くなり、その社会に病気が必要なくなれば、病は自然と消えてゆきます。清潔になった所に、ハエや蚊が必要ないように・・・。
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迷いの多い時代を末法の世といい、その時代には必ず多くの宗教が生まれます。しかし末法の世は、正法の世でもあるのです。なぜなら、偉大な指導者の多く出る時代でもあり、熟した魂が多く生まれる時代でもあるからです。玉石混合の時代、それが末法の世の特徴です。ですから多くの魂が、競って生まれてくるのです。でも、その魂が出会う宗教の殆どはまがいものです。多くの者がまがいものの宗教に埋没し、生涯を終わってしまうのです。
ホンモノの指導者に出会う確率は、奇跡に等しい確率です。いや、出会うには出会うのですが、識別できないためにまがいものを掴んでしまうのです。真理を掴むか掴まないかは、いかにホンモノの指導者とニセモノの指導者を識別できるかにかかっているのです。
ニセモノは奇跡を見せびらかして説きますが、ホンモノは科学的に説きます。私の恩師である知花先生は、一度だって神秘的な手法を用いて説いたことはありません。実生活に密着した、しかも現実的手法を用いて私達の心に訴えます。そして、宗教はいらない!、宗教に入ってはならない!、宗教に騙されてはならない!、と戒めます。
本当の自分を知った社会では、自然と宗教は無くなってゆきます。それも金儲けのできない社会になれば、黙っていても無くなってゆきます。宗教は幼い社会に必要であって、大人の社会には必要ないからです。自分を神だと知った者が、どうして宗教を作ると思いますか?、また入ると思いますか?、神がどうして宗教を必要とするでしょうか?。
神は空想や妄想の産物ではありません。真実そのもの、現実そのものです。私達の実生活に密着しているのが神なのです。
神なくして私達は無いのですよ!。神なくして地球は無いのですよ!。神なくして宇宙は無いのですよ!。
目に見えない神が、すべての存在物を生かし働かせているのです。要するに、現実を生み出している力そのものが神なのです。神という言葉が嫌いなら、生命と呼んでも良いのです。エネルギーと呼んでも良いのです。法則と呼んでも良いのです。決して神を神秘化しないで下さい。
最後に一言、仏壇や神棚や十字架に手を合わせて拝むのは、すべて偶像崇拝です。形あるものに手を合わせるのは、みな偶像崇拝者なのです。形ある物は、すべて消えて無くなる幻だからです。そんな幻に手を合わせて、一体 何になるというのでしょうか?。その意味では、肉体を自分と信じている人も偶像崇拝者です。
神や仏を敬っているのに、なぜ線香やロウソクの火で火事になるのですか?。先祖が私達を守ってくれているなら、なぜ墓参りの行き帰りに交通事故に遭うのですか?。このことからいっても、神や仏や先祖や宗教が、私達を守ったり救ったりしてくれているので無いことが分かります。救うのは私達自身です。自分の思いと行いが自分を救うのです。
偶像崇拝からは何も生まれません。もうそろそろ宗教から足を洗いたいものです。
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他人と競い合うことを相対的競い合いといい、自分と競い合うことを絶対的競い合いといいます。人間は今、相対的競い合いを通して成長しようとしているわけですが、相対的競い合いは案外と楽なのです。なぜなら、すべてこの世でケリがつくからです。たとえば村一番の力持ちは、村の中でケリが付きます。国一番の力持ちは、国の中でケリが付きます。世界一の力持ちは、世界の中でケリが付きます。たとえ宇宙一の力持ちであっても、宇宙の中でケリが付きます。しかし、自分が相手となるとそうはゆきません。自分が限界を定めなければ、無限の相手と競わなければならないからです。それが己との戦い、絶対的な戦いです。
理想社会実現のためには、この絶対的戦いを克服しなければなりません。すなわち、良心との戦いに勝たねばならないのです。この戦いに勝利してはじめて、理想社会は実現するのです。人が見ている時に、どんな良い格好をしてもそれは偽善です。良心の前で思い、良心の前で語り、良心の前で行ってこそ真の善です。判定人は自分自身ですから、これほど厳しいことは無いでしょう。でも本当の自分を知った者は、それが当たり前のようにできるようになるのです。なぜなら、この宇宙に自分しかいないことが分かるからです。
自分を偽ることができますか?。偽るとしたら自分をごまかさねばなりません。あなたは、自分をごまかして満足できますか?。絶対できないはずです。だから良心に生きる人が多くなった社会では、規則も法律も罰則も要らなくなるのです。
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争いが起きるのは、自分と他人との間に溝を作っているからです。溝ができれば、溝を埋める何らかの方策を考えねばなりません。その方策は、お金です。権力です。武力です。知力です。ですから今の社会では、常に争いが絶えないのです。
本当の自分を知った社会では、自他の溝が埋められますから、もう埋めるお金も、権力も、何もいらなくなります。またその社会の人達は、この世が幻の世界だと知っておりますので、肉体子孫に何も残そうとしなくなります。だから必要以上のお金も、必要以上の物も、欲しがろうとしないのです。
繰り返しいいますが、分けるから争い事が起きるのです。一つになれば、一つの中に争い事が起きるわけがないのです。自分一人で、どうして喧嘩ができましょうか?、ということです。
この宇宙には自分しかいないのです。このことを多くの人に知って欲しいものです。
さて、真実を知った社会の変容の様子を見てきましたが、この考えの前提になっているのは、何度もいうように、人間は一つの生命から生まれた同胞であるという考え方です。すなわち、人間一人ひとりは同じ生命であり、家族であり、同胞であるという真実(真理)です。これが理解されれば、みな仲良くできるはずなのです。
なぜこの地球に、色違いの人種が存在すると思いますか?。それは、どんな人種も一つの白光から生まれた同色人であることを知ってもらうためです。もともと私達は、一つの白光色だったのです。この地上で役割を果たすため、色分けさせられただけなのです。その理由を知れば、人種間の溝も、国家間の溝も、人と人との溝も、無くなるでしょう。
こんなことをいうと、「そんな夢想家のたわごとなど信じられるか!」という人もおられるでしょうが、これまでも世を変えてきたのは、みな理想家であり夢想家だったのですよ!。
夢と理想を持たない社会に進歩はありません。ぜひ、子供のような夢を持って下さい。
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